十七話 荒地多魔
五州に居た黄巾党が姿を消して、四州に再び現れ、各地で戦禍を広げ、司隷に向かい始めた。
その動きを曹嵩・孫堅が中心となり倒しに動く。
その裏で青州・冀州に現れた本隊と思しき黄巾党を曹皓達が迎え撃つ。
「──チッ、舐めてやがんな……」
そう舌打ちする韓浩。
先陣を切って戦う配置になった韓浩と夏侯惇。
自ら偵察に出た韓浩が見たのは堂々と進む黄巾党。
だが、気に入らないのは其処ではない。
事前に聞いていて知ってはいた事なのだが。
四州の黄巾党とは違い、自分達が対峙する黄巾党は異質な存在──屍人である。
しかし、腹が立つのは屍人だからでもない。
そんな風に命を弄ぶ事でもない。
……いや、それはそれで赦せない事なのだが。
隠すつもりも、紛れ込ませるつもりも無い。
「そんな事を遣る必要が有るか?」と。
逆に訊き返さんばかりに。
屍人の軍団である事を見せ付けてくる。
それが苛つかせる。
──が、此処で感情任せに突っ込みはしない。
その憤怒は溜め込み、後々に爆発させ──倍返し。
八つ当たりでは一時的な気晴らしにしかならない。
もう、それではスッキリしないのだから。
偵察を終えて夏侯惇の待つ陣に戻り、報告。
目の前で憤慨・激高する夏侯惇を見ると、不思議と頭に上っていた血が下がっていき冷静になるから可笑しなものだと思う。
部下からの「放置ですか?」には無言で肯定。
どんなに喚き散らしていても、今の夏侯惇が勝手に突っ込んで行く様な事はしないと判っている。
……まあ、曹操や曹皓が怖いのも有るが。
妻となり、母となり、成長しているのだ。
奔放な“猪軍将”からは卒業している。
尤も、暴れていいのなら思うが儘に戦うのだが。
それは、ちゃんと許可が有った上でだ。
今は、その許可が無いので心配はしていない。
それはさて措き、韓浩は頭の中で最終確認をする。
現状、自分達が対峙する黄巾党は複数の集団だ。
その為、夫婦毎に分かれ、迎撃するのだが。
各々が離れ、それなりの距離が有る。
それ故に、御互いの支援・助力は期待出来無い。
「……まあ、玲生達の所が本命だしな……」
配置を思い浮かべ、移動前の会話を思い出す。
曹皓達から任されたのは、先ずは露払い。
分散させる為の陽動の可能性も考えられはするが、全てが集結されても厄介。
だから、各集団を確実に潰した後、曹皓達に合流。
其処で、本当の意味での最終決戦となる。
それが事前に説明された作戦の流れ。
大雑把過ぎるが、それで十分。
共に歩み、共に戦い、共に生きるからこそ。
細々とした打ち合わせは必要無い。
息をする様に、その場に居れば理解し合える。
──と思ってはいても、口に出す様な事は無い。
照れ臭いというのも有るが、揶揄われるからだ。
そんな風に、いつまでも子供の様に戯れ合えるのが自分達の関係であり、良さだとは思う。
──が、それはそれ、これはこれ。
負けず嫌いなのは皆同じなのだから。
意外と、そういう所では素直ではない。
そうこうしている内に黄巾党を視界に捉えた。
韓浩が振り返れば、高い士気を見せる部下達。
最後に隣の夏侯惇を見れば──思わず笑う。
「まあ、心配する必要なんて無いよな」と。
既に敵だけを見据えて、己が爪牙にて狩り喰らう事しか考えていない狼──否、猟犬が其処に居る。
頼もし過ぎる夏侯惇の姿に緊張も緩む。
だが、集中力は一層に高まる。
韓浩が愛器を掲げ──振り下ろした。
それを合図に一斉に駆け出す。
彼等彼女等が目指すのは、眼下──丘を下った先の平野を進む黄巾党。
「隊列?、そんな物、糞喰らえだ」と。
そう言わんばかりの稚拙な攻め方。
だが、先頭を駆け、率いる両者の背中を見てきた。
「これこそが我々の戦い方だっ!」と。
胸を張って言い切れる。
その自信が、御互いへの信頼が。
“個の群れ”ではなく、津波の如く襲い掛かる。
一方の黄巾党に恐怖や驚愕、或いは戸惑うといった様子は一切見られない。
遠目から見ていても韓浩達を無視しているかの様に不気味なまでに前に向かって進んでいた。
しかし、夏侯惇が一線を越えた瞬間だった。
それまで無関心だった黄巾党が一斉に振り向いた。
それを見た韓浩は「玲生の言ってた通りか!」と。
胸中で相変わらずの曹皓の凄さに感心する。
「多分、向こうは一定の距離まで近付かない限りは此方等に対して反応はして来ないから」と。
大した情報も無い中で言い切って見せた。
それを思い出し、改めて恐ろしい男だと思う。
同時に、親友で良かった、とも。
「絶対に孤立はするなっ!
