九話 意刃心淵
曹皓達による徐州獲得──の序でに黄巾党討伐遠征開始から、これと言った問題も起きる事は無く。
別動隊として動いていた韓浩達は予定通りに合流。
明後日の州都進攻が決定している。
その前の報告と会議が行われていた。
「──といった様子です」
「そう…やはり、何処も不審な動きは無し、ね…」
「あからさまに「疑って下さい」って感じだな」
最後となる夏侯丹からの報告を聞き、曹操は嘆息。
自分達以外の状況も聞き、馬超が愚痴る様に呟く。
その気持ちは口にしないだけで皆、同じだった。
各々に分かれてからの戦闘数には多少の差は有る。
だが、本隊も含め、合計で三十一戦。
その全てで問題無し。
如何に曹皓達が優秀だとしても、流石に可笑しい。
せめて、幾つかは怪しい動きが有って当然。
それが皆無なのだから、疑念は強まるばかり。
故に、全員が黙ってしまうのも仕方が無い事。
──とは言え、それで話を終わらせる訳にはいかず声を出さなければならない。
誰が、というのは聞くまでもない事だろう。
「此処まで来ると州都では何か起きるだろうね」
「ええ、「罠を張って待っています」と言っているのも同然だもの、何か有るわ
問題は、それが何なのか、という事よね…」
「単純な待ち伏せとか伏兵的な事だったら、此方も楽でいいんだけどね…」
「そう簡単な事ではないでしょうね…」
そう言って、曹皓と曹操は視線を交える。
それは夫婦だけの会話。
これまで秘密にしてきた“太平要術の書”の存在を韓浩達にも話すか否かの相談。
知らせずに問題が起きても困るが、知らせても何も起きなければ無意味に意識させる事になる。
その見極めが、現状では非常に微妙な所。
曹操としては何方等とも言えない。
その為、「せめて、もう一日待つ?」と。
ギリギリの所で妥協する事を思案する。
それを受けて曹皓が判断をするのだが。
その曹皓も流石に即断は出来ずに間が出来る。
──が、それは曹皓にしてはというもの。
普通の──常人の考え込む間と異なる。
比べる事自体が可笑しいという程に違うのだが。
知っているからこそ、曹操以外の皆も気付く。
当然、曹操との視線の会話にも。
まあ、だからと言って何も言ったりはしない。
曹皓の決断に従う。
その根幹が揺らぐ事は無いのだから。
「…現状だと、知らない方が悪手だろうね」
そう言って、曹皓は韓浩達を見回す。
そして、最後に曹操を見て同意を得る。
反対するなら、そう伝えるので反対は無いが。
それでも、念には念を、での確認は大事。
その確認一つを怠ったが為に起きる人災というのは珍しくはない事なのだから。
曹皓は改めて韓遂の一族が禁書として封印していた品々が盗まれた件から現在の黄巾党へと至るまでの大まかな流れを辿る形で説明する。
元々、韓遂の件は「まだ何か有る気がする」という疑念を韓浩達も懐いていた為、驚きはしない。
勿論、曹皓達が伏せていた理由にも納得。
立場が違えば、負うべき責任も異なる。
全てにおいて、完璧で完全な絶対の正解は無い。
故に、常に考えた末の最善を選ぶ。
──が、零れ落ちる事や行き届かない事は有る。
だから、終わりを決めてはならない。
それが施政者の成すべき事なのだから。
──という訳で、関係が拗れたりはしない。
そんなに浅い繋がりではないのだから。
盗まれた禁書は無事に回収する事が出来た。
だが、唯一、行方の判らない物が有る。
それが、太平要術の書。
その名を聞いた瞬間、半分以上が気付いた。
黄巾党の首魁・張角が広めていた教えが太平道。
これは単なる偶然ではない。
つまりは、繋がっている、と。
「あー……つまり、張角が全ての黒幕って訳か?」
「そう言い切れたら楽なんだけどね
情報が足りなさ過ぎるし、証拠らしい証拠も無い
勿論、個人的な見解としては真っ黒なんだけど…」
「私見は私見でしかないでしょう?」
「………まあ、確かにな…」
「だから、下手に探って不確定な情報や憶測だけが拡散してしまうと不要な火種を増やすだけ
そう考えて表立っては動けなかったんだけど…
こういう状況になると流石に隠せないから」
「…で、何か収穫は有ったのか?」
「有れば悩みもしないわよ
本の少しの綻びや隙も見付けられていない…
つまり、そういう事なのよ」
「マジかぁ……」
曹操の言葉を聞き韓浩が他の皆を代表する様な形で素直な心情を口にする。
知っているからこそ。
曹皓と曹操、この二人が手古摺る様な相手に。
頭を抱えたくなってしまうのも仕方が無い。
だからと言って、投げ出しも逃げ出しもしない。
二人を支え、共に歩む。
そう決めた時から、真芯は動ぎはしないのだから。
ただまあ、それはそれ、これはこれ。
嫌なものは嫌だし、面倒な事は面倒である。
そう思う事自体には立場や職業や時代、老若男女は関係無いのだから。
だからこそ、こういう時に本音を見せ合える。
それが出来るからこその真の信頼でもある。
「…抑の疑問なんだけどさ
その太平要術の書って一体何なんだ?
