第22章 桜の下で
いつか来ると知っていた
この日が来てしまった
見慣れた道の桜を見上げる
こんなにきれいだったかな
来年もここで咲くだろう
私がいなくても
---
## 一・桜の朝
卒業式の朝。
小春は、いつもより少しだけ早く家を出た。
空は快晴だった。三月半ばの風にはまだ冷たさが残っているけれど、陽射しには春のぬくもりがある。
通学路の桜並木が、満開だった。
ピンクの花びらが、風に舞っている。地面にも、薄いピンクの絨毯ができていた。
「きれい……」
思わず足を止めて、見上げた。空いっぱいに広がる桜の枝。その向こうに、青い空。
——今日は、卒業式。
鞄の中に、送辞の原稿がある。昨日の夜、もう一度読み返した。何度も書き直した原稿。詩先輩が「思ったことを、そのまま言えばいい」と言ってくれた、あの原稿。
「小春」
声がして振り向くと、真白が歩いてきた。
「おはよう、真白」
「おはよう」
真白は、いつもと変わらない表情をしていた。でも、制服のリボンが、いつもよりきちんと結んであった。
二人は、並んで歩き始めた。
「桜、咲いたね」
「うん」
「先輩たちの卒業に間に合ったね」
「……そうだね」
真白は、桜を見上げた。
二年前——この桜並木を、小春と二人で歩いた。入学式の日。まだ何も知らなかった。園芸部のことも、温室のことも、先輩たちのことも。
あれから、二年。
「真白」
「なに」
「送辞、大丈夫かな」
「大丈夫でしょ。何回練習したと思ってるの」
「五回……いや、六回?」
「七回」
「そんなに?」
「私と遥の前で三回。鏡の前で四回。昨日の夜、LINEで『もう一回読み直す』って言ってたから、それ入れたら八回」
小春は、思わず笑った。
「数えてたの」
「数えてない。勝手に聞こえてきただけ」
真白の声に、いつもの素っ気なさ。でも、小春には、その素っ気なさの中にある優しさが、もうちゃんとわかる。
「ありがとう、真白」
「何が」
「聞いてくれて」
「……別に」
校門が見えてきた。
校庭の大きな桜の木も、満開だった。花びらが、ひらひらと舞い落ちている。
校門の前に、遥がいた。
「先輩、おはようございます!」
「おはよう、遥ちゃん」
「おはようございます」
遥は、にこにこ笑っていた。
「桜、きれいですね」
「うん」
「卒業式、緊張しますね」
「……私は卒業しないけど」
真白が言うと、遥は小さく笑った。
「真白先輩、今日は朝からちゃんと髪整えてますね」
「……いつもちゃんとしてる」
「今日は特にきれいです」
真白が、少しだけ目を逸らした。
三人で校庭に入ると、花壇の前を通った。
チューリップの芽が、もう十センチほどに伸びていた。去年の秋に球根を植えて、冬の間ずっと世話をしてきた。芽が出た時、遥が「出ました!」とメモノートに日付を書いていたのを思い出す。
「もうすぐ咲きそうだね」
小春が言った。
「あと二週間くらいだと思います」
遥が答えた。
「先輩たちの卒業には間に合わなかったけど……入学式には咲いてるかもしれないです」
「新しい一年生が見られるね」
「はい」
真白は、チューリップの芽をじっと見ていた。
柚葉先輩が園芸ノートに書いていた。「チューリップは、冬の寒さを経験しないと咲かない」。春化処理。寒さが、花を咲かせる準備になる。
——先輩たちがいない季節を経て、私たちの花が咲く。
「行こう」
真白が言った。
「うん」
三人は、校舎に向かった。
---
## 二・卒業式
体育館に、椅子が並んでいた。
在校生の席は右側。卒業生の席は左側。ステージには、白い花が飾ってある。
小春は、送辞の原稿を膝の上に置いて、もう一度目を通した。
——大丈夫。ちゃんと覚えてる。
隣の真白が、静かに座っている。その隣に、遥。
体育館が、ざわざわしている。在校生たちが、小声で話している。
開始の時間が近づいた。
ブラスバンド部の演奏が始まった。
卒業生が、入場してくる。
——いた。
柚葉先輩。凛先輩。詩先輩。
三人が、列に並んで歩いてくる。
