十四話 飛火入蟲
幽州での経験を糧に成長した一行は冀州へ。
まあ、「成長した」とは言っても劇的な変化が有るという訳ではない。
だから相変わらずの賑やかさは健在である。
「馬鹿と言った奴が馬鹿なんだろうっ?!」
「その馬鹿の定義を理解出来てない奴が言うなっ!
大体どう遣ったら毎回毎回焦がせるんだよっ?!」
「フフンッ、貴様には無理だろうっ!」
「褒めてないってのっ!」
夏侯惇と馬超が担当している調理場は賑やかだ。
基本的には曹操達が傍に付いて指導しながら遣れば可笑しな事にはならないのだが。
それでは成長に繋がらない場合も有る。
よって、多少は出来る様に成った馬超に、夏侯惇を指導をさせる事で経験値を積ませるのが狙い。
──なのだが、如何せん、似た者同士の二人。
熱くなり易い為、口論が絶えない。
まあ、手を出し、喧嘩に為らないだけ増しだが。
「…失敗をした料理は全て食べさせているのだし、身に染みているでしょうに…
何故、治らないのかしら…」
「やっぱり、根本的には集中の仕方の問題だろうね
春蘭自身、学んでない訳じゃないんだから」
「そうね…基本的な包丁の使い方や調理方法自体は口答確認しても間違ってはいないものね…
それなのに、どうして毎回失敗するのかしら…」
「…まあ、其処は“乙女心”なんじゃない?」
「………?」
夏侯惇と馬超の口論を眺めながら、手を動かしつつ愚痴る様に卞晧と話す曹操。
何と無く、原因に察しが付いている卞晧は遠回しな言い方をして配慮したのだが。
当の曹操は意外にも理解出来ずに小首を傾げた。
その仕草に「ああもう、可愛いなあ」と思うのだが抱き締めたくなる衝動を抑え、苦笑する卞晧。
「華琳はさ、料理をしている時、何を考えてる?」
「手順と味付けと盛り付けた画ね」
「うん、それは俺も同じなんだけど…
春蘭の場合、其処じゃなくて“食べさせる相手”の反応とかに意識が傾き易いんだと思うよ」
「………ああ、成る程ね、そういう方向の原因ね」
そう卞晧に言われた事で、曹操は理解した。
それは料理を始めたばかりの頃の懐かしい失敗。
「美味しい物が食べたい」という理由で料理自体を学ぼうとする人は、ある程度年齢が上になる。
だが、幼少期に自主的に始める場合。
その多くは、父母に誉められたり、喜ばせたい。
そういった理由から入る事が多いと言えるだろう。
勿論、女の子の場合は嫁入り教育の為という理由で習わせたりする事も有るのだが。
それは自主的にではない。
料理を覚え始めたばかりの子供が頑張る理由とは、大概が“喜んで貰いたい”からだろう。
そして、それは相手に対する好意が強い程大きく、料理中の集中力にも影響を及ぼす訳だ。
曹操達の様に年単位で経験を積んでいる者ならば、身体が動きを覚えているし、思考も慣れている。
だから、そういう気持ちが有っても料理に影響するという事は先ず起きはしない。
極端な例を言えば、曹操は料理に卞晧に襲われても冷静に料理を中断して、応じる事が出来る。
…まあ、本来であれば、襲うなという話だろうし、優先順位が違う気もするのだが。
それはそれ、大した問題ではないので無視する。
つまり、夏侯惇は以前なら主君である曹操達や妹の夏侯淵に喜んで貰いたくて。
そして、現在は韓浩を喜ばせたくて。
その想いが料理中の集中力を妨げている、と。
理解してしまえば、誰しもが通る失敗である。
ただ、夏侯惇の場合、元々が不器用である。
その為、繰り返される失敗を無くし成長させるには本人に自覚させなくては難しいという事。
それが、無理難題だったりする。
要するに「料理中は康栄の事は考えないの」と。
そう夏侯惇に面と向かって言わなくてはならない。
「…………他の手段って…………無いわよね~…」
「春蘭が自分で気付いてくれるのを待つんだったら気長に構えてるしかないと思うよ
此方から促すなら、言うしかないかな………ぁ…」
「…?…何か思い付いたの?」
「思い付いたと言えば…まあ…可能性としては…」
「何よ、気になるから言うだけ言ってみなさいよ」
