十一話 疫者三誘
程遠志が率いていた黄巾党の一隊を殲滅し、犬城を解放した曹皓達は兌州の酸棗に移動。
同時に朝廷──皇帝に掴んだ情報の事を報告。
只し、邪魔をされては元も子も無い為、朝廷側から官軍を派遣する様な事が無い様にも進言。
それは牽制ではなく、保険。
現状で自ら墓穴を掘りに動く馬鹿は先ず居ない。
どんなに曹皓達が戦功を上げようとも、笑顔を作り誉め称える事しか出来無い。
それ以外はどんな屁理屈だろうと何をしたとしても自滅する未来しかないのだから。
ただただ、大人しくしているのみ。
黄巾の乱が過ぎ去るのを待つばかり。
その一方で曹皓の言った様に裏取りを実行。
予想通り、と言うべきか。
張角達の率いる本隊が動く事は間違い無いと確信。
だが、万が一の可能性は考えられる。
「それなら…」と、掴んでいた他の黄巾党の情報を戦功を望む諸侯の耳に入る様に譲渡。
手柄を欲している諸侯は我先にと動き出した。
そうする事で黄巾党の戦力を削ぎつつ、諸侯からの注目も然り気無く逸らし、状況を整える。
傍らに居た韓浩が「この似た者夫婦が…」と思わず漏らしてしまった程に。
世の情勢を把握し、制御し、操作する姿には畏怖を禁じ得ないのだから。
勿論、本人達を知っていればこそ、恐怖心や不信感といった感情とは結び付きはしないのだが。
それはそれ、これはこれ。
尊敬もするが、敵に回したくないのも本音。
「マジで親友や家臣で良かった…」と。
嘆息した韓浩に皆が無言で頷いたのは秘密である。
「孫策、今回は大人しかったのね」
「曹丕が居るからのぅ」
「あら、漸く自覚したの?」
「残念ながらまだじゃな…
全く、誰に似たのか…
以前は自分から嫁になると宣っておったのに…」
「それは理想や憧憬と、見初めの違いよ
自分の中に有る幻姿ではなく、目の前にして初めて理解の出来る実感だもの
それに父親達以外で初めて目にした強者でしょう?
一時的とは言え、熱に浮かされもするわ」
「それはまあ……確かにのぅ…」
「だから、戸惑ってもいるのでしょうね
理想や憧憬に対する感情の高ぶりは母親達相手でも変わりはしないけれど、恋愛は違うわ
自分の中に有る感情に、はっきりと名付けられない
その、どうしようもない不安定さに
あの御転婆にしたら可愛らしい事じゃない」
「どうせなら、その御転婆通りに積極的に行ければ喜ばしいんじゃがのぅ…」
「そういう意外性も魅力になるものよ」
「そういう物なのかのぅ…」
「自分しか知らないというのは嬉しいでしょう?」
「ああ、成る程のぅ…そう言われると判るのぅ」
「まあ、傍に周瑜も居るから大丈夫よ
意識する時は来るし、其処で遠慮して引き下がれる程度なら舞台には上がれないもの」
「むぅ……そうなるのはのぅ…」
「こればっかりは成る様にしか成らないわよ」
そう黄蓋に言う曹操。
だが、「尤も、本人が自覚していないだけで端から見れば答えは明確でしょう?」と。
思わず言い掛けたのを呑み込んだ。
どうやら、黄蓋も気付いてはいない様子。
それなら、下手な事を言って黄蓋が意識した結果、孫策の方に影響する可能性は考えられる。
──と言うか、そうなる可能性が高い。
だからこそ、曹操は敢えて口にはしなかった。
その方が長く楽しめるのだから。
そんな妻達の会話する側では夫達が顔を突き合わせながら持ち運びが楽な折り畳み式の卓に広げられた簡易地図を見ながら話をする。
「現状、諸侯軍と黄巾党の各地の戦況は五分ですが均衡は長くは続かないと思います」
「黄巾党は補給を潰され、繋がっていた支援者達を悉く失っていますからね…
長期戦は出来ず、短期戦での勝利も難しい」
「──となると、瓦解するのは時間の問題か…」
「散々になった残党は?」
「逃げ場は限られるので放置します
勿論、此方等に来れば掃除しますけどね」
そう言い切る曹皓に苦笑する周異・孫堅・曹嵩。
だが、それが実際の対応ではあるし、それ以外には対処方法を考える気もしない。
どんな主義・主張を掲げようとも、武力行使に出た時点で民を脅かす害悪と確定した。
その害悪に対して、掛ける慈悲など有りはしない。
民の上に立つのが施政者ではない。
民を背負うのが施政者である。
故に、民を害する存在は施政者の敵でしかない。
尤も、その害悪に堕ちる施政者が多いのも事実。
それだけ地位や権力、或いは金品等も含めてだが。
人を狂わせ、変え、執着させ、破滅させる。
