十四話 名哲歩真
世の中に落ち着きと平和が戻って来て、暫し。
曹皓達の日常も、それなりの変化こそ有ったものの別物に為ってしまったという事は無い。
しかし、戦事──遠征という余計な仕事をしなくて済むのは単純に大きな違いだと言える。
大切な家族と共に過ごす時間が増えるのだから。
そんな遠征で離れていた為か、戻って来てから暫く曹丕は曹皓にベッタリ。
甘えまくっていた。
まあ、単に親子で一緒に居るだけなのだが。
微笑ましい光景にも、他人には判らない裏事情も。
然り気無く、曹操が曹皓の隣を主張していた。
それを見て、余計な事を言った韓浩は御約束通り、曹操からの仕返しを貰っていたりする。
一方で、曹丕が曹皓にベッタリなのが面白くない。
不満で「私を見て!」と声を大にして言いたいのが韓羽と曹忠だったりするのだが。
流石に曹皓には言えない。
言っても曹皓は怒ったりはしないが。
それは結果として曹丕の邪魔をする事になる訳で、曹丕が悲しむ事が判っている。
判ってしまうから、その我が儘を言えない。
曹丕に嫌われたくはないから。
そんな小さな乙女達の懊悩も、母親達には御茶会の丁度いい話題でしかない。
「自分の印象を気にしている内はまだまだよ」等と言われているのだが。
彼女達は皆、自身の想いに正直に向き合った結果、各々の夫を射止めている。
己の想いを貫けない者が、本当に望む幸せを掴む事は出来無い、というのが母親達の考えである。
勿論、極端と言えば極端なのだが。
そうまでして、絶対に譲れはしない。
それこそが真に本物だと思うからこそ。
どんなに仲が良かろうとも。
決して、誰かに譲り、後悔しながら生きるといった未来を迎えて欲しくはないが故の親心。
因みに、曹操は曹操の恋愛には関わらない。
「男なら、一人だろうと十人だろうと百人だろうと自分が決めた事なら責任を持ちなさい」と。
まあ、ただそれだけしか教えるつもりは無い。
“女心”が教えて理解出来るのなら誰も苦労などはしないのだから。
一人一人違って当然。
対策?、多数例?、事前予測?。
そんな物が役立つ程度の相手なら、それでもいい。
けれど、向き合わなければ手に入らないもの。
それこそが、何よりも価値が有る。
それを知っているからこそ、そう在って欲しい。
自主性の無い、そんな後継ぎは要らないのだから。
「曹丕ーっ!、会いたかったわよーっ!」
曹丕の姿を見るや、駆け出した孫策は周瑜が右手を反射的に伸ばすが──本の僅かに届かず。
一瞬とは言え、曹丕の姿を見て、感動してしまって思考を止めてしまったのが全てだった。
結果、孫策は曹丕に駆け寄り──抱き上げる。
そして、自分の匂いを擦り付ける犬・猫にも等しく曹丕に思い切り頬擦りをし始める。
「擽ったいよ、孫策御姉ちゃん
いらっしゃい、周瑜御姉ちゃん」
そんな自由奔放な孫策を拒否する様子も見せずに、ちゃんと自分の役目──御出迎えを完遂する曹丕。
その健気な姿に、周瑜は思わず泣きそうになる。
そして、「少しは曹丕を見習いなさい」と今も尚、好き勝手している孫策を睨む。
──が、当然、曹丕には気付かせはしない。
そんな間抜けな娘に育つ様な教育はされていない。
「いいですか~、女の敵は女ですよ~」と。
あの、おっとりな母からは教えられているのだ。
勿論、目の前の孫策も例外ではない。
「御出迎え、有難う御座います、曹丕」
だから、周瑜は孫策との違いを印象付ける。
「ちゃんと私は貴男の事を見ています」と。
曹丕の頑張りを、与えられた役目の遂行を。
誉めつつ、好感を懐かせてゆく。
彼女は武官ではなく、文官。
父親も母親も軍師という、生粋の軍師なのだから。
その一手は効果覿面。
曹丕は素直に嬉しそうに笑顔を見せ、周瑜に対して逆に御礼を言う。
それを間近で見て面白くないのは孫策。
