十二話 降雨固地
長安を後にした一行は涼州に戻るかの様に西寄りに進路を取り、蛇の背の様に蛇行しながら北上。
そして当初の予定よりも四日遅れで并州へと入り、最初の街が視界に映っていた。
まあ、例によって韓浩・曹洪・夏侯惇は居ないが。
既に新入りの馬超ですら動じなくなっている。
尤も、馬超の場合は彼女の順応力の高さ故だが。
そういう感じで曹操達が街の門扉を潜り、大通りを進んでいると力尽きている三人の姿が見えた。
──いや、正確には項垂れる二人と正座が一名。
今日泊まる宿屋らしき前で、壁際に邪魔に為らない様にしている姿に甘寧と馬超は目を丸くする。
曹操・曹仁・卞晧は「あ~…」という感じで。
基本的に表情を変えない夏侯淵は「…………ぇ?」という珍しく、唖然としている様子。
そんな夏侯淵の姿を視界の端で確認した悪戯好きな似た者夫婦は小さく拳を触れ合わせる。
「──あっ、ひ──御嬢様、若様、御無事な様で」
「ええ、其処まで危ない事はしていないもの
それよりも早かったわね、丹兄さん」
「御疲れ様です、丹さん」
正座している一名──夏侯惇に説教していたのは、曹操達の従兄弟である曹丹。
夏侯惇とは幼馴染みであり、昔から色々と手を焼き説教をしている為か、夏侯惇は頭が上がらない。
それ故に大人しくしていたが、曹操達の登場により説教が終わった為、こっそりと気配を消しながら、曹丹の視界から外れて行った。
その曹丹は反射的に曹操を見て「姫様」と言い掛け──出立時に母・李葉から注意事項として言われた曹操達の呼び方を思い出し、ギリギリで修正。
曹操達も曹姓を口にはせず、名だけを口にする。
まあ、出来れば曹操達は違う呼び方が望ましいが、其処は曹丹の性格を考慮して、妥協する。
何しろ、自分達の企てで呼んだのだから。
その意図に気付いた唯一の人物。
事の当事者である夏侯淵は顔を赤くしない様に、と必死に冷静さを保つ事に意識を集中させていた。
当然だが、曹操の発言で直ぐに確信した。
先日の何気無い卞晧との会話を思い出す。
そして、それが大きな油断だったと気付いた。
まあ、当然ながら既に遅過ぎるのだが。
長安に行く前に曹操が何かをしていた事も思い出し──それが曹洪と馬超の件を隠れ蓑にした自分達の事に対する根回しだったのだと。
聡明な故に気付いてしまう。
気付いてしまえば、感情が溢れ乱れ始める。
想いを曹操達に知られただけなら、恥ずかしくてもまだ我慢する事が出来る範疇だと言えるのだが。
こうして実力行使に出られると──難しい。
…いや、「無理だ」と言いたくなる夏侯淵。
しかも、そうした曹操達の意図も理解出来た。
出来てしまうから、困ってしまった。
これは姉の夏侯惇に恋愛・結婚を意識させる為。
それは夏侯淵自身も危惧・憂慮していた問題。
だからこそ、この話は纏められるのが前提。
恐らくは、両家からも承認されている事。
つまり、一族公認の縁談という事だ。
其処まで理解してしまえば、答えは一つ。
夏侯淵は決して、鈍くはないし、無関心でもない。
寧ろ、人並みに──いや、夏侯惇という姉が居る為人一倍、恋愛結婚への憧れは強かったりする。
それが、こういう形で略成立している訳だ。
怒りなど湧こう筈が無かった。
恥ずかしくて、恥ずかしくて仕方が無くて。
それ以上に嬉しくて嬉しくて──若気そうになる。
想いが溢れ出し、溢れ落ちそうになる。
だがしかし、此処は堪えなくてはならない。
勢い任せに告白してしまう手も無くはない。
この状況で言えば、必ず曹操達が味方になる。
そうすれば、曹丹は了承するしかない。
嵌め手としては、これ以上無く、確実に決まる。
だからこそ、夏侯淵は自制心を強く働かせる。
本音を言えば、曹操と厳顔が遣った様に強引にでも曹丹との縁談を纏めてしまいたい。
多少気不味くとも曹丹の事を知っているからこそ、夏侯淵は曹丹が真摯に自分と向き合い、受け入れ、愛してくれるだろうと確信している。
確信しているから、きちんと告白をしたい。
二人きりで、自分の意志で、曹丹に告げたい。
それが夏侯淵なりの曹丹への誠実さである。
そんな夏侯淵の葛藤や決意を雑談をする合間合間に曹操と卞晧は確認し、北叟笑んでいたりする。
何故なら、最初から強引に纏める気は無い。
勿論、此処で夏侯淵が焦り、感情と勢いに流されて告白するなら援護射撃し、曹丹を包囲するのだが。
そうは為らないだろうと思っていた。
だから最初から二人は促す事が目的。
夏侯淵に“自分の幸せ”を意識させる事が狙いだ。
それに…抑、夏侯淵は動揺し、見落としている。
確かに夏侯淵の気持ちを二人は理解はした。
だが、曹丹の気持ちは理解してはいない。
曹洪と馬超の場合は確かに強引だったが。
二人の場合には既に互いに意識していたから。
少なくとも夏侯淵の片想いだけで縁談を纏める様な身勝手な真似を曹操達は遣るつもりは無い。
ただ、夏侯淵が勘違いをする様に、意図的な言動を取っていたというだけの話。
後は、背中を押した夏侯淵の頑張り次第だ。
勿論、相談されれば手伝うのだが。
その必要は無いだろうと二人は考えている。
「──ああ、それから此方等が頼まれていた物です
それと叔母上からの御返事の文になります」
「有難う、兄さん、助かるわ」
一通りの挨拶と逃げていた夏侯惇への最後の小言を遣り終えた所で曹丹は思い出した様に懐から包みを取り出して曹操へと手渡す。
それに追加して渡されるのが劉懿からの返事。
その手渡される文を見て、夏侯淵と馬超は頑張って出さない様に努めるが…僅かに漏れ出る警戒心。
仕方が無いと言えば仕方が無い事だろう。
だから、二人の反応に気付いた卞晧は胸中で苦笑。
しかし、そうだからと二人の味方には為らない。
何故なら、卞晧は曹操の夫なのだから。
そんなこんなで曹丹を加えた一行は少し早い夕食を取りに適当な店へと入った。
今回は曹丹が先に宿を取っていた為、韓浩達による恒例行事は無効、曹丹が店を選んだ。
その際、約三名から然り気無く要望が伝えられて、御人好しな曹丹は考慮していたりするのだが。
それを咎める物は居ない。
ただ、恥ずかしそうにする約二名が居ただけ。
まあ、誰とは言わないが。
一緒に宅を囲みながら曹操達は曹丹に、これまでの旅の話を部分的に伝える。