妖術の類いでも記されてるとか?」
「その辺りの情報は皆無よ」
「寧ろ、黒幕云々よりも其方を知りたい位だからね
黄巾党には太平要術の書が関係している
それは先ず間違い無いだろうからね
太平要術の書に何が記されているのか、或いは何か特別な価値を持っているのか…
それが判れば、対策も考えられるんだけど…」
「その肝心の事が判らない、か…
なら、涼花も知らないって訳か」
「ええ、知っていれば疾うに手を講じているわ
──と言うか、知っていた場合、下手をすれば涼花自身が今の張角の立場に成っていたという可能性も有り得たでしょうね」
「それだけヤバイ代物だって事か…」
「何も判らないからって前提でだけどね」
確定ではなく、飽く迄も、推測である、と。
然り気無く曹皓は付け加える。
その一言が無意識の思い込みを防ぐ。
あらゆる可能性を思考から除外しない為に。
そんな遣る気が下がる様な雰囲気の中。
何かを考え込んでいた馬超が口を開いた。
「…なあ、その太平要術の書を張角が盗み出した、或いは盗ませてでもいいけど、手に入れたとしてさ
そうなると張角が主導したって事だよな?
だとしたら、張角の目的は打倒・漢王朝なのか?」
「…正直、それも微妙な所ね」
「──って事は他に目的が有ると?」
「そうではなくて、張角が利用されている可能性が完全には消えてはいないのよ」
「…他に黒幕が居ると?」
「仮にだけど、張角が太平要術の書を手にした事で打倒・漢王朝を実行しようとしたとして…
皆、自分が張角の立場だったとしたら、何團殺害で始まる様な形で遣る?」
そう曹皓が馬超だけでなく、全員に問う。
だが、深く考えるまでもない。
その答えは「遣らない」だ。
漢王朝を終わらせようと思う気持ちは判る。
それは曹皓や曹操でも一度は懐いた事が有る思い。
ただ、それは一時の感情から来るもの。
論理的に物事を考えれば、何の準備も無しに遣れば漢王朝の終焉後に待つのは長い長い混迷の時代。
無秩序・無法地帯となった大陸は乱れに乱れる。
そうなった時、被害を受けるのは弱き民である。
それを想像し、理解する事が出来るのなら。
思い付きや勢い、流れで遣る事ではないと判る。
そういう意味で言えば、何團殺害から黄巾党の蜂起という流れは不恰好だと言うしかない。
決して綿密に計画されていた事には思えない。
故に、全てが意図された事ではないと言える。
「部分的に見れば、或いは事態が変わった現状では最も疑わしく見えるのは張角で間違い無い
でも、そうなると可笑しな点も多々出てくる
勿論、事の一連の全てが全て繋がっているという訳ではないとは思うけどね」
「偶然と必然…いや、故意が混ざってる
だけど、その区別が難しいって訳か…」
「そういう事よ
まあ、この徐州での戦いは明らかに故意でしょうね
偶然にしては出来過ぎているもの」
溜め息を吐く曹操の言葉には同意する様に溜め息や苦笑が漏れるのは仕方が無い事だろう。
曹皓達としては無視は出来無いし、先送りにしたり誰かに任せるという事も出来無い。
そうした場合、良い結果になるとは思えない為に。
「…張角が、黄巾党が太平要術の書と関わってる
それは判った
だけど、結局、連中は何がしたいんだ?
