二話 温故知新
曹操と卞晧の闘いを見ながら──いや、卞晧を一目見た瞬間に曹騰は確信していた。
約十二年前の、あの日。
沛の曹家の屋敷で生を受けた田静の息子だと。
……曹嵩は気付いてはいない様だが。
色々と余裕の無い曹嵩では仕方が無い事か。
(……二人の“縁絲”が引き合ったか……)
二人が一歳になって直ぐに田静が旅立った事により離れ離れになってしまっていたが。
運命は第三者の介入を嫌うかの様に二人を引き寄せ合った、という事だろう。
飽く迄も、都合の良い様に解釈するのであれば。
ただ、この状況で引き合うのは二人の運命の強さ、対存在としての必然性の現れかもしれない。
そう、曹騰は二人の闘いを見詰めながら考えた。
ただ、それを悪い事だとは思わなかった。
洛陽に来てからというもの、あれ程人を、特に男を信用する事は微塵も無かった曾孫が自ら求めている姿を見れば、彼の存在は光明──いや、救世主だと言う事も出来るだろう。
もしかしたら、限界を迎えていた曹操の心の叫びを本能的に卞晧は感じ取ったのかもしれない。
共に在る事を生まれた瞬間から──生まれる前から誓い合った半身を護る為に。
勿論、それは勝手な憶測に過ぎず、証拠など無い。
しかし、こういった美談や運命的な話を人は好み、必要以上に盛り上げようとしてしまうもの。
曹騰は他言しようとは思わないが、気持ちとしては曾孫自慢をしたいとは思ったりしていた。
仕合は終わり、曹操から卞晧を伴侶として認めたも同然の発言が有りしたた後、無事に“御見合い”は終了する事となった。
卞晧は曹操等と共に曹家の屋敷に招かれていた。
使者が出され、卞晧の両親も時同じくして到着し、劉宏・王尚花が同席の中、正式に婚約者とする旨が両家の間で話し合われていた。
事前に説明は公布されている為、曹姓に変わる事も同意済みという事だが、一応の確認等を含めて。
卞晧の両親の緊張振りは気の毒な程であった。
「──という訳で、御子息を婿養子として曹家へと迎え入れる訳ですが…宜しいですね?」
「は、はい、それはもう…本人さえ良ければ…
……ですが、その……ただ…」
「……?、何か問題でも?」
「……この子は私共の血の繋がった息子ではなく、子供の居なかった私共に友人であり恩人でもあった方から託された子供でして…
卞姓も、その方が名乗る様に仰有られた事です」
「……では、以前の姓は?」
「卞姓に変わる前は、環晧でした」
意外な事実に話を主導していた曹嵩は驚いた。
てっきり、次男以降だろうと思っていたからだが。
それ以上に、例え養子でも跡取り息子である卞晧を見合いに参加させている事に。
正直、商人とは言っても、野心家には見えない。
そんな印象の卞晧の両親だからだ。
ただ、淡々としている卞晧の様子からしても不仲な訳ではないのだろう。
恐らくは、彼の両親は本当に成立するとは考えてはいなかったのかもしれない。
「卞晧、一つ訊いてもいいかしら?」
「はい、自分で答えられる事ならば」
「そう、それなら、貴男は何故、参加したの?
正直、野心が有る様には見えないのだけれど?
あと、敬語は止めて頂戴、他人行儀で嫌だわ」
少々、気不味いと言うか、しんみりとしてしまった大人達を他所に当事者二人は気にする様子も無く、好き勝手に話を始めていた。
その様子に大人達の方が考え過ぎだと気付く。
二人にとっては、過去は問題ではない。
未来が大事なのだと示しているのだから。
ただまあ、二人を見る限り曹操が主導を握っていて卞晧は早くも尻に敷かれている様に思えた。
特に、曹騰と曹嵩は若い仲間に同情を懐く。
勿論、妻を愛してはいるが、それはそれである。
「あー……それは、友人が参加したからだね
まあ、言い出した友人は筆記試験で落ちたけど…
俺は旅に出る前の腕試し位のつもりだったから」
「……“旅に出る前”?」
「死んだ母さんとの約束だったんだよ
本当は母さんが亡くなった時、旅を続けて彼方此方見て回るつもりだったんだけど…
まだ子供だからって反対されてね
親父と御袋の養子になって“十二歳になったら旅に出ても良い”って約束してたんだよ」
卞晧は何気無い感じで話しているが、それを聞いて曹騰は卞晧が田静の息子だと確信を強める。
「旅を続けて」という卞晧の発言から、母子二人で旅をしていた事が窺える。
全く居ない訳ではないが、彼の名や年齢からしても同じ様な母子が居る可能性は低いだろう。
ただ、曹騰は姓を変えている点が気になった。
環姓は父親の姓である可能性が高いと考えられるが何故態々卞姓に変えさせたのか。
彼女は二人の関係を事を知っているのだから寧ろ、隠すよりは曹家に頼る位でも可笑しくはない。
彼女が亡くなってしまった今では真意は不明だが。
尚、筆記試験当日、茶屋で聞いた話し声の若者達が卞晧と友人だった事に気付いたのは余談。
そんな事など関係無い曹操は眉根を顰める。
これから先、死が二人を別つ時まで共に在り歩むと決めたばかりの伴侶が、唐突に「旅に出る」と言えば不機嫌にもなるだろう。
ただ、今の曹操の様子を見ていれば、つい数日まで「男なんて死に絶えれば良いのよ」等と言いそうな剣呑な雰囲気だったとは、卞晧や両親──養父母は考えもしない事だろう。
それを知る曹騰達は気付かれない様に苦笑する。
乙女心──女心は天気の様に難しいものである。
「貴男ねぇ……妻を放って置く気なの?
