七話 需邂葩旺
海路で出発し、陸路で戻ってきた揚州。
もう少しで旅を始めてから二ヶ月になる。
当初の不安材料も今では懐かしい思い出話に。
漢王朝の国領の中で一番の辺境地域である交州での旅を終えて、一行は幾らか慣れてきていた。
当初懸念していた曹洪は韓浩に影響される格好で、その態度は今では適度に砕けている。
甘寧にしても卞晧との関係は絆は強くも生活態度は随分と軟化しており、曹操との仲も良好。
そして、四人の実力も経験と鍛練を重ねる事により日々確かに向上している。
内容としては十分に成果が有ると言えるだろう。
「くうぅ~~~っ!、やっぱり街は良いなっ!
この一杯が何より上手いってもんだっ!」
「いや~、本当にそうだよね~
それはまあ?、俺達は旅の道中としては食事面では本当に恵まれてはいるんだけどね~…
それでも、この一杯は別だよね~」
そんな会話をしながら韓浩と曹洪が音を立てながら啜っているのは通りで営業をしていた拉麺。
如何に卞晧・曹操が料理が上手かろうとも、材料や調理器具が必要となる拉麺は簡単には作れない。
まあ、卞晧の亡き母・田静が考案したという携帯用食糧の乾麺を使用すれば出来無くはないが。
やはり、じっくりと煮込んで作る出汁等は簡単には旅の道中では作る事は難しい。
勿論、一日でも足を止めれば二人なら出来るが。
それでは旅をしている事の意味がズレてしまう。
その為、拉麺等は街等での楽しみの一つである。
さて、そんな感じで一行が到着したのは建業。
江水を挟んだ対岸、建業よりも上流に位置するのが出発地点であった歴陽である。
まだ歴陽の街の姿を見る事は出来無はしないのだが無事に一つ目の区切りを迎えた事には安堵する。
だから、今は自由行動という事で別々に行動中。
韓浩と曹洪は久し振りに“馬鹿な男子”に戻る。
「…そう言えばさ、隼斗さん大丈夫か?
あの様子じゃあ、ギクシャクしてそうだけど…」
「あー…まあ、隼斗兄だから大丈夫…かな?
──と言うかさ、そんな心配するんだったら康栄が一緒に行って遣れば良かったのに」
「俺が?、いやいや、そんなの無理だって
抑、御付き合いは愚か、家族以外の女と二人きりで出掛けた事なんて無いからな…
……くぅっ…自分で言ってて泣きたくなるっ…」
「……まあ、それは俺も一緒なんだけどね…」
箸を握り締めながら血の涙を流しそうな韓浩に対し溜め息を吐いた曹洪は肩を叩いて、励ます。
成人していようが思春期の男子には変わらない。
モテない辛さは、理解する事が出来るのだから。
それは兎も角として、何故そうなるのか。
暫し自由行動、と決まった時に、曹操は異論を挟む余地も無く卞晧の左腕を絡め取った。
つまり、「私達は二人きりで行動するから貴方達は貴方達で自由にして頂戴ね」という無言の命令。
勿論、それに異を唱える面子は居ないのだが。
曹操は甘寧に「ああ、思春、自由行動中に今後要る普段着や下着を買って置きなさい」と言った。
加えて「不安なら誰かに付き添って貰いなさい」と残る男三人に無茶振りをしていたりする。
その際、韓浩と曹洪は即座に拉麺屋に向かった。
要は曹仁に丸投げして逃げ出した訳だ。
当然、残された曹仁の動揺振りと心細気な姿は宛ら捨てられた迷子の仔犬の様だった。
そんな曹仁に見捨てた事は悪いとは思いながらも、二人は自分達には無理だと理解もしていた。
甘寧は美人だし、一緒に旅をしていて性格も今では理解しているから、決して嫌いではない。
恋人として有り無しで言えば、有りだと言える。
しかし、実際に二人きりで行動出来るかと言えば、いきなりでは厳しいと言える。
だからこそ、曹仁に丸投げしたのだから。
そういう意味では二人の言動は無責任だろう。
だが、拉麺には何一つ罪は無い。
拉麺は嘘も吐かなければ、責任転嫁もせず、問題の擦り替えもしない。
だから、二人は気を取り直して拉麺を味わう。
美味しい物を食べられれば人は幸せなのだから。
その頃、久し振りに二人きりで要られる事を楽しむ曹操は卞晧を連れて甘寧に命じたのと同様に旅路で必要となる衣類を新調していた。
その辺も亡き母に鍛えられている卞晧では有るが、挑発的な曹操の言動や姿には胸が高鳴ってしまう。
「さて、今頃どうしているのかしらね?
思春と隼斗兄さんは」
「ん~…御似合いだとは思うけど、こればっかりは当事者同士の相性だしね~…」
無茶振りだけして放置していた訳ではなく、曹操は韓浩達の反応を予測した上で、甘寧に指示した。
命令して、甘寧に縁談を持ち掛ける事は出来るが、そんな真似は流石に遣りたくはない。
だから、切っ掛けになれば、という位の意味で今回一石を投じたに過ぎなかったりする。
ただ、韓浩・曹洪では甘寧と性格的に惹かれるには時間が掛かるだろうし、その時間によって生まれる関係は恋愛感情に発展する可能性を潰すだろう。
それでは遅くなり過ぎる可能性が高い。
曹操からすると甘寧は卞晧の縁者だ。
当事者達は特別視してはいなくても、客観的に見て甘寧という存在は重要性が高い。
だから、出来れば曹家の縁者──その中でも自分に近い人物が理想的だったりする。
その意味では曹仁は最適な人物だったりする。
性格的にも甘寧とも合いそうだし。
──という主人達の思惑で二人は別行動中。
正しく“知らぬは当人達ばかりなり”である。
「思春の方は戸惑いながらも言われた事は遣るわ
問題は隼斗兄さんに意見を求めるか否かね
武張ってばかりいる隼斗兄さんの為にも、少し位は教育して欲しい所だけれど…」
「それは流石に無茶だと思うよ?
二人共、そういう事には不慣れだろうから」
「そうでしょうね…まあ、それならそれで御互いに親近感や仲間意識が出てくれれば十分だわ
其処から発展する可能性は意外と高いもの」
事の発端であり、仕掛人である曹操の意見を聞いて卞晧は小さく苦笑を浮かべた。
互いに初恋であり、恋愛経験は真っ最中の一度。
そんな自分達が恋愛の達人みたいな事を言う様子は客観的に見ると滑稽に思えてしまうから。
まあ、だからと言って気にし過ぎはしないが。
卞晧個人としても二人が上手く行けば御目出度い。
甘寧との縁は卞晧自身にしても大切な繋がりだ。
そういう意味では甘寧が親い立場に居てくれる事は個人的にも喜ばしく、歓迎出来るのだから。
「さあ、それはそれよ、行きましょう、玲生」
そう言って小休止を終えた曹操は卞晧の左手を掴み座っていた長椅子から立ち上がらせる。
甘寧と曹仁の事は気になるが、後は本人達次第。
必要以上に踏み込んだり、余計な事はしない。
どんなに小さくても構わない。
二人の間に芽吹きさえすれば。
其処からが、自分達が手を掛けて遣れる段階。
だから、今は自分達の事が大切。
何しろ、自分達も大恋愛の真っ最中なのだから。
折角の二人きりで居られる時間。
考えるべき事・遣るべき事は多々有るけれども。
それよりも、我が儘になって、楽しみたいから。
──で、そんな話題の当事者達はと言うと。
買い物を終えて、遅い昼食を取る為に適当な店へと入って注文した料理が来るのを待っていた。
普段であれば、精悍な青年と美少女である為、周囲からの注目は少なからず有るだろう。
しかし、今の二人に向けられる視線は無いに等しい状態だったりするのが現実である。
憔悴した若い二人、というだけでも厄介事の匂いが感じられるのに、不機嫌さも有り剣呑な空気な為、誰も関わりたくはない、というのが実状。
そんな重い雰囲気の中、一息吐いて曹仁が話す。
「……思春、大丈夫か?」
「──っ、はい、大丈夫で──ぁ…いえ…その…
…そう、ですね…正直…少し、疲れました…」
反射的に強がろうとした甘寧だが、曹仁の眼差しに「此処で強がりは要らないからな?」という含みを感じて遠慮し勝ちながら、本音を吐露した。
曹操に言われた事であり、確かに必要な事なのは、甘寧も理解はしている。
その上で、出来れば曹操に付き添って貰いたいのが希望ではあったが、主人夫婦の水入らずの時間を、「私には無理です」で潰す訳にはいかない。
だから甘寧は頑張るしかなかった。
ただ、色々言いたい事は少なからず有る。
それを愚痴として吐き出す事は出来るが、言うなら本人達に抗議すべきだと甘寧は考えている。
適当に愚痴れば楽だが、それは悪口・陰口であり、それを容易く選ぶ事は自身を貶める事でもある。
そう教えられて育った為、甘寧は悪口・陰口を嫌う傾向が強く、実際に遣ろうとは思わない。
そういう甘寧の価値観を理解した上で、曹仁からの気遣いは甘寧の心を緩やかに解してくれた。
演技ではなく、自然な苦笑が浮かぶ程度には。
「……正直に言うと、俺も疲れたな…
同じ時間なら武の鍛練をしている方が楽だ
体力的にではなく、精神的にな…」
「…っ…申し訳──っ!?」
「だが、謝る必要は無いからな?