こんな判り易い、あからさまな罠を仕掛けて嵌まる馬鹿だと思ってるのか?」
「あー…此処に居るかな」
「……マジ?」
「出来る事なら、俺一人か、華琳と二人だけで接触したかったんだけどね…」
「流石に今の話を聞いた後で賛成は出来無いって」
「だから黙ってたっていうのも有るから」
「それを遣ってたら俺でなくても怒るな」
「そう思ったから話したんだよ」
「降参」と言う様に曹皓は軽く両手を上げて見せ、曹操は肩を竦めて見せる。
韓浩の言う様に二人を見る全員が「御自分の立場を判っていますか?」と言わんばかりの視線を向け、二人も謝罪する様な仕草で返す。
普段から「個に走らない」と言っているだけに。
こういう時には韓浩達からの反撃は鋭く厳しい。
…決して日頃の不満や文句を込めて遣り返しているという訳ではない。
「──で?」
「ん?」
「どうせ他にも有るんだろ?」
「まあね」
「まあ、曹家の内側に潜り込まれてる、なんて事は無いんだろうけどな………無いよな?」
「無いわよ」
自分で口にしておきながら不安になる韓浩。
それを「言ってから不安にならないで頂戴」と言う様な態度で曹操が否定する。
「殺害された何團もそうだったけど、敗北している官軍の中には普通なら遣らない行動をしている者が居る事は間違い無い」
「……黄巾党と繋がってるって事か?」
「まだ断言は出来無いけどね
少なくとも、何らかの意図や理由が無いと遣らない行動をしていたのは確かだから」
「何團の一件でも黄巾党──太平道に関わっている可能性は浮かんでいたけれど、確信する事が出来るだけの情報や証拠は得られなかったわ
黄巾党に潜り込んで調査をしていた隠密でもね」
「口は堅いって訳か…」
「いいえ、そういう事ではないみたいよ」
「…と言うと?」
「単純に知らないのよ
黄巾党は張角を首魁としているし、太平道の信者が大部分を占めているけれど、全てではないわ
ただ、そういった贅肉は無視するとして…
大元とも言える太平道の信者達の間に連動している様子は見られても、互いの事を把握している様子は今の所、見られないのよ
だから何團と揉めた信者達も特定出来ていないわ」
初めて聞く事実に韓浩達は顔を顰める。
曹家の、曹操の直属の隠密衆が動いていて。
何も掴めていない。
その異常さに危険度が跳ね上がる。
「太平道自体には可笑しな点は無いわ
だから、官民を問わずに老若男女に広まっていても何も不思議ではないわ」
「太平道の教えは飽く迄も生き方だからね
過激な思想でもないし、極端な事を強いてもいない
実践し易く、幅も有る
だから、信者が多くても何も可笑しくはない」
「ただ、それにしては官吏の中で過去に公言したり表立って関わっていた者が居ないのよ」
「…官吏だから気を使って、じゃないのか?」
「自分の首を絞めたり、足下を掬われる様な事には先ず繋がらない様な事なのに?
だとすれば、自主的に潰しに動くと思わない?」
「…それもそうかぁ…」
曹皓達が太平道を「問題無し」と判断した様に。
そう思えば関わっていても害は無い。
そうではなく、火種になると考えれば、自分の功に変えてしまう筈だ。
そうはしていない事から、無害と判断したと判る。
それなのに、関わってはいない。
何團にしても関係の有無は公言はしていない。
だが、殺害される前の行動から関係が有る可能性は高いだろう事が窺える。
ただそれも推測でしかない。
では、其処まで徹底して隠せるのだろうか?。
それは否だろう。
況してや、曹家の各情報網に引っ掛からない事など先ず不可能に近い事だと言えるのだから。
勿論、実際には掴めてはいない訳だが。
それだけ、有り得ない事が起きている、という事。
それを理解し、考えるが故の一時の沈黙。
その中で声を発したのは馬超。
「…つまり、黄巾党──張角は何團の殺害の有無に関わらず、遠からず行動を起こしていた、と?」
「張角が黒幕であれば、という前提でならね」
「翠、ちゃんと話を聞いてた?」
「ちゃんと聞いてたっての…
ただ、此処に来て初めて聞かれさた事ばかりだし、色々と絡まってるからなぁ…
正直、頭の中がゴチャゴチャしてるのは否めない」
「まあ、そうでしょうね…
私達にしても私見や推測ばかりだもの
だから、何かしらの取っ掛かりが欲しいのよ」
「それが徐州の黄巾党に有るって事か?」
「違うわよ、私達の狙いは徐州の刺史である陶謙
何團の様に太平道に関わっていた疑いが有るわ」
「あー…だから、こうなってるって事か…」
「黄巾党だけでは不可能だからね
少なくとも、徐州に居た官吏や官軍の中に内通者が居ないと、今の状況は成り立たないからね」
「余計ややこしくなってきたな…」
曹皓と曹操ですら、面倒臭いと思っているのだから韓浩達が面倒臭いと思う事は何も可笑しくはない。
寧ろ、それでも投げ出したりしないだけで十分。
自分達の責任や職務を全うしようとしている意思が確と窺えるのだから。
二人が思わず口元を緩めそうになるのも当然。
勿論、此処で気を抜く様な夫婦ではないのだが。
素直に嬉しくは思っている。
見て、知って、判ってはいるつもりだけれど。