「ちょっと~、一人だけ狡いわよ~」と周瑜の事を睨むが、周瑜も「自業自得です」と鼻で笑う。
曹丕が孫策に悪印象や嫌悪感を懐いてはいないが、今の遣り取りで曹丕にとっては周瑜の方が印象強く残った事は孫策にも判る。
そういう経験が自分にも有るのだから。
だから、自分の欲求に素直に成り過ぎた事は反省。
──とは言え、此処では周瑜を上回れない。
ただ、自分にも一応だが立場が有る。
散々、母親に頭を尻を叩かれながら、文字通り叩き込まれてきた礼儀作法という武器。
普段の自分との違いを以て印象付ける。
一旦、曹丕を解放し、対面に移動して咳払い。
姿勢を正し──曹丕を見詰める。
「孫文台の名代として参りました、孫伯符です
本日は御招き頂き、有難う御座います
曹丕殿の御出迎え、大変嬉しく思います」
──と、普段の自身を海の彼方に流してしまったと言える程に、物凄く真面目にする孫策。
そして、その効果は自身の目でも確認済み。
曹丕が少し顔を赤くし、数瞬とは言え、惚けた様に自分に見惚れているのだ。
「よぉしっ!」と拳を握り締めたくなる。
勿論、今は自分でも頑張っている真っ最中。
此処は我慢するべきだと判ってもいる。
失敗したら母から「何を遣っておる馬鹿娘っ!」と説教されるのが容易く想像出来るのだから。
だから、我に返った曹丕の可愛い反応にも、思わず抱き締めたくなる衝動を泣く泣く抑え込む。
「あーっ!、抱き締めたーいっ!」と自分の中では泣きながら叫ぶしかないのが悔やまれる。
そんな二人の様子に胸中で舌打ちするのは周瑜。
一手で自分が圧倒的に優位だった盤面を覆された。
普段遣っている囲碁で、孫策が敗けそうになったら碁盤を倒したり、何かを落として無かった事にする悪足掻きとは訳が違う。
明確に、彼女自身の力で、覆されてしまった。
この事実に対し、周瑜の中の闘争心が昂る。
普段は遣らない事だが、孫策を無視する様に曹丕に近付き、その手を握る。
「皆様にも御挨拶をしたいて御願いします」と。
笑顔で曹丕に案内を促す。
曹丕は何も疑わず、「あっ、そうだった!」と今の自分が任された役目を思い出し、了承。
周瑜の手を引いて歩き出す。
出遅れた孫策は暫し呆けて──我に返って追い掛け曹丕の空いている腕を取り、しっかりと組む。
まだ、主張する程の存在感は無いが、今から遣って置く事で、将来への布石となる。
そう、然り気無く腕を組み、立派に育っている筈の自慢の武器を惜しみ無く使う為に。
「えー、昔から、こうしてたでしょう?」と。
断り辛くしつつ、曹丕に「昔とは違うのよ?」と。
自分を一人の女として意識させる。
その時の為に。
今、孫策は大胆に動く。
それを見て、「──なあっ!?」と思わず、声を出し掛けた周瑜。
まさかの孫策の計略には正直、驚くしかなかった。
だが、同時に孫策を改めて好敵手で恋敵と認識。
曹丕には申し訳無いのだが。
「貴女が、その気なら受けて立ちますよ」と。
静かに孫策と火花を散らす事となった。
「──あら、面白い事になっているわね」
その様子を遠目に見付けた曹操は楽しそうに笑む。
傍らに居た女性文官達は「きゃあ~、可愛い~」と此方等も盛り上がっており。
三人を見掛けた男性兵士達は「曹丕様……どうか、御強く育って下さいませ…」と涙を流した。
結果、誰も曹丕を助けようとはしなかった。
幼くとも、“虎の娘”と“鷹の娘”である。
下手に触れれば怪我では済まない事は判る。
判るが故に──見守るしかないのだ。
決して、見て見ぬ振りではない。
さて、御気付きだろうか?。
曹丕が、こんな状況なのに、番犬が居ない事に。
そう、本来ならば、相手が孫策だろうが真っ向から注意する筈の韓羽が居ない。
チクチクと黒い笑みで毒矢を射掛けてくる曹忠も。
曹丕の側に居ないのだ。
勿論、二人に何か有った訳ではない。
二人共に元気だ。
だが、今日の曹丕には与えられた役目が有る。
