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小旅行

作者: 鵤牙之郷

「旅行、行かないか?」

 夫が私にそう言ったのはほんの1週間前、定年退職してから2ヶ月後のことだった。

 結婚してから40年、亭主関白だったあの人からは想像もつかない言葉だった。いっつもいっつも、やれ晩飯はまだか、やれ風呂はどうしただ、文句ばっかり言ってる人だった。そりゃ、仕事が大変なのはわかるし、あの人の稼ぎのおかげで生活出来るのだから文句は言わなかった。でも、やっぱり寂しかった。付き合ったばかりの頃は、確かに辛い時代だったけど、それでもあの人と一緒に居る時間がたまらなく嬉しかった。

 それが、結婚してからは冷たくなってしまった。出世する度に仕事が忙しくなって、帰りも遅くなって。浮気もしない、酷いことも言わない。その辺は良かったかしらね。

 そんな状況がずっと続いていたものだから、あの人が旅行を提案したときは本当に驚いた。息子が国立大学に現役合格したときと同じくらい、いいえ、それ以上に驚いた。

「偶には良いだろ、な、旅行、行こう」

 夫も恥ずかしいのか、突っかかりながら私に言ってきた。

「行くって、何処に?」

「鬼怒川。鬼怒川温泉」

「鬼怒川って、あなた温泉に興味あった?」

「あるよ、失礼だな。俺だって観光地のことは頭に入れてるよ、出張とかで行ったからな。そんなことより、行くぞ、旅行に」

 ほら、いつの間にか「行こう」が「行くぞ」に変わってる。まだ癖は抜けていないみたいね。

 でも偶には旅行も悪くない。ここしばらく東京の外には出ていない。息子も今は仕事が忙しいみたいで、まだ所謂親孝行はしてくれていない。

 わかったわ、と私が言うと、夫は少し嬉しそうに、そうか、と答えた。何だろう、この人にはどこか子供らしい1面がある。普段はああやって、一家の大黒柱であることを示そうとして厳しい顔をしているけど、それが何だか子供が無理をしているみたいで滑稽だった。どれだけ厳しい言葉を言われても全然心が折れなかったのはこのためだろう。

 私が賛成すると、夫は何処からとも無く1冊の旅行雑誌を持ってきた。いつ買ったのかしら、2人で買い物に行った時はそんな物には見向きもしなかったのに。私の目の前でガサガサとページを捲って、あるホテルの写真を私に見せた。

「ここ、良いだろ」

「鬼怒川……太陽ホテル? ええ、確かに綺麗だけど」

「だけど?」

「あなた、どこか打ったんじゃないの? どうしたんですか、急に旅行だなんて」

「う、打ってない! 良いじゃないか、行きたいんだから。良いか、ほら、飯もうまそうだろ? それにこれ、こんな吊り橋があるんだよ」

 ほんとうに子供みたい。

 夢中になって私に観光地を説明する姿が子供の頃の息子みたいだった。やっぱり親子なんだなぁ、と思った。

 そう言えば、あの子が生まれたときもこんな感じだったっけ。有給休暇をとって、必死に自分の顔を覚えてもらおうと、ずーっと遊んでた。それがあまりに必死すぎて、小さかった息子は大泣きしてしまった。すると夫も落ち込んでしまった。

 今その話を息子にすると、息子はこの人のことを笑う。で、この人は顔を赤らめて1人書斎に入ってしまうの。面白い人ね、ほんとうに。

「な、良いだろ?」

「良いけど、予約はどうするの? もっと早いうちに取るものなんじゃないの?」

「大丈夫だよ、もう取ってある」

 そう言って、夫は私に2枚のチケットを見せてきた。列車の券だった。

 流石は今まで銀行で働いていただけのことはある。仕事が速い。でも、私がもし行かないって言ったらどうするつもりだったのかしら? ……ううん、きっと強引に連れて行ったでしょうね。結婚のときもそうだったから。

