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第二話:アンファンテリブル

 一体の名もなき魔物が走る。


 体組織の組成が人間とは大きく事なる彼は、足底部およびつま先を保護するために靴を履くという習慣がない。使いようによっては必殺の一撃を生む研ぎ澄まされた刃のごとき鉤爪をわざわざそんなもので隠すことの方が愚かな行為だ。


 狭い――といっても地上で暮らす矮小な人間どもが建造したどんな建物よりも巨大な魔王城で暮らしていた時とは違い、一切の遠慮や躊躇がない彼の足運びは実に軽い。名もなき魔物はまさに目にも留まらぬ速さで大地を蹴っているが、彼の足底部が地面に触れた瞬間にそこで爆発でも起きたかのように大地が砕け、大きく砂煙が上がっていた。


魔闘技(イビルコンバット)


 その身に宿す魔力を全身に巡らせ、骨格筋の伸縮力を飛躍的に向上させて戦う闇の眷属特有の格闘術である。


 彼が大地を蹴るたびに莫大なエネルギーがそれを穿ち、彼が通ってきた後は荒涼とした魔界の平野にくっきりと痕跡を残していたが、追跡を恐れていないのか開放感に酔いしれてそんなことまで頭が回らないのか、


「くくくくくく……はぁーっはっはっはぁ!」


 かつて魔王と呼ばれていた生き物は、雲の代わりに魔界の空を覆う地上を仰いで笑っていた。







「ふふ、魔王様……隠れても無駄でございます」


 淑女であるジャミネは口にした言葉こそ冷笑を含んだものであっても、彼女の薄い唇はいささかも吊り上がっていなかった。

闇の眷属とはいえ上流階級に生まれ、類い希なる才を如何なく発揮し魔王の側近にまで上り詰めた彼女であっても、けして相手を貶める冷笑を浮かべることはない。たとえ自身が仕掛けた(トラップ)に相手が嵌まってしまい、無様な姿を晒していたとしても、である。


 草木一本生えない魔界の大地において、隠れられる場所などそもそもない。もちろん、穴を掘るとか何かに擬態するとかいう手段もあるにはあるが。


 魔王の出奔から十五分後。


 ジャミネの号令一下、集められた捜索隊は五十名。新参古参を含めて皆ジャミネが面倒を見てきた秘蔵っ子部隊――通称「恐るべき子供たち(ジャミネチルドレン)」である。


 魔王の側近にまで上り詰める過程において、ジャミネは闇の兵隊育成機関に身を置いていた時期がある。彼女が育てた兵士たちの多くが目下の戦場である地上ではなく、魔界の深層である魔王城に配備されているのは、彼らが日の目を見るに値しない出来損ないだからではない。


 ある将軍は言った。


「もし、人間側の将にジャミネ様がいたなら、我々は魔王様の生誕を待たずして百年前に敗北していただろう」


 ある作戦本部参謀は言った。


「ジャミネチルドレンを運用できるのはジャミネ様だけだ。彼らと行動を共にするくらいなら、私は自ら矛を取って勇者の前に立ってもいい」


 単独でも徒党を組んでも危険であると判断されているジャミネチルドレンは、現在のところどこの部隊にも配備されることはなく、全員が日々何がしかの「訓練」を続けている。もちろん、その訓練メニューはジャミネが決めている。


「…………」


 城仕えのための豪奢な飾りがついたドレスから、灰色を基調にした迷彩柄の上下に着替えたジャミネが青紫色の水晶から顔を上げた。


 ザッ!!


 訓練場の広場に並んだ五十名――きっちりと等間隔に十列横隊を組んだジャミネと似たデザインの迷彩服、全員スキンヘッド――の兵士たちは、彼女が無言でそうしたにもかかわらず一斉に踵を打ち鳴らして直立不動の姿勢を取った。どう考えてもジャミネを視界に捉えることは不可能な位置にいるものまで、であった。


 ジャミネはその様子を見て満足そうに頷くと、水晶が鎮座する飾り台を回り込んで彼らの前を往復する。


 一往復目。


 ジャミネは無言である。硬質の岩を磨き上げて造られた、上級レベルの魔法でないと傷一つ付けられない床を踵とつま先に鋼鉄が仕込まれたブーツが踏む音が響く。


 二往復目。


 兵士たちの一人一人の顔を下から睨み上げるように、あるいは舐めるように――いっそ視姦しているといってもいいほど粘着した視線で身体を眺めて歩く。


 三往復目。


 いつの間にか右手に握られているのは丈夫な地獄ガエルの皮に砂鉄を詰め込んだお手製の武器だ。そいつを左手にピタピタと打ち付けながら、先ほどとは逆の順序で兵士たちを眺めて――


