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真・恋姫†無双 星巴伝  作者: 桜惡夢
一章 雷覇霆依
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三話 救命躬咎


劉懿との対面で色々と有ったが無事に挨拶し終え、真名を預け合った。

その際、曹操は複雑そうな表情を見せてはいたが、卞晧に劉懿に対する恋愛感情は無い。

ただ、亡き母・田静に対する分まで親孝行したい。

そんな子供らしい、健気な思いが有るだけ。

…まあ、そういう感情だと頭では解ってはいても、嫉妬したり、疑い勘繰ってしまうのが独占欲。

女性は母親に、男性は息子に、伴侶を取られる様に感じ易いのかもしれない。



「…あの、義母上、少々訊き難い事なのですが…」


「私に答えられる事であれば、遠慮無くどうぞ

あと、もっと気楽に話してくれて構いませんよ」


「…えっと……うん、判った

それじゃあ、その、義母上は病気だって華琳からは聞いてるんだけど…どういった類いの病なの?」



劉懿に言われて戸惑った卞晧は曹操を見て、曹操が「言う通りにすればいいわよ」と言う様に首肯した事で曹操と話すよりは丁寧だが、砕けた話し方にて改めて劉懿に病の事を訊ねた。

劉懿は困った様に、曹操は悔し気に表情を曇らせた姿を見て卞晧も何と無く察した。



「……どう説明すればいいのか…それさえ解らない状態、というのが正直な所ですね…

その為、家医からは“不治の病”とされています」


「……曾祖父様や陛下──叔父様が“神医”と世に謳われる華佗を探してくれたのだけど…

手掛かりすら見付からなかったのよ…」



諦念と覚悟を懐きながらも、諦め切れない、生への渇望を奥底に滲ませている二人。


華佗と言えば、様々な伝説を各地に残す旅の医者。

何処にも属さず、誰にも仕えず、人々を治す者。

ある意味、英雄としても扱われる存在である。

ただ、それ故に生じる問題も少なくはない。

その正体不明な華佗の知名度を利用して売り込んだ似非医者だとか、害にも為らないが単なる水を妙薬として売っていた悪徳商人だとか、弟子と自称して家に上がり金品を盗んでいた詐欺師だとか。

そういった輩が、年に一人は現れるのだから。

良くも悪くも知らない者の方が少ない人物。

まあ、実在するのか怪しまれていたりもするが。

具体的な話も尽きないので肯定派が圧倒的である。


そんな華佗だが、大宦官や皇帝の権力・人脈・財力を以てしても見付けられなかった。

──否、正確には接触出来無かった。

それ程に華佗という人物は神出鬼没。

正に、生ける伝説、仙人の様な存在だと言える。


その華佗の名前が出た時点で普通なら話は終わる。

しかし、卞晧は「まあ、見付からなかったのなら、仕方が無いよね…」という感じで特に気にする様な反応は見せずに平然と話を続けた。



「どういった病かは解らなくても、具体的な症状は義母上自身の事ですから判りますよね?

それを教えて下さい」


「…………そうですね…一番は酷い頭痛ですね

毎日続く時も有れば、一ヶ月程全く無い時も有り、一瞬だったり、直ぐに治まる場合も有れば、二日も続いて全く眠れもしないという事も有ります…」


「痛みの感じは、どうですか?

殴られた様な?、針で刺された様な?

続いた時は連打する様に痛みに間隔が有ります?、それとも腹痛の様に絶え間無く?」


「……こう、と断定する事は難しいですね…

その都度痛みの質も、痛み方も、長さも違います」


「頭痛以外には?」


「…倦怠感が有る事が多いですね」


「それは頭痛が起き始める以前から?、それとも、起き始めてから?」


「………はっきりと感じたのは五年前、倒れてから体調が優れなくなってからですね

頭痛自体は以前から偶に起きては居ましたから…」


「一ヶ月以内に複数回頭痛を感じる様になったのはいつ頃からですか?