柚葉先輩は、まっすぐ前を見ていた。いつもの柔らかい笑顔ではなく、引き締まった表情。
凛先輩は、口元がほんの少しだけ強張っている。——泣くまいとしているのだと、小春にはわかった。
詩先輩は、静かに微笑んでいた。いつもの穏やかな表情。でも、その目が、かすかに潤んでいるように見えた。
——先輩たちだ。
小春の目に、涙がにじんだ。まだ始まってもいないのに。
「……小春」
真白が、小さく言った。
「泣くの早い」
「……うん」
小春は、目元を拭った。
卒業生が着席した。
校長先生が、壇上に立った。
「ただいまより、第四十二回卒業式を挙行いたします」
---
卒業証書授与。
一人ずつ、名前が呼ばれる。
「七瀬柚葉」
「はい」
柚葉が、壇上に上がった。卒業生代表として、卒業証書を受け取る。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
柚葉の声は、はっきりしていた。
でも、卒業証書を受け取る手が、ほんの少しだけ震えていた。
——先輩。
小春は、じっと見つめた。
柚葉が、客席に向き直って、一礼した。その姿が、堂々としていて、でもどこか寂しそうで。
「立花凛」
「はい」
凛が壇上に上がる。背筋がぴんと伸びている。
「五十嵐詩」
「はい」
詩が壇上に上がる。静かな足取り。
詩が席に戻る時、一瞬だけ、在校生の方を見た。
目が合った気がした。
詩が、ほんの少しだけ微笑んだ。
小春の胸の奥が、じん、と熱くなった。
---
## 三・送辞と答辞
「続きまして、在校生代表による送辞」
小春は、立ち上がった。
足が、少しだけ震える。
壇上に上がる。マイクの前に立つ。
体育館が、静まり返った。
何百人もの視線が、自分に集まっている。
——大丈夫。
原稿を、譜面台に置いた。
深く息を吸った。
「卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます」
声が、体育館に響いた。自分の声が、思ったよりしっかりしていて、少しだけほっとした。
「私たち在校生にとって、三年生の皆さんは、いつも輝いている存在でした」
原稿の文字を追う。何度も書き直した言葉。
「勉強に、部活に、行事に。全力で取り組む姿を、いつも近くで見ていました」
ここまでは、練習通り。
小春は、少しだけ顔を上げた。
卒業生の席が見える。柚葉先輩、凛先輩、詩先輩——三人の顔が見えた。
柚葉先輩が、静かにこちらを見ている。
小春は、原稿に目を戻した。
「私は、園芸部に所属しています」
ここから先は——昨日の夜に、何度も書き直した部分。
「一年生の春、温室に初めて入った時のことを、今でも覚えています」
声が、少しだけ揺れた。
「ガラスの扉を開けたら、温かい空気と、土の匂いと、花の色が——一度に飛び込んできました」
小春は、原稿から目を離した。
もう、覚えている。何度も書き直して、何度も読み返した言葉だから。
「先輩たちが、『おいで』と言ってくれました。お茶を入れてくれて、クッキーを出してくれて、花の名前を教えてくれました」
柚葉先輩の目が、潤んでいるのが見えた。
「水やりの仕方。土の作り方。花がら摘み。種まき。——たくさんのことを教えてもらいました」
小春は、一呼吸置いた。
「でも」
体育館が、しん、と静まった。
「いちばん大切なことは、花のことじゃありませんでした」
原稿は、もう見ていなかった。
「——誰かと一緒にいること。一緒に何かを育てること。それが、こんなに温かいんだって。先輩たちが、教えてくれました」
凛先輩が、目元を手で拭った。
「温室は——いつも、温かかったです」
小春の声が、かすかに震えた。
「寒い冬も。雨の日も。温室に行けば、先輩たちがいて、お茶があって、花が咲いていて。それだけで、大丈夫だって思えました」
真白が、座席でハンカチを差し出しているのが、視界の端に見えた。——自分の方に。
小春は、首を横に振った。泣かない。まだ、言いたいことがある。
