三話 好嫌逢生
曹晧が兌州の刺史と、陳留郡の太守に加えて都尉も兼ねる事となってから、風が吹き抜ける様に月日はあっと言う間に経過して行った。
新たに都尉を兼任するに至った事に関しては色々と有った事は言うまでもない。
それは正しく内助の功であり、曹家の力。
当然ながら、陳留郡内の県令・県尉は全て曹晧達の縁者を配する形となっている。
つまり、とても動き易い態勢だと言える。
加えて、兌州州牧である劉岱に対して大きな圧力を掛ける事にも成功している。
目に見えない突き上げにより焦燥感を煽る。
そう遣って自滅を誘うか、失態を作らせる。
それもこれも全ては民の支持を集めながら、兌州の州牧の地位も手中とする為の一手。
相手が気付くより早く、考えている間に先に。
対局とは違う、交代制など無い差し合い。
気付いた時には打つ手無し、既に詰んでいる。
そういう事が起こり得るのが、現実なのだから。
──とは言え、直ぐに結果が出る訳ではない。
曹晧達にしても早過ぎるのも困ってしまう。
そうなってしまうという事は、それだけ兌州の民の官吏──漢王朝への信頼は失われている証拠。
民心が乱れていれば治安の悪化にも繋がる。
そういう意味では歓迎の出来無い事だったりする。
ただ、そういう考え方を出来る者は稀である。
殆どの者は少しでも早く自分達にとって利益を生む結果を望むのだから。
しかし、だからこそ、曹晧達は違うのだと言える。
自分達の利害だけを考える訳ではないからこそ。
そういった見え難い部分を意識している。
その結果が統治者としての結果に繋がっている。
その辺りを理解の出来無い者は曹晧達を真似ようと考えて遣ってみても上手くはいかない。
寧ろ、状況が悪化してしまう事だろう。
それ程に繊細で緻密で困難な事を成している。
理解出来ればこそ、正しく理解する事が出来る。
決して、敵対してはならない、という事を。
「父上、これは?」
「これは“夜露蓬”だね」
「よもぎ?、よもぎもちの?」
「蓬ではあるけど、蓬餅に使うのは別の物でね
この夜露蓬は薬草だけど、苦味が凄いんだよ
毒じゃないから食べてみるか?」
「…………苦いのは嫌」
「ははっ、じゃあ食べるのは無しだな」
滅多に人の入らない陳留郡の、とある山の奥。
其処で、見付けた野草を摘んできた曹丕に、どんな物であるのかを話す曹晧。
試食するかを訊かれ、「苦い」と言われた事により考え込み、結局は嫌だと拒否する曹丕。
その様子に笑いながら頭を撫でる曹晧。
そんな父子の微笑ましい一場面だと言える光景を。
少し離れた位置で妻であり母である曹操は目を細め穏やかな表情で見守っている。
決して、「まだまだ子供ね」等と好奇心より苦味に対する嫌悪感が勝った我が子の悩んだ末の答えたを面白がっている訳ではない。
「昔、好奇心に負けて人生最大の醜態を晒した事が有るからな~」等と考えた韓浩の顔面には物音一つ立たないまま鍋がめり込んだのは自業自得。
“女の勘”を甘くみた愚かさなのだから。
さて、そんな曹晧達だが、現在は休暇を取り、皆で普段の喧騒から離れた山奥に居る。
曾て──という程、昔の事ではないが、まだ各々が結婚する前に旅をしていた時の野営を思い出す様に和気藹々とした雰囲気で自然を楽しんでいる。
少なくとも、子供達にとっては初めての経験。
曹家の経営する農耕地や、曹晧が個人的に栽培する農園での収穫等とは違う世界。
自然という未知であり、驚異に触れ、大興奮。
特に曹丕は両親に似てか、好奇心が強い。
知らない事に対し、学ぼうとする姿勢は大人でさえ自分の意識を改めさせられる程で。
本人の知らない所で影響力を発揮していたりする。
「御母様、具が大き過ぎではないですか?」
「そうか?、この方が食べ堪えが有るだろう?」
「今日は雲や岱も居るんですよ?
