第9章 秋風のころ
ひまわりが俯いている
花が終わっても
茎はまっすぐだった
種のひとつひとつに
夏がしまってある
手のひらに乗せたら
小さいのに、重かった
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九月。温室に差し込む光が、変わっていた。
夏の強い日差しではなく、柔らかく、どこか淡い光。ガラス越しに見える空が高くなって、雲が薄く広がっている。
開け放した窓から、涼しい風が入ってきた。温室の中の空気をゆっくりとかき混ぜて、花の匂いを運んでくる。
「ひまわり、大きくなったね」
小春は、背の高くなったひまわりを見上げた。春に蒔いた種が、夏の間にこんなに立派になっている。
「もう少ししたら、種が取れるよ」
柚葉が言った。ひまわりの茎をそっと撫でながら。
「種を取って、また来年蒔くの」
「命のリレー、みたいですね」
小春が言うと、柚葉は嬉しそうに頷いた。
「そう。こうやって種を繋いで、来年もまたここで咲いてくれるんだよ」
ひまわりの花びらは、少し元気をなくしていた。夏の盛りを過ぎて、種をつける準備を始めている。季節が、静かに移ろっている証拠だ。
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「ねえ、文化祭の話、聞いた?」
凛が、温室に入ってきながら言った。少し息が弾んでいる。
「文化祭?」
「十一月にあるでしょ。うちの部も、何かやらないとって」
「去年は花の展示と、押し花のしおり作り体験だったよね」
柚葉が言った。
「今年はどうする? 同じでもいいけど」
凛が聞いた。
「せっかくだから、何か新しいことしたいな」
柚葉が少し考え込んだ。
「フラワーアレンジメントとか?」
詩が提案した。いつの間にか、温室の奥で本を読んでいたらしい。
「ああ、それいいかも」
凛が身を乗り出した。
「小さいブーケを作る体験。来てくれた人に、持って帰ってもらうの」
「いいですね!」
小春が目を輝かせた。
「じゃあ、材料を揃えないとね」
柚葉が頷いた。
「花材とか、リボンとか、包装紙とか。買い出しに行かないと」
「……けっこう量がありそうですね」
真白が言った。
「うん。でも、二人いれば十分運べると思う。今週の土曜日、誰か一緒に行ける人いる?」
凛が、スマホを確認した。
「あたし、土曜はバイトだ」
「私も、土曜は予定があって」
詩が、静かに言った。
「わたしは家族のお出かけが……すみません」
小春が、申し訳なさそうに手を合わせた。
「……私は、行けます」
真白が、小さく手を挙げた。自分でも意外なほど、すんなり声が出た。他のみんなが行けないなら、自分が行くしかない。そう思ったのは本当だけれど、それだけじゃないことも、わかっていた。
柚葉が微笑んだ。
「ありがとう、真白ちゃん。じゃあ、二人で行こうね」
「……はい」
真白は、小さく頷いた。膝の上の手を、そっと握りしめた。
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買い出しの日。秋晴れの土曜日だった。
空が高く、空気が澄んでいる。
真白は、待ち合わせ場所の駅前で柚葉を待っていた。
今日は私服だ。白いブラウスに、紺色のスカート。シンプルだけど、何度も鏡の前で確認してきた。
「真白ちゃん、お待たせ」
柚葉が、小走りでやってきた。
クリーム色のワンピースに、薄いカーディガン。髪は、ゆるくまとめてある。
「かわいい……」
「え?」
「あ、いえ……その、服、かわいいなって」
「ありがと。真白ちゃんも、似合ってるよ」
「……ありがとうございます」
真白は、目を逸らした。心臓が、速くなっている。
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商店街に向かって歩く。
街路樹の緑が、夏より少しだけ淡くなっていた。風に揺れる葉の音も、どこか軽い。
「いい天気だね」
「……はい」
「こういう秋の日が、好きなんだ。空気が澄んでて、気持ちいいよね」
