妹の友達がグラビアを始めたらしい。なぜか、しきりに感想を訊かれる
妹の友達に関して、兄が知ってはいけない情報というものがある。
たとえば、SNSの裏アカウント。たとえば、昔好きだった男。たとえば、大学でどんな顔をしているのか。たとえば――
「見て見て見て! お兄、これ!」
ある土曜の昼下がり、リビングのソファで寝転がっていた俺の顔面に、帰宅したばかりの妹・美古都が雑誌を叩きつけてきた。
「ぐえっ。何すんだよ」
「いいから見て。これ、やばいから」
「お前のテンションがやばいのはいつものことだろ」
「違うって! ほら、これ!」
乱暴に開かれたグラビア雑誌のページを見て、俺は三秒ほど停止した。
「……は?」
そこに載っていたのは、水色のビキニを着た女の子だった。
白い肌。細い肩。華奢な手首。控えめに伏せた視線。いかにも初々しくて、どこか緊張した笑顔。全体の雰囲気は清楚で、柔らかくて、大人しい。
そして、その印象を全部押し流しかねないほど、胸が大きかった。
水着の布地がどう見ても足りていない。細い身体に対して不釣り合いなくらい、丸くて重そうな存在感が前面に出ている。それなのに煽るような表情は一切なくて、余計に目のやり場に困る。
ページの端には小さく名前が載っていた。
白瀬あまね。
知っている名前だった。
というか、知りすぎている名前だった。
「……え、ちょっと待て」
「ね? やばくない?」
「いや、やばいの意味が違うだろ。これ」
思わず雑誌を閉じようとしたが、美古都に押さえ込まれた。
「ちょっ、ちゃんと見なって。初掲載だよ?」
「ちゃんと見ろって、お前……」
「別に減るもんじゃないでしょ」
「俺の理性が減る」
妹はけらけら笑った。
こいつはそういうやつだ。明るくて、遠慮がなくて、空気を読んでいるのか読んでいないのか分からない。金髪に近い茶髪を揺らしながら、ソファにどかっと座る姿は、兄として見慣れていても品があるとは言いがたい。
対して、彼女――白瀬甘音は、その真逆だった。
美古都の高校時代からの友達で、今もよく家に来る。うちに来ても自分から冷蔵庫を開けたりせず、リビングの隅っこで小さくなっているタイプ。服装も地味で、淡い色のカーディガンとか、ゆったりしたワンピースとか、体の線を隠すようなものばかりだった。
それでも隠しきれていなかったのは知っている。
知ってはいたが、知っているつもりでいただけだったのかもしれない。
「……これ、本人がやりたくてやってんのか」
「んー、スカウトきっかけって言ってた。でも最終的に決めたのは自分だって」
「そうか……」
「お兄、ちょっと顔赤くない?」
「うるせえ」
「うわ、意識してる」
「してない」
「してるじゃん」
「お前の友達だぞ」
「だから?」
「だから気まずいんだよ!」
叫んだところで、美古都はますます面白がるだけだった。
「でも甘音ちゃん、たぶんお兄の反応気にするよ」
「は?」
「気にするっていうか、たぶん訊いてくる」
「なんでだよ」
「なんでだろうねー」
そのときは、妹の適当なからかいだと思った。
まさか本当にその日の夜、本人から連絡が来るとは思わなかった。
***
白瀬甘音から個人的にメッセージが届いたのは、午後九時過ぎだった。
『こんばんは、遅くにすみません』
『今日、美古都ちゃんから聞いたかもしれないんですけど』
『あの、雑誌……見ましたか?』
見た。
見たが、そう素直に返していいものか迷う。
スマホの画面を前に五分くらい固まった末、当たり障りのない返事を打った。
『少しだけ』
送ってから、これでは見たのか見てないのか分からないなと思った。だが、向こうも似たようなものだった。
『そうなんですね』
『あの』
『どうでしたか』
どうでしたか、とは何だ。
