四話 一誤一重
曹晧が新しく兌州の州牧となり、先ず行われたのが兌州内の大掃除である。
今は遣ってはいなくても過去の罪は見逃さない。
但し、罪によっては罰金と免職で済ませる。
悔い改めていればこそ、反省を示す事で赦す。
そう、暗に言っている様な曹晧の処断。
それに対し、反発する者は少なからず居たが。
そんな輩に人望や信頼が有る筈も無く。
利害関係で繋がっていた一部の者以外は即時降伏。
曹晧達に逆らう意思は微塵も無かった。
そういった面白味の無い幕間劇は直ぐに終わり。
曹晧達による兌州の新統治が開始している。
陳留郡の事を知っていればこそ。
民に否と言う者は殆ど居ない。
否と言うのは、前任者と繋がっていた者達。
当然、見逃される筈も無く、きっちりと処断。
新しい後任に変わった。
それだけなのだが、民は違いを直ぐに実感する。
主要な街道は勿論、以前は不安だった滅多に利用者自体が居ない道までもが安全性が向上。
曹家の運営する長距離馬車も直ぐに人気に。
人々の往来が活発化した事で各地の経済も循環し、兌州全体の景気が良くなっていった。
それに加えて、曹家の本拠地である豫州との交易で市場は品揃えが豊かになり、文化面でも変化が。
両州の間だけでも、その経済効果は顕著。
だが、真似をしようにも出来はしない。
曹晧達が数年掛かりで築き上げてきた土台が有り、曹家の培ってきた経験や知恵が合わさってこそ。
その奇跡の様な活気は実現しているのだから。
「丕ーっ!、元気だったかーいっ?!」
「うん、御祖父様は?」
「丕に会えなくて寂しかったよーっ!!」
──と、曹丕の顔を見るなり抱き上げ、頬擦りする本気で嬉し泣きしている曹嵩。
その様子を「あらあら」「全くもぅ…」と。
劉懿と曹操が静かに見詰める。
今の曹嵩の頭に後の事など思い浮かばない。
兎に角、曹丕に会えて嬉しい一心なのだから。
そんな祖父と孫と似た様な光景が彼方等此方等に。
韓羽・夏侯雲を出迎える夏侯勲・李寧夫妻と李葉。
曹忠と抱擁を交わす黄倫。
馬岱を抱っこしながら馬超と話すのは曹宗の妻で、馬洪の母である甘尚。
何処も孫を前にしては自然と笑顔が溢れている。
その様子に「平和だね」と曹晧は目を細める。
軽く挨拶をした後は一度解散。
各家にて家族団欒の一時の後、夕方には集合。
一族が集まっての宴が行われる。
丁原と呂布、李亮と楽進も自分達の家に。
当初、李亮と楽進は自分達の家を与えられる事実に驚き、戸惑っていたのだが。
丁原や呂布と話して落ち着いた。
──と言うよりも気にし過ぎない事にした。
感謝し、働きを以て返す。
そう自分達に言い聞かせる事で心の安定とした。
「大御爺様!」
「おー、丕よ、元気にしとったか?」
「うん!」
曹騰を見て駆け寄り、抱き上げられる曹丕。
その様子を曹真夫妻が笑顔で見ている。
曹晧達が曹真達に挨拶をしている間も曹丕は曹騰と話しているが気にしない。
一族の手前、厳格さや威厳を求められる時と違い、家族団欒の場では口煩くは言わない。
曹丕にしても、それが判っているからの事。
ちゃんと曹真達にも挨拶はしているのだから。
「兌州の方も随分と良くなったみたいだな」
「はい、御陰様で予定していたよりも早く州経済の活性化と治安の改善が出来ました」
ある程度、報告と意見交換をする曹真と曹晧。
だが、家庭に仕事を持ち込み過ぎると、どうしても妻から睨まれるので程々に。
今は家族団欒の時間なのだから。
その優先順位を間違える事はしない。
和気藹々とした一時を少し、宴会場へ。
子供達は子供達で自然と集まっている。
その中で、本の少し別行動をしていただけなのだが韓羽達は曹丕にベッタリ。
「寂しかった」と全身で曹丕に伝えている。
その様子に会場からは温かい眼差しが向けられる。
世代を越えて一族が集まり、子供達の姿を見れば。
先ず、話題になり易いのは「次の子は?」と。
催促している訳ではないが、期待をし易いもの。
事実、そういう話題も少なくはない。
ただ、曹晧達に関しては話が違ってくる。
夫婦が共に忙しい身であり、要職を担っている。
そうなると簡単に妊娠するのは難しい。
曹晧と曹操は幸いにも長子が長男の曹丕だった為、二人目は状況が落ち着いてから、と決めている。
韓浩と夏侯惇、曹仁と甘寧は、後継ぎとなる長男を求められている事も有り、「そろそろかな?」と。
馬洪と馬超、夏侯丹と夏侯淵は長子が幼い事も有り先の話として考えている。
一案としては「次の子は揃えましょうか?」という意見も出ていたりする。
これは曹晧達の次子が仮に娘だった場合、韓浩達の次子に息子が居れば婚姻関係を結び易くする為。