人類が社会形成と発展の果てに生み出した仕組みが人類を害し、侵し、滅ぼす悪種となっている。
何とも皮肉なものである。
それはそれとして。
曹嵩・孫堅達が曹皓達と居るのは呼ばれたから。
豫州にて劉懿と陸遜が子供達の面倒を見ながらも、万が一に備えて控えている中で。
曹皓達は曹嵩達にも戦功を上げて貰い、黄巾の乱の活躍を──否、裏面を隠す事にした。
当然だが、何故そうするのか、は説明済み。
俄には信じ難い内容ではあるが、曹嵩達も同じ様に氣を扱う者であるが故に疑いはしない。
勿論、色々と理解不能な部分は有るけれど、曹皓の口から「自分達も全てを理解は出来てはいない」と一言有ればこそ、判らない事にも納得する。
それだけ、曹皓達への信頼は確かなのだから。
その上で現状の報告と確認、情報の共有をしているというのが、今の曹皓達。
曹操と黄蓋は妻同士の世間話。
我が子達の恋愛事情が話題なのは今更である。
話し合いが終われば曹嵩達は曹皓達と決めた各々の持ち場へと移動して行った。
ゆっくり話したいが、今は遣るべき事が有る。
其処を疎かにはしない。
其処へ周辺警戒と偵察から戻った韓浩達。
仲間外れにしたのではなく、少数精鋭で配置して、万が一の情報漏洩を懸念すればこそ。
鼠──否、蟻一匹も見逃さない。
そういう厳戒態勢が必要だった為である。
「一応確認の為に聞くけど、どうだったんだ?」
「問題無し、予定通りだよ」
「…って事は、あのえげつないのを遣る訳か…」
「効率的と言って欲しいわね」
ボソッ…と呟いた韓浩の一言に曹操が切り返す。
別に怒ったりはしていない。
寧ろ、ちょっと得意気にさえ見える。
曹皓が「華琳てば可愛いな~」と思う程度には。
ある意味、慣れてしまった程度の苛烈さ。
──否、韓浩達も十分に染まっていると言える。
曹嵩達との話し合いから数日。
予想していた通り補給の為の安全・確実な運搬路や人員確保が困難な上に、抑として物資が乏しい。
その為、以前の様な勢いは無く、劣勢。
猛り火が燃え広がる様に急速に拡大した黄巾党。
最大の利であった数の力。
それが今は自らの首を絞めている。
計画的で、綿密に算段された事ではないが故に。
勢いのまま押し切れず、長期化した結果。
戦争というのは、長引けば長引く程に泥沼化して、あらゆる面で負債や悪影響を生み出すだけ。
仮に勝利したとしても、その果てに得られるものは高が知れているし、勝利者が背負うのは困難。
つまり、短期決着のしない戦争は自滅と同じ。
確実に、そう出来無いのであれば、戦争は遣るだけ無駄であり、無意味だと言えるだろう。
ただ、そうは考えられないのが人間でもある。
また、現在参戦している諸侯は手勢を温存していた強かさを持つ者達でもある。
それ故に黄巾党を侮る事は無く、確実に削り取り、追い詰めていっている。
だから、短期的には拮抗しているかの様に見えるが実際には余力という意味では格段の違いを持つ。
そんな諸侯達だが、曹皓達から見れば不合格の印を押す者達も混じっていたりする。
その混ざり者を。
この機に取り除いてしまおう、というのが曹皓達が曹嵩達に協力して貰った理由の一つでもある。
露骨に遣ると警戒されてしまうから、間接的に。
直接的ではないから、付け入る隙も生まれてくる。
曹皓達にとってみれば、これは戦争ではない。
愚かな者が浅はかな真似をし、愚かな者が応じた。
それだけの事でしかなく。
正直に言って、他人事。
どうでも良かったりする。
ただ、利用価値が有るから関わっている。
それが本音だったりする。
勿論、黄巾党の裏で暗躍している存在の事は別で。
それは自分達が片付けなければならない案件であるという事を理解してもいる。
そんな曹皓達は、記されていた合流予定の場所から離れた場所に陣を敷き、情報収集。
本隊だろう一団の発見、監視。
その上で、近付き過ぎない様にしながら偵察。
「玲生様、華琳様、思春からの伝令です
張角達らしき人物を本隊に確認したとの事です」
「そう……本物だと思う?」
「…正直、判断が難しい所だね
今の所、張角達の人相も統計上の物だから
仕組まれている可能性は完全には消せない」
「でもよ~、最初から玲生達を狙ってないんなら、其処までは遣ってないんじゃないのか?」
「私達が狙いではなくても、正体を知られない為に態と偽の情報を流したり、バラ撒いて掴ませていた可能性は考えられるわ」
「けどさ、それだと漢王朝を倒せた時、次の皇帝に成るのは偽物って事になるんじゃないのか?
