第4章 テスト前夜
## 一・芽吹き
五月。
温室の扉を開けると、四月とは違う空気が流れ込んできた。湿った土の匂いに、若い葉の青さが混じっている。窓から入る光が強くなって、棚の上の植物の影がくっきりと床に落ちていた。春から初夏へ、季節がゆっくりと移り変わる頃。
「見て見て!」
柚葉の声が、温室の奥から聞こえた。
小春と真白が近づくと、柚葉が小さな鉢を大事そうに抱えていた。土の表面から、双葉が顔を出している。薄い黄緑色の、ちいさな芽。
「マリーゴールドだよ。先月蒔いた種が、芽を出したの」
「わあ、かわいい」
小春が、鉢を覗き込んだ。双葉は、ハートにも見える丸い二枚の葉を、精一杯広げている。まだ茎は細くて、頼りなくて、指で触れたら折れてしまいそうだ。
「ひまわりとコスモスも、もうすぐ出ると思う」
「すごい。あの小さな種から……」
「ね。ちゃんと育ってる」
柚葉の目が、母親みたいに柔らかかった。芽を見つめる横顔に、窓から差し込む五月の光が当たっている。
真白は、マリーゴールドの双葉をじっと見ていた。
先月、自分の手で土に埋めた種。あの時は、黒くて固くて、こんなものから花が咲くのか半信半疑だった。でも、見えない土の中で根を伸ばして、今、光の方へ顔を出している。
——小さくても、ちゃんと生きてる。
「真白ちゃん、マリーゴールドの花言葉、覚えてる?」
柚葉が聞いた。
「……『変わらぬ愛』、ですか」
「そう。この子たちが咲く頃には、夏だね」
柚葉は、鉢を窓際の棚に丁寧に戻した。日当たりのいい、温かい場所。
---
「そういえば、中間テスト、来週だよね」
凛が、花壇の手入れをしながら言った。五月の午後の風が、温室の開いた窓から入ってきて、凛の黒い髪を揺らしている。
「やばい、全然わかんない」
小春は、水やりの手を止めて頭を抱えた。
「小春ちゃん、大丈夫?」
詩が、文庫本から顔を上げた。読みかけのページに、栞代わりの枯れ葉を挟んでいる。
「数学が……全然だめで」
「わかるよ。あたしも数学やばい」
凛が苦い顔をした。
「凛、去年も同じこと言ってなかった?」
柚葉が、くすっと笑った。
「うるさいな。今年はちゃんとやるって」
小春はため息をついた。ジョウロの水が、マリーゴールドの鉢の土にゆっくり沁み込んでいく。乾いた土が水を吸う時の、かすかな音。
「ねえ、勉強会しない?」
柚葉が、急に言った。
「勉強会?」
「うん。みんなで集まって、テスト勉強。一人でやるより、はかどるでしょ」
「いいね、それ」
凛がすぐに頷いた。
「私の家、来る? 土曜日、両親は仕事でいないし。広いテーブルあるから」
「いいの?」
「うん。お菓子も用意するよ」
小春の胸が、少しだけ軽くなった。みんなで勉強するなら、きっと頑張れる。
温室の窓から、五月の風が吹き込んだ。若葉の匂いと、マリーゴールドの鉢から立ち上る土の温かさが、ふわりと混じり合った。
---
## 二・柚葉の家
土曜日の午後。
住宅街の中にある、白い壁の一軒家。玄関のアプローチに、プランターが三つ並んでいた。パンジーの黄色と紫、ペチュニアのピンク。どれも手入れが行き届いていて、土の表面まできれいに整えられている。
「柚葉先輩らしい」
小春が言うと、隣の真白が小さく頷いた。
チャイムを押すと、すぐに柚葉が出てきた。
「いらっしゃい。上がって上がって」
靴を脱いで上がると、フローリングがひんやりと足の裏に触れた。廊下の先に、明るいリビングが見える。どこかから、フローラルな柔軟剤の匂いがふわりと漂ってきた。
リビングに通された。大きなテーブルの上に、お菓子と飲み物が並べてある。クッキーとチョコレート、切ったフルーツ。麦茶のピッチャーに結露がびっしりとついていた。
「凛と詩は、もう来てるよ」
凛と詩が、テーブルに陣取っていた。教科書とノートを広げている。
「遅いよ、二人とも」
「ごめんなさい、道に迷っちゃって」
「小春が迷ったの」
真白が、淡々と訂正した。
「真白!」
「事実でしょ」
凛が、くすくす笑った。
リビングの窓が開いていて、レースのカーテンが五月の風にふわりと膨らんでいる。窓の外に、庭の花壇が見えた。バラが一輪、咲き始めている。
---
