第24章 陽だまりの庭で
花は言葉を持たない
でも
ちゃんと伝えている
あなたのそばで咲きたいと
ただそれだけを
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## 一・三月の朝
三月十五日。
目が覚めた時、カーテンの向こうが明るかった。
真白はベッドの中で、しばらくその光を見つめていた。
——今日だ。
机の上に、二冊のノートがある。
一冊は、柚葉のノート。表紙が少し色褪せて、角が丸くなっている。三年分の記録が詰まったノート。
もう一冊は、真白のノート。こちらは一年分だけれど、柚葉のノートと同じくらい厚くなっていた。花のことだけじゃなくて、温室で過ごした日々のことも書いたから。
最後のページは、まだ白い。
——今日、書こう。最後の記録を。
真白は身支度を済ませて、二冊のノートを鞄に入れた。
制服に袖を通す。この制服を着るのも、今日で最後だ。
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「おはよう」
玄関を出ると、小春がいつもの角で待っていた。
桜が、咲いていた。
去年と同じ通学路。同じ並木道。同じ淡い桃色の花びらが、朝の風に揺れている。
「きれいだね」
小春が、桜を見上げて言った。
「去年も、こうだった」
「……うん」
真白も、見上げた。
中学一年生のころから、ずっとこの道を一緒に歩いてきた。入学式の朝も、テストの朝も、雨の日も晴れの日も。
何も言わなくても隣にいてくれる人。言葉が足りない自分の代わりに、いつも笑ってくれる人。
今日で、この道を歩くのは最後だ。
「真白」
「……なに」
「答辞、緊張してる?」
「……別に」
小春が笑った。
「『別に』は『ちょっと緊張してる』だよね」
「……うるさい」
小春は、真白の翻訳辞書を完璧に持っている。六年分の蓄積だ。
「大丈夫だよ。真白なら」
「……うん」
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校門が見えてきた。
桜並木が、校舎へと続いている。
その入口に、三人が立っていた。
「おはようございます!」
遥が手を振った。
「おはよう、遥ちゃん。早いね」
「今日は朝から準備があったので」
遥の隣で、美月が花束を両手で抱えていた。
温室で育てたスイートピーとフリージアを束ねた、淡い色の花束。ピンクと薄紫とクリーム色が、朝の光の中で柔らかく揺れている。
「きれい……」
小春が、目を丸くした。
「美月が色を選んで、陽菜が束ねました」
遥が説明した。
美月が、眼鏡の奥で少しだけ目を細めた。
「スイートピーの花言葉は、『門出』です」
静かな声だった。
「フリージアは『あどけなさ』。あと——」
「『友情』!」
陽菜が続けた。ポニーテールが朝風に揺れる。
「全部、先輩たちにぴったりだと思って」
「……ありがとう」
真白が花束を受け取った。スイートピーの甘い香りが、鼻をくすぐる。
「上手に束ねたね」
「陽菜ちゃん、花束作りうまくなったよね」
小春が言うと、陽菜が胸を張った。
「美月のおばあちゃんに教えてもらいました。生け花の技術で」
「おばあちゃんは生け花です。花束とは違います」
美月が訂正した。
「でも、バランスの考え方は同じだって言ってたじゃん」
「……それは、そうですけど」
二人のやりとりを見て、小春が笑った。真白も、少しだけ口元がゆるんだ。
——この子たちなら、大丈夫。
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温室に向かう途中、花壇の前を通った。
「あ」
小春が足を止めた。
花壇の土から、緑の芽が顔を出している。
チューリップの芽だ。
まだ五センチほどの、小さな芽。でも、しっかりと土を持ち上げて、光に向かって伸びている。
「去年と、同じだ」
真白が言った。
去年の卒業式の朝にも、チューリップの芽が出ていた。あの時は十センチほどだった。四月に咲いた時、柚葉に写真を送った。感嘆符だらけの返信が来た。
一昨年の三月にも、芽が出ていた。あの時はまだ一年生で、マルチングの下から顔を出した芽を見つけた柚葉が、「見て」と嬉しそうに笑った。
毎年、同じ場所から。毎年、同じように。
「この球根、去年の秋に植えたんです」
遥が言った。
「美月ちゃんと陽菜ちゃんと三人で」
「球根、大きかったよね。来年もきっときれいに咲きます」