もう少し小さくした方が食べ易いと思います」
「御母様、味付けはこれ位でしょうか?」
「…ええ、この位で良いでしょう
雲と岱にも濃過ぎないでしょうしね」
一方では夏侯惇と韓羽、甘寧と曹忠が料理中。
以前ならば兎も角、今は人並みには一人でも料理を問題無く作れる様になった夏侯惇。
韓羽からは少し注意されるが、その程度の修正なら即座に対応出来る位にはなっている。
そんな夏侯惇の成長は、知る者にとっては感動物。
勿論、夏侯惇が照れたり、恥ずかしがったりすると色々と賑やかになるので今は自重する。
問題が無い状況なら、構わないのだから。
夏侯淵と馬超は我が子の世話。
まだ幼い為、置いていくのも可哀想だし、自分達が不参加というのも残念無念。
──という訳で、連れてきている。
その辺りは曹晧という信頼出来る主が居ればこそ、思い切って出来る事だと言える。
曹晧を除く、各夫達は協力して天幕張り。
最初は曹晧も参加するつもりでいたのだが、到着後韓浩達に「折角の休暇なんだから休め」と外され、曹丕と一緒に自然学習に。
曹晧以外が結託していた事は言う必要の無い話。
此処に、以前とは違う参加者が四人加わっている。
先ずは、曹晧達に助けられた縁から曹家に仕える事となった丁原と、その亡き夫・呂織との間に出来た忘れ形見である一人娘の“呂布”の二人。
曹丕とは同い年であり、曹丕が二ヶ月早く生まれただけなのだが、本人が大人しい事も有り兄妹の様な関係が出来上がっている。
尤も、そんな事は些細な事でしかない。
曹丕の服の裾を握り後ろに隠れる姿は愛らしく。
ちょこちょこと付いて回る姿には保護欲が湧く。
韓羽・曹忠も実妹同然に可愛がっている。
それには、まだ呂布が曹丕に対して恋愛感情を抱く兆候が見えてはいない事も有る。
その時が来れば手強いのだろうが。
今は無害な可愛い妹分でしかない。
そして、曹晧達に助けられた縁も有ってた曹丕達と一緒に学ぶ事となった楽進と、その母親の李亮。
その李亮は現在、丁原と共に曹操付きの侍女に。
夫を無くし、子供は一人娘と。
共通点の有る二人は直ぐに意気投合。
御互いに刺激し合い、今では曹操の下で活躍中。
そんな四人は、楽進と呂布は曹丕と一緒に曹晧から薬草等の事を学んでいる。
丁原と李亮は二人で楽しそうに話しながら、道中で曹晧達が狩った猪や野鳥を捌いている。
…笑顔で遣っている姿には恐怖感を覚える所だが。
奪った生命を、しっかりと頂く。
その理念を忘れなければ、当然だと言える。
──とまあ、こういった面子による休暇である。
普通なら、護衛の百人も付きそうな所なのだが。
実際には皆無。
丁原・李亮も侍女としてではなく、友人家族という立ち位置での参加となっている。
勿論、そうは言っても主従関係は消えはしない。
なので、曹晧達も完全に無礼講にする必要は無く、程好く崩れてくれればいいという程度。
決して、強制や無理強いはしていない。
そんな大人達は兎も角として。
子供達には子供達の関係性が出来ている。
先ずは中心となる曹丕だが、二歳を越え、話し方もしっかりとしてきた。
両親程は常人離れはしていないものの、この年齢で考えれば物覚えも良く努力家であると言える。
恋愛感情は今の所、懐いている様子は無し。
一つ歳上の韓羽・曹忠は相変わらずで、仲が良く、しかし、曹丕の事が大好きである恋敵。
ただ、年長者として、お姉さん振る一面も。
子供だからこそ、一歳の違いは大きいと言える。
夏侯雲・馬岱は一歳の為、まだまだ大人しい。
それでも、曹丕達と居る時には嬉しそうにする。
言うまでも無く、特に曹丕に対しては。
可愛い妹分だが、韓羽達は既に恋敵と認識。
勿論、だからと言って何をする訳ではないが。
将来を見据えている事は確か。
三つ歳上の楽進は面倒見が良い事から曹丕は直ぐに彼女に懐いて親しくなった。