俺も不慣れだから、良い経験・勉強になった
まあ、役に立てたかは自分では判らないが…」
「そんな事は有りません!──ぁっ…」
曹仁の言葉に謝ろうとした甘寧の唇を押さえる様に曹仁の右手の人差し指が伸びて、止めた。
そして、甘寧が勘違いしない様に自分の意見を伝え──自嘲する様に苦笑した曹仁に甘寧が反論。
思わず声が大きくなってしまった事に気付き甘寧は顔を赤くして俯いて黙ってしまった。
色んな意味で、恥ずかしい反応だったからだ。
若干気不味い空気になったが、運良く料理が来た。
曹仁は料理を話題にして話を逸らし、甘寧も乗る。
そのまま談笑する事で雰囲気は改善された。
ただ、先程、甘寧の唇には曹仁の右手の人差し指が薄く、普通なら気付かない程に僅かに触れていた。
曹仁の方は気付いてはいない。
しかし、甘寧は神経質になっていた為、気付いた。
それが良いか悪いかは何とも言えないのだが。
その一瞬の触れ合いを、曹仁の事を。
甘寧が妙に意識してしまった事で、曹仁に対しての特別な感情が芽生え掛けていたりする。
慣れない事が続き緊張していた甘寧ではあったが、本人も気付かない内に曹仁の事を意識していた事は忘れ去っていて、普段通りに戻っていた。
曹仁は曹仁で、甘寧の緊張が解れた事、付き添いを無事に果たした事で肩の荷を下ろした。
その結果、本人達は気付いてはいないが、普段より気さくな雰囲気が生まれていて。
困難を共有し、共に乗り越えた事により無意識下で距離感が大きく縮まっている。
それは正に曹操の狙い通りだったりするのだが。
実りを急かしたり、催促したりしてはならない。
じっくりと、ゆっくりと育む事で強く成り。
また、切っ掛けを得る事で想いは花開く。
曹操にしても他人の事よりも自分の事。
その優先順位は決して動きはしない。
自分達が幸せであり、その上で周囲や民を思う。
曹操からは、卞晧という伴侶を得た事で自己犠牲の思考は基本概念から外れている。
曹操は自分が、卞晧に出逢わなければ、覇道を行き身を破滅させていた可能性は高いと考えている。
それは卞晧という伴侶を得たからこそ見えた事。
けれど、それを嘆きも憂う事も曹操はしない。
成長とは変化であり、不変と完成は別物。
曹操の民を思う意思に変わりはないが、それを成す道筋や方法が変わったというだけ。
人の世の物事に完璧な解答や結果は存在しない。
計算によって示される数字とは違うのだから。
人々の感情が、過去の出来事が、その積み重ねが、複雑に絡み合いながら社会という枠を形作る。
その中で、足掻きながら徐々に変えて行くのか。
或いは、犠牲を覚悟で破壊して急速に変えるのか。
それは志す者の在り方次第だろう。
ただ、大事なのは覚悟を持つという事。
無責任な発言だけなら誰にだって出来る。
しかし、それは本当に無責任で、傲慢な事。
傲慢に、独善に思えても、覚悟を持って動くなら。
その姿こそが、真に讃えられるべき勇姿。
それが出来無いなら、謙虚さが大事。
自由行動を終え、集合した一行は宿屋を探す。
普通なら逆だが、一行は気分転換を優先していた。
若いから故の衝動的な行動、という訳ではない。
それでも十分に宿が取れるという確信からだ。
だから、誰も焦ってはいなかった。
「すまぬな、ちょっと良いか?、──なっ!?」
その為、唐突に声を掛けられても普通の反応で。
声を掛けた女性が驚いているのを見て、気の緩みを即座に理解し、胸中で舌打ちした。
何故、目の前の女性が声を掛けたのかは不明だが、身分を隠して旅をしている一行にとっては関係無く厄介事である予感がした。
だが、少なくとも何かを察した女性を誤魔化す事は現状では難しい事を理解していた。
「…?、初めまして“お姉さん”、何か用か?」
「…ぁ、ぅ、うむ、いきなりですまぬな
儂は黄公覆という、揚州州僕・孫文台の妻じゃ」
「へぇ~………え?、州僕の奥さんなの?」
そんな中、空気を深読みしない韓浩は女性に対して失礼の無い様にして上手く情報を引き出した。
韓浩本人に自覚は無い事なのだが。
曹操達からすれば十分過ぎる手柄だと言える。
その為、「よく遣った!」と曹操達は胸中で密かに韓浩に賛辞を送っていたりする。
曹操も薄々気付いてはいたが、元々が自由人気質の卞晧が友人とするだけあって、馴染み易い気質。
それは計算で距離感を意図しないから出来る事。
卞晧も似てはいるのだけれど相手を選ばない辺りは韓浩の方が上だと言えるだろうと曹操は思う。
そう感心する一方で、得られた情報を元に考察。
一応、揚州州僕の孫堅の事は知ってはいる。
けれど、直に会った事は無いし、その伴侶だと言う彼女──黄蓋の事も名前と弓の名手だという事以外詳しくは知らなかったりする。
つまり、曹操自身は勿論、曹仁と曹洪に、そして、以前は一般人だった韓浩は対象から外す事が出来る。
残るは卞晧と甘寧の二人。
卞晧の場合、錦帆賊所縁の甘寧という前例が有るが黄蓋が錦帆賊と繋がっていた可能性は低いと思う。
だとすれば、甘寧の可能性も低いと思う。
そう考える中で、浮かぶのは卞晧である可能性。
卞晧本人も自身の出生や血筋の事は知らない以上、何処かの誰かにしか判らない事も有る筈。
そうだとすれば、その誰かに黄蓋が該当する可能性は十分に有り得ると言えるだろう。
「でも、その公覆さんが俺達に何の用なんだ?