常に自分と仲間の状況を確認し続けろっ!!」
そう叫びながら、目の前に並んだ黄巾党──屍人を一振りで薙ぎ払い、空間を作る。
細かく指示を出し、全体を一塊の様に動かす。
そんな器用な真似は自分達には出来無い。
──と言うか、向いていない。
実際に遣ってみて、これでもかと痛感した。
ただ、その経験は決して無駄ではない。
「だから言ったろ……」等とは思わない。
経験し、知ったからこそ、判った事が有る。
判る事で気付く事、見えてくる事が有る。
それにより、自分達は更に成長する事が出来る。
その実績が有るから、何事にも本気で取り組む。
本気で遣らなければ、それこそ無駄なのだから。
そんな経験を経て辿り着いた指揮の形が、コレだ。
共有すべきは全体目標と引き際のみ。
それ以外は局所的に現場での個々の判断に委ねる。
そうする事で本当に必要な指示や命令を明確にし、余計な時間の浪費や擦れ違い、何より鈍さを削る。
自分達の戦い方を、そのまま部隊に落とし込む様に韓浩達は緻密な集団戦闘という考えを捨てた。
曹操や夏侯淵が、「嘘でしょう……」と頭を抱えて苦悩しそうな決断。
だが、実際にはそんな事には為らなかった。
何故なら、それが曹皓の狙いだったから。
既存の遣り方や、型に嵌め込む様な真似はせずに、韓浩と夏侯惇の長所を最大限に引き出し、活かす。
その為の部隊編成であり──密かな人選。
二人に近い性質の者が当然の様に集まっている。
──となれば、どうなるのかは言わずもがな。
曹皓の意図は成功した。
それも、予想以上の成果を伴って。
「左翼っ!、広がり過ぎるな!、距離を保てっ!」
「右翼っ!、押し込めるなら躊躇するなっ!!」
戦いながらも、周囲を見回せる様に空間を確保し、最低限の指示を飛ばす韓浩と夏侯惇。
韓浩は細かい指揮も出来無くはないが、その性格上後方に居るよりは前線で動きたくなる。
夏侯惇に関しては言うまでも無い。
だが、自身が前線に有り、必要最低限の指揮のみで部隊を動かせる様になった事で意識が変わった。
“自分の手が届く”という状況が集中力を高める。
自分達が率い、背負う命の存在を感じ取りながら、一つも失わない様に、奪わせない様に。
本人達は無意識にだが、視野を大きく拡げた。
普段の言動からは「攻撃こそが最大の防御だ」とか思っているのは明らかなのだが。
二人の武の本質は、敵を屠る為のものではない。
守る為の武である。
それを曹皓は見抜き、敢えて指揮から自由にした。
しかし、実際には以前以上に指揮が良くなった。
自由だからこそ、自ら背負う事を自覚させる。
意識的にではなく、本能的に、心の奥の奥で。
そして、そんな二人の変化が部隊にも波及する。
「指揮に従っていればいい」という考えが消え去り部隊全体に自主性が強く芽生える。
それが同時に仲間と連帯感を高める。
御互いが御互いの命を背負い、預け合う。
言葉ではなく、より深い場所で。
その事を感じ合い、染み込ませていった。
そして──だからこそ、彼等彼女等は此処に居る。
黄巾党の──異形の力は脅威だ。
はっきり言って、戦おうとする事自体が愚かしい。
戦わない事こそが生存方法としては正しい選択だ。
──にも関わらず、彼等彼女等は戦う事を選んだ。
敬愛する韓浩達と共に戦う為に。
それだけの為に、死に物狂いで厳しい鍛錬に耐え、戦う為の力を、共に戦場に立つ資格を得た。
優れた指揮官は自らが疲れる事はしない。
自らが汚れる様な真似はしない。
つまり、人を使う事が指揮だと言える。
それも間違いだとは言わない。
指揮官としての一つの在り方だろう。
だが、韓浩達は自らが先頭を駆け、背中で示す。
「行くぞ!」「付いて来い!」「後ろは任せた!」という声にはしない強烈な先導。
勿論、それに気付き、どう受け取るのか。
それは人各々、色々と有るだろう。
だが、もしも同じ様な思考や価値観を持つならば。
それは“火に油を注ぐ”という程度ではない。
その勢いは燃え盛る猛火の如く。
ただただ真っ直ぐ、愚直なまでに只管に。
そして──燃え伝わる熱が繋げてゆく。
まるで一つの生命であるかの様に。
曹操が思わず、「遣ってくれたわね……」と曹皓の楽しそうな笑顔を睨んだ程で。