陽菜が芽をそっと見つめた。
真白は、しゃがんで芽を観察した。葉の先端がわずかに開きかけている。
「あと二週間くらいかな」
「はい。四月の頭には咲くと思います」
遥が頷いた。
——私は、その花を見られない。
でも、この芽が花になるところを、遥たちが見届けてくれる。
それで、いい。
真白は立ち上がって、花壇に背を向けた。
「行こう」
「はい」
五人で、校舎に向かった。
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## 二・送辞と答辞
体育館に入ると、壇上の桜の装花が目に入った。左右に一対、桜の枝が活けてある。温室の花ではないけれど、春の香りが体育館いっぱいに広がっていた。
小春と真白は、卒業生の席に座った。
在校生の席に、遥と美月と陽菜が並んでいる。遥は送辞の原稿を膝の上に置いていた。
「緊張してる?」
小春が、隣の真白に小声で聞いた。
「……してない」
「わたしは、去年のこと思い出してる。送辞、途中で原稿見なくなっちゃったんだよね」
「……覚えてる」
「真白は——原稿、見る?」
真白は、胸ポケットに折りたたんだ答辞の紙に触れた。
「……たぶん」
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卒業証書の授与が終わり、送辞の時間になった。
遥が壇上に立った。
制服の襟元をそっと整えて、一度深呼吸をする。在校生の席で、美月が姿勢を正し、陽菜がぐっと拳を握っている。
遥は、原稿を広げた。
「——送辞」
声が、体育館に響いた。
「桜が咲く季節に、先輩方を見送る日が来ました」
一拍、間を置いた。
「去年の今日、私はこの場所で先輩方の隣に座っていました。まだ入部して一年もたたない、何もわからない後輩でした」
卒業生の席で、小春と真白が静かに聞いている。
「園芸部に入ったのは、温室の前で足を止めたことがきっかけでした。ガラス越しに見えた花が、きれいだったから。それだけの理由でした」
在校生の席のどこかで、微かな笑い声。
「水やりの仕方を教えてくれたのは、小春先輩でした。『ゆっくり、根元にね』と。そのあとに、『筋がいいよ』と笑ってくれたことを、今でも覚えています」
小春が、少しだけ目を伏せた。
「花がら摘みを教えてくれたのは、真白先輩でした。『終わったものを手放すのも、大切にすること』。その言葉の意味が、一年経った今、やっとわかります」
真白の手が、膝の上でわずかに動いた。
遥は、原稿から目を上げた。
「先輩方がいてくれたから、私は花が好きになりました。花だけじゃなくて——花を育てる人たちのことが、好きになりました」
体育館が、静かになった。
「温室は、花を育てる場所です。でも、私にとっては——自分自身の育て方を教えてもらった場所でもあります」
美月が、眼鏡の奥で静かに瞬きをした。陽菜が、唇を引き結んでいる。
「先輩方が育ててくれたこの場所を、私たちが守ります。花壇も、温室も、そこに集まる時間も——全部」
遥は、一度息を吸った。
「ご卒業、おめでとうございます。そして——ありがとうございました」
頭を下げた。
拍手が、体育館に広がった。
小春が、目元を押さえていた。
真白は、まっすぐ前を向いていた。
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答辞の時間になった。
真白が、壇上に立つ。
胸ポケットから紙を取り出して、広げた。
静かな体育館。たくさんの視線が、真白に向いている。
「——答辞」
声は、小さかった。でも、体育館の隅まで届いた。
「三年前の四月に、私はこの学校に入りました」
紙に目を落とす。
「園芸部に入ったのは、親友に誘われたからです。花のことは何も知りませんでした。温室に行ったら、先輩がお茶を淹れてくれました。少し、薄いお茶でした」
在校生の席のどこかで、小さな笑い声。真白の口元が、ほんの少しだけゆるんだ。
「先輩は、花のことを何でも知っていました。花の名前、育て方、季節のこと。全部、一冊のノートに書いてありました。そのノートを見せてもらった時——花を育てるって、こういうことなんだ、と思いました」
真白は、一度紙から目を上げた。
「私は、言葉にするのが得意ではありません」
少しの間。
「思っていることがあっても、うまく言えない。伝えたいことがあっても、言葉が見つからない。そういう性格でした。今も、あまり変わっていません」