旅?、ええ、見聞を広める為には良い方法よね?
それで?、私は貴男の帰りを無事を祈りながら一人寂しく待っていれば良いのかしら?、ねぇ?」
ずいっ、ずずずいっ、と蟀谷に青筋が浮かびそうな迫力満点の笑顔で卞晧との距離を詰める曹操。
妻に帰りが遅くなり、浮気を疑われる夫諸君の様に卞晧が追い詰められる様に、この場の男達は思わず顔を逸らしてしまっていた。
“触らぬ神に祟り無し”。
怒れる女房に触れるな、危険、である。
常住坐臥、言い訳をすれば火に油なのだから。
「それなら、一緒に行く?」
「………………そうね、それも有りね」
「────ちょっ!?」
卞晧の裏表の無い一言に毒気を抜かれた曹操。
一瞬で冷静になり、その提案に思考内で賛成多数で意見が可決されてしまった。
そんな二人を見守っていた中で曹嵩が慌てた。
改めて言うが、彼は愛妻家であり、親馬鹿だ。
全く子離れ出来ていない、愛娘溺愛親父である。
洛陽に行かせたのも本人の強い意志と覚悟に加え、曹騰が一緒だからという点が非常に大きい。
また、皇帝に成ったとは言え、劉宏の事は幼少から知っている実義問わない弟である事も一因。
しかし、旅となれば話は変わってくる。
確かに、二人の武の技量を目の当たりにしている為危険は少ないだろうとは思う。
知に置いても、然う然う遅れを取る事も少ない。
だがしかし、十二歳の子供である事には変わらない以上は何が起きるか判らないのも確かだろう。
──と言うか、今でさえ四ヶ月に一度しか会えずに寂しくて仕方が無いのに。
旅に出れば何時会えるのかさえ判らなくなる。
そんなの──「死ね」と言われるのも同然だった。
「お、落ち着いて考えてみないか?
ほっ、ほら、幾ら見聞を広める為だとは言っても、世の中には人を騙し欺く悪人も居るんだ
何か有ってからでは遅いと思わないか?」
「騙されるのは己の未熟さと隙が有るからですし、それを知る事で成長の糧にも出来ます
武力も知力も学習と鍛練は大事だとは思いますが、やはり経験に勝る糧は有りません
少なくとも、母と旅をしていた時の経験は、人里で生まれ育った普通の生活では獲られない物でした」
「ぅぐっ……」
卞晧の言葉が正論であり、理解出来てしまうが故に曹嵩は言葉に詰まってしまった。
そうでなくても焦燥感から冷静さが欠けている為、思考力が低下してしまっている過保護な父親。
反撃をしようにも、愛娘からの冷ややかな眼差しが胸に刃と為って突き刺さっていた。
自分の父親が親馬鹿だと理解している曹操。
今はまだ呆れている程度で済んでいるのだが。
もう少し歳上になると「もう!、御父様の馬鹿!、御父様なんて大嫌いっ!」の典型的な状況。
そんな事を知らない曹嵩は力無く項垂れていた。
「ふむ……二人共、旅に出る出ないは置いておき、先ずは一度、沛に行かねばな」
「沛に、ですか?」
「──っ!、ええ、そうね、御母様達に貴男の事を紹介しないといけないわ
旅の話はそれからにしましょう
十二歳になるまで、まだ月日は有るのよね?」
「うん、まだ二ヶ月は有るよ」
「あら、そうなの?、それだったら私達は生まれた月日も近いかもしれないわね」
「へぇ~、そうなんだ」
「いやいや、御主等はな、全く同年同月同日同刻に生まれたんじゃよ」と言いそうになる曹騰だったが空気を読んで飲み込んだ。
卞晧との縁に曹嵩は気付くだけだが、他は不味い。
卞晧の両親は兎も角、劉宏・王尚花の耳に入るのは出来れば避けておきたい。
決して信頼していない訳ではない。
二人共に曹操達の害に為る様な真似は遣らないし、その様な意図も懐かないだろう。
しかし、そういった美談は誰かに話して聞かせたい衝動や欲求を懐かせ易くもあるのも確か。
本人達に悪意が無くても、聞いた他者は異なる。
加えて、調べれば、あの日の事にも辿り着かれる。
そんな状況を生まない為にも、今は沈黙が正解だ。
そう、他愛無い会話をしている曹操と卞晧を見詰めながら曹騰は胸中で溜め息を吐く。
生まれながらに何等かの宿命を背負った二人。
御互いに惹かれ合うのが必然ならば、他に惹かれる事が無かった事もまた必然なのだろう。
ただそれは見方に因っては“運命に縛られている”
という風にも受け取れてしまう場合も有り得る。