勉強会が始まった。
それぞれ、苦手な科目の教科書を開く。小春は数学、凛も数学、詩は物理、柚葉は英語。真白は——すでに一年生の復習を終えているらしく、二年生の教科書を借りて予習していた。
「真白ちゃん、もう予習してるの?」
柚葉が、目を丸くした。
「……一年生の範囲は一通り終わったので。先に進めておくと、安心するんです」
「すごいなあ」
柚葉が感心したように真白の手元を覗き込んだ。柚葉の髪が、ふわりと真白の肩のすぐ近くまで来る。花みたいなシャンプーの匂い。
真白は、教科書のページを見つめたまま、少しだけ息を止めた。
---
「真白ちゃん、ちょっと教えてくれない?」
凛が、数学の教科書を持って近づいてきた。
「この問題、どうやって解くの?」
「……どれですか」
凛の指差す問題を見た。二次関数のグラフ。
真白は、鉛筆を手に取って、ノートの端に式を書き始めた。凛が、真白の隣にしゃがんで覗き込む。
「まず、ここで頂点の座標を出します。平方完成して——」
「平方完成……あー、あれか」
「x² + 4x + 3を、(x + 2)² - 1に変形します。括弧の中の数字は、xの係数の半分で——」
「ああ、そっか。半分にするんだ」
凛は、真剣にメモを取っている。鉛筆を走らせる音が、静かなリビングに響いた。
真白は、教えながら、不思議な感覚を抱いていた。
凛先輩。柚葉先輩の大切な人。園芸部で、いちばん長く一緒にいる人。柚葉先輩のことを話す時、凛先輩の目がいつも少しだけ柔らかくなることを、真白は知っている。
——この人も、きっと。
同じものを見つめている人は、なんとなくわかる。
「なるほど……そういうことか」
「わかりましたか?」
「うん、ありがと。真白ちゃん、教えるの上手だね」
「……そうですか」
「うん。柚葉より全然わかりやすい」
「ちょっと、凛」
柚葉が、英語の教科書から顔を上げた。頬をぷくっと膨らませている。
「だって、柚葉の説明、たまに飛躍するじゃん」
「そんなことない……と思いたい」
みんなが笑った。
---
二時間ほど勉強した後、休憩になった。
柚葉が麦茶を注いでくれた。ガラスのコップに注がれた麦茶は冷たくて、一口飲むと、冷たさが喉をすべり落ちていく。五月なのに、もう汗ばむような日だった。
凛のクッキーを、みんなで食べた。今日はココアクッキー。ほろ苦い甘さが口に広がる。さくっとした食感の後に、ココアの風味がふわっと残る。
「おいしい。凛先輩、お菓子作り上手ですね」
「まあね」
凛は素っ気なく言ったが、まんざらでもなさそうだった。
「柚葉先輩の家、すてきですね。お庭のお花もきれいだし」
「ありがとう。母がきれい好きで。家族みんな花が好きなの。妹はそうでもないんだけどね」
「妹さんがいるんですか?」
「うん。中学二年の、かえで。——あ」
柚葉が階段の方を見た。
「お姉ちゃん、うるさーい」
二階から声がした。かえで、と柚葉が呼ぶと、階段の途中から小柄な女の子が顔を覗かせた。柚葉に似た顔立ちで、髪はもう少し短い。
「勉強会してるの。ちょっとだけ顔出して」
「……どうも」
かえでは軽く手を振って、すぐに自分の部屋に戻っていった。
「ごめんね。人見知りなの」
「かわいい妹さんですね」
柚葉が嬉しそうに笑った。
「いいな、兄弟いて」
凛が、ぽつりと言った。クッキーをかじりながら、窓の外の庭を見ている。
「凛は一人っ子だもんね」
「うん。寂しくはないけど、たまに羨ましいと思う」
「私も一人っ子です」
詩が、穏やかに言った。
「真白ちゃんは?」
柚葉が聞いた。
「……姉がいます。でも、一人暮らしをしているので。普段は、父と二人です」
真白は、麦茶のコップに視線を落として答えた。声は静かだったけれど、平坦だった。それ以上は、何も言わなかった。
小春は、真白の横顔をちらりと見た。真白の家のことは、中学の頃から知っている。お母さんが亡くなったこと。お姉さんが家を出たこと。お父さんと二人で、ごはんを作って、洗濯をして、静かに暮らしていること。
——真白は、いつも一人で頑張ってる。
「小春ちゃんは?」
「わたしは、兄がいます。大学生で、今は一人暮らししてますけど」
「お兄さんかあ」
