五話 旅情志生
暫しの別れ──とは言え、時を惜しむ様に劉懿との時間を曹操と卞晧は過ごして、一ヶ月が経過。
三日前に、家族から祝われて誕生日を迎えた二人は十二歳となり、改めて愛を誓い合った。
そして今日、沛から二人は三人の同行者を伴って、道なる大地へと踏み出す事となる。
「いいかい?、変な物は口にしては駄目だよ?
それから優しく親切な人物には気を付ける事!
人は見掛け通りとは限らないからね
どんな人物でも迂闊に信じない事、いいね?
あと、もしも旅の途中で路銀に困ったら──」
「──貴男、少し落ち着きましょうか?」
「──いや、でも……ぁ、はぃ、ソウデスネ…」
曹操の両肩を掴んで半泣きの表情で旅の注意事項を並べ立てていた曹嵩だが、劉懿の一言と笑顔を前に顔を青くして大人しく曹操から離れた。
「全くもぅ…困った人だわ…」等と溜め息混じりに愚痴が聞こえてきそうな感じで苦笑する劉懿。
ただ、呆れはしても気持ちは理解出来る。
やはり、親としては心配してしまうのだから。
だから、曹嵩の反応は当然だと思う。
「…華琳、一年だけとは言っても状況は違うわ
身体にだけは気を付けてね?」
「はい、御母様、行って参ります」
「玲生、貴男も自分の事を大切にね?
華琳を独り身にしたりしたら赦しませんからね?」
「…はい、義母上、皆で無事に帰って来ます」
劉懿は曹操、卞晧と声を掛けて、抱き締める。
そして、他の三人と共に旅立って行く二人の背中を曹嵩と肩を寄せ合って見送る。
その状況が、その光景が“巣立ち”を思わせて。
親として、胸を締め付けられてしまう。
「……ねえ、准也、本当なら喜ぶべき事なのに…
どうしてなのかしらね…こんなにも苦しいのは…」
「……ああ、そうだね、芹華…判るよ…
……華琳も、玲生も…普通の人生は歩めない…
それは意識的な意味じゃない…
あの子達の才器が、その意志が、導いて行く…」
「…ええ…判っています、それが二人の運命だと…
それでも、親としては願わずには居られないわ…
あの子達の幸せを、その未来が平穏である事を…」
そう言いながら、堪えていた涙が劉懿の頬を伝う。
生まれた瞬間から二人は特別な存在だと言えた。
それは曹操だけでも自分達の血筋からして特別。
後漢王朝の歴史に名を刻む大宦官の直系の曾孫で、第十二代皇帝の実姉を母親に持つという存在。
男子であったなら、政争に巻き込まれていただろう間違い無しの宿命を背負って生まれた曹家の姫君。
そんな曹操と運命を共にするのが卞晧。
その血筋や両親に関しては謎が多い。
劉懿達にとって母親の田静は特別なのだが。
彼女の過去や出自に関しては何も知らない。
劉懿達も、曹操も、卞晧でさえ気にしていないが。
そういう事を探りたがる輩というのは必ず居る。
「……あの子達の未来に手出しはさせません」
「ああ、勿論だ、親として必ず守ってみせる」
この一年という時間は、ある意味では好都合だ。
曹嵩達は──否、曹家は総力を上げて、二人の為に邪魔な存在は“潰す”事を決意している。
元々、豫州は実質的に曹家の統治下に有り、州内に敵対勢力や不穏分子は殆んど存在していない。
しかし、洛陽や周辺の他州に関しては話が違う。
常に隙を、弱味を探り、窺い、狙っている輩が居るという状況だからこそ、此処で掃除する。
そうする事で先々の牽制を行うという訳だ。
だが、それは二人と曹家の為だけではない。
時代は乱世の兆しが濃厚になってきている。
既に燻っている火種の全てを探し出す事は至難。
何故なら、あまりにも多過ぎるのだから。
その火種を燃え上がらせる“風”が吹いたなら。
その焔は災禍となって国を、民を焼く事だろう。
そうなれば、あの二人は黙ってはいない。
国ではなく、民の為に、必ずや動く事だろう。
二人が存分に“舞う”事が出来る様に。
大人達は舞台を整える事を決めた。
沛を発った一行は江水を目指して南下して行く。
卞晧と曹操は一年で一通り回る事にしている予定。
その為、真っ先に目指し場所としたのが交州。
陸路にしろ、海路にしろ、揚州からしか行けない為だったりするが、陸路に関して言えば二人だけなら不可能とされる山越えの陸路でも問題無いのだが。
他の三人が居るから“一筆書”では回れない。
だから、揚州は最初は入り通過するだけで、交州に行って戻って来てからが本番という事。
特に問題も無く、四日後には揚州に入った。
──とは言え、卞晧以外は、こういう旅の経験自体無かったりするので色々と戸惑う事も有る。
一応、事前に“実施研修”という事で三日間、山で野宿や狩猟・山菜採取等を卞晧に指導された。
その時の感覚から言えば「これなら大丈夫かな…」という風に思えてしまうのは仕方が無い。
何故なら、その時の山は曹家の領内の里山であり、きっちりと管理・手入れがされている場所。
だから、色々と素人でも容易だったりする。
「…………貴男達、一体何をしていたのかしら?
二人共、ずぶ濡れじゃないの…」
「いや~、魚を捕ろうと川に入ったんだけどさ…
思った以上に川底の石が滑ってて足を滑らせて…」
「……溺れてると思って助けに入ったら、同じ様に足を滑らせてしまった訳で…
それで、こうなりました…」
「……はぁ~…兎に角、早く脱いで着替えなさい
脱いだ後、ちゃんと洗濯しておく事
川の苔が服に付いたまま乾くと臭うわよ」
呆れた様に曹操は、頭から足の先まで濡れて戻って韓浩・曹洪に冷ややかな視線を向けて理由を訊き、溜め息を吐いてから指示を出して仕事に戻る。
曹操が担当している料理を再開する。
そんな曹操を見ながら韓浩と曹洪は顔を見合わせ、「……え?、此処で着替えるの?」と思った。
だが、それも無理も無い話だったりする。
豫州内の移動は馬車を、宿泊と食事は宿と料理店を使っており、代金は曹家持ちという状態だった。
その為、本格的な野宿は──実は今日が初めて。
勿論、この二人は「僕は寝台で布団の中じゃないと眠れないんだよ!」みたいな事は言わない。
そんな事は全く問題無く、眠れる自信が有る。
しかし、唯一気にする事が有る。
いや、気にしなくてはならないのが当然の事が。
それは、一人しか居ないとは言え、二人からすれば主君である曹操の前での生着替え。
周囲に身を隠せそうな岩や木々は存在しない。
それなりに歩いて行けば山や森は有るのだが。
それは流石に風邪を引きそうだった。
「……?、何をしているのよ?
そのままで突っ立ってると風邪を引くわよ?」
「…いや、それはそうだけど……此処でか?」
「…?、何が?」
「だから、その……此処で、着替えるのか?」
「……ああ、そういう事ね
安心しなさい、男の裸位で一々キャーキャー喚いて騒いだりはしないから
そんな事を気にしていたら一緒に旅は出来無いわ
それに私の事を気にするなら御互いを衝立代わりに使えば済む話でしょう?