その為、最初は強敵として敵視していた韓羽・曹忠だったが、接して見れば優しい御姉さん。
自然と打ち解け、仲良くなっていった。
今では三人で居る姿を見る事も珍しくはない。
当の楽進も最初こそ緊張し、気を遣い過ぎていたが今では程好い加減で接している。
だが、きっちりと公私では分ける辺りは彼女自身の生来の生真面目さが故である。
──とは言え、そんな楽進の姿勢や意識を曹操達は高く評価していたりもする。
勿論、本人には知られない様にしている。
呂布は皆の妹分。
大人しい上に人見知りな所も有る為か、必要以上に周りが構ってしまう傾向が強いのだが。
当の本人は構われて嬉しそうにしている。
尚、曹晧からは「大人が構い過ぎない事」と密かに呂布の将来の為に注意が出ている。
曹操達が構うのと、曹丕達が構うのとでは本質的な意味合いが違ってくる為であり。
呂布が依存する様なら曹丕達にすべきだから。
──という打算が有る事は知る必要の無い事。
子供は子供らしく、素直なままで良いのだから。
「…漸く寝付きましたね」
「ふふっ、随分とはしゃいでいたものね
あの姿を見れば連れて来て良かったと思うわ」
「正直に言うと、子供達からしたら何が面白いのか判らないんじゃないかと思ってたんだけどな~…」
「子供だからこそ、何に興味を示すか判らないよ」
子供達──最後の夏侯雲を子供用の天幕の中に置き戻ってきた夏侯淵が自分の椅子に座り一息付く。
それを見て、曹操・韓浩・曹晧と口を開く。
一度夜更かしを許した為、普段の規則正しい生活に歪みを生じさせると戻し難い事を知ればこそ。
切り替えの出来る自分達とは一線を引く。
それが、結果的に御互いの為にもなる。
…決して、大人に都合の良い屁理屈ではない。
「それにしても意外と釣れないものね
少しは手応えが有ると思ったのだけれど…」
「…やはり、少々遣り過ぎたのでしょうか?」
「──と言うよりも、向こうも馬鹿じゃないって事なんだろうね
勿論、食い付いてくれたら楽だったんだけどね」
「そう上手くは行きませんか…」
大人用の料理──酒に合う物──を口にしながら、残念そうに溜め息を吐く曹操。
それを見て甘寧も反省する様に振り返る。
そんな二人を曹晧が励まし、方向を修正。
夏侯丹が意を汲み、話を一段落させる。
そんな会話の理由だが、この休暇を餌にして。
自分達に敵対する勢力の刺客を誘き寄せてしまおうという裏の意図が有ったりした。
──が、会話の通り、上手くは行かなかった。
勿論、「上手く行けば儲けもの」程度の期待だが。
何も無いと、それはそれで詰まらない。
「もっと殺る気を出しなさいよね」と。
愚痴る妻達の本音を察し、夫達は苦笑する。
攻撃的なのは、意外と男よりも女性である。
生物として、雄よりも雌の方が攻撃的なのは当然。
力を示す為の雄。
守る為に戦う雌。
ある意味、その性質の違いが現れているのだから。
「でもまあ、決定は変わらないしね
出来れば、片付けたかっただけだから」
「けどさ、後の火種になるかもしれないんだろ?」
「そう出来るだけの力が残っていればね」
曹晧の言葉に馬超が訊き返す。
それに対して曹操が答えると、杯を飲み干してから逆さにして見せれば、馬超は苦笑。
「そういう所って子供達には見せないよな~」と。
普段は厳しくも優しい母親である曹操。
その苛烈な一面を、まだ子供達は知らない。
…まあ、知らない方が幸せなのかもしれないが。
多少、別の意図が含まれてはいたのだが。
これが休暇である事には違い無い。
だから、「仕事の話は終わりよ」と。
曹操の合図でも有り、甘寧が杯に酒を注ぐ。
其処からは本当に仕事は一切抜き。
普段の私生活や家事・育児の話や愚痴り合い。
家の事を任せる侍女達が居るとは言え。
曹操の様に自分が遣りたい場合には我慢が必要。
仕事を奪う訳にはいかないからだ。