コンビニの新作スイーツじゃないんだから。
いや、本人にとっては仕事の感想を訊いているだけなのかもしれない。だが、相手は俺だ。友達の兄だ。しかも誌面で見たあの水着姿の感想を求められて、平然としていられるほど俺は達観していない。
『似合ってたと思う』
我ながら情けないほど無難だった。
だが甘音から返ってきたのは、予想外に間の空いた後の一文だった。
『ありがとうございます』
『それだけですか?』
「……は?」
思わず声が出た。
それだけですか、とは。
普段の彼女からは想像できない追撃に、俺はソファで姿勢を正した。
『えっと、緊張してる感じはしたけど、雰囲気に合ってた』
『笑顔もよかったと思う』
しばらく既読がつかなかった。
変なことを言っただろうかと不安になり始めたころ、ようやく返事が来た。
『笑顔、ぎこちなかったですよね』
『自分でもそう思ってました』
『でも、よかったって言ってもらえて少し安心しました』
その一文のあとに、小さく照れたようなクマのスタンプが送られてきた。
俺はスマホを顔から離して、天井を見た。
「何なんだよ……」
意味が分からない。
けれど、その日から、白瀬甘音は毎回発売日に感想を訊いてくるようになった。
***
二回目はデジタル写真集だった。
もちろん俺は自分から買っていない。だが、美古都が「今だけセールだから」と意味不明な理屈をつけてタブレットを俺の目の前に置いた。
「いや、見せなくていいって」
「何で? 甘音ちゃん可愛いよ?」
「そういう問題じゃない」
「お兄って変なとこ真面目だよね」
「普通だ」
「普通の男はもっと嬉しそうだと思うけど」
「嬉しそうでも嫌だろ、それは」
「まあ確かに」
そう言いながら、美古都は容赦なくページをめくる。
前回より攻めたカットが増えていた。肩紐が細い。胸元が危うい。座った姿勢のせいで布の張り方が余計に危ない。それでも表情そのものはあくまで控えめで、だからこそ妙な背徳感があった。
「……なんで俺に見せるんだよ」
「だから、甘音ちゃんが気にするからだって」
「お前、本人に何か言ってないだろうな」
「言ってないよー。ただ、お兄がやたら挙動不審だとは言った」
「言ってんじゃねえか妹コラァ!」
その夜。
『今日の、もし見てたら感想お願いします』
もう隠す気もなく直球だった。
『見た』
『……どうでしたか』
『前より自然だった』
『笑ってないカットの方が似合ってた気がする』
送ってすぐ、やりすぎたかと思った。上から目線に見えるかもしれない。だが返ってきたのは、短くも意外な返事だった。
『本当ですか』
『それ、カメラマンさんにも少し言われました』
『先輩、ちゃんと見てるんですね』
心臓に悪い言い方をするな、と思った。
先輩。そう呼ばれるのも、地味に悪い。
高校時代からの流れで、甘音はずっと俺をそう呼ぶ。俺は大学を出て二年目の会社員で、美古都と甘音は二十歳。年は三つしか離れていないのに、彼女がそう呼ぶと妙に距離があるようで、逆に変に意識してしまう。
そのくせ、会えば相変わらず目を合わせるとすぐ逸らすし、リビングで二人きりになると気まずそうに「こんにちは」と小さく言うだけだ。
だったらメッセージであんなふうに感想を求めてくるなと言いたい。
いや、言えないが。
***
三回目の発売日は、うちで鉢合わせた。
日曜の夕方。休日出勤から戻った俺が玄関を開けると、ちょうど洗面所から出てきた甘音と目が合った。
「……あ」
細い肩がぴくっと震える。
相変わらず薄い色のカーディガンに、胸元の詰まったワンピース。いかにも大人しそうな格好なのに、柔らかな布の下に隠れているものを俺は知ってしまっている。知りたくなかった形で。
「お、お邪魔してます」
「……おう」
たったそれだけの会話なのに、視線の置き場に困る。
