別編 詩の恋心
この物語は、本編を詩の視点から描いた別編です。
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> いつから
> あなたの声を探すようになっただろう
>
> 温室のドアが開く音
> 足音
> 「詩先輩」と呼ぶ声
>
> 私は観察者だったはずなのに
> いつの間にか
> 観察されている
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## 一・スミレ
私は、見ているのが好きだった。
人を観察して、その心の動きを想像する。園芸部の温室で、本を開きながら、誰かの会話を聞きながら、静かに見つめる。
柚葉は、誰にでも優しい。天然で、鈍感で、でもそれがいい。日差しの中で花に水をあげる姿は、まるで花そのもののようだ。
凛は、柚葉のことが好き。中学からずっと。本人は隠しているつもりだけど、見ていればわかる。凛が柚葉を見る目には、いつも特別な光が宿っている。
二人の関係を、私は静かに見守っている。凛が焼いてくるクッキーの味、柚葉の笑顔、その間にある言葉にならない想い。
いつか、凛の想いが届くといいな、と思いながら。
私は観察者だった。当事者ではなく。傍観者ではなく。ただ、静かに見守る人。
それが、私の居場所だと思っていた。
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## 二・マリーゴールド
四月。新学期。
温室の扉が開いて、春の空気が流れ込んできた。桜の花びらの香りがかすかに混じっている。
園芸部に、新入部員が入った。
藤宮小春と、月島真白。
「よろしくお願いします」
小春は、明るい子だった。花壇のチューリップを見て、目をきらきらさせて。温室の温かい空気に包まれて、にこにこ笑って、誰にでも話しかける。
ムードメーカーというやつだ。声が温室のガラスに反響して、やわらかく響く。
真白は、その正反対。クールで、無口で、何を考えているかわからない。でも、小春と一緒にいる時は、少しだけ表情が柔らかくなる。サボテンにそっと触れる指先が、繊細だった。
——面白い二人だな。
私は、そう思った。観察者として。
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「詩先輩、この花、なんて名前ですか?」
小春が、私に聞いてきた。花壇に咲く橙色の花を指さして。指先に、土の湿った匂いが残っている。
「これは、マリーゴールド」
「マリーゴールド……。きれいですね」
午後の日差しを受けて、花びらが金色に光っている。小春の瞳にも、その光が映っていた。
「花言葉は、『信頼』とか『友情』」
「へえ、素敵」
小春は、花に顔を近づけた。マリーゴールドの独特の香り——少し青臭くて、でもどこか懐かしい匂いが、二人の間に漂う。
「詩先輩、花のこと、詳しいんですね」
「少しだけ」
「すごい。わたしも覚えたいです」
「ゆっくり覚えればいいよ」
小春は、にっこり笑った。頬が少しだけ紅潮していて、温室の温度のせいなのか、運動の後なのか。
——かわいい子だな。
ふと、そう思った。観察者として。ただそれだけのはずだった。
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## 三・ローズマリー
小春は、よく私に話しかけてくる。
温室の隅、いつもの場所。パイプ椅子に座って、本を開いている私のところに。午後の静けさの中、小春の足音だけが近づいてくる。
「詩先輩、今日は何してるんですか?」
「本を読んでる」
ページをめくる音。古い文庫本の、かすかに黄ばんだ紙の匂い。
「何の本ですか?」
「詩集」
「詩先輩、詩が好きなんですね。名前と同じだ」
小春は作業台に腰を下ろした。ローズマリーの鉢植えを手に取って、葉を指でそっと撫でる。すっきりとしたハーブの香りが、温室の空気に広がった。
「……そうだね」
「わたし、詩ってよくわからないんですけど、詩先輩が読んでるなら、きっと素敵なんだろうなって思います」
小春は、屈託なく笑った。ローズマリーの枝を手のひらで転がしながら。
私は、少しだけ照れた。視線を本に戻して、意味もなくページをめくる。
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小春といると、不思議な気持ちになる。
いつも静かに観察している私が、観察される側になるような。
小春の視線を感じると、なんだか落ち着かない。指先でページの端を撫でる動作が、ぎこちなくなる。呼吸のリズムが、ほんの少しだけ速くなる。
——これは、なんだろう。
わからなかった。私は言葉を扱うのが得意なはずなのに、自分の感情を言語化できなかった。