自覚出来る範囲で、大体で構いません」


「…………七……いえ、八年前、かしら…」


「吐き気や食欲不振、発熱・目眩や昏倒、他に吐血・血尿・下血といった症状は有りましたか?」


「……頭痛が原因かは定かでは有りませんが、発熱・嘔吐に伴う食欲不振は有りましたね

目眩は時々しますし、はっきりと体調が悪くなった辺りは昏倒するという事も何度か有りました」


「……義母上、診せて貰っても構いませんか?」


「……もしかして、貴男も氣を?」


「はい、母さんから習っています」


「…判りました、御願いします

寝た方が良いかしら?、服は大丈夫?」


「そのまま気を楽にしてくれれば十分です」



劉懿との問診を済ませた卞晧は椅子を立ち、寝台に腰を掛けて劉懿に寄り添う様に座る。

その様子を、頭では理解しながらも拗ねる様にして曹操は黙って見詰めていた。

母親の為なのだけれど……面白くはない。

その様子が、客観的に見ても絵になるから。


劉懿は愛娘の気持ちに気付いていて揶揄おうと結構本気で悩んだが、真剣に自分を診察してくれている卞晧に悪いので自重した。

ただ、劉懿としては卞晧が田静と同様に治癒術まで扱えるとは思わなかったので内心では驚いた。

氣の使い方──身体強化術は劉懿自身も、田静から直に教わり、愛娘の曹操にも教えていたりする。

体調の事も有るが、それを差し引いても曹操は既に氣の総量・操作技術では自分より上だったりする。


劉懿の左側に位置し、向き合う様に身体を向けると左手同士を重ね、右手は劉懿の額へと当てる。

その姿勢のまま目蓋を閉じる卞晧。

劉懿は余計な事はしないが曹操は卞晧の氣の流れ・扱い方を静かに視ていた。

劉懿から話を聞いて知ってはいたが、治癒術を見る事自体が初めての為、素直に驚いていた。

理論上では扱える筈なのに、自身は扱えない。

その理由が、実際に目の当たりにして理解出来た。

氣を対象に同調させ、治癒に用いるのだけれど。

氣を“如何に作用させるか”が足りなかった。

ある意味、最も肝心な知識が欠けていたのだと。


同時に、見詰める背中に対抗心を燃やす。

知でも、武でも、氣でも自分の先に居る。

置いて行かれる様な感じもしなくはないのだけれど曹操にとっては“待たせている”感じが嫌だった。

だから、「直ぐに追い付いてあげるわ」と密やかに決心を固めていたりする。

乙女心は複雑複雑である。


診察を終えた様で卞晧は両手を劉懿から離した。

一息吐いて目蓋を開いた表情は診察前より険しい。

予想はしていたが、やはり、無理なのだろう。

そう、劉懿と曹操は考えた。



「……華琳、信じて命を預けてくれる?」


「「──っ!?」」



振り向いて曹操を見詰める卞晧の発言に劉懿は一瞬言葉を失ってしまった。

我に返って声を出そうとした、その一瞬先に。



「言うまでもないわ、貴男の居ない人生なんて何の意味も価値も無いもの

貴男が命を懸けるなら、私も命を懸けるわ」



卞晧を見詰めて、不敵に笑って迷い無く言い切った愛娘の姿に再び言葉を失ってしまう。

しかし、それは悪い意味ではない。

歪と言えば歪なのかもしれないけれど。

まだまだ自分の感情に振り回されているのに。

そういう所だけは大人顔負けの絆の強さを見せる。

「全くもぅ…貴方達は…」と思わず呟き、涙ぐんでしまいそうになる劉懿。


卞晧の詳しい説明も無い覚悟だけを問う言葉に。

「貴男の言う事だもの、説明なんて不要よ」とでも言うかの様に答えた曹操。

その姿は、見た目以上に大きく、逞しく、何よりも頼もしく見えてしまう。

尤も、その在り方は不安定で危ういのだけれど。

流石に劉懿も空気は読んで、指摘は後に回す。



「それで?、そんな事を訊くのだから御母様の病が何なのか、治療方法も含めて解ったのよね?」


「うん、大丈夫、治せるよ」



曹操の言葉に肯定を返すと二人揃って劉懿を見る。

「絶対に助けるから」という強い意志の込められた眼差しに劉懿の涙腺は堪え切れなかった。

気付いた時には頬を伝い流れていた感情。

一児の母親だから、我が子の為になら死をも恐れず命を懸けられる覚悟が、強さが有る。

しかし、そうではなくて、自身が病によって死ぬと為った場合には、怖い。

何よりも、愛娘を、夫を、家族を遺して去る事が。

未練以外の何でもないのだから。


曹操は、卞晧は、劉懿を両側から抱き締める。

「もう独りで抱え込まなくても大丈夫だから…」と言うみたいに優しく、強く、温もりを伝え合う。


暫し、泣いていた劉懿。

その姿に貰い泣きしてしまった曹操。

尊敬し、憧憬の、最愛の母親の秘めていた感情。

恐怖・苦悩・悲哀・絶望・後悔・切望・煩憂…。

様々な感情が混ざり合い、堰を切って溢れ出す。

それに引っ張られて感情を吐露する様に曹操も。

気付いた時には母娘で卞晧に泣き付いた格好だった事に複雑ながらも羞恥心と安心感を懐いた。


二人が落ち着き、椅子に座り直した所で、卞晧から劉懿の病に関しての説明が始まった。



「義母上の病の原因は二つ有ります

一つは、“氣脈の循環不全”です」


「…循環不全?、私には普通に思えるけれど?」


「血液──血脈の循環不全とは違って詰まったり、流れ方が悪くなるって訳じゃないんだ

基本的に氣脈は詰まったりはしないしね

潰れてしまう事は有るけど」


「……さらっと怖い事言わないで頂戴…

それで氣脈の循環不全って具体的には?」


「氣脈の循環不全は、日常生活の中で増減している氣が極端に何方等かに片寄る事になるんだ

必要以上に氣が堆積すると頭痛や発熱が起きるし、逆に少なくなり過ぎると倦怠感や目眩、食欲不振が引き起こされる事になるんだよ」



卞晧の説明に曹操は劉懿を見て、母娘は病状的にも合致する事から頷き合う。

別に卞晧の話を信用していない訳ではない。

専門外、知識の無い分野だから慎重なだけで。

その反応に他意は無い。

尤も、卞晧は気にもしていないが。



「もう一つは“氣溜濁瘤”というものです

例えて簡単に言えば、川の本流から枝分かれをした支流の先で溜まり場が出来て、水が淀み濁っていくみたいな感じを想像して貰えば解り易いかな」


「ええ、何と無く想像は出来るわ

その“濁った氣”が溜まって瘤の様になっていて、それが悪影響を及ぼしている訳ね?」


「そういう事、ただ氣溜濁瘤は合併症だから…

実際の影響は今はまだ殆んど出ていない状態だね」


「……それじゃあ、影響が出た場合は?」


「はっきり言えば亡くなるよ──母さんみたいに」


「「────っっ!!!!」」



唐突な卞晧の発言に驚く二人。

同時に何と言えば良いか、どう反応すれば良いか、判らなくて戸惑ってしまう。

そんな二人を見て、卞晧は苦笑する。



「当時の俺に、母さんでさえ気付けなかった病には気付く術は無かったって言い切れる

だから、その事に責任や後悔は無いよ

でもね、母さんの死を無駄にしない為に、同じ様に命を失う人を目の前で出さない為に頑張ってきた

その御陰で、こうして気付く事が出来た

“もう一人の母親”を失わずに済むんだから…

きっと、母さんの遺言みたいな物なんだと思う」



此処で「良い事言ったよな?」という男は三流。

だが、卞晧は亡き田静()の英才教育により、無意識に三流思考を忌避し自然な笑顔を浮かべる。

曹操は更に惚れ込み、劉懿は再び感涙する。


中断を挟んで、氣溜濁瘤の対策処置を終えてから、改めて卞晧は二人に治療方法の説明を行った。

曹操に訊ねた覚悟の理由も明らかになった。

それを聞いて劉懿は表情を曇らせるが、卞晧からは「華琳には自分と同じ思いはさせたくはない」と、曹操からは「自分の母親一人助けられない様では、曹家は背負えませんから」と。

そう言われては反対など出来る訳も無く。

結局、劉懿は「無理だけはしない様にね」と。

そう言う事が精一杯だった。


その後は夕食まで母子三人で談笑し、田静との話を聞かせ合っていたら曹操が妬いたり、それを劉懿が楽しそうに揶揄ったりして過ごした。

尚、馬車に放置されたままだった曹嵩が起きたのは夕食後で有り、起きたら劉懿から話を聞いて泣き、愛娘の報告による愛妻からの御説教で両足が鳴き、それでも繋がれる未来を喜び。