曹操自身も口元の笑みを抑え切れない程に。
韓浩達は想像と期待を超えて成長を示した。
そんな韓浩達が黄巾党を喰らい尽くさんと猛る。
韓浩達が戦闘を開始した頃、別の所でも黄巾党との戦いが始まろうとしていた。
両側を切り立った崖に挟まれた険しい山道。
山とは言っても緑の無い岩山。
道幅は大人二十人程度がギリギリ列べる程度。
両側を塞ぐ斜面は角度も急で、垂直に近い所も。
そんな崖の上に待機したりは出来無い。
──普通であれば。
「……慣れてるとは言え、こういう時に、騎馬隊は辛いんだよなぁ……」
そう呟きながら、近付いてくる黄巾党を崖の上から見下ろしている馬超。
その言葉通りで、今自分達が居る様な場所となると愛馬達を駆って戦う事は困難。
どうしても自分達の足で、という事になる。
──が、別に楽をしたい訳ではない。
自分達の主な戦い方が騎馬戦闘である以上、やはり騎馬として戦いたい、という思いが強い。
ただ、理解はしている。
自分達は氣を扱えるが、愛馬達は使えない。
自分達が愛馬に対して使う事は可能だが、離れると氣の効果は途切れてしまう。
そうなると、一度脚を止められた騎馬は弱い。
まだ乗っている状況なら何とか出来無くもないが、離れてしまえば愛馬を助ける事は不可能。
しかも、殺されるだけならまだしも、取り込まれ、敵と化す可能性が高い以上、連れては来れない。
それが、もどかしいのだ。
「私等なら遣れる!」と言いたいが──言えない。
そんな無責任な発言は出来無い。
何故なら、「自分と愛馬は一心同体だ」と。
そう常日頃から言っている。
それなのに、「愛馬を見捨てろ」とは言えないし、危険を冒してまで他の者を助けろとも言えない。
騎馬というのは、ある意味では自己責任が強い。
だからこそ、自分で首を絞める様な真似はしない。
「それこそ今更なんじゃないか?」
「それはそうなんだけどな~……」
それを想定し、普段から騎馬隊は騎乗戦と歩兵戦の両方の訓練を行っている。
馬に乗り馴れている、馬術の力量が高い、といった者達が多いとは言え、他とは違って倍の訓練量。
しかし、それを不満に思う者は一人も居ない。
馬が好きで、馬と共に駆け、勝利を手にする。
そう心に強い信念を持っている者ばかりだから。
勿論、その辺りを見抜いた上での人選と配属。
曹皓達に抜かりはない。
ただ、馬超の不満は仕方が無い。
曹皓達と少数精鋭で動く時には自力で。
部隊を率いる場合には騎乗して、と。
その都度、合わせてはいるのだが。
出来る事なら、この黄巾党との最終決戦の何処かで騎馬隊としての活躍を残したかった。
名声や武勇伝の為ではない。
後々の思い出作りとして。
そんな馬超の思考を察する馬洪は苦笑。
「何を考えてるんだか……」と思うが、それが後に子供達に話す為のネタだと理解もしている。
騎馬戦闘の良さを語り、人気を獲得する為に。
自分達の実力が判るからこそ、騎馬戦闘に拘る必要というのが低くなる。
曹皓達にも愛馬は居るし、戦場で駆る事も有るが、その大半は演出の側面が強い。
現実的な事を言えば──騎馬戦闘は費用対効果的に曹家の主戦力としては無駄な面が強い。
曹皓達が騎馬技術の研鑽や伝承に価値を見出だし、保護・推奨しているから許容されているのだが。
馬超達からしても、「氣を扱えるとなぁ……」と。
騎馬隊を維持したり、主力化する理由は乏しい。
勿論、戦場では迫力も有り、見映えも良いのだが。
如何せん、運用面での諸経費、戦場・戦況に条件が有るというのが難点でも有る。
その上、氣が扱えると歩兵の方が汎用性が高くなり部隊としても編成・運用がし易いのだから。
だから、馬超の気持ちは判る。
婿入りとは言え、馬洪自身も馬が好きだ。
自分達は主君や環境に恵まれているが、騎馬技術の未来を、馬一族の稀少価値を、馬達の事を考えれば大きな理由──大義名分となる何かが欲しい。
そう思いはするのだから。
──とは言え、馬超にしても愚痴っているだけ。
ちゃんと理解はしている。
安全性が確実ではない以上、危険は避けるべき。
愛馬達を犠牲には出来無いのだから。
何より、その愚痴の主な理由は、騎馬として戦える条件が整った戦場が有った事。
