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ブラックベイン―狂暴×悪辣―  作者: 平行月
第1章 口を奪う怪異
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第13話 観察する男、志藤

 廊下の死角は、ひどく静かだった。


 空き教室の扉一枚向こうでは、まだ人の気配がある。声もある。だが、それはもう内容としては聞いていない。志藤に届いているのは、誰がまだそこに残っているのか、その輪郭だけだった。


 灯紗希。


 あの斧を出した男。


 そして、橘美和。


 志藤は掲示板の影に体を寄せたまま、視線だけをわずかに動かす。扉の小窓を正面から覗くことはしない。反射と、足音と、声の滲み方だけで状況を把握していた。


「……橘美和の帰宅を、影ながら護衛している人間が数名いるな」


 呟きは、ほとんど息に近い。


 先ほどまでよりも、廊下の気配が一段だけ厚い。教師でも生徒でもない、妙に間合いの整った人間が外に増えている。姿を見なくても分かる。あれは学校の人間の立ち方ではない。気配を殺しきれないくせに、目的だけははっきりしている立ち方だ。


「やっぱり、泳がせて正解だった」


 志藤は、そこでようやく薄く笑った。


「“ひな”を戻したのもな」


 あの場で橘美和へ執着を続けていたら、むしろ余計なものまで引き寄せていた。口は惜しい。記録も惜しい。だが、あれはもう怯えきっている。壊れかけたレコードに針を落とし続けても、綺麗な音は拾えない。


 それよりも。


「やっぱりだ。あれが、話に聞いていた“組織”か」


 舌打ちは、かろうじて飲み込んだ。

 “彼”の言っていたことは、やはり本当だったらしい。


 その“彼”の顔を思い出そうとして、志藤は一瞬だけ目を細めた。

 片目の奥に、黒い染みのような痛みが浮く。

 ただ、教えられた内容だけが、妙にはっきり残っている。


 鼻の利く連中。脈の周辺を嗅ぎ回り、異物のように割り込んでくる連中。

 名前などどうでもいいと思っていたが、こうして目の前に現れると、たしかに厄介だった。


「……くそ」


 苛立ちが、今度は隠しきれずに漏れる。


「これでは、“ひな”に与える口が間に合わないじゃないか」


 口。


 声。


 怯え。


 そのどれもが、足りていない。


 橘美和だけでは弱い。あれはもう、恐怖の鮮度が落ち始めている。戻したのは正しい。正しいが、そのぶん、いまここにある供給は減った。


 志藤の視線が、空き教室の扉へもう一度戻る。


「あの斧を持っていた男が、中心か」


 あの男だけ、立ち方が違う。


 灯紗希は踏み込んでくる。だが、あれは好奇心と観測欲の踏み込みだ。


 一方で、あの男は違う。下がる位置も、割り込む位置も、最初から“守る順番”が頭に入っている。ああいう人間が一人いるだけで、場の形は変わる。


「……護衛がいないのは、どういう理屈だ?」


 そこだけは、ほんの少し引っかかった。


 あれが本当に組織の人間なら、もう少し周囲が厚くてもいいはずだ。なのに実際は、外で動いているのは数名。しかも、あくまで橘美和の帰路に合わせたような薄い護り方だ。中心をあの男ひとりへ寄せすぎている。


 だが、そこで思考を止める理由はない。


「まあいい」


 志藤の表情が、すっと冷える。


「あの男を潰せば、状況は良くなるだろうしな」


 それは確信に近かった。


 灯紗希は邪魔だが、まだ個人だ。


 だがあの男は違う。場の見方も、反応の仕方も、こちらの気配の拾い方も、すでに厄介な枠に入っている。


「殺すのはまずいからな」


 ここだけ、口調が妙に静かになる。


「“しゃべれなく”なってもらうくらいが、ちょうどいい」


 口は、使えなければ黙る。

 声は、出なければ残せる。


 それだけの話だった。


 口を奪う怪異に触れた人間が、口を使えなくなる。声が出なくなる。発声が崩れる。


 事故でも、症状でも、恐怖の延長でも、見ようと思えばいくらでも見える。


 死体は面倒だ。

 黙る口の方が、ずっと扱いやすい。

 だが、それでも順番はある。


「そして本命は、やはり灯紗希くんだな」


 その名を呼ぶ時だけ、志藤の声には妙な柔らかさが混ざる。


 さっき教室の中で聞こえた声。

 柔らかく、輪郭があって、余計なところで震えない声。


 ああいう声は、記録する価値がある。怯えさせれば、なお良い。歪ませれば、もっと良い。


「早くあの声を、あの口を……僕のものに」


 そこで一拍、止まる。

 自分で口にした言葉に、自分で気づいたみたいに。


「……いや」


 すぐに言い直す。


「“ひな”のものにしなければ」


 訂正したはずなのに、かえって本音の方だけが廊下に残った。

 志藤は扉の向こうを見たまま、ゆっくり息を吐く。


 血を嫌う。


 それは想定外だった。

 だが、だからどうした。


 血を持っているなら、持たせなければいい。


「一つでは足りない。囲め」


 低く、命じる。


「まずはあの男を押さえろ」


 物量でいい。


 一体断たれるなら、二体。二体断たれるなら、その倍。


 “ひな”は一つの輪郭に縛るものではない。口は散らせる。声は増やせる。数で押し潰せば、あの斧だっていつか間に合わなくなる。


「その隙に、足を払え」


 今度は、もっと静かに。


 灯紗希へ正面から寄れないなら、寄れないなりの方法で崩せばいい。


 転ばせる。落とさせる。手元から離させる。たったそれだけで十分だ。


「手から離れた瞬間だ」


 志藤の目が、細くなる。


「そのまま行け」


 血のついたものが手元から離れた瞬間、群れはもう迷わない。


 あとは口元へ行けばいい。


 あの子の声を、あの子の口を、今度こそ。


「灯紗希くんの口を、今度こそ」


 その言葉の終わりと同時に、空き教室の扉の下へ落ちていた影が、ぬめるように揺れた。

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