勿論、政略結婚ではなく、本人達の意思でだが。
そういう可能性を考慮しての案。
その為、韓浩達二組は悩んでいたりする。
勿論、昔の様な失敗は今はしないので夫婦の営みに支障は無いのだが。
次の子供が欲しい気持ちも確かではある為に。
「玲生様、先日は御世話になりました」
「母子共に元気で何よりですよ」
曹晧達の前に来て御礼を述べるのは曹仁の下の兄の曹尊と妻の張叡夫妻。
曹忠の誕生を機に曹仁の兄達も結婚する運びとなり一年前に長子を妊娠していた。
先日──とは言っても二ヶ月程前になるが、出産。
ただ、難産になると判っていたので曹晧が出向き、出産を手助けしていた。
勿論、曹晧に手抜きは無く、事後処置も万全。
その御礼を改めて、という事である。
生まれた長女の曹佑を張叡から受け取ると、慣れた手付きで抱き、話をしている曹操。
「やっぱり、女の子は女の子で可愛いわね」と。
自分以外が娘を産んでいる事も有り、羨ましそう。
当然、それはそれ、これはこれ、ではあるのだが。
叶うなら、二年に一人は産みたいと思っているのが曹操としての本音だったりもする。
少し間を置いて、同じく曹仁の上の兄である曹英と妻の趙澄夫妻が長男の曹信を連れて挨拶に。
一緒に来た曹仁の父の曹興と笑顔の黄倫。
「各々に孫が出来て本当に嬉しいです」と。
超が付く御機嫌振り。
其処に、趙澄を見て「…あれ?、もしかして…」と気になった曹晧の診察で二人目の懐妊が発覚。
本人にも自覚が無かった為、予期せぬ吉報。
言うまでも無く、宴は歓喜し乱舞する黄倫が音頭を取って大盛り上がりに。
“孫は可愛い”を掲げる意味不明な酔っ払いによる孫談義が開催されていた事には誰も触れない。
飛び火しても困るが故に。
一夜が明け、曹晧達は豫州南部に移動。
今回の里帰りは序でであり、本命は別件。
今回は曹晧達に曹嵩と劉懿も同行している。
ゆっくりとしたい所ではあるのだが、曹嵩も曹晧も州牧という立場の為、長くは空けられない。
勿論、出来無いのではなく、遣らないだけ。
仮に半年程留守にしても問題無いと言える程度には統治基盤はしっかりと出来上がっている。
ただそれでも、無用な隙を作らない努力は必要。
砂粒一つで崩れ去る“砂上の城”に為ってしまう事も有り得るのだから。
決して、油断はしない。
──とは言え、家族の時間は作っている。
曹丕が生まれるまでは曹晧と曹嵩の約束した通りに親子四人で釣りや温泉旅行に行ったりしたし。
曹丕が生まれてからも家族旅行はしている。
流石に遠出をすると悪目立ちするので限られるが。
そういう時間を曹晧も曹操も大切にしている。
その当たり前の様な日常が。
実は、とても脆く、儚く、容易く失われてしまう事を知っていればこそ。
決して、当たり前だとは思わない。
「──?、玲生、これって…」
「あー……多分、そうじゃないかな」
「全く…相変わらず困った娘ね…」
移動する馬車の中、曹操と曹晧は何かに気付く。
曹操は呆れた様に溜め息を吐き、曹晧は苦笑。
「仕方が無いわ、御願いね」と曹操が送り出し。
「直ぐに戻るよ」と曹晧が馬車の中から消える。
扉を開け閉めした痕跡さえ悟らせない絶技。
曹晧は、ただ単に家族に配慮しただけなのだが。
曹嵩達は感心し、曹丕は「父上凄い!」と興奮。
普段、そういった姿は見せてはいないが故に。
曹丕の中の父親値は急上昇する。
そんな家族を他所に、曹操は軽く頭痛を覚える。
この後、曹晧が持ち帰る爆弾娘。
その騒がしくなる事間違い無しな状況を想像して。
そんな状況から、少しばかり時間を遡った頃。
一昔前ならば兎も角、最近では人が踏み入れる事の無くなった豫州と揚州の州境に当たる山の奥。
手入れなどされていない為、延び放題の鬱蒼と茂る草木が行く手を阻む迷路の中に。
不釣り合いな小さな影が二つ有った。
「…本当に此方で合ってるの?」
「大丈夫大丈夫、任せなさいって」
「………任せたから不安なんだけどなぁ…」
不安を拭えないが故の確認に危機感の無い能天気な声で何度目かの変わらない言葉を返されて溜め息を吐く事しか出来無い。
額に、首筋に、肌に浮かぶ汗。
それが美しく見える様な健康的な褐色の肌。
動く度に揺れる桃髪と黒髪。
それは成長した孫策と周瑜であった。
(……これってもう、絶対に叱られるよねぇ…)
行く先に宛など有る筈も無いのにガンガン前に進む孫策の背中を見ながら、周瑜は発端を思い出す。
それは別に珍しくもない事だったりするのだが。
「ねえっ!、ちょっと森の中に行こっ!」
じっとしているのが苦手な孫策に返事をするよりも早く右手を握られ、そのまま連れて行かれる周瑜。