その為、機会が限られる。
そういう類いの愚痴が多い。
勿論、全く機会が無い訳ではないのだが。
曹操としては三食全てを自分が作り、夫子に食べて貰いたいのも自然な欲求。
だから時々、そういう日を設けてはいる。
そして、こういう時には自重はしていない。
まあ、それは曹晧にも言えるのだが。
妻が不機嫌にならない境界線は見極めている。
…夫婦仲?、心配するのも馬鹿馬鹿しいです。
既に子供達は夢の中なのだから。
──といった休暇から数日後。
曹晧と曹操は曹丕を連れて久し振りに洛陽に。
護衛には夏侯丹と馬洪、兵士が二十名。
必要最小限、形式的に、という感じである。
だからと言って、気を抜く事は無い。
これも仕事であり、大役なのだから。
さて、基本的には中央からは距離を置く曹晧達。
それは中央──宮中の権力争い・派閥争いといった面倒事に巻き込まれない為のものなのだが。
そんな二人でも、来ない訳にはいかない事が有る。
…叔父である皇帝に招待されたから、等ではない。
そういう事は皇帝の姉である劉懿が睨んでいる為、姉には逆らえない弟は愚かではない。
弟とは、姉には逆らい難いものなのだから。
…話を戻して。
二人が洛陽に遣って来た理由。
それは漢王朝の官位・役職に関わる為である。
この度、前任の兌州州牧・劉岱が体調不良により、続行不可能となった為、辞任。
その後任として、曹晧が新たに兌州州牧に。
つまり、その拝命の為に、上洛している。
──とは言え、曹晧達にしても皇帝にとってみれば本命は後に待っていると判っている。
一通りの儀礼が終わり、退室。
そして、改めて案内されるのは皇帝の居住区。
高官達ですら、滅多に入る事の許されない領域。
其処に曹晧達は招かれている。
護衛役の二人も一緒に。
「あ!、丕ーくんだ~」
「こんにちは、協ちゃん」
曹晧達──と言うか、曹丕の姿を見て駆け出して、抱き付いてきた女の子。
彼女は劉協。
皇帝・劉宏と王尚花の一人娘である。
母と同じ桃色の髪に、父と同じの碧色の瞳。
曹丕と同じ位に見えるが、本の少し背が高い。
おっとりとした口調の通り、穏和を体現する性格で周囲の者を笑顔にする魅力を持っている。
同い年であり、従姉弟の関係の曹丕とは仲良し。
──と言うか、大好きだったりする。
その為、皇女という立場を世界の彼方に放り投げて頬を寄せて頬擦りしていたりもするが。
それを誰も止めようとはしない。
まあ、夏侯丹と馬洪は娘の事を思うと邪魔をしたい気持ちが無い訳ではないのだが。
親であり主の曹晧達が放置している。
同じく、皇帝夫婦も微笑ましくみているだけ。
二人の触れ合いに対して、特に何も言わない。
曹晧達に「これは将来は──」といった様な内容の話を振ったりする訳でもない。
だから、夏侯丹達にしても何も言えないである。
結果、「…考え過ぎか」と思うのだが。
曹晧達も、皇帝夫婦も、未来の事は当人達の意志に委ねていればこそ、というだけの話。
自分達の、政治的な都合を押し付けはしない。
そう考えているからだったりする。
勿論、親として娘の幸せを願う気持ちが有る事には違い無いのだが。
曹晧達に政略結婚を持ち掛ける程、皇帝も愚かな訳ではないし、何より王尚花が看過しない。
彼女からすれば、自然の成り行きに任せている方が確かな実りへと繋がると判っている。
自分達が、義姉達が、曹操達が、そうである様に。
結ばれるべくして結ばれた縁絲は強いのだから。
因みに、韓羽・曹忠とはまだ未邂逅。
しかし、御互いに曹丕を介して話は聞いている。
聞いているからこそ、恋敵である事は承知済み。
故に、見えない場所で火花を散らしていたりする。
尚、まだ呂布や夏侯雲・馬岱は対象外である。
「あれ?、協ちゃん、あの娘は?」
「──っ!?」
曹丕が誰も触れなかった九人目に気付く。