「たまに帰ってくると、うるさいです」
笑い声がリビングに広がった。午後の光が柔らかく差し込んでいる。
---
休憩が終わって、また勉強に戻った。
小春が数学の問題に向かっていると、詩が隣に座った。
「頑張ってるね」
「あ、詩先輩」
小春は顔を上げた。詩の穏やかな目が、すぐ近くにあった。
「数学、苦手なの?」
「はい……昔から」
「わかるよ。私も物理が苦手。得意なものと苦手なもの、誰にでもあるから」
詩は、小春のノートを覗き込んだ。しばらく、小春の書く式を見ていた。鉛筆の芯が紙をこする、かすかな音。
「字、かわいいね」
「え?」
「小春ちゃんの字。丸くて、かわいい」
小春は、急に顔が熱くなった。ノートの文字を見つめる。いつもの自分の字。丸くて、少し大きくて、真白に「子供の字みたい」と言われたこともある字。
「そ、そうですか?」
「うん。読みやすいし、人柄が出てる。いいと思う」
詩は、微笑んだ。目元が、ふわりと柔らかくなる。
小春の心臓が、とくん、と跳ねた。
——字を褒められただけなのに。
手のひらが、じわりと汗ばんだ。鉛筆を握る指に、力が入る。詩の視線が近い。
「あ、ありがとうございます……」
「頑張ってね」
詩はにっこり笑って、自分の席に戻っていった。
小春は、顔を伏せるようにしてノートに向かった。心臓が、まだどきどきしている。数式が、さっきよりちょっとだけ丁寧になっていた。
真白が、向かい側からその様子を見ていた。小春の頬が赤い。詩先輩が離れた後も、しばらく赤いまま。
——小春も、そうなんだ。
好きな人に褒められると、嬉しくて、頬が赤くなって、隠しきれない。
その気持ちは、真白にもわかった。
---
夕方になって、勉強会はお開きになった。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。テスト、頑張ろうね」
柚葉が、玄関まで見送ってくれた。プランターのパンジーが、夕日を浴びて、黄色い花びらの縁が金色に光っていた。
「またね」
「はい」
温かい声。温かい家。真白は、柚葉の家の門を出る時、一度だけ振り返った。玄関先に立つ柚葉が、手を振っている。
——覚えておこう。この景色。
---
## 三・テスト前夜
日曜日の夜。テスト前日。
小春は、自分の部屋の机に向かっていた。数学のノートと教科書を広げている。スタンドライトの光が、白いページの上に丸い影を落としていた。窓の外から、虫の声がかすかに聞こえてくる。五月の夜は、どこかやわらかい。
真白がまとめてくれたプリントを見ながら、公式を確認する。真白の字は几帳面で、小さくて、きっちりとした字。小春の丸い字とは正反対だ。でも、見やすい。真白は、昔から、人に教えるのが上手だった。
——二次関数。頂点の座標。平方完成。
「えーと、x² + 6x + 5を平方完成すると……(x + 3)² - 4。よし、合ってる」
声に出して確認した。教科書の解答と見比べる。合っていた。
ペンを置いて、背伸びをした。
ふと、詩先輩の顔が浮かんだ。
「字、かわいいね」
昨日の声が、耳の奥で蘇る。穏やかで、温かい声。詩先輩の目が、すぐ近くにあった。あの距離。
小春は、自分のノートの文字を見つめた。丸い字。子供っぽいかなと思っていたけど、詩先輩は「人柄が出てる」と言ってくれた。
——嬉しかった。
胸の奥が、ふわっと温かくなる。名前のつかない気持ち。でも、嫌じゃない。
——先輩の前で、恥ずかしい点数は取りたくないな。
小春は、もう一度教科書を開いた。もう少しだけ、頑張ろう。明日のために。
---
同じ夜。
真白は、自分の部屋にいた。
テスト勉強は、とっくに終わっていた。机の上に、きちんと揃えた教科書とノートが積んである。筆箱。消しゴム。替えの鉛筆。明日の準備は、いつも通り完璧だ。
真白は、椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。五月の夜空に、薄い雲がかかっている。星は、ほとんど見えない。
昨日の勉強会のことを、思い出していた。
柚葉先輩の家。花柄のカーテン。フローリングの冷たさ。柔軟剤の匂い。テーブルの上の麦茶の結露。柚葉先輩が教科書を覗き込んできた時の、近さ。