陸遜の「遠くに行ったら駄目ですよ~」と。
今に思えば、振りだった声を背に。
森の中に冒険と称して連れ込まれた。
まあ、この程度なら周瑜にとっては日常茶飯事。
孫策と一緒に居れば、退屈だけはしない。
そう言い切れる程に、連れ回されているし。
色々と巻き込まれてもいる。
だから、今回も「仕方が無いなぁ…」と。
面倒そうにしながらも。
その一方では楽しんでいる自分も居たのだが。
何処で間違えてしまったのか。
孫策の「彼方に行ってみよう!」に任せていたら、何故か森の中ではなく、山の中に。
周瑜からすると意味不明でしかなかった。
普通なら、森から山に変わる際に斜面を登る筈。
それなのに、どうして………。
(──あ、もしかして…あの岩登りの所為?)
孫策が「大きい岩っ!、登ってみよっ!」と。
いきなり登り始めたので慌てて後を追って登った。
岩の上に到着した時、とても良い眺めだったけど。
その後、戻ろうと下って行ったら──こうなった。
「うん、間違い無い、岩登りの所為」と。
気付いた所で、時既に遅し。
周瑜は頭を抱えたくなった。
勿論、そんな事をしても何も解決はしない。
だから、戻る為に進む事にしたのだけれど…。
孫策に前を任せた事が何よりも間違いだった。
そう気付いた時には完全に迷った後だった。
ただまあ、周瑜にとっての救いは、その孫策。
何処までも明るく、前向きな彼女の背中が有るから周瑜は不安で不満で不服ながらも踏み出せる。
もしも、彼女が不安で立ち止まってしまったら。
きっと、自分は泣く事しか出来無いだろう。
そう思うし、そんな光景が思い浮かぶ。
だから、全ての元凶が孫策だったにしても。
憎んだり、嫌いにはなれない。
そんな自分達の関係が父の言う“腐れ縁”なのだと幼いながらに感じていた。
…まあ、「切れるなら切りたいがな」と愚痴る父の気持ちも同じ位には理解が出来るのだが。
それを今此処で口にする事はしない。
そういう事は、無事に帰って、叱られた後。
きちんと孫策に反省を促す為でなければ。
そうでなければ、また、何度でも繰り返す。
彼女が、そういう性格だと誰よりも知っているのが自分であると自負している。
とても素直には喜べない自負ではあるのだけれど。
何故か、悪い気がしないから質が悪いとも思う。
だからこそ、“腐れ縁”と言うのだろう、と。
そんな事を考えながら孫策の後に続く周瑜。
──とは言え、体力は無尽蔵ではないし、疲労感も疲れ知らずと言われる子供の身でも判る程度には、はっきりと蓄積してきている。
如何に普段から、孫策に連れ回され、振り回され、付き合わされて慣れているとは言っても。
周瑜は武官よりも文官寄りである。
そんな孫策の影響なのか、両親よりは運動神経等は高いし、武才も持っている。
それでも、まだまだ未熟な子供には違いない。
周瑜は自分の疲労を理解しながらも、孫策に下手に気負いや心配をさせない様に沈黙を貫く。
──が、孫策とて伊達に一緒に居る訳ではない。
周瑜が疲れている事は判っているし、自分に対して気を遣っている事にも気付いている。
それを口にしないのは、その先が無いから。
正直な所、「何だか疲れちゃったわね~、ちょっと休まない?」と素知らぬ振りで我が儘に言いたい。
そうすれば周瑜も「もぅ…仕方が無いんだから」と渋々という体で休む事に反対はしない筈。
ただ、そうしたら、動けなくなる。
前に進んでいると言っても、下りか平坦ばかり。
今は緩やかな上りでも進むのは厳しい。
その為、必然的に選択肢は限られてしまう。
この状況で止まってしまうと──詰んでしまう。
勿論、夕暮れ時になっても戻って来なければ両親が探しに来てくれるとは思っているけれど。
それまで動けないのは…危険過ぎると知っている。
動かないのと、動けないのは違う。
いざと言う時に動けないのは死に直結する。
だからこそ、無理をしてでも今は止まれない。
足を止めた瞬間に死んでしまう。
それ位の気概で居なければ危ない状況に居る事を。
孫策は本能的に理解している。
だがしかし、そう遣って必死に頑張り、懸命に生にしがみついている時に限って、天は意地悪をする。
「──嘘っ!?、山を下りられたっ!?」
「──えっ!?、本当にっ?!」
草木の壁が途切れ、急に開けた視界。
孫策の、周瑜の目に映った明らかな人工物。
山に近い事から獣避けも兼ねているのだろう。
造りは荒いが、「最低限の役目を果たせば十分」と言わんばかりの丸木の壁が囲んでいる。
その一角に有る出入り口らしい門扉。
それを目指し、最後の力を振り絞って走る。
「済みませーんっ!、私達、山で迷ったのーっ!