そう、韓浩達の居る戦場だ。
「彼処だったらなぁ……」と未練が残る。
勿論、二人が配置された理由にも納得はしている。
──してはいるが、それとこれとは話が違う。
まあ、それを曹皓達に言いはしない。
それが単なる我が儘だと判ってもいるのだから。
「さて、そろそろ気合いを入れようか」
「──っしっ!、一丁暴れてやるかっ!」
馬洪の言葉に、両頬を叩いて気合いを入れる馬超。
頬が赤くなりそうな程、良い音を響かせる。
それを真似て、ではないのだが。
彼方等此方等で同じ様に気合いを入れる音が響く。
叩くのが頬とは限らないが。
谷間という状況だから余計に。
「普通だったら説教ものだよな~……」と。
その状況を見ながら馬洪は苦笑。
寧ろ、聞こえている筈なのに気にもしない黄巾党の不気味さが際立つ様にすら思う。
だからこそ、存在させては為らない、ともだ。
馬洪と馬超が愛槍を掲げ──振り下ろす。
それを合図に一斉に崖を駆け下りる。
それは斜度の緩やかな韓浩達の比ではない。
自ら駆けている分、落石などよりも速い。
その為、黄巾党が反応しようとした時には馬洪達の槍が黄巾党の横っ腹を突き貫いていた。
それは騎馬の突進の如く。
離れていても自分達は騎馬隊なのだと。
愛馬達に強く示すかの様に。
その強襲を以て開戦とする。
各地で戦闘が始まっている中、交戦中の夏侯丹達は冷静に黄巾党の様子を窺っていた。
実は韓浩達とは違い、特別な目的を持っている。
曹皓達から「出来るだけジワジワ削って欲しい」と言われている。
それは黄巾党の対応──変化を観察する為。
韓浩達が可能な限り速く殲滅するのに対して真逆。
しかし、それが意味を持つ事だと判っている。
「……思っていたよりも鈍いな」
「ええ、数が居れば変異し易い、という訳ではないのかもしれませんね」
戦場を見詰めながら呟く夏侯淵に夏侯丹が同意。
それと同時に離れた場所に居る小隊に向け、合図を出して指示を伝える。
部隊を十の小隊に分け、広く展開して戦う。
それを、離れた場所から夏侯丹達が俯瞰しながら、適宜指示を送る。
指示は簡易的で、現場の判断を優先している。
だが、自分達が果たすべき役目は理解している。
殲滅ではなく、黄巾党に関する情報収集。
これが最終決戦になるとは思っていても、曹皓達は類似する案件が今後二度と起きないとは考えずに、対処方法をより確実なものにする為に、この戦いで得られる限りの情報を集めたいと考えている。
そんな大役を唯一任されたのか自分達だ。
張り切らない理由は何処にも無いだろう。
その為、戦況は優勢。
危うさというのは感じられない。
だから、夏侯丹達も落ち着いて観ていられる。
ただ、先程も二人が話していた様に思っていた様な展開になってはいない。
以前なら、戦闘が始まれば、或いは劣勢になれば、異形化したり、集合体化したりしていたのだが。
その様な反応は今の所、見られない。
──とは言え、黄巾党は屍人の群れである。
異常と言えば、最初から異常な存在なので、一般人からしてみれば十分に可笑しいのだが。
夏侯丹達が求めているのは、そんな事ではない。
もっと、より深い部分が見える様な手掛かり。
それを欲している。
まあ、そうは思ってはいても、意味合いが違う。
別に自分達が利用する為に、ではないのだから。
「しかし、こうして客観的に見ていて改めて奇妙な光景であり、存在だと思わずには居られないな……
理解し難いが故に、尚更にそう思うのだろうが……
こんな存在が未来に残るのかもしれないと考えるとゾッとするな……」
「残したくは有りませんが、残ってしまう可能性も無いという訳では有りませんからね……」
二人にしても、曹皓達にしても、残す気は無い。
だが、完全に取り除けるのかは判らない。
黄巾党を、真の黒幕を、討つ事が出来たとしても、それが一つの技術や方法として存在するのであれば完全に世の中から消し去る事は難しくなる。
具体的な技術や方法が残らなくても。
一度、それが可能なのだと実証されている以上は。
再び、何処かで誰かが可能にしてしまう。
その可能性が存在し続ける事になるのだから。
正直、そんな厄介な火種を未来に残したくはない。