孫家や馬家での件は流石に周囲に他人が居る場では軽々しく話す事は出来無いからだ。
その後、取っていた宿に入る。
曹丹を加えた一行は男女五人ずつ、計十人。
男女に分かれて部屋を取っても賑やかだ。
それから片側──男部屋の方に一旦集まる。
其処で、食事中には伏せていた卞晧と孫家の関係、曹洪と馬超の婚約の事を曹丹へと伝える。
卞晧の事には驚きながらも、何処か納得し。
曹洪と馬超の今夜に関しては素直に祝福と。
曹丹との面識が無かった韓浩・甘寧・馬超は曹丹の人と形を概ね理解する事が出来た。
「そう言えばさ、頼んでた物って何なんだ?」
「ああ、コレ?、フフッ…内緒よ」
大事な話も終わって一息吐いた所で、韓浩が曹操に曹丹から受け取っていた“頼まれていた物”の事を何の気無しに訊ねる。
こういった質問が普通に出来るのは、立場の違った環境で生まれ育った韓浩ならではだろう。
勿論、本人の性格・価値観による所も大きいが。
曹操は懐に仕舞っていた包みを少しだけ見せると、意味深な笑みを浮かべて見せただけ。
珍しく詳細を口にはしなかった。
それだけに曹操を知る者達は臆測を深める。
「ふ~ん…」と大して気にしない韓浩が例外で。
夏侯惇ですら、流石に「それ程に重要な物が…」と緊張した面持ちをしているのだから。
尚、その中身を唯一知る卞晧は平然としている。
のんびりと皆を緊張させて楽しんでいる曹操の姿を見詰めながら御茶を飲んでいた。
因みに、曹操が受け取った劉懿からの文だが。
何故、曹嵩ではなく、劉懿からだったのか。
その答えは単純で、曹操が文を宛てたのが劉懿で、曹嵩には劉懿からの口頭での報告で済ませたから。
要するに、曹嵩が関わると面倒臭いからだった。
その為、曹嵩が拗ねるのだが。
そんな事は曹操には関係の無い話である。
面倒臭い曹嵩の事は劉懿に委ねる。
“餅は餅屋”という訳だ。
因みの因みに、馬超との縁談成立の話を知らされた曹洪の家族は「良く遣ったっ!」と万歳三唱。
そして、当然ながら否は無く、馬家への正式回答も滞り無く行われ、本人達の居ない所で話は確定。
同時に長女である曹彰が婿を迎える事に決定。
其方等に関しても曹家・馬家からの協力が確約。
曹洪は預かり知らぬ所で嫡男として家に貢献する。
本人が、どう思うのかは別として。
曹丹を加えた一行は并州を北上する。
例の如く曹丹も卞晧・曹操による洗礼を受けるが、根が生真面目で真っ直ぐな曹丹。
その“高み”を目の当たりにして心酔してゆく。
同時に、夏侯淵が積極的に、だが、然り気無く。
曹丹に優しくしたり、手助けする様に。
夏侯淵自身に元々そういう面倒見の良さは有る為、曹丹も怪しんだり、警戒する様な事は無い。
──と言うか、曹操達の見立てでは無自覚なだけで曹丹は夏侯淵に対し、かなり特別に気を許している素振りが多々見受けられる。
…まあ、夏侯惇という問題児を一緒に苦労しながら御してきている事も一因なのだろうが。
男同士の曹仁・曹洪との距離感よりも、夏侯淵との距離感の方が格段に近いのだから。
勿論、曹仁達は歳上であり、夏侯淵は同い年だが。
それよりは普通は異性に対して気を遣うもの。
夏侯惇にさえ「女の子なんだから自分を大事に…」という事を言う曹丹が夏侯淵を異性としては見ないという事の方が可笑しいだろう。
現に、曹操が事故を装い、夏侯惇を上手く利用して夏侯淵の素肌を僅かにだが曹丹にだけ見せてみれば普通に顔を赤くし、慌てていた。
その後、夏侯惇を責めるのではなく、夏侯淵に対し見てしまった事を謝る曹丹の姿に人柄が滲む。
夏侯淵は犯人が判っているから曹操を睨んだが。
曹操は「どうせ見せるのよ?、遅いか早いかよ」と既に大人の階段を大分上っているから余裕の態度で夏侯淵の抗議を受け流した。
それで何も言えなくなる辺り、夏侯淵も初だが。
まあ、二人の関係は順調であると言える。
後は、何方等が先に動くか、だろう。
曹丹が自分の気持ちを自覚する事。
それが、二人の関係の決定だなのだから。
夏侯淵が告白して、それを促すのか。
或いは、曹丹が自覚し、夏侯淵に告白するのか。
尚、曹操は夏侯淵の、卞晧は曹丹の告白に賭ける。
別に金銭や物品を賭けたりはしていない。
ただ“当てた方が外した方に金銭・物品の要求等は無しで何でも一つ命令出来る”権利が生じるというだけの話だったりする。
そんな感じで、和気藹々と旅をしている一行。
だがしかし、問題というのは予期せぬ形で生じる。
「……………幾らなんでも遅すぎるわね…
あの二人、何処かで拾い食いでもしたのかしら?」
「食べ過ぎなら兎も角、二人とも簡単に中る程弱い胃腸はしてないと思うけど?」
「それもそうね」
──と言う主君夫婦の会話に誰も異論を挟めない。
「いやっ、拾い食いするのは確定なのかよっ?!」とツッコミを入れそうな韓浩だが、その当人が不在。
もう一人はボケ担当である韓浩の相方、夏侯惇。
そんな二人の事だから──誰も否定が出来無い。
拾い食いしている姿が容易に想像出来るし。
その程度で中るとも、全く思えないのだから。
「──となると、先へは行っていない以上は…」
「うん、間違ったんだろうね
“加汲”と“下丘”を」
何方等も目指す晋陽の一つ手前の中継点。
そして、同じ“カキュウ”の読み方。
曹操達が居る加汲は町だが、下丘は村。
しかも、下丘の方が大きく回り道になる。
道も起伏が激しく、人気の少ない山道。
普通は間違えないのだが…二人なら遣り兼ねない。
それを理解出来てしまうから、一様に溜め息を吐き打開策を考え始める。
此処で待っているべきか、合流しに向かうべきか、或いは晋陽に向かうべきなのか。
合流するにしても全員で向かうのか、分かれてか。
選択肢の数自体は限られるのだが。
一体、何れを選ぶべきなのか。
それにより、その後の状況も変わってくる。
その為、曹操と卞晧は小さく溜め息を吐いた。
──その頃、下丘には件の二人の姿が有った。
村の入り口に門番の如く威風堂々佇むのは夏侯惇。
その表情や態度に一切の気後れや後悔は無い。
視線の先、自分達が遣って来た道から曹操達の姿が必ず見えると根拠など一切無く信じている。
一方、そんな夏侯惇の後方で岩に座っている韓浩は両手で頭を抱えて項垂れていた。
夏侯惇とは違い、韓浩は現状を理解していた。
(あ゛あ゛ぁーっ!、遣っちまったあーっ!