そして、曹丕と目が合った瞬間に身を強張らせた。
曹丕が知らないのだから皇帝の関係者。
──となると、身を正すべきは曹丕の方だろう。
しかし、現実には少女の方が身を正している。
それこそ、未来の皇帝を前にしたかの様に。
そんな少女の様子を大人達は温かく見守る。
微笑ましそうに、将来を楽しむかの様に。
「ォ、御初に御目に掛かります、賈駆と申します」
「彼女は協の御側付きです、仲良くしてあげてね」
ガチガチに緊張しながら挨拶をした少女・賈駆。
その両肩に後ろから優しく手を置き、曹丕の前へと送り出す王尚花の仕草・表情は母親も同然。
そして、彼女の事を曹晧達は事前に聞いている。
当然と言えば当然だと言えるのだが。
故に何の反応もしていなかった。
無害であると判っているから。
その少女──賈駆に関してだが。
王尚花の友人であった女性、賈鏡の一人娘で。
両親が亡くなり、王尚花に引き取られる形で劉協の遊び相手兼御側付きに。
──という名目ではあるが、義娘も同然。
三つ歳上の賈駆は劉協からすると姉であり。
曹丕から楽進の事を聞いていた劉協にとってみれば同じ様な存在が出来た事を嬉しく思っている。
勿論、賈駆自身の事も大好きである。
その為、懐かない、慕わない理由が無かった。
賈駆の方も最初は「ちょっ!?、ええっ?!」な劉協の距離の詰め方に戸惑ってはいたものの。
今では本当の妹の様に大切に思っている。
勿論、皇女と侍女という立場は忘れてはいない。
それはそれ、これはこれ。
王尚花から教わった事である。
そんな緊張する賈駆に笑顔で挨拶する曹丕。
楽進の時もそうだったが。
ある意味、魔性とも言える笑顔を以て魅了。
──が、自制心の強い賈駆は踏み留まる。
ただまあ、顔は真っ赤であり、小首を傾げながらも目の前で自分を心配そうに見詰める曹丕の眼差しは反則と言っていい程に凶悪。
悪意は勿論、作為的でもないが故に効果は抜群。
「はぅっ!?」と賈駆の中の小さな賈駆達が身悶えし次々と倒れていっていたりするのだが。
そんな事を天然無自覚女誑しな曹丕は気付かず。
見ている大人達は面白がったり、苦笑するだけ。
決して、助けはしない辺りが大人なのだろう。
そんなアワアワする賈駆と曹丕の間を取り持つのが劉協であり、自然と両者を近付ける。
必死に「冷静に!、身分違いだから!」と胸の中で自分自身に言い聞かせようとする賈駆だが。
ドキドキと高鳴る鼓動は「うるさいっ!」と思わず叫びたくなってしまう程に大きくなっていて。
でも、それが決して嫌な感じではなくて。
いやでも、違うと言うか、間違いと言うか…と。
頭の中でグルグルとしている内に劉協に拉致され、大人達からは遠ざかってしまった。
つまり、助けは無い、という事である。
それを見送り、大人達は優雅に御茶会。
夏侯丹達は護衛として控えているが。
曹晧達は叔父夫妻と談笑。
それ以上も、それ以下も、それ以外も無い。
──であればこそ、穏やかな一時は過ぎていった。
時間が経つのは早い。
そう感じるのは充実している時や楽しい時。
その終わりが惜しくなる程に。
逆の場合、時間が経つのは遅く感じるもの。
「早く早く…」「…まだ?」と苛々もしてくる。
精神的にも言動的にも悪影響が出易くなるもの。
それだけ気持ちというのは時間感覚に影響する。
「洛陽は相変わらずと言うか、呆れたものね」
「まあ、地方の様に統治者が変わる事は少ないし、変わっても、その下は変わらないしね
洛陽自体、変わり様が無いとも言えるかな」
「こうなってくると地震や洪水、或いは火事とかで壊滅してくれた方が作り直し易いわね」
「人的被害を考えなければね」
そんな会話を酒杯を片手に交わす曹操と曹晧。
同席する夏侯丹と馬洪は苦笑するしかない。
韓浩が居れば「いや、二人も相変わらずだって」と口を滑らせていたかもしれない。