それでも、それを他者が如何様に受け取ろうとも、全ては当人達の意識次第でしかないのが事実。
勿論、周囲の認識に流され、自分を見失ってしまうという場合も起こり得る可能性も有り、それは中々否定・排除する事は難しい。
存在には自己確立だけではなく、周囲による認識が必要不可欠なのだから。
そして、それを乗り越えた者だけが本物へと至る。
二人はまだ、第一歩を踏み出したに過ぎない。
これから幾多の試練を、壁を、苦難を迎える。
それらを乗り越える度に二人は成長し、絆を深め、更なる高みへと踏み昇って行く。
平和な時代であれば、埋もれてしまう輝き。
“英雄”と成れる才器の片鱗。
けれども、英雄など本来ならば不要な存在であり、居ない方が世の中が平和は証である。
そんな英雄に不可欠な資質・条件とは何か?。
圧倒的な力?、不屈の勇気?、運命的な出逢い?、否、何れも間違いではないが、不可欠ではない。
不可欠な物、それは──“悲劇”に他ならない。
だから「英雄に成りたい」と言う者は他者の悲劇・不幸を願う最低な屑だとさえ言えるだろう。
「英雄みたいに誰かを助けれられる様に成りたい」と言う子供の言葉とは似て非なる物。
何故なら、全ては自分の事しか考えてはいないから言える言葉なのだから。
真の英雄とは目指す物ではなく認められ、結果的に他者から尊敬と共に称される存在である。
まだ子供で、如何に才器が有ろうとも。
そんな事を望みはしない二人だからこそ。
天意は──“世界”は二人を結び会わせる。
“世界”は二人に道化など望まない。
ただ二人らしく、二人にしか紡げない人生を。
紡ぎ、綴り、刻み、魅せて欲しいだけ。
其処に、人類の事等考えていない。
まだまだ未熟な二人を見詰めながら五倍以上の時を時を生きてきた老翁は優しくも複雑そうに目を細め二人の未来に思いを馳せる。
乱世の兆し、狂宴の誘い、災禍の鼓動が、深淵から近付いてくる足音が聞こえている。
自分に出来る事は本当に僅かだろう。
だが、残る生命の灯火が尽きるまでは。
その未来を、二人の足元を少しでも照らそう。
己が生命が果てようとも、意志の灯火は継がれる。
仕合──いや、御見合いから一週間後。
曹操と卞晧は曹嵩と共に沛に向かう馬車の中。
卞晧の両親──養父の卞哲と妻で養母の丁慎だが、洛陽から沛国郡内に移る事が決まった。
元々は田舎の商人だったが三年前洛陽に移って来て小さな商家を開いていた。
それは卞晧の教育の為でも有った訳だが。
卞晧が曹家に婿入り後も洛陽に留まれば無用な騒動に巻き込まれる可能性も高い為の配慮である。
その準備も有り、曹騰は洛陽で卞夫妻を手伝う為に今回は同行せずに残った。
どの道、曹操達も一度は洛陽に戻るのだから。
「そう言えば、“玲生”、貴男を誘った友人は?
洛陽に居るのよね?、どういった者なの?」
「うん、居るよ、俺が“華琳”の伴侶に決まった事を話したら驚いて羨ましがって、祝ってくれたよ
父親は兵士で洛陽の軍属、母親は料理屋の娘さんで四人兄弟の末っ子だよ
兄弟の中だと一番武の才能が有るから本人も将来は仕官するつもりみたいだね」
何気無い会話の様だが、大きな変化が有る。
まだ字の無い年齢なら、御互いに姓名か、名だけで呼ぶ事が殆んどの中、二人は既に真名を預け合う。
夫婦──正確には婚約者だが──と成った二人だ。
それ自体は何も可笑しくはない。
ただ、二人の年齢で真名を預け合う関係というのは実際には多くはなかったりする。
家柄や立場や、個人の理解力等にも因るが。
少なくとも曹操は家族以外では初めてである。
卞晧にしても件の友人とは真名は未だ預け合ってはいなかったりするのだから。
ただ、卞晧の場合、その友人が「十五歳になったら最初に真名を預け合おうな!」とか言っている為で卞晧自身は今でも構わないと思っていたりする。
知らぬは本人ばかりのみ、という事だ。
「へぇ~…貴男から見て将来性は有りそう?」
「環境と鍛え方次第かな
多分に普通の官軍の調練の遣り方や組織形態だと、見栄っ張りで無能な上官達から嫉妬されたりとかで邪魔されたり不遇に扱われて埋もれるか、軍属が嫌になって野に下るかもしれないね
多分、今は無理でも将来的には俺や華琳と一対一で仕合をすれば勝ち負けが出来る所まで行けるよ」
「ふむ……本人は官軍に拘る方かしら?