俺達みたいなのなんて別に珍しくもないだろ?」
「御主等が目立つとか珍しいという事ではのぅて、其処の白い髪の者に用が有るんじゃよ」
『────っ!!!!』
黄蓋の言葉に曹操達は無意識に緊張する。
勿論、一見しては判らないが、相手は州僕の妻。
平然としている卞晧・韓浩以外では曹操を除く他の三人の反応に気付かない訳が無かった。
しかし、黄蓋は敢えて指摘もしないし、突け込んで追及する事はしなかった。
寧ろ、その逆で苦笑を浮かべながら一歩下がった。
「急な事で驚かせてしもぅたのは本当に済まぬ…
じゃが、御主等に害意が有ってではない
どうか、儂等に少しだけ時間をくれぬか?」
黄蓋の言動は、ある意味、大人の対応だと言える。
ただ、曹操達は年齢以上に政治という物に詳しく、幼少の頃から身近に有り、触れて育ってきた。
その為、黄蓋の言動に更に深い警戒心を懐く。
何故なら黄蓋は今、「儂等に」と言った。
それはつまり、最低でも一人、他にも卞晧の存在を看過出来無い人物が居るという事であり。
また、黄蓋の立場から考えると州僕の孫堅が関わる可能性は十分に考えられる。
まだ旅の途中、まだ二ヶ月という一行にとっては、此処で曹嵩の耳に話が入る可能性は最悪。
潰せるなら潰し、無理なら回避する。
そういう方向に思考は傾いていた。
黄蓋もまた曹操達の眼差しと雰囲気から今の自身の判断が軽率だった事を察し、胸中で己を叱責する。
黄蓋としては本当に害意は無いし、無理強いをするつもりは全く無いのだが。
けれども、その一方では目の前に居る卞晧を黙って見逃すというつもりも無かったりもする。
矛盾してはいるが、それが黄蓋の本音だ。
そんな中、動いたのは当事者となる卞晧。
曹操の肩に軽く触れ、視線で「大丈夫」と伝えると曹操の「…判ったわ」という首肯を受けて、前へ。
「失礼ですが、初めまして、ですよね?」
「うむ…御主の言う様に今日初めて逢ぅたのぅ」
「その私に、どういった御用なのでしょうか?
正直な話、州僕の奥様の目に付く様な言動をした、という様な心当たりは有りませんが?」
「安心せぃ、そういった類いの事ではない
……大きな声では言えぬが、孫家の内々の話じゃ…
害意は無いし、時間をくれるならば謝礼も出そう
まあ、“儂等の話し相手”という日雇いの仕事だと思ってくれればいい
どうじゃ?、それならば少しは安心出来るか?」
卞晧の問いに黄蓋は詳細は伏せたが、全てを隠す事だけはせずに真意の一端を話した。
また報酬の有無を明確にする事で不透明さから来る不信感・猜疑心を緩和させる事にした。
人によっては「金で釣る気か?」と逆に毛嫌いされ嫌煙されてしまうのだろうが。
しかし、黄蓋は卞晧達を見て、“筋が通っていれば対話の席に着いてくれる可能性は高い”と考えた。
それは強ち間違いとは言い切れなかった。
事実、曹操以外は「…それなら、まあ…」と胸中で納得し掛けているのだから。
ただ、曹操は卞晧の隣にまで進み出て黄蓋を睨む。
その眼差しから放たれる怒気は黄蓋を驚愕させる。
「役職?、地位?、家柄?、だから何なのよ?」と言わんばかりに鋭く心を射抜く意志の刃。
それは到底、見た目通りの少女の物ではない。
「私の夫を金で売れと?、巫山戯ているの?
貴女、同じ事を言われて、それを了承出来る?」
「──っ…」
敵意を剥き出しにする曹操に黄蓋は瞠然とする。
同時に自身の見立ての甘さと焦りに気付く。
自身の軽率な言動で警戒心を持たせてしまった事は勿論だが、相手が若輩者という事で軽く見ていた。
加えて、冷静なつもりで感情的になっていた。
「この機を逃せば二度と無いかもしれぬ」といった自覚の無い恐怖心から相手の事を考えられるだけの余裕が無くなっていた様だ。
その事を黄蓋は悔い、何より恥じた。
卞晧達の関係は定かではない。
しかし、黄蓋は目の前の曹操の憤怒を理解出来ぬ様な愚かな女ではない。
言われてみれば言い訳のしようも無い事なのだ。
「……済まなかった
知らぬ事とは言え、御主達に無礼な言動をした事、どうか赦して欲しい…」
黄蓋は姿勢を正し、曹操達に深々と頭を下げた。
普通であれば、州僕の妻である者が平民の子供達に頭を下げるという事など有り得無いだろう。
それだけ、官吏の地位というのは強大な力であり、圧倒的な強者たる存在なのだから。
その為、周囲の民衆が騒がしくなり始めた。
黄蓋が意図して曹操達を嵌めた訳ではない。
黄蓋の、孫家の民との近さは内外で有名な話。
だからこそ、気さくな遣り取りも少なくない。
そんな黄蓋の謝罪を、民が気にしない筈が無い。
卞晧と曹操は兎も角、他の四人は衆目を集める事に状況が不利になっている様に感じた。
だが、それは黄蓋にしても同じだった。
これは自身の招いた不敬に対する謝罪である。
それなのに曹操達が悪者にされる事は筋違いだ。
だから、まだ赦しは得られていないが頭を上げた。
──その時だった。
黄蓋の耳が「…あれ?、あの白い髪の子…」という誰かは判らないが、民衆の声を拾い上げた。
度重なる自身の失態に胸中で舌打ちする黄蓋。
敢えて、喧騒に勝つ様に声を張る。
「いや、本当に済まなかった!
儂が壊してしまった物の弁償をしたい故、城の方に来ては貰えぬかのぅ?」
そんな事実は無いし、体よく連れ込まれる感じだが──曹操達は黄蓋の提案に乗った。
曹操達に騒ぎを収める術は無い。
──かと言って、此処で意地になって黄蓋の不敬を追及したとしても互いに傷を負うだけ。
要は共倒れになってしまうだけだ。
だから、一番無難な落とし所として、黄蓋の提案を受け入れたに過ぎない。
当然だが、曹操は黄蓋を赦してはいない。
「重ね重ね済まぬのぅ…」
「……はぁ…判りました…
公覆殿、貴女に害意や悪意が無いと信じましょう」
「有難う…」
曹操達を先導しながら謝る黄蓋を曹操は赦す。
本来であれば、信じる事など不可能だと言える中、自身の過失を赦し、信じると言った曹操に対して、黄蓋は感謝以外の言葉は無かった。
何故なら、自身が曹操の立場なら赦しはしない。
赦せる筈が無い事を、自分は遣ったのだから。
それを私情だけではなく、黄蓋の立場や民の事まで配慮した上で、曹操は赦し、信じると言った。
黄蓋は曹操の才器を、その将来性を確信する。
一方、曹操は妥協するしかないのが本音。
勿論、個人的には赦せる事ではないのだが。
此処で騒ぎを大きくすれば旅は強制終了になる。
絶対とは言わないが、父が、曾祖父が動くだろう。
そして、それは卞晧の亡き母との約束を穢す真似に等しい冒涜とも呼べる事。
だから、そうするしか出来無かった。
そんな曹操の胸中を察した卞晧。
然り気無く手を繋ぎ、視線で謝罪と感謝を伝える。
何だかんだで騒ぎの原因は自身なのは確定した。
だから、此処で曹操や黄蓋を責める気は無い。
寧ろ、何方等も譲れない事が有っての言動。
それが判らない程、卞晧は身勝手ではない。
まあ、卞晧自身が感情的に為る可能性は低い。
例え、深い因縁や怨恨・憎悪等の悪感情が有っても自分の立場や曹操達の事を無視して無責任な言動を取る様な軽率な真似はしない。
衝動的な思考・言動等は碌な事に為らない可能性が高い事を亡き母から教えられているし、そういった人々の成れの果てを幾つも目の当たりにしてきた。
だからこそ、卞晧は客観的な観点を大事にする。
その為に、様々な経験を積み、成長する。
それが出来無いなら、赤子にすら劣るのだから。