その頼もしくなった韓浩達の成長を。
二日後、夜明けと共に曹皓達は州都に進軍。
居座る徐州の黄巾党の本隊であり、残党の群れへと容赦無く攻撃を仕掛ける。
ただ、「黄巾党が居座っている」とは言っても完全には占拠されている訳ではない。
刺史である陶謙の指揮の下、住民は中央の都城へと避難・収容され、謂わば籠城している状態。
黄巾党は街中に陣取り、残された食糧や物資を奪いながら抵抗を続ける、といった状況。
黄巾党にしてみれば、如何に早く籠城する陶謙達を人質として手中に出来るか。
それが唯一の突破口であり、希望の光。
──が、そんな目論見を嘲笑う様に降り注いだのは死を齎す矢の雨だった。
距離と場所が判り、巨大な的であるのならば。
夏侯淵と直属の部隊にとっては外す方が難しい。
奇襲という意味では、十分な一斉射撃。
即死・致命傷ではなくとも、矢を受けた事で負傷。
更に、危機感と死への恐怖から戦意は急下降。
指揮系統にも連携・陣形にも混乱が生じる。
其処に門扉を破壊した韓浩・夏侯惇が突入。
陶謙達の籠城する都城を驀地に目指し、突進。
進路上の黄巾党を蹴散らしてゆく。
その後に続く馬洪・馬超の騎馬部隊は州都の道幅の広い路を爆走しながら黄巾党を掃討。
乗り手もだが、馬達の気合いも異様に高い。
それ故に、一騎でも普通よりも荒々しく、猛々しい雰囲気も有ってか、巨大に見える。
それが群れ、隊列を組んで迫ってくる。
その恐怖は尋常な物ではない。
騎馬群の脅威から逃げようと蜘蛛の仔を散らす様に細い路地に逃げ込んだり、家屋の中へと身を隠して息を潜める黄巾党も少なくはない。
──が、彼等が生き延びる事は無い。
街中に散開し、少数で纏まって動く甘寧隊によって悉く討ち取られているのだから。
「それなら外に逃げ出すだけだ!」と破られた門を目指していく黄巾党。
しかし、その行く手に立ち塞がるのは曹仁隊。
戦場に蓋をする様に殿を任され、布陣。
気付いて止まろうとすれば、遊撃となった夏侯淵隊によって射殺されるだけ。
丸見えの的を射抜く事など容易いのだから。
アレも駄目、コレも駄目、ソレも駄目。
そうなると、兎に角、敵の居ない場所に向かうのが生き延びようとする生き物としての本能。
危険から遠ざかる。
そうする事が最も単純に生存率を高めるのだから。
ただ、それさえも読まれていない訳が無い。
其処には乱戦に紛れる様にして移動し、待ち構える夏侯丹隊が姿を隠しながら狩ってゆく。
最後の希望も潰えた者は絶望の中、恐怖に笑う。
死を以て漸く、己の愚かさを理解しながら。
都城に到達した韓浩達は城内に入り、陶謙に接触。
民の状況を確認しながら様子を窺う。
──が、特に怪しい様子は見られなかった。
「曹皓殿達も此方等に?」
「都外の本陣です
陶謙殿を御案内する様にと仰せ付けられています」
「そうですか、それでは宜しく御願いします」
齢五十を越えた初老の陶謙は孫でも可笑しくはない韓浩に対して会釈程度とは言え、頭を下げる。
態とらしさはなく、自然な仕草。
それだけでも敵意や害意が有る様には思えない。
「…本当に黄巾党と繋がってるのか?」と思う。
また、武官ではなく、生粋の文官。
そう思える程に細身で小柄な体躯。
韓浩と夏侯惇を相手に何か出来るとは思えない。
勿論、だからと言って油断はしないが。
少なくとも韓浩には警戒する相手には思えない。
ただ、韓浩は洛陽で生まれ育った。
ある種の人の坩堝である洛陽。
それ故に、陶謙の様な人畜無害そうな好好爺でも、腹の中では何を考えているか判らない。
そういった二面性を誰しもが持っている。
それを知っているからこそ。
韓浩が陶謙を信頼する事は無い。
両部隊の者に後の事を任せ、二人は陶謙と移動。
曹皓達の待つ本陣へと向かう──事は無かった。
破壊した門から真っ直ぐに向かってきた。
だから、その逆を辿る──筈が韓浩達は真っ直ぐに州都の中央に向かっている。
当然、陶謙は気付く。
──が、問うべきか逡巡する。
「……何方等かに御寄りに?」
「合流する予定なので」
「そうでしたか」
韓浩の言葉に陶謙は納得する。
韓浩達は黄巾党を掃討していた他の部隊──将達と合流してから本陣に向かうのだろう、と。
事実、其処には曹仁達が集まっていた。
「────っ!!」
──が、それだけではなかった。
直接の面識は無くとも、容易く見分けは付く。
曹家の中でも限られた髪色に見た目の年齢や背格好から誰なのか、という事は。
それ故に陶謙は直ぐに察した。
都外に居る筈の曹皓と曹操。
その二人が、此処に居る理由を。
そんな陶謙の僅かな動揺を、心の機微を。
当の二人が見逃す訳も無かった。
寧ろ、漸く爪の先に掛かってくれた獲物だ。
威嚇している訳ではないのだが。
思わず、口角が上がってしまいそうになる程度には抑えていた気配が溢れ出してしまう。
その存在感に気圧されて陶謙の足が止まる。
それを見て、曹皓は躊躇無く仕掛ける。
「初めまして、陶恭祖殿
既に察しておられるとは思いますので、率直に
──首魁の張角は何処に?」
「…どういう事でしょうか?
