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陽だまりの庭  作者: はるうた
第二部 花ひらくとき

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23/25

第23章 受け継ぐもの

## 一・チューリップの朝


四月三日。


真白は、温室の鍵を開けた。


いつもより少しだけ早い朝。春の空気は柔らかく、校庭の桜はもう葉桜になりかけていた。鳥の声が聞こえる。ヒヨドリだ。


温室の扉を引く。ガラスの向こうから、あたたかい空気がこぼれてきた。


——変わらない。この場所の匂い。


土と、緑と、水と、ほのかに甘い花の匂い。


真白は、温室に足を踏み入れた。


まず目に入ったのは、窓際の花壇だった。


チューリップが——咲いていた。


赤と、黄色と、白。三色のチューリップが、朝の光の中で、まっすぐに花を開いている。


「……咲いた」


真白は、思わず声に出した。


三週間近く前——卒業式の朝に、花壇の前で見た芽。十センチほどの、まだ硬い蕾をつけた茎。


あの蕾が、開いた。


真白はスマートフォンを取り出した。写真を撮る。三色のチューリップと、朝の光。


柚葉先輩に送った。


「チューリップ、咲きました」


返信は、すぐに来た。


「わあああ!!!きれい!!!咲いたんだね!!!」


感嘆符が多い。柚葉先輩らしい。


「赤いのが一番大きく咲いてますね」


「チューリップは球根だから、冬をしっかり越した子が一番元気に咲くんだよ。春化処理っていうの。寒さを経験しないと、花が咲かないの」


「知ってます。ノートに書いてありました」


「あ、そっか。ノートに書いたんだった」


「はい」


「真白ちゃん、ちゃんと読んでくれてるんだね」


「……当然です」


真白は、テーブルの上に園芸ノートを広げた。


「真白の園芸ノート」——表紙に、少しだけぎこちない字で書いてある。


ページを開く。最初のページは、三月十五日。卒業式の夜に書いた、最初の記録。


その下に、今日の日付を書いた。


> 四月三日(木)晴れ

>

> チューリップ、開花。赤・黄・白の三色。

> 赤が一番大きい。春化処理の効果。

> 柚葉先輩に写真を送った。喜んでくれた。

>

> 今日から新学期。三年生になった。


ペンを置いた。


温室の扉が開いた。


「おはようございます!」


遥だった。


腕に抱えたメモノートは、四冊目になっていた。


「おはよう」


「……チューリップ!」


遥が、窓際の鉢に駆け寄った。


「咲いてる!きれい!」


「うん。今朝、咲いてた」


「よかった。二月の寒波の時、心配だったんです」


「あの時、私が不織布をかけたから」


「覚えてます。夜に来てくれたんですよね」


「……大したことじゃない」


真白は、窓を開けた。四月の風が入ってきた。


遥はメモノートを開いて、チューリップの様子を記録し始めた。花弁の数、色の濃さ、茎の高さ。四冊目のノートの、最初のページだった。


「新しいノートだね」


「はい。三冊目は卒業式の日に使い切りました」


「早いね」


「書くことが多いので」


遥は、花の前でいつも少しだけ声が弾む。


しばらくして、小春がやってきた。


「おはよう!あ、チューリップ!」


小春は鉢の前にしゃがんだ。


「きれいだね。これ、十月に球根を植えたやつだよね」


「うん。柚葉先輩が選んでくれた品種」


「半年かかって咲いたんだ……」


小春は、そっと花弁に指を近づけて——触れないで、引っ込めた。


「今日から三年生だね」


「うん」


「最後の一年だね」


真白は、チューリップを見つめた。


半年前に植えた球根が、冬を越えて、今朝、花を咲かせた。


——私たちの温室。


「頑張ろう」


真白が言うと、小春は少し驚いたように目を丸くした。


「……真白から、そういうこと言うの、珍しいね」


「別に。普通のことを言っただけ」


「うん。頑張ろう」


小春が笑った。遥も笑った。


朝の温室に、三人の笑い声が響いた。


---


## 二・新しい芽


新入部員の勧誘が始まった。


「ポスター、できました」


遥が、手描きのポスターを広げた。


去年、小春が描いたものを参考にしている。でも、去年よりも花の種類が増えていた。チューリップ、パンジー、ペチュニア、コスモス——一年間で温室に咲いた花たちが、画用紙いっぱいに描かれている。