その邪魔は出来無いし、同行も禁止された。
だから、見ている事しか出来無かった。
「────ヒィッ!?」
偶々、運悪く、二人の側を通り掛かった男兵士達が思わず悲鳴を上げてしまった。
黒い笑みを隠そうともしない曹忠の威圧感は両親のソレと比べても負けず劣らず。
その隣で今直ぐにでも殺人事件を起こしそうな程に殺気が駄々漏れの韓羽は、右手を置いていただけの二階の渡り廊下の手摺を握り潰していた。
此方等も、その怪力振りは両親に負けず劣らず。
そして──何より、齢四歳の娘達の顔ではない。
明らかに、自分の男に手を出された女の顔である。
幸いにも、彼等自身は、そういった類いの修羅場を経験した事は無いのだが。
警備や治安関係の任務で街を巡回したりしていると数少ないとは言え、遭遇した事は有る。
その時の、キレた女達の顔にそっくりだった。
だから、彼等は思わず抱き合い、そのままそっと、息を、気配を、存在を殺す様にして離れて行った。
「……ねぇ?、今は身内で争っている場合ではないみたいよ?」
「ああ、そうだな、先ずは虫を潰そう」
「ええ、飛んで火に入るとどうなるのか…
フフッ、教えて差し上げなくてはね」
そう言って握手し、曹丕達の向かった方に消える。
そんな娘達の様子を目撃した韓浩と曹仁は、静かに顔を見合わせ、深い溜め息を吐いた。
曹丕を巡る女の戦いを、曹皓も曹操も止めないし、注意したりもしない。
──が、公務の邪魔や妨害となれば話は別だ。
まあ、韓羽も曹忠も同じ年齢の子供達よりも聡明。
その辺りは理解はしているだろう。
ただ、感情で動くとなると話は違ってくる。
まだ自制心など微々たるもの。
「暴走はしない」と言う方が難しい。
いや、既に韓羽に関しては感情に任せて手摺を破壊してしまっている。
まだ、その程度の損害に留まっている、と言えば、その通りでも有るのだが。
こういう事に関しては曹皓達の教育方針は厳格。
力や立場が有るからこそ、必要な自制心を養う。
それは子供達の将来を考えればこその厳しさ。
自分の意志や信念を貫く事と、身勝手で無責任な事というのは全く違うものだ。
ただ、その違いを言葉ではなく、明確に示す方法は意外にも無かったりする。
勿論、判り易い例えなどは有るのだが。
特に感情が絡むと人は悪行ですら正義と思い込む。
そういう危うさや、あやふやさが有ればこそ。
自分達が示し、教え導かなくてはならない。
──が、今の娘達には近寄りたくはない。
それが二人の本音である。
「…どうする?、隼人さん」
「どうもこうも…どうにか出来ると思うのか?」
「無理無理、まだ春蘭の方がどうにか出来るって」
「…察してはいたが、彼処までとはな……」
「…自分の娘だけどさ、丕に申し訳無くなるよな」
「言うな、言ってもどうにもならないんだ」
「成るようにしか成らないよなぁ…」
曹丕にも、娘達にも、幸せに成って貰いたい。
その気持ちに、願いに、嘘偽りは無い。
──が、その最善策となると、曹丕の犠牲が必要になってしまう。
いや、犠牲ではない、諦念だろうな。
勿論、自分達の様に誰か一人を選ぶのであれば。
その必要は無いのだろうが。
…今でさえ、既に手を組んだ娘達だ。
それが判れば、全員が結託するかもしれない。
まあ、それで済めばいいのだが。
これは万が一にも、では有るのだが。
曹丕が全く縁の無い女性を選ぼうものなら。
一体、どんな行動に出る事か。
正直、考えたくもなかった。
だから、二人は考える事を放棄した。
思考を切り替えて韓羽の破壊した手摺の修理の為に必要な道具と材料を取りに別れる。
曹皓の下、大抵の事は自分達で出来る様に成った。
普段は職人や雇用の為に遣らない事も、家庭の事で余計な手間を掛ける事はしない。
勿論、曹皓への報告は忘れない。
忘れてしまえば隠蔽工作に成ってしまう。
そんなつもりは無かったとしてもだ。
