第五話:地上生活 一日目
名もなき魔物が目を開くと、彼が産まれてから挿絵でしか見たことのないような光景が広がっていた。閻魔の力添えで地上へ転移したのち、しばらく眠っていた魔物の意識は、その光景を目にした途端、完全に覚醒した。
生い茂る草木、色とりどりの花、何故かそれらは濡れていたが、柔らかで、暖かい日の光が反射して――目に映る全てが、闇の世界には存在し得ないものばかりだった。名もなき魔物は、草木に触れ、花の香りを嗅ぐなどし、しばしの間地上の自然を愉しんだ。
名もなき魔物の心には、かつてない高揚が訪れていた。光の勇者と敵対する必要などない。手を取り合い、平穏な日々を約束させるのだ。
「待っていろ……勇者よ」
魔物の口角が吊り上がり、耳まで裂けた口から覗く牙がギラリと光った瞬間であった。
ガサッ!
背後の森――鬱蒼とした葉の一部が動いた。
反射的に振り返り目を凝らしたが、木々の隙間に動くものはすでに見当たらなかった。しかし、人外の魔物、しかもその頂点に君臨していた超生物とでもいうべき名もなき魔物の耳は、枝葉をかき分けながらその場から遠ざかるものの足音を捉えていた。
あれは――人間だ。
魔物としての本能なのか、人智を越えた彼の第六感なのか。名もなき魔物は逃走する生き物が二足歩行の霊長類だと確信していた。
逃げていくものの息遣いは荒く、走るリズムも不安定で、いつ転んでもおかしくない状態に思えた。
人間め。何をそんなに焦っている?
周囲の気配を探るが、人間を怯えさせる獣や魔物の気配は感じられなかった。
「……あ」
名もなき魔物は、ポンと手を打った。
地上に現れた魔王の姿を捉え、奴は逃げ出したのだ。
短く整えられた紫の髪、側頭部に映えた牡牛のような黒角、その身に流れる血が凍てついている証拠である灰色の肌。
名もなき魔物の外見的特徴は、どれをとっても人間のそれとは大きく異なる。
逃げていく人間は、自分が住む村なり待ちなりに駆けていくのだろう。自衛団か、駐留している騎士団か知らないが、ともかく魔物と戦う術をもつ何者かが待つ場所を目指しているに違いない。
人間の足音が遠ざかっていく方向に目をやれば、森の向こうにいくつか石造りの塔の先端のような構造物が見えた。恐らくは地方領主か貴族の城があるのだと思われた。
――追うべきか。
名もなき魔物は両足に魔力を充実させ、僅かに身をかがめる。
名もなき魔物にとって、人間の兵など物の数ではない。実際に戦ったことはなくとも、彼はジャミネにそう言い含められていた上、魔王城に収められている史書に目を通した限り、人間という脆弱極まる生き物のうち、自分に創を負わせえるものがどれほど稀有な存在かは理解していた。逃げてゆく人間が、万の兵を連れて戻って来たとしても恐れる必要はないのだ。
――しかし、俺は戦うために地上に赴いたのではない。
名もなき魔物は心中に目的を再度刻み込み、柔らかい草地を蹴った。
◇
数分前。
「あれ?」
ヤトの森で木の実を摘んでいたミルダは、空を見上げた。雲一つない青空から燦々と降り注いでいた陽光が、突如として消え失せたからだ。枝葉の隙間から見えたのは、灰色を通り越して真っ黒になった空であり、ミルダが上空で何が起きているのかを考察する暇を与えず、激しい閃光が彼女を襲う。
「きゃあ!?」
続いて轟く雷鳴。
気圧が急速に低下し、ミルダは耳の奥に痛みを覚えた。あっという間に目も開けられないほどの風と雨がミルダの全身を叩く。手にしていたカゴを抱きかかえ、収穫とわが身を守ろうと身をかがめた。とても立ってはいられないほどの、突風に近い風が吹き荒れる。
「ぐぬぬぬぬ……」
少女らしからぬ呻き声を上げながらも、ミルダは懸命に耐えた。紅茶色に染めた麻のワンピースはぐっしょりと濡れて張り付き、大きな雨粒の衝撃を吸収するどころか重石の様に背中を圧迫する。
通り雨ならわかるけれど、通り嵐なんて聞いたことがない。禁止の森に入った罰が当たったんだ。神様、お許しください。
ミルダは己の愚行を振り返り、心中で神に祈った。
ミルダが採集していたのは、パフンの実――通称“和らぎの実”だ。果皮に特殊アルカロイドを含んでおり、乾燥させたものは医薬品として高値で取引される。しかし用法を誤れば強力な幻覚作用をもたらし、極めて高い依存性と毒性を発揮するため、取引は厳重に監視され、一般人が許可なく採集することは禁じられている。
禁止の森は「アルゴニア聖教会」によって聖域認定されており、一般人の立ち入りが禁じられている。聖教会によれば、「地獄にもっとも近い場所」とされ、予言を記した聖書によれば「もっとも邪悪な災厄が始まる土地」だ。森にパフンの樹が自生していることがそれと関係しているのかは知る由もないが、ここで和らぎの実が採集可能であることは、地元の住民には有名な話なのだ。
