十八話 辛抱遠旅
それは宛ら、糸と糸を結ぶかの様に。
人と人の絆は、縁は、結われて変わる。
それが良い方向になのか、悪い方向になのか。
それは結われた事自体の良し悪しではなく。
その人の意思により、良くも悪くも成るだけ。
ただ、時として断ち切る事も必要な選択であり。
それにより、生じ拓かれる可能性も有る。
けれど、その先が如何なる未来なのかは判らない。
進んで見なければ、知る事も出来無いのが現実。
「このまま行けば…」と考えてみても。
それは想像の域を出ず、可能性の一つでしかない。
物事は偏に、結果と成って確定する。
故に、予想は不確かで、定まらぬもの。
常に、自らの選択が、全てを決める。
だから、大切なのは揺らぐ事の無い、己が意志。
自分自身を確と持ち、定め、貫く覚悟が有れば。
事の良し悪しも、全てを背負い、糧と出来る。
そういう生き方が、在り方が出来るのなら。
失敗や後悔は決して、“傷痕”には為らない。
「春蘭と康栄が居ないと、本当に静かなものね
ただ、それを少しだけど“物足りなく”思うのは、私自身も毒されている、という事なのかしら…」
「──と言うよりも、その賑やかさが日常の一部に為ってる位に二人の存在が大きいって事だろうね
まあ、本人達には死んでも言わないけど」
「ええ、そうね、絶対に調子に乗り過ぎて面倒事を起こしてくれるでしょうから」
その不在を寂しく思われながら即座に評価は一転、容赦無く叩き落とされる。
そんな主君夫妻の会話を側で聞きながら、夏侯淵は知っているが故に想像に難く無く。
反論も擁護も出来無い為、深い溜め息を吐いた。
今から一ヶ月半前、曹操と卞晧は婚礼の式を挙げ、卞晧は曹姓へと変わり、現在は曹晧が彼の姓名。
続いて一ヶ月前、韓浩と夏侯惇が婚礼の式を挙げ、その一週間後には曹丹と夏侯淵が。更に一週間後に曹仁と甘寧が。その一週間後、最後に曹洪と馬超が婚礼の式を挙げた。
曹丹は夏侯丹へ、曹洪は馬洪に姓名が変わったが、然程気にする事ではない。
ただ、名乗り間違え掛ける事が有るだけ。
尚、韓浩が「俺は変わらなくて良かったな、絶対に暫くは言い間違える自信が有る」と言っていたが、誰も否定出来無かったのは御愛嬌。
そんな新婚ほやほやの曹操達だが。
妊娠中の夏侯惇と甘寧、その夫の韓浩・曹仁を残し六人で中断されていた旅を再開している。
──とは言っても、以前からの予定通りに短期的な旅に為ってしまうのは仕方の無い事。
納得はしていたが、夏侯惇も、甘寧でさえ。
同行出来無い事には眉根を顰めていたからだ。
これが原因で「いざという時に動けないでは困る、だから子供は一人居るから十分だ!」等と言い出し二人目以降を作らない様に為っては困る。
だから、あまり長い間、旅をする事は出来無い。
…まあ、色々な圧力が有った事は否めないが。
「だけど、こうして考えると思春の妊娠は天佑ね
春蘭と康栄だけ残すのは不安だっし、思春の妊娠で伯母様が積極的に協力してくれるのは大きいわ」
「隼斗さんは大変だろうけどね」
「兄さんは兄さんで、もう少し精神的にも成長して貰わないといけないから丁度良い切っ掛けよ
私達の代の重臣の中では現状では最年長だもの
ある意味、皆を纏める統率力が求められるわ
兄さんは実直で努力家で優秀だけれど、柔軟性には大きな課題が有るし、其処が一番の問題だもの
しっかりと克服して成長して貰わないと困るわ」
「人に使われている分には物凄く優秀なんだけど、自主的に動くとなると駄目駄目な人っているしね
しかも、隼斗さんって、その典型だから…」
「ええ、将来的な事を考えても兄さんの成長如何で組織上層部の形を変える必要性も出てくるわ
…まあ、そういう意味だと康栄と春蘭が成長して、兄さんの役割を担えるのなら、それが私達にしても一番理想的な形なのだけれど…」
「それは高望みが過ぎるね
──と言うか、その場合は二人の良さが消えるよ」
「まあ、そうでしょうね…
本当に…儘ならないものだわ」
──と、愚痴る様に交わされる夫妻の会話に。
夏侯淵達は苦笑するしかなかった。
あまりにも的確な指摘であり、高い展望。
勿論、それを共に目指している以上、否は無いが。
この馬に居ない当事者達への声援は禁じ得ない。
それは兎も角として。
今回の旅で巡るのは残っていた青州と徐州、それと帰路で通過するだけだった兌州。