小春が、隣の席で小さく頷いた。知っている。ずっと、隣で見てきた。
「でも——花が教えてくれました」
真白は、紙を見ずに言った。
「花は、言葉を持ちません。でも、ちゃんと伝えています。春になれば咲くこと。水をもらえば元気になること。隣に誰かがいれば、少しだけ長く咲くこと」
体育館が、しんとした。
「私も——そうありたいと思いました。言葉がなくても、伝わるものがある。一緒にいること。隣で花を育てること。お茶を淹れること。それだけでも、ちゃんと——伝わる」
紙を、たたんだ。
もう、原稿はいらなかった。
「三年間、ありがとうございました。温室で過ごした時間は——私の、いちばん大切な思い出です」
声が、少しだけ震えた。
「さよならは、言いません」
去年、柚葉先輩が壇上で言った言葉と同じ。でも、真白の声で。
「また、会いましょう。温室で」
頭を下げた。
長い拍手が、体育館に響いた。
在校生の席で、遥が目を押さえていた。美月が、そっとハンカチを差し出していた。陽菜は、泣きながら拍手していた。
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## 三・校庭の桜
式が終わって、校庭に出た。
桜の花びらが舞っている。三月の午後の、柔らかい光。空気がほんのり甘い。桜の匂いと、遠くの沈丁花の匂いが混ざっている。
「小春ちゃん!」
声がして、二人が振り向いた。
桜の木の下に、三人が立っていた。
詩。柚葉。凛。
「先輩!」
小春が駆け出した。
詩が、腕を広げた。小春が飛び込む。
「卒業おめでとう」
詩が、小春を抱きしめた。
「ありがとうございます。来てくれたんですね」
「もちろん。大切な日だから」
詩の髪が、少し伸びていた。大学生になって、髪を肩まで伸ばしたらしい。風に揺れるその髪が、小春の頬をかすめた。
「詩先輩、髪、伸ばしたんですね」
「大学だと自由だから」
「似合います」
詩が微笑んで、小春の手を取った。指が自然に絡む。当たり前のように。
「春から同じ大学だね」
「はい。やっと」
「待ってたよ」
「……わたしも、待ってました」
二人は、桜の下で手を繋いだまま笑い合った。
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「真白ちゃん」
柚葉が、近づいてきた。
一年間で、柚葉は少しだけ雰囲気が変わっていた。髪を少し短くして、大学生らしい落ち着きが加わっている。でも、笑顔は変わらない。三年前の入部の日に見た笑顔と、同じ温かさだった。
「卒業おめでとう」
「……ありがとうございます」
「答辞、聞いたよ。すごくよかった」
「……聞いてたんですか」
「体育館の後ろの方で。凛と詩ちゃんと三人で」
柚葉は、少しいたずらっぽく笑った。
「『花は言葉を持たない。でも、ちゃんと伝えている』——真白ちゃんらしかった」
「……」
真白は、言葉を探した。
「柚葉先輩の答辞を、思い出しながら書きました。『さよならは言いません』も」
「気づいたよ。嬉しかった」
凛が、柚葉の後ろから顔を出した。
「真白、答辞よかったよ。去年の柚葉のより泣けた」
「凛、それ比べるものじゃないでしょ」
「事実を言っただけ」
凛の手には、紙袋が下がっていた。
「これ。持ってきた」
中を覗くと、クッキーだった。花形のクッキーに、繊細なアイシングが施してある。桜の花びらの模様。ピンクのグラデーション。一枚一枚、色の濃さが少しずつ違う。
「きれい……」
小春が目を輝かせた。
「大学で習った技術。アイシングの試験課題のやつをアレンジした」
凛の耳が、わずかに赤い。
「凛先輩、すごい。お店みたい」
「……まだ学生だし」
柚葉が、凛の肩にそっと手を置いた。凛の耳が、もう少し赤くなった。
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「真白ちゃん」
柚葉が、改めて真白に向き合った。
「ノート、見せてもらってもいい?」
真白は鞄から自分のノートを取り出した。
「……はい」
柚葉が、真白のノートを受け取った。パラパラとページをめくる。
九月。コスモスの記録。十月。文化祭の準備。十一月。シクラメンの植え替え。十二月。クリスマスの温室。一月。パンジーの追肥。二月。チューリップの球根の状態確認。
「ちゃんと、毎月書いてある」
柚葉の声が、少し震えた。
「花のことだけじゃなくて——みんなのことも」