甘音は両手でスマホを持ったまま、少しためらうように立ち止まった。
「先輩」
「ん?」
「今日、その……」
言いかけて、彼女は耳まで赤くした。
そして、俺の後ろに誰もいないのを確認してから、消え入りそうな声で言った。
「もう、見ましたか……?」
たぶん今日配信の件だろう。
だが玄関で訊くことか、それを。
「いや、まだ」
「そ、そうですか」
露骨にしょんぼりするな。
「……見るよ」
「えっ」
「いや、別に、その、見たいって言ってるわけじゃなくて」
「見たくないんですか……?」
「その言い方やめろ!」
思わず声が大きくなった。
甘音は目を丸くしたあと、慌てて両手を振った。
「ち、違うんです、ごめんなさい、そういう意味じゃなくて」
「分かってる。分かってるけど」
「すみません……」
しゅんと肩を落とされると、こっちが悪いみたいになる。
結局その夜、俺は配信されたばかりのグラビアを見た。というか、見ないわけにいかなかった。
白いレースの衣装だった。水着というより下着に近い。ソファに座るカット、ベッドの端で膝を抱えるカット、カーディガンを羽織っているのに前が閉じていなくて何の意味も成していないカット。全体にやわらかい雰囲気なのに、どう見ても男を殺しに来ている。
こんなものを見た上で、家で会話しろというのか。
『すみません、今日の』
『どうでしたか』
やっぱり来た。
『似合ってた』
『前より表情が柔らかかった』
『あと』
『白っぽい衣装、雰囲気に合ってたと思う』
数分後、届いた返信は二つだけだった。
『よかった』
『先輩が白似合うって前に言ってくれたので』
俺はタブレットを閉じた。
そんな何気ない一言を覚えているのか。
いや、覚えているからどうしたという話ではないのだが、そういうことを積み重ねられると、見ないふりを続けるのが難しくなる。
***
甘音のグラビアは、少しずつ評判になっていった。
SNSのフォロワーも増え、雑誌の掲載も安定してくる。美古都が得意げに「甘音ちゃん、今度表紙候補なんだって」と教えてきたとき、俺はなぜか少しだけ誇らしかった。身内でも何でもないのに。
「で、感想係としてはどう?」
「感想係って何だよ」
「毎回訊かれてるんでしょ」
「何で知ってんだ」
「甘音ちゃん、分かりやすいもん」
「お前がいちいち探ってんじゃないのか」
「探ってないって。ていうか、お兄もまんざらじゃないでしょ」
「何がだ」
「甘音ちゃんに頼られてるの」
美古都はニヤニヤ笑った。
「別に。感想訊かれてるだけだ」
「その言い方、逆に意識してるやつ」
「お前さ」
「でも甘音ちゃん、他の人の感想はそんな気にしてないっぽいよ」
「……は?」
「だってさ、SNSで褒められても『ありがとうございます』で終わりなのに、お兄には『どうでしたか』って毎回訊くんだもん」
「お前、ほんと余計な情報だけ持ってくるな」
「ありがたく思いなよ。兄の鈍感を補助してあげてるんだから」
鈍感と言われる筋合いはない。
ないのだが、否定もできないのが腹立たしい。
俺は、甘音が可愛いことくらい知っている。大人しくて、どこか挙動不審で、オタク趣味の話になると急に早口になるところも知っている。昔からうちの本棚の前で立ち止まって、俺の漫画を借りるときだけ少し目を輝かせるのも見てきた。
だがそれとこれとは別の話だと思っていた。
妹の友達で、少し年下で、家に出入りする相手で。そういう「カテゴリ」に押し込んでおけば平和だったのだ。
そこに水着だのグラビアだの、本人からの感想催促だのが混ざってくるからおかしくなる。
そして何より困るのは、最近の甘音が少しだけ変わったことだった。
以前より、俺に話しかけるようになった。