それ位に物騒な事を、他愛無い話題としている。
それに慣れてしまっている自分達に気付き。
「…もう少し考えないとな」と反省する。
主に、ツッコミ役を韓浩に任せ過ぎない方向で。
それはそれとして。
曹晧達は洛陽にある曹家の屋敷に居る。
遣ろうと思えば日帰りも出来るのだが。
曹晧達としては先日の休暇の延長戦。
中央の敵対勢力・不穏分子を誘き出そうと考えて、こうして洛陽の屋敷に泊まっている。
実際には昨日の内に洛陽に入っている為、実は既に昨夜の段階で期待した釣果が有った。
そして、今現在。
曹晧達の足下には忍び込んで来た刺客が転がる。
その数は軽く二十を越えているのだが。
まだ一人も死んではいない。
始末するだけなら、態々誘き出したりはしない。
手当たり次第、怪しい者は始末すればいい。
その方が手っ取り早く、簡単なのだから。
そうはしていないのは、情報を得る為。
汚れ仕事を請け負う様な輩は裏事情にも詳しい。
勿論、曹家の情報網を以てすれば集められない事、調べられない事というのは無いに等しいのだが。
その手間や経費、時間を削減し省けるのなら。
遣らない理由というのも無かったりする。
「さてと…もう今日は打ち止めみたいね」
「そうだね、これ以上は期待は出来無いかな」
「それじゃあ──始めましょうか」
そう言って口角を上げる曹操。
その視線の先には暗殺等を目的とした刺客達。
拘束もされず、地面に転がる。
しかし、逃げ出す事は誰一人として不可能。
手足の神経を断たれ、筋肉を破壊され、骨も粉々。
だが、皮肉な事に彼等は歴戦の強者。
痛みに対する耐性は高く、その程度では閉口。
喋るつもりは無い。
…まあ、喋りたくても発声は許されはいないが。
同様に自害する事も不可能。
そう縛られている為に。
故に、今の彼等は経験した事の無い恐怖を知る。
「一体何なんだこれはっ!?」と誰もが思いながら、その意思を声にする事すら許されない。
「…俺達は一体何を敵に回したんだ?」等々。
祟りに触れたかの様に怯えていた。
そしてそれが今──確かな絶望へと変わった。
妻となり、母となり、影となり。
元々苛烈だった曹操の攻撃性は突き抜けた。
別に悪虐非道という訳ではない。
弱き者、女子供、善良な民には優しく、慈悲深い。
──が、罪人や敵に対しては真逆。
容赦?、躊躇?、人権?、道徳心?。
それらを我が物顔で踏み荒し、好き勝手してきた。
そんな連中に、どんな気持ちで手を差し伸べる?。
曹操の──否、彼女達の答えは明解。
「罪を罰し、悪を滅せ」である。
そして、その為の手段は以前以上に拘らない。
──と言うよりも、其処は韓浩達も含め、曹晧から強く影響を受けたのは言うまでもなく。
「ただ殺すより、痛めに痛め付けて知ってる情報は全て吐かせた方が利になるしね」と。
「勿体振ったら時間の無駄だから即処分で」と。
「死ぬ前に少しでも自分達の行いを身を以て知り、省みれる様に手助けしてあげよう」と。
田静の教えを布教した成果だったりする。
当然、熱心な信奉者である女性陣は実直に、真摯に受け止め──実践している。
子供達の事と、目立つ事で断念はしたが。
夏侯惇達が残念がり、悔しがったのは余談である。
勿論、男性陣も手心を加えたりはしない。
淡々と、何の感情も見えない冷たい笑み。
ただ、それだけを見ながら刺客として送り込まれた彼等は情報を渡して道連れを増やすのみ。
彼等に信念や忠誠心、使命感というものは少ない。
全く無い訳ではないし、曾ては有っただろう。
ただ、いざとなれば売り渡す。
それは裏切りなどではない。
使い捨てられる者としての悪足掻き。
要は“死なば諸共”である。
そう遣って得た情報で成果も出ている。
結果が伴えばこそ、その釣果は馬鹿に出来無い。
まだ子供達には見せられない血生臭い静寂の夜会。
それはまだ始まったばかりである。