そんな三人の背中を見ながら続く韓浩達四人。
「…何が何なんだ?」「いや、俺に聞かれても…」「兎に角、従いましょう」「為る様にしか為らん」という感じで視線で意志疎通し、頷き合った。
曹操の言動に追従したい衝動は確かに有った。
だが、それを勢い任せで遣ってしまっては主人たる曹操達の立場を危うくする可能性が高い。
自分が全く関係の無い第三者であったなら、無責任に好き勝手な言動を取るのだろう。
何故なら、その言動は所詮一個人の解釈・意見で、当事者達が必要とするかは判らない事であり。
責任の伴わない立場故の言動なのだから。
しかし、韓浩達は違う。
未熟ながらも曹操達の、曹家の名を背負う立場。
だからこそ、冷静に、先々を考えて、堪えた。
尤も、そういった事が出来る様に卞晧達に教えて、鍛えられているというのが大きいのだが。
先ず、普通の──他の名家や有力者の家等でなら、有り得無い理念であり、指導だと言える。
そして、韓浩達自身の意識も大きい。
仮に、卞晧達の指導方法や価値観を教導用書として世に広めたとしても、正しく理解し実践出来るのは一割にも届かないだろう。
何故なら、それは信頼関係が有るからこそ、指導に耳を傾けて理解をしようと努める。
指導をする側も上から「遣れ」と命令し、一方的に押し付けるのではなく、理解出来る様に努める事、「出来無い様なら要らない」と脅しては為らない。
しかし、現実的な話をすれば実用的ではない。
曹家でさえ、抱える末端の人員にまでは不可能。
だからこそ、重用する人材というのは選ぶ。
重用して貰いたいのなら努力し、自ら考えなくては待っていては何も変わりはしない。
機会は公平に与えられはせず、自らが動き続けて、そうして掴み取るしかない。
それでも、先に至る事が出来る可能性は極僅か。
その為、韓浩達の様な選ばれた者には、それ相応の責任が伴い、背負わなくてはならない。
その覚悟が無い者には資格は無い。
気楽な一般人の方が良いか、どうなのか。
それは個人個人の価値観次第だろう。
黄蓋に案内されて入った州牧の城。
孫堅の居城であり、孫家の本拠地である。
別に敵対関係ではないのだが。
気分的には敵地に乗り込んでいる感じである。
城内を進む途中で黄蓋から侍女に案内役が代わって通された先は普段は部外者が入る事は無いだろう、孫家の私室だと判る一室だった。
孫家の家紋が施された家具に、客人に見せる事など先ず無いだろう子供が作った様な何か。
それだけで、黄蓋の「孫家の内々の話」というのが本当の事なのだという説得力が出て来る。
此処まで来れば、もう開き直るしかない。
慌てても逃げ場はないし、逃げても仕方が無い。
それなら、腰を据えて話をする方が建設的だ。
「玲生、貴男は何方等だと思っているの?」
「んー…正直、これと言った確証は無いかな…
髪の色から考えると父親関連なんだろうけど…
黄蓋さん、俺の顔を見てから驚いてたよね?」
「そうなのよね……貴男って何方似なの?」
「父親の顔は知らないから何とも…
ただ義母上達は母さん似みたいな事を言ってるから少なくとも母さんの面影は有るんだろうね」
「貴男自身からしたら?」
「母さんの若い頃なんて知らないからね~…
それに性別も違う訳だし…
正直、似てるって言われても実感は無いよ
華琳だって、「御父上似ですね」って言われたら、実感が湧かないでしょ?」
「…成る程ね、ええ、それは確かにそうだわ
御母様や御祖母達に似ているのなら判るけれどね」
皆で席に着き、用意された御茶を飲みながら曹操は卞晧に現状での意見を求めた。
しかし、卞晧にしても決定打に欠ける現状では何も明確な事は言えないのが本音。
──とは言うものの、黄蓋の言葉通りなら、卞晧は孫家と何かしら縁が有る事だけは確かだろう。
それが、どういった事なのかは定かではないが。
そんな二人の会話を聞きながら曹仁達も納得する。
確かに親子なら似ているのかもしれないが、子供の側からしたら似ているのか否かは判り難い。
「お前は親父さんの若い頃にそっくりだな」なんて言われたとしても若い頃を知らないなら判らない。
だから、現時点では明確には言えない。
だったら、下手に身構えるのは疲れるだけ。
気を抜かず、気を張らず、緊張感と余裕を持って、余計な発言をしない様に心掛ける。
「それよりも問題は何処まで影響するかだよね…」
「そうね……普通に考えて、貴男個人に関する事が焦点なら私達の事は適当に誤魔化しても構わないし最悪嘘で遣り過ごしても構わないわ
孫家から曹家に連絡は来ない筈よ
特に縁は無いし、御互いの立場上、無闇に干渉する可能性は低いでしょうから」
「そうだね…まあ、出来れば適当に嘘を吐いて凌ぐ真似は避けたい所かな
それが後で、どんな影響を生むか判らないしね」
「──という事は、必要最低限で遣り過ごす、ね
情報が少なく、後手に回っている現状だと辛いわね
せめて、彼方等の明確な狙いが判れば…」
「…実は“狙い”という程に明確な意図は無くて、本当に話がしたい、っていう可能性は?」
「……黄蓋の様子を見る限りだと否定出来無いわ
勿論、アレが演技を含んでいなければ、だけれど
その辺りは貴男から見て、どんな印象だったの?」
「んー……最初は多分、此方等の事を探っていたし多少は演技も遣ってたとは思うよ
ただ、流石に華琳の言葉以降には無いかな
最後等辺は演技と言うか、誤魔化してはいたけど、それは此方の為でも有るしね」
「…はぁ~…結局は出たとこ勝負な訳ね」
「面倒な話だわ」と言いたげな曹操。
それに卞晧達も同意して静かに頷いた。
そんな感じで待っていると部屋の扉が叩かれた。
その事に曹操と卞晧は反射的に顔を見合わせた。
曹家内では浸透している訪礼だが、外部では違う。
そして、それを曹家に広める切っ掛けは──田静。
卞晧の父親が田静に教えた、という可能性も有るが劉懿達の話を聞く限りでは、その可能性は低い。
だから二人は田静と孫家の繋がりが高いと考えた。
卞晧が返事を返すと、一声有って扉が開かれた。
黄蓋と、夫の孫堅だろう男性が入ってくる。
自分の父親とは違う武人らしい身体付き。
赤い鬣の様な髪と蒼く鋭い眼は猛獣を連想させる。
(…これが武勇名を轟かす“江東の虎”…)
「此処二十年内で最も戦功を挙げたのは誰か?」と訊かれれば、百人が百人、「それは孫文台」と言う位に知られている事である。
──が、曹操は懐いた違和感を拭えなかった。
確かに目の前の人物は類い稀な才器の持ち主だ。
それは多少なりとも一般人よりかは“高み”に居るからこそ感じ取る事が出来る実力が有るが故。
そして、その感覚から言うと、目の前に居る孫堅の武勇伝の幾つかは不釣り合いでしかなかった。
──とは言え、それを追及しようとは思わない。
今は必要最低限の遣り取りで事態を収拾したい。
二人の入室に合わせて曹操達は立ち上がって迎え、州牧夫妻という立場に配慮し最低限の礼を尽くす。
それ位は、如何に客人として招かれていたとしても遣るべき配慮なのだから。
「私は孫文台、揚州の州牧を務めている身だ
先ずは、妻の所為で迷惑を掛けた事を謝罪する」
「改めて言わせてくれ、本当に済まなんだ」
簡単に挨拶をすると孫堅は曹操達に頭を下げる。
それに黄蓋も続き、謝罪を口にする。
普通の官吏の態度ではない為、韓浩・甘寧は普通に戸惑いを隠せなかった。
対して、他の四人は曹家の在り方を知っている為、其処まで可笑しな事だとは思わなかった。