「まあ、その…何て言うか…
華琳が実体験みたいに、惚気ながら失敗した理由を春蘭達と居る時に話して聞かせるって…」
「…………………………………………………ぇ?」
卞晧の言葉に思考が停止、再起動、理解をした後、自分の顔を指差した曹操。
卞晧が小さく首肯すると、その聡明な頭脳が想像。
稀代の才能を無駄に発揮し、具体的な情景を脳裏に思い浮かべられてしまうのが、難点だった。
珍しく瞬間沸騰した曹操は顔を俯かせ、硬直。
別に皆の前で卞晧と仲睦まじくするのは構わない。
女同士だけの時であれば、自慢や惚気もする。
だがしかし、それは自分の失敗談を語る訳で。
しかも、でっち上げた実際には存在しない話をだ。
如何に夏侯惇の──序でに馬超の為だとは言っても自尊心の強い曹操にとっては恥ずかしい事。
弱味を見せる事が、ではない。
自分が卞晧に溺れていると語る事がだ。
勿論、そういう意味では決して間違いではない。
事実ではないが、仮に幼少期に一緒に居たならば、そういった失敗をしていただろう自分自身の姿を、曹操は想像出来てしまうのだから。
ただ、だからと言って平然と出来る事ではない。
自慢や惚気は、謂わば卞晧の評価を語る訳で。
決して、自分の想いを吐露している訳ではない。
しかし、卞晧の言った方法は想いを吐露する訳で。
流石の曹操でも、それは直ぐには頷けなかった。
勿論、夏侯惇達の為には遣ってあげたいのだが。
使命感よりも羞恥心が勝ってしまう。
その葛藤が判るからこそ、卞晧は曹操の頭を撫で、慰める様に「仕方無いよ」と言外に伝える。
「……………………もう大丈夫よ、ええ、それしか打開策が無い以上、遣るしかないわ」
「…………顔、紅いよ?──ぁ痛っ…」
しかし、持ち前の意志の強さで決意する曹操。
だが、卞晧の指摘した通り、羞恥心は拭えない為、顔が紅くなってしまっていた。
それを指摘され、曹操は涙目で卞晧を睨みながら、手を拭いていた布巾を投げ付け、卞晧の胸を叩く。
ポカポカッと、子供が戯れ合う様にだが。
曹操としては他には出来無い八つ当たり。
それを理解しているから、卞晧も受け止める。
結論、馬鹿馬鹿しい程に夫婦仲の宜しい事で。
それから数日後、曹操の決死とも言える覚悟による身を切る策により、夏侯惇は自分が料理を失敗する要因を理解し、少しずつだが改善されている。
当然ながら夏侯淵・甘寧は曹操が夏侯惇の為に嘘の過去話をしているという事に気付く。
──と言うか、馬超でさえ「いや、可笑しいし」と気付く不自然さだったりするのだが。
何しろ、曹操の料理歴は卞晧と出逢うより、ずっと前から始まっているのだから。
しかし、曹操に対しては盲目的な夏侯惇は嘘の話を一切疑いもせずに信じ、効果を生んだ。
…まあ、卞晧にしろ、曹操にしろ、「春蘭だし」と確証の無い確信の下に提案・実行したのだが。
取り敢えず、それから数日間は曹操が卞晧と二人で過ごせる時間を多く作る様に、夏侯淵達は配慮。
傷付いた乙女心を癒すには、愛が一番の特効薬。
つまり、卞晧に丸投げした訳だった。
尤も、卞晧も覚悟の上だったので問題は無し。
愛する妻を、たっぷりと甘やかし、癒した。
尚、結局は夏侯惇と韓浩の件は全員が知る事になり気付かれていないと思っているのは当事者のみ。
二人の性格も考慮し、温かく見守られています。
「──袁耀?」
「ああ──って、露骨に嫌な顔してるな…」
今夜の宿を取り、各担当毎に別れて一時解散。
表向きには物資の調達等だが、要は各組みが堂々と二人きりになれる時間だったりする。
それを意識するのか、しないのかは別として。
集まった後、夕食を取りに料理店へ。
殆んどが子供とは言え、十人も一緒なら目立つ。
しかし、一々気にしていれば余計に目立つもの。
だから曹操達は堂々としている為、気にされない。
そんな感じで注文した料理が出来上がるまで各々が情報収集してきた事を話し合っていたのだが。
馬超が出した名前に曹操が嫌悪感を示した。
正確には、韓浩・曹仁・曹洪・甘寧もだ。
それ故に、少なからず“何か”が有った事は判る。