だが、無いに等しい事だろうが、可能性が有るなら自分達は少しでも助けとなる術を残す。
それが意味を成す事が無いのが喜ばしいのだが。
何もせず願うだけ、という事は出来無い。
未来へと託すからこそ。
今、自分達に出来る事に妥協はしない。
そうしなければ、繋がるものも繋がらない。
繋いでゆく為に、紡ぐ努力を怠る訳にはいかない。
「…………ん?、何だアレは?」
「…………初めて見る反応ですね」
静かに見詰めていた夏侯淵の視線の先で、黄巾党の一部に初めて目にする動きが有った。
夏侯淵の声に夏侯丹も目を向け、記憶には無い事を照合し、観察に入る。
交戦する中、右翼の奥──中段の稍後方に位置する黄巾党の一体が動きを止めた。
そのまま、小さく痙攣する様な反応を見せ──
「「────なっ!?」」
二人が思わず声を上げてしまう。
何しろ、その黄巾党は爆ぜたのだから。
だが、爆ぜたと言っても火薬による爆発とは違う。
それは例えるなら“蛙風船”の様なもの。
子供というのは無邪気な程、残酷で残忍さを持つ。
悪気等無く、ただ面白いから、面白そうだから。
そんな理由で、意味不明な事を遣る事が有る。
蛙風船も、そんな遊びの一つ。
小さな蛙の御尻に藁などの筒状の草等を差し込み、息を吹き込んで腹を膨らませて──破裂させる。
ある程度の社会常識と道徳観が身に付けば、絶対に遣る事は無いだろう残虐な遊びだ。
正直、何が面白いのか理解が出来無い。
夏侯丹達は勿論、韓浩や甘寧も遣った事は無い。
しかし、こういった遊びを子供達がしている様子を見た事なら何度も有る。
曹皓達の、曹家・孫家・馬家の治める領内では見る事は無いのだが。
旅をしていた頃は勿論、今でも他所では見掛ける。
何故、それが広まり根付いているのかは不明だが。
そう珍しい光景ではない。
それを想起させる様に。
黄巾党は人としての形を残さず、飛び散った。
だが、更に異常だと思うのは予備動作が無かった事。
黄巾党は痙攣が身震いしている様になったと、そう思った次の瞬間に爆ぜた。
膨らむという事も無く、それらしい予兆も無し。
二人は即座に思考を破棄する。
理解しようとすれば思考が迷走し、停滞する。
そうなれば、指揮にも影響を及ぼす。
だから、思考を止め、意識を外側に向ける。
それと同時に全小隊へ警戒を促す。
黄巾党と距離を取りながら戦う様にと。
「……どう見ます?」
「……飛び散り方が細かいな
アレだと、かなりの内圧が掛かった筈だ
しかし、それらしい様子は見られなかった……」
「つまり、そういう事ですか……」
「玲生様にも知覚が不可能に近いそうだから私達が気付けなくても仕方が無いが……
問題は、爆散に何の意味が有るのか、だな」
飛散する事で体内に有った毒液等を撒き散らす。
血肉を媒介とした疫病という事も考えられる。
まあ、後者の場合には即効性は無いのだが。
パッと思い当たる有力な可能性は毒の類い。
だから、距離を取らせたのだが。
爆ぜた黄巾党は風下に居た。
夏侯丹達から見ても、対峙していた小隊にまで届く距離とも思えなかった。
寧ろ、何かを浴びたのだとすれば黄巾党の方だ。
此方等に被害は無いだろう。
──と、思った所で夏侯淵は息を飲んだ。
元々家庭的で、料理好きという事で、料理の技術や知識というのは積極的に学んでいる。
曹皓達が新しい料理や調理方法等を試したり、研究していれば、参加出来る時には参加し、後で色々と質問したりして教わってもいる。
そんな夏侯淵だから、俯瞰しているから。
脳裏に閃く事が有った。
「……まさか、下拵えなのか?……」
そう呟いた、次の瞬間だった。
まるで、「御名答」とでも言われているかの様に。
爆ぜた黄巾党の周囲に居た者達が天を仰ぎ、唸る。
姉である夏侯惇が感情豊かで、時に悔しがったり、時に歓喜を露にすると、叫ぶのだが。
それを思わせる、しかし、異質だとも感じさせる。
腹の底から絞り出す様な咆哮。
生きた者であれば、其処に苦痛が混じるだろうが、屍人である黄巾党には、それを感じない。
生命感の無い、感情を感じない虚無の叫声。
夏侯淵の視界の中、此方等に最も近い黄巾党の頭を矢が射抜き、遠ざける様に弾き飛ばす。
