8 就職しないのかよ
翌日の放課後、恭平は、階段のそばで、立っている榛名渉の姿を見つけた。
凛からは、階段のところで、いつも、二階堂岳と待ち合わせしていると聞いていた。
階段から右に行けば、6組、左にいけば1組なので、部活を卒業した二階堂と待ち合わせをして帰るつもりなのだろう。
「榛名。」
声をかけると、榛名渉は、少し、面倒臭そうに足を止めた。
「はい…。」
「肩は、治ったか?」
「はい。」
触られるのを警戒してか、一歩退いて、渉が答える。
「就職先についての、卒業生のレポートを、片桐先生から預かっている。明日渡すから、興味のある就職先があったら、教えてくれ。」
「はい…。」
「じゃ、明日。」
そう言いかけて、職員室に帰りかけた恭平は、フと思いついた。
「お前、防衛大学には興味ないか?」
「防衛大学?」
渉は、おうむ返しに言葉を返す。
「卒業生の中に、家庭の事情で、普通の大学を断念した奴が、防衛大学を受けているんだが。」
「自衛隊ですか?」
「まあな。倍率は、10倍を超えるが、ここなら、学費は0で、生徒といえども、その身分は、防衛省職員になるから、学生手当が、何万か支給される。全寮制で、学費の心配はないし、卒業後は幹部クラスだ。卒業後の進路についても、自衛隊にこだわることはない。」
「全寮制で、学費ゼロ?」
「考えてみるか?」
「あ…はい。」
渉は、別に、乗り気で、うなづいたわけじゃなく、恭平の勢いに流されて、うっかり返事をしただけのようだったが、事情が何にせよ、今の能力を活かせる道が、まだほかにもあることを考えてくれるだけでいい。
タイミングを逸すると、また、拒否モードに入るかもしれない。
「じゃ、少し待ってろ。ついでだから、資料を取ってくる。」
「…。」
渉の返事を待たず、恭平は、進路指導室に向かった。
5分もすれば、行って、戻ってこれるはずだった。
渉は、恭平の後姿を見て、小さな溜息をついた。
自衛隊に、興味を持ったことはない。
なるつもりもなかった。
ただ、全寮制で、学費ゼロ、学生手当が支給されるということが、つい、ひっかかってしまっただけだ。
「渉、防衛大学に行くのか?」
そこに通りかかったのは、二階堂岳だった。
「聞いてたのか?」
「就職しないのかよ?」
「そうじゃない。」
「就職して、俺と、あの家を出るんじゃなかったのかよ?」
「?」
渉には、岳の顔が歪んで見えた。
その瞬間、岳が、ドンと榛名の身体を押した。
渉が目をみはる。
ここは、階段の最上段なのだ。
手すりも壁も、泳ぐ手に触れない。
そのまま、宙を浮いたと思った次の瞬間、渉の身体は、激しく階段の中段に叩きつけられ、そのまま、下の踊り場にずり落ちた。
上から見下ろす二階堂の視線は、渉の顔をしっかりとらえている。
苦痛に歪んだ渉の表情を、岳は、じっと見つめ、そして薄く笑った。
しかし、次の瞬間に、岳は、はじかれたように、渉の傍に駆け降りてきた。
「大丈夫か? 渉。ごめん。俺が悪かった。」
「う…。」
痛みの為に、動けない渉は、低い声でうめく。
そこへ、激しい音に驚いた生徒や教師たちが集まってくる。
「どうしたんだ? 一体…。」
「階段から落ちたのか?」
「榛名か? 大丈夫か?」
教師たちが、口ぐちに叫びながら渉に駆け寄ってくる。
その教師らに、岳は、自ら宣言した。
「僕のせいです。」
教師たちが、一斉に岳を見る。
「僕が、ふざけて、渉を突き落してしまいました。すみません。」
駆けつけた教師が、渉に
「そうなのか?」
と聞くと、榛名は、苦痛に目を閉じ、横たわったままだったが、力なくうなづいた。
「わかった。二階堂には、あとで話を聞く。榛名は、頭は打ってないか?」
「はい。」
「じゃ、とりあえず、保健室に。」
男性教諭たちが、渉をかかえて、保健室に連れて行った。