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## 四・スイートピー
十一月。文化祭。
園芸部のブースは、大盛況だった。スイートピーの花束、ハーブの苗、手作りの押し花のしおり。来場者の歓声と、レジの音と、柚葉の明るい声。
片付けが終わって、温室で打ち上げ。
みんな疲れていた。凛が淹れた紅茶の湯気が、ガラスを曇らせている。バターの香ばしい匂いがして、誰かが持ってきたクッキーが皿に並んでいる。
「眠い……」
小春が、うとうとしていた。パイプ椅子に座ったまま、目を閉じて。
そして、私の肩にもたれかかってきた。
「……小春?」
返事はない。寝てしまったらしい。小さな寝息が、首筋にかかる。
私は、動けなくなった。
小春の温もりが、肩から伝わってくる。制服越しに感じる体温。少し汗ばんだ髪から、シャンプーの匂いがする。甘くて、優しい匂い。洋梨のような、花のような。
胸が、どきどきした。本を持つ手が、わずかに震える。
——これは、なんだろう。
また、同じ疑問が浮かんだ。でも今度は、もっと強く。もっと確かに。
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「詩、起こそうか?」
凛が聞いた。いたずらっぽい笑みを浮かべて。
「……いい。このまま」
「そう」
凛は、何も言わずに微笑んだ。わかってるよ、と言いたげに。
私は、小春が起きるまで、じっとしていた。
肩は少し痛かったけど、嫌じゃなかった。むしろ、もう少しこのままでいたい、と思った。小春の呼吸の音を、体温を、髪の匂いを、感じていたかった。
温室の窓ガラスに、夕焼けが映っている。オレンジ色の光が、植物の葉を照らして。静かな時間が、ゆっくりと流れていく。
私は本を閉じて、小春の寝顔を見た。
——かわいい。
観察者としてではなく。もっと違う、名前のわからない気持ちで。
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## 五・紫陽花
高校三年生になった。
最後の一年。温室の紫陽花が、青紫の花房をつけ始めた。梅雨の雨に濡れるたびに、色を深めていく。
私は、小春のことをよく考えるようになっていた。
授業中も、本を読んでいる時も、温室で花の手入れをしている時も。
小春の足音が聞こえると、手が止まる。扉の開く音で、小春だとわかる。足音のリズムで、今日の小春の気分がわかる。
小春と話すと、楽しい。どんな話でも、小春が話すと、世界が少しだけ明るくなる。
小春の笑顔を見ると、胸が温かくなる。いや、温かいだけじゃない。ざわざわして、切なくて、苦しくて。
——これは、恋なんだろうか。
観察者だった私が、当事者になっている。
凛の気持ちを見守っていた私が、同じ気持ちを抱えている。
皮肉なものだ、と思った。ずっと傍観者だった私が、いつの間にか物語の中に入り込んでいた。
でも、嫌じゃなかった。むしろ、この気持ちが愛おしかった。
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「詩」
凛が、話しかけてきた。紫陽花の花がら摘みをしながら。しっとりと湿った花びらの音が、静かに響く。
「なに」
「小春ちゃんのこと、好きでしょ」
手が止まった。本のページが、風にめくれる。
「……なんでわかるの」
「見てればわかる。詩、小春ちゃんといる時、顔が違う」
凛は、摘んだ紫陽花を一枝、私に差し出した。青紫の丸い花房が、指先に触れる。やわらかな質感。
「……そう」
「言わないの?」
「……わからない」
凛は、少しだけ笑った。雨上がりの紫陽花の香りが、二人の間に漂っている。
「詩らしいね」
「どういう意味」
「観察してるだけじゃ、何も変わらないよ」
凛の言葉が、胸に刺さった。紫陽花を持つ指先に、力が入る。
私は観察者だった。見ることに慣れていた。見られることには慣れていなかった。
でも、小春は私を見てくれている。私に話しかけてくれている。私の隣に座ってくれている。
観察者は、いつまで観察者のままでいられるのだろう。
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## 六・デイジー
小春の視線が、私に向いていることに気づいていた。
最初は、気のせいだと思った。私が意識しすぎているだけだと。
でも、違った。
小春は、私のことを見ている。花壇の白いデイジーに水をあげながら、時々こちらを見る。
私が本を読んでいる時も、花の手入れをしている時も。
その視線は、「先輩」を見る目とは違う。もっと、熱を帯びた目。真白や柚葉を見る時とは、違う温度。
——小春も、私のことを……?