御願いしまーすっ!、中に入れて下さーいっ!」
孫策は門扉を叩き、精一杯の声で叫ぶ。
すると、ゆっくりとだが、門扉が動き出した。
それを見て、周瑜と顔を見合わせる。
「助かった~」と破顔。
安堵した事で一気に力が抜け、疲労が押し寄せた。
その場に座り込み、自力で立つ事は無理。
「は~い、もう一歩も歩けませ~ん」と。
抗議する様に二人の足は弛緩し、痙攣する。
──が、現実は優しくは無かった。
「──おいおい、マジかよ、小娘じゃねぇか…
何で、こんな所に居やがんだ?」
「いいから、さっさと連れて来いって
逃げられたら面倒だろうが」
「判ってるって」
門扉の間から姿を見せたのは二人の男。
歳の頃は定かではない。
だが、孫策達から見て確かな事は一つ。
その身形からして、恐らくは賊徒である事。
今の男達の会話からしても疚しさが窺える。
出来る事なら、直ぐにでも走って逃げたい。
追い掛けてくるだろうが、自分達の方が小さいから出来る逃げ方というのも有る。
大人達との“追い掛けっこ”。
実際に遊びながら学んだからこそ、判っている事。
けれど、そうする事は叶わない。
止まってしまったが故に、もう動けない。
出来る事と言えば、離れない様に手を繋ぐ事と。
恐怖と絶望に負けない為に、睨み返す事。
それだけだった。
抵抗らしい抵抗もしない孫策達を賊徒達は連れ込み逃げ出さない様に手足を縛った。
「そんな事しなくても疲れてて動けないわよ」と。
孫策は言いたくなったが、「余計な事は言わない、そうする事で情報を与えない様にするのよ」と。
尊敬しつつも負けたままでは納得出来無い相手から教えられた事を思い出し、飲み込んだ。
ただまあ、生来の気の強さから睨み付けてしまう。
その為、「生意気な」と目を付けられている。
一方、周瑜の方は悲観した様に黙り、俯く。
泣いたりはしていない為、賊徒達から「煩ぇっ!、ビービー泣いてんじゃねえっ!!」等と怒鳴られて、殴られたりする様な事は無い。
──が、彼女もまた尊敬する女性からの教え通り、静かにし、耳を澄ませ、情報収集している。
「窮地に有ればこそ沈黙し、意識を広げなさい」と状況の把握に努める事が可能性を見出だせるのだと盤面の向こう側から指し示されたのだから。
「おい、どうだった?」
「人気は無ぇし、歩いた痕跡も無ぇみてぇだ」
「それじゃあ何か?、マジで只の迷子かよ?」
「みたいだな」
「おいおい、冗談にしても笑えねぇだろぅが…
こんな場所に小娘が二人で来たってのか?