騒がしくも、穏やかに。

月が見守る宵闇に抱かれて、世界は眠りに就く。

明日を生きる為、明日に活きる為、ゆっくりと。

生命は備える様に。






日が沈み、月が子守唄を唄い始める頃。

始まりの地で運命の双子は静かに見詰め合う。

話したい事、訊きたい事、紡ぎたい事は沢山有る。

それなのに、御互いを前にすると全てが薄れ去る。

繋いだ掌、伝わる温もり、重なり合う鼓動。

それらが言葉よりも雄弁に御互いの想いを示す。


如何に婚約者──運命の相手であろうとも。

実家に帰って来た日の夜に異性を自室に招き入れ、剰え二人きりで寝台の上で向き合っている。

もしも、侍女にでも見付かれば一騒動の火種。

本来なら、自重すべき事なのだろう。

そう、曹操は頭では理解している。

しかし、強烈な感情(欲求)は抑え切れない。

ただただ、卞晧の事が恋しくて、愛しくて。

“一線”を容易く踏み越えられる気がする程に。

余計な事を考えられなくなっている。



(御風呂に入って身体は綺麗にしたし、下着だって真新しい物にしてあるわ…

ええ、何も問題無いわ、大丈夫、大丈夫よ

“そう”為ったとしても恥を掻く事は無いわ!)



“耳年増”──いや、老成ていると言うべきか。

或いは、そういう家柄に生まれた娘としては必要な知識だと言うべきなのか。

その辺りは少々難しい事では有るのだが。

曹操は“男女の営み”に関しての知識は有る。

母親・祖母・伯母達等から色々と聞いてはいるし、そういう類いの書物も読んだりもしている。

勿論、実践経験は皆無だが。


それと同じ位に、恋愛物語等も好んで読んでいた。

立場上、恋愛結婚など現実的ではない事は曹操自身聡明な故に幼少の頃から理解はしている。

ただ、両親が恋愛結婚をしているという事も有り、そういう未来に憧憬を懐いているのも確か。

性格的に偶然任せ・運任せなど遣る気は無いのだが

“運命的な展開”に何も思わない訳ではない。

寧ろ、「…こんなのは都合の良い物語の中だけよ」と否定する様に呟きながらも、寂し気に、悔し気に閉じた書物(御話)を見詰めて拗ねている少女。


そんな少女が、憧れながらも諦めていた恋愛(物語)

それが現実と成ったなら、我を見失うのも当然。

勿論、本当に我を見失ってはいない。

しっかりと準備を整えて臨んでいるのだから。



(さあっ、何時でも来なさいっ、玲生っ!)



まるで戦を始めるかの様な気迫を裡で懐く曹操。

もしも、この様子を劉懿や亡き田静が見たならば、曹操は「もーっ、可愛いんだからーっ!」と全力で抱き締めらている事だろう。

つまり、“微笑まし過ぎる”程の初々しさである。


そんな気合い十分な曹操に対し、卞晧の方は冷静。

田静から教えられた事の中には“そういった術”も一通り含まれていたりする。

「幼児に何を教えているんだ!」と言って騒ぐ者も世間には少なからず居るのだろうが。

田静としては一人の女性として我が子が女性に対し酷い扱いをしない様にしたいが故の教育の一部。

実践させていたという訳ではない。


ただ、どんなに素晴らしい教育を受けさせようとも歪む者は結局は歪んでゆく。

それは環境や社会の問題も一因では有るが、結局は自分自身の意志次第だという事。


そういう意味では卞晧は田静の教えを、しっかりと理解していると言えるだろう。

事実、現状を理解した上で一緒にいるのだから。

卞晧自身、生まれて初めて感じる甘く強烈な欲求に飲み込まれ、雰囲気に流されそうではある。

ただ、田静の教えが理性を働かせ自制心を利かす。

流されても、相思相愛の二人の場合、それはそれで良い思い出になると言える。

自分達の感情に、欲求に素直になった結果であり、共に歩むという覚悟が有るのだから。

しかし、それでも卞晧は冷静さを保つ。



「…………あのさ、華琳…」


「…っ…何かしら?」



卞晧の不意の呼び掛けに、思わず声が上擦り掛けた曹操だったが、其処は持ち前の意地で堪えた。

別に卞晧は揶揄ったりはしないだろうが。

元々勝ち気な、女らしくは在っても気性は男勝りな曹操としては主導権は握りたいのが本音。

対して、卞晧は主導権には拘りは無く、田静からも「女性を引っ張って行く様な力強さは必要だけど、傲慢に為っては駄目、然り気無く寄り添う優しさ、静かに包み込む鷹揚さが大事よ」と言われている。

序でに言うと「女は気分屋で我が儘で寂しがり屋な生き物だから、それを笑って受け入れられる位に、器の大きな男に成りなさい」ともだ。

そう教えた田静が、そういう女性だった事も有り、ある意味、卞晧は慣れている。

そういった女性に対する英才教育(耐性)は十分。


そんな事は兎も角として、卞晧は真っ直ぐに曹操を見詰めながら、少しだけ距離を詰める。

僅かな事にも過剰に反応し高鳴る鼓動に「ちょっと煩いから静かにしなさい!、気付かれるでしょ!」という感じで怒鳴りたくなる曹操。

こういう時、女性──女の子の方が精神的に早熟で気難しくなり易いと言えると思う。



「…華琳は、将来、どうしたいって思ってる?」



真剣な卞晧の表情に曹操は「…………え?、今?」といった呆れと怒りを瞬間的に懐いてしまうのは、仕方が無い事なのだろう。

男女の思考や認識の違いは多々有るのだから。

それでも、普通ならば不機嫌になっている場面で、自制心を働かせられる曹操は素晴らしいと言える。

感情任せに怒鳴った所で険悪な空気に為るだけ。

一旦冷静になって、相手に合わせる事が出来るのも

“良い女”としての資質。

そう、曹操も劉懿から教育されていたりする。


何だかんだで母親達は二人の為に教育をしていたと現状の二人を見れば、そう言えるだろう。


曹操は気持ちを落ち着けながら卞晧の質問について意図を読み取る様に考える。

状況から考えれば、“二人の将来の事”だろう。

ただ、旅の話という可能性も少なからず有る。

しかし、曹操は直ぐに察した。

卞晧の意図が何処に有るのかを。



「…貴男も洛陽で生活しているから判るわよね?