此奴を信じたのが大間違い──いや違うっ、判断を任せた俺の大馬鹿野郎おぉーーーっ!!)
そして、自身の過失を心底悔いていた。
──とは言え、韓浩に全責任が有る訳ではない。
責任という意味で二人が五分五分だと言える。
ただ、責任を自覚出来る分、韓浩が自責の念を懐き頭を抱えている、というだけの事だ。
晋陽へ向かう道の途中、分かれ道で迷い、目印にと立てられていた杭には各々に加汲と下丘の文字が。
土地勘も地理的知識も無い二人は音だけを頼りにし「道に迷いはしないだろ」と気楽に考えていた。
その為、其処で韓浩は軽い混乱状態に陥った。
一方、夏侯惇は動揺すらしなかった。
自信満々に「晋陽は小高い丘の上に築かれた街だ、ならば、丘の南に位置するのが道理だ」と。
そう言い切った夏侯惇の姿に頼もしさと、不思議と無駄に説得力を感じてしまった韓浩。
心が弱っていた時だから仕方が無いのだが。
それでも己が浅慮を悔やまずには居られない。
しかし、抑の原因としては其処ではない。
何故この二人が、一行の中でも特に仲の悪い二人が二人だけで別行動をしているのか。
それ自体が問題だと言えるのだが。
それも含め、二人は自業自得だと言えた。
何しろ、事の発端は二人の仲の悪さに始まる。
いつもの様に今日中には加汲に入る予定だった為、宿取り店決め競争が開催される。
──と其処で、夏侯惇から韓浩に挑戦状が。
実際には口頭なので正確には挑戦的な挑発だが。
兎に角、夏侯惇は韓浩との一騎打ちを望んだ。
互いに譲れない二人。
平凡な精神の曹洪は「あ、はい、どうぞ」と了承。
韓浩は兎に角、夏侯惇に根に持たれても面倒。
一騎打ちの為、先に加汲に着いた方の勝利、と。
そういう流れで、今回の一騎打ちが決定した。
曹操達から道を間違えない様に注意されていたが、既に闘争本能に火が点いていた二人は御互いに勝つ事にばかり意識と思考が傾倒しており、その注意を聞き流していたというのが最大の過失であった。
そして、二人は実際に遣らかした訳だ。
曹操達が相手だ。
先ず誤魔化せはしない。
その先は想像したくはないし、想像し切れないが…回避不可能な未来である事だけは理解している。
だからこそ、韓浩は頭を抱えている訳だ。
──とは言え、引き返して合流すれば済む話。
そう出来無いのは──勝負には夏侯惇が勝った為。
つまり夏侯惇が韓浩の意見に耳を貸さない訳だ。
だからと言って韓浩も夏侯惇を置いて行けない。
いや、普通なら迷わず置いて行くのだが。
(……流石に賊徒が付近に居るんじゃなぁ…)
村に先に着いたのは夏侯惇。
それは仕方が無いが、宿は取らないといけない。
その為、韓浩も探そうとしたのだが──村だ。
当然ながら、村である下丘には宿や料理店は無い。
其処で漸く、韓浩は道を間違った事に気付いた。
気付いて、引き返そうとするが何を勘違いしたのか夏侯惇は韓浩が「勝負を有耶無耶にするつもりだ」という誤解をし、断固として拒否。
取り敢えず、韓浩は道や村の事を聞いて回り。
そして、非常に面倒な状況なのだと理解した。
どうやら、村の近くの山中には大きな賊徒の根城が有るらしく、特に晋陽への道は狙われているとか。
それに加えて、昨日の事だ。
賊徒の偵察らしき人影を村人の数人が目撃。
つまり、今日明日辺りで襲撃の可能性が高い。
村長は「御若いのです、早く逃げなさい」と二人を気遣って言ってくれたのだが。
当然、韓浩が了承出来る筈は無かった。
「我が身可愛さで逃げるなど出来るかっ!」という武人の誇り的な理由などではなく。
単純に、これまでの旅の中での教育の賜物。
「苦しむ民を見捨てられるかっての!」と。
後はまあ…此処で退けば賊徒より怖い主君が居る。
故に、韓浩に退くという選択肢は無かった。
(…しかも、その賊徒が例の“黒鬼党”だろ?
