5 ぶつけました
担任の片桐から、今日の面談を頼まれた時、片桐が躊躇したのが、この榛名渉の面談だった。
「彼は、特殊な生徒です。」
真面目な片桐から見せてもらった個人ファイルには、いくつかの情報が、几帳面に書き込まれていた。
「彼の家族は、彼が2年生の時に、家族旅行の交通事故で、亡くなっています。」
「交通事故?」
「ご両親と当時中3だった妹が亡くなり、生き残ったのは、彼だけです。」
「彼だけですか。」
恭平は、いつも一人で窓の外を見ている榛名渉の姿を思い浮かべた。
寡黙すぎるほど寡黙で、クラスの誰ともつるんでいる様子は見えなかった。
「彼の怪我は、数か月で治りましたが、心の傷が深く、1年間休学し、3年になって復学しました。彼は、1年、2年とも、1組の進学クラスだったので、当時の彼の友達は、皆、大学に進学しています。留年した彼は、3年になって、誰ともつるまず、いつも一人でいますね。しかも、あれだけ優秀だったのに、本人の希望で、6組の就職クラスに入りました。」
ファイルを見ると、3年になってはじめてのテストは238人中198番という、希望しなくても6組決定の成績だったが、中間テストでの学年順位は32番だ。つまり、特進クラスのレベルなのだ。おまけに、そのあとに行われた3年になって初めての模試では、学年で16番と、試験の度に、どんどん成績があがっている。
「もともとの能力が高いんでしょうね。やる気も見せないのに、成績が、簡単に上昇する子です。就職させるには惜しいので、話をしてみたいのですが…。」
片桐は、しばらく逡巡し、やがて、あきらめたようにファイルを恭平に渡した。
「まあ、彼については、また、私からも話をしてみます。今日は、榊先生におまかせします。」
恭平は、素直にファイルを受け取った。
家族を失うという不幸を背負い、1年留年し、そして、成績優秀でありながら、6組を希望した、孤独な天才肌の生徒。
単純に、興味がわいた。
話をしてみたいと思った。
「わかりました。とりあえず、本人の希望を、聞いておきます。」
そう、答えて、更にファイルを見ると、現住所のところに、1組の二階堂の自宅と書いてある。
「これは?」
片桐が書き込んだらしいメモだった。
「今、彼は、1組の二階堂岳の家に居候しています。彼の母親の妹が、二階堂岳の母親になるので、彼等は従妹同士になります。」
「二階堂とは、仲がいいのですか?」
「年齢は一つ下ですけど、学年が一緒になりますからね。二階堂がクラブをやめてからは、登下校は、一緒にしているようです。」
「そうですか…。」
そう言えば、学校で、榛名渉が笑っているところを、恭平は、見たことがなかった。
その榛名渉が、時間通りに、理科準備室に入ってきた。
恭平は、渉に、模擬テストの成績表を広げてみせる。
志望大学は、空欄だった。
「この成績で、本気で、就職希望なのか?」
「はい…。」
机に視線をおいたまま、渉は、少し、面倒くさそうに答えた。
片桐のメモには、入学時の順位も記入されている。
高校入学時の順位は、校内で1位だった。
「お前の頭なら、高校も、もっといいとこ行けただろう?」
渉は、恭平をチラリと見て、面白くもなさそうに答える。
「私立受験のときは、風邪をひいたので。」
「熱でも出したか?」
「そんなとこです。」
低いが、ややハスキーで、甘さも感じさせる独特の声だった。
授業以外で、長く声を聞くのははじめてだった。
精悍に見える顔は、高校生にしては少し大人っぽい。
男らしく見えるのは、太くはないが、キリリと跳ね上がったその眉による。
しかし、その目は、目の前の恭平を見ようとしない。
視線は、常に机に向かい、会話も、どこか他人事のようだった。
「どうして、就職希望なんだ?」
渉は、おそらく何度も聞かれたであろうその質問に、
「大学に行きたくなくなったからです。」