「……はい」
柚葉は、二月二十八日のページで手を止めた。
> 明日、卒業式の準備。花壇のチューリップに芽が出ていた。
> 去年も、一昨年も、同じ場所から芽が出た。
> この花壇を、私が最後に見るのは明日になる。
> でも、チューリップは四月に咲く。
> その花を見届けるのは、遥たちだ。
>
> 柚葉先輩が私にノートをくれた時、私はまだ何もわからなかった。
> 今もわからないことはたくさんある。でも、ひとつだけわかったことがある。
> 大切なものは、手渡していける。
柚葉が、ノートを閉じた。
目が、潤んでいた。
「……立派な部長だったね」
柚葉の手が、真白の頭に伸びた。
ぽん、と軽く触れて、そのまま優しく撫でた。
去年の引き継ぎの時と、同じ手。同じ温もり。
でも、真白の中にあるのは、もう痛みではなかった。
三年前、この手に触れられるだけで心臓が痛くなった。二年前、この笑顔を受け止められるようになった。一年前、「安心した」と言われて、やっと息ができるようになった。
今は——ただ、温かい。
「——ありがとうございます」
真白は、静かに目を閉じた。
柚葉の手の温もりが、三年間の全部を包んでくれているようだった。
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「写真、撮ろう!」
陽菜が、カメラを構えて走ってきた。
「全員で!」
八人が、桜の木の下に集まった。
柚葉、凛、詩、小春、真白、遥、美月、陽菜。
三つの世代。三年間の温室を繋いできた、八つの笑顔。
「誰が撮る?」
「私が撮りましょうか」
声がして振り向くと、夏希が立っていた。遥の姉。今はもう社会人になっている。
「姉ちゃん、来てくれたんだ」
「遥の送辞、聞きたかったからね。よかったよ」
夏希がスマホを構えた。
「はい、並んで。背の高い人、後ろ」
柚葉と凛と詩が後ろに。小春と真白と遥が真ん中に。美月と陽菜が前に。
「近い近い。もうちょっと寄って」
八人の肩が、ぎゅっと寄った。
「はい——」
桜の花びらが、ちょうどそのとき、風に舞った。
パシャ。
「いいの撮れた。花びら入ってる」
「見せて見せて!」
小春が駆け寄って、画面を覗き込んだ。
八つの笑顔。桜の花びら。午後の光。
「きれい……」
「もう一枚!」
「変顔」
凛が言った。
「凛先輩、変顔好きですよね」
陽菜が笑った。
「去年の卒業式でもやったんだよ」
遥が言った。
「伝統ってことで」
「変顔は伝統じゃないでしょ」
美月が呟いたけれど、その口元は笑っていた。
パシャ。
八人の変顔が、二枚目の写真に収まった。
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## 四・最後のお茶
「温室、行こう」
小春が言った。
八人で温室に向かった。
午後の光が温室のガラスに反射して、きらきらと光っている。遥が鍵を開けて、扉を引いた。
温かい空気が、ふわっと顔に触れた。
土と花の匂い。三年間、ずっと変わらない、温室の匂い。
「入ってください」
遥が、先輩たちを招き入れた。
柚葉が、一歩入って立ち止まった。
「……変わったね」
棚の配置が少し変わっていた。去年の夏、遥と美月が日当たりに合わせて鉢の位置を調整したのだ。窓際にはクロッカスの鉢、奥の棚にはまだ蕾のヒヤシンス。テーブルの横に、小さなハーブの鉢が並んでいる。
「ハーブ、増えたんだね」
「美月ちゃんの提案で。お茶に入れられるように」
「ミントとカモミールとレモンバームです」
美月が説明した。
「いい匂い」
柚葉がミントの葉を一枚摘んで、匂いを嗅いだ。凛が、その横で目を細めた。
「お茶、淹れるね」
真白が言った。
「今日は、私が最後に淹れる」
ケトルを火にかける。茶葉を量る。
いつもの手つき。いつもの分量。
柚葉の紅茶は、少し薄かった。三年間ずっと。それは柚葉の味だった。
真白の紅茶は、ちょうどいい。一年かけて、この濃さにたどり着いた。
お湯を注いで、蒸らす。
八人分のカップを並べた。
温室に人が増えるたびに、カップも増えていった。最初は五つ。遥が入って六つ。美月と陽菜が入って八つ。今日は、全部のカップが出ている。
紅茶をカップに注いだ。湯気が、温室の空気に溶けていく。
「凛先輩のクッキーもあります」
遥が、凛の紙袋からクッキーを皿に並べた。桜のアイシングが、午後の光に照らされてきれいだった。
「いただきます」
八人で、テーブルを囲んだ。