そう思うと、胸がざわついた。期待と不安が、渦を巻いている。
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「詩先輩」
「なに」
デイジーの花がら摘みをしていた手を止めて、顔を上げる。小春が、私のすぐ隣に立っていた。
「詩先輩の書く詩、読んでみたいです」
白い花びらが、風に揺れている。小春の瞳が、まっすぐ私を見つめている。
「……恥ずかしいから、嫌」
「えー、残念」
小春は、しょんぼりした顔をした。頬を膨らませて、本当に残念そうに。その表情が、愛おしい。
「いつか、見せてくれますか?」
「……いつか、ね」
「約束ですよ」
小春は、にっこり笑った。デイジーの花のように、純粋で明るい笑顔。
私は、思わず目を逸らした。指先で、花びらに触れる。つるりとした質感。
その笑顔を見ていると、胸が苦しくなるから。好きという気持ちが、溢れそうになるから。
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## 七・カスミソウ
八月。最後の夏。
蝉の声が、温室のガラスを震わせている。暑い空気と、植物の緑の匂いと、冷たい麦茶の氷の音。
真白が、柚葉に告白した。
結果は、失恋。
私は、真白の様子を見守っていた。真白は泣かなかった。強い子だ。でも、その目には、言葉にならない痛みがあった。カスミソウの花言葉のように、控えめだけれど心からの感謝を伝えたい顔。
でも、辛いはずだ。同じ気持ちを抱えている人間には、わかる。
——私も、同じだ。
好きな人に、気持ちを伝えられない。
伝えて、拒絶されるのが怖い。これまでの関係が壊れるのが怖い。
でも、このまま何も言わずに卒業するのも、嫌だ。小春の笑顔を、ただ見ているだけで終わるのは。
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「詩」
凛が言った。温室の奥、作業台の前で。ハーブティーの香りが漂っている。
「後悔しないようにね」
凛の声は優しい。凛は、もう柚葉に想いを伝えている。その痛みも、勇気も、知っている。
「……うん」
私は、決心した。冷たいグラスを両手で包んで、氷の冷たさを感じながら。
小春に、気持ちを伝えよう。
観察者を降りよう。当事者になろう。
怖いけれど。でも、それ以上に、伝えたい。
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## 八・アジサイ
七月中旬。期末テストが終わった。
放課後、急に雨が降り出した。大粒の雨が、温室のガラスを叩く。激しい音。
温室で、みんなで雨宿りをした。雨音を聞きながら、お茶を飲んだ。紅茶の湯気が、ガラスを曇らせる。外の景色がぼんやりと滲んで見える。
「雨の日の温室も、いいよね」
柚葉先輩がそう言った。窓の外には、雨に濡れたアジサイが青く光っている。
私は、小春の横顔を見ていた。雨音に耳を傾けている、その表情。少し憂いを帯びて、でも美しくて。
——今日、伝えよう。
そう決めていた。もう迷わない。手のひらは少し湿っていて、心臓の音が耳に響く。
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しばらくして、雨がやんだ。
みんなで外に出ると、空に虹がかかっていた。アジサイの花が、雨粒をまとって、きらきらと光っている。濡れた土の匂い。新鮮な空気。
「きれい」
小春が、嬉しそうに言った。虹を見上げて、瞳を輝かせて。
その横顔を見て、私は決心した。今だ。今、言わなければ。
「小春ちゃん」
「はい?」
小春が振り向いた。私を見る。その瞳に、虹が映っている。
「ちょっと、話したいことがあるんだけど」
小春が、目を丸くした。雨上がりの空気の中、二人だけの時間。
「二人で、いい?」
「……はい」
小春の声が、少しだけ震えていた。わかっているのだろうか。私が何を言おうとしているのか。
私は、温室の裏手に向かって歩き出した。アジサイの花を横目に。足元の水たまりを避けながら。
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温室の裏。花壇の隅に、小さなベンチがある。
二人で、そこに座った。木製のベンチは、雨で少し濡れていて、ひんやりとしている。
「詩先輩、話って……」
「うん」
私は、深呼吸した。雨上がりの空気を、肺いっぱいに吸い込む。土の匂い、草の匂い、そしてほんのり甘い花の匂い。
観察者だった私が、当事者になる瞬間。
怖い。でも、逃げたくない。
指先が震える。でも、言葉を探す。私はずっと言葉と向き合ってきた。今こそ、本当の言葉を。
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## 九・マーガレット
温室の裏手の花壇に、白いマーガレットが咲いている。真実の愛を象徴する花。
小さなベンチに、二人で並んで座った。
「小春ちゃん」
「はい」
「『温室の午後』——あの詩に、『あなた』って出てくるでしょ」
小春ちゃんの目が、少しだけ大きくなった。
「小春ちゃんは、訊いたよね。『あなた』は誰ですか、って」
「……はい。詩先輩は、答えてくれませんでした」
「うん。答えられなかったの。その時は、まだ」