勝ってから「自分こそが本物なんだ」って言っても信じて貰えないかもしれないし、偽物に裏切られて存在しなかった事にされるんじゃないか?」
「おおっ、康栄にしては鋭いな」
「翠、そういう事を言うと自分に返ってくるぞ?」
「ぅぐっ…まさか、春蘭に言われるとは…」
「ふふん、私達は経験豊富だからな」
「…姉者よ、威張る事ではないぞ」
普段通りの夏侯惇と馬超の遣り取りに苦笑が溢れ、オチを付ける様に夏侯淵が小さく呟く。
一連の流れで、自然と場の雰囲気が程好く緩む。
事が事だけに仕方が無いのだが。
あまりピリピリし過ぎていても良くはない。
だから、こういう時の皆の積極的な発言を曹皓達は大事にしているし、必要としている。
集中を妨げない私語は邪魔ではない。
それは時として見えていなかったものを見せたり、気付きの切っ掛けとなるのだから。
その為、曹皓達は決して韓浩達に「黙って従え」と言う事は無く、そんな事を思いもしない。
勿論、彼是言っている時間が惜しい事も有る。
しかし、そういった迅速さが必要な状況であれば、皆が自ら判断し、そう行動する。
それが出来る様に鍛え上げているのだから。
「出来ません」とは言わせないし、言わない。
それが曹皓達の信頼の形なのだから。
「…ですが、康栄の意見も頷けるものでは?」
「その可能性を否定する理由なら単純だよ」
「…と仰有いますと?」
「本物の張角達か、或いは裏に居る何者か、それは定かではないけれど、端から勝つ気が無いなら?」
『────っ!!』
韓浩の意見に思う所の有った曹仁。
それを即座に否定した曹皓の後を引き継いだ曹操の言葉に全員が思わず息を飲んだ。
それは、ある意味では根底──大前提を覆した。
──が、そう考えると、納得出来てしまった。
「そんな馬鹿な…」と思ってしまう所だが。
「それ位の事は遣りそうだ」とも思えるから。
「まあ、飽く迄も可能性としては、だけどね」
「何にしても、確証が何も無い以上、どんな仮説も可能性の一つでしかないのが現実…
腹立たしいけれど、その徹底した隠蔽は見事だわ
敵ながら、称賛に値する位にね」
「──とは言え、遣ってる事は外道も外道だから、飽く迄も、其処は、だけどね」
そうは言っているが、二人の気配は剣呑。
それだけの悪行を遣っているのだから当然だが。
言外の殺気や嫌悪感を感じ取ればこそ。
韓浩達も煽られる様に闘志を高める。
甘寧が率いる偵察隊が戻れば、いよいよ、となる。
黄巾党本隊の総数は二万。
対する曹皓達は二百。
単純に見れば百倍の兵力差。
だが、個々の力量差が百倍だとするなら。
数字の上では同等という事になる。
相手よりも多くの兵数を用いるのが常道。
しかし、実際の戦場では兵一人が相対する敵の数は多く見積もっても十人程度。
囲まれたとしても、一度に近寄れるのは五人程。
その為、兵数の有利性を活かすには、槍や弓矢など中・長距離の攻撃を主軸にするもの。
要は、数の暴力とは削りである。
そして、“数を撃てば当たる”の考え方。
一斉射するなら、十より百、百より千、千より万。
槍にしても、一斉に構えれば攻防一体の人垣に。
そうして相手の戦力を削いでから、押し込む。
兵数で勝る場合、その多くは受け始動。
相手が接近するのを待ってからでなければ、効果を発揮する事は難しい。
何故ならば、兵数を以て戦う場合、数が多いが故に纏まって動く必要が有り、小分けには出来無い。
小分けにすれば、求められるのは個々の質。
質が劣るから、数で補う。
それが常道の根底である以上、小分けにしてしまう遣り方は自らの身体を切り捨てる様なもの。
だから、常道を用いる場合、如何に全軍で行軍する事が出来るのか、が最重要となる。
当然だが、兵数が多ければ多い程に進路は限られ、敵に限らず、周囲からは見え易くなる。
これまで、張角達の居る本隊の所在を掴めなかった一番の理由が、少数精鋭による行動。
そう曹皓達は考えていたが──今は変わった。
張角達か、何者かは判らないが。
意図的に隠していた。
だから、見付けられなかった。
そう考えた方が自然だと言えるのだから。
