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透澄の翅衣  作者: 森陰 五十鈴
第二章 最北の地にて
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3. 手土産

 そんなこんなでユーノについての心配はなくなったが、新たな悩みが浮上した。キャメロン領主の息子ジャックが、暇を見つけてはソフィアにすり寄ってくるのだ。

 二十代半ばになる、父によく似た辺境伯令息は、こちらが仕事中にもかかわらずわざわざ騎士庁に現れてソフィアをお茶に誘った。突然の令息の来訪に、ソフィアだけでなく周囲も巻き込まれ、業務がままならないこともあった。見兼ねたシリルがわざわざ邪魔だと告げに来るくらいだ。

 さすがに支部長に注意されると、騎士庁には来なくなった。その代わり、勤務後や休日にかなりの頻度で現れる。

 今日もまたそうだった。明日の夜勤のため早々に仕事を終えた日暮れ前。三人で外に食事にでも、と出掛けようとすると、どこでソフィアたちのスケジュールを知ったのか、騎士庁舎の入り口でジャックが待ち構えていたのである。これなら外でとは言わず、中の食堂で済ませておくのだった。しかし、ここで立ち去ってはあからさますぎる。一度外に出てしまった自分をソフィアは呪った。

 ジャックの手には、何やら大きな包みがあった。今度は物で懐柔しようというのを察し、げんなりした。

「辺境伯の息子が手に入って、侯爵令嬢が手に入らない物なんてほとんどないのにな」

 失笑してヴィクターは耳打ちする。その通りなのだが、自分が如何にも散財していると言われているみたいで、あまり気分が良くない。

「お待ちしておりました、ソフィア様。よろしければこれからお茶でも如何でしょう」

 こちらを認めたジャックは、三人の前に立ちはだかり、紳士的に――職場に押しかけているあたり紳士的もなにもないのだが――ソフィアだけを見て誘い、男性二人はいつもないものとして扱う。用がないというだけではなく、気に入らないようだ。邪魔者に見えるのだろう、とヴィクターは前に言っていた。

「いえ、私は……」

「今日は貴女にお土産があるのですよ」

 断りを入れようとすると、言葉を遮ってさらに食い下がってきた。その土産を見ないことには帰さない、とでも言いたげである。

 ソフィアは助けを求めて後ろを振り返った。ユーノが下らないとばかりに立ち去ろうとするのを、見物気分で面白がっているヴィクターが腕を掴んで引き止めている。そんな彼を憎々しげに睨むユーノ。仲が良さそうで何よりだが、今に限っては何故だか腹が立った。

 だからといって、思わず口を滑らせたのは軽率としか言いようがないが。

「お付き合いします」

「え、ちょっとソフィ!?」

 面白がっていた割に焦り出したヴィクターは無視した。

「そうですか! では、参りましょう。田舎の店で恐縮ですが、この辺りでは一流の喫茶店の席を予約してあるのですよ」

 喜色満面と言った様子のジャックは、ソフィアの手を引っ張らんがばかりに促した。あまりの食いつきように、誘いを受けたことを早くも後悔しはじめた。しかし今更答えを覆すわけにもいかず、ついていくしかない。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 予想外のソフィアの行動に慌てたヴィクターが、ユーノの肩を押して一緒にジャックの前に躍り出た。

「私たちもお供します!」

「……たち?」

 勝手に仲間に入れるなとばかりにユーノは唸るが、ヴィクターは構わずにジャックを説得に掛かった。

「ジャック様に何かあったときに、彼女一人では対処できるとは思えません。しかし、我らがいれば貴方をお逃がしするくらいのことはできるかと。ご心配なさらずとも、右のガスターは剣の腕は一流で、ときに首席から一本奪うほど。御身に危害が及ぶことはないでしょう」

 確かに、と嫌そうなジャックの隣でソフィアは頷く。彼は領主の息子、次代の領主だ。何かあったときにソフィア一人では不足だろう。だが、彼らがいてくれるのなら状況は変わってくる。

「このあたりの賊はまだ退治できていないと聞きます。いつ来るともしれません。どうぞご理解くださいませ」

 ここまで言えばさすがに断れず、彼はしぶしぶ頷いた。それを見てソフィアは内心ほっとした。思わず意地を張ってしまったが、やはりこの男と二人きりは避けたかったのである。

 連れていかれた喫茶店は、騎士庁にほど近い大通りにあった。建物は赤褐色の煉瓦で組まれていて、ランプの光だけの暗い店内には白い色のテーブルと椅子が並べられている。カウンター向こうの木の戸棚にはティーカップが並べられていて、それが高級品であることが見て取れた。

 ジャックはソフィアたちを店の屋上に案内した。そこはパラソルが広がるテラス席で、高級住宅街に通じる小奇麗な大通りを見下ろすことができた。彼は眺めのいい席にソフィアだけを座らせると、自分はその向かいに腰を下ろす。ユーノとヴィクターは、二人の座るテーブルから少し離れたところで立ったまま待機していた。護衛なのだから、とジャックがそう指示したのである。一人は顔を顰め、もう一人は苦虫を噛み潰したいのを堪えながらも営業用の笑みを浮かべて了承した。