だから、さっさと着替えを済ませなさい」
「あ、はい、そうします…」
動かない二人を気にした曹操に韓浩が答えた。
曹操は本当に気にする様子も無く、そう二人に言い再び料理へと戻った。
当然だが、曹操は卞晧と一緒に寝起きし、御風呂も一緒に入っていたりする。
自分が肌を晒すなら気にするのは当然だが。
男の裸に騒ぐ程、曹操は初ではない。
……いや、それは間違いかもしれないな。
相手が卞晧なら、ドキドキしたり、チラ見したり、妄想を膨らませたりするのだろうが。
曹操にとっては男は卞晧唯一人だけ。
他は等しく男性であり、それは生物学上の分類的な意味合いでの認識でしかない。
つまり、本人の言葉通り、全く気にしていない。
その事実を突き付けられ、顔を見合わせる二人。
だが、よくよく考えてみれば当然だと言えた。
もし、自分達が曹操に対して裸を見せ付けるという真似を遣ろうとしているのなら絶対に駄目だが。
ただ着替えるだけなのだから気にし過ぎだ。
それに曹操の視界に入らない様に配慮するのなら、御互いに姿を隠す為の衝立代わりをすればいい。
それだけの話だったりするのだから。
そう、冷静になれば簡単に思い付く事だ。
しかし、不慣れな状況が二人に知らず知らず緊張を強いていた為、冷静さを欠いていた。
つまりは、それだけの話だった。
「ただいま~──って、二人共、どうしたの?」
「……遊んでいたのか?」
「ちちっ、違うって隼斗兄っ!
川で転んだだけだからっ!、なっ?!」
「ああ…ずぶ濡れになるし、魚は捕れねぇし…
本当、何しに行ったのか判んねぇよなぁ…」
「水汲みじゃない?」
「おおっ、それだけは完璧に熟したぞ!、なあ?」
「いや、胸張る事じゃないでしょ、それは…」
着替えようとしていた所に卞晧と曹仁が戻る。
二人の手には獲物である山菜と山鳥が有った。
曹仁の怒気を含む睨みを受けた曹洪は慌てて弁明し韓浩に対して同意を求めた。
韓浩は慌てる様子も無く同意し、愚痴る。
それを卞晧が笑い話に変えてくれた事で場の空気が変わり、曹仁の怒気も消え去った。
曹洪は胸中で、卞晧を拝む様に感謝をした。
二人が持って戻った獲物を曹操と卞晧が料理する。
主格である二人が料理をするというのは普通ならば有り得無い事だし、可笑しな事だと言える。
だが、そうなってしまうのは当然だった。
韓浩・曹洪に料理経験は勿論、技能は無い。
捌く・切る、焼く・煮るだけなら出来そうだが。
大して期待は出来無い。
曹仁も料理経験は無く、妙に真面目過ぎて向かないという判断を曹操達が下している。
そういった事情から経験も技能も確かな二人が作るというのが一番妥当な事だと言えた。
食事は生活の基本であり、体調を左右する事。
立場を優先した結果、食中りで死にたくはない。
それが曹操達の本音であり、三人も同意した。
そういう訳なので、この状況は納得済みの事だ。
着替えと洗濯を済ませ、焚き火の側で干しながら、二人の様子を静かに眺める。
韓浩が馴染んでいるのは同行する話が決まってから卞晧達が沛に戻るのと一緒に移っていた為。
曹仁・曹洪とも早くに顔合わせを済ませている。
因みに、例の噂話は曹嵩へと報告された。
「へぇ~…面白い噂が流れているものだね」と笑う曹嵩が何を遣ったのかは、知る必要の無い事だ。
「……そう言えば、二人は婚約者とか居るの?」
「いやいや、居る訳無いでしょ
曹家一族って言っても切れ端みたいなものだし」
「曹家は縁談を受ける事は有るが、決めるか否かは当事者同士に委ねられる傾向が強い
だから私達も自分で探す事になるだろうな」
「へぇ~…そうなのか、ちょっと意外だな」
「基本的に政略結婚を嫌う家風だからね~
そう言う“康栄”はどうなの?
洛陽に好きな娘とか居るんじゃない?」
「あー…残念ながら居ないんだよなぁ…
居たら、あの筆記試験に参加したりしてないって」
「あー……まぁ、そうだよね~…」
「そう言う意味だと、隼斗さんや翔馬は曹操の事、どう思ってたんだ?
従妹だから結婚相手としては有り得るだろ?」
「寧ろ、従妹だから無いんだよね~…
小さい頃から、それなりに交流が有って知ってる分自分じゃ支え切れないって解ってたからね…
異性としてよりも主従関係の方が先に来るからね」
「あー……言われてみるとそうかもなぁ…
──で、隼斗さんは?」
「……異性として見た事は無い
ただ、徳尚様が病床に伏されてからは見ているしか出来無い事を、もどかしくは思っていたがな…」
そう言って曹仁が料理中の二人に視線を向ける。
楽しそうに談笑を交えながら料理している姿。
それを見ているだけで自然と口元が緩んでくる。
何気無い、有り触れた光景なのかもしれない。
しかし、少女にとっては間違い無く特別だ。
それを理解しているからこそ、感慨深く思う。
同時に二人の未来を支え、護る事を誓う。
それが引いては、曹家の、民の、国の為に成る。
曹仁達は言葉を交わさずとも意志を重ねる。
一夜が明け、初めての野宿の感想を各々が述べた。
「意外と平気だったな」「思ってたよりは眠れた」というのが韓浩と曹洪の感想。
何気に逞しく、順応力の高さを垣間見せた。
「まあ、こんな感じでしょうね」と言った曹操。
卞晧の腕の中で眠る曹操は快適では有ったのだが、知るが故に物足りなくなってしまう。
そればかりは状況的にも仕方が無い事だと言えた。
一番意外だったのは本人も含めて、曹仁だった。
「…まさか、貴男が眠れないだなんてね…」
「隼斗兄なら平気かと思ってたのに…」
「隼斗さん、真面目だから小さな変化に敏感過ぎて慣れない内は気になる質なんだね
危ないけど、暫くは耳栓使った方が良いかもね」
「こういう時、真面目なのも大変だよな~」
曹操達から色々言われているのは寝不足の曹仁。
事前の野宿では平気だったのだが、やはり里山とは環境が違うが故に警戒心が高まったのだろう。
些細な音に意識が向いてしまい、眠れなかった。
まあ、一晩位なら平気ではあるのだが。
それでも初めてとなる旅路は未知数。
出来る限り、体調は整えて進むべきなのは確かだ。
「今夜は宿を取った方が良いかもね」
「…そうね、慣れるまで野宿をしながら進むよりは最初は宿を挟みながらの方が心身の負担も少なくて済みそうだし、そうしましょうか」
「……済みません、私の所為で…」
「気にしなくていいですよ、隼斗さん
隼斗さんが同行してくれているから俺達も旅に出る事が出来てるんだから」
「そういう事よ、仁兄さん
誰にだって得手不得手は有るし、最初は苦労をする事は珍しい事ではないもの
焦らず、しっかりと慣れて行けば良いのよ」
二人からの温かい言葉が心に沁みる曹仁。
自分の不甲斐無さに憤りを感じていた心が軽くなり申し訳無さで沈んでいた気持ちが晴れる。
そして、曹仁は静かに噛み締めていた。
卞晧の存在で曹操は明らかに変わった。
良い意味で肩の力が抜け、視野が広がっている。
主君・当主という立場での資質は抜群に有ったが、他者への気遣いという部分は不足勝ちだった。
それが、身内とは言え、こうして気遣えている。
それは弱者に寄り添える様に為った事の証。
間違い無く、曹操は一つ上の高みに昇っている。
その成長の要因である卞晧は元々、其方等の資質は十分に有り、曹操の背負う物を理解し、共に背負う事によって主君としての資質を開花させ始める。
二人の将来を想像するだけで曹仁は身震いする。
そんな二人からの気遣いである。
効かない訳が無かった。
その日一日を気合いで乗り越えた曹仁。
宿では曹操と卞晧、曹仁達三人とで部屋が分かれた事は言うまでも無く、曹操的には狙い通りだった。
そう、恋する乙女というのは強かなものである。
それは、揚州に入ってから五日目の事。
三度目の野宿の準備を終えてから、始まった。
地面に片膝を付き、得物である槍を杖の様にして、息を乱しながらも真っ直ぐに見据えている曹仁。
その右後方では大の字で突っ伏している曹洪。
曹仁の左隣では戦意を失わずに睨み付けながらも、両足が震えて立つ事さえ儘ならない状態の韓浩。
そんな三人が対峙しているのは──卞晧だった。
「──はいっ、其処までっ!」
「──っだああぁあっ!!、終わったあぁぁ~~…」
「……はぁっ……はぁ……ふぅっ……ふぅ……」
「………………っかあっ!?、ぅっ……あ、あれ?」
「翔馬さん、終わったよ」
「………え?、お、終わったの?