地位や権力、名声への執着は有るの?」
「んー……官軍に拘りは無いと思うよ
だから“私兵”として仕える分には、これと言って抵抗は無いんじゃないかな
性根は正義感が強いんだけどね、堅苦しいのは苦手だったりするから、官軍だと出世出来無いと思う
だから、能力を発揮出来る組織環境が重要だね
執着心や野心は人並み位かな…
まあ、本人の願望的にはモテたいらしいんけどね
基本的には御調子者だから隊長とかに向いてるよ」
「成る程ね…」
大凡、十二歳を迎える前の子供の会話ではない。
当然だが、婚約したばかりの男女の会話でもない。
淡々と話してはいるが、それは熟練の施政者のする様な内容の会話だと言える。
そんな二人の様子を見ている曹嵩は気を抜いたなら開いた口が塞がらなくなっている事だろう。
愛娘も、愛娘に勝った義息子になる少年も優秀だと御世辞ではなく言い切れるのだが。
如何せん、子供らしくない。
自身の十二歳だった頃が、どんなだったのか。
ふと、思い出してみれば、妻との馴れ初めが有った年頃だった事を思い出した。
幼馴染みとしては、もっと前からの知り合いだが、異性として御互いに意識をしたのが、その頃だ。
初めての妻の手料理に胃袋を掴まれたのは懐かしく少々照れ臭い思い出である。
そんな甘酸っぱい青春謳歌の年頃な筈なのに。
自分の愛娘達は何という色気の無い会話なのか。
このまま黙っていても良いのだろうか?。
──いいや、否だ、断じて否である。
父親として、先達として、価値観のズレた若人達を導く事こそが、我が使命なりっ!。
──という熱量で始まった曹嵩の青春恋愛講座。
呆然とする卞晧に「ああ、時々適当に頷いていれば大丈夫だから放って置いて、偶に出る御父様の悪癖みたいな物だから」と溜め息を吐いて囁く曹操。
事実、熱く語っているものの、殆んど一方的な為、演説に近い曹嵩の話は聞き流しながら、若い二人は寄り添いながら小声で語り合っていた。
その結果、二人の距離も心も近付いたのだが。
曹嵩が事実を知る事は、先ず無いだろう。
沛に入り、馬車の窓から見える景色に卞晧は何故か不思議と既視感を覚えていた。
何処にでも有る長閑な風景と言えなくもない景色。
しかし、そういう意味での既視感ではない。
明確に自分の眼で見て、空気を吸い、匂いを嗅ぎ、此処に居た事が有るのだと。
そう本能的に感じて、少し落ち着かなくなる。
今は亡き母と旅をしていた時に此処、沛に来ていたという記憶は自分には無い。
ただ、それは物心が付いてからの話である。
それ以前に来た事が有る可能性は否定出来無い。
それを意識的に思い出すというのは至難。
しかし、可能性としては、それが一番近いと思う。
生前、母が話してくれていた“輪廻転生”でもして前世の記憶を持っていない限りは。
ただ、卞晧は母には悪いが、その話だけは信じてはいなかったりする。
それが有り得る事なら、その人物は生まれながらに全ての人間を超越する存在だと言えるのだから。
だから、それだけは母の作り話だと思っていた。
この既視感の理解に困らなければ。
景色を眺めながら、黙り込んでしまっている卞晧を見詰めながら曹操も考えていた。
ある意味、これは一目惚れなのだろう。
初めての経験であり、初恋なのだから比較する事は出来無いのだけれども、そうだとは思える。
ただ、奇妙と言うか、不思議な感じはする。
一目惚れが、という事ではない。
卞晧と一緒に居るだけで、心は安らいでいる。
普段は抑制する感情が、意外な程に自然に出る。
今までの自分からは想像出来無い程の独占欲。
側室・妾の存在など珍しくもない世の中で。
「そんな物は不要よ」と言い切れる程に。
曹操は卞晧を誰にも渡したくはなかった。
「嫉妬深い女だわ」と思いながらも嫌悪感は無く、逆に「文句が有るなら聞くわよ?」と挑発する様に他の女達を威嚇出来る自信が有る。
そんな感覚を懐きながらも卞晧の横顔を見詰めれば抱き締めたい衝動に駆られる。
抱き付きたい、でも構わない。
兎に角、もっと近くに、もっと直接的に。
触れ合い、繋がり、確かめ、感じ合いたい。
その感触を、温もりを、匂いを、存在を。
望み、欲し、願い、求め、恋しく、愛しく想う。
自分自身が知らない誰か、何かに変わったかの様に卞晧に夢中に為っているのだから。
「成る程ね、確かに恋とは盲目的だわ」と思えた。
沛の屋敷に着いたのは日が中天を過ぎて間も無く。
規則正しい生活をしていれば、腹の虫が催促をして騒ぎ出し始める辺りだ。
事実、可愛らしい催促の声が響いた。
「何だ、御腹が空いたのか?