豫州の南東部から徐州に入っており、青州を周り、兌州を経て帰ってくる、という予定である。
最大で二ヶ月の期間を予定してはいるが。
先程も言っていた様に長くなると我慢出来無くなる可能性が有るので──仕方が無い。
実質的には一ヶ月半を目安として考えている。
「それはそれとして…
やはり、海に面した領地は欲しいわね
妥協するのなら、江水か河水に面している領地でも構わないけれど…」
「そうだね、出来れば徐州が欲しいかな
兌州も悪くないんだけど、河水の下流域にだしね
南は──言うまでも無く、手を出し辛いからね」
「思い切って飲み込んでみるとか?」
「中るって程度じゃ済まないと思うよ?」
「そうでしょうね」
歩きながら他愛無い感じで話している二人。
しかし、夏侯淵達からすれば物騒な話題。
特に馬洪は「冗談でも笑えないって…」と頭を抱え叫びたくなる衝動に駆られるのは仕方が無い事。
話でしか知らない夏侯淵達と違い、件の手合わせを直に見て知っているが故に。
本当に遣りそうだから、笑えないでいる。
勿論、そう為った場合には全力を尽くすだけだが。
遣らないで済むので有れば、遣りたくはない。
馬洪自身、馬一族を背負う身では有るが。
それは、まだまだ将来的な話でしかない。
少なくとも、この先五年は馬騰が長のまま。
早くても馬洪が二十歳に成ってから、と。
そういう予定には為っているのだが。
当然ながら物事は予定通りには進まない事も有る。
だから、三年後には馬洪と馬超は豫州と涼州を一定期間毎に往き来しながら仕事に慣れていく形に。
そして、五年後には涼州に腰を据える事になる。
当然だが、本人達の希望は通りはしない。
それが背負う立場の者の宿命でも有るのだから。
「そう言えば、翠、貴女に新しく下が出来たのよね
御目出度う、御祝いは産まれる頃に贈るわ」
「ぅっ…ああ、まあ、一応、有難うな」
歯切れの悪い馬超だが、仕方が無い事だろう。
自分に「早く孫の顔を見せんか!」等と言っていた厳顔が新しい弟妹を身籠っていた。
その時の複雑な心境は……言葉には出来無い。
しかもだ、それに加えて、その話を馬洪との婚礼の式の後に聞かされた訳で。
「いやっ、遅過ぎるだろっ?!」とツッコミを入れた馬超は決して可笑しくはない。
ただ、馬超は曹操達と旅をしていた訳で。
その旅は“御忍び”に近い物だった訳で。
厳顔から「下手に接触する事は拙い」と言われては返す言葉が出て来なかった。
尤も、厳顔にしてみれば、自身の妊娠をネタにして馬超の成長具合を確かめていたりしたのだが。
当然、その事を馬超が知る事は無い。
「成長は見られるが、まだまだ小娘よな」と。
そうは言いながらも、旅に出して良かったと。
その確かな成長を心の中では素直に喜んでいた。
決して、馬超には見せないだけで。
──とまあ、そういった理由が有った為。
馬超も曹操の言葉を素直に喜べなかった訳だ。
当然だが、その辺りを知っていての曹操の言葉。
この後、御約束通りに曹操に馬超は揶揄われ。
飛び火して巻き込まれる馬洪や夏侯淵達。
そんな愛妻の様子を曹晧は楽しそうに見守る。
そんな感じで、穏やかな雰囲気で再開された旅路。
今回は名実共に新婚旅行である事から一同の気分も前回とは少々違った高揚感を持っていた。
──が、今現在、一行の雰囲気は物凄く悪い。
重苦しいのではなく、張り詰め剣呑としている。
その原因は奥様方が揃って不機嫌な為。
だが、決して、旦那達が浮気をしたという訳でも、他の女性に視線や意識が行ってしまったという様な男女・夫婦間では有り触れた事が原因ではない。
寧ろ、「其方の方が機嫌を直すのが楽だ」と揃って言い切れるのが、今の曹晧達である。
それでは、一体何が原因なのか。
それは男女・夫婦間の事ではない。
徐州の治安的・政治的な現状に対する憤怒。
曹操も、馬超も、多くの民を背負う立場で有るし、夏侯淵は曹操達を支える重臣という立場だ。
その為、そういう事には非常に敏感である。
本の少し男女別々に分かれて行動して合流したら、妻達の機嫌が噴火直前の火山の様な状態なら。
「さて、貴男なら、どうしますか?」と。
馬洪と夏侯丹は思わず通行人に問いたくなった。
曹晧はというと、静かに曹操達の様子を見詰める。
特に声を掛けるでもなく、意識しない訳でもなく、距離を置く訳でもなく、ただ見詰めているだけ。