知っていればこそ、忘れはしない。
何だかんだと有ったが、曹丕は無事に自分の役目を完遂させる事が出来た。
最後に出迎えた孫策と周瑜とは、ちょっと予想外の事も有ったけれど、問題は無し。
曹皓・曹操からも褒められ、労われ──今度は曹丕自身が主役としての立場に変わる。
服装や身嗜みを整えられながらも緊張している姿は年相応の可愛らしさだろう。
普段からの世話役の侍女達も、その姿を微笑ましく思いながらも、時の流れを感じ、感慨深く思う。
そして、一段と着飾った曹丕を中央に曹皓と曹操が並んで会場に姿を現す。
曹丕、三歳の誕生日の御祝いである。
本来で有れば、孫堅達も来たかったが、流石に今は留守にする訳にはいかない状況の為、今回は孫策達だけを世話役と護衛を付けて送り出した。
同じ様に、劉宏も来たかったが、皇帝という立場が許してはくれなかった為に、王尚花と劉協と賈駆を泣く泣く送り出した。
劉協が、父親と離れる事を微塵も寂しがらない事に涙した訳ではない。
そう、飽く迄も参加出来無い事に対してだ。
ただ、普段──毎年、こうして誕生日を祝っているという訳ではない。
勿論、誕生日自体は祝うのだが。
今回──三歳の誕生日が特別である為。
それは今日が生涯で最初の大きな転機。
曹丕に真名が伝えられる日なのだから。
当然と言えば当然の話ではあるのだが。
親から子へ、真名を伝える時期は各家庭で異なる。
その理由の殆どは子供自身が真名の大切さや重みが理解出来てはいないから。
それが解らないのに伝えても…という訳だ。
その為、一般的には五歳から七歳辺りが主流。
韓浩も夏侯惇・夏侯淵の姉妹でも五歳の時だった。
曹皓・曹操は二歳の時に真名を授かったが、それは二人が異例中の異例だと言える。
そういった意味では、三歳で真名を授かる曹丕達も十分に凄いと言える。
そう、曹丕だけではない。
韓羽・曹忠は去年の誕生日に。
劉協も四ヶ月前の誕生日に授かった。
そして、今日という日を楽しみにしていた。
「私が最初に真名を交換するのは曹丕と」と。
彼女達は決意していた。
だから、家族──両親と祖父母以外では、彼女達はまだ誰とも真名を交換していない。
それだけ今日は彼女達にとっても特別な日。
ある意味、勝負の日だとも言えるのだから。
尚、まだ真名を呂布は授かってはいないが、本人の真名に対する理解が微妙な為、現状は様子を見て、良い頃合いで、という方針。
今回の件で認識が変われば、三歳の誕生日の時に、という話も有ったりするが…未定である。
其処に、孫策・周瑜、楽進、賈駆と加わる。
今日という特別な日の戦場に上がる乙女達。
後者二名は「わ、私は違いますから!」と否定するかもしれないが。
決して、全く意識していない訳ではない。
その発言も自分の立場を考えたもので。
抑、曹丕への想いは否定はしていない。
そう、一時の誤魔化しのつもりでも言ってしまえば最後、自ら可能性を放棄する事に等しい。
だから、それだけは否定しない。
それが、意識的なのか、無意識でなのか。
それは定かではないが、重要でもない。
その想いが有る事が何よりも重要なのだから。
──とは言え、普段以上に仰々しく遣りはしない。
曹家という枠組みで見れば、跡取りの曹丕が無事に真名を授かる年齢を迎えた事は喜ばしい。
一族は勿論、親類・家臣、そして民にしても。
我が事の様に盛大に祝いたくなるのも当然。
それだけ、今の曹家は素晴らしく、今後も期待してしまうのだから。
ただ、だからこそ、曹皓達は大袈裟にはしない。
はっちゃけそうな曹嵩ですら、自重している。
裏を返せば、それだけ慎重な訳だ。
これは曹丕の事を思えばこそ。
多くの者が曹丕を“曹皓と曹操の嫡男”としてしか見てはない為でもある。
勿論、身内は違うのだが。
其処に期待する気持ちが全く無い訳てはない。
それは仕方が無い事だろう。