 二人分の飲み物を注文してから店員を下がらせると、ジャックは白いテーブルの上に大事に抱えていた包みを置いた。

「特別な布が手に入りましてね、良ろしければこれでドレスでも誂えてください」

 逸っていたのだろうか、特別と言った割に包みをほどく手付きは乱暴だった。その中身よりも立たされたままの仲間たちが気になるソフィアだったが、剥かれた包みのその中身には目を見張った。

 それは驚くほど薄い布だった。透明で光沢があって、オーガンジーのようであったがよく見ると織物ではない。繊維一本一本が虹色に輝いていて玉虫の翅のようなのに、水のような透き通りも見せている。

 このような布、見たことがない。辺境伯の息子が買えないような物を買える侯爵令嬢であっても、だ。国境近くであるし、北の産物だろうか。

 思わずうっとりしていると、乱暴に早足で近づく靴音が聞こえた。テラスの床の木板が軋む。顔を上げるとものすごい形相でユーノが接近し、その背後をヴィクターが慌てて追っていた。

 何かあったのかと唖然としていると、近寄ってきたユーノは自分の手を叩きつけんばかりにテーブルに手を付いて布を凝視した。そして布の一辺を持ち上げて透かし見ると、その顔からたちまち血の気が引いていった。

「やっぱり、透澄(とうちょう)の翅……っ!」

 珍しく――これまでで初めてと言っていいほどに、ユーノは声を上擦らせた。見たことのない彼の様子に、声を掛けることも忘れて、ただ彼を見上げる。

「これを、何処で――!?」

「おい、ガスター!」

 動揺してすっかり我を忘れてジャックに詰め寄るユーノの態度に焦ったヴィクターが、慌てて彼の手から布を取り返す。それをそっとテーブルに戻し、ユーノをテーブルから下がらせた。

 護衛の立場を忘れたユーノに、ジャックは一瞬不快そうな表情を浮かべるが、彼を咎めることよりもソフィアのご機嫌を優先させた。彼の存在など忘れたとばかりに笑みを浮かべ、布をソフィアに見せびらかす。

「どうです、美しいでしょう。透明なのにわずかな光でも虹色に輝く。そうそうお目にかかれるものではございません」

「ええ。本当に綺麗な布です」

 ソフィアだって綺麗な物は好きだ。この布で作られたドレスを見てみたいと思うし、それが自分の物であったのなら夢のようだろう。ドレスを誂えるには透き通り過ぎるが、これを重ねれば白に見えるだろうし、袖や襟などの縁を飾っても生えるに違いない。ドレスを着ることを躊躇うソフィアでも、一度くらいは袖を通してみたいと思うかもしれない。

 テーブルの上の生地に手を伸ばした。

「アボット……!」

 ユーノが切羽詰まった声を上げる。声こそあげないものの、ヴィクターもまた驚いた表情でこちらを見ていた。

 ソフィアは彼らに応えることなく、そっと布地に触れぬように贈り物を突き返した。

「貴重な物を見せていただきました。けれど、これを受け取ることはできません」

 横から安堵の溜め息が二つ。ヴィクターはともかく、ユーノがここまで慌てるのは珍しい。ジャックが居なかったら、どうしたのだと問いただしていたことだろう。

「何故!?」

 ジャックは立ち上がらんばかりに驚いた。きっと彼にとっては渾身のアピール――切り札だったに違いない。そしてそれはもっともで、普通の令嬢だったらこれに惹かれずにはいられない。

 けれど、ソフィアはただの令嬢ではなく、騎士だった。

「このような物を受け取ってしまえば、賄賂と見なされてしまいます」

 受け取らないとはいえ贈ろうとしてくれた物、値段を訊くことはできないが、とても高価な生地に違いない。高価な物品の贈答は周囲の誤解を招く。送り手に他意がなくとも、受け取り手が気兼ねして送り手を贔屓する可能性も存在する。それは公平さを欠き騎士の正義に反するから、と基本的に騎士は高価な品の受け取りが禁じられている。騎士であるソフィアは、気に入ろうが気に入るまいが、受け取ることができないのだ。

「勿論、貴方がご厚意でくださったことは十分理解していますが、誤解する者が現れては私だけでなく貴方まで大変なことになってしまう。そのようなことにならないためにも、どうかおしまいください」

 人目をはばからずにソフィアにすり寄るジャックだったが、ここまで言われても引き下がらないほど愚か者ではなかったらしい。

「いえ……気が回らなくて申し訳ありません」

 羞恥で顔が歪みながらも、そのように返したのは、貴族としての矜持が為した業だろうか。ほとんどなけなしの矜持だったが。

 そのまま気まずい雰囲気で茶会は続いた。汚名返上とばかりに言葉を並べるジャックの話を聞き流しながら、ソフィアはひそかにユーノを気にしていた。彼の顔には隠し切れない動揺が未だに表れていたのだった。

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