叔父様──いえ、陛下の政治は優れているとは到底御世辞にも言えないわ

今は曾祖父様が洛陽に居るから、陛下と曾祖父様の関係によって結果的に“睨み”が利いているだけよ

けれど、曾祖父様も洛陽に居るのは後僅かでしょう

曾祖父様が洛陽から離れれば──動き出すわ

それは一つの歴史の終焉、新たな歴史への序章よ」



脳裏に浮かんだのは、この二年間見てきた光景。

曾祖父の様な人物ばかりが政治に携わっていれば、今の洛陽の、漢王朝の状態は無かっただろう。

叔父とは言え、皇帝は飾りに過ぎないと言える。

曾祖父という唯一の楔が無くなるのは時間の問題。

その先の情勢は想像するに難くない。



「…私は、自分が何処まで行けるのか試したいわ

だから、乱世を、孰れ来る群雄割拠を駆け昇る

──私は天下を獲ってみたいのよ」



そう語りながら曹操は右手を二人の間で握り締め、自らの意志を、野心を卞晧に示して見せる。

最早、皇帝も、外戚も、宦官も、全く期待するには値しない存在なのは間違い無い。

だから必ず、世は今以上に乱れて、それは漢王朝を衰退を通り越して滅亡させる。

その先に群雄割拠の時代が来る事は必然。

曹操は「其処で天下統一を掲げて挑む」と。

卞晧に宣言して見せる。


そんな曹操を見詰めながら卞晧は胸中で苦笑する。

生まれた時の事は兎も角として、知り合ってからは共に過ごした時間は数える程しかない。

しかし、曹操の性根──根幹的な部分は判る。



(華琳って凄い意地っ張りで、素直じゃないね…)