考えるよりも速く、夏侯淵の身体は動いていた。
それは夏侯丹も同じだった。
既に夏侯淵の側に姿は無く、前線に向かって疾駆。
直接指揮を執り、殿を担う為に。
黄巾党の突然の咆哮に思考が混乱する全小隊。
しかし、黄巾党を撃った夏侯淵の矢を見た瞬間に、小隊長達は即時撤退を決断し、実行する。
敵を倒す事よりも、全員を生還させる事。
それこそが、曹皓達が最も大切にする役目。
仲間の命を、預かり、背負う立場だからこそ。
決して忘れてはならないのが、死に抗う事。
敵と戦う事でしか、その可能性が無いのであれば、仕方が無いのだが。
戦う必要が無いのなら、安全第一。
戦場では逃げる事は恥ではない。
己の弱さから逃げる事に比べれば意味が有る。
だから、小隊長達に迷う理由など存在しない。
動き出した各小隊を援護する様に撃ち放たれる矢が的確に射抜きながらも、雨の様に虚空を流れる。
背を見せた小隊に襲い掛かろうとする黄巾党だが、その行く手には既に到着した夏侯丹が待ち構える。
判断するよりも速い反応。
瞬間的な、自分の目の前の事に、ではない。
圧倒的とも言える二人の実力。
普段は目にする機会など無い。
何しろ、無い方が良いのだから。
だから、嬉しい反面、集中して迅速に撤退する。
夏侯淵の居る場所に到着した小隊は即座に弓を構え他の小隊の、夏侯丹の援護に入る。
負傷者が居れば、治療や救助にも回るのだが。
幸いにも一人として出てはいない。
その為、これと言った問題も無く撤退は完了。
距離を取り、黄巾党を見下ろす位置で待機する。
だが、集中も緊張も警戒も緩めはしない。
これで終わる様な相手ではない事を知っている。
──が、だからこそ、夏侯丹達は不可解に思う。
咆哮を上げる姿を見せておきながら。
それ以外には目立つ動きは見られない。
それだけではなく、夏侯丹達を追撃もしない。
離れた事で距離が開き、範囲外に出たからか?
そう考えてしまうのは当然の事だろう。
しかし、その場から移動はしていない。
乱れた隊列を整えもしない。
何もかもが不自然でしかない。
──が、相手は屍人だ。
少なくとも、自分で考えて判断し行動しているとは思えないし、有り得ない事だろう。
黄巾党は真の黒幕に操られているのだろうから。
そうなると、考えられる可能性は二つ。
一つは与えられていた命令が途中で狂った場合。
もう一つは実は一体だけ指揮官が存在した場合。
後者の場合、その一体を倒した事で指揮──命令が途絶えた為、行動を停止したと考えられる。
だが、前者の場合、何が原因で狂ったのか。
其処が何よりも重要なのだが──判らない。
可能性は幾つか考えられはするのだが。
確実だと言えるだけの証拠は何一つ無い。
「……どうする?」
「……出来れば、様子を窺いたい所ですが……」
そう言いながら夏侯丹は、ある方角を見る。
その先は本隊──曹皓達の居る場所。
その空が昼間にも関わらず夜の様な暗闇に包まれ、異様な雰囲気を漂わせている。
勿論、二人の事は信頼している。
──が、最終決戦の場に居なくていいのか?
そう、自分自身が問い掛けても来る。
当然ながら、目の前の黄巾党を放置は出来無い。
殲滅は必須。
だからと言って、今、迂闊に近寄るのは危うい。
あの爆ぜた黄巾党と、あの咆哮の関係は不明。
もしも、今の状況が罠なのだとすれば、その誘いに乗れば戦況は逆転するだろう。
しかし、部下に見張らせて離れる訳にはいかない。
黄巾党に動きが有った時、自分達が居なければ隊は全滅してしまう可能性が高いのだから。
その為、夏侯丹は悩む。
決断を迫られている。
現状、夏侯丹が考える最も無難な方法は、夏侯淵を一人で曹皓達の元に向かわせる事。
自分が残り、部隊を率いる。
それなら部隊を守りつつ、黄巾党を逃がす事無く、上手く行けば更なる情報収集も可能だろう。
「自分の責任を放り出せば御叱りを受けるが?」
──と、その考えは夏侯淵に見透かされる。
こういう時、知っているからこそ誤魔化せない。
夏侯丹も苦笑で言外に「判っています」と示す。
そんな二人の遣り取りを見て部下達は和む。
「良いネタが出来たわ!」と喜ぶ女性達。
他の隊の友人達と御茶会で盛り上がる情景を想像し楽しみになってくる。