椅子が足りないので、美月と陽菜は窓辺のスツールを引っ張ってきた。ぎゅうぎゅうだけれど、全員が座れた。
「おいしい」
柚葉が、紅茶を一口飲んで言った。
「真白ちゃんの紅茶、本当においしくなったね」
「確実に上達してる」
凛がクッキーをかじりながら言った。
「去年の夏に来た時より、さらに」
「……練習した」
真白が、小さな声で言った。
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「栄養学部に行くんでしょう? 真白ちゃん」
柚葉が聞いた。
「……はい」
「いいと思う。真白ちゃんなら、きっといい栄養士になれる」
「真白のお茶を飲んで元気になった人、いっぱいいるよ」
小春が言った。
「お茶だけじゃない。花の肥料を調べる時も、みんなの体調に気を配る時も——真白はいつも、人のことを考えてる」
「……大げさ」
「大げさじゃないよ。言葉じゃなくて、行動で人を支えるの。真白はずっとそうだった。栄養学部は、真白にぴったり」
真白は、紅茶のカップを見つめた。湯気が、ゆっくりと立ち上っている。
「小春ちゃんは、詩ちゃんと同じ大学だよね」
柚葉が聞いた。
「はい。春から」
小春が、詩の方を見た。詩が、小さく頷いた。テーブルの下で、二人の手がそっと触れた。
「学部は違うけど、キャンパスは同じです」
「よかったね」
柚葉が微笑んだ。
「私たちは別々の大学で離れてるけど——」
「週末は会ってる」
凛が素っ気なく言った。
柚葉が笑って、凛の手に自分の手を重ねた。凛は目を逸らしたけれど、手は逸らさなかった。
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「遥ちゃん、部長、楽しみだね」
柚葉が言った。
「はい。頑張ります」
遥はまっすぐ前を向いて言った。
「美月ちゃんと陽菜ちゃんもいるし、大丈夫だよ」
「来年は新入部員も勧誘します」
「ポスター、もう描いたんです」
陽菜が言った。
「去年の遥先輩のポスターを参考にしました。花の種類をもっと増やして」
「色のバランスは、私が見ました」
美月が付け加えた。
「いいチームだね」
詩が微笑んだ。
「去年のわたしたちみたいだ」
小春が言った。
「……そうだね」
真白が頷いた。
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温室の窓から、午後の光が差し込んでいた。
テーブルの上のカップから、まだ湯気が立っている。凛のクッキーは半分になった。八人の会話が、途切れることなく続いていた。
大学のこと。お菓子のこと。温室のこと。去年の夏のこと。クリスマスのこと。
「そういえば」
詩が言った。
「文芸誌に載せた『温室の午後』、文学部の先生に褒められたよ」
「すごい!」
「場所の描写がいいって。実際に通った場所なんですか、って聞かれた」
「この温室のことですよね」
小春が言った。
「うん。いつか——もっとちゃんとした形で、この場所のことを書きたい」
詩は、温室を見回した。
ガラスの壁。棚の花。テーブル。八つのカップ。
「書いてくれたら、真っ先に読みます」
「もちろん。最初の読者は、いつも小春ちゃん」
時間が、ゆっくりと流れていた。
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## 五・園芸ノート
「そろそろ——」
柚葉が、時計を見て言った。
「行かないとね」
「もうちょっと——」
小春が言いかけて、止まった。
去年の卒業式の日にも、同じことを思った。もうちょっとだけ、この時間が続いてほしい。
でも、時間は流れる。人は進んでいく。
それでいい、と——思えるようになった。
「その前に」
真白が立ち上がった。
鞄から、二冊のノートを取り出した。
柚葉のノートと、真白のノート。
「遥」
「……はい」
遥の声が、少しだけ震えていた。
「これ。柚葉先輩のノートと、私のノート」
真白は、二冊を重ねて遥に差し出した。
「三年前に、柚葉先輩がこのノートを私にくれた。温室の花のこと、土のこと、季節のこと——全部、このノートに書いてあった」
遥が、両手でノートを受け取った。
「私のノートは——花のことだけじゃなくて、この場所で過ごした日のことも書いた。読めば、わかると思う」
「……はい」
「でも——」
真白は、遥を見た。
「そのまま続けなくていいから。遥の温室にしていけばいい」