それが判れば、直ぐに朝廷に申し上げています」
「無駄な事ですが…まだ惚けますか?」
「惚けているなどと…一体、何を根拠に」
「私達が“都外の本陣に居る”事を知っているのは此処に居る者だけです
そして、それを知る機会が有るのは身内を除けば、貴男以外には一人も居ません」
「──っ…」
曹皓の言葉に陶謙が息を飲む。
──それと同時だった。
響いてきたのは打ち鳴らされる銅鑼の音。
ただ、それは陶謙の知る物ではない。
また、黄巾党の用いている銅鑼の音とも異なる。
そして、曹皓達が鳴らしていた物とも違った。
「ああ、終わったみたいですね」
「……終わった、とは?」
「貴男の流した情報で、本陣に見せ掛けて仕掛けた罠に引っ掛かった襲撃者達の一掃がです」
「────っ!?」
「貴男が通じていなければ何も起きません
しかし、こうして事が起きた
その事実が何よりの証拠です」
「──っ、……っ………」
「此処での沈黙は肯定と同義ですよ」
曹皓の眼差しに怯み、陶謙は静かに俯いた。
誤魔化しも沈黙も通用しない曹皓の追及に対して、陶謙は自分が如何に相手を侮っていたかを理解。
同時に初手から誤っていた事に気付く。
「如何に優秀だと言っても、まだまだ若輩者である事には変わりはしまい」と。
経験の浅さに付け入る隙が有ると見ていた。
曹家という後ろ楯が有る事も一因だと言える。
だが、それは陶謙の私見でしかない。
曹皓の言葉通り、顔を合わせるのも初めて。
伝え聞いた風評と自身の常識と経験。
それらを元にした陶謙の考えに過ぎなかった。
だから、曹皓達は先手を打ち込んだ。
韓浩から陶謙に態と情報を渡させ、釣り上げる。
それが曹皓達の真の狙いだった。
その事に陶謙が気付いた時には既に詰み。
最早、言い逃れが出来る様な状況ではなくなった。
「残念です…せめて、自白して下さいませんか?」
「……………」
曹皓の最後の慈悲に対し、陶謙は俯いたまま。
暴れたり、逃げ出したりする様な素振りも無い。
だからと言って、自害しようと考えている、という雰囲気も窺えない。
その沈黙が──否、場の静寂に、曹皓達は本能的に心が騒付く様な感覚に襲われる。
「──総員退避っ!!」
故に、曹皓の決断は早かった。
周囲に居た兵達に退避を命じ、自分達も飛び退いて陶謙から距離を取った。
──その直後だった。
ずっと俯いていた陶謙の身体──上半身が、まるで糸が切れた操り人形かの様に力無く弛緩。
しかし、腰から下は変わらず、立ったまま。
その異様な姿に、曹皓達は身構えた。
そして、曹皓達が円を描く様に取り囲む中で。
陶謙の肩が隆起した。
ゴギンッ!、と骨が外れた様な嫌な音が響き。
次いで、背中から腕に掛けての筋肉が膨張。
ミヂミヂッ…と軋む筋繊維の鈍い音。
窮屈に為った衣服を破りながら巨大化する上半身。
更には獣の毛を思わせる様に荒々しく変わる髪。
人を辞めるかの様に肌は緑へと変色。
「………ち、父上?……」
そんな現実離れした光景に。
兵に紛れる様にして事態を見守っていた陶謙の息子である陶浚は思わず声を漏らす。
──が、残念な事に。
既に陶浚の声は陶謙には届く事は無かった。
無意識に近付こうとした陶浚は兵達により、後方に退避する様に連れて行かれる。
残されたのは曹皓達と──陶謙だった何か。
「…コレ、元に戻るのか?」
「戻る様に見える?」
「いや、微塵も」
「はぁ…折角の情報源が潰されたわね…」
「…え?、これ、誰かの仕業なのか?」
「陶謙が自分で遣った様に見えるの?」
「あー………流石に無いな…」
韓浩と曹皓、曹操と馬超の目の前の事態に対しての緊張感を感じさせない会話。
その最中も陶謙の変異は継続──進行中。
そして、狼が遠吠えをする様に天を仰いで叫ぶ。
声にも、音にも成らない、衝撃波の咆哮。
曹皓達は平然としているが、退避した兵達は距離を取っているのにも関わらず、力を入れ、耐える。
陶浚を護る様に身を呈する数名を曹皓達は見落とす事は無く、その姿勢を嬉しく思う。
そんな曹皓達の視線は陶謙だったものに。
人型と言えば人型だが、人の人体構造からは随分と遠ざかっているだろう。
肩は角の様に尖って、腕は立っていても掌が地面に触れる程に巨大化。