「…まあ、ちょっと…荊州を回ってた時にね…」
曹操達の反応に苦笑しながら卞晧が簡単に説明。
すると、納得した馬超達は「あー…」という反応。
名前を聞くだけでも嫌な顔をしたくなる訳だと。
ただ、夏侯惇だけは「そんな迷惑な奴は私の大剣の錆びにしてくれるっ!」と憤慨していた。
勿論、曹操の一睨みで鎮火したのだが。
それは兎も角として、馬超の話が気にはなる。
その為、卞晧は続きを話す様に促した。
話し辛そう──と言うか、嫌そうな馬超だったが、途中止めして有耶無耶にするのも気持ち悪いから、開き直って話す事にする。
「…まあ、聞いた話なんだけどさ
少し前に南皮を拠点にする渤海郡の太守が、何かで解任されたらしくて今度新しい太守の任に就くのが袁家の“袁亮”っていう奴らしいんだけどな
その嫁さんが袁耀だって話なんだよ」
「…袁亮って知ってる?」
「………私が知る限りは聞いた事の無い名前ね」
馬超の話を聞いて卞晧が曹操に訊ねる。
しかし、曹操は記憶の糸を手繰るが、該当する者に心当たりは無かった。
ただ、そんなに袁家に詳しいという訳でもない。
勿論、曹家の次期当主──現在は夫人になるのだが必要な知識としては一応把握している。
──とは言え、関係の有る所に限られている。
それを察したからだろう。
韓浩は袁亮という人物を曹操の認識範囲内に掛かる事は無い様な程度だと判断。
思ったままに口に出す。
「それじゃあ、一族でも末端も末端の奴なのか」
「いいえ、そういう訳でもないわよ」
「え?、そうなのか?」
「貴男の目の前に同じ立場の者が居るわよ」
「……へ?」
「やっほー」
曹操の言葉に正面に座る人物──卞晧を見る韓浩。
卞晧は気にせず笑顔で軽く右手を振って見せる。
韓浩は意味が判らずに首を傾げ、同じ様に夏侯惇や甘寧・馬超も首を傾げている。
その様子に察した面々は苦笑。
特に馬超に関しては笑えない問題だった。
「…翠、貴女も他人事じゃないんだけど?」
「……ごめん、意味が判らない」
「はあ~………玲生は私の夫として婿入りするし、翔馬兄さんは馬家に婿入りするでしょう?」
「ああ、そうだな」
「私も貴女も跡取り娘だから、二人は次期当主よ
その為、婿入りしたら曹姓・馬姓になるわ」
「まあ、確かに………って、あ、そういう事か!」
「…そういう事よ」
漸く理解した三名に対し、曹操は溜め息を吐く。
今後、曹家にとって重鎮となる者達がコレである。
曹操の立場的に愚痴りたくもなるだろう。
だから、卓の下で卞晧の手を握り、不満を言う様に掌を、指を使って甘えているのは仕方が無い事。
どうせ、誰にも見えないし、判らないのだから。
まあ、それは兎も角として。
袁亮というのは、袁家が袁耀の婿として迎え入れた養子である可能性が高い。
だからこそ、曹操は知らない訳だ。
卞晧は妻の機嫌を改善しようとする意図も有って、馬超達に話題を振ってみる。
「その袁亮に付いての話は無いの?」
「んー…そんなには聞かなかったな…
格段に袁耀の話の方が多かったしな」
「翔馬さんも一緒だったんだよね?」
「その話を聞いたのって支払いしてた時だよね?」
「あー……うん、そうだったかもな」
「だったら、聞いてないよ」
「…あっ、大した情報じゃないんだけどな
確か、その袁亮って袁耀にベタ惚れらしいな」
「…俺は袁耀とは面識が無いから判らないけど…」
「世の中には“物好き”な男も居るものね」
一切の躊躇無く、吐き捨てる様に言い切る曹操。
その態度から、少なくとも好印象は懐けない。
寧ろ、「そういう奴か…」と思うのは当然の事。
“漢王朝の穀倉”と称される程に肥沃な土壌により国内一、農作が盛んな冀州。
旅をしていると彼方此方で田畑を見られる。
夏には緑が生い茂り、秋には金色の穂海が広がる。
風に揺れる青天の下の穂波は実に見事であり、その実りの豊かさと恵みの大切さを感じさせる。
当然だが、肥沃な土壌が有れば多くの人々が集まり生活する事が可能となる訳で。
収穫量が増加すれば、出荷量も増加する。