遥が、目を見開いた。
「私も、柚葉先輩の真似をしようとして、最初はうまくいかなかった。でも——結局、自分のやり方で書いたら、自分のノートになった」
「……はい」
「遥のノートは、遥が作ればいい」
遥が、ノートを胸に抱いた。
「大事に、します」
「うん」
「それから——自分のノートも書きます。三冊目の、園芸ノート」
「……うん」
柚葉が、その光景を見ていた。目が潤んでいたけれど、笑っていた。
凛が、さりげなく柚葉の背中に手を当てた。
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真白はテーブルに座って、遥からノートを一度借りた。
「最後のページ、書く」
ペンを取って、白いページに向き合った。
温室が静かになった。八人が、真白がペンを走らせるのを見守っていた。
> 三月十五日(日)晴れ
>
> 卒業式。桜が満開だった。
> 遥にノートを渡した。柚葉先輩のノートと、私のノート。
> 三冊目のノートは、遥が書いてくれる。
>
> 柚葉先輩、凛先輩、詩先輩が来てくれた。
> 凛先輩のクッキーは桜のアイシング。きれいだった。おいしかった。
> 柚葉先輩が頭を撫でてくれた。「立派な部長だったね」と。
>
> 答辞で、柚葉先輩と同じ言葉を使った。
> 「さよならは、言いません」
> 言えなかったんじゃない。言わないことを選んだ。
> また会えるから。
>
> 花壇にチューリップの芽が出ていた。
> 私が最初にこの温室に来た年も、芽が出ていた。
> 毎年、同じ場所から、同じように。
>
> この場所が、好きだ。
> ここで過ごした三年間が、好きだ。
> ここにいた人たちが、好きだ。
ペンを、置いた。
「書けた?」
小春が、隣で聞いた。
「……うん」
真白はノートを閉じて、遥に返した。
「——はい。これで、全部」
遥が、ノートを受け取った。その目が、赤くなっていた。
「大事にします」
「うん」
陽菜が、鼻をすすった。美月が、黙ってハンカチを差し出した。
陽菜はそれを受け取って、目元を押さえた。
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## 六・陽だまりの庭で
温室を出た。
夕方の光が、温室のガラスをオレンジ色に染めている。校庭の桜が、夕日に照らされて薄紅色に光っていた。
校門に向かって、八人で歩く。花びらが、時折風に舞って落ちてくる。
校門の前で、柚葉が立ち止まった。
「じゃあ、私たちはここで」
詩が、小春を見た。
「また来週ね。入学式の前に、キャンパス案内するよ」
「はい。楽しみにしてます」
小春が笑った。詩も微笑んだ。言葉は少ないけれど、二人の間にある信頼は、もう言葉を必要としていなかった。
凛が、真白の前に来た。
「真白。栄養学部、頑張って」
「……うん」
「おいしいもの作れるようになったら、教えて。評価してあげる」
「……凛先輩に評価されるのは、ハードル高い」
「当たり前でしょ。プロ目指してるんだから」
凛が、ふっと笑った。
「でも——真白のお茶は、もう合格だよ」
「……ありがとうございます」
柚葉が、最後に全員を見回した。
「クリスマスに、また」
「はい」
遥が、美月と陽菜と一緒に頭を下げた。
「待ってます」
柚葉と凛と詩が、桜並木を歩いていく。凛の手が、自然に柚葉の手を取った。二人の指が絡む。詩が、一度だけ振り返って、小さく手を振った。
小春が、手を振り返した。
三人の背中が、桜並木の向こうに小さくなっていく。
去年の三月にも、同じ景色を見た。あの時は見送る側だった。
今は——見送られる側。
でも、寂しさだけじゃない。
また会える。約束があるから。
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「じゃあ——私たちも」
遥が、小春と真白に向き合った。
「先輩方も、帰りますか」
「うん。その前に——」
小春が、遥と美月と陽菜を見た。
「温室、よろしくね」
「はい」
美月が頷いた。
「花は、ちゃんと見ます」
「私も! 種まきは任せてください!」
陽菜が、ぐっと拳を握った。
「遥ちゃんも——部長、頑張ってね」
「はい。小春先輩みたいに明るい部にします」
「……真白先輩みたいに、ちゃんとした部にもします」
遥が言い直して、小春が笑った。
「両方でしょ」
「……両方です」
