第一話:魔王逃亡
お呼びでございますか、魔王様。
「……ああ。まあ、な」
「……?」
いつもの呼び出しにいつもの応答。
変わらない日常の始まりは彼――魔王の心により深く「退屈」を刻み付ける。
今日も、いや今夜もというべきか。
けして光が差すことのない魔界の最奥にそびえる死の山。その頂に屹立する責苦、絶望、晦冥の三巨塔に囲まれた魔王城の最上階、鮮血の如き赤で染められたカーペットの先に設えた全自動按摩椅子の背もたれを三十度に倒して寝そべっている魔王は、足元に傅いた腹心を見下ろしてため息をついた。
「なあ、ジャミネ。貴様は強いか?」
「は?」
顔を上げて訝しげな表情を浮かべたジャミネ。どう答えるべきか迷っているのだろう。しかし闇の眷属の中でも彼女の実力は相当に高い。頭もよく、策士でいつも勇者を罠に嵌めることばかり考えているような女だ。それ故に腹心として登用し、長年にわたって「魔王の前座」を名乗ることを許可している。
「憚りながら強い、と自負しております。が、もちろん魔王様には遠く及びません」
彼女の答えは正しい。第一関門突破、だ。
魔王は内心でほくそ笑み、それを賢しい部下に悟られまいと揉み手の動きに顔をしかめるフリをして、質問を重ねる。
「では、ジャミネ。今、勇者と戦えば貴様が勝つか?」
「現時点では、私が勝ちましょう」
ジャミネは正直に答えた。ウソをつくつもりなど毛頭ないし、意味がないからだ。今の時点で魔を打倒するべく爪を研ぐ一族の戦士がここへ乗り込んできたとしても、その身を亡ぼすのに寸毫もかかるまい。
「そうか……」
腹心の答えを聞いた魔王は唐突に揉み手のスイッチを切り、背もたれを起こした。
そのまま手を組み合わせて膝の上に肘をつき、額を組んだ手にくっつけて憂鬱な表情を浮かべる魔王。
彼の短く整えられた紫の髪は色艶を失い、側頭部に映えた牡牛のような黒角も輝きを失くしてしまったように見えた。
暗黒物質を精製してできた繊維で編まれ、魔力によって鍛えた金糸をふんだんに用いて薔薇をモチーフにした豪奢な刺繍を施した祭服を纏っているが、普段は彼の端整な顔の下で煌めいているそれすらも、纏う本人が力なく肩を落としてしまった今では安っぽいローブのように見えた。
「魔王様……?」
いったいどうしてしまったのか。
主のただならない様子に思わず声をかけてしまったジャミネ。彼女の目に、魔王の唇の動きが妙にゆっくりしたものに見えたのは、そこから紡ぎだされた言葉の意味を理解するのに脳の処理能力の大半を持っていかれたからだ。
「貴様が、今日から魔王をやれ」
「…………」
絶句。
敬愛する魔王でなくとも主の言葉を受けて黙したままでいることなどあってはならない。
魔候――闇の眷属の貴族として教育を受けてきたジャミネだが、真の淑女である彼女をしてポカンと口を開けてしばし言葉を失わせるほど、魔王の言葉は突拍子もないものだった。
「では、達者でな。ジャミネ」
「お――お待ちください!!」
後は頼む。
最後にそう言い置いて椅子から立ち上がった魔王の祭服の裾に、どうんか自分を取り戻したジャミネが縋り付く。
「なんだ?」
なんだもなにも――ジャミネは鋭さを取り戻した魔王の黄金の眼光に一瞬たじろぐも、ここで引いてはならぬと掴んでいた裾を放し、姿勢を正してまっすぐにそれを見返した。
「魔王様……失礼ながら、私にはお言葉のご真意を測りかねます」
「余の――いや、俺の真意など、どうでもよかろう。ともかく、俺は今日限りで魔王を辞める。代わりは貴様が務めるのだ――ふっ。こうして貴様に命ずるのもこれが最後、ということだな」