ただ、何もしていない訳ではない。
何もしていない様で、きちんと見極めている。
今は何もしない事を選んで遣っているというだけ。
それには曹晧為りの理由が有る。
基本的に多くの男性は理論的に、女性は感情的に、思考をし易い傾向に有る。
勿論、全てではないのだが。
相対的に、こういう状況では説得等は無駄。
理論に対する感情論は納得が出来ず、感情論に対し理論的な言葉は感情を逆撫でするだけ。
理論には理論、感情には感情が一番無難なのだが。
それが必ずしも有効という訳ではない。
その為、そういう時には関わらない事が大事。
所謂、“熱が冷める”のを待つ。
感情の昂りを維持する事は非常に難しい。
歓喜や憤怒や悲哀、憎悪でさえも起伏が有る。
常に最高潮で有り続けるという事は有り得ない。
その変化を、曹晧は静かに見極めている最中。
…ただまあ、何も出来無い馬洪・夏侯丹の精神的な疲労感は並みではない事だけは間違い無い。
「そろそろ、今日の宿を決めないといけないね
それとも街の外で野宿する?」
「………………はぁ~……判ったわ
兄さん達、宿の手配を御願い出来る?」
「──っ…あ、うん、行って来るよ」
「序でに良さそうな夕飯の御店も御願いしますね」
「判りました」
曹晧の一声に曹操は気炎を吐き出し散らすかの様に気持ちを切り替え、馬洪達に指示を出す。
嫌な緊張感に飲まれていた馬洪は我に返ると直ぐに曹操の指示を承諾し、その場を喜んで離れる。
同様に曹晧の配慮で口実を得た夏侯丹も感謝を込め曹晧に丁寧に一礼をして離れる。
残される馬超と夏侯淵だが、相手が相手である。
八つ当たりも愚痴る事も難しい為、何も言わない。
──とは言え、察しが悪い訳ではない。
少しすれば、その熱も冷め、意図を理解出来る。
こういう言い方をしてしまうと誤解を生みそうだが小さな不満や不安が積もり積もると人心には大きな負荷を掛けてしまうもの。
それを御互いに理解し消化し合える関係で有れば、大した問題ではないのだが。
まだ馬洪と馬超、夏侯丹と夏侯淵。
二人の関係では、其処までは受け切れない。
然程大きな事ではないだろう。
しかし、その本の小さな棘が、刺さって残り続ける事に為る可能性は高く。
それにより関係に消えない傷痕を刻む可能性も。
その辺りを考慮した曹晧の配慮であり。
曹操も夫の意図を即座に汲み取った訳だ。
「こういう時の貴男って本当に容赦無いわよね」
「容赦して欲しい?」
「まさか、そんな事、冗談ではないわ
“鉄は熱い内に打て”よ
この感情も私達自身を成長させる為の一鎚…
──であればこそ、腑抜けた打ち手では役不足よ」
そう曹晧に切り返す曹操に曹晧は笑む。
その二人の様子を見て、馬超と夏侯淵も納得。
決して、軽く流して済ませては為らない。
しかし、それに囚われても為らない。
忘れぬ様に自らに打ち刻み。
己を叩き上げ、鍛える為の糧とする。
それが、本当の意味で、応える事に成るから。
それで、何が有ったのかと言えば。
よく有る、有り触れた話なのだが。
徐州を治める州牧・陶謙の遣り方が気に入らない。
だが、陶謙自身が悪政を行っている訳ではない。
その為、それを幽州の時の様な方法で断罪する事も出来無いという現状に苛立っていた。
平たく言えば、陶謙の政治の遣り方は敵を作らない事を第一として念頭に置いた考え方。
陶謙自身、武勇にも知略にも長けてはいない。
しかし、空気を読む事は出来て、我欲も抑えられ、対人関係という面に於いては円滑に構築出来る。
つまり、調整能力の高い中間管理者気質である。
だから、太守・都尉・県令が多少悪さをしていても見て見ぬ振りをし、見逃す。
勿論、遣り過ぎれば、他の者達と協力して叩くが。
それも余程の事ではない限り、起きはしない。
それは、ある意味では己の力量に見合った遣り方と評価する事が出来る訳で。
だからこそ、曹操達にしても一方的に批難する事は躊躇われてしまうから、余計に苛立つ。
本当は「無理だと思うのなら潔く辞職しなさい」と曹操達としては言いたいのだが。
陶謙にも妻子や抱える家臣達、その家族が居る。
その事を考えれば、容易く切り捨てるのは難しく。
また、陶謙の後任が陶謙より増しだとも限らない。
それなら現状維持の方が、まだ増しだろう。
そう考えればこそ、下手な事は出来無い。
勿論、公の場での陶謙への批判も控えるべき。