「……わかります」
真白は、隣を歩く柚葉をちらりと見た。秋の日差しが、柚葉の髪を柔らかく照らしている。
——きれいだな。
思って、すぐに視線を前に戻した。
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最初に、花屋に入った。
色とりどりの花が、店先に並んでいる。甘い香りが、鼻をくすぐった。
「フラワーアレンジメントに使う花、何がいいかな」
柚葉が、花を見ながら言った。
「……カーネーションとか、ガーベラとか。長持ちするものがいいと思います」
真白は、手近なカーネーションを一本手に取った。茎がしっかりしていて、指に心地よい弾力が伝わる。花びらの縁はフリルのように細かく波打って、触れるとかすかにひんやりとした。
「さすが真白ちゃん。ちゃんと考えてくれてる」
柚葉がガーベラを一本持ち上げた。つるりとした太い茎が、カーネーションとはまるで違う手触りだった。
「……当たり前です」
「あと、カスミソウも入れようよ」
「カスミソウ、好きです」
真白は、バケツに浸かったカスミソウにそっと指先を伸ばした。息をかけたら崩れてしまいそうなほど繊細な白い花が、指の動きにあわせてかすかに揺れる。
「知ってる。前に言ってたもんね」
柚葉が、ふっと笑った。
——覚えてくれてたんだ。
真白の胸が、きゅっとなった。何気ない一言なのに。この人は、いつもそうだ。さりげなく、相手のことを覚えている。
店主と相談しながら、文化祭当日の仕入れの予約をした。真白がメモを取り、柚葉が数量を確認する。
「真白ちゃん、メモありがとう。助かるよ」
「……これくらい」
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花屋を出て、次の店に向かう途中。
風が吹いた。夏とは違う、乾いた涼しさがある。
街路樹から、一枚の葉が舞い落ちてきた。柚葉が、その葉をそっと手で受け止めた。
まだ緑が濃いけれど、縁がほんの少しだけ色褪せている。
「……少し、変わり始めてますね」
「うん。まだ夏の名残があるけど、こうやって少しずつ秋になっていくんだよね」
柚葉は、それをベンチの上に静かに置いた。
「こういう、変わりかけが好きなんだ」
——変わりかけ。
真白は、その言葉を胸の中で繰り返した。
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リボンの店、包装紙の店を回った。
「これ、かわいいね」
柚葉が、小さな造花のパーツを手に取った。
「アレンジメントのアクセントに使えそう」
「……いいと思います」
「真白ちゃんは、何か気になるのある?」
真白は、店内を見回した。
白いレースのリボンが目に入った。繊細な模様が編み込まれている。指で触れると、細い糸の凹凸がかすかに指紋をくすぐった。薄いのに、引っ張っても簡単にはほつれなさそうなしっかりした織りだ。
「……これ」
「あ、きれいだね。真白ちゃんらしい」
「……そうですか?」
「うん。白くて、上品で。でも、ちゃんと芯がある感じ」
柚葉は、リボンを手に取った。光に透かすように見る。レースの隙間から、午後の日差しが小さな影の模様を柚葉の掌に落とした。
「これも買おうか」
「はい」
——白くて、上品で、芯がある。
柚葉がそう言ってくれたことが、嬉しかった。
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買い物がひと段落して、カフェに入った。
窓際の席。午後の日差しが、テーブルの上にやわらかい影を落としている。
「何飲む?」
「……アイスティーで」
「じゃあ、私はカフェラテにしよう」
注文して、飲み物が来るのを待つ間。柚葉が、窓の外を眺めていた。
「真白ちゃん」
「はい」
「園芸部に入ってくれて、本当によかったって思ってる」
「……突然ですね」
「ふふ、そうだね。でも、ずっと思ってたの」