 隊列の中央に立つ兵士の前で、彼女の靴音が止まった。


「本日は急な召集にもかかわらず、よく集まった」


「ウーハー! サージェント!(光栄であります! ジャミネ様!)」


 兵士の太い声がドーム型の天井に反響した。


「日々血のにじむような訓練を積んでいると聞いているが、そうなのか? 伍長?」


「ウーハー! サージェント! (軽いものです! ジャミネ様!)」


「そうなのか? その割には、貴様の後ろの奴は青い顔をしているようじゃないか?」


「ウーハー! サージェント!(そんなことはありません! ジャミネ様!)」


 伍長に代わって、その後ろに立つ兵士――伍長より数段若い。体躯だけならジャミネの倍はあろうかという巨鬼(オーガ)が半ば叫ぶように返した。


「ほう……それは頼もしい限りだ。貴様の出身地はどこだ?」


「ウーハー! サージェント!(イルバッカであります! ジャミネ様!)」


「なんだと? 逃亡した魔王もイルバッカへ向かった。貴様が手引きしたのか!?」


「ウーハー! サージェント!(滅相もありません! ジャミネ様!)」


「ならば貴様の家族か!? もしそうだったら貴様の親父の(自主規制)を母親の(自主規制)に突っ込んで(自主規制)した(自主規制)を(自主規制)だぞ!? どうなんだ!? 貴様の両親は売国奴か!?」


「そっ、そんな! 自分の両親は無関係でありま――ハッ!? ウ、ウーハー! サージェゴブウッ!?」


 それは不思議な光景だった。この後ジャミネはさらに三名の兵士を打ち倒した。最初のオーガ以外、彼らは一様に同じ言葉を繰り返しただけだったのだが、結局打ち倒された。さらに不思議だったのは、それで兵士たちとジャミネの意思疎通が図られていることだった。


 衛生兵が気を失った兵士――なぜか恍惚の表情を浮かべていた――をタンカに乗せて運んでいき、残った四十七名が相も変わらず直立不動の姿勢を保っているのを確認し、ニンマリと笑ったジャミネ。


「思い起こせば十年前! 魔王生誕の直前まで、貴様らは私の生徒だった!」


「ウーハー! サージェント!(その通りです! ジャミネ様!)」


「その後貴様らがどこの部隊にも編入されていないと聞いて、私は落胆よりも期待の方が大きかった! 何故だかわかるか!?」


「ウーハー! サージェント!(わかりません! ジャミネ様!)」


 ジャミネは一度言葉を切り、四十七×二プラスいくつか――三つ目の怪人が数名と、六つ目のものがいたからだ――を順番に見つめた。


「この大馬鹿野郎どもが! それは、私以外に貴様らを使いこなせる指揮官がいないことを意味するからだ! そんなこともわからないで、私の生徒を自称するつもりか!? 私の顔に泥を塗りたいのか貴様らはァッ!?」


「ウーハー! サージェント!(申し訳ありません! ジャミネ様!)」


「本日が貴様ら役立たずの初陣だ! 逃げたとはいえ最強の存在である魔王を拿捕し、引きずり倒してでも魔王城へ連れ戻せ!」


「ウーハー! サージェント!(了解であります! ジャミネ様!)」


「これは勇者を今すぐ殺して来いと言うより困難だ! はっきり言ってでくの坊である貴様らには無理だ! 死ぬぞ!? それでもやるのか貴様らはぁっ!?」


「ウーハー! サージェント!(やります! やるであります! ジャミネ様!)」


「脳みそまで腐ったかこの腐れ(自主規制)野郎ども! 総員配置に付け! 魔王は現在イルバッカに潜伏している! 行け(ムーブ)! 走れ(ムーブ)! 豚野郎どもォッ(ムーブ)!!」


「ィィィィッハァーー!!」


 兵士たちが奇声を発し、弾丸のごとき速さで疾駆していく。その速さたるや魔王の進行に勝るとも劣らないものであった。


 魔王城から駆け出す迷彩服の集団を見送る闇の眷属の幹部たち――魔王逃亡の事態を受けて、こちらも招集された――は、ほっと胸をなでおろした。彼らはこの後、まったく成果を上げられなかった恐るべき子供たち(ジャミネチルドレン)の本当の恐ろしさを知ることになるなどとは、夢にも思っていなかったのである。


『残念だったな ジャミネ』


 一時間ほどの道のりを全力疾走したジャミネ以下恐るべき子供たちは、イルバッカの地――魔界の辺境に位置する田舎町――にて元魔王のメッセージ付き追跡装置――ジャミネが魔王生誕五周年を祝して送ったネックレス――を発見した。


 それはちょうど、一体の名もなき魔物がそことはまったく別の地を疾駆しながら高笑いを空に向かって放っている時だった。




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