 あの人のプロポーズの言葉、「お前には俺以外の男は似合わない!」だった。今も忘れない。はっきりと記憶している。

 夫はチケットを本に挟むと、

「じゃあ、3日後な」

 と言った。

 かくして、私と夫の、人生3度目の旅行が決まったのだ。








 当日、浅草駅に着いたのは列車が来る5分前のことだった。本当ならもっと早く来る筈だったのだが、準備で遅れてしまったのだ、この人が。

「カメラなんかいいでしょう? 1泊なんだから!」

「うるさいなぁ、次はいつ行けるかわからないんだから良いだろ! あ、ほら、電車だよ、電車」

「特急って言うのよ」

「同じだろ」

 また口喧嘩してしまった。これまでも何度か喧嘩したことはあった。でもルールがあって、相手には手を出さない、キツいことは言わないってことにしていた。今回もその規則に則って喧嘩した。大声だったから、周りの人達は皆私達のことを見ていた。

 中の清掃が終わって、いよいよ乗車することに。でも私が乗ろうとすると、

「おい、そっちじゃないよ」

「ええ?」

「こっちだよ、こっち」

 夫がそう言って指差したのは、何と個室だった。

「あなた馬鹿じゃないの? 個室って高い席じゃないの!」

「良い、良い、大丈夫だって」

「大丈夫じゃないわよ、もう」

 ついつい怒ってしまった。今は不景気。私達の生活費を確保するのもひと苦労なのに、何万もする座席を予約してしまって果たして大丈夫なのだろうか。

 しかし、そう滅多に乗れるものではないから、内心ワクワクしていた。新幹線に初めて乗ったときと同じね。

 洋風の洒落た個室。私達は向かい合うようにして座った。やっぱり恥ずかしいのか、あの人はどうにか目を合わせないようにしていた。

「見ないわよ」

 私は車中外の景色を眺めることにした。

 特急が動き始めて最初のうちはまだビルばっかりだったけど、1時間ほど過ぎたあたりで森や林が見えてきた。何だったかしら、あの映画。あの映画に出てくる景色にそっくりだったの。そして、森の先には大きな川が。まだ日本にも、自然がこんなに残っていたのね。

 夫もその景色に見とれていた。私達が子供だった頃は、こんな風な所で遊んでいた。大変だったあの時代、自然に囲まれた場所で遊ぶことが、家族と一緒に過ごすことに次いで楽しかった。

 2時間後、ようやく目的地の鬼怒川温泉駅に到着した。

 東京はものすごく暑かったのだけれど、ここは不思議とそんなに暑くない。よくニュースで森の中と都会の気温を比較する回があるけど、アレは本当だったんだ。自然に囲まれた土地の気温は心地よいのだ。

 さて、これからホテルに向かうことに。が、ここでまたトラブルが。

 夫が本を色んな角度から確認している。地図と景色を交互に見ているところを見ると、どうやら場所がわからないみたい。

「わからないの?」

「ち、違う。地図が見辛いだけだ」

「わからないのね?」

 何も答えない。図星みたいね。

「貸してみなさい」

「いいよ、大変だよ」

「何言ってるの? 地図を見るより、こうしてずーっと外に居ることの方が大変でしょう? ほら、貸してみなさい」

 夫はため息をつくと、しょんぼりした顔で本を渡してきた。

 ところが、地図を見るとさらにワケがわからない。大雑把な地図しか載っていないのだ。迷っている様子を見て夫が笑った。全く、子供なんだから。

「聞きましょう? 初めからそうした方が早かったわ」

「あ、ああ……」

 駅に戻って鬼怒川太陽ホテルの場所を聞く。すると、優しそうなお姉さんがすぐに教えてくれた。それも丁寧に。やっぱり最初から聞いた方が早かった。駅員さんに言われた通りに進んで行くと、簡単にホテルを見つけることが出来た。