だったら余計に退けるかっての…)
韓浩の脳裏に浮かぶのは、その話をした時に見せた卞晧の珍しく嫌悪感を隠さない表情。
勿論、詳しい話は訊いたりはしていない。
だが、それなりに長い付き合いだ。
その辺の賊徒が相手でも、彼処まで露骨な嫌悪感を卞晧は見せる事は無い。
それは、ある意味では平等に扱っている為だ。
平等に“存在する価値の無い塵芥”として。
だからこそ、その黒鬼党というのが群を抜いている最低最悪な連中だったという事を確信出来る。
そして、それを見栄でも名乗る奴が居る。
親友の亡き母の功を穢す糞で屑な連中。
それを無視出来る程、韓浩は御利口ではない。
──とは言うものの、今の一番の問題は夏侯惇だ。
「この判らず屋を何とかしないとな…」と悩む。
ある意味、韓浩には賊徒より質が悪い相手だ。
それでも、どうにかしないといけないのだが。
──と、その時だった。
村の外れの方から警鐘が鳴り響いた。
弾かれる様に身を起こし、岩に立て掛ける様にして置いていた犀角の柄を掴んで迷わず駆け出す韓浩。
何かを言う必要も無く、韓浩に並走している影。
言わずもがな、愛剣を抜き放っている夏侯惇だ。
その姿を視界の端に捉えると韓浩は胸中で苦笑。
「本当、こういう時だけは頼もしいよな」と。
それは兎も角、疾駆する韓浩達。
其処まで広大ではない村だ。
村の入り口から現場までは直ぐの事。
喧騒と悲鳴と怒号と嘲笑が入り混じって響く。
三十人程が入り乱れる状況の中、韓浩達は迷わずに即座に分別し、処理に取り掛かる。
「──ぁん?、んだ、手め────」
韓浩達に気付いた一人が振り向き、村人を相手取る余裕綽々な態度のまま、威嚇しようとする。
しかし、その声は二度と続けられる事は無い。
全く速度を落とす事無く戦場へと突っ込んで行った夏侯惇が擦れ違い様に愛剣を振り抜いていた。
首を両断され、身体と分離した頭は振り向いた際の勢いのまま一回転半し、螺切れる様に落下。
鮮血を噴き上げながら、身体は崩れ落ちる。
そんな仲間の死を認識し、危機感を跳ね上げる。
だが、時既に遅し。
その時には既に半数が死んでいた。
交戦していた村人達も呆然となる中でも、韓浩達は動きを止める事は無い。
自分達の劣勢──否、死を悟った一人は生きる為に逃亡する事を選び、背を向けて駆け出す。
しかし、その判断は遅く、機を逸していた。
逃げ出した男の顔に影が差した。
何時の間にか回り込んでいた韓浩の振り上げている愛剣が日の光を遮り、男に今生との別れを告げた。
それは風が吹き抜けるかの如く。
窮地に有った村人達を、二人の若者が颯爽と救う。
盛り上がらない訳が無かった。
既知となっていた村長達から感謝される韓浩。
勿論、嫌な気はしないし、助けられて良かった。
そう思いながら安堵していもいる。
ただ、「奥様も御強いですね」と言う村人達。
「いや、此奴とは夫婦じゃないから」と言いたいが話を聞いて貰える感じではなかった。
なので、韓浩は「念の為に村の周囲を見てくる」と言って夏侯惇を連れ、村人達から離れる。
「腹は立つが仕方が無い」と我慢していた夏侯惇の機嫌が急降下し、爆発寸前だった為だ。
案の定、村から離れた所で夏侯惇が斬り掛かる。
それを受け止め、鍔迫り合いをしながら状況説明。
下手にはでないが喧嘩腰にもならない様に注意し、何よりも余計な事は言わず、端的に。
「………成る程な、状況は判った」
「そうか…だったら、先ずは剣を退けよ?」
「それはそれ、これはこれだ!
何故私が貴様のっ……」
「…言っとくが、それに関しちゃあ御互い様だし、俺の所為じゃねぇからなっ?!」
「判っているっ!」
──とは言っているが、夏侯惇の力は弱まらず。
韓浩も腹は立つが、揉めても何の解決にも為らない事を理解している為、取り敢えずは付き合う。
それで発散し、落ち着くなら簡単だからだ。
ただまあ、文句を言いたくない訳ではない。
それを飲み込めるだけ、韓浩の方が大人だ。
そんな韓浩の忍耐力の甲斐も有ってか。
思いの外早く夏侯惇は落ち着いた。
夏侯惇も旅の中で学び、成長している。
村人達に悪意は無く、勘違いも仕方が無い状況だ。
何より、賊徒が民の生活を脅かしているのだ。
それを無視して腹を立てている程、暗愚ではない。
「それで、どうする気だ?
華琳様達と合流して連中の本隊を潰すか?」
「正直、合流したいのは合流したいんだけどな…
今、俺達が此処を離れたら確実に被害が出る…
最善策としては俺達で連中に被害を与えて牽制し、時間を稼いでから合流する、って所だろうな…」
「ふんっ…そんな面倒な真似などせず、我等だけで奴等を叩き潰してしまえば良いだろう?」
「いや、そうは言うけどな…
相手の規模も判らないんだぞ?
俺達だけなら失敗しても撤退出来るが…
実際には村が犠牲になる可能性が有るんだ
此処は迂闊な真似は避けるべきだろ?」
「だが、出来無い訳ではないだろう?
それに我等が来なければ、先程の襲撃で詰みだ
お前も村人達が勝てるとは思わないだろう?」
「それは……まあ、確かに…そうだけどな」
「だったら、待ち構えるよりは攻めるべきだ
何より、先程の奴等が偵察ではなく、襲撃部隊なら本隊は今、油断し切っている筈だ
数が多かろうが、その隙を突き奇襲し、頭を討てば一気に瓦解する可能性は高い
その後、乱戦になれば分は此方に有る
寧ろ、下手に防衛をしたり、奇襲して警戒させれば連中は組織立って動く様になるだろう
その方が此方等にとっては厄介ではないのか?」
「…ぅぐっ…」
そう言い切った夏侯惇に対し韓浩は言葉に詰まる。
「普段は猪然として、人の話を聞かない癖に…」と思わず言いたくなってしまう韓浩。
だが、戦に関しては夏侯惇には天賦が有る。
卞皓達が認める程、夏侯惇の嗅覚は鋭い。
その上、今の夏侯惇の説明は筋が通っている。
だからこそ、韓浩も夏侯惇の意見に意識が傾く。
勿論、直ぐに直ぐ頷く事は無いのだが。
それでも、思案し、想像すれば──最善に感じる。
「…………………判った」
「よし、では善は急げだな」
悔しいが、他に代案が思い付かなかった韓浩は首を縦に振り、夏侯惇の提案に同意した。
二人の普段の関係上、素直に認めたくはないという気持ちが韓浩に無い訳ではないのだが。
それでも今、優先すべき事が何かは判っている。
二人は村に戻ると村長達、主だった男達を前にして自分達が黒鬼党の討伐を行う事を伝える。
夏侯惇が「…黒鬼党?、はて…何処かで…」と首を捻る場面が有ったが、韓浩は面倒なので放置。
夏侯惇も「まあ、名など関係無いがな」と納得。
夏侯惇らしい思考だった。
だが、二人の提案に流石に村長は渋る。