んな馬鹿な事、有る訳無ぇだろうがっ!」
「で、ですが、御頭、嘘じゃねぇんですって…
本当に誰も居ないんでさぁ…」
「チッ、馬鹿野郎が…
彼奴等の格好は見なかったのか?」
「か、格好…ですか?」
「そうだ、地味な見た目だが、アレは上物だ
それも普段着にする様な代物でもねぇ…
そう言ゃあ、手前ぇの悪ぃ頭でも判んだろ?」
「──っ!?、それじゃあ、彼奴等は…」
「其処等の村人でも無ぇし、商人の連れでもねぇ…
明らかに上の連中の子供だな」
「そんなのが何で…」
「だーかーらっ!、調べろつってんだよっ!!」
「ヒィッ!?、わわ判りやしたーっ!!」
叫び声と共に大きく響いた破壊音。
音の感じからして、木箱か樽の類いを壊した。
腹を立てて八つ当たり──否、下っ端を脅す意味で怒鳴り、破壊して恐怖心を煽った。
そう考えるべきだろう──と。
孫策と周瑜は各々に考え、同じ結論に至る。
そんな二人は同時に顔を動かし──視線で会話。
「動ける?」「無理ね~、無理」「だよねぇ…」と一瞬で自分達の手による打開策は放棄した。
抑、それが出来る程度には元気なら大人しく賊徒に捕まっていたりはしないのだから。
そうなると、自然と助け待ち。
──なのだが、状況は猶予が無い事を示唆する。
まだ利用価値が有る内は、殺されはしない。
ただそれも確実な訳ではない。
「見えない影に怯えるのが人の弱さなのよ」と。
二人の脳裏では彼女の姿が警戒を促す。
──と、そんな二人の方に近付く足音。
音からして一人分。
二人は目配せし、即座に寝た振りをする。
足音が止まると僅かに目蓋を開く。
地面と髪の毛の隙間から確認すれば、予想した通り側に立っているのは一人。
他の足音もしない。
「おい!、起きろ!」
そう叫ぶと同時に、周瑜は鈍い痛みを感じた。
蹴り起こされた。
そう理解すれば、即座に咳き込み、涙目に。
「女の涙は猛毒よ、自在に扱いなさい」と。
演技指導も受けている。
だから、その程度は造作も無い。
髪を乱暴に掴み、顔を上げさせられる。
「…貴女、モテないですよね?」と言いたくなる。
勿論、言いはしないが。
視線や表情にも出しはしないが。
絶対に遣り返す、後悔させてあげる、と決意。
何故なら、孫策にも負けず劣らず、周瑜もまた超の付く負けず嫌いなのだから。
その一方で、聞こえていた偉そうな男の声と同じと気付いたら、賊徒の頭なのだと判る。
つまり、無用心にも護衛は居ない、ともだ。
「や、止めて…」
「止めて欲しかったら答えろ
御前達の名は?」
「い、痛いっ……離してぇ…」
「おいっ!、聞いてんのかっ?!」
「ヒィッ!?、や、やぁ……」
「だから────」
無理矢理に起こし、周瑜に質問したが答えない事に苛立ち、腹を立てて顔を近付ける賊徒の男。
睨み付けて脅そうとした。
──が、それは悪手。
その瞬間、男の視界は周瑜で塞がれた。
その一瞬を見逃さず、孫策は身体を地面の上で横に大きく回転させた。
大人であれば、下段の回し蹴り。
俗に言う、足払い。
手足を縛られていればこそ、単純に力を使う。
そして、それは意外な程、効果的だったりする。
「────ナァッ!?」
不意を突かれ、男は仰け反る横に倒れる。
反射的に受け身を取ろう、頭を庇おうと手を着き、衝撃を和らげる事に成功する。
しかし、軽減しても痛いものは痛い。
自分が攻撃された事を理解した男の怒りは増大。
「ぶっ殺して遣るっ!!」と目を血走らせる。
──が、一手遅い。
起き上がろうとする男の視界には黒い影が落ちる。
振り上げられた縛られたままの両足。
その踵が、一切の躊躇無く、顔面に。
鈍い音と、詰まった様な男の声が重なる。
側で見ていた孫策が「うわぁ…」と引く位に。
その一撃を放った周瑜の表情は冷徹だった。
「…うん、本気で怒らせたら駄目ね」と学ぶ孫策。
そして、改めて“髪は女の命”だと思った。
気絶した男から短剣を奪い、縛っていた縄を切る。
不幸中の幸いか、大人しくしていた御陰で幾らかは動ける程度までには回復している。
しかし、二人で数の判らない賊徒を相手に勝てると思う程、短絡的ではない。
事、勝負や試合、戦となると孫策の勘は鋭い。
「此処は逃げるが勝ちよね」と逃走の一択。
周瑜も異論は無し。
──とは言え、簡単に脱出は出来無い。
「物語だと格好良く決めたり、簡単そうなのに」と小さく愚痴る孫策を宥めつつも周瑜も同意。
ただ、これが現実であり、違いなのだとも理解。
その為、焦らず、慌てず、確実に行動する。
小柄な子供だからこそ、中々に見付かり難い。
自分達の利点を活かし、相手を翻弄する。
駆け引きの基本中の基本である。
「──いいかっ?!、絶対に探し出せっ!!