飲み物が運ばれてきた。柚葉がカフェラテを一口飲んだ。カップから立ちのぼるミルクとコーヒーの香りが、テーブルの上でふわりと混ざる。ふっと表情がゆるんで、続けた。
「ね、真白ちゃんは、花を好きになったきっかけって何?」
「……園芸部に入ってからです。柚葉先輩が、水やりのこと、丁寧に教えてくれて」
「そっか」
柚葉は、少し遠い目をした。
「前に、おばあちゃんの庭の話、したでしょ」
「……はい」
真白は頷いた。入部して間もない頃、温室で聞いた話。花を見るとおばあちゃんのことを思い出す、と柚葉が言っていた。
「あの時は言わなかったんだけど、おばあちゃんがよく言ってたことがあって」
柚葉は、カフェラテのカップを両手で包んだ。
「『花はね、見てくれる人がいると、嬉しそうに咲くんだよ』って」
「……」
「子供だったから、そのまま信じちゃって。毎日花に話しかけてた。おはよう、きれいだねって」
柚葉が、少し照れたように笑った。
「今思うと恥ずかしいけど。でも、あの頃の気持ちが、ずっと残ってるんだと思う」
真白は、柚葉の話を黙って聞いていた。あの日聞いた話の、その奥にあったもの。温室で花に話しかける時の、あの柔らかい声の理由。全部、繋がった気がした。
「真白ちゃん、丁寧に花の世話をしてくれるでしょ。水やりの量とか、葉っぱの様子とか、ちゃんと見てくれてる」
「……当たり前のことです」
「ううん。当たり前じゃないよ。ちゃんとできる人って、意外と少ないんだ」
柚葉は、まっすぐ真白を見た。
「だから、ありがとうね」
真白は、テーブルの上のコースターを見つめた。
顔を上げられない。上げたら、きっと赤い顔を見られてしまう。
「……こちらこそ、ありがとうございます」
やっとそれだけ言った。
——好き。
この人のことが、好き。
おばあちゃんの庭のこと。花に話しかけていた小さな柚葉のこと。知らなかった一面を見せてもらえたことが、嬉しくて、切なくて、胸がいっぱいになった。
でも、言えない。言ったら、この関係が変わってしまうかもしれない。
真白は、アイスティーを一口飲んだ。レモンのかすかな酸味が舌に触れて、冷たさと一緒に喉を通っていった。甘さはほとんどない。今の気持ちに、ちょうどいい味だった。
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買い出しが終わって、駅に戻った。
日が傾いて、風が変わっていた。昼間の穏やかさとは違う、ひんやりとした空気が素肌をなでる。どこかでコオロギが鳴いている。夏の蝉とは違う、細く澄んだ声だった。
荷物を二人で分けて持っている。
「今日は、ありがとうね」
「……私の方こそ」
「楽しかった。真白ちゃんと買い物するの」
「……私も、楽しかったです」
真白は言った。自分でも驚くほど、素直に出てきた言葉だった。
柚葉が、嬉しそうに笑った。
「また、一緒に出かけようね」
「……はい」
「じゃあ、また月曜日に」
「さようなら」
柚葉は、反対方向のホームに向かっていった。
真白は、その後ろ姿を見送った。
クリーム色のワンピースが、人混みに消えていく。
——今日は、夢みたいだった。
柚葉と二人きりで、買い物をして、カフェでいろんな話をして。普通のことなのに、特別な一日だった。
真白は、買い物袋を持ち直した。
白いレースのリボン。「真白ちゃんらしい」と柚葉が言ってくれた。
——大事にしよう。
電車が来て、真白は乗り込んだ。
窓の外を流れる景色を見ながら、柚葉の言葉を思い返していた。
「花は、見てくれる人がいると、嬉しそうに咲くんだよ」
——私も、そうかもしれない。
柚葉先輩に見てもらえると、嬉しくなる。ちゃんとしようって、思える。
窓の外の空が、夕焼けに染まり始めていた。
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翌週の月曜日。温室で。
「買い出し、どうだった?」
凛が聞いた。
「ばっちりだよ。いろいろ揃えてきた」
柚葉が、買ってきたものを見せた。花材のカタログ、リボン、包装紙、造花のパーツ。
「おー、いい感じじゃん」