といっても劇的なものではない。リビングで会えば「お仕事お疲れさまです」と言うとか、俺がコーヒーを入れていると「わ、私も飲みたいです」と言うとか、その程度だ。だが、その程度の変化が妙に目につく。
この前など、漫画を返しに来たときにソファの端へ座った彼女が、しばらくもじもじしたあと、小さく言った。
「次の撮影、少し不安で……」
「何が?」
「その、ポーズとか、表情とか……。私、どうしても、緊張すると肩に力が入っちゃって」
「そうか」
「だから、また感想、お願いします」
そこで普通に頷けばよかったのに、俺は余計なことを言ってしまった。
「俺でいいのか」
甘音はきょとんとしたあと、少しだけ眉を下げた。
「……先輩がいいんです」
その言い方は反則だろう。
***
問題の日は、雨だった。
金曜の夜。美古都は友達と出かけていて帰りが遅いと言っていた。俺は仕事を終えてまっすぐ帰宅し、シャワーを浴びて、自室でだらだら動画を見ていた。
インターホンが鳴ったのは九時前だ。
こんな時間に誰だと思って玄関を開けると、そこにいたのは甘音だった。
ベージュのトレンチコート。濡れた髪。肩に小さなバッグ。傘を畳んだばかりなのか、指先にまだ水滴が残っている。
「……白瀬?」
「すみません、急に」
「いや、別にいいけど。美古都ならまだ帰ってないぞ」
「知ってます」
知ってます、で心臓が一回跳ねた。
「えっと、じゃあ何か……用か?」
「はい。先輩に、ちょっと相談があって」
その声音が妙に真剣だったので、俺はひとまず彼女を中へ入れた。
美古都がいない家に甘音が一人で来るのは初めてではない。だが、今までは何かを届けるとか、忘れ物を取りに来たとか、明確な用事があった。今日は何となく違う空気があった。
リビングに通してタオルを渡すと、甘音は恐縮しながら髪を拭いた。濡れた前髪の隙間から見える耳まで赤い。
「コーヒーでいいか」
「……はい」
カップを二つ用意して向かいに座ると、彼女はしばらく膝の上で指を組んでいた。
「それで、相談って?」
「その……次の撮影のことなんです」
「うん」
「少し、難しいポーズがあって」
「難しいポーズ」
「はい。今までより、ちゃんと身体のラインを見せる感じの……」
言いながら、自分で言葉に詰まっていく。
俺は嫌な予感を覚え始めた。
「それで?」
「練習したいんですけど、一人だとよく分からなくて」
「……スタッフに相談すればいいんじゃないのか」
「現場だと、訊きにくくて」
「カメラマンとか、女性スタッフとか、いるだろ」
「います。でも」
甘音はそこで視線を伏せた。
「先輩の方が、ちゃんと見てくれるから」
思考が止まった。
ちゃんと見てくれる、というのは褒め言葉ではないはずなのに、今この場でその台詞は危険すぎる。
「だから、その……少しだけ、見てもらえませんか」
「少しだけ、って」
喉が乾く。
甘音は一度だけ深く息を吸った。
そして、震える声で言った。
「服の下、もう着てます」
終わった、と思った。
いや何が終わったのか自分でもよく分からないが、とにかく終わったと思った。
「……白瀬」
「嫌だったら、すぐ帰ります」
「そういう問題じゃなくて」
「やっぱり、変ですか」
「変っていうか、お前、分かってるのか」
「分かってます」
珍しく、彼女ははっきり言った。
「こんなこと頼むの、おかしいって。でも、先輩にお願いしたかったんです」
静かな声だった。
からかいでも挑発でもない。本気で困っていて、本気で俺を頼ってきているのが分かる声だった。
だからこそ困る。
「……何で俺なんだ」
「先輩が、最初にちゃんと感想をくれたからです」
「感想?」
「はい。似合うとかだけじゃなくて、笑顔のこととか、白が合うとか、肩に力が入ってる感じとか。ちゃんと見てくれてたので」
そこで彼女は、膝の上の手をぎゅっと握った。