俺の前に生かして連れて来いっ!!」
そう激昂しながら叫ぶ頭の男。
不意打ちだったから気絶はしたが死んではいない。
短剣で止めを刺す事も考えたが、仕止め切れないと痛みで起こしてしまうかもしれない。
そう冷静に判断すればこそ、そのまま放置した。
結果、時間は稼げたのだが。
脱出するまでには到らなかった。
思っていたよりも賊徒の根城の中が複雑だったし、出入り口が一つしかなかった事が原因。
つまりは、此処から脱出する為には、どうにかして門扉を開け、敵を振り切らなくてはならない。
数人程度ならば、どうにか出来る自信は有る。
だが、想像していた以上に人数が多かった。
戦っている内に集まって来られるだろうし、門扉を開けようとしている内に見付かる気がする。
「…出来そう?」「ちょっと厳しいかなぁ…」と。
二人は仕方無く、潜伏する事にした。
──が、時間が立てば見付かってしまうのは必然。
動き回れない以上、隠れているしかなく。
探し回られ、虱潰しに手当たり次第に探されては、隠れ切るという事は不可能。
その為、ギリギリまで粘ってから逃げ出した。
まあ、逃げ回るが正しいのだが。
上手く引っ掛け、暫く潜伏。
見付かったら、また逃げて、隠れて。
──と繰り返せれば楽だったのだが。
相手も馬鹿ではない。
怒り狂っていようとも、一応は一党を率いる者。
それなりには対策を考え、指示を飛ばす。
「よくもまあ、ちょこまかと逃げ回ってくれたな
だが、もう逃げられるとは思うなよ」
壁を背に、半月状に包囲されてしまった二人。
孫策としては、自分が手を組み、踏み切って片足を乗せた周瑜を投げ上げて逃がそうとした。
しかし、その考えを見抜いた周瑜に両頬を抓られ、真っ向から「馬鹿な真似をしたら絶交だからね」と警告ではなく、断言されてしまった。
そうなると孫策としては何も言えなかった。
何しろ、周瑜の賛同がなければ成功は不可能。
抑、着地を考えてもいなかった。
周瑜の言う様に馬鹿な真似だったと言えた。
そんなこんなで、一蓮托生。
「死ぬ時は一緒よ」と。
二人は手を繋ぎ、迫り来る死の恐怖にも抗う。
「ハハハッ!、さあ、仲良く死になっ!!」
「──そうだね、御前達がね」
頭の男が嗤いながら剣を振り上げた瞬間。
その腕は肘から先が勢いのままに飛んで行った。
同時に、不釣り合いな程に澄んだ声が響いた。
「──え?」と疑問を懐いた時には終わっている。
頭の男を残し、他の賊徒は皆、首が地面に転がり、噴血しながら身体は倒れてゆく。
そんな中で、自分の右腕の異常に、周囲の異常に。
頭の男は気付き、回りを見回した後──絶望する。
戻した視界に映ったのは孫策達ではなかった。
二人の前に立ち、感情の無い眼差しを向ける男。
その容姿から、誰なのかを即座に理解した。
「…そ、“曹家の白龍”……」
そう呟いたのが最後。
頭の男の意識は、この世に別れを告げる事ですらも許されずに闇の中へと堕ちていった。
何が起きたのか。
目で捉える事も、思考も追い付かなかった。
ただ、はっきりと判っているのは──助かった事。
助けてくれたのは見知った人物。
二人の理想の男性、第一位である曹皓だと。
「二人共、怪我はしてないかな?」
振り向き、二人の視線に近くなる様に屈むと曹皓は判っているのにも関わらず、そう訊ねる。
それは遠回しに「危ない所だったんだよ?」と。
二人に反省を促す為の言葉であり。
「無事で良かった」と安心させる為のもの。
そして、優しく抱き締められれば。
張り詰めていた緊張の糸は容易く切れてしまう。
ぎゅ~っ…と、曹皓に抱き付き。
それでも泣いてしまわない様に顔を押し付ける事で最後の意地で堪えようとする。
──が、頭を撫でられただけで脆くも決壊。
声こそ我慢しているが、涙は止まらない。
二人を抱き締めながら、曹皓は二人の事を考える。
周瑜に気付かれない様にしているが。
孫策の身体が小さく震えている事に曹晧は気付く。
だから、周瑜に判らない様に。
孫策を安心させる様に少しだけ強く抱き寄せる。
孫策にとっては、それだけで十分。
周瑜を危険に晒した責任の重さからの恐怖。
その上で、生きているからこそ可能な猛省。
この瞬間にも、少女は確かに成長している。
まあ、だからと言って彼女の性格や性根は簡単には変わる事は無いのだけれど。
それはそれで、彼女らしいさだとも言える。
周瑜としては、いい迷惑かもしれないが。
そんな二人の関係を曹皓は微笑ましく思う。
「──この大馬鹿娘がっ!!」
「痛ァアッ!?、ちょっと母様っ?!、酷くないっ?!