「自らの器を試したい」という野心の様に言っても根本的な理由は民の為に他ならない。

勿論、そうしたいのは彼女自身なのだから、彼女の意志である事には変わらないのだから、その言い分自体も強ち間違いではないが。

今は、そんな事は指摘すべきではない。


民を守るには──大きな“力”が要る。

力を得るには──大きな“機”が要る。

そして、機の“兆し”は既に蔓延している。



「その為に、私は“覇道”を歩むわ

私は覇王と成って、天下を統一し、大陸を治める」



曹操の言葉には微塵の迷いも揺るぎも無い。

それ程に強く、折れない、確かな決意。


だが、それは卞晧にしても見据える未来は同じ。

だから、目の前に最愛の少女()を独りにはしない。

そして、今この瞬間を迎えて、漸く理解する。

共に背負って、歩んで行く為に。

その“導き”は自分達に遺されたのだと。



「…“覇”とは、その本質は抜き身の刃…

故に、意図せず触れる全てを傷付けるもの

乱世を統べる為には最適かもしれないが、その為に多くの犠牲を強いる業の道…

その身を、心を……血で、傷で、穢し往く道…」


「……ええ、そうね……けれど、それは覚悟の上

喩え、その所為で何れ程の“痛み”を伴おうとも…

私は、“私の道”を往く──ただそれだけよ」



卞晧は、覇道の、覇者の持つ裏側を静かに説く。

しかし、当の曹操は眉一つ動かす事無く耳を傾け、自らの意志の固さ、覚悟の強さを語る。


部屋に射し込む月明かりが二人を静かに照らす。

世界という舞台に、二人だけしなか居ない様に。

“天意”が二人に語り掛けているかの様に。

二人だけを切り取ってしまったかの様に。

ただただ、御互いだけを見詰める。



「…貴女が覇者の道を往くと言うのなら…

貴女が覇道を成した後、“王道”へと至れる様に…

貴女の心が“痛み”に傷付き続けない様に…

私は貴女の“鞘”となり、共に在りましょう

貴女という刃を抱く、貴女だけの鞘として」


「────っ!?」



求愛・求婚とも取れる台詞を真顔で告げる卞晧。

確かに婚約者だから可笑しくは無いのだけれど。

自然と胸が高鳴り、鼓動が速まる曹操。

何故なら──その言葉の先を知っているのだから。

曹操は小さく息を飲み、平静を装って、応え返す。

卞晧の覚悟を試すかの様に鋭く睨み付けながら。



「貴男は、私に、鞘が必要だと言うの?」


「天を衝きたる覇者の雷に依る事叶うは霆のみ…

如何なる刃も納めたる鞘無くしては禍に過ぎず…

故に、刃鞘揃いて魂魄は真に志宿す“剣”と成る

──“雷覇霆依”の理と共に」



卞晧は怯む事無く曹操の眼差しを受け止める。

そして、己の覚悟を、意志を。

心と想いを言葉へと顕す。


それを聞き、曹操の心身は鎮まり掛けていた情炎に先程以上に激しく猛り焦がされる。

それは、劉懿から聞かされた最上級の命誓。

母娘以外には誰も知らない筈の究極の清契。

それ故の歓喜に狂ってしまいそうになる程に。



「我が父母より授かりし、姓名は卞晧、真名は玲生

我は此処に刃に誓う、汝が鞘と成る事を…

汝が心を守り、依りて共に在り続ける事を…」


「我が父母より授かりし、姓名は曹操、真名は華琳

我は此処に鞘に誓う、汝が刃と成る事を…

汝が共に在る限り、決して心を折らぬ事を…」


『──我等は此処に誓う

時が手を別つとも、季が姿を違うとも…

現が刻に宿す志は絶えず、滅びず、在る事を

辿る道は異なれど、至る道は唯一つ

天へと掲げるは、剣たる我等が魂魄也

我は汝が刃、我は汝が鞘、我等は共に“刃鞘”也

我等は天へと永久を謡おう

“覇王”の道を往くと、我が刃鞘に誓う

──雷覇霆依の理と共に』



重ね合い、告げ誓うは魂の結儀の祝詞。

捧げるは神にでも、天にでも無く──貴方へ。

それは、唯二人、唯一対、唯一夫妻の為の儀式。


生まれた時、その運命に儀式を以て抗える様にと。

二人の母親が考えた、我が子達への愛情の祝詞。

全ては見果てぬ未来(明日)を言祝ぐ為に。



「華琳、大好きだよ、愛してる」


「ふふっ、残念ね、玲生、私の方が大好きよ

私の方が愛しているわ」



卞晧の愛の囁きに、曹操は持ち前の負けず嫌いさで「私の方が上よ」と言い返す。

それは挑発であり、彼女なりの誘惑。

卞晧は察すると、「じゃあ、証明するよ」と曹操を抱き寄せて唇を重ねる。

曹操も自ら距離を縮めて抱き締め返す。


盞の灯りが消え、月も顔を逸らす宵闇の中。

二つの影は一つに融け交わる。

まだ青い蕾の奏鳴も、軈て来る春の薫風への序詩。

大切なのは育む事、大事なのは繋ぐ事。

生えたばかりの新しい恋芽(れんげ)は、これから。






一夜が明け、目が覚めた曹操と卞晧。

御互いの温もりを感じ合いながら、蕩ける様にして唇を重ね合い──我に返る。

別に後悔しているとか言う訳ではない。

“そういう事”を遣った後、痕跡が残る。

特に、女性が初めての場合には、はっきりと。

掛け布団を剥ぎ、二人は敷き布団の痕跡を確認して──頷き合うと、曹家内では当たり前に為っている敷き布団の“防汚布(シーツ)”を剥いで持ち出す。

序でに布団一式も。

無駄に巧みな氣の応用術を駆使して綺麗に洗濯し、干し終えて証拠隠滅──とは為らない。

明らかに“何か有りました”と語っているのだから言い逃れは難しいと言える。

ただそれでも、明確な証拠さえ無ければ黒ではなく

“灰色”として誤魔化せる。

それだけでも雲泥の差だと、若い二人は考えた。


尤も、劉懿や侍女達には昨夜、何が有ったのか。

口には出さないだけで理解出来ているのだが。

その辺りは空気を読んで言いはしない。

今言うよりも、後々言った方が面白いのだから。


平静を装いながら朝食を済ませると、二人は手早く準備を整えて屋敷を後にした。

馬は使わず、氣で身体強化を行い、疾駆した。

兎に角、先ずは人の居ない辺りまで離れたくて。

「此処まで来れば…」という所で一息吐いた途端に二人は御互いに顔を見合わせて笑い出した。

別に悪い事をした訳ではない。

寧ろ、生涯を共に歩む二人の仲睦まじさの一端。

堂々としていても可笑しくはないのに。

そんな風に遣ってしまったのは単純に不慣れな為。

時が経ち、季が移り、刻を重ねれば慣れるだろう。

ただ、他の誰かとの可能性は要らない。

「望むのは、貴方唯一人だけ…」と言うかの様に。

一頻り笑った後、二人は抱き締め合い唇を重ねた。






二人が向かった場所は沛から北北東に離れた地。

封禅が行われた事から神聖な地とされる泰山。



「滅多に人が入らない場所なのは構わないけれど、こうも立て続けに遭遇するのは考えものね…」


「それだけ人が荒らしていない証拠だよ

自然災害以外で種を滅ぼすのは人間だけだからね」


「…そうね、人の欲というのは本当に業は罪深いわ

私達も忘れない様にしないといけないわね」


「欲自体は悪くはないんだけど…

そういった方向性が、その過剰さが人間にしかない事だろうからね」


「ええ、無駄に利口なのも本当に考え物だわ」



そんな、十二歳未満らしさの欠片も無い会話をする二人の視線の先に有るのは野生の熊の姿。

二人の倍以上縦も横も有る巨大な熊の歩み去る姿を見送りながら人間の業に付いて考えている。


二人の会話からも判る様に泰山は基本的に立ち入る事が禁止されている一種の聖域である。

──とは言え、厳重に壁に囲まれ、衛兵が常に居るという訳ではなく、飽く迄も言われているだけ。

実際には踏み入っている者は少なからず居る。

そう、今の二人の様にだ。


その泰山は里山とは違い手入れがされていない為、人を寄せ付けない動植物の支配領域である。

それ故に、他では“怪物”と呼ばれる様な大きさの熊や猪、虎等が当たり前に跋扈している。

その為、泰山に入って既に、猪に三度、熊に四度、虎に一度、蛇に三度、鹿に二度遭遇している。

鹿など、馬に角が生えている程の巨体振り。

こういった常識外れな体験が初めてな曹操は当初は卞晧の左腕を抱き締め、動揺していた。

しかし、適応能力の高さか、或いは割り切ったのか現在では平然としている。

……まあ、卞晧の袖の端を摘まんでいるという事は気にしてはならない。


卞晧は田静に彼方此方へと連れ回──連れて行って貰っていた事も有り、何とも無かったりする。

「あの鹿、美味しそうだったな~」という位に。

そんな卞晧だが、普段なら迷わず狩っているけど、現在は余計な荷物を抱えていられない為に我慢。

元々、田静から「人間はね、自分達が食べる以上に動植物を乱獲して絶滅させてしまうの、だから必ず獲物を狩る時は食べる分だけにする事」と教えられ育っているし、それを遵守している。

だから、遭遇した動物達には卞晧が“威嚇”して、御引き取り願っている。

田静曰く、「人間は文字や言葉を扱う能力に長けて進化してるけど、それと引き替えに身の程を弁える為に必要な本能的な理解力を失っているのよ」と。

つまり、人間より動物の方が“聞き分け”が良い、という事だったりする。

それを聞いた曹操が深く頷いたのは余談だ。


そんな野生天国(危険地帯)を進んで行く。

遭遇する度、動物達と卞晧の対峙する姿を見ながら曹操は「これが人が相手だったら、こんな簡単には事は解決しないわね…」と改めて考えさせられる。

“覇道を往く”と決意を懐きながらも、力だけでは人々を統べ従え纏める事は出来無い事も事実。

純粋に力が全てな弱肉強食(真理)の動物達の社会。

それが羨ましく、また理想的に思えてしまう。


博愛精神とは人類全てが絶対として持ち得なくては何の意味も持たない自己満足の詭弁に過ぎない。

掲げる理想としては素晴らしい思想だろう。

しかし、現実的には実現する事は不可能である。

何故なら、博愛精神は“他者との比較”意識を一切捨て去らなくては、本当の意味で成立はしない。

御都合的で利己的な世に溢れる紛い物の博愛精神が世界を導ける訳など有り得無いのだから。


だからこそ、弱肉強食という動物達の様に判り易く不変的な秩序の下に在る社会を眩しく思う。

勿論、それでは人間は人間ではなくなるのだが。

人間の下らない戦争の歴史を知れば、そう思う事は決して可笑しな事ではないと言えるだろう。

曹操でなくても。


そんな事を考えながら進んでいる中、不意に卞晧が足を止めて身を低く屈めた。

曹操は直ぐに卞晧に倣う。



「────っ、華琳、居たよ」


「──っ!、玲生、何処に?」



卞晧の言葉に音を立てない様に、身体を密着させる様にして傍に寄り、卞晧の指差す方を見る。

右手人差し指の延長線上、指し示された先に。

曹操は探し求めている姿を見付けた。

鶏の様な羽毛の生えた首と頭、蝮の身体の様な尾、岩を背負っている様にも見える分厚く巨大な甲羅、蜥蜴の様な皮膚の四脚。

濃淡の違いは有れ、全体的には黒一色。

それは“四霊”の一体の“霊龜”の眷属と謂われる

“施亀”に間違い無かった。


世間一般では黒い亀自体が縁起物とされ重宝され、一部では高額で売買されたりもしているのだが。

それらは単なる亀でしかない。

しかし今、視界に捉えているのは“本物”だと。

一目見ただけで曹操は確信した。

それ程に異常な濃密さの氣を纏っているのだから。



「…………ねえ、玲生?