「すごい。花が増えたね」


「去年の小春先輩のを見ながら描いたんですけど、つい足しちゃって」


「いいと思う。きれい」


真白が言うと、遥の顔がぱっと明るくなった。


「ありがとうございます!」


温室の前の掲示板に、ポスターを貼った。


「園芸部 部員募集中!」


その下に、小さく——「温室でお茶も飲めます」と書いてある。


「お茶の情報、いる?」


「凛先輩がいた頃の伝統ですから」


「……まあ、いいか」


---


四月の最初の一週間は、新入生がいろんな部活を見学して回る。温室の前を通りかかる一年生は何人かいたけれど、足を止める子は少なかった。


「来ないね」


小春が言った。三日目の放課後だった。


「去年もそうだったよ。遥ちゃんが来てくれたの、四月の二週目だったし」


「そうでしたね」


遥が頷いた。


「焦らなくていいよ。来る子は来る」


真白が言った。


四日目の放課後。


温室の前に、一人の生徒が立っていた。


眼鏡をかけた、ショートカットの女の子。制服のリボンは、一年生の色——薄い緑。


温室のガラス越しに、中を覗いている。


「見学ですか?」


遥が声をかけた。


女の子は振り向いた。表情はあまり変わらない。


「……はい」


「どうぞ、中に入ってください」


遥が扉を開けると、女の子はそっと中に入ってきた。


温室の中を、ゆっくりと見回す。花壇の色、鉢の並び、窓から差し込む午後の光。


その視線が、ある鉢の前で止まった。


パンジーの寄せ植え。紫と黄色と白が組み合わさった鉢だった。


「……この色の組み合わせ、きれいですね」


初めて、少しだけ声に感情がこもった。


「ありがとう。それは遥ちゃんが植えてくれたの」


小春が言った。


「色の配置、考えたんですか」


「はい。紫と黄色は補色だから、白を間に入れると落ち着くかなって」


遥が答えると、女の子は小さく頷いた。


「佐藤美月です。入部したいです」


唐突だった。


「え、もう決めたの?」


「見れば分かります。いい温室です」


真白は、少しだけ目を瞬いた。


——この子、面白いかもしれない。


「歓迎するよ。月島真白。部長です」


「よろしくお願いします」


美月は、ぺこりと頭を下げた。


---


翌日。


今度は、全然違うタイプの子が来た。


「園芸部ですか!見学いいですか!」


声が大きい。ポニーテールを揺らしながら、温室に飛び込んできた。


「はい、どうぞ」


「わあ、すごい!花がいっぱい!」


温室の中を、くるくると見て回る。触ろうとして、思い直して、でもやっぱり近づいて。


「あ、チューリップだ!」


窓際の花壇の前で、足が止まった。


「これ、外から見えてたんです。通学路から。赤くてきれいだなって思って。それで園芸部があるって知って」


「チューリップを見て?」


小春が聞いた。


「はい。花を種から育てるのが好きなんです。おばあちゃんと一緒に朝顔を育てたことがあって。芽が出た時の感動が忘れられなくて」


「いいね。名前は?」


「田中陽菜です!よろしくお願いします!」


元気がいい。美月とは対照的だった。


「歓迎するよ」


真白が言った。


陽菜は嬉しそうに飛び跳ねた。隣で美月が少しだけ身を引いたけれど、嫌そうではなかった。


---


「じゃあ、改めて自己紹介しようか」


放課後の温室。五人がテーブルを囲んだ。


真白が、紅茶を淹れた。アールグレイ。柚葉先輩の頃からの定番。


「三年生の月島真白です。部長をやってます」


「同じく三年生の、藤宮小春です。副部長です」


「二年生の、日向遥です」


そして、新入生たち。


「一年生の、佐藤美月です。よろしくお願いします」


「同じく一年生の、田中陽菜です!よろしくお願いします!」


「みんな、よろしくね」


真白は、少しだけ柔らかく微笑んだ。


——柚葉先輩が、去年言ってくれた言葉と同じだ。


小春が、真白を見た。真白も小春を見た。


何も言わなかった。でも、同じことを考えていると分かった。


——私たちも、先輩になったんだ。


「紅茶、おいしいです」


美月が言った。


「ありがとう」


「お菓子はないんですか?」


陽菜が聞いた。


「去年まで、凛先輩がクッキーを焼いてくれてたの」


小春が説明した。


「凛先輩?」


「去年卒業した先輩。お菓子作りがすごく上手で」


「いいなあ」


「今は先輩方がいないから、市販のお菓子を持ち寄ってます」


遥が、テーブルの上のビスケットの箱を示した。