男性達は妻子や恋人、或いは友人に早く会いたい。
或いは、「絶対に守る!」と士気を高める。
まあ、当の本人達は、そんな影響を与えているとは思ってもいないのだが。
それは知る必要の無い事だ。
「──となると、仕掛けてみるしかないですね」
「そうと決まれば──」
夏侯丹の一言を待っていたかの様に夏侯淵は弓矢を構えると、黄巾党に向かって射放つ。
夏侯淵が外すという事は想像し難い事。
だから、その矢が黄巾党を射抜いても驚きは無い。
寧ろ、寸前で避けたり、防がれたりした方が驚く。
まあ、それはそれで脅威ではあるのだが。
二射、三射……と夏侯淵は撃ち続ける。
三十射した所で、手持ちの矢が尽きたので終了。
二体抜き、三体抜き、としていた為、放った矢より倒した黄巾党の数の方が多いのは当然。
ただ、動きらしい動きは全く見られない。
「……誘っていると思うか?」
「近付くのを待っているのは明らかでしょう
ただ、遠距離からだと倒せはしても消滅させる事は難しいみたいですね」
そう夏侯丹が言う様に、夏侯淵の矢は黄巾党を倒す事は出来ているが、消滅させてはいない。
各小隊は戦闘で消滅させていたのにだ。
「玲生様の仰有っていた通りか……
やれやれ……私にとっては相性が悪い相手だな」
各々の持ち場に向かう前に、曹皓から説明された。
屍人と化した黄巾党は、ただ倒しただけで消滅せず時間が経過すれば再び動き出す可能性が高い、と。
そうはさせない為には消滅させるしかないのだが。
その為の特殊な氣の練り方・使い方は、遠距離では使用する事が不可能に近い。
その技術の開発者の為、曹皓は可能なのだが。
それでも、有効射程範囲は一町がギリギリ。
曹操でさえ、まだ遠距離での使用は不可能。
弓を主体とする夏侯淵も頑張ったが──未修得。
つまり、どれだけ攻撃しても消滅させられない。
尤も、それも含めての情報収集役でも有る。
当然だが、近距離戦闘も夏侯淵は普通に出来る為、消滅させられない訳ではない。
それは飽く迄も遠距離では、という話だ。
「一通り射抜くまで続けてみるか?」
「…………いえ、接近しましょう
矢も時間も勿体無いですから」
そう夏侯丹が言うと、二人は無言で腕を引く。
瞬間、周囲から音が消え失せたかの様な静寂に。
しかし、二人は殺気を伴いそうな鋭い視線を向け、間を見極める様に対峙する。
そして──唐突に動く。
「「──っほいっ!」」
「──よし!」
「くぅぅ……」
声には出さず、視線だけでの合図。
突き出された手は夏侯丹がチョキ、夏侯淵がグー。
後出しなどの不正はなく、一回で決まった。
夏侯淵の勝利に、部隊の者達も歓喜。
敗北し、悔しそうにする夏侯丹と部隊の者達。
夫婦・仲間とは言え、それはそれ、これはこれ。
やはり、戦場の花形は舞ってこそである。
彼是と話が始まる前に夏侯淵は直ぐに部隊を率いて黄巾党に向かって駆け出した。
「根っ子の部分では、やはり姉妹だね」と夏侯丹は後ろ姿を見詰めながら苦笑。
弓矢を扱っている時は冷静沈着だが前に出た途端、夏侯淵は夏侯惇に負けず劣らずの猛獣に。
……いや、感情が表に出る分、夏侯惇の方が感じる恐さは薄れ易いかもしれない。
何しろ、普段から感情の起伏が判り難い夏侯淵だ。
あの落ち着き振りで、猛獣の様に獰猛で狡猾。
…………思い出して、身震いしたのも仕方が無い。
別に夏侯丹が何かを遣らかした訳ではない。
ただ、日々の鍛練の中で、初めて曹皓の指南により夏侯淵が近距離戦闘で本気になった時。
その相手が、偶々自分だったというだけなのだが。
今では良い思い出話だが……肝に命じもした。
そんな事を考えながら、同時に、援護の為の指示を出して自分達も動き出す。
殲滅に切り替えはしたが、観察は継続する。
その為に分かれ、役割を分担するのだから。
「──という期待に応えてくれたのかな?」
そう呟く夏侯丹の視線の先では、夏侯淵の目の前に倒れていた黄巾党が一体、また一体と立ち上がり、肩を組む様にして合体してゆく姿が有った。
“おにぎり”を作るみたいに、と言うのは不適切な気もするのだが。
見た目を例えると、そんな感じになる。
…………いや、“泥団子”の方が近いか?