……そうか…終わったんだ………良かったぁ……」
“砂時計”の砂が落ち切ったのを見て、曹操からの終了の合図が掛かり、韓浩は持っていた剣を落とし尻餅を付く様にして座りこんで、仰向けに倒れた。
曹仁も槍を握ったまま地面に座り込み、乱れた息を整える様に大きく、ゆっくりと呼吸する。
曹洪は……終了前から気を失っていたので変わらず地面に突っ伏したままだった。
流石に死んでしまっては困るので、卞晧が近寄って引っ繰り返し、起こした。
困惑していた曹洪に卞晧が終了を告げると、最初は半信半疑だったが、曹仁達の様子を見て理解。
今にも泣き出しそうな程に、心底安堵していた。
そう、これは曹仁・曹洪は知っていた道中の鍛練。
これまでは旅を始めたばかりだったので控えていた卞晧達だが、一週間を越えたので開始した。
二人からすれば、それだけの話なのだが。
受ける三人にしてみれば、地獄の沙汰だった。
「玲生っ、お前には優しさは無ぇのかよっ?!
こんなん遣ってたら死ぬわっ!」
「ん?、何言ってるのさ、康栄
こんなの肩慣らし程度でしかないよ?」
「………………………………………………え゛?」
気心の知れた関係という事も有り、韓浩が代表して卞晧に抗議の声を上げた。
その姿には曹洪は当然として、曹仁でさえ胸中では声援を送っていたりしたのだが。
卞晧が聞きたくはない言葉を返した為、韓浩は暫し理解する事を放棄していた。
それは曹洪達も同じだったりする。
だが、そうなるのも当然だろう。
今、死に掛けるに等しい経験が実は本番ではなく、その前段階程度でしなかった。
そんな無慈悲な事実を突き付けられてしまったら、大抵の者は理解を放棄してしまう事だろう。
苛酷な現実より、怠惰な夢想の方が心地好いから。
「玲生、準備出来たわよ、始めましょう」
「ん、了解」
襦袴を穿き体術も使える状態で直剣を構える曹操。
韓浩達との手合わせでは使わなかった直剣を抜き、卞晧は曹操へと向き直った。
刹那、周囲が魅入られたかの様に沈黙する。
風の歌声が、草木の演奏が、鳥達の合唱が。
見詰める三人の耳から、意識から消え去った。
思わず息を飲んだ、その次の瞬間だった。
二人の姿が消えたかと思ったら、切り結んでいた。
あまりにも速過ぎて視認出来無かったと気付くのは二人が激しく撃ち合う様に為ってから。
それは一種の諦念から、理解を放棄した事で思考は冷静さを取り戻し、客観視する事が出来た為。
つまり、自身の主観のままでは理解出来無いまま、混乱してしまっていたのだという事も理解した。
そして、二人が動きを止めた。
曹操の喉元に寸止めされた卞晧の直剣の刃。
対して曹操の直剣の刃は途中で動きを止めていた。
それは時間にすれば一瞬にも満たない程に僅か。
しかし、その僅かな差が生死を分ける。
そんな高みで二人は武を交えているのだと。
目の当たりにした三人は無意識に手を握り締める。
そんな二人が、一年間も、自分達に指導してくれるという奇跡の様な最上級の贅沢である。
武を嗜む身として期待を懐かない訳が無かった。
「──この鬼ぃっ!、玲生の人修羅ぁっ!
巫山戯んなっ!、こんなの死ぬわぁっ!」
「そうだそうだ!、少しは手加減しろーっ!」
──が、現実は甘くは無かった。
卞晧に再挑戦した三人は再び完敗し、涙目になって韓浩と曹洪は卞晧に抗議していた。
産まれたての小鹿の様に手足を震わせながらだが。
ただ、韓浩は兎も角、曹洪の素顔が見えたのは収穫だったと卞晧達は思った。
真面目で実直な曹仁は問題無いし、卞晧とは気心の知れた関係の韓浩も平気だろう。
唯一、他の全員に遠慮していそうなのが曹洪。
主従関係は消えないが、旅の間は仲間である。
信頼関係を築く為にも、変な遠慮は無くしたい。
そう卞晧達は考えていたので、これはこれで曹洪に丁度良い切っ掛けになったと言えるだろう。
加えて同調しているのが韓浩という事も有る。
我に返り、冷静になって再び、曹洪が“線引き”をしようとしても無駄だ。
韓浩の様な性格の者は空気を読まない破壊者だ。
意識的境界線なんて容易く無視する。
だから、曹洪が色々と諦めるのは時間の問題だ。
それはそれとして、曹操は曹仁に声を掛ける。
「仁兄さん、玲生と闘ってみた感想は?」
「…叔父上の話だから盛っていると思っていたが…
正直、これ程だとは思ってはいなかったな
例の無茶な難題を突破しただけの事は有る」
「ふふっ、ええ、そうね」
曹嵩の事は仕方が無い事だとして。
曹操は一族内でも五指に入る実力者である曹仁から御世辞無しの卞晧への評価に自然と笑む。
当然だが誰だって自分の恋人・伴侶を誉められれば悪い気はしないのだから。
そんな曹操の反応に、曹仁も自然と笑う。
一族だけでなく、漢王朝という巨大な政治の渦中に身を置く事を余儀無くされていた従妹。
その重圧や様々な意図が絡まり合って出来上がった蜘蛛の巣に捕まってしまった様な状況に有れば。
普通に笑う事でさえ忘れてしまうのも当然だろう。
しかし、それを理解していても自分達に出来る事は“刺激しない様に距離を間違わない”事だけ。
それだけしか出来る事が無かった。
だから、こうして従妹が笑えている事が嬉しい。
家族として、従兄として、家臣として。
素直に、心から今の二人の関係を喜ぶ事が出来る。
「隼斗さん、ちょっといいですか?」
「ああ、大丈夫だ、何か有ったか?」
「槍を使う時って、右手前ですよね?」
「……まあ、そうだな」
「それ、誰かに教わった時からでしょ?
自分が自然に握ってみて、じゃないですよね?」
「…………そう言われれば、確かにそうだな」
「だったら、旅の間は左手前で遣りましょうか」
「……左手前で、か?」
「最初は違和感も有るとは思いますけどね
隼斗さんて、軸足が右なんですよ
だから左前の構えにした方が今よりも一撃の威力も安定感も確実に向上しますよ」
「……軸足が右、か……考えた事が無かったな…」
「俺や華琳みたいに体術と併用する戦い方を好んで使っていると気になるんですよ」
「…玲生?、気にはなるけど、私は貴男みたいには見抜く事は出来無いわよ?