何故なら、曹操達は徐州には関われない。
迂闊に火種だけを撒き散らす訳にはいかない。
…まあ、徐州を獲る為であれば、遣るのだが。
現時点では、まだ動く事は難しいのだから。
ただ、そういう事は今に始まった訳ではない。
事実、前回の旅では彼方等此方等で見て来た訳で。
陶謙の遣り方は、まだ増しな部類に入る。
それこそ、件の幽州の件は酷かったのだから。
それが今、曹操達が過敏に反応してしまうのは。
自分達が結婚し、立場が子供ではなくなった為。
年齢という点で見れば、まだまだ子供なのだが。
彼女達は跡継ぎを身籠り、育てていく身。
その為、前回の旅の時よりも強い意識を持つが故に陶謙程度でさえも気に障る訳だ。
それを察しているから、曹晧は上手く遣り場の無い感情の捌け口を用意し、其処に誘導する。
曹操だけは理解しているが、口にはしない。
無駄に意地を張って文句を口にするよりも、素直に甘えた方がスッキリするのだから。
そういう意味でも曹晧が夫で良かったと思う。
勿論、他の相手など考える価値すら無いのだが。
そういった感じで、高まり過ぎて尖っていた意識を上手く曹晧に研磨されて丸められながら。
一行は徐州を回り、青州へと入っていた。
「──っと、これで終わりかしら?」
「んー……うん、もう周辺には居ないね」
そう応える曹晧の言葉に曹操は愛刀を振り、刀身に纏わせていた氣を解けば地面に水を撒いたかの様に絡み付いていた鮮血が落ちて広がる。
同様に曹晧や夏侯淵達も武器を収める。
一行の周囲には数々の血溜まりと屍が散乱する。
その正体は近隣を荒らし回っていた海賊の一団。
運悪く手下が一行を発見し、襲撃。
返り討ちに遇い、拠点を吐かされて。
一行の憂さ晴らし、兼、路銀稼ぎとして強襲。
そして、一方的な蹂躙は終了。
──というのが、一連の大まかな経緯である。
「それでも、ざっと見て三百は居たわね
蔓延ると、あっと言う間に増えるから面倒だわ」
「そうだね、その力を良い方向に活かせれば十分に世の中に貢献出来るんだろうけど…」
「まあ、それが出来るのなら、疾っくに遣っているでしょうからね…
──と言うか、楽をしようとする意識は群れ易く、感化され易いから当然と言えば当然よね」
「一度堕落した意識や精神は別人にでも為らないと直る事は無いって考えた方が正しいんだけど…
それを信じようとして失敗するのが人だよね~」
「“無償の愛”ではないけれど、信じたい気持ちと本当の信頼とでは全くの別物だもの
それを履き違えると、余計に話が拗れるのよ
だからこそ御義母様の提唱された“悪・即・斬”の理念は苛烈かもしれないけれど、正しい事だわ
犯罪者の“再犯率”を考えれば、更正なんて生温い遣り方は犯罪の温床とも言えるもの」
「勿論、本当に更正する人も居るんだろうけど…
少なくとも、そういう人は罪悪感や後悔の念を強く懐いてるから、命乞いとかはしないしね
寧ろ、その覚悟すら無い連中が蔓延っているから、世の中の治安は改善されないんだけど…
それを取り締まる立場に有る身の人達が同類だから改善される訳が無いんだよね」
「本当にね…遣っても良いなら鏖殺するのに」
「義叔父上に提案してみる?」
──と、物凄く正面で同意出来ていた話の内容が、あまりにも物騒な内容へと変化し冷や汗を掻くのは二人の会話を聞いている夏侯淵達。
勿論、それが曹操の愚痴であり、冗談であるのだと頭では理解しているのだが、脳裏に思い浮かぶのは具体的過ぎる実行された場景。
それが不可能ではないからこそ、笑えない。
こういう時、「そんな物騒な話するなってっ!」とツッコミを入れられる韓浩の不在が惜しまれる。
だが、その一方で、「是非共そうしましょっ!」と鼻息を荒くするだろう夏侯惇の不在に安堵する。
二人共居るか、二人共居ないか。
その何方等か、では有るのだが。
人は誰しも、“無い物強請り”を考えるもの。
だから、そう考えてしまうのは仕方の無い事だ。
そんな事を考えながらも後片付けの手は止めない。
このまま放置するという選択肢は無い。
血溜まりや屍を放置すれば疫病の原因になる為だ。
他所の領地だろうと疫病には一切関係の無い事。
気付いた時には蔓延している可能性が有る。
勿論、曹晧が居る為、治療や対策は可能だが。
発覚するまでに犠牲者が出る可能性は否めない。