「それに、先輩は……変に見ないから」
「それ、今は全然褒め言葉じゃないぞ」
思わず言うと、甘音は少しだけ笑った。
その笑い方が、誌面で見る作った笑顔よりよほど自然で、余計にまずかった。
「……今は、ちょっと見てほしいです」
ずるい。
そんなふうに言われて、断れる男がどれだけいるんだ。
俺は額を押さえたまま、長く息を吐いた。
「五分だけだぞ」
「……はい」
「あと、無理だと思ったらすぐやめる」
「はい」
「それから」
「はい」
「俺を信用しすぎるな」
甘音は一瞬きょとんとして、それから耳まで真っ赤になった。
「……すみません」
「謝るな。余計に困る」
***
彼女は洗面所を借りたいと言って立ち上がった。
その背中を見送ってから、俺は両手で顔を覆った。
「何してんだ俺……」
冷静に考えろ。
相手は妹の友達だ。二十歳。成人。違法ではない。そういう問題ではない。しかも向こうは仕事の相談として来ている。俺が勝手に意識しているだけだ。
分かっている。
分かっているが、服の下にもう着てます、は反則だろう。
数分後、洗面所の扉が開く音がした。
俺は見るなと自分に言い聞かせたが、音だけで緊張が増すのはどうしようもない。
「……先輩」
呼ばれて、顔を上げた。
そこに立っていた甘音を見て、今度こそ言葉を失った。
最初に見た、あの水色のビキニだった。
雑誌の誌面で見たときと同じはずなのに、目の前に立たれると破壊力が違う。光の加減もポーズも演出もない、ただのリビングだ。それなのに、いや、だからこそ危ない。
ゆるいカーディガンもワンピースもなくなった細い身体は想像以上に華奢で、その分だけ胸の大きさがどう見てもおかしい。布地は最小限で、丸みを押さえ込むことに失敗している。白い腹、細い腰、震えている太もも。恥ずかしいのか、肩が少しすくんでいるのが分かる。
そして一番まずいのは、それが雑誌の中の誰かではなく、白瀬甘音その人だということだった。
「……同じの、です」
「最初に、先輩が感想くれたときの」
「分かる」
「これ、次の特集で別カットも撮るみたいで。それで、前より自然にできたらいいなって」
そう言いながら、彼女は視線を泳がせた。
「……変、ですか」
「変じゃない」
即答してから、自分で驚く。
「えっ」
「いや、その、仕事として着るなら変じゃない。似合ってる」
甘音は目を瞬かせ、それからほんの少しだけ口元を緩めた。
「……ありがとうございます」
そんな顔をするな。本当に。
「で、どうすればいい」
「あ、えっと……スマホで、少しだけ撮ってもらえたら。確認したいので」
「俺のスマホで?」
「嫌なら私のでも」
「いや、どっちでも同じだろ」
同じじゃない気もしたが考えないことにした。
俺はテーブルの上のスマホを手に取る。指が少し汗ばんでいる。ロックを解除し、カメラを起動するだけで妙に時間がかかった。
「ど、どこで撮れば」
「このへんで……」
甘音がリビングの窓際へ立つ。照明の下より、そちらの方が少し柔らかく見えるのかもしれない。そんなことを考えている自分が嫌だ。
「じゃあ、まず普通に立って」
「はい」
ぎこちない。
本人も分かっているのだろう。手の位置が定まらない。肩に力が入っている。視線が落ちる。
「もっと楽にした方がいい」
「ら、楽に……」
「いや、俺が言うのも変だけど」
「いえ。すみません、ちょっと緊張して」
「それはだろうな」
苦笑すると、甘音も少しだけ笑った。
その一瞬を、反射的に撮ってしまった。
「……あ」
「ごめん、今の」
「いえ……」
俺は画面を見て、息を止めた。
自然だった。
少なくとも、俺が今まで見てきた誌面のどのカットより、今の方が彼女らしく見えた。
「今の、いいかも」
「えっ、本当ですか」
「うん。笑おうとしてない方が自然」