ただ、仁兄さんの軸足が右なのは確かね」
然り気無く、「玲生が特別なのよ」と言う曹操。
ちょっとした惚気に、曹仁は苦笑を浮かべる。
まあ、仲睦まじいのは良い事なのだが。
しかし、それは兎も角として、二人の指摘を受けて曹仁は静かに考えてみる。
元々は兄達同様に父・曹興から剣を教わっていたが「合わない」と感じて槍を習い始めた。
槍が剣よりも自分に合っていた事も有り、その後は槍術の鍛練を頑張ってきた。
ただ、槍を扱う際の軸足を気にした事は無い。
だから、そういう事に気付く卞晧は凄いと言える。
曹操の言う様に真似は出来無い事だろうが。
そして、それを直して──いや、今までの経験上に上乗せする事で、自分は更に高みに行ける。
そう思うと、不思議と心が躍る様に弾んでくる。
同時に何とも言えない懐かしさを覚える。
(…………ああ、そういう事か…
そう言えば、こんな気持ちは忘れていたな…)
武の鍛練を日課として、愚直に遣って来た。
それが間違いだとも、無駄だったとも思わない。
しかし、“己が武を何の為に”研鑽しているのか。
曹操の為、曹家の為、領民の為──否。
それらも間違いではないが、そうではない。
純粋に、自分は父の背中に憧れていたからだ。
“大切な存在を守れる強い男”に成りたい。
それが始まりであり、自分の武の根幹なのだと。
今、曹仁は静かに思い出していた。
同時に、新たな憧憬の背中が目の前に出来た。
恐らくは、この旅が終わる時、自分は父に追い付き──追い越している事だろう。
それは一つの目標の達成であり、終わり。
父や家族、自分自身も誇れる事なのは確かだろう。
ただ、目標が無くなってしまうという事は怖い。
曹仁の様に真っ直ぐな者程、迷い勝ちだからだ。
だが、曹仁には卞晧達という次の背中が有る。
父の背中も遠かったが、追い付けないと思った事は一度たりとも無かった。
ただ、新しい背中には追い付ける気がしない。
けれど、自然と口元には笑みが浮かんでくる。
「だからこそ、追い駆け甲斐が有る」と。
そして、その背中を預けられ、護れる様に。
この旅で、少しでも高みに踏み込める様に。
二人に教えを請い、励もうと曹仁は心に決めた。
揚州の歴陽へと入った一行は、其処から船に乗る。
交州へは行きは海路、帰りは陸路を予定。
陸路を使う話をした時、反対意見が無かったのは、反対するであろう韓浩・曹洪が知らないから。
それを理解した上で曹操と卞晧は予定を立てた。
まあ、それは今は知る必要の無い事である。
「ぅおーっ!、これが商船かっ!、凄ぇーっ!」
「小舟や渡し舟と全然違うっ!、本物の船だっ!」
初めて見て、乗船する商船に興奮する韓浩と曹洪。
その様子は子供そのものだと言えるだろう。
一般的には十五歳で元服し、一人前と認められる。
そういう意味で言うと、今年十五歳になった曹洪はギリギリで子供だと言えなくもない。
「全く、仕方が無いわね…」と落ち着いている様な態度をしている曹操ですら、視線を彼方此方に向け初めて見る事に興味津々な状態。
だから仕方が無い事だと言えた。
「…………ぅぷっ……ま、また来やがったぜぇ……へへ、だが、こんなんじゃ俺様はぉぼぇぉっ!」
「……揺らさないでぇぇ……そぉっとぉぉ……」
しかし、そんな元気は何処へやら。
初めての船旅の洗礼を早速受け、韓浩と曹洪は顔を青くして船の縁に凭れ掛かる様に座り込む。
そう、所謂“船酔い”をしている訳だ。
だから、其処に居れば直ぐに吐き出しても大丈夫。
船室に入って居ようものなら、間に合わない。
ある意味合理的だが、揺れはキツい場所でもある。
まあ、船の床を汚す事にもならないし、外に居れば風に当たれる分、少しは気分が紛れるから違う。
「………ねぇ、玲生?、貴男も初めてなのよね?」
「うん、渡し舟とかだったら兎も角、本格的な船に乗るのは今回が初めてだよ」
「……じゃあ、何で平気なのよ?
…何かしらの対策方法でも有る訳?」
「あー……残念だけど、これは体質かな…
慣れないと馬に乗っても酔うみたいに、馬や船でも初めてで酔わない人も居るんだよ
どうしてかは諸説有るけど…立証は出来無いかな」
「……むぅ……貴男だけ狡いわよぉ……」
韓浩達程ではないにしても曹操も船酔いを経験し、卞晧の前で吐きたくはないから気合いで耐える。
卞晧としては「無理しないで」と言いたいのだが。
其処は女心ならではの譲れない美意識の領域。
男が下手な親切心や気遣いで優しくしようものなら逆ギレされてしまう“触るな危険!”の一つ。
それが判っているから卞晧は曹操を抱き締めながら優しく背中を擦るだけで余計な事は口にしない。
尚、一時凌ぎならば氣による治療は可能である。
しかし、本当に一時凌ぎであり、再び船酔いをする事は避けられないので、此処は苦しくても辛くても恥ずかしくても耐えて、慣れて貰うのが一番。
曹操も理解はしているので、今の単なる愚直。
身体を預け、卞晧の胸元に顔を寄せ、愛する伴侶の鼓動と温もりと匂いを支えに耐え抜く。
妻として、女としての意地から、絶対に屈しない。
そう心に強く、強く、曹操は決意を刻む。
残る曹仁は瞑想をするかの様に目蓋を閉じ、静かに動きもせず、無言を貫いていた。
そんな姿を見れば韓浩達は動くというもの。
自らが瀕死にも関わらず仲間を増殖させようと動く屍人の様に曹仁へと這い寄って行く。
その様子を卞晧は苦笑、曹操は冷ややかな眼差しで見詰めているが、止めない時点で共犯も同然。
何だかんだで、最年長の曹仁に悪戯をしてみたい。
そんな欲求も、ある意味子供らしいと言える。
尤も、遣られる側は堪ったものではないのだが。
「……はァ~…やァ~…とォ~……」
「……にィ~…さァ~…んン~……」
態とらしく、下から這い上る様な声を出しながら、無謀な挑戦者二人は曹仁へと手を伸ばした。
曹仁が船酔いをしていたとしても、曹操程度ならば返り討ちに合ってしまうのだが。
幾度もの嘔吐による疲労により思考力が鈍っており危険性に対する危機感が著しく低下していた。
決して、「まあ、普段から詰めが甘いけどね」等と空気を読まない発言は思っても言ってはならない。
その位は卞晧も理解している為、曹操を抱き抱え、三人から静かに距離を取った。
「────ぅぶォべラげぅへァまェじぇぼァッ!!」
「「──ぅんぎゃああぁああぁあぁぁっっ!!??」」
そして、二人が揶揄う様に顔を近付けた瞬間。
見栄を切る様に目蓋を開いた曹仁が奇声を上げて、二人に向かって酸味の漂う吐瀉物を噴射した。
自業自得だが、それを正面に浴びた二人は汚れた事ではなく、胃酸混じりの汁が目に入った事により、船の床を転げ回った末に頭を打付けて止まった。
当の曹仁は曹仁で限界を越えたのだろう。
力尽きて気絶したかの様に項垂れていた。
「……何かしら、これは……悪夢の様だわ……」
そう言ってから漂ってきた酸味の有る臭いを嫌って右手の指で鼻を摘まみながら溜め息混じりに冷めた視線を三人へと向ける曹操。
だが、一歩間違えば自分も“あんな風に”なる。
その可能性に船旅を軽く見ていた意識を正した。
その後、曹操に断ってから卞晧は三人の後始末へと一人で取り掛かり、片付け終える。
はっきりと言って、一番の被害者は卞晧だった。
そんな船旅も三日目となれば多少は変わってくる。
元々症状の軽かった曹操は翌日には慣れていたし、曹仁も翌日には大分楽に為っていた。
韓浩・曹洪は相変わらずだったが、会話は出来るし食欲も問題無い事から悪くはないと言えた。
「慣れてきたとは言え、やはり陸路の方が良いわね
船旅も悪くはないのだけれど…」
「まあ、その辺は生まれ育った環境も有るしね
それからさ、知ってる?、長期間船上にいて生活に身体が慣れてると陸に上がった時、酔っ払った様な動き方をしちゃうって」
「……何よそれ、聞いてないわよ?」
そうなる自分の姿を想像したのだろう。
曹操が不機嫌そうな顔をして卞晧を睨んだ。
「ちょっと玲生?、態とじゃないわよね?」とでも言いたそうな感じで。
卞晧としては、それでも構わないのだが。
男が女の前では格好を付けたい様に。
女も男の前では無様な姿は晒したくはない。
その意識が曹操を不機嫌にさせたのだと察する。
「飽く迄も長期間、慣れた場合の話だからね
ほら、船上って揺れるでしょ?