「十分おいしいですよ」


美月が、ビスケットを一枚取った。


こうして——園芸部は、五人になった。


---


## 三・五人の温室


四月の後半。


新入生に、温室の仕事を教える日が続いた。


「水やりのやり方、教えるね」


そう言ったのは——遥だった。


去年、自分が教わった側だったのに。今は、教える側になっている。


「水やりは、朝と夕方がいいの。昼間にあげると、水が温まって根を傷めちゃうから」


「はい」


美月と陽菜が、真剣に聞いている。


「あと、葉っぱにかけるんじゃなくて、根元にあげるのがポイント。こうやって……」


遥は、じょうろを持って、見本を見せた。


——去年の、私と同じだ。


真白は、少し離れた場所で、その様子を見ていた。


去年、小春が遥に水やりを教えていたのを思い出す。その前は——柚葉先輩が、私たちに教えてくれた。


「やってみて」


遥が、じょうろを渡した。


陽菜が先に受け取って、ざあっと水をかけた。勢いがよすぎて、土が少し跳ねた。


「もうちょっと静かに。根元に、細く」


「はい!」


二回目は、上手にできた。


「上手」


「本当ですか!」


「うん。筋がいいよ」


遥が笑った。小春と同じことを言っている。


美月は、じょうろを受け取ると、静かに、ゆっくりと水をかけた。


そして——メモノートを取り出した。


「……あ」


遥が、小さく声を上げた。


「メモ、取っていいですか」


「もちろん。私もいつも取ってるよ」


遥が、自分のメモノートを見せた。四冊目。


美月は、それを見て、少しだけ目を見開いた。


「四冊目……」


「去年入部してから、気づいたことを全部書いてたら、こうなっちゃった」


「すごいですね」


美月は、自分のノートに「水やり:朝・夕。根元に。細く」と書いた。丁寧な字だった。


---


次は、花がら摘み。


真白が教えた。


「しぼんだ花は、早めに摘む。そのままにしておくと、種を作ろうとして、株のエネルギーが取られるから」


「どこで切ればいいですか」


「ここ。花首のすぐ下。茎は残す」


真白は、ハサミを使って見本を見せた。


「こうやって、清潔なハサミで。斜めに切る。切り口が水を吸いやすいように」


美月が真剣に見つめている。陽菜は——


「質問!」


手を挙げた。


「はい」


「しぼんだ花って、もったいなくないですか?」


「もったいない?」


「だって、咲いてたのに。切っちゃうの、かわいそうかなって」


真白は、少し考えた。


「……一つの花が終わるから、次の花が咲ける。エネルギーは有限だから。終わったものをちゃんと手放すのも、花を大切にすることだと思う」


陽菜は、目をぱちくりさせた。


「深い……」


「別に深くない。柚葉先輩の園芸ノートに書いてあったこと」


「園芸ノートって何ですか!」


「……長くなるから、今度」


---


放課後。初めての五人でのお茶の時間。


真白が紅茶を淹れて、テーブルを囲んだ。


「先輩方は、最初はどんな感じだったんですか?」


陽菜が聞いた。


小春が、壁に貼ってある写真を指さした。


卒業式の日に撮った集合写真。桜の花びらが舞う中で、六人が笑っている。


「わあ、きれい」


「この人たちが、先輩方?」


美月が、写真に目を凝らした。


「うん。真ん中のこの人が、柚葉先輩。前の部長で、園芸ノートを書いてた人」


「その隣が凛先輩。クッキーの人」


「こっちが詩先輩。詩を書く人」


小春が一人ずつ紹介した。


「みんな仲がいいですね。写真を見ると分かります」


美月が言った。


「うん。二年間、ずっと一緒だったから」


「変顔の写真もあるんですよ」


遥が、もう一枚の写真を見せた。六人が変顔をしている写真。


「あはは!部長さんも変顔してる!」


陽菜が笑った。


「……あれは、小春に無理やり」


「してって言ったらやってくれたくせに」


「…………」


真白は紅茶を飲んで、何も言わなかった。


「私たちも、こういう写真撮りたいです」


陽菜が言った。


「うん。撮ろう」


小春が笑った。


---


## 四・先輩の背中


五月。


ペチュニアの苗を植え替える時期だった。


真白は、園芸ノートを開いた。柚葉先輩のノートの方だ。


> ペチュニアの植え替え。日当たりの良い場所に。株間は25〜30cm。摘芯ピンチを忘れずに。最初の花が咲いたら、思い切って切り戻す。そうすると、脇芽が出て、もっとたくさん咲く。