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「真白先輩」
遥が、一歩前に出た。
「……なに」
「チューリップ、咲いたら——写真、送ります」
真白が、少しだけ目を見開いた。
「……まだ何も言ってないのに」
「わかりました。真白先輩のことは——」
遥は、言いかけて一瞬止まった。
「花のこと、ちゃんと報告します。毎月」
「……毎月でいい」
「毎週でもいいですか」
「……多い」
遥は、まっすぐにこちらを見ていた。二年前に温室を見学に来た時と同じ、まっすぐな目。でも、あの時よりずっと強くて、ずっと温かい。
真白は、ふっと視線を外した。
「……好きにすればいい」
小さな声だった。
遥の顔が、ぱっと明るくなった。
「はい」
小春が、隣で笑いをこらえていた。
---
「真白」
小春が言った。
「帰ろうか」
「……うん」
二人は遥たちに手を振って、校門を出た。
桜並木を歩く。花びらが、二人の上に舞い落ちる。
しばらく、黙って歩いた。二人の足音と、風の音だけが聞こえる。
「真白」
「……なに」
「ありがとう」
「……何が」
「ずっと、一緒にいてくれて」
小春は、真白の手を取った。
「中学の入学式の日に、隣の席だったよね」
「……うん」
「真白が『別に』って言って、わたしが『よろしくね』って言って」
「……覚えてるんだ」
「全部覚えてるよ」
小春は、繋いだ手にそっと力を込めた。
「テストの前にノートを貸してくれたこと。雨の日に傘を半分くれたこと。園芸部に一緒に入ってくれたこと。わたしが泣いた時に、何も言わずに隣にいてくれたこと」
「……当たり前のことでしょ」
「当たり前じゃないよ」
小春は、真白を見た。
「真白がいなかったら、わたし、ここまで来れなかった。園芸部にも入らなかった。詩先輩にも出会えなかった」
「……大げさ」
「大げさじゃない。真白は、いつもそう。自分がどれだけ大切な存在か、わかってない」
真白は、小春と繋いだ手を見つめた。
六年間。ずっと隣にいた手。
「……小春こそ」
「え?」
「ありがとう」
小春が、目を丸くした。
「私の隣にいてくれて。言葉が足りない時に、翻訳してくれて。いつも笑ってくれて」
「……真白」
「小春がいたから——私は、花を好きになれた」
小春の目に、涙がにじんだ。
「泣かないで」
「泣いてない。花粉」
「三月だからね」
「……うん。三月だから」
二人は、手を繋いだまま笑った。
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校門を出て、いつもの帰り道。
しばらく歩いて、小春が振り返った。
真白も、振り返った。
校舎の向こうに、温室のガラスが見える。夕日に照らされて、オレンジ色に光っている。
温室の中で、三つの影が動いていた。
遥が、テーブルの上のカップを片付けている。美月が、棚の花を確認している。陽菜が、水やりのじょうろを手に取っている。
——大丈夫だ。
真白は、そう思った。
あの温室は、変わらない。人が変わっても、花が変わっても、あの場所には陽だまりがある。
柚葉先輩が作って、凛先輩と詩先輩が育てて、小春と私が受け継いで、遥と美月と陽菜が続けていく。
手から手へ。春から春へ。
庭は、続いていく。
「行こうか」
小春が言った。
「……うん」
真白は前を向いた。
桜の花びらが、夕日の中を舞っている。
二人は歩き出した。それぞれの春に向かって。
---
温室の中。
遥は片付けを終えて、テーブルの前に座った。
テーブルの上に、三冊のノートが並んでいる。
柚葉のノート。真白のノート。そして、まだ何も書かれていない、新しいノート。
「三冊目」
遥は呟いて、新しいノートの表紙をそっと撫でた。
窓から、夕日が差し込んでいた。温室のガラスを通した光は、柔らかくて温かい。花たちの上に、テーブルの上に、三冊のノートの上に——陽だまりが広がっている。
美月がミントの鉢に水をやっている。陽菜が、花壇のチューリップの芽を窓越しに覗いている。
遥は、新しいノートを開いた。
最初のページに、ペンを走らせる。
> 三月十五日(日)
>
> 今日から、私の園芸ノートを始めます。
窓の外では、桜が咲いている。花壇では、チューリップが芽を出している。
春が、来ていた。
この温室に。この庭に。
陽だまりの中で、花たちが静かに光を浴びていた。
言葉はなくても、ちゃんと伝えている。
ここにいること。ここで咲くこと。
——ただ、それだけを。