助けて貰えた事には感謝している。
しかしだ、その上に黒鬼党の討伐まで遣って貰う、という危険な真似は承服し兼ねる。
それは大人として、子供の身を案じるのは当然。
それは村長だけではなく、村人の総意だ。
けれど、村の女子供の事を考えれば縋るしかない。
情けない話だが、それが彼等の現状である。
苦悩の末に、村長達は二人に村を託す。
二人の無事を願いながら。
村を後にした二人は氣による探知を行い、山中へ。
卞皓達に比べると圧倒的に精度・範囲は劣る探知も大して動かず群れてくれている相手なら楽勝。
二人は程無くして黒鬼党の根城を発見する。
「…チッ…賊の分際で小癪な真似を…」
その根城を睨み付けながら舌打ちし愚痴る夏侯惇。
「いや、賊ってそういう連中だから」と言いたいが其処は我慢する韓浩。
ただ、夏侯惇が愚痴る気持ちは理解が出来る。
黒鬼党の根城は切り立った崖を背にする断崖の上に築かれている木造の砦の様な印象。
火矢を使えれば簡単に落とせる様に思えるのだが、根城の周辺は殆んどが根城よりも低い。
その上、意図的に伐採しているのだろう。
隠れて近付き、狙うというのが難しい。
つまり、黒鬼党は討伐され難い場所を選んだ上に、更に難しくなる様に手を加えている訳だ。
そんな場所に有る根城の為、偵察している韓浩達が使っている場所は根城の唯一の死角の真上。
つまり、切り立った崖の上──岩山の天辺である。
それもこれも氣を使えるから出来る事。
改めて、厄介な相手だと韓浩は認識した。
根城に近付ける道は深い崖沿いの道のみ。
道幅自体は大人の男性が七~八人は武装していても横に並んで進める位の広さは有る。
しかし、その道は蛇の背の様に曲がりくねっており先が見通し辛く、加えて頭上は無防備。
丸太の一本も横倒しにして落とせば、官軍が来ても簡単には近付かせはしない事だろう。
実際に、道の上側には丸太が三本ずつ間隔を開けて設置されているのが韓浩達からは見えている。
正面に遣っていたら被害は小さくなかった筈だ。
「……正面突破も難しいし、横からは近付けない
何より見張りの目を誤魔化せないから感付かれる
──という事で、此処以外は無理そうだな」
「この程度の高さであれば問題無いだろう
バッ!と行って、シュバババッ!と片付ける
実に判り易くて、簡単な話だ」
「……………」
韓浩は改めて頭が痛くなった。
「…これ、判断を誤りまくってるよなぁ…」と。
夏侯惇の単純思考に溜め息を吐く。
だが、確かに夏侯惇の言う通りでもある。
それが出来る事を、韓浩も理解はしている。
普通なら、岩山の天辺から崖下の黒鬼党の根城へと向かうには飛び降りるしかなく、確実に死ぬ。
しかし、卞皓達に鍛え上げられている自分達ならば崖を足場にして駆け降り、突入する事が可能。
奇襲という意味でも連中の動揺を誘える。
後は、今直ぐではなく、突入する機を見計らう事。
少なくとも、今直ぐに突入よりは、連中が村に行き戻って来ない仲間の事に気付いた辺り。
それが最も奇襲し易い状況だと言える。
(見張り台の連中や丸太の側に居る奴等なら上から石でも投げ付ければ簡単に殺れる…
少なくとも、真上から狙われてるとは思わない…
だから敵襲だと判れば、連中は入り口に集まるか、其方を警戒し意識が向かうだろうから…
その無防備な背後を襲えば……全滅も可能な筈だ)
そう考える韓浩の脳裏には実体験が甦る。
そういう状況を作られ、一対四で卞皓に敗北をした奇襲を想定した防御訓練の一つで経験済み。
連中が考えるだろう事が手に取る様に判る。
静かに、息を殺し、気を抜かない様にする。
うっかり小石を落としてしまうだけでも、居場所を感付かれる可能性が生じる以上は慎重に。
何より、奇襲する機会は一回だけだろう。
その一回で仕止めきれなければ事態は悪化する。
だからこそ直ぐにでも突っ込みそうな夏侯惇でさえ今は大人しくしているのだから。
二人が身を潜め始めてから二刻程が経った。
西の空が色付き始めた頃。
漸く黒鬼党の根城に動きが出始めた。
村に向かった仲間の戻りが遅い事に気付いた。
慌ただしく人が動き回り、武装して集まり出す。
見張り台や丸太の側に控えている者達が身構える。
「よし、先ずは──」
「──さあ、行くぞっ!」
「──石で──って、おいっ!、あ゛ー糞がっ!」
しっかりと段取りを話して置いたのだが。
時間が掛かり過ぎて忘れたのか、或いは我慢し過ぎ細かい事など鬱陶しくなったのか。
真偽は不明だが、夏侯惇が飛び出した。
反射的に追い掛けそうになるが、韓浩は踏み止まり見張り台と丸太の側に居る賊徒を石で狙撃する。
そうする事により、少しでも夏侯惇に意識が向かう時間を遅らせて、安全に奇襲が出来る様にする。
…まあ、その胸中は愚痴と罵倒の嵐だが。
それが良い具合に加味されたのか。
本人の考えていた速度以上で連射された石は賊徒を次々と穿ち殺し、賊徒達の意識を引き付けた。
無防備となった賊徒の背後。
崖を駆け降りた夏侯惇は跳躍し、回転。
手前に居た賊徒を足場にして着地。
そのまま周囲の賊徒を狩り始める。
突然の事に動けなかった男達も血飛沫と悲鳴と絶叫により奇襲された事が判り、応戦を始める。
その様子を見ながら、韓浩も崖を駆け降りる。
夏侯惇の愛剣と違い、犀角は超重量。
普通に持てば重力に引っ張られ、人の身体より先に地面に向かって落下してゆく。
だから、韓浩は犀角を引っ張る様に先行。
そして踏み切ってから──前転。
犀角の重量で強烈な遠心力を生み出し──発射。
手離された犀角が密集する賊徒の群れに着弾。
落石が起きたという範疇を超え、隕石落下の如く。
衝撃と震動、轟音を以て、血肉が爆ぜる。
夏侯惇に気を取られていた賊徒達には回避も防御も不可能だった第二波の奇襲。
それは奇しくも夏侯惇の暴走によって生じた偶然の産物だった訳だが、当初の予定以上に有効。
時間差による連続奇襲の有用性を韓浩は噛み締め、何も考えてはいなかっただろう夏侯惇を見て苦笑。
だが、そういう引きの強さも勝運。
少なくとも韓浩は負ける気はしなかった。
事実、二人だけで圧倒しているのだから。
当然と言えば当然だろう。
二対多という状況で、一騎当千とも呼べる実力者が御互いに邪魔にならない様に距離を取って戦えば、攻守は自分と敵にのみなり、集中出来る。
下手に兵を率いるよりも、単純な戦力として見れば単騎駆けというのは時として上回る事が有る。
──但し、飽く迄も、乱戦の様な状況では、だ。
「──────今だっ!」
「「────っ!?」」
唐突に響いた何かの合図。
集中し、尚且つ優勢な事が、瞬間的に二人に状況を把握させる事を無意識に優先させた。
