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酸いも甘いも噛み分けて  作者: 篠原 皐月


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102/128

(102)あちこちで迷走中

 松原工業を震撼させた、襲撃事件の翌朝。友之はいつも通り出社したが、最寄り駅から社屋ビルに向かって歩き始めた途端、周囲からの視線を感じると同時に囁き声が伝わってきた。


「おい、松原課長だぞ」

「ああ、例の?」

「昨日、ストーカーが……」

(周囲からの視線が突き刺さるな。やはり今週一杯、沙織は出勤させないようにしよう)

 好奇心に満ちた視線に、友之が溜め息を吐きたいのを堪えながら社屋ビルに入ると、エントランスに入って大して歩かないうちに、クリップボードを抱えた女性社員から元気良く挨拶された。


「あ、松原課長! おはようございます!」

「おはよう。その……、君はもしかして、《愛でる会》の入会希望者なのかな?」

 沙織よりも若干若く見える彼女に全く見覚えは無かったが、予想しながら尋ねてみると、肯定の答えが返ってくる。


「はい! 松原課長と奥様の為に、身を粉にして頑張りますね! 見事会員になれた暁には、是非とも良縁をよろしくお願いします!」

「その……、別に俺が、《愛でる会》の会員に良縁を世話しているわけでは」

「すみません! 職場環境是正の為の署名に、ご協力お願いします! まだこちらに署名はされていませんよね?」

「え? 何だい? 署名?」

 友之の話の途中で、彼女は自分の至近距離を歩いている社員をターゲットにして熱弁を振るい始め、放置された格好の友之は今度こそ溜め息を吐いた。そして注意深く周りを観察してみると、エントランスホールのあちこちで複数の女性社員が、出勤してくる者達を捕まえて署名を依頼している光景が目に入る。


「こちらに署名をお願いします!」

「ご協力、ありがとうございました!」

(《愛でる会》会員の他にも、入会希望者が本当にフル活動しているらしな…。社内で益々、騒ぎが拡大している気が……)

 いつもよりざわめいているホール内で、全身に好奇心に満ちた視線を浴びていた友之は、頭痛を覚えながらエレベーターホールへと向かった。


「そういう訳だったんですね……。あの意味が、やっと分かりましたよ」

「只野、どうかしたのか?」

 営業二課の部屋に入ると出勤していた者達が一ヶ所に集まり、何やら只野が呆れと感心が入り交じった感想を述べている所だった。

友之が挨拶をしながら何事かと尋ねてみると、彼が振り返りながら事情を説明する。


「課長、おはようございます。エントランスホールに入ってからエレベーターに乗るまでの間に、三人の女性社員に『署名に協力して欲しい』と頼まれたのですが、所属先を尋ねられて営業二課だと言った途端、全員にあからさまに舌打ちされて『それなら良いです』と断られたので、何事かと思いまして」

 只野が告げると、他の者達も口々に言い出す。


「ちょうど今、昨日聞いた《愛でる会》の話を教えたところです」

「当事者の職場だし、既にこれに署名済みだと思われたんだな」

「しかし露骨過ぎるだろ」

「俺も出社早々絡まれたぞ」

「男性社員比率が高い部署は、暫く草狩り場になるだろうな」

 皆が一通りそんな事を言い合ってから、昨夜残っていなかった只野が、顔付きを改めて言い出す。


「関本の怪我の状況は、皆から聞きました。重症では無くて良かったですね」

「ああ、心配かけて悪かった。始業前に全員揃ったところで、改めて説明と謝罪をするつもりだ」

 その宣言通り、友之は始業前に部下達に向かって説明と謝罪を済ませてから、予め事実婚の事実を伝えていた部長と共に各方面、特に上層部に対して、仕事の合間に説明に回った。



「沙織さん。体調はどうかしら?」

 面会時間では無い筈の、朝食を食べ終えて食器が回収された直後の時間帯にひょっこり現れた真由美を見て、沙織は本気で面食らった。


「お義母さん!? 今は面会時間ではありませんよね? どうしたんですか?」

「二泊とは言っても、細々した物は必要でしょう? 友之が昨日のうちに揃えて置いていったとは思えなかったから、事情を話して看護師さんに案内して貰ったの。洗面台やドレッサーから、色々勝手に持ってきてしまってごめんなさいね」

 真由美がそう言いながら、持参した小ぶりのボストンバッグからタオルや下着に加え、歯ブラシや洗顔料、コスメ用品まで一揃い出してみせた為、沙織はすっかり恐縮してしまった。