それ程に二人の存在感・影響力は格が違う。
だが、曹丕が同じ様には成れないし、出来無い。
それは曹丕が劣るという意味ではない。
曹皓と曹操が特異過ぎる為だ。
──が、それは外側からは理解し難い事。
「自分達とは違う」とは判っても、上の中にも有る差というのは、下の者には理解が及ばないもの。
理屈としては、納得は出来たとしても。
それを真に理解する事は出来無い。
何故なら、その域に立ってはいないのだから。
そんな者に理解が出来る筈も無い。
故に、人々の思考は中途半端で終わる。
その結果、大雑把な期待だけが残ってしまう。
それは中々に避け難く、規模が大きい程に困難に。
曹皓達の場合、事前の回避策は不可能に等しい。
その為、他ではなく、曹丕の方に主眼を置いた。
将来的に曹丕が打付かるだろう状況や壁を想定し、早い内から対策を身に付けさせる。
特に、「親は親、子は子、自分は自分」と言い切る事が出来る様な思考と精神を養う。
それが出来さえすれば、大抵の事には動じない。
見えない影に圧し潰されてしまう事は無い。
そう考えて、である。
曹皓達にしても曹丕に期待していない訳ではない。
ただ、覚悟も無く押し付けられるのと。
自身で考え、覚悟を持って、背負うのとでは違う。
それを誰よりも理解しているからこそ。
曹皓達は決して、期待を子供達には見せない。
…多少の誘導や囁く事は有るが。
それでも知識や喩え話、質問に対する回答としての範疇でしかない。
尤も、その匙加減が実に難しい。
だから、世の中の親は、ついつい期待を押し付け、子供に重荷を背負わせてしまう。
口では何とでも言えるが、実際には至難の業。
それを、この若さで出来る曹皓達が凄いのであり、決して真似したり、比較するべき事ではない。
それこそ、正しく“他所は他所、宅は宅”だ。
我が子は、自分達の子供であり、誰の子でもない。
だから、我が子と向き合う事こそが真の正解。
それ以外は参考にはなっても正解には成り得ない。
模倣では、決して本物には至れないのだから。
「今日は緊張した?」
「はい、少しだけ…
でも、皆が居てくれて、とても楽しかったです!」
「そう…それは良かったわ」
曹皓の質問に、曹丕は本の僅かに苦笑したが直ぐに先程までの事を思い浮かべ、笑顔を見せる。
それを見て曹操が優しく微笑む。
誕生日の御祝いの宴が終わり、解散した後、曹皓の私室──寝室ではなく、趣味用と物置を兼ねている部屋に三人は移動した。
物置とは言っても片付いてはいない物で溢れている汚部屋の類いなどではない。
他者を招いても全く問題の無い状態。
飽く迄も、それが曹皓の用途であり、自他を含めた認識であるが故の表現。
だから、応接室と言っても可笑しくはない。
そんな曹皓の私室には、ある特徴が有る。
曹家では、今では当たり前に為っている“和室”と呼ばれる畳敷きの部屋な事。
田静が滞在中に材料となる藺草を見付け、試行錯誤した末に完成させたのが、その畳。
曹皓だけでなく、曹操や劉懿達の私室にも有るが、全面ではない為、和室と呼ばれてはいない。
その辺りは田静の拘りが残っているとの事。
曹皓達との交流から今は孫家・馬家、王尚花達にも愛用されていたりする。
そんな部屋で、曹丕は曹皓達と向き合う形で座る。
ある意味、これが本番とも言える為、曹丕も多少の緊張はしている。
ただ、それ以上に自分も真名を授かれる事が。
この世に生を受け、死んで逝った数多の人々が築き上げてきた社会の中の一人として認められる事が。
素直に嬉しい。
その歓喜の方が勝ってしまう。
そんな曹丕の様子を二人は愛しく思う。
一般的な子供らしさは無かった、という自覚が有る二人でさえ、この瞬間だけは大差が無い。
ある意味では、真名を授かる事で、本当の意味での生を受けるとも言えるのだから。
それを嬉しく思わない子供など居はしない。