それに伴い、中央は勿論、各地への流通網の発展で多くの商家・行商人が往き来する様になる。
人が動き、物が動き、経済は循環している。
“経済の潤滑油”とも呼べるのが、農作である。
人は食べねば生きてはいけない。
しかし、川や海の恵みのみに頼っては難しい。
何故なら、人は陸上に生まれ、生きているからだ。
その為、穀物等の農作物は必要不可欠だと言える。
つまり、それだけ冀州という地を得る事は重要で、大きな意味が有るという事だ。
「それじゃあ、其方は御願いね」
「はい、御任せ下さい」
曹操の言葉に力強く答える曹仁。
その曹仁を始め甘寧・曹洪・馬超・韓浩・夏侯惇を残して残る曹操達は背を向けて歩き去って行く。
曹操達が振り返る事は無いが、曹仁は胸中で密かに溜め息を吐かずには居られなかった。
旅を続ける上で路銀は欠かせない要素である。
しかし、実家等からの支援を一切受けない曹操達の旅の継続には自分達の手で稼がなくてはならない。
その為、曹仁達が賊徒から鹵獲した物資を売却し、路銀を入手する為に別行動をする訳だが。
普段、曹操か卞晧が直に交渉をしている事も有って最年長の曹仁でさえ、初体験だったりする。
しかも、「良い機会だし、兄さんも頑張って」等と笑顔で言われては……否を返す事は出来無かった。
そんな曹仁の傍には緊張している甘寧の姿が。
こっそりと曹操から「隼斗兄さんの事支えてね」と言われていて、その真意を察しているが故に。
自分達の関係に気付かれている事は明白。
しかし、実際に確認したという訳ではない。
確信に近いのだが、確実な訳ではない。
ただ、自分から確認する勇気は出て来ない。
その為、飽く迄も甘寧の主観の話なのだが。
それだけに甘寧は誰にも言えずに意識している。
当然ながら、其処までを見越しての曹操の発言。
甘寧にだけ囁き、態と緊張させている。
それが良い方向に出れば曹仁の甘寧に対する信頼は大きくなるし、甘寧が空回りをして失敗しようとも曹仁が落胆する事は無く、逆に甘寧の曹仁に対する信頼が大きくなる事に繋がる訳で。
つまり、曹操の仕込みは絶妙、という訳である。
まあ、曹操達にとっては自分達の代の家臣の要柱、その中核となる者達の筆頭格である二人。
だからこそ、その絆を熱い内に鍛え上げたい。
そういう意図が有る事は否めないが。
純粋に、二人の幸せを祈っているのも確か。
…尤も、序でに楽しんでいる事も確かだが。
その辺りは“言わぬが花”である。
一方、曹操達は少々回り道をしながら合流地へ。
直行して滞在しながら待つよりも、その時間を使い少しでも多くの場所を巡ろうとする辺り、曹操達の価値観というか、政治的な思考が窺える。
どんなに把握しているつもりでも、自ら足を運び、その場に立ち、匂いを嗅ぎ、生活に触れない限り、本当の意味で民の生活は理解出来無いのだから。
それを当然の様に大事にしている二人の姿を見て、旅に同行する面々は才器に更に惹かれ、心酔。
二人が普段から口にする将来的な政治思想が如何に先々を見据えた事であるか。
それを実感せずには居られなかった。
目先の問題だけを解決する“その場凌ぎ”も時には必要なのは間違い無いのだけれど。
如何に長期的な思想・視野を持って導けるか。
それこそが人を導く者に必要不可欠な事だから。
そんな曹操達は、行商人等も滅多に使わないという不便な山間部の道を進んでいた。
現時点では不便だったり、価値が無いとされている場所であったとしても、見る者に由っては未発見の価値を見出だす事も有り得る。
その可能性を、それが出来ると自覚している。
何より、曹操は自分の夫が良い意味で常識外れだと判っているからこそ、敢えて足を運んでいる。
将来的な政策・開発を見据えて。
その山道だが、一言で言えば静かである。
只し、穏やか・和やかという意味ではない。
閑散とした中の静寂、という感じだろうか。
深い森の中の畏怖を感じる静けさとは異なる。
「…この辺りの山は木々は多いのだけれど、其処に生き物の居る感じがしないわね」