その揺れを往なして体勢を常に保とうとする動きが無意識に遣る位に染み付いちゃうと陸に上がった時身体が逆に揺れる様になるみたいだよ
尤も、数日は勿論、一ヶ月でも中々為らないって話だから、心配しなくても大丈夫だけどね」
「……そう、まあ、それならいいんだけど…」
気にし過ぎた事が恥ずかしかったのか拗ねる曹操。
損ねた機嫌を直す様に曹操を抱き締める卞晧。
「これ位じゃ誤魔化されないわよ?」という感じで睨み付けながらも満更でもない様子の曹操。
其処で調子に乗ったり、余計な事を言わない辺りが卞晧の優れている所だと言えるが。
それも全て、亡き田静の教育の賜物である。
そんな仲睦まじい二人を曹仁は微笑ましく見詰め、半死状態の韓浩と曹洪は嫉妬の籠った眼差しを送り脳裏には現実には存在しない恋人を思い浮かべる。
「爆ぜやがれぇ…」「見せ付けですか?」と口々に呟いているが、誰も気にはしていない。
「──あら?、アレは何かしら…」
そんな中、外方を向き拗ねた振りをして卞晧の気を引いていた曹操が海面に何かを見付けた。
普通の漂流物ならば、然して気にもしなかったが、それは景色の中に不釣り合いな色をしていた。
「──華琳っ!、縄をっ!」
「──ちょっ!?、玲生っ?!」
曹操の一言に視線を送るや卞晧は直ぐに曹操を放し海に向かって飛び込んだ。
武器等は身に付けてはいないとは言っても、衣服を着たまま飛び込むというのは中々に無謀な事。
しかし、脱いでから飛び込むという考えは、卞晧の頭の中には浮かばなかった。
卞晧の行動に戸惑いながらも曹操は言われた通りに船員から縄を借り受け、海面に浮かぶ卞晧に向けて片側を握ってから放り投げた。
氣を先端に纏わせ重石代わりに使っている為、縄は絡まったりせずに綺麗に卞晧へと届いた。
そして、卞晧が掴んだのを確認し、曹仁達も加わり縄を手繰り寄せ、卞晧を引き上げた。
ずぶ濡れになった卞晧の左腕に抱えられた少女。
それが卞晧が飛び込んだ理由だった。
直ぐに船室──自分達が使う部屋に運び込み曹操が後を引き継ぐ形で少女を着替えさせる。
幸いにも、曹操と背格好が大差なかった事も有り、曹操の予備を着替えとして使った。
足りなければ曹操が卞晧の衣服を借りるだけ。
何故、少女に卞晧の衣服を使わせないのか?。
それが女心であり、独占欲というものだ。
曹操が少女の着替えをしている間に卞晧も着替えを済ませて曹操が呼ぶのを待つ。
その間、船長に事情を話して、意見を聞く。
「あ~……そりゃあ、海賊の仕業だろうな」
「海賊?、南部は江賊じゃないんですか?」
「江賊は江水流域を縄張りにしてる連中だ
其処で縄張り争いに敗けた連中が、南部では海賊と呼ばれてるんだよ」
北部の海賊というのは有名な人害の一つである。
対して、南部では江賊が代表格として挙がる。
尤も、何方等も居ない方が良い存在には違い無い。
その辺りの話を聞き終えた所に曹操が顔を出す。
船長に御礼を言ってから卞晧達は自分達の部屋へと向かい、寝台に横に為っている少女へと近付く。
それに気付いた少女が身を起こそうとした。
「ああ、そのままでいいから…体調はどう?」
「助けて頂きまして、有難う御座います
御陰様で倦怠感は有りますが問題有りませ…ん……──っ!?、わっ、私は甘寧と申しますっ!
御無礼を御許し下さいっ、“晧様”っ!」
『──────え?』
卞晧と話していたら顔を見詰めた途端、起き上がり寝台から慌てて床に下りようとして転げながらも、全く気にせずに甘寧と名乗った少女は土下座をして自らの非礼を詫びた。
──が、それ以上に問題が有った。
まだ曹操以外は名乗っていなかったし、卞晧自身も少女とは面識が無いのだが。
少女──甘寧は確かに卞晧を見て、名を口にした。
それだけは間違い無かった。
もしこれが普通の御嬢様だった「…ちょっと玲生、これは一体どういう事なのかしら?」と浮気を疑い追及・尋問を始める所なのだが。
曹操は流石と言うべきなのだろう。
卞晧の反応も含めて、冷静に状況を見ていた。
何より、卞晧を“様付け”している時点で、甘寧と卞晧との間に有る見えない力関係が窺い知れる。
「……え~と…甘寧さん?
取り敢えず、頭を上げて、寝台に戻ろうね?
怪我とかは無くても、まだ体調は万全じゃないから無理はしないようにしないと…ね?」
「で、ですが…」
「──患者は素直に従いなさい」
「──ぇ?、きゃあっ!?、こここ晧しゃまァっ?!」
“何か”が切れた様な音が聞こえた気がした途端、卞晧は笑顔で問答無用に甘寧を抱き上げて寝台へと強引に戻して寝かせた。
確かに話し合いでは解決しそうになかった事から、仕方が無い事では有るのだけれども。
正直、曹操としては面白くはなかった。
「凄い狭量な女だな」と言われてしまいそうだが、曹操自身、どうしようもなかった。
如何に深く繋がっていても、まだまだ厚みは薄く、曹操自身の許容量は小さいのだから仕方が無い。
百歩譲って、卞晧が抱き上げたのは不可抗力だったとしても悲鳴を上げて甘寧が卞晧に抱き付いた点に関しては看過出来無い事だった。
勿論、客観的に見れば甘寧の反応の方が不可抗力で本人には他意は無いのだが。
女心は理不尽で、我が儘で、寂しがり屋なのだから仕方が無いと言うしかないのだろう。
そんな突如勃発した三角関係に傍観者と為っていた曹仁達三人は顔を見合わせて苦笑する。
客観的に見れば、「やれやれ…」という状況だが、自分が置かれたい状況だとは絶対に思わない。
修羅場ではないが、面倒臭い状況なのは確かだ。
ただ、結果的に言えば、それの御陰で混乱していた思考を意図せず放棄し、切り替える事が出来た。
そういう意味では本人達に意図は無くても感謝だ。
強引に寝かされても大人しく寝ては居られず身体を起こす甘寧だが、卞晧の笑顔の圧力に屈し、寝台で上半身を起こした格好で妥協した。
甘寧が落ち着くのを待ってから、卞晧は訊ねる。
「甘寧さん、さっきの晧って呼んだのは誰の事?」
「は、はい、貴男の事です」
一切迷わずに卞晧を見詰めて言い切った甘寧。
その様子からしても、間違い無く甘寧は卞晧の事を知っていて呼んだのだと判る。
しかし、卞晧自身に甘寧と会った覚えは無かった。
こう言っては何だが、甘寧は間違い無く美少女だ。
卞晧も男である以上、甘寧程に整った容姿の相手に会った事が有れば忘れる事は有り得無い。
「え~と……間違ってたら御免なさい
甘寧さんと会うのって、初めてですよね?」
「はい、御会いさせて頂くのは初めてになります」
「取り敢えず、改めて自己紹介させて貰うね
俺は卞晧、此方が──」
甘寧が“初対面である”事を肯定してくれた事で、卞晧は取り敢えず一安心した。
自分が忘れている訳ではないし、曹操に勘繰られるという事にも為らないからだ。
何気に尻に敷かれている気がするが、態々指摘する必要は無い事だと言えるだろう。
“知らない方が幸せ”という事は多いのだから。
卞晧は曹仁達の事も含めて紹介し、間を置く。
甘寧の素性や、何故の事を自分を知っているのか。
その辺りが不明なので余計な事は口にはしない。
「それで甘寧さん、今日初めて会ったのに俺の名が判ってたみたいだけど…どうして俺の事を?」
「……少し長く為りますが、“錦帆賊”という名を皆様は御存知でしょうか?」
甘寧の言葉に韓浩と曹洪は顔を見合わせて御互いに知らないと理解すると曹仁に顔を向けた。
曹仁も知らない為、静かに首を横に振った。
「…確か、有名だった江賊の一団だったわよね?