寧ろ、その姿勢に是と出来る事に共感を懐く。
「その理由を訊かせて頂く為に此処に来ています
ですから、頭を御上げ下さい
本当に謝罪して頂く必要が有るのかは後です」
「…そうだな、先ずは話をさせて貰いたい」
卞晧の言葉に孫堅達は頭を上げると、視線を交えて小さく頷き合って着席を促す。
全員が着席し、話を聞く姿勢が整う。
──が、孫堅は卞晧を静かに見詰め続けていた。
その双眸に滲むのは言い表せぬ複雑に入り混じった感情である事を卞晧と曹操は直ぐに感じ取った。
場の雰囲気を察した孫堅は瞠目して俯き、深く息を吐いてから切り替えて、顔を上げた。
「最初に少し確認をさせて貰いたいのだが…
名を訊いても構わぬか?」
「はい、私は卞晧と申します、歳は十二です」
孫堅の質問に卞晧は躊躇う事無く答え、敢えて自ら訊かれてもいない年齢まで答えた。
だが、それは迂闊な訳ではない。
「他の事は簡単には言えませんが」と言外に示し、同時に牽制する意味を持っていたりする。
勿論、それを理解出来無い相手には言いはしない。
孫堅達であれば理解出来ると思ったからだ。
「では卞晧よ、母君の名を教えて貰えぬか?」
「……母の名は田静と言います」
「…っ………ならば、真名は“蓮珠”では?」
「────っ!?」
その真名を聞き、卞晧よりも曹操が反応した。
当然だが、真名は預けられた者しか口に出来無い。
例え相手が死者であろうとも、知っているから死後勝手に口にして赦される事ではない。
卞晧も、両親も口に出来る義母の真名。
しかし、曹操だけは口にする事が許されない。
だからこそ曹操は本人が思う以上に過剰に反応し、殺気を隠す事無く向け、まるで孫堅を家族の仇でも見るかの様に睨み付けていた。
その反応は流石に予想出来無かったのだろう。
黄蓋もまた、反射的に孫堅を庇う様に身体を二人の直線上の間に割り込ませていた。
卞晧が曹操の、孫堅が黄蓋の肩を叩き、宥める。
我に返った自分の妻の様子を見ながら卞晧と孫堅は互いに軽く頭を下げ合って“手打ち”とする。
態々声にして言うには、当然と言える反応でもある事を理解し合っていたからだ。
ただ、そんな二人の反応で御互いに確信し合う。
「確かに…私の亡き母の真名は蓮珠です」
「──っ……そうか…姉上は亡くなられたのか…」
「────っっ!!!!!?????」
卞晧が母の真名を肯定すると、孫堅達は顔を歪め、孫堅の呟いた一言に曹操達は驚くしかなかった。
孫家と卞晧の繋がりが濃厚そうな事は感じていた。
しかしだ、まさか卞晧の母・田静が孫堅の姉だとは誰も考えてはいなかった。
それは曹操にしても同じだったからだ。
だが、卞晧だけは先程の遣り取りで察していた。
そして、一人静かに納得していた。
母・田静は気さくではあったが、真名を軽んじる事は有り得ず、簡単に許す様な性格ではなかった。
その為、母の真名は養父母でさえ預かっていない。
信頼はしていたが、真名は預けなかった。
それは矛盾している様で、実は可笑しくはない。
真名を預かる、という事は相手にとっては親い事を他者に喧伝している様なもの。
つまり、難しい立場に有るからこそ母は己の真名を容易くは預けなかった訳で。
その謎が、こうして解き明かされたのだから。
孫堅の頬に一筋の煌めく路が刻まれる。
黄蓋は顔を逸らし、口元を手で隠して俯く。
その様子に曹操達も嘘ではないと理解する。
暫しの間を置き黄蓋が話が出来る状態になった事で孫堅が昔を思い返す様に語りだした。
「…私には──いや、俺には五歳上の姉が居た
名は孫静といい、強く、美しく、優しく、逞しく、賢く、勇ましく、気さくな素晴らしい姉だった」
そう自慢の姉を自己陶酔するかの様に語る孫堅。
隣で目蓋を閉じ、耳を傾ける黄蓋も懐かし気だ。
だが、母親の話を、ある意味崇拝するかの様に語る叔父と聞き入る義叔母の姿に卞晧が俯く。
そっと、傷付く夫の手を握って励ます曹操。
曹仁達にしても何も言えないし、この場で聞かないという選択肢を選ぶ事も出来無い地獄。
まあ、卞晧に比べれば全然増しなのだが。
そんな卞晧達には気付かず、孫堅は話し続ける。
「幼かった俺は自分の家柄を、その立場を履き違え民を下に見て偉そうにしていた事が有った
そんな俺を見た姉上に「貴男、偉いのね」と笑顔で言われながら、身の程を叩き込まれた…
あの時の姉上は本当に恐ろしかったが…
姉上の言葉の、憤怒の意味を理解した時には心から姉上の教えに感謝し、愚かだった己を恥じたものだ
世の中の名家・豪族に有り勝ちな間違った価値観を俺は幼くして姉上に正して貰えた…
それは本当に恵まれている事だと歳を取れば尚更に思い知らされ、幸せな事だと強く感じる」
そんな感じで思い出を語る孫堅は楽しいだろう。
曹操にしても既に直に会う事の叶わない義母の話を聞けて楽しくはあるのだけれど。
それ以上に愛する卞晧の精神が摩耗していっている様子が感じ取れてしまうので焦る。
もし、自分が卞晧の立場だったら逃げ出すだろう。
そういう意味では、耐えようとする卞晧の姿勢には感嘆すると共に、尊敬の念を懐いてしまう。
それは曹仁達にしても同じだった。
「…これが俺だったら、血を吐ける自信が有るな」「自分で自分を殴って気絶してるよ、これは」等と韓浩と曹洪は視線で会話しながら、卞晧の背中へと同情の眼差しを送る事しか出来無い。
「いや、そんな事はいいんで…」とは言えない。
己が姉への敬愛を漲らせる孫堅に対し、そんな事を言える筈が無かった。
言ったとしたら──どんな事態になる事か。
想像もしたくはなかった。
そんな感じで孫堅が満足するまで話し、落ち着いた事で話は本題へと入る。
──事は無かった。
あまりにも孫堅の姉自慢に時間が掛かり過ぎた為、日が暮れてしまい、孫堅の家臣から中止が入った。
「まだ仕事が終わってません!」と怒られて。
そして、宿を取っていなかったという事実を韓浩が油断して口を滑らした為、孫堅の城に泊まる事に。
宿屋に比べて寝台も夕食も品質が良いのだが。
曹操としては瀕死の卞晧の介抱が最優先だった。
部屋に二人きりになった途端に抱き付いて泣き出し珍しく愚痴り出した卞晧を抱き締め頭を撫でながら母性本能全開の微笑みを浮かべて慰める曹操。
だが、その胸中では可愛い卞晧の反応に萌えに萌え狂喜乱舞していたりしたのだが。
それは卞晧にさえ知られる事の無い彼女の秘密。
乙女に秘密は付き物だ。
各々に信じてはいても、気の抜けない一夜が明け、改めて孫堅達との話の場が設けられた。
今回は事前に家臣達から言われたのだろう。
昨日とは雰囲気が違い、州牧らしさが感じられる。
まあ、だからと言って昨日の印象は拭えないが。
「昨日、話した様に俺には孫静という姉が居た
そして、その姉が卞晧の母親である事は間違い無い
その根拠は一族の直系の者にのみ顕れる蒼瞳だ
この特長を持つ者は俺以外は姉上だけで、外に血が流出している可能性は皆無…
だから、姓や字を変えていても卞晧の母親は姉上を除いて有り得無いと言い切れる」
孫堅の言葉に曹操は卞晧と顔を見合わせて頷く。
卞晧自身は昨日の時点で孫堅との共通点として瞳の色に気付いていたし、曹操も甘寧の言葉を思い出し二人の類似点として気付き、予想はしていた。
その為、一々確認する事は無かった。
「…今でこそ、俺は“江東の虎”等と呼ばれるが、それは全て姉上が有ったからこそだ
元々、孫子で知られる孫武等を祖先に持つ孫家とは武家ではなく、軍師の家系だった