「針葉樹が多いし、実りが期待出来無いからね
餌になる植物が少ないと虫や小動物も少なくなって食物連鎖自体も小さくなるから…
こういった場所は住み辛いんだよね」
「そういう意味では人も同じ様なものね」
「そうだね、人も食物連鎖の一部なんだから」
周囲を見回して歩きながら話す曹操と卞晧。
到底、十代前半の子供のする会話ではないが。
同行している夏侯淵・曹丹は既に順応している為、特には気にせず、「成る程、確かに…」と感心。
そんな二人の様子に、染まっているのかと言えば、確と主君夫婦の価値観へと順応していると言える。
それ勿論、良い意味でだ。
──と、そんな起伏の無い旅路に生じる波紋。
水面に投げ込まれた小石の様に響く騒音。
草木を、土石を、装備を鳴らして飛び出す影。
三十三の武装した男達が曹操達を取り囲んだ。
「あら、賊徒にしては随分と正面な装備ね
何処ぞの強欲な官吏の手先かしら?」
「或いは、官軍崩れの集団かな
“手土産”を持って復帰しよう、って算段かもね」
「まあ、何方等にしても社会の塵って事よね」
「それか、社会の塵に利用されている哀れな塵以下かもしれないけどね」
「────っ、黙れっ!、命が惜しいなら大人しく此方等の言う事に黙って従えっ!
そうすれば命だけは助けて遣るっ!」
包囲されている状況で、あまりにも強気な発言。
しかし、それが正鵠を射ているからこそ、取り囲む男達を纏めている指揮官に当たる男が叫んだ。
曹操と卞晧は顔を見合せ、肩を竦め合う。
「だそうよ?」「仕方無いかな」と。
声にこそしていなかったが、態度で十分に判る。
その様子に苛立ちを覚える指揮官の男だが、自らを気合いで抑え込み、溢れ掛ける怒気を飲み込む。
「それで?、私達に、どうしろと?」
「…っ…貴様等が曹家所縁の者なのは判っている
曹家の密使として各地を巡っている事もだ!
だから、その懐に持っている物を渡せっ!」
男は四人の中で曹操を見ながら、そう言い放つ。
その事から見て、“曹操の事を知っている”という可能性は高いと言い切れるだろう。
例え、曹操の方に「覚える価値も無いわ」と評価を下されている相手だったとしても。
それ故に該当する人物に心当たりが無くても。
それはそれで仕方の無い事だ。
「…成る程ね…いいわ、コレが欲しいのよね?」
そう言いながら曹操が左手を懐に入れ取り出すのは以前曹丹が曹操に手渡した包みである。
運んで来た曹丹でさえ、中身は知らない。
ただ、曹丹も夏侯淵も男の言葉に違和感を覚えた。
「曹家の密使として」という部分だが。
そんな事は有り得無い事実である。
この旅は二人の婚礼前の旅──“新婚旅行”の様な物であって、曹家の政治的な意味合いは無い。
だから、密使等という役割は存在しない。
その事実を知るが故に。
曹操達の態度を目の当たりにして──察した。
それを見計らった様に、曹操は手にしていた包みを男へと向かって放り渡す。
軌道を高く、緩やかにして視線と意識を集めれば、この状況でも自分達の技量ならば楽勝だろう。
そう確信する夏侯淵・曹丹だが、曹操達に動こうとしている気配が無い為、静観する事に。
そして、包みを男が受け取り、二歩も下がってから慎重に包みを開いて確認する。
その瞬間、男の顔が固まった。
まるで、何が起きているのか理解出来無い様に。
視認している事実を拒絶するかの様に。
しかし、我に返り、目の前の現実を受け入れる。
そして、憤怒に満ちた眼差しを曹操へと向ける。
「何だコレはっ!、巫山戯ているのかっ?!」
「失礼ね、誰も巫山戯てなんかいないわよ
それは愛娘と義息の無事を祈って一人の父親が三日三晩寝ずに彫り上げた“祈願木像”よ
素敵な御守りでしょう?」
憤慨した男が曹操に向かって包みを投げ返す。
それを難無く受け止め、露にする曹操。
それは布に包まれた一体の木像。
只し、何を彫ったのかは見る者の感性に委ねる。
そう注意書きが必要な、よく判らない代物。
しかし、実際に曹嵩が精魂込めて彫り上げた物。
その事実に嘘偽りは一切無い。
「馬鹿にしているのかっ!