それを考えれば日常的に意識して生活する事こそが最大の予防方法であると言えるだろう。
どんな疫病が蔓延するのかも定かではないのだから大元を絶つ事が何よりも効果的だと言える。
それが日々の予防意識──日常的な配慮だ。
「それにしても…これ程までに北部では海賊による被害が当たり前に為っているのね…
幽州は東部、沿岸部を回る事が無かったから被害を直に知る機会が無かったけれど…」
「それだけじゃなくて公孫賛さんは優秀だからね
烏丸に対する睨みに加えて海賊にも対処してるから其処まで被害が大きくないんだと思うよ
東部は長年に渡って鮮卑と取り合ってる状況だから海賊の被害に関しても情報が定かじゃないしね」
「そうね………二人で行ってみる?」
『────っ!!!!????』
然り気無く出た曹操の一言に夏侯淵達は息を飲む。
曹嵩ではないが、思わず絶叫してしまいそうな。
それ位に、自然で態とらしさの無い一言。
そんな曹操の仕掛けに一番反応していそうな馬超が声を出す事無く、堪え切った事を。
曹操は口角を上げて喜んでいた。
普段は感情任せ、乗り任せに叫んでいる馬超。
それが、韓浩や夏侯惇が居ないとは言え。
しっかりと自制出来ている事は確かな成長。
この二度目の旅も糧に成っていると確信する。
──とは言え、声に出さないだけで、表情や身体は反応してしまっている。
それを視界の端で確認し、曹操は楽しそうに笑い。
曹晧は妻の悪戯に小さく苦笑を浮かべた。
ただ、判っているので曹晧は冷静に話題を変える。
「まあ、その機会が有ればね
それよりも、気になるのは青州の現状だね
今まで漢の彼方此方を見て来たけど…一番酷いね
勿論、違う方向性でなら長安が一番だけど」
「ええ、そうね…
局所的に見れば、長安以上に無法地帯と化している場所というのは滅多に無いでしょう
ただ、州毎に区切って見ると青州は本当に酷いわ」
曹晧の話の流れに素直に乗る曹操。
その様子に夏侯淵達は安堵する。
付き合いの長い夏侯淵は察してはいるのだが。
それでも、曹晧が絡んだ時の曹操の大胆さは一緒に旅をしてきた中で何度も目にしている。
だからこそ、単なる冗談では済ませられない。
本当に、そうしてしまう可能性を否めない為に。
当然だが、それも含めて理解した上の揶揄い。
“茶目っ気”と言うには少々キツいのだが。
まあ、それが曹操の戯れ方だから仕方が無い。
──と、曹晧は一人で納得していたりする。
飽く迄も、曹晧個人の中での話だが。
「…確か、青州の州牧は孔融だったわね
彼の孔子の子孫とは言っても、才能と血筋は別物
何進に取り入って、州牧に成った
その一点では上手く遣ったと言えるでしょうけど、当の何進が愚物だから評価にすら値しないわ
そんな孔融と比べると、徐州の陶謙が随分と有能に思えてくるから不思議だわ」
「出世する人が必ずしも有能だとは限らないしね
寧ろ、有能な人物は無能な上司には嫌われ易いから出世し辛いのが世の中の現実だからねぇ…
逆に言えば、低能でも、無能な上司よりも少しだけ能力が高く、それなりに仕事の出来て、上司の事を持ち上げ上手な方が出世し易いから」
「そういう意味では孔融は見事に填まった訳よね」
「宅だったら、先ず立身出世は無理だね」
「そうね、全くの無能ではないから、下級文官なら宅でも務まるでしょうけれど…
少なくとも今の様な立場には先ず就けないわね」
当然の様に孔融に対する評価を話す二人。
その観点が“人の上に立つ者”ならではなのは今更言う様な事ではないのだが。
その酷評を孔融に聞かせて遣りたい。
そう夏侯淵達は思ってしまう。
同時に、見えたくはないが見えてしまう事も有る。
然り気無い叔父の正室の兄に対する酷評。
それは客観的に見ても寵愛が無くなっている証拠。
一応、生きてはいるから皇后では有るが。
既に見限られている事は否めない。
それを読み取れてしまうから困ってしまう。
そんな面倒な現実は知りたくはないのが本音。
夏侯淵達は曹操達に仕え、支える家臣であり。
決して、自らが同じ所に立つ身ではないのだと。
それを理解し、弁えているのだから。
だから、聞きたくはない内容だったりする。
…ただまあ、事実には違い無いのだが。
「獲りに動くのだとしたら、徐州よりも青州の方が遥かに容易いでしょうね」
「うん、でも、現状で青州を取ると飛び地だしね