──否、優勢過ぎたが為に生じた死角だった。
一瞬とは言え、動きを止め警戒体勢を取った二人。
其処に荒縄と漁で使う網が幾つも投げられた。
「何で山奥のっ、しかも漁が出来る場所も無いのに漁用の網が有るんだよっ?!」という韓浩の心からのツッコミは誰にも聞こえはしないのだが。
兎に角、不味い事だけは理解した。
──とは言え、氣を扱え、旅の日々の中で卞皓達に鍛え上げられている二人である。
その程度の対応策に引っ掛かる程、鈍くはない。
ただ、二人は一つだけ重要な事を失念していた。
それは戦場が敵陣だという事。
荒縄と網の雨を被らない様に跳び退いた二人。
上から根城の構造は見て、把握している。
しかし、地質までは確認出来てはいなかった。
「──なあっ!?」
「────っ!?、糞っ!」
「──遣れっ!」
思わず驚声を上げたのは夏侯惇。
着地した場所、その地面が想像とは違っていた。
普段の夏侯惇であれば、自慢の嗅覚が危険を察知し回避出来ていたかもしれない。
しかし、運悪く集中し過ぎていた事が災いした。
飛んで来た荒縄と網から逃れようとした事。
敵の居ない所に避難しようとした事。
この二つだけを優先し過ぎ──見落とした。
賊徒達により現在地に誘い込まれる可能性を。
見た目には普通の地面だった。
けれど、夏侯惇が着地した瞬間、地面は波打つ。
水面が揺れる様に、体重の掛かった夏侯惇の左足を一飲みにし、捉えてしまう。
夏侯惇が誘い込まれた場所に有ったのは泥濘。
だが、普段から此処で生活している賊徒達は承知。
だから誰も近付かず、綺麗なままだった。
夏侯惇の不運は、その泥濘が膝まで有った事。
その為、どうしても動きが止まってしまう。
其処に狙った様に投げられる荒縄と網。
冷静に対処すれば夏侯惇なら斬り裂けた。
だが、動揺と焦りが波紋を広げる様に影響する。
無理矢理に、普段通りに愛剣を振るった。
その結果、鋒が地面に食い込んでしまった。
回避は不可能──そう夏侯惇は覚悟した。
だが、夏侯惇を庇う様に韓浩が割り込み、防ぐ。
しかし、犀角の特性上、斬り裂くには不向き。
尚且つ、超重量の為、荒縄や網とは相性が最悪。
韓浩は夏侯惇の代わりに身体を絡め取られる。
「逃がすんじゃねえぞっ!」
そう叫ぶ声が響くのと粗同時に韓浩の右肩を襲った痛みの理由は視界の端を舞った血飛沫で理解した。
身動きが取り辛く、利き腕も負傷。
その瞬間、韓浩は最善策を選択する。
貫かれたままの右肩の激痛も御構い無しに、全力で犀角を振り抜く。
──夏侯惇に向かって。
「────っ!?」
引き抜いた愛剣で反射的に受け止める夏侯惇。
だが、踏ん張りが利かない為、持って行かれる。
──その結果、夏侯惇の足は泥濘から解放。
勢いのまま、後方──根城の入り口近くへ飛ぶ。
「────走れえええぇっ!!」
「────っ!!」
着地した夏侯惇に向け、韓浩が吼えた。
その瞬間、夏侯惇は意図を理解する。
理解するが──逡巡してしまう。
しかし、それは刹那の事。
夏侯惇は唇を噛み締め、韓浩に背を向ける。
そのまま振り返る事無く、全力で駆け出す。
賊徒達は追おうとするが、無理だった。
乱戦と為った状況で韓浩達を囲む様に群がっていた賊徒達は入り口付近には誰も居なかった。
最短距離には泥濘と荒縄と網、動き辛いとは言え、まだ戦闘不能には為っていない韓浩が有る。
黒鬼党の頭目は追撃より、韓浩の無力化を選択。
──いや、それ以外を韓浩に潰されていた。
勝負に敗れ、試合に勝った。
「様あ見ろ」と言うかの様に嘲笑する韓浩。
捕縛され地面に俯せに転がされた韓浩の顔に向かい苛立ちを打付ける様に頭目が蹴りを入れる。
だが、現実は覆えりはしない。
そして、結果的に韓浩を殺す訳にも行かない。
何故なら、黒鬼党は何の情報も持ってはいない。
韓浩達の素性等が判らない以上、殺してしまうより人質として生かす方が少しは増しだ。
そう考え、頭目は韓浩に唾を吐き掛けた。
黒鬼党の根城を後にして駆ける夏侯惇。
賊徒達の脚では到底追い付けない速度で山を駆け、村へと向かっていた。
韓浩は夏侯惇に村に知らせ、村から避難させる事ど最低でも人的な被害を出さない様に考えた。
その上で、夏侯惇には走って貰い曹操達と合流し、確実に黒鬼党を潰しに掛かる様に、と。
その意図を夏侯惇も瞬時に理解し、決断した。
“民を護る為”に強く成りたい。
それは夏侯惇の、韓浩の意志なのだから。
──だが、夏侯惇の足は次第に勢いを失い、歩き、そして立ち止まってしまった。
俯いたまま唇を噛み締め、両手を深く握る。
歯が、爪が食い込み、唇を、掌を血が伝う。
不仲の韓浩に助けられた事が悔しい訳ではない。
賊徒如きに罠に嵌められて腹立たしいのではない。
原因たる自身の油断は赦せないが…それも違う。
自分達の失態と不始末を曹操達に尻拭いさせる事が嫌だとか恥だとか思っている訳でもない。
──それならば、どうして。
どうして、自分は前に踏み出せないのだろうか。
「……………………………………………ぁっ……」
考え、考え、考えるしか出来無い夏侯惇。
その脳裏に思い浮かんだ幾つもの可能性。
記憶の糸を手繰り、理由を探す。
その中で、唐突に理解した。
──否、必然的に答えに辿り着いた。
「────っ………私、はっ……」
その頬を温かな雨が濡らす。
だが、口元は自然と笑み、心の暗雲は晴れた。
即席で十字に組まれた磔台。
其処に縛り付けられている韓浩は大人しい。
色々と腹は立つが騒いでも仕方が無い為だ。
(………大体、半分ちょいって所か…)
自分達が倒した賊徒の数と、現存する賊徒の数。
それを比較しながら胸中で溜め息を吐く。
卞皓達なら二人で確実に殲滅させている。
その事を思えば、まだまだ自分達は未熟だ。
……まあ、良くも悪くも夏侯惇に振り回されたが。
決して、悪い気はしなかった。
──と思った所で、ふと疑問が浮かんだ。
あの時、何故、夏侯惇を退かせたのか。
よくよく考えれば、夏侯惇に荒縄と網を斬らせれば戦闘継続は不可能ではなかった。
──と言うか、問題無く出来た筈だ。
足を取られた泥濘も場所は判っているのだから。
如何に夏侯惇でも同じ失敗を繰り返すとは不仲でも韓浩には考え難い事だと言えた。
………「無い」と言い切れないのが夏侯惇だが。
少なくとも、夏侯惇を戦線離脱させる理由としては弱いと言えるし、自分でも腑に落ちない。
何故、そうしたのか。
何故なのか。
何故、夏侯惇を────と考えた所で気付いた。
夏侯惇だったからだ、と。
(………………ぅわっ、これはヤバイってっ…
考えたら滅茶苦茶恥ずかし過ぎるってのっ!)