私も何かの記録で名前を見た事しかないけど…」
「うん、十年以上前に居た“義賊”だった筈だよ
唐突に姿を消しちゃったみたいだけど…
強欲官吏や悪徳商人の船ばかり狙ってたらしいから違う意味で敵が多かったみたいだしね…
その辺りは詳しい事は判らないけど…」
そんな三人と比べて、然り気無く持ち前の優秀さを見せ付けるのが曹操と卞晧である。
勿論、本人達に自慢したりする意識は無いが。
僻みや嫉妬というのは懐く側の一方的な悪感情故、懐かれる側にとっては迷惑でしかない。
尤も、曹仁達が自分達と比較する事は無い。
それだけ二人が優秀な事を理解しているからだ。
曹操と卞晧は、御互いの意見を口にした後、揃って甘寧へと視線を向け、彼女に話しの続きを促す。
「はい、御二人の仰有られた通りです
錦帆賊は義江賊であり、その性質上、江水流域にて船を運用していた一部の特定の条件を満たしている官吏・商人からのみ積み荷等を奪い去っていた事で江賊の中でも討伐対象として常に最優先でした
その為、錦帆賊は必要以上に周囲に対して強過ぎる警戒心を持つ事となり、結果として孤立しました…
最初は義賊として称えていた民からでさえも畏怖の代名詞として知られる様になる程にです…
気付けば、錦帆賊は“居場所”を失っていました」
卞晧とは違い、甘寧は錦帆賊の略奪対象を暈したが既に判っている事から曹仁達は「普通はなぁ…」と苦笑を浮かべていたりする。
勿論、甘寧には気付かれない様に、だが。
ただ、甘寧から語られた錦帆賊の話が“過去”だと聞いている全員が気付いていた。
それが卞晧と如何に繋がるのかは判らないが。
「そんな時、ある一人の御方により錦帆賊は壊滅し表舞台から完全に消え去る事になりました」
「…………あー……まさか、その人って…」
「はい、晧様の御母上である静様で御座います」
肯定した甘寧の言葉に曹操達が卞晧を見た。
卞晧は空を仰ぐ様に顔を上げ、遠い眼差しをして、「うん、そうだよね、母さんって…」と言う様に、複雑そうな顔を見せた。
そんな卞晧には曹操でさえ声が掛けられない。
何しろ、親に対する感情は誰しも複雑なのだから。
甘寧も予想外の卞晧の反応に戸惑ってしまう。
しかし、此処で話を止めるのは明らかに可笑しい。
それを理解した甘寧は覚悟を決めて話を続ける。
「錦帆賊は壊滅した事になっていますが、実際には解散をしたというのが実情です
静様は「今のままでは貴方達は賊徒として終わる、そうはさせたくないし、そう為りたくはないのなら貴方達自身の手で錦帆賊を終わらせて新しい未来に進んで行きましょう」と仰有られまして…
こうして錦帆賊は解散し、市井の中で新しい人生を皆が各地で始めました
暫くして、離れた場所に居た者からの連絡が有り、静様に御子息である晧様が御生まれになったという事を皆が知る事に為りました
その際、特徴等も知らされていましたので…」
「…………他人の空似だとは思わなかったの?」
「いいえ、それは有り得ません
晧様の白銀の髪色は御父上、蒼玉の瞳は静様からで二つの特徴を持たれる方は二人とは居りません」
「──ちょっと待って頂戴
…甘寧、貴女の言葉を疑う訳ではないのだけれど、それはつまり彼の御両親は何方等も血筋的な特徴を持っていたという事なのかしら?
貴女は御両親の事に付いて知っているの?」
「……ぇ?……ぁ、ぃぇ……その……」
急な展開に当事者である卞晧でさえ置いて行かれる状況に有った中、曹操が反応し、甘寧に訊ねた。
卞晧の両親に関する情報という事も有ってか、訊く曹操の眼差しは鋭いものだった。
だから甘寧は気圧されてしまい、戸惑っていた。
それに気付いた卞晧が曹操を宥める様に苦笑をして言外に「彼女が戸惑ってるよ?」と諭す。
曹操も無意識に凄んでいた事に気付き、一つ大きく咳払いをしてから甘寧の言葉を待つ姿勢を見せる。
卞晧の視線での「驚かせて御免ね」と言う気遣いに慌てて反応しそうになるが、堪える甘寧。
何しろ、彼女は空気が読める娘だった。
「…その様に聞いていただけですので…
静様や晧様の御父上の事は詳しくは判りません…」
「気にしなくていいよ、甘寧さん
その辺は母さんは俺にも話してなかったからね
寧ろ、そういう特徴だったって判っただけで十分
だから、教えてくれて有難うね、甘寧さん」
「晧様っ……勿体無い御言葉で御座いますっ…」
感涙している甘寧を見て「大袈裟な…」とは誰もが思ってはいても垣間見せる事さえしなかった。
流石に韓浩や曹洪でさえ、今の空気は読める。
そして、話の流れから甘寧の素性も察しが付いた。
恐らく甘寧は解散した錦帆賊の血を引く者。
だからこそ、卞晧に対しても忠誠にも等しい敬意を持って接しているのだと理解する事が出来る。
再び甘寧が落ち着いた所で本来の本題へと移る。
卞晧と甘寧の繋がりというのは突発的な事であり、最初から意図して訊いていた訳ではない。
「甘寧さん、貴女の身に一体何が遇ったのか…
その辺りの事を聞かせて貰えますか?」
「…はい、判りました
御察しの事とは思いますが、私の両親は元・錦帆賊だった身で、解散後は漁師として生活していました
……両親は三年前、嵐で亡くなり、私は村長の家に御世話に為っていました
本当なら錦帆賊の仲間を頼れば良いのでしょうが、出来る限り同じ場所に固まらない様にする事により素性を悟られない様にしていた為、出来ません
抑、私は何処の誰が該当するのか判りませんから頼る事は不可能ですが…っ、申し訳有りません!
この様な愚痴を御聞かせしてしまって…」
「ううん、気にしなくてもいいよ、愚痴位幾らでも言ってくれて構わないから
此方こそ辛い事を話させてる訳だからね…
寧ろ、謝るべきは俺の方だよ
甘寧さん、配慮してあげられなくて御免ね」
「……っ…………晧様っ…」
そっと甘寧を抱き締める卞晧の優しさに甘寧の堰は簡単に切れてしまった。
見た目からして卞晧達と歳は近いだろう甘寧。
確認の為に訊いているが、予想は付いている。
予想外の事態が起きた為、つい甘寧に対する配慮が欠けてしまった事には卞晧だけでなく、曹操達にも言える事である為、此処は曹操も我慢する。
──後で存分に甘える事を密かに決意しながら。
落ち着いた甘寧が恥ずかしがりながら御礼を言い、話の続きを話し始める。
「私の生まれ育ったのは三百人程の小さな漁村で、腕の立つ両親は村の用心棒の様な立場でした
その両親が亡くなった事で……昨夜の海賊の襲撃に村は為す術が無く壊滅……
仇討ちとまでは言えませんが、私は亡くなった皆に代わり一矢を報いるつもりで単身海賊船に乗り込み戦ったのですが……その……恥ずかしながら自分で沈めた船に巻き込まれてしまいました…」
その話を聞いて卞晧と曹操は納得する事が出来た。
村邑等が賊に襲われたか、錦帆賊への怨恨等による復讐の類いだろうと考えてはいたのだが。
甘寧に怪我らしい怪我は見当たらなかった。
本人の服装等から考えても泳ぎが下手というのは、正直に言って考え難かった。
だから、二人は頭の片隅に“演技”の可能性も思い浮かべながら甘寧と接してはいたが、演技が出来る様には見えないのが本音だった。
何しろ、羞恥心に身を縮こまらせている甘寧の姿は普通に見ても可愛いのだから。
その後の事は、ある意味では有り触れた流れ。
身寄りの無い甘寧を旅の同行者として迎え入れる。
勿論、強制ではなく、本人に“普通に暮らす道”と何方等を選ぶかを決めて貰ってだ。
甘寧も最初は遠慮こそしていたが、自分で決めると為ったら迷わずに卞晧に忠誠を誓った。
それだけ錦帆賊の者にとっては特別なのだろう。
尚、曹操から卞晧との関係を聞かされ、一時全員の身分や立場等を教えられた甘寧の反応は良かった。
戯れ付く様に甘寧を揶揄う曹操の姿も新鮮で。
卞晧達男性陣にしても、もう一人女性が増えた事で曹操の精神的な状況が改善される事を喜んだ。
まあ、韓浩と曹洪は「凄ぇ美人なんだけどなぁ…」「かなりキツそうなのがねぇ…」と甘寧を恋愛対象として有りか無しかを考えていたりしたが。
態々言って、亀裂を生む必要は無い事だった。
「──敵襲!、敵襲っ!、海賊が出やがったっ!」
深夜、沖に停泊していた静まり返っていた船の中に唐突に警鐘と怒号が響き渡った。
その音に曹操達は跳ね起き、武器を手に取った。
……その状況下でも熟睡していた約二名は、相当な大物か、稀代の大馬鹿だろう。
「おっ、おいっ!?、何してんだっ!