しかし、その折角の隠密性を今回は捨てた。
それだけではなく、二万という大軍となって登場。
曹皓が言っていた様に誘いとしか思えない。
ただ、だからと言って曹皓達も真っ向から戦う様な愚策を遣りはしない。
数が多くなれば動きが鈍るし、反応が悪くなる。
数と数で戦っても勝てはするだろうが、その勝利の犠牲となる兵数も無視は出来無い。
そうなるよりかは、少数精鋭の方が良い。
少数であれば相手からは発見され難いし、行軍する進路も選択肢が増える。
必要となる糧食や物資の量も抑えられる。
何より、質で勝る事で、更に少数での行動が可能。
偵察をしていた甘寧達の様にだ。
そして、少数精鋭だからこそ、一度散ってしまえば強制的に乱戦に持ち込む事が出来る。
乱戦になれば、相手は同士を懸念・警戒する。
密集しているが故に動き辛くなる。
槍や弓矢が主要武器だから近距離戦には不向き。
つまり、少数精鋭の方が圧倒的に有利となる。
近付く際には迎撃されない様に注意が必要だが。
矢雨も槍垣も突破する事は難しくはない。
それが容易く出来る程度の力量の者達を選抜しての精鋭中の精鋭なのだから。
勿論、戦いが長引けば数の暴力に屈してしまう事も考えられるのだが。
その程度の危険性は仕方の無い事。
完全に安全で、万全で、十全な戦いなど無い。
常に、あらゆる可能性が、刻々と生じては消えてを繰り返しているのだから。
それを見極め、率いるのが曹皓達の仕事で責任。
負傷なら構わない。
可能な限り、誰一人として死なずに生還する。
勝利よりも、曹皓達は生存──人命を優先する。
尤も、敵に対しては一切容赦はしないのだが。
施政者として民を脅かす敵を人とは思いはしない。
戦場で敵に掛ける慈悲程、無駄なものは無い。
それは所詮、自己満足・自己陶酔・自己偽善でしかないのだから。
合流予定地まで凡そ一日。
周囲が開けた平原にて黄巾党の本隊は夜営の準備を行っていた。
多少の起伏が有るが、概ね見通しが良く、森林等の身を隠していた接近出来る場所は無し。
狙われる側としては合格点の選定。
予定地まで一日とは行っても、実質的には四半日と掛かりはしない。
それも普通に歩いて、である。
勿論、だからこそ、警戒は厳重。
本隊である為、見張りを怠る様な愚か者は居ない。
──が、上には上が居るのが現実である。
音もなく、敵陣内に着地。
序でに、撫でる様に側に居た者を斬った。
悲鳴も、斬音も無く、血花が夕暮れの空に舞う。
「…?、雨か?」
頬を叩いた滴。
それを指先で拭いながら空を見上げた男。
だが、夕暮れの空に掛かる雲は遠くの山の先。
頭上には雨を降らせる様な雲は一欠片も無い。
「気の所為か?」と自身の指先を見て──気付く。
それは水滴ではなく、赤いという事に。
そして、再度頬を叩いた滴が飛んできた方向に顔を向けた──その瞬間に。
視界が、反転する様に宙を転がる。
そのまま、思考は停止する様に鈍り──暗転した。
「────てっ、敵し────」
言い切る事無く、途絶えた声。
だが、その一言で波及する様に他の者の意識を叩き振り向かせるには十分だった。
声のした方に次々と集まる視線。
しかし、その視界に入ったのは舞い散る花片。
あまりにも幻想的で、予期せぬ絶景に思考は停止。
理解しようとする思考が働く前に魅入ってしまい。
そのまま人生は終わってしまう。
それでも、花が咲き散るより、波及する方が早く。
二百と数えるよりも先に黄巾党は身構えた。
そんな彼等が目にしたのは、たった二人。
白い髪の男と、深紫の髪の女。
何方等も見るからに自分達よりも歳下。
それなのに、見ただけで身体が動かなくなる。
意味の判らない震えが始まり、可笑しな汗が流れ、中には歯を鳴らす者も居る。
何も判らない──が、解る事も有る。
目の前に居るのは自分達に絶望を齎す者なのだと。
そうして、騒付き掛けていた場は静まり返り。
誰かが息を飲む音が聞こえてくる中で。
声を出した者が居た。
ただ、それは勇気によるものではない。
経験した事の無い恐怖に耐えきれず、この状況から逃れようとした悪足掻き。