気を抜くと跳ねる鼓動に引っ張られて顔が赤くなる様な気がしてしまう韓浩。
気合いで堪える──のは無理だと判断。
丁度良い所に黒鬼党の頭目の姿を見付けた。
それを利用し、自分の意識を強引に逸らす。
ちょっと睨み付けて遣れば頭目は簡単に釣れた。
動けない韓浩に嘲笑を浮かべ近く。
「良い格好だな、“正義の味方”さんよぉ?」
「…生憎と、そういう柄じゃないんだよ
…そんな事より、聞きたいんだけどな
手前ぇ等、何で黒鬼党なんて名乗ってんだよ?
随分前に討伐された負け犬だろ?」
「ぁん?、んな事、俺が知る訳ねぇだろ?」
「…はぁ?、お前が頭目なんじゃねぇのか?」
「ああ、俺が黒鬼党の今の頭目だ
だが、一党を立ち上げたのは初代で、俺は三代目だ
だから黒鬼党を名乗る訳なんか知らねぇんだよ
因みに初代は北刀って二十歳の優男だったがな
先代の左吉に殺され、先代は雷魚に中って死んだ
縁起が悪りぃから名を変えてぇのが本音だが…
それで祟られても困るんでな」
「賊が縁起を気にするのかよ…」
「馬ぁ鹿、賊だから気にするんだよ」
話の流れから韓浩自身が気になっていた事を訊く。
一党と関係の無い連中が箔付けでも縁起の悪い名を態々使うのか、という事。
卞皓を疑う訳ではないのだが。
韓浩が賊徒なら、関係の無い名前は名乗らない。
偶々、考えていた名が被っても、変えるだろう。
だからこそ、無関係ではない可能性を卞皓も危惧し気にしていたんだろうと韓浩も思っていた。
まあ、結果としては理由は不明のままだが。
韓浩が動けないからか、頭目は安心した様に色々と聞いてもいない事まで話してくれた。
──と、根城の入り口付近が騒がしくなった。
頭目も韓浩も顔を向ける。
それと同時に、見張り役の賊徒達の身体が宙を舞い地面へと叩き付けられた。
入り口を被う様に上がった土埃が風に払われた。
其処から姿を見せたのは──夏侯惇だった。
韓浩は「随分と早い帰還だな、おい」と口角を上げ──早過ぎると気付いた。
そして、夏侯惇を睨み付け、叫ぶ。
「何手ぶらで戻って来てんだ!、この馬鹿っ!」
「煩いっ!、お前の指図は受けんっ!
大人しく私に助けられて感謝して平伏せっ!」
「巫山戯んなっ!、お前何様だっ!」
「ふふんっ!、私が夏侯惇様だっ!」
「んな事訊いてねぇよっ!」
「────手前ぇ等黙れっ!!」
口喧嘩をする二人に頭目が吼える。
夏侯惇を睨み付けながら、手にしていた槍の穂先を韓浩の胸元に当て、無言で脅す。
立ち止まった夏侯惇を半円状に囲む賊徒達。
だが、一度刻まれた恐怖心は拭えない。
故に、夏侯惇からは距離が開く為、包囲と呼ぶには拙い状態──腰が引けていると言えた。
「…ったく…何遣ってんだっ!、殺れっ!」
「黙ってろっ!」
「馬鹿かっ、人質は生きてるから価値が有るんだ!
つまり、手前ぇ等は俺を殺せねぇんだよ!
けど、手前ぇ等が助かる方法は無ぇっ!
──という訳だから遠慮無く遣れっ!!」
「このっ──」
「──だが、断るっ!!」
「はあぁあぁっ?!、巫山戯てんじゃねえぞっ?!
お前っ、頭沸いてんのかっ?!」
「ええぇいっ!、煩い煩い煩あぁあーーいっ!!
お前を傷付けさせては私の末代までの恥っ!!
だから其処で大人しくしていろっ!!」
「大人しくも何も縛られてて動けねぇよっ!!」
「──という訳で、其処の髭面っ!!
貴様が頭目なのだろう?、私と一騎打ちをしろっ!
貴様が勝てば人質は二人っ!
しかも援軍が来る可能性も無いっ!
後は好きにするが良いっ!」
「何自信満々にバラしてんだド阿呆オォーーッ!!」
「クッ…ククッ…ハハハハハハッ!
ああ、そういう事か、成る程な…
だが、もう少しは考えた方が良いぜ?