危ねぇから部屋で大人しく──」
「──していても相手は海賊なのでしょ?
襲撃されている時点で船上に安全な場所は無いわ
有るとすれば、夜の海に飛び込んで運を天に任せる事位じゃないかしら?」
「──ぅぐっ、し、しかしだなぁ…」
「船長さん、これでも旅をしている身ですからね
少し位は御役に立てると思いますよ?」
「………………判った、手を貸してくれ
だが、危なくなったら逃げるんだぞ?
お前さん達と同じ歳位の子供が居るからな
だから、死なせたくはねぇんだよ」
「ええ、大丈夫です、無理はしませんから
船長さん達は船室の入り口を固めていて下さい
外は此方等が引き受けますので」
そう言って卞晧は船長達に有無を言わせずに曹操と外に出て、先に行っていた曹仁達と合流する。
寝起きという感じは無く、動いていない船の上。
日中、船酔いに苦しむ二人は溜まりに溜まっている鬱憤を晴らすかの様に獰猛に口角を上げる。
その視線の先には掲げた松明に照らされて闇の中に浮かび上がる海賊である男達の姿。
船上に踏み入っている数は凡そ二百といった所だ。
「なぁ、此奴等って皆殺しで良いんだよな?」
「ええ、構わないわよ
生かして置く価値も無い海を穢す害悪だもの
綺麗に掃除してあげましょう」
「いや、血で汚しちゃう──何でも無いです!」
「二人は船室への入り口付近を御願いしますね」
「はい、それは構いませんが…ですが…」
「判った、だが、あまり遣り過ぎるなよ?」
「それは相手次第よ…さあ、始めましょうか
月下に舞い散る桜花の如くっ!」
曹操の一言を合図に卞晧達は一斉に動き出す。
海賊達は一番偉そうにしている曹操を見て、彼女が“良い所の令嬢”だと察した。
態度や言動からして隠す気が有るとは思えない為、当然と言えば当然の事だろう。
長身の曹仁・韓浩は兎も角、他の中では一番身長の高い曹洪でさえ、海賊達の平均よりは低い。
つまり、見た目通りに子供の集まりだと。
そう、海賊達は判断し、それは当たっていた。
だが、それで軽く見てしまった事が最大の間違い。
卞晧は旅の中で、曹操達は家柄の関係上、対人戦闘自体の経験は少なからず有ったりする。
一般人である韓浩は父親の仕事上、躊躇する意識は持ってはいないし、甘寧も昨夜戦ったばかり。
要するに、六人の少年少女に慈悲は無かった。
「ッシャッオラァッ!!」
愛用の剣を振るい正面の海賊に突っ込んだ韓浩。
右薙ぎに振り抜かれた剣を受け止めようとして盾を構えた海賊だったが、防ぐ事は叶わず盾と腕の骨が叩き潰される音がした。
振り抜かれた一撃は、その海賊を容易く弾き飛ばし後ろに居た海賊達を巻き込んで倒れた。
武器を何も持っていなければ余程運が悪くなければ死にはしないだろうが、海賊達は襲撃の為、手には各々に愛用している獲物が有った。
本来は敵──襲撃対象の血で染まる筈だった穢刃は仲間や自身の血に染まっていた。
普通の剣では、そんな真似は難しいと言えた。
如何に直剣が“叩き折る”事が主体だとは言えど、それ程の強度は無いからだ。
だが、韓浩の愛剣“犀角”は例外だった。
曹家御用達の鍛冶師・蒲元に依頼して造って貰った特注品であり、長さは普通の直剣と大差無いのだが身の厚さは五倍も有る。
それは切れ味よりも強度を優先している為。
当然だが、その分だけ重くなってしまうのだが。
韓浩は物凄く気に入っていたりする。
元々は旅支度の際に武器を曹家の方で造って貰えるという話になり、蒲元の元に行ったのだが。
其処での卞晧の助言から誕生する事になる。
韓浩自身、自分が技巧派ではなく“力押し”である自覚は有り、手入れなども苦手な性分である。
そういった韓浩の性質を理解している卞晧が提案し製作されたのが、犀角である。
韓浩の体躯に膂力、其処に剣の重量と強度が加わり単純ながら類い稀なる剛撃が成立する。
「その調子よ、連中に思い知らせてあげなさい」
「応よっ!、任せときなっ!」
「だけど、船を壊さないで頂戴ね?