下半身は逆に狼や犬等の様に筋肉質ではあるものの細くなっている。
だが、足は指も爪も伸び、地面を掴む。
耳元に届きそうな程にまで大きく裂けた口からは、鋭く伸びた歯牙が覗き、餓えた獣の様に唾液を滴り落としている。
鳥の嘴の様に大きく尖った鼻。
そして、見開かれた眼は血の様に赤い。
左右が別々の動きをし──曹皓に焦点が合った。
刹那、地面が爆ぜた。
破礫と土煙が後から生じる程の速さで。
陶謙は曹皓の眼前へと移動していた。
その速さに視線を合わせられたのは、曹皓の両隣に位置していた曹操と甘寧。
曹皓から見て左右斜め向かいに居た馬超と夏侯淵。
僅かに四人だけだった。
他の者は位置の関係から見え難かった為に遅れた。
だが、曹皓は慌てる事も無く、突き出された陶謙の両巨腕を難なく捌く。
そのまま懐に潜り込む形で──肘鉄による迎撃。
自らの速さが仇となり、即死級の一撃が決まる。
しかし、当然ながら、それで終わる事は無かった。
攻撃を受けながらも陶謙は両腕で曹皓を抱き締める様に動き続ける。
その両腕に対し、曹操と甘寧が一閃。
──するも、切り落とす事は出来ず。
「──なっ!?」
甘寧は驚きの声を上げる。
ただ、切れなかった訳ではない。
二人の振るった刃は確かに陶謙の巨腕を切断した。
けれど、その両腕が地面に落ちる事は無かった。
僅かに重力に引っ張られ、元の位置よりかは確実に下がってはいた。
しかし、即座に両腕の両側の断面から筋繊維自体が意思を持っているかの様に伸びて糸を結い直す様に結合して──腕を復元。
何よりも驚くべきは、その早さである。
曹操は即座に理解し、小さく舌打ちをした。
氣による治癒は基本的には“再生”である。
例えるなら、木を切り倒し、切り株から新しい芽が生えて元の様に成長するのが再生。
対して、切り倒した木を元の位置に戻し、切れた事自体を無かったかの様に戻すのが“復元”である。
この復元には“時間を巻き戻す”という様な概念も含む事から“回帰”という表現もするのだが。
まあ、その辺りは今は関係の無い話。
あらゆる生物には再生という能力が備わっている。
氣を用いた治癒は、その再生の活性化。
或いは、再生力そのものを補助して強化・向上し、身体を治癒する、というもの。
それ故に、あまりにも急速な再生は肉体そのものに大きな負荷を強いる事になる。
そして、生物──生命の再生というのは有限。
氣を扱う者は、その恩恵──副産物的な効果により一般的な再生力や生命力を上回る。
それでも、曹皓は氣による治癒に対しては慎重。
勿論、命には代えられないのだが。
治癒の結果、寿命を削る、という事にもなる。
その点が難しい所であり、厳しく指導する理由。
まあ、そう簡単に修得出来る技術ではないのだが。
陶謙の再生は、その速度も含めて異常。
加えて、変異も含めて氣の乱れや影響は皆無。
つまり、変異の仕組み等は不明ではあるが、陶謙の再生は自力であると考えて間違い無い。
そうなると、その末路は容易く想像出来る。
それらを含めての、曹操の舌打ち。
陶謙を使い捨てた黒幕に対しての。
曹皓は曹操と甘寧が作った一瞬の間に飛び退いた。
即座に追撃しようとする陶謙だが、それは許される事は無かった。
夏侯淵の放った矢が右足首を貫き地面に縫い付ける様に突き刺さって動きを阻害。
其処に韓浩・夏侯惇が斬り掛かり再び両腕を切断。
馬超が背後から槍で腹部を貫き、引っ掛けて制止。
夏侯丹と馬洪が両脚を太股から切断。
止めに曹仁が陶謙の首を刎ねる。
「────っ!!」
──筈が、大きく開いた口で噛み止められる。
そして、驚異的な再生速度で繋がった腕脚が動く。
「──ちょおっ!?」
思わず声を上げたのは馬超。
引っ掛けた槍を持ったままの為、引っ張られる。
他には御構い無し。
陶謙は曹皓だけを狙い、追い掛ける。
──が、馬超の槍を目印にする様にして曹操と甘寧による左右からの胴斬りが陶謙を上下に両断。
韓浩達も追撃の姿勢を取った。
だが、其処で予想外の事が起きた。
腕脚の様に再生すると思われた胴に変化は無し。
両断され、重力に逆らえずに上半身と離れてゆく。
有限である再生力は高齢になる程低下してゆく。
また、怪我や病気をしている程、消耗して減少。