俺は密使の品を渡せと────っ!?」
「あら、意外と早く気付いたわね、袁公融」
「────なっ!?」
憤慨していた男は自身の言葉で気付いた。
“曹家の密使”など、実在しないという事に。
そして、自身の正体を見破られていた事に。
男──袁挙は驚愕し、身を強張らせた。
当然と言えば当然だろう。
如何に暗愚でも、これだけ判り易ければ。
上手く罠を仕掛け、有利を疑わなかった自分の方が実は巧妙に仕組まれた罠に掛かっていた。
その事実を認識すれば、恐怖を懐いて当然だ。
しかし、その僅かな硬直が致命的となる相手だと。
自然界の動物と違い、欲に溺れた人間は気付かず、守るべき一線を越えて──死に至る。
袁挙の生んだ心身の隙に、曹操達は素早く動く。
指揮官──否、主の動揺に混乱した兵達は応戦する事すら叶わず、その命を散らした。
袁挙が我に返った時には独り。
既に自分を護るべき楯も矛も無くなっていた。
「ま、待て!、話せば判る!」
「話す?、今更何を話すというのかしら?」
「そ、それはっ…」
「話す事が有ると言うのならば、せめて作り話でも準備してから言いなさい
後から考える時間を貰える相手か否か
それ位の判断は出来て当然でしょう?
尤も、その程度だから釣れた訳だけれど」
「──っ…」
「まあ、そういう事よ──さようなら、袁公融」
返事を待つ事無く、曹操の持つ愛刀が閃いた。
後始末をしながら曹操は夏侯淵達に説明する。
孫家での一件の後、袁家の騒動に巻き込まれ、更に曹洪と馬超の縁談が決まった。
これに伴い、曹操達は自分達を餌にする事を決め、曹操が劉懿に書状を出し、仕込んで貰った。
将来的に政敵になる袁家の中でも、遣らかしそうな馬鹿な輩を先に摘んでしまおう、と。
同時に、曹家内部・近くに紛れ込んでいる“蟲”を誘い出して駆除しよう、と。
そういう狙いだったりする。
尚、蟲の方は劉懿・夏侯昭が片付けている。
また、これは曹嵩には知らされてはいない事。
話せば面倒臭いからなのは言うまでもない。
「しかし、小父様の木像を使うとは…」
「端から見れば、それだけ意味不明な行為だから、勝手に解釈してくれ易いのよ
御父様の無駄な趣味が役に立ったわ」
昔から曹嵩は木彫り好きなのだが。
如何せん、技術は有っても芸術的な感性が無い。
その為、想像力に任せてしまうと本人以外には先ず何を彫ったのかは判断が出来無い。
ただ、妻の劉懿だけは何故か理解出来る。
その為、曹操は「愛は偉大よね…」と。
幼心に感心を懐いたものである。
因みに、劉懿の芸術的な感性は確かである。
そんな曹嵩の趣味だが。
愛娘に「無駄な趣味」と言い切られる。
父親の頑張る姿を思うと、励ましたくなる。
実際には面倒臭いので関わりはしないのだが。
そういう気持ちを懐く、卞晧達だった。
ただまあ、その結果、見事に食い付いた訳で。
釣果としては期待が出来ると言えた。
事実、曹仁達と合流するまでに袁家所縁の刺客達が次から次へと掛かってくれたのだから。
袁家の掃除を手伝う形にもなるが。
それはまあ、仕方の無い事。
それよりも、御し易くなる方が利が大きい。
そう考えるからこその釣りである。