「先輩方がいなくなるのは、寂しいです」
正直に、言った。
「でも、先輩方から受け継いだものは、ここにあります。温室に。花壇に。園芸ノートに。——わたしたちの中に」
小春は、深く息を吸った。
「だから、安心して、卒業してください」
柚葉先輩が、泣いていた。静かに、涙を流していた。
隣の凛先輩が、そっと柚葉先輩の手を握っているのが見えた。
「卒業しても、この温室は、ここにあります。いつでも、帰ってきてください」
小春は、一礼した。
「卒業、おめでとうございます」
拍手が起こった。
壇上から降りる時、足がふらついた。席に戻ると、真白が無言でハンカチを渡してきた。
「……ありがとう」
「声、震えてた」
「……うん」
「でも、よかった」
真白の声は、小さかった。でも、はっきりと聞こえた。
「……ありがとう」
---
「続きまして、卒業生代表による答辞」
柚葉が、壇上に上がった。
目元が、まだ少し赤い。——送辞で泣いたから。でも、表情は凛としていた。
「三年間、お世話になりました」
柚葉の声が、体育館に響いた。
「この学校で過ごした日々は、私にとって——かけがえのないものでした」
柚葉は、一呼吸置いた。
「私は、小さい頃、祖母の家の庭が好きでした」
——おばあちゃんの話だ。
小春は、知っていた。柚葉先輩が園芸を好きになった理由。園芸ノートの、いちばん最初のページに書いてあった話。
「祖母は、毎朝、花壇に水をやっていました。『花は、見てなくても咲くよ。でも、見てあげると、もっときれいに咲くんだ』。そう言っていました」
体育館が、静かに聞いている。
「私は、この学校で、同じことを学びました」
柚葉は、在校生の方を見た。
「園芸部で、仲間と一緒に花を育てました。水をやり、土を作り、種を蒔き、芽が出るのを待ちました」
少しだけ、笑った。
「うまくいかないこともありました。芽が出なかったり、虫がついたり、台風が来たり」
凛が、卒業生の席で小さく頷いていた。
「でも——そのたびに、仲間が助けてくれました。一緒に考えて、一緒に手を動かして、一緒に悩んで。花が咲いた時は、一緒に喜んで」
柚葉の声が、少しだけ震えた。
「花を育てることは、待つことです。信じて、水をやり続けて、待つこと。結果がすぐには見えなくても、土の下で、根が伸びていることを信じること」
——園芸ノートに、書いてあった言葉だ。
小春は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「それは——人と人の関係も、同じだと思います」
柚葉は、卒業生の席を見た。凛と目が合った。凛が、ほんの少しだけ頷いた。
「すぐには伝わらなくても。すぐには届かなくても。大切にし続けていれば、ちゃんと——根が張って、芽が出て、花が咲く」
柚葉は、在校生の席を見た。
真白と目が合った。真白が、静かに微笑んでいた。
「後輩の皆さん」
柚葉の声が、少しだけ強くなった。
「この学校を、よろしくお願いします。私たちが大切にしてきた場所を——みなさんが、これからも大切にしてくれると、信じています」
柚葉は、深く息を吸った。
「さよならは、言いません」
微笑んだ。
「また会いましょう。桜の下で」
柚葉が、深く頭を下げた。
拍手が、体育館に響いた。大きな拍手。
小春は、泣いていた。隣の真白が、渡したばかりのハンカチを取り返して、自分の目元を拭った。
---
## 四・校庭の桜
卒業式が終わった。
体育館から校庭に出ると、桜が、まぶしかった。
午前中の陽射しが、満開の桜を照らしている。風が吹くたびに、花びらが舞う。
校庭には、卒業生と在校生、保護者が入り混じっていた。あちこちで写真を撮ったり、花束を渡したりしている。
「詩先輩!」
小春は、詩のもとに駆け寄った。
「小春ちゃん」
詩が、穏やかに微笑んだ。
「卒業、おめでとうございます」
「ありがとう」
「送辞、ちゃんと言えましたか……?」
「うん。途中から原稿見てなかったでしょ」
「……はい」