そんな大事な事、バラすもんじゃねぇぞ?」
「────ええ、全く、本当にね、その通りだわ」
『──────っっっっっ!!!!!!!!!!??????????』
静かに、けれど凛とした声が、はっきりと響く。
その瞬間、全員が身を固くした。
小さな筈が、巨神の歩く轟音の様に聞こえる。
ゆっくりと夏侯惇の後ろから姿を現したのは此処に不釣り合いな品の有る少女──曹操。
獰猛な笑みを浮かべながらも、一切その不機嫌さを隠そうともしていない。
韓浩も夏侯惇も自分達の現状を忘れ、怯え出す。
韓浩は冷や汗を垂れ流し、夏侯惇に至っては身体を直立不動の姿勢のまま、凍えるかの様に震わせる。
泣きそうな子供──いや、尻尾を股の間に仕舞って怯えている仔犬、だろうか。
兎に角、二人にとっては賊徒所ではなくなった。
「色々と言いたい事は有るけれど…
取り敢えず、これは貴方達が始めた戦いなのだから自分達で最後まで責任を持って遣り遂げなさい」
「…………っ、この小娘っ!、何を巫山戯た──」
「──中途半端は赦さないからね?」
『──────っっ!!??、──なっ!?』
新しく聞こえた声と、丸太が崩れ落ちる音。
賊徒達が振り向けば壊れた磔台と愛剣を握る韓浩。
その傍らには何時の間に近付いたのか、一人の少年──卞皓が笑みを浮かべて立っていた。
既に韓浩の右肩は治癒が完了している。
問題無く、戦える状態である。
つまり──不様な言い訳は不可能な訳だ。
「行くぜっ!、覚悟しなっ!!」
「貴様等は此処で死に絶えろっ!!」
雄々しく叫び、賊徒達に襲い掛かる韓浩達。
だが、見る者によれば自棄糞なのだと判る。
逃げ場が無い様に根城を包囲する面々には。
「…全く……あの娘は…」
夏侯惇を睨みながら曹操は溜め息を吐く。
少しは成長しているのかと思えば…あの有り様。
愚痴りたくなるというものだろう。
実は、曹操達は韓浩達が黒鬼党の根城を見下ろし、機を窺っている時には既に近くに来ていた。
村の方にも見付からない様に行き、情報収集。
大凡の経緯と事態を把握し、見学をしていた。
抑、其処まで早い行動の理由が──不安だから。
韓浩よりも、夏侯惇の方が、だ。
それが韓浩が上手く夏侯惇の手綱を握っているのを見て曹操と卞皓は様子を見る事にした。
韓浩が捕まり、負傷した時も──見ていた。
その上で、傍観に徹していた。
──が、流石に夏侯惇の言動で終了となった。
血縁関係に有る面々は羞恥心に俯き、曹操は激怒。
これが直前までの大まかな流れだった。
「まあ、結果としては悪くないんじゃない?
何方も、かなり意外では有ったけどね」
「……ええ、それに関してはね
ただ、あの娘の教育は考え直すわ
このままだと曹家の、夏侯家の、一族の恥だもの」
「…秋蘭、複雑な心境だろうね…」
「…まあ、其方は其方で良い刺激でしょう
これで秋蘭も心置き無く専念出来るでしょうから」
そう、一方的な殲滅戦を見ながら二人は話す。
当然だが、二人の気持ちは当事者達以外は把握し、曹操達から口外・必要以上の干渉が禁止済み。
曹操と卞皓、馬超と曹洪以外は自分達の事に関して粗知らない状況で事は進められている。
夏侯淵だけが例外、という訳だ。
まあ、馬超達の事も似た様な状況ではあるが。
「それにしても、此処で康栄の成長が見られたのは良かったと言えるわね
不完全とは言え、春蘭を御してもいたし…
何より、あの状況でも冷静に情報を引き出せていた辺りは旅を始めたばかりの頃からは想像し難いわ」
「うん、その点に関しては素直に褒められるよ
ただ、春蘭が戻ってからの会話は御粗末だったね
正しく人質という存在の価値を理解しているなら、もう少し上手く演って欲しかったかな…」
「そうね、向き不向きは有るでしょうけど…
“売り言葉に買い言葉”ではね…
まあ、あの二人の普段の遣り取りから考えたなら、ああなるのが自然と言えば自然なのでしょうけど…
上に立つ身としては及第点には程遠いわね…」
「私的な場でなら構わないんだけどね~…
まあ、まだ自覚したばかりで戸惑いや感情に思考が引っ張られ過ぎるんだろうけど」
「あら?、それなら玲生は私といて平気なの?」
「押し倒していいなら押し倒すけど?」
「他の男の前に私の身を晒すの?」
「それは駄目だね、華琳は俺だけの女だから」
「もぅっ…玲生ったら…そんな事言われたら、私が我慢出来無くなるじゃないの…」
──といった感じで、韓浩達の殲滅戦の側で平然と惚気て、イチャついている曹操と卞皓。
周囲に散っている曹仁達から見ても、二人の所だけ場違いな甘ったるい雰囲気が支配しているのだが。
“降り掛かる火の粉”を払う必要も無い。
抑として寄せ付けはしないし。
何より、韓浩達が一匹たりとも逃がさない。
万が一にでも曹操達の所に行かせようものなら…。
そう考えただけで、韓浩達も曹仁達も身震いする。
見た目には子供だが、その中身は大人顔負け。
番の熾天龍が無邪気に戯れているのならば。
天罰を、天災を怖れるのならば。
寄るな、触れるな、関わるな。
それが、平々凡々と生きる為の秘訣である。
──尚、目出度し目出度し、終わり──では無い。
黒鬼党の討伐完了後、後始末は曹操達が引き受け、韓浩達は村に戻り、無事と討伐の報告をする。
その後、旅の仲間と合流する為に村を発つ。
実際には黒鬼党の根城が有った場所に戻る。
そして、曹操の前に二人は正座している。
それはそれ、これはこれ。
曹操の御怒りは去ってなどいなかった。
可能な限り身を縮めて「反省しています」感を出し無事に通り過ぎるのを待つ。
ある意味、生物としての生存・防衛本能だ。
「……まあ、結果として一つの村を救えたのだし、黒鬼党を壊滅させる事が出来た
それを考えれば、貴方達の独断と勝手な行動の事も功績として認めなくてはならないわね
そうなると…功罪相殺、という事になるかしら」
「「────っ!!」」
曹操の言葉に反射的に顔を上げそうになった二人。
だが、決して学習能力が無いという訳ではない。
まだ明確に赦されてはいない以上、不動が正解。
その判断が正しい事を曹操の笑みが語っている。
本人達には見えないが。
「春蘭、康栄、顔を上げなさい
今、言った通り、当の件は功罪相殺とします」
「はいっ!、申し訳有りませんでしたっ!」
「あっ、有難う御座います…
本当に申し訳有りませんでした」
声を弾ませる夏侯惇と、同じ様に弾ませ掛けて堪え静かに感謝し、二人は頭を下げる。
──しかし、悪魔は忘れた頃に無慈悲に微笑む。
「──けれど、その所為で予定が狂った事は確か
よって、罰として一週間の夜番を命じるわ
二人で一緒に頑張りなさい
喧しくしたら──更に一週間の追加よ」
「「……うぅっ……は~ぃ……」」