正直に言って私、勝てる気が全くしないわ…」


「うん、大丈夫、それは正しい感覚だよ

俺だって勝てるとは全然思わないから」



二人が危険を承知で泰山に遣って来たのは他ならぬ施亀を見付ける為だったりする。


卞晧は過去に一度だけ、田静に連れて行かれた先で施亀を見た事は有ったが、その時は恐怖に泣く事も気絶する事も出来ずに怯えるしかなかった。

その後、田静に抱き付き文句を言いながら号泣した事は今では良い──とは流石に嘘でも言えないが、懐かしく大切な思い出の一つだとは言える。


そういった経験も有り、施亀が居る場所は判る。

勿論、絶対に居る訳ではないので運も大事だが。

此処、泰山なら見付けられる確率は高いと踏んで、曹操と二人で遣って来た訳だ。

ただ、少々誤算も有ったりする。



「ちょっと…今更、無理とか言わないわよね?」


「無理とは言わないけど…

正直に言うと、想像以上に大きかったね…

昔みたのは二尺位だったんだけど…」


「…………あれ、私の目が可笑しくないのだったら一丈は有る様に見えるけど?」


「うん、心配しなくても俺にも同じ様に見えてる」


「………………はぁ~……来た以上は遣るけど…

私達、死なないでしょうね?」


「無理だと思ったら一目散に逃走するだけだね

別に此処にしか居ないって訳じゃないんだから

別の場所に探しに行くだけだよ」


「…………それはそれで釈然としないけど…まあ、死んだら元も子も無いものね」


「そういう事、それに殺すのは無理でも倒す事なら不可能じゃないからね」


「貴男が“命懸け”と言った意味が漸く解ったわ」



そう愚痴り合う様に話しながら二人は移動する。

最初から殺すつもりなど二人には無い。

劉懿の治療の為には、この施亀から獲られる材料が必要不可欠ではあるが、その為に必ずしも殺す必要は無かったりする。

卞晧が言った通り倒す──気絶させるだけで十分。


抑、本物の施亀は霊獣である以上、下手に殺したりした場合には何が起きるか解らない。

呪い祟り、泰山を含む周辺地域の自然環境の変化、飢饉、疫病の蔓延、天変地異と。

少なくとも、良い事は起きないと言える。

だから、殺さなければ為らない状況以外は無い。


施亀の様子が見える風下の高い場所に移動してから改めて観察してみる。

二丈は有る大樹の森の中、五尺を越える蓼が鬱蒼と絨毯の様に広がっている中央に居るのが判る。

その蓼を食べている──のかと思えば、根元の方に頭を潜り混ませている。

「…何を食べているの?」と訊ねる様に見た曹操に卞晧は首を横に振る。

以前は兎に角恐怖しかなかった為、生態を知る様な余裕など微塵も無かった。


二人で改めて施亀を見ていると下げていた頭を上げ──口に加えている巨大な蚯蚓を見た瞬間、曹操は反射的に卞晧にしがみ付いていた。

声が出ない様に顔を押し付けて堪えるのが精一杯。

鰻や蛇は大丈夫だが、蚯蚓は駄目だったりする。


昔、劉懿が体調を崩す以前は田畑に連れて行かれて農作業を体験しながら色々と学んでいた頃。

初めて見た蚯蚓は、調子に乗った曹嵩が勢い余って飛ばしてしまった物が顔に打付かった形でだった。

その時の衝撃的な印象が今も尚拭えないでいる。


小刻みに震え、小さくなっている様に見えてしまう今の曹操からは普段の気の強さは微塵も感じ無い。

そんな怯える曹操の姿に庇護欲を刺激される卞晧。

思わず抱き締めてしまうのは仕方が無いだろう。


そんな二人の事など知りもしない施亀は、土を掘り起こして捕まえた四尺近い蛇と見間違えそうな程に大きな蚯蚓を嘴を器用に動かして丸飲みする。

その様子を見ながら卞晧は劉懿には言わないでおく事を密かに心の奥で決意する。



(……動きは素早くはない、かな?

普通に考えれば行けそうなんだけど…)



曹操の頭を撫でて慰めながら施亀を観察する。

一応、事前に考えていた作戦は曹操に話してある。

しかし、それは施亀相手の物ではなく、ただ大きな鼈を狩った時に遣った事。

見た感じでは鼈の方が身体の稼動域が有ると思う。

問題が有るとすれば、霊獣である以上、氣を使った攻撃等をしてくる可能性は十分に考えられる。

自分一人ならば兎も角、氣を使った戦闘に不慣れな曹操を巻き込んでしまうのは避けるべきだろう。


曹操が落ち着いた所で卞晧は作戦の内容を話す。

渋い顔を見せるが、仕方無い事も理解する曹操。

そして、二人は別々に別れて行動する。


曹操は施亀の正面に回り込む様に移動してゆく。

出来る限り、“食事する様子”は見ない様にして、気付かれない様に動く。

正面に到着すると施亀から五丈程の場所に位置取り身を潜めて静かに深呼吸する。

思考を切り替え、意識を集中させてゆく。


短く、強く、息を吐いてから、曹操は足元に有った小石を拾い上げて、氣を纏わせると施亀に向かって

“当てない様に”投擲する。

蓼の茂みを貫いて地面を穿った小石。

それに気付いて、ゆっくりと頭を上げ、此方を向く施亀と視線が合った瞬間に曹操は死を幻視する。

──が、事前に卞晧から聞いていたし、その対応策として卞晧に本気の殺気を向けて貰っていたお陰で呑まれずに済み、直ぐに動けた。

直前まで曹操が居た場所を何かが突き抜けた。

はっきりとは見えなかったが氣の収束を感じた事で回避する事は出来ていた。

その軌道を刻み込んだかの様に施亀から真っ直ぐに蓼の茂みに円筒状の道が出来ていた。

それを見た瞬間、強烈な曹操を悪寒が襲った。


この場に居ては不味いと直感し、格好など気にせず蓼の絨毯の中に身を投げ出した。

次の瞬間、空中に有る爪先の数寸先を掠める様に、何かが突き抜けて行った。



(──氣弾っ!?、いえっ、そうじゃないわね…

……アレは──まさかっ、空気っ?!)