——柚葉先輩の日常の中に、少しだけ入れた気がした。
でも、同時に。
凛先輩に数学を教えた時。凛先輩が「ありがと」と笑って、柚葉先輩が「凛、去年も同じこと言ってなかった?」とからかって。あの二人の距離。何年もかけて育ててきた、当たり前の近さ。
自分には、それがない。
——でも。
窓辺の小さな棚に、ノートがある。柚葉先輩が教えてくれた花の名前。育て方のコツ。温室で過ごした日々の、小さな記録。
先月蒔いたマリーゴールドの芽が出た。あの双葉。小さくて、頼りなくて、でも、ちゃんと土を押し上げて出てきた。
——小さくても、育つ。
真白は、窓の外に目を戻した。雲の切れ間から、星がひとつ、光っていた。
テストは問題ない。でも、柚葉先輩のことになると——答えは出ない。
目を閉じた。まぶたの裏に、手を振る柚葉先輩が浮かぶ。玄関先の、夕日に照らされた笑顔。
——明日も、温室で会える。
それだけで、十分。今は。
---
## 四・五月の風
翌週。中間テストが終わった。
結果が返ってきた日、小春は数学の成績表を見て、思わず声を上げた。
「平均点! やったー!」
赤点回避。それどころか、平均点をしっかり取れていた。
放課後、温室で結果を報告すると、みんなが喜んでくれた。
「小春ちゃん、頑張ったね」
柚葉が、自分のことのように笑った。
「真白のおかげです。あと、勉強会のおかげで」
「真白ちゃん、いい先生だね」
凛が言った。凛の数学も、前回より上がったらしい。
「あたしも真白ちゃんに教えてもらったおかげ。ありがと」
「……いえ」
真白は、小さく首を振った。でも、耳の先がほんのりと赤い。
「また期末の前にもやろうね」
「はい!」
---
「みんな、マリーゴールド見て」
柚葉が、窓際の棚から鉢を持ってきた。
先週双葉だったマリーゴールドの芽が、少し伸びていた。茎がしっかりして、本葉が二枚、顔を出し始めている。ギザギザした、鮮やかな緑の葉。
「大きくなってる」
「うん。もうすぐ、外の花壇に植え替えられるよ」
柚葉は、鉢を日差しにかざした。午後の光が、若い葉を透かして、黄緑色に光っている。
「夏には花が咲くかな」
「きっと咲くよ。ちゃんと育ってるから」
みんなで、小さな芽を見つめた。テストが終わって、肩の力が抜けた午後。温室に、五月の風が吹き込んでいる。土と若葉の匂い。
---
帰り道。
小春と真白が、並んで歩いていた。
五月の夕暮れは、まだ明るい。空が薄いオレンジ色に染まり始めている。通学路の脇に、ツツジの生垣が続いていて、ピンクと白の花が夕日を浴びて光っていた。甘い、かすかな匂い。
「真白、勉強教えてくれてありがとう」
「……別に。いつものことでしょ」
「いつもだから、ありがとうなんだよ」
「……変なこと言わないで」
真白は、前を向いたまま歩いている。でも、歩調が少しだけゆっくりになった。
しばらく、靴音だけが響いた。
「ねえ、真白」
「なに」
「詩先輩に、字褒められた」
「知ってる。隣で聞いてた」
「あ、そうだった」
小春は、ちょっとだけ照れたように笑った。
「……嬉しかった」
「……そう」
真白は、黙って歩いていた。小春が詩先輩のことを嬉しそうに話すのを、隣で聞いている。
——小春も、少しずつ変わっていく。
マリーゴールドの芽みたいに。ゆっくり、でも確実に。知らないうちに、光の方へ伸びている。
「真白は、勉強会どうだった?」
「……楽しかった」
「よかった」
小春が笑った。
夕焼けの中、二人は家路についた。
五月の風が、背中をそっと押すように吹いていた。ツツジの花びらが一枚、風に飛ばされて、小春の足元に落ちた。
---
柚葉の園芸ノート 5月18日(土)晴れ
先月蒔いたマリーゴールドの芽が出た!
双葉がかわいい。ひまわりとコスモスも、もうすぐかな。
今日は家で勉強会をした。
みんなで同じテーブルに座って勉強するの、新鮮だった。
真白ちゃんが凛に数学を教えてて、すごくわかりやすそうだった。
凛、「柚葉より全然わかりやすい」って。ひどい。
……でも、ちょっとだけ、本当かも。
花壇のツツジが満開。マリーゴールドを植え替えるのが楽しみ。