──否、自棄糞だった。
しかし、そんな切っ掛けでも、状況は動く。
流れ始めた水の勢いが止まらない様に。
動き出した黄巾党は二人に向かって襲い掛かる。
──その瞬間を待っていたかの様に上がる叫び。
前衛は仲間の加勢だと思い、前進。
だが、中衛は違和感を感じて足を止め、振り返る。
そして目にするのは後衛の悲鳴や絶叫。
中央に居る二人に向かう黄巾党。
その背後──外周から襲い掛かったのは曹操達。
黄巾党を包囲する様に円陣を敷き、前進。
中央に向かって絞り込む様にしながらの殲滅戦。
「一人も逃がしはしない」という気迫に、黄巾党は気圧され、思わず足を止める。
それは「どうぞ、殺って下さい」というのと同じ。
曹操達は足を止める事無く、突き進む。
判断を迫られるのは中衛に位置する者達。
中央に向かうには前衛が邪魔であり、外に向かって逃げ出すには後衛が邪魔。
──とは言え、後衛の方が減りが早い。
穴が開く可能性だけを見れば、外の方が高い。
ただ、外から迫ってくる人数は中央よりも多い。
中央の二人を相手にした方が生き残れる気がするが中央に辿り着けるのかは難しい。
そんな風に考えている間に──視界が回る。
「──ったく、数だけは多いから面倒臭ぇな…」
そう呟きながら愛剣を振るって進む韓浩。
乱戦とは言え、実際には少数精鋭の部隊を編成して配置されている。
韓浩は西隊を率いている。
文字通り、西側から進撃する部隊。
夏侯惇達も同じで、各々に隊を率いている。
その中で唯一、完全に独立しているのが曹操。
配置上は曹仁の隣に居るが、曹仁は隊を率いる身。
だから、足並みを揃えている。
しかし、曹操は御構い無し。
中央の曹皓と甘寧の元を目指して突き進む。
──が、正確には少し違う。
それは曹皓は内から、曹操は外から。
最短距離を進む為のもの。
張角達が居る筈の天幕を目指して。
曹皓達は陽動であり、囮であり、本隊でもある。
開かれた顎が獲物の首筋に噛み付く様に。
その対牙は、しっかりと血肉を貪る。
「ええい!、何がどうなっているっ?!」
「兄者よ!、直ぐに脱出するべきではっ?!」
「何処から逃げるというのですかっ?!
敵ではなく、味方に囲まれて逃げ場は無いのに!」
「くっ…だが、このままでは戦えもせぬぞっ?!」
「判っています!、しかし、どうすれば──」
「──あら、思っていたよりも小物みたいね」
「「「──────っっっ!!!???」」」
天幕の中で喧嘩している三人の壮年の男達。
其処に入って来たのは曹操。
三人を見て、情報の人相通りの人物だと確認。
ただ、「…その割りには低俗な印象ね…」と。
自分達が想定していた印象から遥かに下回っている事に対して少なからず疑問を懐く。
勿論、期待外れだったり予想や想定が外れる事など珍しくもない。
特に、人に関しては。
だから、何も可笑しくはない。
これが、普通であれば。
「確認するけれど、張角、張宝、張梁ね?」
「──っ、先ずは貴様が名を名乗れっ!」
「生憎と塵芥に名乗る名は無いの」
「なっ!?、馬鹿にしおって──」
「──あ、もう確認終わった?」
「今していた所よ」
其処に平然と入って来たのは曹皓。
そして、曹皓を、並ぶ二人を見て──気付く。
「──貴様等っ、曹家の対龍かっ!」
“曹家の白龍”と称される曹皓。
“曹家の賢龍”と称される曹操。
二人が夫婦である事から、“対龍”とも称される。
直接の面識は無くとも、揃って並べば嫌でも判る。
それだけ、有名なのだから。
「だったら、名乗る必要は無いわよね?」
「くっ、朝廷の犬めがっ…」
「質問にも答えない愚か者な上に失礼ね
私達は朝廷に尻尾を振ったりはしないわよ」
「黙れっ!、貴様等の様に力の有る者が私利私欲で好き勝手しておるから民は苦しむのだっ!
我等は、その間違いを正す為に立ち上がったっ!」
「間違いを正す、ねぇ…
本気で言っているのなら、救えない愚かさだわ」
「──っ!?、馬鹿にするかっ!?」
「それ、さっきも聞いたわよ?
もう少し語彙力は無いの?」
「ぐぬっ…」
「民を苦しめる、と言ったわね?