陶謙は決して若くはなかった。
だからなのだろうか。
両断された胴は再生する事は無かった。
走ろうとして躓いたかの様に。
その場で下半身は力尽きて崩れ落ち──灰塵に。
それでも、上半身は止まらない。
下半身を失おうとも気にもしない。
巨腕を器用に使って曹皓に向かって突進する。
変化を見極める為に、一瞬だけ動きを止めた。
その結果、韓浩達は出遅れ、置き去りにされる。
動こうとした時には曹皓に肉薄。
限界を超えて開いた口は端が裂けていた。
正気なら、常人なら、苦痛に身悶えた事だろう。
だが、今の陶謙は何も感じている様子は無かった。
ただただ、餓えた獣の様に曹皓へと噛み付いた。
「──地獄で悔い改めて下さい」
勿論、それを許す曹皓ではない。
気付いた時には陶謙と擦れ違っていた。
そして、虚空を食んだ陶謙は異形の姿のまま灰塵と化して崩れ去って消滅した。
そんな陶謙の姿を見ながら涙する陶浚。
曹皓達には感謝こそすれ、怨恨の念は皆無。
だが、陶謙を異形に変えた何かに対しては別。
自らは立ち向かうだけの力も術も無い身だが。
曹皓達に仕える事で、少しでも役立てればと思う。
その結果、父の仇を曹皓達が討ってくれたなら。
その時こそ、息子として、家族として報われる。
そんな決意を胸に。
こうして、曹皓達の徐州の黄巾党討伐は完了。
事後処理の指示を出し、曹皓達も自分達の仕事へ。
徐州を曹家の統治下に置く為の諸々である。
それらが片付いて、漸く、一息吐く。
御茶を飲み、御菓子等を食べながら雑談。
親である為、子供達の事が話題になるのは必然か。
子供達が聞く可能性が無いからこそ、とも言える。
「さてと…そろそろ本題に入りましょうか」
「そうだね、ずっと放置は出来無いしね」
曹操の言葉に曹皓が同意した事で皆も身構える。
「出来れば、考えたくはないけどな」と言いた気な韓浩の溜め息には曹操でも苦笑してしまう。
何しろ、それだけの事が起きたのだから。
「…で?、アレは結局、何だったんだ?」
「んー…何かって訊かれると、一応は人かな」
「アレが人って……マジで?」
「大マジで」
率直に核心を訊く韓浩に曹皓が答える。
しかし、はぐらかす様な物言いにも聞こえる話だが此処で誤魔化す様な理由は無い。
その為、韓浩達は直ぐに曹皓にも確信は無いのだと察する事が出来た。
その上で、曹皓は人だと言った訳だから。
そういう意味では間違いではないのだろう。
「まあ、飽く迄も生物的にはの話だけどね」
「アレが自分達と同じだとは信じられねぇな…」
「一つ一つ順に説明していくと…
先ず、上半身の異常な巨大化
アレは筋繊維が破壊と再生を短時間で繰り返した事による異常成長と、骨生成の異常活性の結果だね
骨折した時に、ちゃんと固定していないと曲がって接合してしまう事が有ったり、骨が異常形成されて奇形になってしまう事が有る
それらと同じ様なものだよ
実際、骨格から変異していってたからね」
「……そう言われてみると、骨からだったな…」
「上半身は巨大化、下半身は小型化と軽量化かな
あの獣の脚の様な変化は機動力重視だと思う」
「そうね、あの動きには流石に驚かされたわ
位置によっては初動は見えなかったでしょう?」
「そうですね、私は見えていましたが…」
「此方等からは見えませんでしたね」
「此方等もだ」
曹操の質問に夏侯淵が答え、あの場で夏侯淵の両隣に位置した夏侯丹と曹仁が続く。
他の面子も見えた者と見えなかった者は納得。
それ程までに、異形と化した陶謙の初動は予想外の速度を持っていたのだから。
「顔の変化も骨格の変形、裂けた皮膚の超速再生で説明は出来るよ」
「成る程な~………じゃあ、皮膚の緑化は?」
「ほら、雨蛙って居る場所で皮膚の色が変わってる事が有るでしょ?」
「あー………居るな
でも、それは雨蛙だからだろ?」
「人の皮膚も日焼けすれば色が変わるし、住む地の気候や環境で違ったりする事は珍しくないよ
それと同じで、皮膚の色が変化しても然程可笑しな事だとは思わない
ただまあ、どういった理由でかは解らないけどね」
「……あの時、可笑しな事は無かったよな?」
「玲生も私も何も感じなかったし気付かなかったわ
貴方達も同じでしょう?