一時は確かに兵家の名門として栄えるが、軍師とは良くも悪くも畏怖される存在だ
主君が、主家が、国が変われば立場は変わるもの…
それに、軍師としての才器というのは武家とは違い親から子へと受け継がれ難い資質…
その為、孫家は次第に衰退していった…それでも、細々と現在にまで血を繋ぎ続けてきた
俺が物心付いた時、我が家は名家と言われながらも平民の中でも貧しい階級層に過ぎなかった
それを一代で復興させたのが姉上だ
姉上が十三歳の時だ、故郷でもある呉県では賊徒の横行が著しく民は怯え、俯き、嘆いていた…
当時、八歳だったが…今でも鮮明に覚えている」
そう言って言葉を切った孫堅は視線を伏せた。
愚痴る様で、気不味いという訳ではない。
それは、決して忘れてはならないし、本の僅かでも色褪せさせてもならない、過去。
施政者として、力を持つ者として、絶対に。
そんな孫堅の意志を感じ取った卞晧と曹操は自然と無言の侭、手を繋いでいた。
二人は孫堅達の目の当たりにした現実を知らない。
しかし、想像する事ならば、難しくはない。
何故なら、そういった有り触れた悲劇とは、疾うに過ぎ去った事ではなく、現に在る事。
だから、孫堅達の懐く意志は理解出来る。
ただ、その想いまでは理解し切る事は出来無い。
二人は孫堅達ではなく、その過去を知らないから。
それでも、想い描く理想は似ている事だろう。
「…そんな状況で、姉上は立ち上がった
当時の孫家に臣家などは無く、私兵も居ない
そんな中で姉上は民に“戦って未来を勝ち取る”か
“怯えたまま未来を奪われる”かを選ばせた
その姿は、その言葉は…到底、十三歳の少女だとは誰も思わなかった程に凛々しく、雄々しかった
だから、多くの民が立ち上がり、民を率いて姉上は呉県の賊徒を一掃し、平穏を齎した
それを契機として今の孫家の古参となる家臣が集い孫家は駆け上がる様に大きな飛躍を遂げる
そんな姉上により俺は十二歳で孫家の当主となり、戦場に立ち、“江東の虎”と呼ばれる様になる
だが、それは姉上の御指導と孫家を束ねる統率力が有ったからこそで、実際には俺は未熟者だった…
それでも姉上と同じ様に民を守りたい気持ちだけは決して嘘偽りの無い事だ
だから、表向きには若き当主を演じながら、裏では姉上に教えを請う日々だった事は言うまでもない」
自嘲する様に、とも受け取れなくもない苦笑。
しかし、それは「姉上には頭が上がらない」という意味での感謝の念が込められた親愛の一欠片。
決して、「姉上は本当に無茶苦茶だった」等という意味や感情は込もってはいない。
まあ、韓浩等は「あー…血は争えないな~…」とか思いながら卞晧の背中を見詰めていたりするが。
「…孫家が勢力を拡大し、俺が太守を経て、揚州の州牧に就いたのが十五歳の時だ
二十歳だった姉上は縁談は多かったが全て握り潰し嫁に行く事も無く家を支えてくれていた
後に俺の妻となる祭──黄蓋も幼少期に姉上に命を助けられ、姉妹同然に育てられ、師事していた
そういう事も有って、無意識に姉上は俺達の傍らで支えてくれているのだと思い込んでいた…
………十五年前の、あの日までは…」
孫堅の言葉に黄蓋も深い悲哀を表情に滲ませる。
二人共に涙こそ見せはしないのだが、対面している曹操達にすれば泣いているのも同じ事だった。
昨日の二人の卞晧を見た時の反応。
それは単に似ていたから驚いた訳ではない。
孫家直系にのみ顕れる特長である蒼瞳を持つ事から孫静の存命を期待したのだろう。
だが、卞晧の口から母親の死を告げられ、期待から悲哀に感情は塗り潰されてしまった。
ただ、それでも卞晧という遺児が存在する事。
それだけは紛れも無い事実であり、喜びだろう。
だからこそ、二人は一晩経って落ち着いた。
勿論、一度懐いてしまった勝手な期待に湧いた心は無情な現実に対して完全には割り切れないが。
今、自分達が為すべき事は何か。
それを孫堅達は理解している。
「……当時、孫家には最大の政敵が存在していた
それは揚州の南西部域に多大な影響力を持っていた豪族達の大長とも言える人物、“灰虎”と呼ばれた厳白という当時四十二歳の巨漢の英雄だ
まあ、英雄とは言っても、それは豪族達の、だがな
他所の事は定かではないが、揚州の豪族達は他者に大して異常な程に威圧的だった
「自分達、豪族こそが支配者だ!」とでも言う様に他者を見下し、蔑み、奴隷の様に扱っていた
当然だが、普通の平民は不平不満を懐きながらも、豪族達を恐れて、何をされても諦めていた…
それが、姉上の、孫家の台頭により、変わった
平民達は豪族達の元から次々と去り、移り住んだ
勿論、傲慢に染まり切った豪族達が看過する筈など有り得無い事で、孫家に対して攻撃を仕掛けた
だが、平民を──つまりは兵力を失った豪族達に、武功・戦功で伸し上がった孫家に対抗出来る筈無く見事なまでに返り討ちに有った
これによって豪族達は影響力を大きく失った
しかし、厳白を主君として一つに纏まった豪族軍は孫家に敵対する江賊や海賊、荊州の賊徒等を麾下に取り込む事で戦力を増していった
姉上をして「やはり、統率力は凄まじいわね…」と言わしめる程で、三ヶ月と掛からずに戦で勝ち負け出来る戦力を揃えてしまった
勿論、反孫家を掲げる連中故に利害の一致によって集まった烏合の衆だが、それを厳白が使う事により精強な軍隊宛らの威力を発揮する
…そんな相手と戦えば此方等の犠牲は甚大になる
相手は大半が賊徒等で、豪族達も死んでも構わない
そういう現実から姉上は「私の身一つで厳白が矛を収めてくれるのなら、政略結婚も厭わないけど…」という事を呟かれていたりもした
厳白との戦に勝利しても、揚州の衰退は決定的…
それならば、という揚州の民の未来を考えての事…
勿論、理屈としては的外れではないが…
俺達を含め、到底承服出来る事ではなかった
だから、徹底抗戦が孫家の主流な考えだった
………厳白から、婚姻の話が来るまではな」
孫堅の言葉に「まさか…」という思いを懐いた者は少なからず居ただろう。
何故なら、その厳白という男が“白い髪”ならば、卞晧の父親という可能性が出て来るからだ。
勿論、その可能性は無いに等しいとは思うが。
完全に切り捨てられないのは色々な情報が絡まり、整理出来てはいない為だったりする。
──とは言え、卞晧は勿論、曹操と甘寧は可能性を完全に否定し、切り捨てていた。
甘寧は錦帆賊の一族の大恩人を信じているから。
卞晧は単純に母親の性格から。
そして、曹操は愛する夫が、両親が敬愛する人物が
“弱い女”ではないと知っているから。
だから、冷静に孫堅の話の続きを待っている。
「…婚姻の話を姉上が受け、流れは変わった
厳白を夫には迎えるが、主導権は孫家に有るという旨を姉上が提示し、厳白が飲んだのも大きい…
俺達からすれば姉上を犠牲にした統治になど、何の価値も見出だせはしなかったが…民は違う
民にとっては、戦など無いに越した事は無い
何故なら、戦の犠牲の殆んどは民なのだからな…
その現実を目の当たりにした時、俺達は己の無力さ考えの甘さに腹が立って仕方が無かったっ…
姉上が如何に“統治者として”覚悟されていたか、側に居ながら何も見えてはいなかった…
何も理解出来てはいなかったのだからな…」
今も尚、自分を責める様に言う孫堅。
無意識に強く握り締められた拳を包み込む様にして黄蓋が優しく手を重ねていた。