翠と翔馬さんみたいな形で縁戚関係を築くのなら、話は違ってくるんだけど…」
「ええ、そうする価値が孔融に無いもの」
さらっと話題に出された馬超達だが。
「いや、本人が居る前で言うか?」等と言いたいが飛び火しても嫌なので大人しくしている。
伊達に経験値は稼いではいないのだから。
ただ、それはそれとして。
二人の言っている事は理解が出来る。
勢力拡大に置ける政略結婚は常套手段だ。
それは無闇矢鱈な侵攻により領地や勢力を得るより遥かに賢く、血を流さない遣り方だからだ。
人の上に立つ者には、恋愛の自由は許されない。
そう昔から言われて来ている事では有るが。
決して、大袈裟な話ではない。
そうする事で国の、民の為に成るので有れば。
それを受け入れる事は、その立場に有る者の務め。
勿論、そうする価値が相手に無ければ否だが。
意志を貫き、戦って気高く散り逝く。
そんな事は権力者の自己満足でしかない。
民からすれば傍迷惑でしかない。
もし、「何故、御前の我が儘の所為で我々が犠牲に為らなければ為らないのか!」と。
そう民達から言われて、「御前達は黙って私の言う事に従っていればいいのだ!」と言えば。
民達は矛先を変える事だろう。
故に施政者は決して勘違いしては為らない。
自らは支配者などではない。
全知全能という訳でもない。
故に、謙虚に、直向きに、地道に、柔軟に。
自らが背負う責務と存在を常に意識しなければ。
簡単に道を踏み外す事になる。
ただ、世の中の施政者の多くが踏み外している事に気付かず、取り返しの付かない状況になって漸く、自らの過ちに気付くという事が多いのが事実。
つまり、自分を見失っているという事なのだが。
人の思考とは、自らに不都合・不利益な事に対する積極的な疑いを懐かないのが多数派である。
後片付けを済ませ、その場から一行は移動。
近くに街や村邑も無い為、今日の野営地を探す。
休むだけなら何処でも可能だが、料理をしたりする事を考えると場所選びは重要な要素。
手を抜くと確実に影響が出る事なのだから。
そんなこんなで、海辺で手頃な大木を発見。
その側で野営の為に必要な準備を始める。
大木や洞窟は、野営時には雨宿りをする場所として重宝するので場所選びの基本だと言える。
ただ、虫や蝙蝠・蛇等も居易い為、要注意。
まあ、一度痛い目を見れば覚えるものだ。
「……ん?」
「どうかしたの?、玲生──って…人?」
「みたいだけど…随分弱ってるね、急ごうか」
「ええ、秋蘭、此処は御願いね」
「はい、御気を付けて」
料理の手を止めた曹晧。
その反応に曹操も手を止め──直ぐに気付く。
感知範囲ギリギリの為、曹操は何と無くでしか氣の判別は出来無いが、精度が上の曹晧は判別可能。
ただ、酷く弱っている為、救助に二人は動く。
その二人の背中を見送った馬超が「此処で迷わずに躊躇無く動けるのが凄いよなぁ…」と感嘆。
それだけの実力が有るからなのだが。
背負う事、抱え込む事に対して警戒心を持たない。
その在り方は真似しようとしても出来無い。
単なる御人好しではないのだから。
感知した氣の有る場所へと急ぐ二人。
本気の二人でならば、八半刻と掛からない。
木々や岩等の障害物も、地形の起伏も関係無く。
最短距離を疾駆して行く。
「──────居た」
曹晧の呟きと同時に曹操も対象を視認する。
十と数える間も無く、その傍らへと降り立つ。
俯せに倒れていたのは二十歳前後の女性。
特に目立った外傷は見られない事から賊徒や熊等に襲われた訳ではないのだと直ぐに判った。
女性を抱き起こし、仰向けに。
曹晧が脈を取ったりと診察をしている一方で曹操は女性の左手を握り、過剰に為らない様に慎重に氣を調整しながら治療──自然治癒力を高めてゆく。
「………っ…華琳、場所を移そう」
「其処まで状態が悪いの?」
「…この人、妊娠してる」
「──っ!」
「まだ一ヶ月も経たない位だから自覚も症状も無いとは思うけど…
一応、流れない様に気を付けたいから」
「判ったわ、なら、私が場所を探してくるわね」
「うん、御願い」
曹晧の言葉に驚きながらも直ぐに役割分担を考え、曹操は何方等が女性を看ているべきかを判断。
そのまま女性を運び込める場所を探しに離れた。
それから四半刻と掛からず捜索と移動が終了。
古びた山小屋に女性を運び込み、看護を交代。
曹晧が手近な材料等を使い山小屋を補強。