はははっ、御前もまだまだ子供ぎャビゃアっ!?」
愛娘の子供らしい一面に満面の笑みを浮かべていた曹嵩の顔面を閃光が打ち付けた。
大きく馬車は揺れたが、御者は不穏な気配を感じて経験から無視すべきだと判断した。
それが文字通り寿命を延ばす事となった。
一撃で実父を撃沈し、黙らせた曹操は顔を真っ赤にしながら俯いていた。
目の前で、膝の上で握り締める小柄な両手は衣服を掴み込んで大きな皺を寄せている事にも気付かない程に羞恥心に思考が染まっていた。
目尻には涙が浮かんでしまう程に。
「何で今鳴るのよっ?!」と自分の御腹を殴り付けて怒鳴り散らしたい位に。
曹操は女としての自尊心を傷付けられた。
他の誰でもない、自分の父親にである。
それも、最愛の伴侶の前でだ。
これを屈辱・恥辱と呼ばずして何と言うのか。
兎に角、恥ずかしくて逃げ出したい程だった。
「華琳、御昼は沛の料理?、それとも曹家の物?」
特に変化の見られない卞晧の声音と口調に恐る恐る顔を上げる曹操は卞晧の顔を見て、正直驚いた。
もし、自分が男で、自分の傍らで御腹を鳴らす様な女が居たら幻滅している可能性が高いと思う。
けれど、卞晧は気遣う様子も馬鹿にする様子も無く普通に話し掛けてきていた。
それは曹操にとっては救いなのだが。
同時に理解出来無い疑問でも有った。
「……た、多分、料理としては沛の物なのだけど、味付けとしては曹家の伝統的な物、かしら…」
「そっか~、それは楽しみただな
華琳も此方に居る時には食べてたんだよね?」
「え、ええ…私も料理は好きだけれど、どうしても同じ味を出せないのよね…
作り方・材料・使用する道具まで同じにしてても、どうしてか違う味になるのよ…
何かが違うのでしょうけど…それが判らなくてね
…悔しいけれど、半分諦めているのが本音ね…」
「あ~…それって水が違うからじゃないからかな」
「……水が?…それはまあ、確かに洛陽と沛とでは同じ水を使うという事は出来無いけれど…
それでも高が水でしょ?
何処の水を使っても同じじゃないの?」
「うん、普通は、そう思うよね?
俺も昔は、そう思ってたよ
でも、使う水で本当に味が変わるんだよね~
実際に旅をしながら彼方此方の水を飲んでみてると違いが段々判る様になってくるんだよ?
だから料理によっては向き不向きな水っていうのも実は意外と有るんだよ?