 中に居たおかみさんに話かけると、すぐにフロントに連れて行ってくれた。名前を言うと従業員さんが鍵をくれた。場所は10階。部屋は広くて、外から見える景色がきれいだった。すぐ下には吊り橋が見える。おかみさん曰く有名な観光地なんだそうだ。

 荷物を置くと、私達は座椅子に腰掛けてため息をついた。やっぱり歳には勝てないわね。

「これから、どうする?」

「どうするって、そうね、鬼怒川に来たんだから、やっぱり温泉が良いんじゃない?」

「あ、ああ、そうだな」

 浴衣に着替えるのは面倒くさかったので、棚の中に用意してあったタオルを持って2階の大浴場に向かった。男風呂と女風呂に分かれているので、私達は一旦そこで別れた。

 温泉は本当に気持ちよかった。ここまで歩いて溜まった疲れが取れてゆく。露天風呂にも行こうと思ったけど、ちょっと肌寒いのでやめておいた。

 風呂から出てくると、夫が入り口で待っていた。夫も露天風呂は入らなかったという。それよりもこの人が待っていたことが以外だった。

 夕食まではまだ時間がある。おかみさんが言っていた吊り橋に行ってみることにした。

「へぇ、こんな所があったんだなぁ」

 関心する夫。風呂から出てそのまま外に出たのでカメラは持ってきていない。それでも夫は満足だった様だ。

 吊り橋はしっかりと固定されているが、歩く度に少しだけ足下が揺れる。それが怖くて、私は夫の服の裾をずっと掴んでいた。夫は何も言わずに、それを許してくれた。私にペースを合わせてくれたのだ。

 やっぱり何かおかしい。今までそんなことはなかったのに。

 吊り橋を渡り切るとちょっとした展望台現れる。そこから下を流れる川を一望出来る。下を水が流れているからなのか、ここは駅前よりも涼しかった。

 2人で川や山を眺めていると、夫が突然こう言ってきた。

「一樹から聞いた」

 一樹とは息子のことである。

「癌って、本当なのか」

 私は黙った。

 2週間前、私は確かに癌を宣告された。身体のあちこちに転移しているとのことだった。それならもう治療はいい。入院することも薦められたが、私はそれを拒否した。このまま黙っていようと思ったのだが、念のため息子には伝えておこうと思ったのだ。

 しかし、まさか息子経由でこの人の耳にも入っていたなんて。普段は踏ん反りがえっているのに、この人は案外心が弱い。私が癌だと知ったら必ず体調を崩す。だから言わないでおくつもりだったのだが。

 ここにきて、私はようやくこの旅行の意味を知ったのだ。何故急に旅行を提案したのか、何故カメラなんて持ってきたのか、そして何故、私を優しくもてなしてくれたのか。

「予約はな、本当は、俺がしたんじゃないんだ。一樹に頼んだんだ」

「何となく、そんな気はしていたわ」

「ふふ、そうか」

 私の顔を見ること無く、夫は言った。顔をしっかりと見られなかったのも、もしかしたら恥ずかしい以外の理由があったのかもしれない。

「初恵」

 夫が私の名を呼んだ。

「今まで、ありがとう。これからも、宜しく頼む」

 こもった声だったが、ここは静かな土地だからちゃんと聞き取れた。私はひと言「はい」と答えた。

 亭主関白で、頑固で、それでいて子供っぽくって。喧嘩もいっぱいしたけれど、それでもこの人は、ちゃんと私のことを見ていてくれたんだ。愛していてくれたんだ。

「……お、鐘があるぞ。縁結びの鐘だって」

「何が縁結びですか。今更鳴らす理由も無いでしょう?」

「いいじゃないか。そらっ!」

 夫が鐘を鳴らした。思ったより音が大きく、夫も私も思わず耳を塞いだ。

 綺麗な鐘の音が、いつまでも鳴り響いていた。

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