視界が蓼の緑に覆われる中、気配を遮断し、囮用の氣を纏わせた小石を彼方此方へと両手で散乱する。

流石に直ぐには感知出来無いらしく、投げた小石の一つに向かって施亀は再び攻撃を行った。

その様子を観察し、曹操は確信する。

施亀の攻撃は氣を用いた“空気砲”であると。



(──っ、嘘でしょっ!?、アレって理論上は可能な技術みたいだけど、物凄く精密な制御技術が無いと実現出来無いって話だったじゃないのっ!)



愚痴る様に胸中で叫ぶ曹操。

だが、そうなってしまうのも無理も無い。

昨夜、劉懿と卞晧の会話で氣の技術に関して触れた内容が有ったのだが。

それが偶々、空気砲の事だった。


元々は田静の考案した応用技術らしいのだが、実は実用化には至ってはいなかった。

正確には、“砲”と呼べる程の威力と射程は無い、というだけで出来無い訳ではない。

例えば、拳脚や武器の軌道上の空気を押し出す事で

“空気撃”と呼ぶ現象は生み出せる。

しかし、これは掌を動かして顔を扇ぐ際の瞬間的な風と大差の無い、威力の無い事。

空気砲は空気を圧縮した“空気弾”を撃ち出す事で初めて完成すると言える。


ただ、現実的な事を言えば空気砲を使うより普通に氣弾を撃った方が簡単で、それなりに威力も有る。

大きな違いは氣弾は素人にも視認出来てしまうが、空気砲は視認が略不可能だという事。

現に曹操は蓼の茂みが無かったら気付かなかった。


施亀の予想外の実力に戦慄する曹操。

ただ、幸いにも施亀の空気砲は口から発射する為、稼動域は限定され、予想する事も難しくはない。

迂闊に空中に飛び上がったりしない限りは殺られる可能性は大きく下がったと言える。



(……そう、成る程ね、そういう使い方なのね…)



施亀の空気砲を見ながら曹操は技術を盗む。

動物は呼吸し、肺に空気を吸い込む。

施亀は口内、或いは喉内で空気を圧縮し撃ち出す。

口や喉を砲身として用いているのだと分析した。


その読みは間違いではなかった。

だから、施亀の空気砲は連射は出来無い。

どうしても次弾装填(溜め)が必要に為る。


その僅かな間は、絶好の狙い目だった。

曹操は周辺を見回すと、遮断していた気配を晒す。

蓼の茂みを揺らして駆け出し、態と音を立てながら居場所を教えて施亀を引き付け──飛び出した。

逃げ場の無い空中。

時間が停止してゆくかの様に視界の景色が、動きが緩やかに見える中、施亀が口を開け、虚空が歪む。

それを視認しながら──曹操は足の裏が接触をした木の小枝を足場にして地面に向かって跳んだ。

時の流れが元に戻った様に加速し、空気弾が木々を撃ち貫くのを見ながら曹操は受け身を取って転がりながら再び気配を遮断する。


施亀の注意が逸れた一瞬の隙。

それを逃さずに接近していた卞晧が施亀の左前足の後ろ側──人間で言う脇の下に潜り込んだ。

氣で身体強化を施し、全力で引っ繰り返す。

母・田静直伝の、渾身の“卓袱台返し”だった。


宙を舞った施亀の巨体は巨大な甲羅の重さが重力に逆らう事が出来ずに仰向けに落下。

対亀対策の定番中の定番。

勿論、施亀は霊獣であるし、空気砲を使えば容易く自分を引っ繰り返して元に戻れる。

実際、そうしようと首を伸ばした施亀だったのだが──その瞬間こそが卞晧が狙っていた勝機。

晒された首の氣脈に発勁を撃ち込んだ。


施亀の頭首が、四脚が、尾が、跳ねる様に伸び切り──息絶える様に弛緩して、垂れ落ちる。

気を抜かずに、気絶した事を慎重に確かめてから、卞晧は静かに息を吐いて緊張を緩める。

その様子を見ながら姿を現した曹操は不機嫌だが、それは無理も無い事だろう。

頭では理解出来るのだが、自分の窮地に助けに出て来る事が無かった卞晧()に御立腹な訳だ。



「華琳なら大丈夫だって信じてたらかね」


「……そんな事言っても誤魔化されないわよ」



口先だけではない本気の信頼である事に、言葉とは裏腹に誤魔化されそうに為ってしまう曹操。

実際、言われる前より彼女の憤怒は随分と殺がれ、今は殆んど見せ掛けだったりする。

ただそれでも、それだけで済ませると軽く見られる様な気がして、頑張っている。

頑張って怒っている、というのも可笑しいが。

女心とは不可思議な物なのだから仕方が無い。


──とは言え、そんな女心の難解さを幼少の頃から身を持って教え込まれていた卞晧は判っている。

こういう時、一体どうすれば良いのかを。



「御詫びに帰ったら、御菓子を作るから」


「……御菓子?」


「うん、母さん直伝で、母さんから自分が作るより美味しいって言われた自信作だよ」


「………………し、仕方が無いわね

今回は、それで赦してあげるわ」


「有難う、華琳」



そう笑顔で言い赦して貰える事を素直に喜ぶ卞晧。

既に毒気を抜かれ意地だけだった曹操は満足して、怒りの矛を収め、卞晧の言う御菓子に期待する。

此処で「…チョロいな」等と思っては為らない。

そういう男の気配に女性は敏感なのだから。


責める言葉は論理的だったとしても女性は基本的に感情で動いている事が多い為、こういった場合には男は言い訳だけはしてはならない。

“言い訳をする”という事は誤魔化す、或いは事を正当化・必然的だったとする意図が見える為。

相手の女性を愛し、末永く共に在りたいのなら。

男は黙って叱られ、反省し、感謝する方が良い。

勿論、女性が本当に間違っていたり、危うい時には言うべき事は言わなくてはならないが。


そして、素早く切り替える事も重要。

「何で俺が…」とか「此方の言い分も聞けよ…」等不満が有ったとしても呑み込んで、消去する事。

腹の中に溜めたり、引き摺ると男は態度に出易く、それが女性を更に刺激し激昂させてしまうからだ。

但し、態度が軽過ぎると逆効果であり、女性からは「反省してないでしょ?」と言われてしまうから。


卞晧は引っ繰り返ったまま気絶している施亀の腹に移動すると、持ってきていた木槌と鐫を取り出して施亀の甲羅の一部に当てて打ち削り始める。

鐫の先に有るのは濃緑色の結晶。



「……これが霊薬ねぇ……奇妙な物だわ…」



卞晧の作業を傍で見ながら、そう感想を呟く曹操。

その言葉通り、この濃緑色の結晶こそが“緑恵晶”