「切り戻し、か」


去年、柚葉先輩と一緒にやった。真白はまだハサミを持つ手が緊張していた。


「部長、ペチュニアの苗、持ってきました」


遥が、トレーいっぱいの苗を運んできた。


「ありがとう。みんなで植えよう」


五人で、花壇にペチュニアを植えた。


美月は、色の配置に悩んでいた。


「……赤と白を交互に、でもピンクはどこに」


「好きなように植えればいいよ」


「好きなように、ですか」


「美月ちゃんの感覚で。色の組み合わせ、前も褒めたでしょ」


真白の言葉に、美月は少しだけ頬を緩めた。


「私、おばあちゃんが生け花をやってて」


美月が、苗を植えながら言った。


「色の組み合わせは、おばあちゃんに教わりました。『花は一本でもきれいだけど、隣に何を置くかで、もっときれいになる』って」


「いい言葉だね」


小春が言った。


「柚葉先輩のおばあちゃんも、庭が好きな人だったんだよ。卒業式の答辞で話してた」


「そうなんですか」


「花が好きなおばあちゃんがいる、って共通点だね」


美月は、黙って頷いた。でも、その手は心なしか丁寧になった。


---


六月。


梅雨に入った。


雨の日が続いて、外の花壇の作業ができない日。温室に集まって、鉢植えの手入れをした。


陽菜が、ふと窓際の花壇を見た。


チューリップの花はもう終わって、葉だけが残っている。


「このチューリップ、私が園芸部に入るきっかけだったんです」


「え?」


「通学路から見えたんです。温室の窓のところで、赤いチューリップが咲いてて。あの花がきれいだなって思って、それで園芸部があるって知って」


陽菜は照れたように笑った。


小春が、真白と遥を見た。


「……あの球根、去年の十月に植えたんだよね」


「うん」


「わたしたちが植えた花が、新しい人を呼んだんだ」


小春の声が、少し震えた。嬉しさで。


真白は、しばらく黙っていた。


それから、園芸ノートを開いた。


> 六月十二日(木)雨

>

> 陽菜が、チューリップを見て入部を決めたと話してくれた。

> 去年の十月に植えた球根が、新しい部員を連れてきた。

> 柚葉先輩が選んだ品種。柚葉先輩が教えてくれた春化処理。

> 私が不織布をかけた夜。遥が毎日水やりをした朝。

>

> ——繋がっている。


---


七月。


期末テストが終わって、夏休みが近づいていた。


放課後の温室で、五人でアイスティーを飲んでいた。


「部長、来年の話なんですけど」


遥が言った。


「来年?」


「……来年、部長と小春先輩が卒業したら。私が部長ってことですよね」


「まだ先の話だよ」


「でも、心の準備が」


真白は、遥を見た。


「来年——部長、頼むかもしれない」


真白が言うと、遥は目を丸くした。


同学年でひとりなのだから、自分が部長になるのは分かっていた。でも——真白先輩の口から聞くのは、違う。


「……はい。頑張ります」


「まだ頼んでない。『かもしれない』って言った」


「でも、嬉しいです」


遥は、嬉しそうに笑った。


テーブルの向こう側で、小春が真白をじっと見ていた。


真白は——少しだけ、遥の方を見ていられなかった。


小春は、それに気づいた。


何も言わなかった。ただ、紅茶を飲んで、窓の外を見た。


——真白。気づいてるかな。自分の気持ちに。


小春は、去年の夏を思い出した。詩先輩への気持ちに気づいた頃のことを。


---


## 五・夏の再会


八月十日。


卒業した先輩たちと、再会する日が来た。


「今日、先輩方が来るんですよね」


美月が言った。朝から少しだけ緊張しているようだった。


「うん。柚葉先輩が企画してくれた」


「写真で見た方々ですよね」


「そう。生で会ったら、もっとすごいよ」


陽菜が首をかしげた。


「すごい、って?」


「会えば分かる」


真白が言った。


---


午後二時。


温室の扉が開いた。


「久しぶり!」


柚葉の声が、温室に響いた。


ショートカットの髪が、少しだけ伸びていた。日焼けした腕は、大学の農場で実習をしている証拠だった。


「柚葉先輩!」


小春が駆け寄った。


「元気そう!」


「はい。先輩こそ」


「農学部、楽しくて仕方ない。品種改良の授業がね、信じられないくらい面白いの」