そう言うと、甘音は驚いたように目を丸くしたあと、少しだけ嬉しそうにした。
「……じゃあ、もう少し頑張ってみます」
そこから数分、俺は言われるままに何枚か撮った。
正面。少し斜め。ソファに腰かける。肩を引く。視線を外す。膝を揃える。誌面で見たようなポーズもあれば、途中で無理だと諦めるものもある。
そのたびに俺はできるだけ事務的に感想を言った。
「それ、胸元ばっかり気になるから表情死んでる」
「は、はい……」
「こっちはいい。肩の力抜けてる」
「本当ですか」
「その座り方は危ない。いや、いろんな意味で」
「……すみません」
赤くなって俯く彼女を見て、こっちまで頭が熱くなる。
撮影といっても五分か十分のはずだった。だが、彼女が途中で「前に先輩が白が似合うって言ってくれたから、この色少し好きになれました」とか、「笑顔より普通の顔の方がいいって言ってくれたの、覚えてたので」とか言うから、時間の感覚がおかしくなる。
お前、そんなに俺の言葉を覚えていたのか。
「先輩」
「……ん?」
ソファの背に手を置いて、少し身体を捻った姿勢のまま、甘音がこちらを見る。
「こういうの、どうですか」
かなり危なかった。
胸のラインが強調されているとか、脚の角度がどうとか、そういう以前に、恥ずかしいのを我慢して「どうですか」と訊いてくる表情が危ない。
俺はカメラを下ろした。
「もうやめとくか」
「え」
「これ以上は、たぶん俺が無理」
沈黙。
次の瞬間、甘音の顔が一気に赤くなった。
「ご、ごめんなさい!」
「違う、そうじゃなくて」
「やっぱり変でしたよね」
「変じゃない。むしろ逆だ」
口にしてから、しまったと思った。
だがもう遅い。甘音は固まったまま、こちらを見ている。
「……逆、って」
「お前、それ分かってないだろ」
「な、何がですか」
「そんな格好で、そんな顔で、『どうですか』とか言われて、平気でいられるわけないだろ」
言ってしまった。
終わった。
いや、今度こそ本当に終わった気がした。
だが甘音は逃げなかった。驚いたように目を見開いて、それから唇をきゅっと結んだ。
「……先輩」
「悪い。忘れてくれ」
「忘れません」
即答だった。
「え?」
「忘れません。だって、やっと本当のこと言ってくれたので」
何だそれは。
混乱する俺を前に、甘音はおそるおそる一歩だけ近づいた。
「私、ずっと怖かったんです」
「何が」
「先輩の感想」
彼女は視線を落とし、かすかに震える声で続けた。
「他の人が褒めてくれても、あんまり実感なくて。でも先輩が『似合ってる』って言ってくれるのは、すごく嬉しくて。逆に、何も言ってもらえなかったら嫌だなって、ずっと思ってました」
「白瀬……」
「毎回訊いてたのも、先輩だけです」
そこで彼女はちらっと俺を見る。
「こんなの、先輩以外に頼むわけないじゃないですか」
心臓に悪いを通り越して、もはや暴力だった。
俺はしばらく言葉が出なかった。出したところで何を言えばいいのか分からなかった。
その沈黙の間に、甘音はようやく我に返ったらしく、わたわたと後ずさった。
「す、すみません。変なこと言いました。着替えてきます」
「あ、待て」
反射的に呼び止める。
彼女が振り向く。水色の肩紐が小さく揺れた。
「写真」
「え?」
「確認するんだろ」
「あ……」
俺はスマホを差し出した。
「どれがいいか、一緒に見るか」
甘音は数秒迷ったあと、そろそろと近づいてきた。
隣に座られるだけで落ち着かない。さっきまでリビングの真ん中で水着姿だった人間が、今こうして肩の触れそうな距離にいるのだから当然だ。
画面をスワイプすると、撮った写真が並ぶ。
初めの数枚は硬い。途中から少しずつ力が抜けてくる。最後の方は、本人も気づいていないような自然な表情が増えていた。