「真白ちゃんも、いろいろ選んでくれたんだよ。リボンとか、すごくいいの見つけてくれて」
「そうなんだ。真白ちゃん、センスいいね」
「……別に」
真白は、素っ気なく答えた。
小春が、真白の隣に来た。
「真白、土曜日どうだった?」
小声で聞いてくる。
「……普通」
「嘘。顔、赤いよ」
「……赤くない」
小春が、にやにやしている。真白は温室の棚に視線を逃がした。ガーベラの鉢が整然と並んでいる。花は何も言わないから、こういう時に助かる。
「赤い」
「……うるさい」
真白は、小春の方を向かずに答えた。
小春は、くすっと笑った。
「よかったね」
「……別に」
でも、真白の口元は、少しだけ緩んでいた。
「あ、そうだ。ほのか、すごく大きくなったんだよ」
「……ほのか?」
「お祭りの金魚。詩先輩が名前つけてくれた子」
「ああ……」
「毎朝、餌あげると寄ってくるの。かわいくて」
小春は嬉しそうに笑った。真白は、小春の横顔をちらりと見た。金魚の話をしているのに、詩先輩の名前を出す時だけ、声が少し弾んでいる。
——わかりやすいなあ。
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その日の帰り道。
詩と凛は、同じ方向だった。
並木道を歩く。まだ緑の葉が、夕日の光を透かしている。
「凛」
「なに」
「最近、何か考えてる?」
凛は、一瞬だけ足を止めた。
「……別に。何も」
「そう」
詩は、それ以上聞かなかった。
二人で、しばらく無言で歩いた。
落ち葉を踏む音だけが、規則的に響く。
「……柚葉と真白ちゃん、買い出し楽しそうだったね」
詩が、ぽつりと言った。
凛は、前を向いたまま答えた。
「そうだね。いい物揃えてきたし」
「うん」
また、沈黙。
凛は、自分でもわかっていた。柚葉と真白が二人で出かけたと聞いた時、胸がざわついたこと。でも、それを表に出すわけにはいかない。
「凛は、優しいね」
「は? 何急に」
「何でもない」
詩の目は、穏やかだった。でも、全部わかっているような気がした。
——詩には、隠せないんだよな。
凛は、心の中で呟いた。あの子は、人の気持ちに敏感すぎる。
「何かあったら、言ってね」
「……別に、何もないって」
「うん」
凛は歩き続けた。葉が一枚、肩に落ちた。
「……詩」
「なに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
詩は微笑んだ。凛は、照れくさそうに視線を逸らした。
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秋風が、温室のガラスを揺らした。
季節は確実に進んでいる。空が高くなり、日が短くなり、風が冷たくなっていく。
でも、温室の中は温かい。ガラス越しの日差しが、花たちを柔らかく照らしている。
文化祭まで、あと二ヶ月。
みんなで頑張る日々が、始まろうとしていた。
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柚葉の園芸ノート 9月20日(土)晴れ
ひまわりの種が取れそう。花びらが落ちて、花の中心が
ぎっしり詰まった種の円盤になっていた。
指で押すと、硬くて、ちゃんと実が入ってる感触。
この種を蒔いたら、来年もまた咲いてくれる。
命のリレー、って小春ちゃんが言ってた。いい言葉。
今週やること:
・ひまわりの種取り(しっかり乾燥させてから)
・マリーゴールドの花がら摘み
・スイートピーの種まき準備(土を深めに耕す)
・コスモスの支柱チェック(秋の台風に備えて)
文化祭でフラワーアレンジメント体験をやることになった。
今日は真白ちゃんと二人で買い出しに行った。
白いレースのリボンを見つけてくれて、すごくきれい。
カフェでいろいろ話した。おばあちゃんの庭の話も。
真白ちゃん、最初は緊張してたけど、
だんだん言葉が増えて、嬉しかった。
……秋の空気って、なんだか特別。
夏とは違う、静かなあたたかさがある。
帰り道、コオロギの声がした。もう秋なんだな。