と、答えた。
「どうして?」
しつこいなという、気持ちが、顔に出ているが、とりあえず、素直に返答する。
「前は、大学に行く事自体が目標だったんで、大学で何かをしたいわけではなかったから…。」
「4年の間に、やりたい事を見つけようとは思わないのか?」
「思いません。」
「お前の成績なら、優秀な人材に囲まれて、より高いレベルの職業に就くこともできるかもしれないんだぞ。そんな可能性が、目の前に広がっているのに、選択肢を狭めるのは、もったいないと思うが…。」
「今の僕には、大学は、就職のためのただの通過点だとしか思えなくて、その通過点を通ることが面倒です。」
「面倒なのか?」
「はい…。」
「家庭の事情で、諦めているわけじゃないのか? お前くらいの成績なら、奨学金で、かなり負担も軽減できるはずだ。バイトと併用すれば、何とかなるはずだ。」
家族を亡くして居候という立場には、誰もが、複雑な心境を想像する。
「それも、ないとは言えませんが、借金を背負ってまで行きたいとは、今は思えません。」
大人びた雰囲気はあるが、まだ10代の子どもなのだ。
家族を一度に失ったというトラウマが、彼の人生感を大きく変えることになったとしても、それは、驚くに値しない。
ただ、成績があるということは、高校生の身分では、単純に、選択肢が広がることを意味する。
「もし、この職業に就きたいという、強い希望があるんじゃないなら、公務員試験を受けてみるのはどうだ?」
成績次第で、上に行ける可能性のある職場の方が、あとあと、渉の能力を活かせる可能性が高くなると恭平は思う。
「公務員…?」
しかし、渉は、小さく首を傾げるようにして言った。
「それは、やめておきます。」
「どうして?」
「…。」
黙り込んだ渉には、理由がありそうだが、答える気はないらしい。
「まあ、いい。」
恭平は、小さな吐息をついた。
身長は、恭平より低いが、怪我をして、静養していた身体のわりには、細身だが、筋肉質に見える。
「中学校の時は、何かスポーツをしていたのか?」
「?」
渉は、怪訝げに恭平をチラリと見て、
「水泳をしていました。」
と、物憂げに答えた。
「高校ではしなかったんだな。」
「はい。」
恵まれた頭脳を持ち、恵まれた身体を持ち…、家族が生きていた頃には、どれだけ光った人生を歩んでいたのかと、恭平は想像する。
事故がなければ、きっと、彼には、約束されたような未来が待っていたんだろう。
もし、家族が生きていたら、彼のこの決断を一体、どう思うんだろう。
けれども、一教師として、生徒の事情には、必要以上には踏み込めない。
今の渉がどんな複雑な背景を持ち、どんなことで悩んでいるのか、渉自身が、求めない限り、自分は、手を貸すこともできないのだ。
「時間はまだある。結論は、もう少し先でもいいだろう。ただ、仕事に就きたいなら、どんな仕事がいいのか、もう少し話し合おう。俺も、この学校から、過去の生徒達が、どんな仕事についているのか調べてみる。お前も、気になる職種がはっきりしたら、早めに伝えてくれ。一緒に検討しよう。」
「はい。」
恭平は、立ち上がり、
「次の面談までには、もう少し具体的に考えとけよ。」
と、すれ違いざまに、何気なく、渉の肩をポンと叩いた。
軽く叩いたつもりだった。
しかし、その瞬間、渉の顔が激しく歪んだのだ。
「榛名?」
けれども、名前を呼んだ時には、渉は、既に立ち上がっていた。
「肩をどうかしたか?」
榛名は、何事もなかったかのようなポーカーフェイスで、
「ぶつけました。」
と、端的に答えながら、恭平から受け取った試験結果を鞄の中に入れる。
「どこで?」
「家です。」
「大丈夫か?」
「はい。」
とりつく島もなく、渉は、さっさと、鞄をつかむと、恭平に一礼し、
「失礼します。」
と、そのまま立ち去った。
恭平の顔を、ほとんど見ることはなかった。