では、黄巾党のしている事は何なのかしら?」
「正義を成すには犠牲は付き物だ!」
「そう…それなら、間違いっているという朝廷も、正義を成す為に民の犠牲を強いているのだとすれば間違っているのは黄巾党という事になるわね?」
「屁理屈を言うな!
全ては朝廷が間違っておるからで──」
「話に成らないわね」
「──なっ!?」
「民の犠牲を必要とする様な事であるなら、それは如何なる正義も主義・主張も間違いよ
それで誰もが納得すると思うのかしら?
する訳が無いわよね?
その時点で、既に矛盾しているのよ
その上、武力を行使した
力で解決しようとしたら、犠牲が出る事は必至
そんな単純な事すら理解出来ずに力を行使した者が何を言おうとも、それは全て言い訳や詭弁
正義とは、誰もが言葉によって納得する事
決して、力を行使して成されるものではないわ」
「だ、黙れっ!、貴様等も同じではないかっ!?」
「同じ?、何を言っているのかしら?」
「貴様等も力で解決しているだろうがっ!」
「ええ、そうね」
「ならば、貴様等にも正義など無いではないか!」
「あら、どうやら勘違いしているみたいね」
「勘違いだとっ!?」
「私達は、自分達の行いを正義だなんて言った事は一度も無いわ」
「何を馬鹿な事を!、誰に聞いても貴様等の評価は良いではないかっ!」
「それは嬉しい話ね」
「このっ…何処まで馬鹿にすれば気が済むっ?!」
「馬鹿にされたと思うという事は、心当たりが有るという事でしょう?
他人の所為にして文句を言う前に自らを正しなさい
まあ、それが出来ていれば、こんな真似は遣ってはいないでしょうけどね」
「このっ…」
「お、落ち着け兄者っ!
こんな小娘に我等の崇高な意志など判らぬわっ!」
「崇高な意志?、駄々を捏ねる子供以下の我が儘を随分と持ち上げているのね
…ああ、御免なさい、だから、その程度なのよね」
「何だとっ!!」
「兄者に「落ち着け」と言った矢先に挑発に乗ってどうするのですかっ!
そう遣って冷静さを奪うのが狙いです!」
「──はっ!?」
「そんなつもりは無いわよ?」
「フンッ!、もう乗せられはせぬわっ!」
「何を言おうが、貴様等も同じであろう?」
「だから、違うと言っているでしょう」
「力を示して、今の地位を得たのだろう?」
「それはそうでしょう
非力な者・無能な者が民を背負えはしないもの」
「ならば、我等と何が違うのかっ!
正義を成す為に犠牲になった者が居る筈だっ!」
「それは賊徒の事を言っているのかしら?」
「違う!、貴様等の所為で死んだ兵達だっ!」
「居ないわよ」
「ほれっ、何も言え────何?」
「私達が率いた兵に死者は一人も出していないわ」
「………そ、そんな事が有る訳が無いっ!」
「さっき、自分で言った事、覚えているかしら?」
「な、何の事だ?!」
「私達は自らを正義とした事は一度も無いわ」
「だから、それは民が──」
「そう、民が私達を正義だと認めたのよ
決して、自称した訳ではなくてね」
「「「──────っっっ!!!!!!」」」
「決定的に違う事を理解出来たかしら?
正義というのは民が認めて初めて成るもの
勿論、利益を享受する様な立場にある民ではなく、客観的な立場にある民によってよ
私達の事を正義だと言ったのは曹家の者?
兌州や豫州の民?