「すみません。明日には退院する予定なのに、わざわざ来て貰うなんて。全然考えていなくて、助かりました」

「良いのよ。それから案内してくれた看護師さんから、搬送された時の沙織さんの服と私物を預かってきたの」

「あ、じゃあスマホもありますね。ぐっすり眠っていて、すっかり忘れていました」

「やっぱり身体は本調子では無いみたいね。ゆっくり休めたのなら良かったわ。持って来た物は、取り敢えず収納場所に入れておくわね」

「ありがとうございます」

 笑いながら真由美が差し出した紙袋を受け取った沙織は、早速中を確認し、スーツのポケットにいれておいたスマホを取り出した。しかし操作し始めてすぐに、小さな呻き声を漏らす。


「うわ……」

「沙織さん、どうかしたの?」

「メッセージの類が、凄いことになっていて……。でもさすがに、もう電池が切れそうなので」

「さすがに、充電ケーブルまでは思い付かなかったわね」

 自分同様難しい顔になった真由美を見て、沙織は即決した。


「病室ですし、返信は退院してから纏めてします。職場関係は友之さんが伝えてくれますし、愛でる会での交友関係は由良に頼んでおけば大丈夫ですから」

「それはそうね。入院中はきちんと休まないと」

 真由美が頷き、持参した物を棚に収納する作業を再開すると、また怪訝な声が上がった。


「え?」

「沙織さん、何かあったの?」

 思わず振り向いた真由美に、沙織が困惑顔で説明する。


「取り敢えず由良に連絡を取ろうと思って、まず彼女からの連絡を確認したんですが……、『万事私達に任せておいて』との意味不明な一文コメントだけなので」

「どういう事かしら?」

「さぁ……。何かの連絡と混ざったのかな」

 そうこうしているうちに片付け終わった真由美は、思い出したように怒りの表情で言い出した。


「それにしても……。よりにもよって、社内で沙織さんが事件に巻き込まれるなんて。しかも玄孫の嫁を守るどころか怪我をさせるなんて、本当に役に立たないご先祖様ね!」

「お義母さん。初代社長に全く非はありませんから。そんな事を言ったらバチが当たりますよ?」

「構わないわよ。今朝は腹が立って仕方が無かったから、仏壇に何もお供えしなかったわ」

(やっぱり言うと思った。予想通りだったわ)

 一人でプンプンと怒っている真由美を見て、沙織は思わず噴き出してしまったが、そんな彼女に真由美がきょとんとしながら尋ねた。 


「沙織さん、どうかしたの? 急に笑い出したりして」

「いえ……、大した事では無いのですが……」

(「予想していた通り」とか言ったら、単純だと言っているようなものだし、「面白い」と言ったら馬鹿にしているみたいだし……)

 少しだけ悩んだ沙織は、笑顔のまま言葉を継いだ。


「お義母さんと一緒にいると、色々楽しいなと思いまして」

「私も沙織さんと一緒に暮らしていると楽しいわ」

(でも……、ご先祖様か。そろそろ潮時と言えば潮時だよね)

 穏やかに微笑まれて沙織は自分も嬉しくなると同時に、ある事を考えた。するとそれが顔に出ていたのか、真由美が再び尋ねてくる。


「沙織さん、今度は急に黙り込んでどうしたの? どこか具合でも悪いの?」

「ちょっと考え事をしていただけですから、大丈夫です」

 真由美はそれから沙織が診察や検査に呼ばれて病室を出るまで居座り、満足げに帰って行った。



 松原工業では、まだ前日の騒動の余波が収まりきってはいなかったが、丸一日経つとだいぶ落ち付きを取り戻し、営業二課でも通常通りの業務を執り行っていた。そして夜も九時を回ったところで、残っていた吉村が腰を上げて総務部へ向かうと、広々とした室内で一人残っていた由良が、椅子に座ったまま盛大に呻きながら上半身を伸ばしていたところだった。


「っうぁあ~、肩凝ったぁ~、眼が死ぬぅ~」

 彼女の机に背後から近付いた吉村は、自然に目に入った署名用紙の束と、パソコンのディスプレイに表示されていた内容を見て、僅かに首を傾げながら声をかけた。


「……何をやってるんだ?」

 その声に、由良が不思議そうな顔で椅子ごと振り返る。

「あれ? 吉村さん。まだ残業してるんですか?」

「終わったところだ。最後に他課から集まったこれを、あんたに渡すのを頼まれてな」

 どうして二課が営業部での署名用紙集約所になっているのかと物申したい気分だった吉村だが、当事者二人には色々迷惑をかけたという負い目があり、素直に受け取って運び役を受け入れていた。それを由良は笑顔で受け取り、手早く片付けて帰り支度を始める。