その後、再び交代し、曹操は夏侯淵達の所へ。
状況を伝え、野営を中止し、山小屋へと移動。
曹操が夏侯淵達を連れて戻って来ると曹晧も女性の治療を本格的に開始する。
通常であれば、態々近場に移動する必要は無い。
曹晧の技量であれば、その場で概ね治療出来るし、背負って治療をしながら夏侯淵達の居る野営地へと移動する事も不可能ではない。
だが、そうしなかったのは女性が妊娠している為。
実は氣の治療を行う際、一番厄介なのが妊娠初期の段階に有る女性が患者だったりする。
患者が三ヶ月目に入っていれば妊娠していても特に大きな問題では無いのだが。
二ヶ月未満の場合、流産してしまう可能性が有る。
その為、曹晧は以前から密かに身近な妊婦の診察や治療を行う事で経験を積んでいた。
妊婦でさえなければ、曹操も治療出来るのだが。
流石に二ヶ月未満の妊婦が相手では手を出せない。
ただ、それが逆に良い事も有る。
賊徒に拉致され慰み者にされていた女性が救出後、妊娠している事が判れば、流産させる事が可能。
世の中では、堕胎・人工妊娠中絶という行為自体は認識されてはいない概念だが、曹晧は田静によって必要な技術・知識として教え込まれた。
実際、前回の旅でも、今回の旅でも、賊徒を討伐し助けた女性達を然り気無く診察、妊娠していた場合には本人が気付かない様に堕胎させている。
そうする事で被害者の女性達の将来を繋ぐ。
あまり好ましい事ではないのだが。
望まれない子供は産まれても不幸だし、その子供を産んだ母も不幸にしか為らない。
母子共に御互いが不幸になるのなら。
そう為らない様にする事も必要な選択だろう。
まあ、幸いな事に曹晧が堕胎させた女性達は何れも二ヶ月未満だった為、普通の自然な流産と変わらず女性達に影響は無かったが。
曹操としては、曹晧が一人で業を背負う事に対して抱え込ませない様に注意をしている。
何しろ、当事者の女性達には話せないのだから。
その辺りの心労や精神的な負担を少しでも緩和する為にも共に背負うと決めているからだ。
それは兎も角として。
今回の場合、女性の意識が無い為、詳しい事情等が全く判らない点が対処の難しい所。
外傷等、賊徒等に襲われたりしていると、客観的に見ても判る要素が有れば、堕胎してから治療を行う事も出来るのだが。
少なくとも、この女性に限っては違う。
そうなると迂闊に堕胎はさせられない。
何しろ、曹晧は自身の出生を以て知っている。
相手の男性──子供の父親が既に亡くなっている。
その可能性を考えれば、子供は女性にとってみれば大事な忘れ形見となるのだから。
最愛の男性との、唯一つの確かな証。
それを思えば、女性の命が最優先だとは言っても、簡単には切り捨てられはしない。
それ故に、女性の治療は非常に難易度が高い。
それでも、諦めはしないし、妥協もしない。
今、此の掌で掬える命が有るのだから。
一行が山小屋に揃ってから、凡そ二刻。
中断していた夕食の準備等を済ませた夏侯淵達も、静かに曹晧と補助する曹操の様子を見詰める。
馬超や馬洪としては「ちょっと外を見回ってくる」なんて言って逃げ出したい程の緊張感。
だが、当然逃げ出せる訳が無かった。
──と言うか、外は一刻程前から雨が降っている。
丁度、諸々の作業が終わった辺りで。
「少しは此方の空気を読めよっ!」と二人が天候に文句を言いたくなったのは仕方の無い事。
そんな緊張感の中で、曹晧の治療の氣が収まった。
曹晧と曹操が二人して一息吐いて──頷き合った。
それを見て、馬超達は無事に女性の治療が成功したという事を理解し、安堵の息を漏らした。
「ぁ゛あ゛~~…終わったぁ~…」と。
そう言いたい気持ちは飲み込みながら。
「…あの時の緑恵香丹が役に立つだなんてね
貴男が予備として多めに確保していた結果ね」
「“備え有れば憂い無し”って事だよ
だけどまあ、久し振りに疲れる治療だったね…」
そう言って馬超達が居るにも関わらず曹操の太股に頭を乗せる格好で横になる曹晧。
「御疲れ様、玲生」と声が聴こえて来そうな程に、穏やかな微笑を浮かべ、そっと頭を撫でる曹操。
その様子に二人の深い繋がりを感じない訳が無い。
本来なら、普段の曹操の揶揄い対する仕返しとして馬超も揶揄いたい所では有るのだが。
生憎と、そんな気持ちには為れない。