この瞬間に限れば、誰しもが同じ様なもの。
社会的にも無垢なままで居られる最後。
だからこそ、“人は二度生まれる”と言われる。
これからが、曹丕の本当の歩みとなる。
「それじゃあ、先ずは字を見せるね
これが、丕の真名だよ」
「…………初めて見る字です」
「中々、普段は使われない者だからね
ただ、この字は母さん──丕の父方の御祖母さんが話してくれていた事に由来するんだよ」
「田静御祖母様に?」
「俺の真名の音は遠い異国の地で、“百獣の王”を表すらしいんだ
その、別の表し方を“獅子”というらしい」
「獅子…」
「“獅”の一字だけでも、意味としては変わらないそうだから、獅子とは“百獣の王の子”という風に受け取る事も出来るわ」
「獅子の…父上の子…」
「そして、もう一字の“琅”は私達の真名の字から由来しているわ」
「父上と母上から…」
自分の真名の字に込められた意味を。
その真名を紡ぐ沢山の縁絲を。
曹丕は感じ取りながら、小さく息を飲む。
それは無意識の事だろう。
ただ、自分の真名が、如何に重みの有る物なのか。
それを感じ取ってくれている事を二人は尊ぶ。
「曹丕に、この真名を託して良かった」と。
そう思えるのだから。
自分の真名の字を見詰める曹丕が気付かない程度に二人は視線を重ね──小さく笑う。
「誰に似たのかしらね?」「誰だろうね」と。
遠き日の、懐かしい面影を思わず重ねてしまう。
覚えようと、理解しようと。
その字を食い入る様に見詰める姿に。
暫しの後、曹丕が我に返り、顔を上げた。
一瞬、不安そうにするが、二人は笑顔で頷く。
「大丈夫よ」「さあ…」と。
そう言外に促され、曹丕は今日の為に覚えた礼節を思い出し、姿勢を正す。
それを確認し、曹皓が曹丕へと告げる。
「我等の子、曹丕よ、此処に汝が真名を授ける
汝が真名は──“獅琅”
王の子が王に非ず、人に認められ、王は王と成る
人生は自分自身の物だが、自分の力や知恵は自分の為だけの物とは限らない
直ぐに解らなくてもいい
だから、その事を決して忘れずに」
「はい、曹丕、確と真名を賜りました」
しっかりと身に付けた礼節で締め括る曹丕。
真名の書かれた紙を持ち、一礼をして退室。
約束している皆の元へと向かって行った。
走り出したくなる高揚感を、性根の真面目さが抑え込んでいるのを感じる。
だから、二人は顔を見合せて苦笑する。
「こんな時だから子供らしくても良いのにね」と。
曹丕が十分に離れたのを見計らい、ノックされる。
返事を受け、入室するのは韓浩達。
「無事に終わったみたいだな」
「真名の授与で問題が起きる方が可笑しいわよ
貴男でも、ちゃんと出来たのでしょう?」
「あー…確かになぁ…」
曹操の皮肉にも動じず、納得する韓浩。
その神経の図太さには曹操も小さく溜め息を吐く。
今更、何を言っても変わりはしないのだから。
「玲生様、如何でしたか?」
「んー…まあ、予想通りだね
ちゃんと理解もしていたし、変に気負ったりもする様子は見られなかったから
勿論、まだ此処からだけどね」
「…本当、厳しいよなぁ…」
「甘やかしても自力で成長してくれるのなら私達もそうするのだけれど…
先ず、そんな事は有り得ないわ
甘やかされれば甘やかされただけ、人は弱くなり、脆くなり、歪んでしまい易いものよ」
「だからと言って、厳し過ぎても潰れるからね」
「その加減ってのがマジで難しいんだよなぁ…」
「子が生まれたら、親に成れる訳ではないもの
私達も子供達と同様に親として成長しなくてはね」
「……そう考えると戦ってる方が楽だよなぁ…」
「楽を考えれば、楽な事ばかりを探すからね
でも、“楽をする”のは怠けたりする意味じゃなく何事も楽しむ姿勢の事だから
其処を履き違えると人は簡単に道を外れるからね」
「結局は、事の良し悪しは自分次第って訳か…」
「そういう事よ」