こうして娘が無事に帰ってきたんだから優しくしてくれたっていいでしょっ?!」
「優しくしたら付け上がるじゃろうがっ!!」
「ア痛アアァーーッッ!!!!」
あの後、曹皓に連れられて曹操達に合流。
曹皓は孫策達を任せた後、韓浩達を連れて賊徒達の根城へと戻って後始末。
「こういう時には最初から連れて行けって」と。
「ごめん、今回は急ぎだったから」と。
「確かに俺達が一緒だと間に合わなかったか」と。
夫達の間で、一通りの話し合いは終了。
「私も行きたかったっ!」と愚痴る夏侯惇は曹操が上手く誤魔化して宥めていたのは余談。
後始末を終えた後、一行は目的地に到着。
予定通りに孫堅達と合流した。
まだ日も傾いてはいないのだが。
二人が曹皓達と一緒に居るのを見て察した黄蓋。
「ただいま~」と暢気に歩いてくる孫策に一撃。
愛の籠った拳骨を贈った。
そして、反省せず、文句を言う孫策を小脇に抱え、人目を気にせず、尻叩きを始める。
まあ、流石に直にではないが。
周瑜の方は両親と孫堅に謝罪。
周瑜に非が無い事は当然だが孫堅も判っている。
寧ろ、自分達の娘が原因だから申し訳無い。
それでも、娘にとっては掛け替えの無い存在。
愛想を尽かさず、側に居て貰いたい。
そんな親馬鹿な心情を汲めばこそ、周瑜は謝る。
「側に居るからこそ、止められなければ…」と。
その真っ直ぐな信頼には孫堅も自然と頭が下がる。
…決して、甘やかした事を後で黄蓋に怒られるのが恐いから、という訳ではない。
「権くん、こんにちは」
「あーい」
そんな騒がしい状況を他所に、曹丕は孫堅達の次子長男である“孫権”に挨拶をする。
まだ一歳にもなっていないが、会うのは二度目。
認識しているのかは定かではないが。
孫権が曹皓に懐いているのは一目瞭然。
勿論、男同士ではあるのだが。
それが義兄弟を思わせる訳で。
曹丕を想う娘達の闘争心を掻き立てている。
だが、肝心の孫策がアレである。
黄蓋が怒っているのには、そういう意味も有る。
一方で周瑜は年長者らしく落ち着いた物腰で曹丕に限らず、子供達全員に気を配っている。
その頼れる御姉さん振りには曹丕も素直に甘える。
その様子に周異と陸遜は満足そうに頷く。
因みに、その陸遜の御腹には二人目が宿る。
無理はしていないが、陸遜の強い希望での参加。
その辺りには曹皓達も気遣っている。
「ふむ…そうですか、山向こうに賊徒が…」
「場所的に見て、豫州や揚州で悪さをしていた様に見えますが、可能性は低いと見ています」
孫堅が子供達と、陸遜が女性陣と話している中で、周異と曹皓達は賊徒の件を話し合う。
曹嵩も今は豫州の州牧として参加する。
本当は孫堅の様に子供達と触れ合いたいのだが。
劉懿と曹操に叱られるので我慢。
気合いを入れて頑張っていたりする。
曹皓からの報告を聞いた上で周異は曹皓の見立てに同意する様に頷く。
つい最近、曹皓が州牧になったばかりの兌州周辺で起きた事なら、そう珍しくも可笑しくもない。
しかし、豫州は曹家が、揚州は孫家が治めて長い。
勿論、揚州の方が治安の安定期間という意味でなら豫州の足下にも及ばないのだが。
それでも此処数年で劇的に改善・向上している。
その大きな理由が曹皓と曹操の結婚。
両家の血筋が交わった事で、交流が始まった。
勿論、大々的に、堂々と、という訳ではなく。
然り気無く、静かに、といった感じでだが。
両家の距離感は言わずもがな。
確実に縮まり、繋がりも深くなっている。
それ故に、豫州も揚州も賊被害というのは激減。
曹皓達が育成に賊討伐を利用した事も有り。
賊徒自体が激減しているのが実情だったりする。
勿論、油断や気の緩みは無い。
各地の関所や州境等では睨みを利かせている。
──が、それでも完全に無くなりはしない。
賊徒が必ずしも集団で行動するとは限らない上に、他所から流れてくる賊徒の情報は不足し易い。
それに加え、残党となると見付け難い。
主力ではなく、下っ端である事が多いからだ。
そういった理由から、警戒は怠ってはいない。
だからこそ、今回の曹皓が討伐した賊徒達の存在は少しばかりきな臭さを感じてしまう。
「二人の話を聞いた感じでも、何処かの討伐された賊徒の残党が集まったにしては統制が取れていて、一応は組織としての形にはなっている印象です
しかし、コレと言った勢力の象徴も有りません」