一緒に旅をしていても、初めて見る曹晧の疲弊し、額からも汗を流している姿を目の当たりにすれば、如何に大変な治療だったのかが理解出来るからだ。
詳しい説明は無かったが、二人の真剣過ぎる様子を間近で見ていれば嫌でも察しが付く。
そういう類いの事だったのだから。
「…それで、子供の方は大丈夫なのかしら?」
「今は氣で保護してはいるから大丈夫だよ」
「…今は、ね…
私には詳しい事は判らないけれど、彼女の患う病は怪我の様に直ぐには完治しないのでしょう?」
「うん、御義母様とは違うけど、きちんと治すには時間を掛けて遣らないと何処かに負荷が掛かって、別の病の要因に為るからね…
まあ、毎日正しく服薬・食事・睡眠を取ってれば、彼女の方は大して問題は無いよ」
曹晧の言葉に、劉懿の治療の時の様に毎日の氣での治療は必要無いという事を曹操は察する。
しかし、それは飽く迄も彼女自身の話。
その胎内に宿る幼過ぎる生命に関しては別であると直ぐに察し、小さく眉根を寄せてしまう。
そんな曹操の胸中を察し、曹晧は続ける。
「ただ、かなり繊細な処置をしてるからね…
子供を守るなら一緒に来て貰わないと駄目だね」
「それに関しては仕方が無いわね…
まあ、当初の予定で言えば折り返してはいるから、多少の短縮は許容範囲、という所かしら…」
「旅に関しては中断も有り得るだろうね」
「そうね…彼女自身の完治に必要な治療期間は?」
「大体、一ヶ月って所かな
妊娠してなければ、氣で治療すれば二日程だけど」
「……もし、あの時、御母様が妊娠していたら?」
「じっくりと遣るから半年は掛かっただろうね」
「はぁ~…改めて氣は便利だけれど万能ではないと思い知らされるわね…」
「その為にも日々の研鑽と技術・知識・経験を積み重ねていく事が大切だって訳だよ」
「ええ、本当にね」
そう言って二人は苦笑し合う。
話の内容が内容の為、理解し切れてはいないが。
重苦しい雰囲気が変わった事で馬超達も弛緩。
取り敢えず、今後も真面目に欠かさず鍛練を積み、強く、逞しく、頼もしく成ろう。
そう、四人は胸中で自らの決意を新たにする。
「まあ、この人が目覚めたら治療の事を説明して、それから事情とかを聞いて、だね」
「そうね、現状では判断は難しいものね…
それで?、貴男は何方等だと思っているの?」
「訊かなくても察しが付いてるんじゃない?」
「私なりに一応はね、でも、それはそれよ」
「飽く迄、俺の見立てだけど…
この子は望まれて、紡がれた子供だと思うよ
彼女に氣の──感情的な濁りは無いから」
「氣で保護しているとは言っても影響は?」
「彼女の治療が終わるまでは現状維持──意図的に受精卵の成長を最大限に緩やかに保つから…
まあ、普通の妊娠よりも長くはなるかな」
「長くって、何れ位まで?」
「んー…明確には言い切れないけど…
最低でも三ヶ月は延びるかな」
「彼女の治療期間は一ヶ月なのよね?」
「まあ、それだけを見ればね
実際には、受精卵を保護してるのって可笑しいし、肉体的にも違和感が有る行為だから
どうしても、正常な事だって肉体的に認識する様に調整する必要が有るんだよ
その調整で、二ヶ月上乗せって事」
「…その子供の父親が生きていれば話は別な訳ね」
「うん、その場合は一旦諦めて貰って、再度彼女が妊娠する様に手伝えば済むんだけど…」
「それは今は判らないものね」
そう言って二人は、四人も、眠る女性を見詰める。
その眼差しは不安を含まない訳ではない。
しかし、揺るぎ無い強い意志が確と宿る。
“合縁奇縁”という言葉が有る様に。
この縁絲が如何なる未来を紡ぎ出すのか。
それは誰にも判らない事だろう。
しかし、その縁絲が良い未来を紡ぐ様に。
努力し、導いて行く事は、決して不可能ではない。
勿論、容易い事ではないのだけれど。
何もせず、良い未来は得られない。
そう望むだけでは何も変わらず、始まらない。
それを実現し、成そうとする意志と努力。
更に、激しい競争の果てに勝ち抜いた者だけが。
其処に辿り着き、掴み取る事が出来る。
その事を知っているのだから。
世界は決して、同一群体ではない。
だからこそ、個人は生じる。
その在り方こそが、全ての生命の進歩を、進化を、可能性とする最大の要因であるのだから。
それを否定する平等主義とは堕落と荒廃へと誘う、優しくて、甘くて、綺麗で、心地好い──死の毒。
だから、世の中に平等は要らない。