柚葉は、変わっていなかった。花の話になると、目が輝く。


その後ろから——


「暑い。夏は嫌い」


凛が入ってきた。


紙袋を抱えている。


「でも来たんだね」


「……みんなに食べてもらいたいものがあるだけ」


凛の耳が、赤い。夏の暑さのせいだけではないだろう。


そして——


「こんにちは」


詩が、静かに入ってきた。


小春の表情が、ぱっと変わった。


「詩先輩」


「小春ちゃん」


詩が微笑んだ。柔らかくて、穏やかな笑顔。四ヶ月ぶりに会えた喜びが、静かに滲んでいた。


---


「こちらが、新入部員の美月ちゃんと陽菜ちゃん」


小春が紹介した。


「はじめまして。佐藤美月です」


「田中陽菜です!お会いできて光栄です!」


「こちらこそ。園芸部、入ってくれてありがとうね」


柚葉が笑った。


「わあ、写真より優しそうな人!」


陽菜が言うと、柚葉は照れたように首を傾げた。


「写真?」


「壁に貼ってある卒業写真です。変顔のやつも」


「……あれ、まだ貼ってあるんだ」


「大事な写真ですから」


真白が言った。


---


みんなでテーブルを囲んだ。八人。温室のテーブルが、少しだけ窮屈だった。


真白が紅茶を淹れた。


柚葉が、一口飲んで——


「おいしい。ちょうどいい」


「ありがとうございます」


「去年より、もっとおいしくなった気がする」


「……たぶん、気のせいです」


「ううん。確実においしくなってる」


凛が、紙袋からタッパーを取り出した。


「はい。新作」


蓋を開けると、レモンの形をしたクッキーだった。表面に、薄紫のアイシングで小さな花の模様が描かれている。


「きれい!」


「レモンとラベンダーのクッキー。大学で習ったアレンジ」


「ラベンダー?」


「食用ラベンダーのエキスを少しだけ入れてある。夏っぽいかなと思って」


みんなで、クッキーを食べた。


レモンの酸味と、ほんのりとラベンダーの香り。甘さは控えめで、紅茶によく合った。


「おいしい……」


美月が、そっと目を閉じた。


「前のクッキーもおいしかったけど、これ、すごく上品な味」


遥が言った。


「大学で学んだことが、ちゃんと反映されてるね」


柚葉が、凛を見た。


凛の耳が、また赤くなった。


「……別に。みんなに食べてもらいたかっただけ」


「素直じゃないなあ」


柚葉が笑って、凛の手に——そっと自分の手を重ねた。テーブルの上で。自然に。


美月と陽菜が、一瞬目を見交わした。


小春が小さく「仲いいでしょ」とささやいた。


---


「大学、どうですか?」


小春が聞いた。


「楽しいよ。植物の研究、奥が深くて。この間、接ぎ木の実習があってね——」


柚葉が話し始めると、止まらない。遥が必死にメモを取っている。美月も。


「凛先輩は?」


「毎日が修行。でも——楽しい。自分の作ったものを人に食べてもらえるのが、嬉しい」


「詩先輩は?」


「文学部で、創作の授業を取ってるよ。先生にも読んでもらえるようになった」


詩は、少し照れたように言った。


「あと、文芸誌に載ったの」


「え!」


「高校の時に書いた『温室の午後』を改稿して投稿したら、採用されたの」


「すごい!おめでとうございます!」


小春の声が弾んだ。


「ありがとう。小春ちゃんのおかげだよ。あの詩は——小春ちゃんがいなかったら書けなかったから」


小春の頬が、少しだけ赤くなった。


「……先輩、そういうこと平気で言うの、変わってないですね」


「平気じゃないよ。でも、本当のことだから」


詩が、テーブルの下で、小春の手に触れた。


小春は——その手を、握り返した。


「手紙、読んでますか」


小春が聞いた。


「もちろん。全部読んでるよ。返事も書いてる」


「知ってます。毎週届きます」


「書かない日はないよ。小春ちゃんのことを考えない日がないのと同じで」


小春の顔が、今度こそちゃんと赤くなった。


「……先輩」


「うん?」


「……なんでもないです」


テーブルの下で、二人の手はしっかりと繋がっていた。


---


「真白ちゃん」


柚葉が、真白の隣に座った。


「ノート、見せてもらっていい?」


「……はい」