「如何に弟と言えども、それは御主一人だけの責任ではない、儂等孫家に連なる皆で共に背負うべき、背負わねばならぬ責任じゃ」とでも言う様に。
二人は視線を交え、静かに頷き有った。
そんな夫婦の惚気を見せられる。
独り身の若者には憧憬よりも先に嫉妬や鬱陶しさを懐く状況だと言えるだろう。
事実上の夫婦である卞晧と曹操は平気だ。
昨日から、ちょっと意識し始めた曹仁と甘寧は少々感じ入る所が有ったのか、遠くに思考が旅をする。
──で、韓浩と曹洪は「オラァッ!、酒だ酒っ!、酒持って来いっ!」「飲まずに遣ってられるか!」という自棄酒をしそうな、ささくれだった気配で、二人から視線を外して胸中で毒吐いていたりする。
だからと言って、直ぐに直ぐ、そういう夫婦に成る事なんて出来はしない。
積み重ね、結い合わせ、繋ぎ紡いだ時間が、想いが二人を強く、深く、高めて行くのだから。
それは兎も角として、孫堅にしても見るからに若い曹操達の前で惚気る趣味は無い。
誤魔化す様に咳払いをして、切り替える。
耳が赤い事に気付いても指摘してはならない。
人並みに空気が読めるのであれば。
尚、曹操からしてみれば、孫堅程度は可愛いもの。
己が父親の惚気振りを幼い頃から知っているが故に免疫力は鍛え上げられていたりする。
…まあ、諦念を超え、達観しているとも言えるが。
それは“言わぬが花”であろう。
「…姉上の意思を理解し、受け入れて準備を進めた
姉上の意向も有り、厳白の居城にて婚礼式を行い、それから孫家の居城に向かって我々が迎える
そういう段取りになっていた
姉上が厳白の元に向かい──二日後、姉上の侍女を務めていた者から俺は文を渡された
それは姉上の遺言であり、指示だった
俺達は急ぎ歓迎の為の部隊を率いて城を出た
休まず昼夜を駆け、厳白の居城が見えた
雨が降る闇夜の中で、辺りを照らす様に燦爛と燃え盛る厳白の居城が、だ
俺達は一瞬、意味が解らなかった
だが、俺は姉上の遺言を思い出し駆け出そうとした
それは皆に止められてしまったが…
その時、俺は姉上の本当の覚悟を知った
姉上は…たった一人で敵地へと乗り込み、厳白達を壊滅させる事を選ばれた
厳白との婚姻話を受けたのも…いや、そうなる様に意図的に厳白に話が伝わる様に漏らした事も…
全ては、姉上一人の犠牲で孫家の民を、その未来を守る為に考えて実行された姉上の捨て身の策…
その事を、俺達は、あの日、あの場所に居た皆が、決して忘れぬ様に魂魄へと刻み込んでいる」
そう言って、孫堅は卞晧を真っ直ぐに見詰める。
その目尻には小さく輝く光が滲んでいる。
その眼差しだけで、言いたい事は理解出来る。
「生きて、愛する人と子を成していた、それだけで俺達は救われる思いだ」と。
「…母さんは俺に昔の事は話しませんでした
だから、母さんの出自や経歴は判りません
ただ、母さんの教えは今も生きていますし…」
卞晧は孫堅達に応える様に言葉を紡ぎ、隣の曹操に顔を向けてから見詰めて頷き合い、揃って孫堅達に向き直って飾らない微笑みを浮かべる。
「母さんが紡ぎ、繋いでくれた縁が有ります
俺にとっては何よりも大切であり、掛け替え無く、俺達も未来へと紡ぎ繋いで行くべきものです」
「…ああ、そうだな……本当に、その通りだ…」
瞑目した孫堅達の頬を厳冬の雪解け水が濡らす。
だが、それは笑顔が咲く春を迎えた証。
山河に響く祝音の訪れに心は陽光に包まれる。
部屋を後にし、孫堅に案内される形で一行は城内を移動しているのだが…外に向かってはいない。
その事に対する警戒心は無いが、油断はしない。
何故なら、卞晧は孫家の直系で、ある意味で嫡子。
姓が違い、外の生まれでも、孫家としては無視する事は出来無い存在なのだから。
害意は無くとも、何もしないとは限らない。
「はははっ、そうかそうか、実に姉上らしいな」
その一方で卞晧は孫堅と叔父・甥の関係で談笑。
それを見て「いい気なもんだな…」なんて捻くれた事を考える様な輩は此処には居ない。
何しろ、十五年という時を経て繋がった家族だ。
それを貶す様な不粋は真似は遣る筈がなかった。
また、曹操や韓寧にすれば敬愛する義母や大恩人の色々な話を聞けるし、昔の卞晧の事も解る。
そんな機会を余計な口を挟んで潰しはしない。
聞きに、空気に徹して耳を、意識を傾けるだけ。
そんな感じで孫堅に案内された先は──鍛練場。
人は──将兵の姿は全く見当たらない。
恐らくは意図的に人払いしてあるのだろう。
そう考えると、最初から準備していた事になる。
「やはり、身内と言っても州牧ね」と曹操は思う。
何しろ、自分達に武器の所持を認めていたのだ。
そういった事から、孫堅の意図が見えてくる。
「丁度良い塩梅じゃったな」
鍛練場を見回し、苦笑していた曹操達。
其処に孫堅に剣を投げ渡す武装して姿を現した黄蓋──と、女性一人に幼女が二人。
女性達は武装はしていない為、見学者だろう。
幼女達は兎も角、女性は見るからに文官側だ。
「其方等は御二人の娘さんですか?」
「うむ、儂等の長子長女じゃ、ほれ、挨拶せぬか」
「…初めまして、私は孫堅の娘、孫策です」
「初めまして、私は卞晧と言います、宜しくね
見た感じですと、大体三歳位ですか?」
「ああ、来月の誕生日でな
その様子だと、やはり使えるのだな?」
孫策と名乗った幼女は孫堅・卞晧と同じ瞳の色。
つまり、孫家の直系である証の蒼瞳だった。
それだけで孫堅の子供という事は理解出来た。
ただ、黄蓋との子供か、他の女性との子供なのか、それだけでは判断するのが難しい所なのだが。
黄蓋が口にしてくれた事で卞晧にしても助かった。
孫策に挨拶した流れで卞晧が歳を確認すると孫堅は卞晧が氣を扱える事を抜け目無く察した。
既に孫静が自身の母親であると露見している卞晧は苦笑を浮かべて言外の肯定とした。
出来れば、明言は避けたいからだ。
また曹操は孫堅に曹嵩と同じ匂いを感じた。
「世の父親というのは娘に甘いのね…」と嘆息。
卞晧や曹仁達も「あー…」という感じである。
「此方は陸遜と娘の周瑜じゃ」
「初めまして~、周子魚の妻で陸伯言と申します~
宅の旦那様と朋炎様は御親友でして~、祭様と私は幼馴染みなんですよ~
策様と瑜ちゃんも私達と一緒ですね~」
陸遜という名に曹操達は胸中で驚いた。
孫堅の軍師であり、半身と呼ばれる名門周家の当主である周異の妻で、呉県の名家から嫁いだ才媛
彼女自身も孫堅に軍師として仕えている身。
そんな大人物が…こんなにも“ほわほわ”だとは。
曹操達でさえ、流石に予想してはいなかった。
寧ろ、もっと鋭い印象を勝手に持っていた位だ。
ただ、そんな母親の手を握り、孫策と一緒に陸遜の後ろに隠れている娘の周瑜の視線は興味深い。
孫策の警戒しながらも好奇心が勝る感じの眼差しと違って、明らかに曹操達を値踏みする様な視線。
曹操と卞晧は自分達と似た印象を幼女達に懐く。
「穏、孝鳴の奴は来れなかったのか?」
「済みません、朋炎様~…
「“誰かさん”が急に仕事を放り出したりするから俺は行けぬ!」、だそうです~」
「ぅぐっ……」
チクリと笑顔で一刺しする陸遜と、唸る孫堅。
その様子から、四人が非常に親い、家族・兄弟姉妹同然の深い関係なのだと察する事が出来る。
まあ、何だかんだで長所・短所を理解し合った上で互いに補い合い、支え合っているのだろう。
「ゴホンッ…あー、察しが付いているとは思うが、俺達と手合わせして貰いたい」
「それは構いませんが…何方等からでしょうか?