「神様ごめんなさい。でも……これだけは持って帰らせて!」
ミルダには和らぎの実を持ち帰らなければならない理由があった。激しさを増す一方の嵐に押しつぶされそうになりながら、ミルダはまるでそれが意識を繋ぎとめる要であるかのように、より強くカゴの中身を抱きしめる。しかし、圧倒的な雨量と呼吸さえままならない強風の中では、少女の意識が朦朧とし始めるのに長い時間はかからない。
このままでは……
連れ去られた弟の顔が瞼の裏を過る。
ミルダが意識を繋ぐために下唇を噛もうとしたとき、一際大きな轟雷が近くの樹に落ちた。
大木は一瞬にして真二つに避けた。雷撃は根を伝わって地中に伝播し、半径十メートル木々をなぎ倒す。轟音がミルダの耳に届く前に、彼女の小さな身体は音速を越える衝撃波によってバラバラに――
「ぎゃん!!」
――はならなかった。
雷撃と共に地上へ転送された存在が、うずくまるミルダに覆いかぶさったことが幸いした。その存在が纏う衣服は地上に存在しない物質で編まれていた。それは光の戦士の攻撃に備え、圧倒的な耐火性・耐電撃性を有していたため、雷撃を吸収、無力化したのだ。
瞼を貫く閃光と轟音、そして何者かに突如圧し掛かられたショックが、ミルダの意識を泥濘から引きずり出した。
「重い! なんなのよ!」
ミルダは暗闇の下で無鉄砲に腕を動かす。覆いかぶさった存在は腹部をしたたかに打たれるが、なんら反応を示さなかった。ミルダはイモムシのように身体を捩りながら前進し、どうにか闇の下から這い出した。
「……神様、感謝いたします」
空は嘘のように晴れ渡っていた。嵐が過ぎ去った、というよりは消え去ったというべき、急激な天候の変化に戸惑うが、ひとまず命が助かったことに安堵した。
続いてミルダは、雷と共に「降ってきた」らしいものを見た。
「人間……?」
いや、魔物だ。
ミルダはうつ伏せに倒れたままピクリとも動かない人型の存在を見て、即座に判断した。紫色の髪、祭服から覗く首筋の肌は灰色で、側頭部には角まで生えていたからだ。それは、聖教会の司祭のような服を着ていた。聖教会の祭服は白を基調にしているが、魔物のそれは黒一色だった。いや、よく目を凝らせば、毒々しい形をした花――薔薇だろうか――の模様が刺繍されていた。はっきり言って趣味が悪い、とミルダは思った。
「に、逃げなきゃ」
ミルダは好奇心旺盛な娘だったが、動かない人型の魔物を突いてみるようなマネはしなかった。魔物の多くは動物や虫が変形した形をもっている。人型の魔物はそれらとは一線を画す危険な存在であることは、人間なら誰でも知っていることだ。
それに、禁止の森に雷が落ちた。すぐに教会の調査隊がやってくる。
ミルダが森でパフンの実を採っていたことが明るみになれば、むち打ちでは済まない。
ミルダは足音をできるだけ殺しながら、魔物の身体を回り込んで、後方の森へ入った。
追ってこないだろうか。
そう思って大木の影から様子を伺おうと顔を出した瞬間、魔物が立ち上がった。思わず声を上げそうになったが、どうにか呑み込んだ。
魔物は立ち上がるとさらに大きく見え、身の丈二メートル近くはあるだろうと思われた。あれだけの雨に降られていたにも関わらず、魔物の衣服の裾は風に揺れていた。
不思議だったのは、それだけではなかった。
魔物は周囲を眺め、空を見上げて陽光に目を細めた。口元には微笑が浮かんでいた。しゃがんだかと思えば足元の花を手折って鼻にもっていった。匂いを嗅いだらしかった。
誰がどう見ても、魔物は自然を――神の御業による奇跡を愛でていた。
魔物は肌の色と角さえ気にしなければ美麗な顔立ちをしていた。皮膚は艶やかで皺もなく、人間で言えば二十歳くらいに見えるだろう。
ミルダは穏やかな表情で草地に腰を下ろした魔物の姿に見入っていた。
人型の魔物は極めて危険。その性は邪悪そのもので、想像も付かないような悪辣な手段でもって人間に害をなすという。しかしミルダは、うららかな春の日差しを浴びてくつろぐ魔物の姿から、邪悪さなど微塵も感じとることはできなかった。
「ん?」
ミルダが、「声をかけてみようかしら」などと思ったとき、魔物は突然立ち上がり、天を仰いで手を伸ばした。魔物の口角が吊り上がり、みるみる裂けて耳の近くまで持ち上がる。その隙間からは恐ろしげな含み笑いと、十メートル以上離れた距離からでも鋭さに背筋が寒くなる牙が覗いていた。
「くく……待っていろ……勇者よ」
魔物の言葉を捉えた瞬間、ミルダは回れ右をして駆け出した。
奴はヤバい。ぜったい、ヤバい。