私は、少しだけ俯いた。指先がベンチの縁を掴んでいる。震えている。
それから、顔を上げた。
「あの詩の『あなた』は——小春ちゃんだよ」
「……」
「紫陽花の詩も。六月に書いた、あの詩も。全部、小春ちゃんへの気持ちを書いたの」
「詩先輩……」
「今まで、詩でしか書けなかった。自分の気持ちを、直接、言葉にするのが怖くて」
声が震えていた。でも、止めなかった。
「言葉にしたら、壊れてしまうかもしれないって、ずっと思ってた。小春ちゃんとの関係が。この温室での時間が」
「……」
「でも、言葉にしなかったら——小春ちゃんには、届かないまま消えてしまう」
目が、潤んでいるのがわかった。自分の目が。
「だから——」
小さく息を吸った。
「私、小春ちゃんのことが、好きです」
静かな声だった。でも、一文字ずつ、丁寧に、選び抜いた言葉を渡すように。
「友達としてじゃなくて。先輩としてでもなくて。——一人の人として」
小春ちゃんの目から、涙がこぼれた。頬を伝って、顎に落ちる。
「迷惑だったら、忘れてくれていい。今まで通りの関係でいい」
私は、かすかに微笑んだ。泣きそうな顔で、笑っていた。
「でも——どうしても、伝えたかったの。詩じゃなくて、私の言葉で」
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小春は、泣きながら首を振った。髪が揺れて、しずくが飛ぶ。
「迷惑なんかじゃないです」
「……」
私は息を呑んだ。心臓が、早鐘を打っている。
「わたしも、詩先輩のことが好きです」
世界が、止まった。
雨上がりの空気、虹の光、マーガレットの花、すべてが一瞬で色を増した。
「最初に会った時から、詩先輩のこと、気になってました。静かで、優しくて、何でも知ってて。憧れてました」
小春の声が震えている。私の声と同じように。
「……」
「でも、いつの間にか、憧れじゃなくなってました。詩先輩のこと、考えると、胸がどきどきして。これって、恋なんだって、気づきました」
小春は、涙を拭った。でも、次から次へと涙が溢れてくる。嬉しい涙。
「わたしも、詩先輩のことが好きです」
私は、小春の手を取った。冷たくて、でも温かくて、少し震えている手。
「……よかった」
「わたしも、よかったです」
二人で、見つめ合った。小春の瞳の中に、私が映っている。私の瞳の中に、小春が映っている。
虹が、まだ空にかかっていた。雨上がりの空に、七色の橋。
観察者だった私は、やっと当事者になれた。
見ているだけの人生から、生きる人生へ。
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## 十・スイートピー
みんなに報告した時、全員が祝福してくれた。
温室の中、紅茶とクッキーを囲んで。柚葉が淹れてくれた紅茶の香りが、幸せな空気を包んでいる。
「おめでとう」
「詩、よかったね」
「小春ちゃんも、おめでとう」
真白が、小さく微笑んだ。まだ失恋の痛みを抱えているはずなのに、私たちを祝福してくれる。
凛が、私に言った。スイートピーの花束を手に持って。ピンクと白と、薄紫。門出を祝う花。
「よかったね。当事者になれて」
「……ありがとう。凛のおかげ」
「あたしは何もしてないよ」
「背中を押してくれた」
凛は、照れくさそうに笑った。スイートピーの甘い香りが、温室に広がる。
「これ、詩たちに」
凛がスイートピーの花束を差し出した。私と小春は、二人でそれを受け取った。指先が触れ合う。温かい。
「ありがとう、凛先輩」
小春が言った。花束を抱いて、嬉しそうに。
私も小春も、この瞬間を忘れない。温室の温かさ、仲間たちの笑顔、スイートピーの香り。すべてが、宝物になる。
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卒業式の日。
桜の下で、小春と並んだ。満開の桜が、風に揺れている。花びらが舞って、私たちの髪に降りかかる。春の香り。
「詩先輩、卒業しちゃうんですね」
「うん」
小春の声が、少し寂しそうだ。でも、私たちの手は繋がれている。
「寂しいです」
「会えなくなるわけじゃないよ」
「……はい」
小春は、少しだけ泣きそうな顔をした。目元が潤んでいる。
私は、小春の頭を撫でた。柔らかい髪が、指の間を滑る。シャンプーの香り。
「大丈夫。ずっと、好きだから」
「……わたしも、ずっと好きです」
二人で、手を繋いだ。桜の花びらが、私たちを祝福するように舞っている。
観察者だった私は、恋をした。
静かに始まった恋は、きっとこれからも、静かに続いていく。でも、その静けさは孤独じゃない。二人で分かち合う、穏やかな静けさ。
陽だまりの庭で芽生えた想いは、いつまでも温かいまま。
紫陽花の花のように、雨に耐えて深く色づく、辛抱強い愛として。
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> 観察者の私は
> 気づかなかった
> 見ているつもりで
> 見られていたことを
>
> 言葉を待っていた
> 紫陽花のように
> けれど待つ時間の先に
> 自分から踏み出す勇気があった
>
> 今、小春の手を握って
> 私は当事者になった
> 物語の中に生きる人に
> これからを紡ぐ人に