「さっすが営業部。これまでにも二回届けて貰ったのに、集約具合が抜群だわ。よし、これは明日頑張ってチェックしよう。今日はここまでにして帰ろうっと」

 本当ならそのまますぐに帰っても良かった吉村だったが、つい気になった事を口に出した。


「本当に《愛でる会》で、署名の取り纏めをしているんだな……。それにしても、何をやってたんだ? 社員名簿を見ていたようだが」

「重複署名が無いかのチェックよ。『こんなに集まる筈がない。どうせ数を水増ししているんだろう』と、経営側に難癖をつけられたくはありませんからね」

 由良があっさり答えた内容に、吉村は驚きの表情になった。


「まさか、一つ一つ確認しているのか? 大変だろう」

「署名欄に加えて、所属部署を書く欄も作ってあるから、全社員名簿と照らし合わせているだけよ。数はあるけど、作業は単調な物だわ。個人情報だから、生憎とデータは社外持ち出し禁止でね。社内で個人的に残る許可を上司に貰って、チェックしてたわけ。ろくでもない成果も出たけど」

「ろくでもない成果って?」

「複数の女に良い顔をしようと思ったのか、女を誘う口実か、はたまた普段女に見向きもされないのに積極的に声をかけられて舞い上がったのか、複数回署名している節操無し理解力無しの馬鹿男が増殖中なの。バレる筈が無いと高を括って、人の手間を増やしやがって。重複している署名を二重線で消すと同時に、信用できない男のリストとして名簿を作成中だから、後で人事部所属の愛でる会会員に横流ししてやる」

「…………」

 若干怨嗟を含んだ由良の台詞に、吉村は思わず黙り込んだ。すると帰り支度を終えた由良がバッグを持ち上げつつ、そこに立ち尽くしたままの吉村に不思議そうに声をかける。


「よし、帰るか。吉村さんは帰らないんですか?」

「俺も帰る」

「それなら下まで一緒に行きません?」

「下までか?」

「家まで一緒に行って良いんですか?」

「駄目に決まっているだろう」

「ですよね~」

 一瞬顔を顰めた吉村だったが、あっさり笑い飛ばした由良を見て、小さく溜め息を吐いて歩き出した。もう残業で残っている社員も殆どおらず、廊下に人気が無いのを幸い、吉村が遠慮のない感想を口にする。


「本当に変な女だな」

「傷付きますね。どこがですか?」

「以前に言っていた通り、本当に俺より関本の方が好きだろう?」

「そうですね。でももし吉村さんが社内で謂れのない誹謗中傷を受けたら、手段を選ばず対抗措置を取る位は好きですけど?」

「…………」

 横に並んで歩いている由良が、軽く首を傾げながら言い返してきた内容を聞いて、吉村は思わず足を止めてしげしげと彼女を眺めた。


「何ですか?」

「いや、つくづく読めない女だなと思って」

「そうですか? 沙織と同様、好き嫌いは割とはっきりしている方ですが」

「そうか……」

 不思議そうに見上げてきた由良から視線を逸らすようにして吉村は再び歩き出し、由良もそれに従った。そして彼はエレベーターに乗り込むまでの間は無言だったが、エレベーターが下降し始めると同時に口を開いた。


「まあ、友人の為に奮闘するのは、素直に称賛するべきだよな……。分かった。明日、栄養ドリンクと眼精疲労用の目薬を差し入れる」

 別に、嬉しい事を言われた礼では無いが、周囲の頑張っている人間を応援するのは人として当然の事だろうと、吉村が自分自身に言い聞かせるように申し出ると、それに由良は嬉々として食い付いた。


「本当ですか!? うわ、嬉しい! 永久保存版として飾りますね!」

「飲んで使えよ! 本当にわけが分からん女だな!」

「えぇ~、だって記念すべき吉村さんからの初プレゼントじゃないですか。これを飾らずに何を飾れと?」

「駅の出入り口近くのドラックストア、今の時間でもまだ開いているよな? そこで買ってやるから、さっさと開封して使え!」

「それなら下までじゃなくて、駅まで一緒に行ってくれるんですか?」

 すかさず笑顔で確認を入れてきた由良に、吉村は一瞬言葉に詰まってから、些か乱暴に言い返した。


「出勤する時にたまに姿を見かけているから、同じ路線だろ! 駅までだぞ、駅まで!」

「嫌だ、気がついていたなら、声をかけてくれたら良いのに~。そんなに恥ずかしがらなくても~」

「誰が恥ずかしがってるんだ! 面倒だし、必要が無いだけだ!」

 くすくす笑いながらからかい交じりの声をかけてくる由良の数歩先を歩きながら、吉村は(本当に調子が狂う女だな)とは思いつつも迷惑だとは思ってはおらず、寧ろそんなやり取りをどこか心地良く感じていた。



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