違うでしょう?、その多くは冀州の民
利害とは無関係な民が認めた正義こそが本物よ」
そう曹操が言い切った所で兄者と呼ばれている男は後ろによろめき、そのまま尻餅を着いた。
「そ、そんな……それでは、我等は一体……」と。
突き付けられた事に衝撃を受けているかの様に。
短気そうな男も、多少は小賢しそうな男も。
差は有れど、戦意を喪失する程度には茫然自失。
その様子に曹操は眉根を顰める。
隣に立つ曹皓を見れば、視線が重なる。
「どう思う?」「違和感しかないね」と。
意志疎通した後、直ぐに三人に視線を戻す。
──が、その一瞬の出来事だった。
気付いた時には男達の身体は変異を始めていた。
苦痛に奇声を上げるが、抗う事など出来はしない。
所詮は捨て駒なのだから。
「グゥ…ァヂョオォ…グザ…ムヴァ…ヌァズェ…」
助けを求める様に必死に虚空に手を伸ばす。
だが、それに応える者など居はしない。
自業自得だと言えば、それまでの話なのだが。
極論、助ける価値が無い。
社会にとっては不要な存在なのだから。
助けようと思う理由も有りはしない。
非情な様だが、それが全て。
それだけの事なのだから。
曹皓達は天幕から飛び出し──追い掛ける様にして変異した三人が混ざった巨躯の怪物が天幕を破って、産声の如く咆哮する。
残りの兵数が千を切っていた黄巾党。
そんな物が、この世に存在するなどとは想像さえもしていなかっただろうが故に──停止。
思考も行動も出来ず、ただただ立ち尽くす。
そして、怪物は動く。
曹皓達──を無視して、黄巾党に向かって。
曹皓達は勿論、韓浩達にも予想外の行動。
その為、反応は遅れてしまう。
だが、次の瞬間には切り替え、距離を取る。
「──っ、マジかよっ…」
「……は?、人を喰ってる?…」
「いや、あれは取り込んでる」
「どう違うんだ?」
「判り易く言えば、本体が他を取り込む事によって大きな鎧を全身に作ってるって感じかな」
「……判る様な、判らない様な…」
「なら、泥団子や雪玉を大きくする感じ」
「ああ、成る程、それなら判る」
「…アレ、二十尺超えてない?」
「滅茶苦茶猫背だし、伸びたら有るかもな
──と言うか、あんな体型で、よく倒れないよな」
「体幹も強靭、という事ですか…」
「見た目に反して素早い可能性も考えられるな」
「ある意味、生物としての究極って事か?」
「さあ、それはどうかな…
個人的には、ああいう方向性は好ましくないけど…
実は、ああいうのに憧れてるとか?」
「冗談でも笑えねぇって」
──という呑気な会話の間に残っていた黄巾党に、屍となっていた者まで全てを平らげた。
巨大な腕と胸や肩に対して引き締まった様に見える胴体だが、それでも曹皓達の倍以上の大きさ。
逆三角形の姿は山羊の頭の様にも見える。
しかし、その巨躯は純粋な質量が釣り合わない。
そういう意味では、喰らったというのも間違いとは言えないのだろう。
吸収し──必要な物だけを選別して利用する。
生物が生きる為に食事等をするのと同じ様に。
怪物は自らを強化する為に同族を貪った。
正しく、黄巾党という怪物と成って。
「随分とまあ、洒落と皮肉が利いているわね」
「言ってる場合じゃないけどね」
そう言いながらも曹皓は視線は外さずに、手や指で指示を出し、戦域外へと兵達を退避させている。
同時に韓浩達と共に包囲陣を形成。
これが現状での最善策。
屍が異形と化した場合なら兎も角、意識の有るまま変異した怪物を相手にするには拙い。
弱い訳ではないが、犠牲を出さずに、は困難。
それを理解しているから、精鋭である彼等彼女等は曹皓の指示に迷う事無く従う。
自分達が足を引っ張る事になれば悔やんでも悔やみ切れないし、最悪、取り返しの付かない事になる。
そんな責任を背負う事など出来はしない。
だから、戦場に自尊心や拘り等は持ち込まない。
目的の為の最善。
その判断と選択と実行が全てに最優先されるから。
「アァー……喰ッタ、喰ッタ……」と言うかの様に暫し天を仰ぐ様にしていた怪物。
──と、無造作に四股を踏んだ。
「──散開っ!!」
一瞬早く、曹皓の声が響き、全員が飛び退く。
その、空中に身体が浮いている状況で、怪物により地面が踏み砕かれ、弾ける。
爆散するかの様に飛び散る飛礫。
氣を纏う曹皓達に掠り傷を付ける事も無い。
──が、瞬間的にとは言え、反射的に顔を庇って、視界に死角を作ってしまった。
その隙を、怪物は利用した。
地面を踏み砕いた右足に最も近かった曹仁・馬洪に対して振り抜かれた右腕。
裏拳──いや、ただ、曲げて伸ばしただけの巨腕を二人は回避出来ずに叩き付けられた。
浮いていたとは言え、一振りで四十尺以上の距離を二人は飛ばされてしまう。