そんな事を考えている間に、黄巾党の姿は変化。
五体の巨大な人型へと変わった。
人型とは言っても、頭と腕足が有る、というだけ。
足は太く、馬五頭分の胴を束ねた位は有る。
ただ、長さは五尺程だろうか。
腕は馬三頭分程だが、長さは十尺以上。
胴体は逆三角形だが、逆さまの円錐形に見える。
腰は成人男性の平均的な胸囲程だが、上部は巨大。
其処に大甕を被った様な頭部が乗っている。
目や口は今の所は見当たらない。
屍人には必要だとは思えないが。
見た目には動き難そうだし、鈍重そうではある。
しかし、自然界には人の想像や理解を超えた生物は人が思っている以上に存在している。
そういった事に曹皓が詳しく、実物も見てきたし、色々と経験もしたので侮りはしない。
……酷い目に遇った事は思い出したくもない。
それは夏侯淵にしても似た様な気持ちである。
男性陣に比べれば、夏侯惇と馬超が多いだけ。
曹皓は基本的には女子供には優しい。
だから、自分から飛び込まなければ助けてくれる。
──と言うか、その前に注意や説明してくれる。
それを聞かないと──というだけの話。
だから、夏侯淵は正面に撃ち合わずに、先ず巨体を支える足から崩しに掛かる。
どんな生物も足が損傷すれば動きは鈍るものだ。
まあ、相手は屍人なのだが。
取り敢えず、色々と試して観察する。
少しでも多く情報を収集する為に。
──少々、時を遡る。
配置した全てで黄巾党との戦いが始まった頃。
冀州は広宗にて待機していた曹皓が顔を上げる。
「始まったの?」
「予想通りの順にね」
「……乗って遣っているという所かしら」
「まあ、そうだろうね」
「消滅させる前に、その顔を目一杯殴りたいわね」
「実体が有ればね
有っても、自分の身体とは限らないけど」
「……本当に腹が立つ相手だわ」
そう話す二人の視線の先には一万もの黄巾党。
対して、二人以外には僅かに百人。
しかし、精鋭中の精鋭の百人。
そして、惜しくも今回の選抜からは外れたものの、殲滅する事が出来るだけの実力を持った精鋭部隊が万が一に備えた最終防衛線として待機中。
備えは万全だと言える。
だからこそ、そんな風に愚痴れもする。
……決して、「え?、いつもでは?」と口を滑らす愚か者は此処には一人足りとも存在しない。
「それで?、あの中に居そう?」
「う~ん…………正直、微妙かな」
「まさか……居ないなんて事、有り得るの?」
「腹が立つ相手だしね」
そう曹皓が揚げ足を取り揶揄う様に言えば、子供が拗ねる様に睨み返す曹操。
然り気無く、イチャイチャする二人を見て女性陣は心の中で黄色い悲鳴を上げる。
「孟徳様可愛いーっ!」「眼福ーっ!」と。
男性陣は「俺も嫁が欲しい!」「早く帰るぞ!」と遣る気を漲らせる。
まあ、表情や態度には全く出さないのだが。
──とは言え、いつまでも暢気にはしていない。
即座に切り替えるのは慣れているのだから。
「此処に居ないとしたら、何処に居るの?
皆の戦っている内の何処か?
それとも──御父様達が相手をしている方とか?」
「或いは、まだ姿を見せていない戦力が有るか」
「……考えられるから厄介ね
──と言うか、この屍人達にしろ、生きている方の黄巾党にしろ、何なの?」
「確証が有る訳じゃないし、確認も難しいんだけど可能性としては有るかな」
「それは?」
「高句麗辺りの人達って事」
「……確かに確認は出来無いし、向こうにまで人を回してはいないから、可能性は有るけれど……」
「大宛の方が近いけど、向こうは肌の色や顔立ちで直ぐに判るけど、高句麗の人達は判り難いから」
「そうなの?
私は会った事が無いから判らないけれど……
でも、そうだとしても、どう遣って……っ!」
「そう、隠して連れて来ただけ
実に単純な方法だけど、此方の警戒していた方向と違うから、擦り抜けられた」
「……向こうから連れて来て、此方等に見せてから姿を消して屍人にしたと?」
「既に屍人化しているのなら現世を移動しなくても大丈夫だろうから、何処にでも出現出来る筈だよ」
曹皓の言葉に曹操が形の良い眉を吊り上げる。
曹皓が悪い訳ではないが──睨んでしまう。
睨みたい相手が居ないから。
「それ、完全に私達に喧嘩を売っているわよね?」
「売ってるって言うか……狙いは此方だろうね
勿論、その理由は判らないんだけど」
先の邪魔をしたから──という事ではないだろう。
それ以前から──韓遂の家の倉から禁書等を盗み、自分達を巻き込む様に情報を握らせた。
そう考えれば、最初からだ。
──が、そうだとすると、何処で自分達との接点が出来たのだろうか?
旅をしていた時、涼州は訪れたが、その時は韓遂達とは会わず、家の近くにも行ってはいない。
以前、曹皓が話していた様に、広範囲で波長の合う存在を探していたのなら、自分達の気配を探知し、その時から狙っていた。
その可能性は有り得るが……その場合、自分達より以前から因縁が有る可能性が高まる。
それこそ、曹皓の両親、或いは、父方の一族と。
「この先に手掛かりは有るのかしら?」
「どうなんだろうね」
「でも、それ位の期待はしたいわね
そうでなければ遣る気が出ないわ」
「殺る気は?」
そう問えば、曹操は静かに口角を上げる。
開戦の時は、もう間も無く。