高が水、然れど水、決定的な違いにもなるんだ」
「……そんなにも違う物なの?」
「うん、今、華琳が想像してる以上にね
一番代表的なのは御酒だね
酒蔵が各地に有るけど、杜氏が他所に移って新しく御酒を造っても同じ味には為らないんだよ
それは酒造に使う水が変わるからで、違う水で育つ材料を使うからなんだよ」
「……そう言われてみると確かにそうね
酒蔵から独立した杜氏が元の酒蔵の味と同じ御酒を造っているという話は聞かないわね」
「普通の料理だと香辛料とかで味付けするから水に関係無く同じ様な味を再現出来るんだけど…
水が味を左右する料理や調理法なんかだと不可欠な要素であり、決定的に違う要因になるんだよ
まあ、この辺は母さんに習った事なんだけどね」
「そう…出来れば、御義母様に御逢いしたかったわ
色々と御教え頂きたかったもの」
「それは俺も同じだね…
まだまだ教えて欲しい事が沢山有ったからね…
でも、一番大切な事だけは教わってるから」
「…その一番大切な事って?」
「“学ぶ”という事は自分次第、常識という柵には縛られては為らない、って事だよ」
「…………成る程、確かにそうかもしれないわね…
改めて、御教えを賜りたかったと思うわ…」
曹操は卞晧の母親に対して、自分の母親と同じ様に強い尊敬の念を懐いた。
卞晧を産んでくれた事だけでも感謝しているのに、亡くなっても卞晧を通じて自分に影響を与える。
それだけに本当に逢えなかった事を悔やむ。
只一度、只一度だけでも、御逢いしたかった、と。
そう思う曹操は気付いてはいない。
あれ程強く羞恥心に苛まれていたのが嘘だった様に今では卞晧の母親への想いで溢れている事に。
それは卞晧が意図して遣った事ではない。
卞晧にとっては腹の虫が鳴く程度は普通の事。
曹操だから、という訳ではない。
そういった事が女性にとっては恥ずかしいという事自体は理解しているが卞晧の場合、そういった事を母親が気にしない人物だった為、気にしないだけ。
だから、女性に対する特別な配慮ではない。
寧ろ、何故当たり前な事で恥ずかしいがるのか。
そう考えていたりする方だだったりする。
今回の場合、会話の内容等が上手く向いただけ。
少し食い違えば“女心が解っていない男”の烙印を曹嵩同様に捺された事だろう。
そういう意味では卞晧は運が良かったと言える。
ただ、もしも気を失っている曹嵩が実は起きていて二人の会話を聞いていたとしたら。
「り、理不尽だ…」と涙目で愛娘を見詰めながら、訴えていたかもしれない。
まあ、その場合には愛娘から止めの一撃を貰う事になる可能性は高いのだろうが。
親馬鹿の彼は止まりはしないのだから。
尚、愛娘の報告により、愛妻から御小言を頂くのは余談中の余談である。
気絶したままの曹嵩は愛娘の一言で馬車に放置され曹操は卞晧を連れて屋敷の中を迷わず進んで行く。
道に迷わず、ではなく、行き先を迷わずに、だ。
屋敷の一室、その扉の前で立ち止まった曹操。
その場で、ゆっくりと深呼吸する。
曹操の様子から、卞晧は目の前の部屋が目的地──彼女の母親である劉懿の部屋であると察した。
曹操程ではないにしても、卞晧も緊張する。
──だから、卞晧は気付かなかった。
曹操が部屋の扉を軽く数回叩いて鳴らし、相手側に来訪を報せる“訪礼”をしていた事に。
室内から返事が返り、曹操が自分である事を告げ、静かに扉を開いて部屋へと入る。
その後に卞晧も続いて部屋へと入った。
室内の寝台には上半身を起こして座る女性が居る。
曹操に似ているのは当然だが、卞晧は女性に対して沛の景色と同じ様に既視感を覚えた。
流石に凝視する様な真似はしなかったが、不思議な感覚が続いている事に内心では首を傾げる。
「只今戻りました、御母様
御身体の御調子は如何ですか?」
「御帰りなさい、華琳
見ての通り、元気にしていますよ」
そう笑顔で答えながら右手を上げて力瘤を作る様な格好をして見せ、「元気が余っちゃって困るわ」と冗談めかす姿は愛娘とは逆に子供っぽい。
ただ、そんな彼女を見て「うん、陛下の姉君だな」という感想を密かに懐く卞晧。
決して、それは悪い意味ではない。
少しばかり、ズレている感じが似ているだけで。
人柄に別段問題が有る様には感じてはいない。
娘である曹操は幾らか慣れてはいるのだろう。
ただ、言動には出さないが母親を心配する雰囲気を滲ませている事に卞晧は気付く。
負けず嫌いで、意地っ張りで、少々頑固者。
それが卞晧の曹操に対する印象の一部である。
「御母様、御話は御聞きの事だとは思いますが…
今日、此方等に戻ってきたのは私の夫を御母様達に御紹介する為です
そして、この人が私の夫である──」
曹操が簡単に来訪した理由を自分の口から説明し、後ろに控えていた卞晧を紹介する様に右手を後方に伸ばして合図をする。