と呼ばれる探していた霊薬。

正解に言えば、霊薬の材料なのだが。

それ自体にも効能は有る為、間違いではない。

この緑恵晶は施亀の甲羅の腹側の溝に出来る物だが鉱物という訳ではない。

施亀が生活する所は泰山の様な豊かな緑の生い茂る深い森や山中であり、その過程にて様々な草花等が磨り潰され、その際に出る絞り汁が溝に溜まって、凝縮されながら積み重なり、結晶化した物である。

言い方は悪いが、例えるならば垢の様に、苔の様に甲羅に染み付いた濃厚な青汁の結晶である。

勿論、単なる青汁の結晶ではなく、施亀の氣により時間を掛けて霊薬の域に達した逸品。

その効果や稀少価値は馬鹿には出来無い。

市場に出せば、一寸以下の小石程度の欠片ですら、売れば十年は働かなくても平均水準以上の暮らしが出来る値段が最低でも付けられるのだから。


尚、緑恵晶を削り取ったからと言って、何かしらの影響が施亀に出るという事は無い。

実際、施亀にとっては甲羅に付いた汚れでしかなく地面や岩等に甲羅を擦り付けた際等に剥がれたり、欠け落ちたりする事が有るのだから。

ただ、特殊な加工をして保存しないと三~五日程で効能が失われ、腐ってしまう。

その為、偶然手に入ったとしても無駄に終わる事は珍しくはなかったりする。


劉懿の治療用には一寸程の小石一つ分も有れば十分なのだが、卞晧は少し多目に削り取っておく。

施亀に害は無いし、何時必要になるかも判らない。

備え有れば憂い無し、という事だ。


曹操を退避させた後、卞晧は施亀を引っ繰り返して元に戻すのと同時に離脱する。

着地した衝撃で目を覚ました施亀が周囲を見回して外敵の存在を窺うが、近くには居ないと理解すると蓼の中を山の奥へと向かって歩き始める。

その様子を遠目に確認してから二人は安堵する様に大きく息を吐いて、肩の力を抜く。



「……ねぇ、玲生、今更なのだけれど…

あの施亀って、何れ位生きているの?」


「んー…環境の違いとかも有るから、個体差の幅も結構有るみたいだけど…

大体、頭から尻尾に掛けての甲羅の大きさが一尺程だったら二十年って話だよ」


「…一尺で、二十年?

あの施亀は一丈は有ったから──二百年っ?!」


「単純に計算して、最低でも二百年以上だね

同じ場所に複数の施亀は居ないらしいから、アレは此処の主かもしれないね」


「………今更ながら、とんでもない相手だって事を改めて理解させられるわね…

──と言うか、複数居ないのなら繁殖しないの?

霊獣だから別に可笑しくはなさそうだけど…

抑、施亀って雌雄が有るのかしら?」


「雌雄の有る霊獣も居るみたいだけどね、施亀には雌雄は無いみたいだよ

繁殖って言うよりは再生・再誕が正しいのかな?

存在としての限界が来ると幾つか卵を産み落として孵化すると新しい施亀が誕生するらしいから

因みに、孵化するまでには百年を要するそうだね」


「…人の感覚では理解出来無いから神秘なのね…」



山奥くに消えた施亀とは逆に、下山して行きながら二人は、そんな話をしながら世の神秘に感嘆する。

積極的に関わりたいとは思わないし、今回は本当に運が良かった部分も有った。

勿論、二人の実力の高さ、事前に想定した準備等も有っての結果では有るのだが。

それでも、運の要素は決して小さくはなかった。


それを噛み締めると嫌でも理解させられる。

我が物顔で“支配者”を気取っている人間の姿が、心底滑稽で、何よりも愚かしく思えてしまう。

人間社会の中では地位や権力で威張っている者も、一度自然界に踏み込めば、ちっぽけな弱者(獲物)

抗い様の無い圧倒的な存在としての差の前に容易く蹂躙されてしまうのだから。



「……あの空気砲、再現出来るかしらね…」


「……直ぐには難しいかな…

同じ様に口や喉を使った場合、人間の身体だったら耐え切れずに破裂しちゃいそうだし…」


「ちょっと止めてよ……想像したじゃないの…」


「華琳って対人戦──殺人の経験は無い?」


「…数える程だけど、賊徒相手なら有るわよ

ただ、それとこれとは別の話でしょ?

人の頭──首から上が肉片と化して弾け飛ぶとか…

考えただけでも吐きそうだわ…」


「うん、華琳、俺より具体的に言ってるよね?」


「……それで、空気砲は実用化出来そうなの?」


「まあ、実例を目の当たりに出来たからね

そのままは無理でも、人間に合わせた転用をすれば出来る可能性は確実に見えたよ」


「出来たら私にも教えて頂戴ね」


「…華琳は考えないの?」


「頼りにしているわ、私の愛しい玲生」



「嫌よ、そんな危ない自殺行為みたいな実験は」と言う様に笑顔を向ける曹操に卞晧は苦笑する。

けれど、こういう部分まで可愛らしいと思える辺り

“惚れた弱味”なんだろうと卞晧は思う。


“運が悪ければ…”という可能性が有った。

そんな生き死にを掛けた戦いを経て、少年と少女は強かに学び、更なる高みへと歩を進める。

何処までも貪欲な向上心と。

偽る事の無い自らの在り方と。

見定める志の指し示す(未来)と。

繋いだ掌と、縁絲(えにし)が紡ぎ、導く。



「──そう言えば、途中の街道から外れた森の中に流れの急な川が有ったでしょ?

彼処の鮎、昔から御母様が大好きなのよ

獲って帰っても良いかしら?」


「うん、良いよ、夕御飯に使って貰おう」



そんな他愛無い会話をする二人。

だが、一線を越えた男女が水辺で二人きりで居れば

“どうなるのか”は言うまでもない。

少しばかり寄り道が長引き、二人が帰宅をしたのが日が暮れてからに為ったのは余談である。




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