「……これ」
甘音が指したのは、最初に偶然撮れた、少し笑いかけた横顔だった。
「これが一番、好きかもです」
「俺もそれ」
「やっぱりですか」
彼女は小さく笑った。
「先輩、こういう顔好きですよね」
「お前な」
「毎回なんとなく分かってきました」
完全に読まれている。
「じゃあ、次からもっとそういう感じで撮ればいいんじゃないか」
「次から、ですか」
「仕事の話だろ」
「……そうですね」
甘音は少しだけ意地悪そうに目を細めた。
「でも、できれば次も先輩に最初に見てほしいです」
「毎回それ言うな」
「嫌ですか」
「嫌じゃないから困ってるんだよ」
ぽろっと本音が出た。
甘音は数秒黙ったあと、耳まで赤くして俯いた。
「……じゃあ」
「ん?」
「今度は発売日じゃなくて、その場で感想ください」
あまりにも小さな声だったので、訊き返しそうになった。
だが彼女は自分で恥ずかしくなったのか、慌てて立ち上がった。
「き、着替えてきます」
「お、おう」
洗面所へ逃げるように消えた背中を見送って、俺はソファに深く沈み込んだ。
もう何も考えられない。
数分後、ちゃんと服を着た甘音が戻ってきたころには、ようやく呼吸が整っていた。
「……遅くまで、すみませんでした」
「いや。練習になったならよかった」
「はい。すごく」
彼女はバッグを持ち直し、玄関へ向かう。俺もなんとなく後ろについていった。
靴を履きながら、甘音はちらりとこちらを見上げた。
「先輩」
「何だ」
「今日の感想、まだちゃんともらってません」
「まだ言うのか」
「だって大事なので」
俺は参ったように頭をかいた。
そして、できるだけ誤魔化さずに言った。
「……雑誌で見るより、ずっとよかった」
「え」
「頑張ってるのも分かったし、似合ってたし、可愛かった」
言っていて死にたくなる。
だが甘音は逃げなかった。
驚いたように目を見開き、それから、今まで見たどの笑顔より柔らかく笑った。
「……ありがとうございます」
「それで満足か」
「少しだけ」
「少しかよ」
「残りは、次の発売日に訊きます」
「勘弁してくれ」
「やです」
そんなふうに即答するタイプだったか、お前は。
俺が呆れていると、甘音は玄関のドアを開けかけて、ふと思い出したように振り向いた。
「あと、その……」
「ん?」
「今日の写真、一枚だけ送ってもらってもいいですか」
「どれを」
「先輩が一番いいって言ったやつ」
「……分かった」
「お守りにします」
「何のお守りだよ」
「内緒です」
そう言って、彼女は雨上がりの夜へ出ていった。
ドアが閉まってから、俺はその場でしばらく動けなかった。
スマホには、さっき撮った写真が残っている。
最初に撮れた、少し笑った横顔。水色のビキニ。やわらかな光。恥ずかしさと緊張の中で、それでもこちらを信じようとしている顔。
とりあえず、その一枚だけを彼女に送った。
数秒後、すぐに返信が来る。
『ありがとうございます』
『次はもっと上手くなります』
そのあと、少し間を置いてもう一通。
『だから』
『ちゃんと見ててくださいね』
俺はスマホを伏せて、天井を見上げた。
終わった。
いろんな意味で、もう終わった。
たぶん次の発売日にも、俺は感想を訊かれる。
たぶんそのたびに、見ないふりをして、結局ちゃんと見てしまう。
たぶん白瀬甘音は、そうやって少しずつ俺を追い詰めてくる。
そしてたぶん、俺はそれを嫌だとは思わない。
リビングには、彼女が座っていたソファのくぼみがまだ残っていた。
尚、公式プロフィールによれば――『白瀬あまね』はHカップであるという。
これもまた、妹の友達に関して、兄が知ってはいけない情報だ。
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