話の流れから、自分の動くべき機を見逃さなかった卞晧は待たせる様な事無く、絶妙な間合いで曹操の隣へと進み出て並ぶと、恭しく一礼をする。
頭を上げ、姿勢を正すと劉懿と視線が重なった。
無意識に緊張し、小さく息を飲んだ卞晧。
「──ふふっ、晧ちゃん、大きくなりましたね」
「「……………………え?」」
そんな卞晧を見て、劉懿は嬉しそうに微笑んだ。
喜んでくれている事は間違い無いのだが。
曹操と卞晧は劉懿の予想外の反応に思考を止めた。
事前に婚約者を連れて来る事は知っているにしても「名前は出さない様に」と使者に頼んであったし、その卞晧はまだ名乗ってさえいない。
それなのに劉懿は親戚や近所の子供に接する様に、「晧ちゃん」と呼んだのだ。
二人が驚かない訳が無かった。
だが、何故、劉懿が卞晧の名を知っているのか。
それが理解出来無いから二人の困惑は深まる。
そんな二人の様子に気付いた劉懿が小首を傾げる。
劉懿からしてみれば、てっきり理解した上で二人が此処に居るのだと思っていたのだが。
漸く、劉懿は自分の勘違いを悟った。
「……あら?、御祖父様から聞いていないの?」
「…………えっと、御母様?、何をですか?」
「…華琳、先ずは貴方達が婚約するに至った経緯を一通り話して貰えますか?」
「…は、はい、判りました」
劉懿の提案に曹操は事の経緯を丁寧に話してゆく。
初めて知る事の起因には卞晧も唖然としてしまう。
勿論、表情や態度には出しはしないのだが。
馬車に放置された曹嵩の姿を思い出しながら当然の報いかもしれないと思ったのは可笑しくはない。
その話を聞いていた劉懿の表情が一瞬だけだったが確かに、静かに──消えた。
その一瞬の感情の消えた笑顔に曹操も卞晧も思わず悲鳴を上げそうになったのは口には出来無い事。
二人だったからこそ、堪えられたし、意識を保って話を続ける事が出来た。
そして、話し終えた所で劉懿は深く溜め息を吐く。
「全く、あの人は…今夜は覚悟して貰いますよ…」という呟きを二人は聞かなかった事にした。
それは訊いては──否、聞いてはならない事。
そう、本能的に理解をしたから。
一息吐いて切り替えると劉懿は寝台の傍らに置いた椅子に座る二人を見詰める。
「……まあ、そういう事なら御祖父様が御話しにはならなかったのも当然でしょうね
晧ちゃん──いえ、卞晧さん
貴男の御母様は田静さん、字は安寿ですよね?」
「そう、ですが……えっと、どうして?」
「ふふっ、当然ですよ
彼女とは真名を預け合っていますからね
…亡くなってしまっていた事は本当に悲しいですが彼女の意志は、生きた証は貴男という形で未来へと遺してくれています
その生き方に、在り方に、私は敬意を懐いています
貴女達が一歳に為って直ぐに旅立たれましたが…
一年半近い時を一緒に過ごす中で色々と学びました
私にとっては姉の様な……いいえ、最愛の姉です
彼女が居てくれて、彼女の言葉や教えにより何れ程救われ、助けられた事でしょう…
せめて、もう一度会って一緒に御茶をしたりして、色々と話したかったですね……
──っと、話が逸れてしまいましたね」
昔を思い出したのか、饒舌になっていた劉懿だが、我に返って恥ずかしそうに苦笑を浮かべる。
母娘でありながら、知らなかった母の一面を見て、曹操は嬉しくもあり、卞晧との繋がりに嫉妬する。
その混ざり合った感情が行き場を無くして、胸中でモヤモヤと立ち込めている。
「知り合った切っ掛けは、まだ貴方達が生まれる前──私達の御腹に居る時の事です
私は夫と此処に戻っている途中に賊徒に襲撃され、「これまでですね…」と覚悟を決めた所を、彼女に助けられたのが始まりです
その後、彼女も身重であると知り、子供を無事出産する為にも、と私達は滞在して貰う事にしたんです」
「…………ぇ?、それじゃあ、もしかして…」
「ええ、貴方達の考えている通りですよ
貴方達は二人共に、この屋敷で産まれました」
意外な事実に瞬きしてから御互いに見合った。
仕合の場で逢った瞬間から不思議な感じだった。
その疑問が氷解する様に消えて行った。
沛の景色、劉懿の姿、それらに感じていた既視感の理由が明らかになった途端に綺麗に心に填まった。
同時に新たに湧き起こるのは相手への愛しさ。
何が、何処が、どうして、なんて関係無い。
そんな事は、どうだってよくなる。
ただただ、目の前に在る半身の事が愛しくて。
だから、劉懿の声が聞こえなかったら、そのままに二人は一つに重なっていたかもしれない。
それ程に、二人は強烈に、猛烈に、惹かれ合う。
その感情に、欲求に、衝動に、抗えないから。
「二人共、誕生日の話はしたかしら?」
「──っ!?、ヒャッ、はい、近いかも、とは…」
「近いなんて話ではないのよ?