「…残党が集まったにしても、それなりには時間を費やして新体制を構築していたかもしれないと?」
「実際には何処かを襲ったりする前だった可能性も考えられなくはないとは思います
ただ、二人の話では、かなり警戒していた様です
その割りには拠点を作った場所が不自然です」
「確かに…私なら、今の三州からは遠ざかる」
「ええ、俺達も同じ意見です」
「その危険性を承知の上で、か…
狙われているとすれば、揚州だろうか…」
「せめて、頭は生かして置くべきでした…」
「いや、状況が状況ですから仕方が有りません
その御陰で二人も無事だったのですから」
つい、感情的になり、鏖殺した事を悔いる曹皓。
それを見て、娘達が引き起こした騒動でも有る為、周異は即座に曹皓に感謝を示す。
──が、二人も理解はしている。
結果的に、という事にはなってしまうのだが。
もしも、孫策達が騒ぎを起こしていなければ。
曹皓達も気付きはしなかった可能性が高い。
──というより、見逃していただろう。
それなりに人数が居れば、村邑の可能性も有る。
その為、気付いても気にしなかっただろう。
今の曹皓達にとっては兌州が最優先。
豫州・揚州の場合、問題が起きなければ管轄外。
越権行為は控えるのが当然だと言える。
故に、その存在を調べる程、気にもしなかった。
──とまあ、そういった意味も含めた遣り取り。
そして、取り敢えず話は終わり、という事。
実際には、その先は曹嵩と孫堅の職務である。
それを曹皓達が主導する事はしない。
寧ろ、遣ってはならない事である。
そういった小さな綻びが、拡がり穴となる。
そんな可能性も十分に有り得るのだから。
「虐待よ!、虐待っ!
教育だ指導だ躾だって言ってるだけの暴力反対!」
肉や野菜の刺さった焼き串を手に。
他の子供達に悪影響が有りそうな事を叫ぶ孫策。
だが、誰も止めないし、放置されている。
それには「何が正しいのかは自分で考えなさい」と常日頃から教えている曹皓達の教育方法の為。
信じた結果、失敗したり、痛い目に遇う。
そういった経験も成長の糧。
そう考え、自分達の実体験も伴っているから。
だから、その程度の戯れ言は聞き流す。
それが判っている周瑜は知らん顔で食事中。
側に居る曹丕や楽進・呂布と笑顔で談笑する。
「誰に似たのか、口だけは達者に成りおって…」
「それは自分の若い頃を忘れての台詞かしら?」
「流石に儂も大人しかったとは言わん
じゃがな、彼処まで阿呆ではなかったわ」
「そう言いながらも実は心配で仕方が無かったのが本音なのでしょう?」
馬鹿な事を宣う孫策に呆れる黄蓋。
曹操の指摘にも冷静に返す。
──が、劉懿の指摘には閉口。
無言のまま、酒の入った杯を一息に呷る。
それが彼女の照れ隠しだと知っていれば。
「母娘揃って素直じゃないわね」と笑む。
あの孫策の戯言も、ある意味では甘えの一種。
素直には謝れないし、認められないから。
ああ遣って遠回しな言動をする。
それを甘えと言わず、何と言うのか。
──と、甘え下手だった子供だったが故に。
曹操は孫策の姿に幼い日の自分を重ねてしまう。
勿論、「まあ、彼処まで浅慮ではなかったけど」と孫策との違いを密かに胸中で補足する。
決して、自分への言い訳ではない。
「悪知恵じゃねぇけど、上手い事言うよな~
え~と……今、七歳だったっけか?」
「そうだね、丕の五つ上だから」
「頭が回る、語録が多いというのは良い事だが…
言い訳が上手くなるのは、どうなんだ?」
「あー……何か、身近に具体例が居るな~…」
「そう言う翔馬もその一人では?」
「ぅぐっ…」
「まあ、各々に耳が痛いかもね」
そう曹皓に言われると顔を逸らしたり、苦笑したり各々の反応を見せる面々。
結婚し、子供が生まれて親に為ったとは言っても、まだまだ世間では若者である。
それ故に昔の事と言っても数年前。
自他共に経験としても記憶としても新しい部類。
心当たりが色々と思い浮かんでしまうのも当然。
勿論、曹皓とて例外ではない。
数としては少なくとも遣らかした事は有るのだ。
だから、孫策達を強く責めたり叱ったりはしない。
それよりも、しっかりと考えさせた方が反省を促し成長に繋がる事を知っているのだから。
ただまあ、韓浩の心配した様に。
言い訳が上手くなる事は好ましいとは言えない。
自責の意味を忘れ、他に責任を押し付ける。
その思考は人を堕落させるのだから。