遠い目を潤ませて、祭服を翻す元魔王。
再びその裾をはっし、と掴むジャミネ。
「お待ちください、魔王様!」
「俺はもう魔王ではない。一体の、名もなき魔物に過ぎぬ」
さあて、行くか。
くくくくくく……、と笑った名もなき魔物は、ジャミネの手を振り払うと赤い絨毯の上に足を踏み出した。
「そのように恐ろしげに笑う名もなき魔物などおりません! 貴方様は生まれながらにして魔王。我ら闇に住まうものどもを導く唯一の光なのです!」
「導くだと? 俺がいつ貴様らを導いたというのだ」
ザザザ、と音を立てて絨毯の上を移動したジャミネは名もなき魔物のつま先を掴んだ。底知れぬ海の如き紺碧の瞳が、島をも飲み込む荒海のようなウェーブがかかった青い髪の向こうで揺れていた。
「俺はこの魔界にこの姿で突然現れた。親という存在もないというのに、だ。そして貴様ら魔候どもに連れられてこの城に住まわされ、なにがなにやらわからぬままに十年も魔王をやらされている。だのに、全ての魔を導くだと? 滑稽な話ではないか」
「しかしながら、貴方様の存在そのものが光の眷属に滅ぼされるという運命を背負った我らの希望なのです!」
「そう……まさにそれよ」
「え……?」
名もなき魔物は膝を折り、慌てて平伏するジャミネの細い顎の下に手をやって、顔を上げさせた。
「皆口を揃えてそう言うのだ。闇の眷属は光の眷属に滅ばされる運命だ、魔王の存在こそが闇の眷属の希望だ、とな」
だが、実際はどうだ。
名もなき魔物はジャミネの手を取り立ち上がらせると、天井を仰ぎ見て口を開いた。
「俺は何もしていない。ただこの城でマッサージチェアに揺られているだけだ。時々勇者だかなんだかの動向を貴様から聞かされる以外、何も。こんな生活が王の暮しか? 光の眷属が我らを滅ぼすというのなら、その尖兵が攻めてくるのをダラダラと待っているなど阿呆のすることだ!」
「まさか……魔王様」
ジャミネは名もなき魔物の真意を知ったような気がした。
神とやらが定めた運命。
闇の眷属は光の眷属――人間と敵対し、最終的に滅ぼされる。その後神は魔界を浄化し、地上には永遠の平和が訪れるという。
ジャミネを含め魔界に住まうものどもは、まるで火に導かれる羽虫のように地上へ這い出ていく。
光の眷属を見つけては襲い掛かり、神の敵役の名に恥じない悪逆非道の限りを尽くす。そうすれば、早く勇者が来て倒してくれる。まるでその日を待ち望んでいるかのように。
「俺は――地上へ出る」
ジャミネは歓喜に震えた。
このお方は、終止符を打つおつもりなのだ。勇者が幾多の試練を乗り越えて成長し、魔王を打倒しうる力を持つ前に。忌まわしい神の定めの連鎖を断ち切るために。
「地上へ出て、そして勇者を探し出す」
間違いない。
名もなき魔物の一言一句がジャミネの心を打ち、喜びのファンファーレのように響き渡った。
「で、奴らの仲間に入れてもらうのだ」
「は?」
次の瞬間、名もなき魔物の姿が掻き消えた。
闇の眷属の中でも限られたものしか使えない、瞬間移動を使ったのだ。
しばし呆然とその場に立ち尽くすジャミネ。
元魔王の言葉が頭の中で反響していた。
仲間にしてもらう?
誰の?
勇者の?
「ものども……」
ジャミネは両拳を握り締め、喜びとは真逆の感情に震える唇をどうにか押さえつけて言葉を紡ぐ。
「ものども、出会え!! 魔王が逃げたぞ!!」
それこそは闇の眷属に相応しい、魂を魔界に引きずり込むかのような恐ろしい叫びであった。