或いは、二対一でも私の方は構いませんけど」
「いや、そうではない
まあ、確かに御主と戦い気持ちは有るが…
儂が今、戦いたいのは──御主じゃよ」
「…私を御指名と有れば、御受け致しましょう」
黄蓋が視線を向けたのは卞晧ではなく、曹操。
その曹操は少しだけ意外そうに目を大きくしたが、直ぐに挑発する様に不敵な笑みを浮かべる。
当の二人の間に火花が散っているのを幻視したのは一人二人ではなかっただろう。
そんな妻達の様子に夫達は“放置”で締結する。
“女の戦い”に男が口を挟んだり、首を突っ込んでどうにかなるという訳ではないのだから。
触れない事が、ある意味では最善手の一つだろう。
妻達から離れ、夫達は対峙し、陸遜が合図を出す。
様子見で、けれども手抜きはしていない一撃。
一歩で、一瞬で、鍔迫り合いの形になった卞晧達。
「俺の初撃を受けるとは…流石だな」「いえいえ、自分なんて、まだまだ未熟ですよ」と睨み合いつつ視線で会話する卞晧達。
そんな二人から離れた場所では激しい剣戟が響く。
静かな立ち上がりの夫達に対して、妻達は最初から様子見などするつもりはなく、潰しに掛かる。
まあ、殺る気なのは主に曹操の方だったりするが。
その理由は……人各々に色々有る、という事だ。
黄蓋の方は大人としての余裕も有るが、その余裕が曹操からすれば“鼻に付く”訳で。
見下してはいないが、気に入らないのが本音だ。
……主に視界の中で存在を主張する物体が。
そういう意味では陸遜は文官で助かっただろう。
彼女も孫静を慕い、憧れていた少女の一人だ。
その遺児である卞晧に興味が無い訳が無い。
ただ、武人ではないので、手合わせはしないだけ。
「話をしたいか?」と訊かれれば否は無い。
そんな妻達の戦い振りに夫達は静かに苦笑。
「やれやれ…まあ、それなら、此方等も遣るか?」「はい、御受けします」と伝え合い、飛び退く。
其処からは一気に動きが加速する。
そんな四人の戦いに、幼い二対の双眸は見入る。
年齢・体格・経験、何れもが孫堅達が有利な筈が、卞晧達は付いて行く所か、互角に戦っており、局面局面に於いては押しているのだ。
その光景は不思議であり、魅力的過ぎた。
「凄い凄いっ!、ほら、瑜!、見てよ、ほら!
あの母様と互角以上よっ!」
「さ、策ちゃんっ、ゆ、揺らさないでっ…」
孫策は視線は戦いに向けならも片手で周瑜を掴んで興奮するままに思いっ切り揺らしていた。
周瑜は揺らされ、抗議しながらも意識は孫策同様に戦いに向けられていた。
幼い二人にとっては、まだまだ世界は狭い。
しかし、それでも類い稀な才器を持って生まれたが故に本能的に惹き付けられる“高み”が在る。
そんな戦いは曹操が黄蓋の蹴撃を受けて飛んだ事で卞晧達の方に混ざる事になり、その流れで途中から乱戦混じり、対戦相手の交換、二対二の局面と。
凡そ一刻程続けられたのだった。
ただ、少々一波乱…と言うか、一悶着有った。
手合わせが終わった後、卞晧に近寄って来た孫策が「貴男の御嫁さんになってあげるわ!」と宣った。
卞晧と黄蓋は“子供の言う事”と笑っていたのだが孫堅と曹操は笑って流す事が出来無かった。
それにより、昼食が遅れたのは余談である。
三歳の孫策に敵意を向ける曹操は可愛らしかった。
そう密かに思う卞晧だが、本人以外には言わない。
そして、その一悶着に付いては他言無用である。
曹操が本気で口封じを遣るだろうから。
そんなこんなで昼食──周異を加え会食をした後、曹操達は予定よりは遅いが建業を出発する。
「もう一日遅らしたら、どうだ?」と孫堅としては言いたいが、愛娘が遣らかした為、仕方が無い。
妻である黄蓋からも「若くとも夫婦としては二人の絆は本物じゃからのぅ、余計な刺激は禁物じゃ」と言われている為、引き止めはしない。
「色々と御世話に為りました」
「俺達は家族で、此処は実家も同然だ
だから、何時でも…訪ねて来てくれ」
「有難う御座います」
代表して卞晧が孫堅と挨拶し、握手を交わす。
孫堅は「戻って来てくれて構わないからな」という言葉を飲み込み、「遊びに来い」という旨の方向に変えて卞晧に伝えた。
勿論、本当は言いたかったのだが。
それは卞晧も望む言葉ではないだろう。
別に嫌な訳でも、迷惑な訳でもない。
ただ、卞晧には既に“帰る場所”、生きていく所が定まっているのだから、それは不粋というもの。
それに孫堅も同じ男として理解している。
何より、如何に姉の遺児、孫家の直系だとは言え、卞晧は公的には部外者なのだ。
それなのに、卞晧に孫家を、孫呉を背負わせるのは御門違いというものだろう。
だから、それ以上の事を孫堅は言わなかった。
黄蓋達と挨拶を交わす卞晧を見詰める孫堅の肩を、親友である周異は叩き、無言のまま頷いて見せる。
「それで良いんだ、歩む道が違うのだから」とでも言う様に、或いは励ます様に。
そんな親友の気遣いに孫堅も笑顔で頷き返した。
和やかな別れの挨拶だった。
──が、最後の最後に再び孫策が遣らかした。
まあ、今回は曹操も“大人の余裕”で流した。
…孫策に見せ付ける様に卞晧の腕を取っていたのは態々指摘するべき事ではないのだろう。
「………行ってしまったのぅ…」
「ああ、次に会えるのは何時になる事か…」
孫堅と黄蓋は二人で卞晧達の姿を見送る。
気を利かせ周異達は娘を連れて城内に先に戻った。
「余計な御世話だ」とは孫堅達は言わない。
二人にとって卞晧は──孫静の存在は特別。
だから、こうして気持ちの整理の時間が必要だ。
それを察したが故の周異の配慮なのだから。
そんな孫堅は小さくなってゆく卞晧達を見ながら、静かに得心していたりする。
卞晧と話してみて、何と無く解った気がした。
姉・孫静が死亡に見せ掛けて姿を消した理由が。
まあ、あまりにも孫家の中心に成り過ぎて疲れた・息苦しい・何か面倒臭い事ばっかりで嫌だ、等々。
個人的な理由は多々思い付くのだが。
是非は兎も角として、孫家から離れたかったという気持ちは少なからず有ったのだろうと思った。
要は、姉にとって孫家という大地は狭かったのだ。
だから、より自由に、より高く羽撃く事が出来る、限り無い大空へと飛び出したのだろう。
だが、それと同時に、自分達の為でも有ったのだと今なら理解する事が出来る気がした。
姉が孫家に、孫家所縁の地に居る限り姉の影響力は決して無くなりはしなかっただろう、と。
それは孫堅達の懐く敬意や親愛と密接に繋がり。
だからこそ、孫静は弟達や民の為に自らを殺した。
孫家が──否、“孫呉”が、更なる繁栄を目指して歩み出す為には自分という存在が枷だったから。
自分が消える事で甘えが無くなり、より強く臣民が力を合わせて主君を支え、進んで行ける様に。
孫静は自分という孫呉の枷を破壊したのだ。
「……全く…貴女の背中は遠いままですよ、姉上…
…ですが、俺は一人では有りません
だから、祭と、皆と、未来へと向かって歩みます
ですから、どうか……」
その先を孫堅は口にはせずに飲み込んだ。
「見守っていて下さい」と言いたい。
そうして、思わず縋ってしまいそうになる。
それが悪い事だとは孫堅とて思いはしない。
ただ、もしも姉が聞いていたなら、何と言うか。
「あのね~…私は孫家を出た身なのよ?、だから、見守るとしたら、可愛い一人息子と義娘よ」なんて呆れながら言いそうな気がした。
その為、つい苦笑が浮かぶ。
それは黄蓋にしても同じだったらしく。
視線を重ねると「何じゃ、御主もか…」と言う様に可笑しそうに破顔した。
思い出は悲しい事ばかりではない。
楽しい事ばかりでもない。
過去は消せないし、変える事も出来無い。
しかし、その全てが現在へと繋がる。
大切なのは現在を生きる事だから。