貴方達は全くの同年同月同日同刻に産声を上げて、この世に生を受けたの…
謂わば、運命の双子──いえ、伴侶という所ね」
「大袈裟な…」と普通であれば思うのだろう。
しかし、二人は御互いを見詰めながら劉懿の言葉を違和感無く受け入れられていた。
勿論、そういう過去が有ったとしても。
馴れ初めが運命的な事だったとしても。
“生命有る限り、共に在る”と決めたのは自分達の意思に因る決意には他ならない。
だから、そんな理由には縛られはしない。
ただ、そういう風に言われる事に抵抗は無いだけ。
そんな二人の気持ちを感じ取ったのか。
劉懿は目を細めて穏やかに微笑む。
「貴方達が生まれた日、彼女が貴男を連れて私達の部屋に遣って来た時の事です…
まだ目蓋も開いていなかったのに、御互いの存在に惹かれ合う様に目蓋を開けて…
思う様には動かせない小さな掌を、貴方達は懸命に動かして御互いを求めて…
そして、掴み合った時、嬉しそれに笑ったの…
そう、今の貴方達の様にです」
「「…………?────っ!!」」
そう言い終わった劉懿の視線の先を辿ると、二人が無意識に繋いでいた掌に行き着いた。
その瞬間、恥ずかしくて身体が熱される様になる。
しかし、掌を振り解いたりはしなかった。
寧ろ、しっかりと二人は御互いの手を握る。
「絶対に離さない」と告げ合う様かのに。
そして、劉懿の話を聞きながら何かを思い出した。
それを“記憶”と呼ぶべきなのかは判らない。
ただ、二人は劉懿の話に意識を過去へと引き戻され──先程の事の様に感じながら、思い出した。
自分が誰なのか、母親の事でさえ理解していない、そんな無垢も無垢な赤子だった自分だけれど。
確かに、それだけは理解していた事を。
目の前に在る存在が、自らの掛け替えない半身で。
自分が自分で在る為に必要不可欠な存在である事。
生まれた瞬間から、死が別つ瞬間まで。
決して誰にも渡したくはない“自分の伴侶”だと。
既に、あの瞬間に決めていた事を。
今、時を経て、二人は改めて理解する。
「華琳、今は貴女の部屋に為っている部屋はね
その時、私が寝室として使っていた部屋なのよ?」
「……そうだったんですか」
「貴方達が生まれて初めて出逢った場所…
其処で、貴女は待ち続けていた、という訳です」
少し揶揄う様に言う劉懿。
勿論、意地悪をしている訳ではない。
ただ、少しだけ見方を変えてみると。
部屋で一人、曹操は卞晧の帰りを待つ。
そんな風にも受け入れるのではないだろうか。
事実、曹操は劉懿の言いたい事に気付いたみたいで顔を赤くして劉懿を拗ねる様に睨んだ。
そんな風に、随分と久し振りに見る愛娘の年相応の反応を嬉しく思いながら卞晧へと視線を移す劉懿。
「色々と話していて遅れてしまいましたが…
此処は貴男の生まれた家、貴男の故郷です
御帰りなさい、卞晧」
「……只今戻りました、義母上」
劉懿の言葉に促されたという訳ではない。
卞晧が意図を汲み取ったという訳でもない。
本当に、意図や計算の無い劉懿の言葉に。
卞晧は普通に答えただけ。
それは多分、何処にでも有る、有り触れた光景。
しかし、卞晧にとっては大きな意味が有った。
実母である田静と死別した事で卞晧は自分自身でも気付かない内に歪んでしまっていた。
「母さんの様に立派に」という想いは、良く言えば向上心や尊敬・憧憬なのだろうけれど、悪く言えば強迫観念・自己追及の様なもの。
それは、ある種の孤独感・絶望感から来るもので。
その結果としての頑張りが卞晧を成長させはしたが子供らしさを奪い去っていた。
それが、今の一言で、刺さった棘が抜ける様に。
卞晧の心から、その歪みを消し去った。
それは奇しくも、卞晧の筆跡から曹操が読み取り、感じていた“小さな傷痕”だったりする。
「繋いでいた右手だけでは不十分」だと言う様に、卞晧の左腕を左腕で抱き締める様にしながら自分の目の前で卞晧を誘惑しようとする母親に対して威嚇する様に睨む。
本当なら、その傷痕は自分が癒す筈だったのに。
それを目の前で掻っ拐われたのだ。
如何に母親が相手だろうが胸中は穏やかではない。
いや、寧ろ母親が相手だから余計に負けられない。
ある意味、嫁と姑の誇りの戦い。
「もうっ!、それは私の役目だったのにっ!」と。
そんな批難する様な愛娘の“女の眼差し”に劉懿は驚きながらも態と挑発的に笑って見せる。
「あらあら、そんな風に油断していたら他の誰かに持って行かれてしまいますよ?、女の敵は女です」とでも言う様に強気な視線を向ければ、気圧され、それでも想像して抗う様に、「渡したくはない」と拗ねながらも縋る様に卞晧の左腕を強く抱き締める曹操の姿に劉懿は満足そうに笑む。
如何に稀有な才器の持ち主であっても、恋愛の道はまだまだ歩み始めたばかりの小娘に過ぎない。
そんな愛娘を叱咤激励するかの様に。
劉懿は最初の壁として立ち塞がる。
最初の壁が最も険しいかもしれないが。