防御はしたと判っている為、心配はしていない。
だが、その膂力は侮れないと判る。
直撃を避ければ良い、という話ではない。
攻撃した際に迎撃──弾かれただけでも、ある程度飛ばされてしまうのだから。
それは曹皓達の包囲陣が崩れる事を意味する。
通常であれば、先ずは脚を攻め、動きを止める。
しかし、再生すると判っている以上、遣るのなら、一気に仕留めに行かなくては無意味。
勿論、それを曹皓達が出来無い訳ではない。
だが、目の前で吸収されたのは生死問わず二万人。
それだけの再生力を可能にする、となると…。
流石に曹皓達でも安易に攻めには出られない。
当然、逃がす気は無いのだが。
長期戦となれば、誰かが近付く可能性は有る。
それを止めるのは退避させた兵達になるだろうが、その背後を襲われてしまえば犠牲に。
──否、更なる再生力の源を与えてしまう事に。
そう考えると、削りつつ、どうにかして早く倒す。
それしかないのだが──どうするのかが問題。
ただ、考えていても答えは見付からない。
だから、曹皓は取り敢えず試してみるしかない。
そう考えて、皆に視線を向けた。
韓浩と夏侯惇が左右から同時に仕掛ける。
それに対して両腕を動かす怪物。
其処へ頭を狙った夏侯淵の精密射撃。
それを察した怪物は即座に両腕で頭を庇った。
その結果、韓浩達の一撃が怪物の両脚に。
──が、巨腕と同様に、大人の胴よりも太い巨脚を切り落とすという事は出来ず。
それでも、三分の一は斬り裂いたのだが──再生。
「だよな~」と韓浩達は飛び退きながら思った。
その韓浩達に怪物の意識が向いた、一瞬の隙。
背後から無音の神速で肉薄した曹皓の一撃が怪物の首を捉え──刎ね飛ばした。
──が、怪物の左腕は曹皓を捕まえ様と動く。
怪物の身体を蹴り、飛び退く曹皓。
曹皓が着地した時には頭が再生していた。
その一連の動きを見て、全員が苦笑を浮かべる。
頭を刎ねても死ななかったからではない。
頭を刎ねられても動き続けた事でもない。
刎ねられた頭が灰塵と化して消えて、直ぐに首から上が再生をしたからでもない。
頭が斬り飛ばされ、灰塵化し、再生するまでの間も怪物の巨腕は正確に曹皓を狙っていた事。
つまり、怪物は脳も視覚も聴覚も使わずに動ける、という事になるのだから。
「これを、どうしろと?」と。
そう思ってしまうのも仕方が無い事だろう。
けれど、それによって判る事も有る。
夏侯淵の攻撃で頭を庇ったのは意図的か、反射的。
前者であれば一度限りの初見殺し。
だが、後者であったなら。
それは生物としての本能が残っている証拠。
そして、頭も腕も脚も身体の末端。
そう考えたなら、何れだけ攻撃をしようとも無駄。
だが、胴体になら効果が期待出来る、と。
そうなると、真の本体が胴体の中に在る。
それならば何れだけ攻撃をされても平気だろうし、頭の有無に限らず、五感が働く可能性も有る。
そう仮定して、よくよく観察してみると、身体中に黒子の様な黒点が存在している事に気付く。
それが視覚・聴覚・嗅覚の器官であるのなら。
それを辿った先に本体が在る可能性は高い。
言葉を、声を交わさずとも。
曹皓達の意思は視線だけで通じ合う。
先陣を切ったのは曹仁と馬超。
槍を使う二人は脚を狙う。
二人を補佐する様に、馬洪と夏侯丹と甘寧が怪物を引き付け、夏侯淵が黒点を次々と射潰してゆく。
その効果が有ったのが、肉薄した韓浩・夏侯惇には反応する事が出来ずに両腕を斬り落とされる。
それと差が無く、曹仁達が脚を地面に縫い付けると曹操が首を刎ね飛ばす。
即座に再生しようと切断面が蠢くが、それより早く曹皓が胴体を縦横十字に四分断。
胴体の中には、蛹を割った様に別の頭が存在。
その頭は歪な形をしているが、曹皓達が会っていた三人の男達の面影を持っていた。
混ざり合っていた為、不気味でしなかったが。
断末魔の声を上げる事も無く灰塵化して──消滅。
敵とは言え、二万という命が痕跡も残さずに。
その異様な戦場で曹皓達は顔を見合わせる。
「…これで終わったのか?」
「そうだったら良かったんだけどね…」
「あの三人は最初から捨て駒の影武者ね
だから、人相等の情報も合致している筈だわ」
「それでは、張角というのも…」
「いや、名前は本当みたいだよ」
「そうなのか?」
「三人の内の一人が変異しながらも口にしていたの
「張角様、何故…」とね」
「そして、その際に手を伸ばした先に張角は居る」
そう言いながら曹皓達が顔を向けた先。
それを追う韓浩達が目にするのは暗雲の立ち込める今にも激しく荒れそうな山の向こう。
自然と表情が険しくなる。
その場所は──鉅鹿。
偶然か、必然か。
それは黄巾の乱が始まったとされる場所。
発端となる県令殺しが起きた場所だった。