真白は、「真白の園芸ノート」をテーブルに置いた。


柚葉が開いた。最初のページ——三月十五日。


「……卒業式の日の」


「はい」


ページをめくる。四月三日、チューリップの開花。四月の新入部員勧誘。五月のペチュニア植え替え。六月の梅雨対策。七月の水やりスケジュール。


柚葉は、一ページずつ、丁寧に読んだ。


ページをめくるたびに、柚葉の表情が変わっていった。


六月十二日のページで——柚葉の手が止まった。


> チューリップを見て入部を決めたと話してくれた。

> 去年の十月に植えた球根が、新しい部員を連れてきた。

> 柚葉先輩が選んだ品種。柚葉先輩が教えてくれた春化処理。

> ——繋がっている。


柚葉の目が、潤んだ。


「……真白ちゃん」


「はい」


「ちゃんと、続けてくれてるんだね」


「当然です。先輩のノートを引き継いだんですから」


柚葉は、ノートを閉じて——胸に抱いた。


「ありがとう」


その声は、少し震えていた。


「……泣かないでください」


「泣いてない。泣いてないよ」


凛が、ハンカチを差し出した。何も言わずに。


柚葉はそれを受け取って、目元を拭いた。


「ごめんね。嬉しくて」


「嬉しいなら、泣くな」


凛が言った。でも、その声は優しかった。


---


## 六・受け継ぐもの


夕方が近づいて、先輩たちが帰る時間になった。


「また来るね」


「クリスマス、約束だよ」


凛が言った。


「約束」


小春が頷いた。


温室の前で、みんなで並んだ。


柚葉が、温室を見上げた。


ガラスの向こうに、ペチュニアの花が見える。夕日に照らされて、赤やピンクや白が淡く光っている。


「ね、真白ちゃん」


「はい」


「この温室、真白ちゃんの温室になってるね」


真白は、言葉が出なかった。


「私がいた頃とは違う。真白ちゃんの色になってる。紅茶の味も、花の配置も、後輩への教え方も。全部、真白ちゃんらしい」


「……そんなこと」


「嬉しいんだよ。同じ場所が、ちゃんと変わっていってくれるのが」


柚葉は、振り返って——真白に微笑んだ。


「安心した」


その笑顔は、二年前——入部した日に見た笑顔と、同じだった。


でも、今の真白には、その笑顔を受け止めて、前を向くことができた。


「ありがとうございます」


真白は、頭を下げた。


---


先輩たちは、手を振って帰っていった。


柚葉と凛が、並んで歩いている。肩が触れるくらいの距離で。


詩が小春に手を振った。小春が振り返した。


「また会えてよかった」


小春が言った。


「うん」


「来年も、再来年も、こうやって会えるといいね」


「きっと会えるよ」


真白が言った。


「この場所がある限り。みんなを繋いでくれるから」


遥が、真白の隣で頷いた。


美月と陽菜も、先輩たちの背中を見ていた。


「いい先輩方ですね」


美月が言った。


「うん。すごくいい人たちだった」


陽菜が、珍しく静かな声で言った。


「私たちも、ああいう先輩になりたいです」


遥が言った。


「なれるよ」


真白が言った。


小さな声だったけれど、全員に聞こえた。


---


夕日が傾いて、温室のガラスがオレンジ色に染まった。


五人は、まだ少しだけ温室に残っていた。


「今日のこと、覚えておこうね」


小春が言った。


「はい」


先輩たちの温もりが、まだ温室に残っていた。テーブルの上に、凛のクッキーがいくつか残っている。レモンとラベンダーの香り。


真白は、園芸ノートを開いた。


> 八月十日(日)晴れ

>

> 柚葉先輩、凛先輩、詩先輩が来てくれた。

> 凛先輩の新作クッキーはレモンとラベンダー。おいしかった。

> 柚葉先輩が私のノートを読んで、泣いた。

> 「真白ちゃんの温室になってる」と言ってくれた。

>

> この場所が好きだ。

> ここにいる人たちが好きだ。


ペンを置いた。


窓の外では、ペチュニアが夕焼けに照らされて、花びらの色が深く染まっていた。


受け継がれていくもの。変わらないもの。変わっていくもの。


全部、大切なものだ。


——守っていこう。この温室を。この場所を。


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