何か違和感が有れば、動いている筈だもの」
「確かになぁ…」
そう答えながら韓浩は改めて思い出してみる。
同様に他の皆も思い出して考えてみる。
──が、曹操の言った通り、新しい情報は無い。
有れば、あの時、あの場で動いているのだから。
「再生に関しては改めて説明は要らないよね?」
「ああ、流石にな」
「それなら、最後は灰塵化した事になるけど…
まあ、これは人に限らず動物は身体を構成している全てが朽ちていけば残るのは骨だけ
その骨も不滅って訳ではないからね
再生によって生命力を使い果たした結果、骨すらも残らない程に全てを絞り出し尽くした
ある意味では、氣を使い方を間違った者の行き着く成れの果てだとも言える」
「………死力を尽くしてなら悔いは無いだろうって思いはするが…流石に、ああは為りたくはないな…
出来れば、戦い切った後も亡骸は残したいしな」
「それが普通の感覚よ
でも、陶謙は一線を踏み越えた
勿論、本人の意思で、ではないでしょうけれど…
残念ながら、手掛かりは今の所は何も無いわ」
陶浚には事前に話を聞いている。
少なくとも陶浚は陶謙が太平道に興味を持ったり、信者だったり、関わっていたとは知らない。
知らないだけで、その実際の所は判らないまま。
当の陶謙が何も話さずに死亡したのだから。
──とは言え、状況から見れば間違い無く、黒だ。
無実・冤罪という可能性は先ず考えられない。
もし、その可能性が有るとすれば洗脳されていたり傀儡と化していた場合になるが。
そういった異常が有れば曹皓が見落としはしない。
氣を用いていた場合であっても、だ。
陶謙が黄巾党、或いは黒幕と繋がっていた。
それは間違い無いが、陶謙は捨て駒。
仮に、話していたとしても大した情報は無い。
──が、それでも、だ。
陶謙の口を封じた。
それが物語る事は一つ。
陶謙の周囲には黒幕、或いは核心へと繋がるだろう何かしらの手掛かりが有った可能性が高い。
そう考え、曹操は夏侯淵と甘寧に調査を指示。
全員に、ではないのは迅速さよりも正確さを重視。
証拠や痕跡を消されたとしても、現状以降であれば必ず浮き出て来る。
そこから必ず何かしらは掴めると思えばこそ。
敢えて、隙を用意しておく。
一方で曹皓は韓浩達に徐州平定の指示。
黄巾党を殲滅させても、黄巾党だけが民達の生活や生命を脅かす存在ではないのだから。
掃除は念入りに、徹底的に遣る。
それが曹皓達の基本方針なのだから。
解散し、休む為に夫婦各々の天幕へと別れる。
曹操は二人きりになると曹皓に率直に訊ねた。
「それで?、何か思い当たる事は有るの?」
「氣ではないし、仙薬の様な物の痕跡も無し
そうなると、思い付くのは霊的な要因かな」
「……幽霊って実在するの?」
「実は怖い?」
「茶化さないで」
「氣が生命の根幹なら、それは肉体に宿るもの
それなら、霊魂もまた存在すると思わない?」
「…まあ、理屈としてはね」
「実際問題として、霊魂を知覚しようと思ったら、一度は死後の世界に触れないと難しいね」
「それは流石に試させる訳にはいかないわね」