壊したら自腹で弁償させるわよ?」
「応ぉぅ…任せときなぁ……行くぜ畜生めぇっ!!」
然り気無く注意をする曹操の言葉により韓浩の熱は急降下し、逆ギレする様に再び急上昇する。
呆気に取られていた海賊達から悲鳴が上がった。
韓浩は勇猛果敢だが、熱くなり過ぎる所が有る事を曹操は旅をする中で見抜いていた。
しかし、簡単には凹まないし、一度注意して置けば滅多に遣らかさない事も理解していた。
だからこそ、上げて落とす遣り方で注意をした。
そんな曹操が手にするのは普段鍛練に使用している直剣ではなく、片刃の細身の剣である。
正確には“日本刀”という物だそうだ。
反りの有る刀身は美しく、見る物を魅了する。
しかし、それ故に実用的ではない様に思えるのだが──その切れ味は恐ろしく高い。
切れ味を追及して造られた曲刀でさえ完全に劣る。
小柄な身体を活かし海賊達の隙間を縫う様に抜け、擦れ違い様に斬り裂いて行く。
曹操の武踏の軌跡を刻む様に、赫い花弁が舞う。
“青天煌雷”と名付けられた雌雄刀の片方。
それは亡き田静が密かに蒲元に託していた品。
「自ら運命を斬り拓ける様に」と。
義娘となる少女へと遺された義母としての想い。
そして、その雌雄刀の対を手にするのは唯一人。
曹操の刀よりも一尺程長い“天倚蒼霆”の名を持つ長刀を振るうのは卞晧に他ならない。
商船の上の敵を曹操達に任せ、卞晧は接舷している海賊達の小舟へと飛び降り、待機する海賊諸ともに次々と斬り沈めて行く。
それを片付け終えると近付いてくる海賊船三隻へと向かって乗り込み、同じ様に片付けて行く。
「…俺達、要るのかな?」と海賊達を倒しながら、卞晧を見ていた曹洪が呟いたのは仕方が無い事。
だが、一般人から見れば、その曹洪も十分に呆れる程度には強かったりするのだが。
そういった事は客観的に見なければ判らない事。
海賊襲来の警鐘が鳴り響いてから、凡そ半刻後。
安眠を妨害した不粋な海賊は死に絶えた。
潮の香を濁らせる生臭さが船上に立ち込めていた。
可能な限り、海に落としてはいたが、それでも血は吹き出て溜まってしまっている。
不快感は否めないが、戦場には付き物である。
その為、曹操達が吐いたりする事は無かった。
騒ぎが静まった事を感じ、恐る恐る様子を見に船室から出て来た船長達は得物を収める曹操達の姿に、戦いが終わった事を察した。
曹操達からすれば当然の結果なのだが、一般的には粗子供六人で船上だけでも二百人、総数では五百人近い数が居た海賊を殲滅させられるとは思わない。
抑、一般人ではなくても、たった六人では難しい。
それを成している時点で十分に特異だと言える。
助けてくれた相手に対して感謝より先に恐怖を懐く事は客観的に見れば最低な態度であり、しかも子供相手に大人が懐く感情ではない。
だが、それは可笑しな事ではなく、当然の反応。
「もしかしたら、この船を狙っているのでは…」と疑念を持ってしまう事も仕方が無いと言える。
「……お前さん達は一体……いや、助かった
船に乗っている者を代表して礼を言わせてくれ
本当に有難う、お前さん達が居てくれて良かった」
「私達は当然の事をしただけよ
だから、騒ぎ立てられたくはないわ」
「判った、俺達も船乗りの誇りに掛けて、きっちり目的地まで送り届けよう
それから、後片付けは此方で引き受ける
お前さん達は、ゆっくりと休んでくれ」
「それじゃあ、御言葉に甘えさせて貰いますね」
曹操と卞晧が船長と話をしてから六人は船室に戻り寝台に腰を下ろして一息吐く。
戦闘中は集中していたし、緊急事態だった。
だから、仕方が無い事なのだが。
「遣ってしまった…」という空気が漂う。
いや、乗員乗客を守れた事自体は良いのだが。
かなり、目立った行動だったのは間違い無い。
幸いにも船長が話の判る人物で、忖度も出来る為、大事には為らないとは思うのだけれど。
「…………これ、御父様の耳に入るわよね?」
「……うん、間違い無く、入るだろうね…
義母上辺りが先に握り潰してくれない限りは…」
『……はぁぁ~~……』
曹操達四人は引き起こされるだろう事態を想像し、深く大きな溜め息を吐いた。
曹嵩と面識の無い甘寧は首を傾げながらも戸惑う。
旅をしている話は聞いているが、何故曹操の父親が此処で関わってくるのかが判らない為だ。
一方、韓浩は曹嵩と面識は有るが、彼の愛情深さを──いや、過保護振りをしらない。
勿論、父親が娘に対しては甘い事や過保護な事なら韓浩は一般的な感覚としては知ってはいるのだが。
曹嵩が何れ程なのかは知らない。
その為、四人の反応が理解出来無かった。
ただ、甘寧も韓浩も空気を読んで訊きはしない。
「頼むから訊かないで…」という雰囲気を四人共に醸し出して纏っているからだ。
「…それよりも、“思春”?
あの海賊達で間違い無かったのね?」
「…はい、昨夜の事ですので忘れもしません
船に乗り込んでいた者の中に十数名、見覚えの有る顔の者達が居ましたので…
これで亡くなった皆も浮かばれる事でしょう…」
「そう……被害者が増える前に潰せたのは良い事…
でも、貴女にとっては故郷を奪われた事実は変わる事ではないものね…
だからね、思春、無理をしなくても良いのよ?」
「──っ……華琳、様っ………ぅっ……ぅぁ……」
冷静に答えていた甘寧だが、不意の曹操の言葉には対処出来ず、抱き締められた事で想いが零れた。
どんなに気丈に振る舞おうとも甘寧は十三歳。
加えて両親とも死別し天涯孤独という身の上。
「独りでも強く生きなければっ…」と気負い勝ちな真面目な性格なのも有り、余計に独りで抱え込む。
その気質を卞晧は見抜き、曹操に伝えていた。
こういった場面では同性の方が色々と良いから。
卞晧自身、嫌とか面倒ではないのだが。
その辺りは愛する妻に対する忖度である。
それは戦闘中の事、曹操達が甘寧の変化を感じ取り事情を知っているからこそ出来た事だった。
韓浩は兎も角として、他は普通に空気を読める。
飛び回っていた卞晧は例外的な存在だが。
曹操は曹洪を下げ、甘寧を自身の傍に来させた。
そして、甘寧に“仇討ち”をさせて遣った。
首魁は卞晧が討ち取る形に為ってしまったが。
甘寧の故郷の漁村を襲った連中の一部を間違い無く自分の手で討つ事が出来た。
その事実が、甘寧の心に無用な影を落とさない様に良い方向に働いてくれると考えての事。
甘寧に降り掛かった悲劇は有り触れた悲劇であり、昨日も、今日も、明日も、何処かで似た様な事が、絶える事無く起きている。
冷淡な言い方だが、それが事実な事は間違い無い。
ただそれは客観的に見た事実でしかない。
其処には個人の感情が有り、付加価値が有る。
有り触れた悲劇でも、甘寧には特別な悲劇だ。
だからこそ、曹操達は甘寧の心を護ろうとした。
海賊に掛ける慈悲など持ち合わせてはいないが。
甘寧の心が憎悪と怨恨の業火に焼かれてしまわない様に一気に片を付けてしまおうと。
その狙いは上手く行ったと言えるだろう。
業火を消す様に悲涙は降り注ぐ。
消えない業火は軈て甘寧自身を蝕み、喰らう。
そうはさせたくはないから。
曹操達は悲哀の曇天の下に甘寧を連れ出した。
例え一時、その身を泣き濡らしたとしても。
止まない雨は無く、晴れない空も無い。
曇天を貫き射す一条の陽光が雲を裂き。
大地に生きる人々は空を見上げて笑顔を咲かす。
それは甘寧も、曹操達も一緒に。
心地好い疲労感と小さな達成感に眠りに就く。
四者四様の寝息が聞こえ始める中、身を寄せ合う。
「…頭では解っているのよ、これが現実だって…
…だけど……いいえ、だからこそ、強く思うわ…
…こんな世の中は間違っている、って…」
「…そうだね…でも、それもまた社会構造の一つ…
…それが解るから、もどかしいんだよね…」
「…社会構造と秩序に絶対の正解なんて無い…
…何かしらの矛盾を孕み、何処かしらに欠陥を抱え──その中で足掻きながら生きるしかない…
…私達は人間で、それ以外ではないものね…」
「…欲望こそが人間が人間である証だからね…
…こうして意志や理想を懐く事も…
…賊徒や一部の官吏達の様に私利私欲に走る事も…
…根底に有るのは欲望だって事…
…そう思うと人間って矛盾してるけどね…」
「…ええ、本当に矛盾してばっかりだわ…」
自嘲する様に曹操と卞晧は苦笑を浮かべる。
それでも、二人の意志は揺るぎはしない。
“清濁合わせ飲む”覚悟など疾うに出来ている。
理想を実現する為には、時には犠牲を強いる決断も下さなくては為らない。
──否、どんな事であろうとも、何の犠牲も無く、掴み取る事は出来はしない。
それが何で有ろうともだ。
ただ、他者から見れば犠牲だと思える事で有っても必ずしも当事者が犠牲等の様な悲観的な意識を持つとは限らないのも、また事実だろう。
「…それでも、私達は歩みを止めはしないわ…
…傷付く事を恐れていては理想は叶わないわ…」
「…大丈夫、華琳の事は俺が守るから…」
「……っ……ばかっ……」
真面目な話をしている所に、卞晧に本気で囁かれて照れてしまう曹操。
しかし、本音は「こういう時に言わないでよね?、我慢するのが辛いのよ?…」という感じ。
流石に時と場所は弁えている。
だからせめて、少しでも触れ合う場所を増やす様に曹操は卞晧に身を寄せて、その温もりに沈む。
更け行く夜も、軈て明けて朝を迎える。
始まりは終わり、終わりは始まり、環は廻る。