「よかったよ。すごく」
詩が、小春を抱きしめた。
小春は、少し驚いて——でもすぐに、詩の背中に手を回した。
詩の髪の匂い。詩の体温。
「特に——『いちばん大切なことは花のことじゃなかった』のところ。泣きそうになった」
「泣いてましたよ、詩先輩」
「……ちょっとだけ」
二人は離れて、顔を見合わせて笑った。
「ありがとう、小春ちゃん」
「わたしの方こそ」
「また、水族館行こうね。約束したでしょ」
「はい。春休みに」
「うん」
桜の花びらが、二人の肩に落ちてきた。
小春が、詩の肩の花びらをそっと取った。
「きれいですね、桜」
「うん。——小春ちゃんと見る桜が、いちばんきれい」
小春の顔が、ぱっと赤くなった。
「……っ、先輩!」
「ふふ。——本当だよ」
---
柚葉と凛は、温室の前にいた。
扉は閉めたまま、ガラス越しに中を見ている。
「ここ、好きだったな」
柚葉が言った。
「最初に来た日から、ずっと。この温室の前に立つと、落ち着いた」
「……うん」
凛が、隣に立っていた。
「思い出が、多すぎるくらいある」
「全部覚えてるよ。中一で園芸委員会やって、中二で園芸部作って」
「凛がケーキ焼き始めたのも、中二からだっけ」
「柚葉がお腹すいたって言うから」
「あの時のマドレーヌ、硬かったよね」
「うるさい。最初は誰だって下手なの」
柚葉が、小さく笑った。
「今は、すごく上手になった」
「……当たり前でしょ。五年も焼いてるんだから」
凛は、温室のガラスに視線を向けた。
ガラスの向こうに、シクラメンの鉢が見える。もう花は終わりかけで、葉だけが青々としている。
「あとで、みんなで入ろう」
柚葉が言った。
「最後に」
「……うん」
凛が、柚葉の手を握った。
柚葉が、その手をぎゅっと握り返した。
---
「真白先輩」
遥が来た。
真白は、校庭の隅にいた。桜の木の下で、花びらが舞うのを見ていた。
「……お疲れ」
「先輩も、お疲れさまでした。式、長かったですね」
「まあ、卒業式だし」
遥は、真白の隣に並んだ。
風が吹いて、桜の花びらが降ってきた。
「きれいですね」
「……うん」
「先輩たち、かっこよかったですね。柚葉先輩の答辞、すごかったです」
「うん」
「真白先輩も、泣いてましたか?」
「……泣いてない」
「目、赤いですけど」
「花粉」
「三月に?」
「……うるさい」
遥が、小さく笑った。
真白は——泣いていた。泣かないつもりだったのに。
柚葉先輩の答辞を聞いていて。
「花を育てることは、待つことです」——あの言葉を聞いた時。園芸ノートの、あのページが浮かんだ。
一年前、初めてあのノートを見せてもらった時。柚葉先輩の丸い字で、丁寧に書かれた観察記録。水やりの量、土の配合、開花の日付。そして、時々挟まれる——おばあちゃんへの言葉。
あのノートは、今、真白の鞄の中にある。
昨日の引き継ぎで受け取った。「任せたよ」と言われて、胸に抱いた。
——先輩。ちゃんと、受け取りました。
「真白先輩」
「なに」
「チューリップ、四月には咲きますよ」
「……知ってる」
「先輩たちは見れないけど、写真撮って送りましょう。LINEで」
「そうだね」
真白は、小さく頷いた。
——送ろう。咲いたら。柚葉先輩に。
「遥」
「はい」
「——ありがとう」
「え? なんですか急に」
「なんでもない」
遥が、不思議そうな顔をした。でも、すぐに、にっこり笑った。
「私も、ありがとうございます」
「……何が」
「なんでも」
真白は、ふっと表情が和らいだ。
---
「みんなー! 写真撮ろう!」
小春の声が、校庭に響いた。
六人が、桜の木の下に集まった。
柚葉。凛。詩。小春。真白。遥。
「誰に撮ってもらう?」
「あ、夏希姉に頼みます」
遥が、手を振った。校庭の向こうから、背の高い女の子が駆けてきた。遥のお姉さん——バレー部だった夏希先輩。今日、卒業する。
「遥、写真?」
「うん。お願い」
「任せなさい」
夏希がスマホを受け取った。
六人が、桜の木の前に並んだ。
後列に、柚葉、凛、詩。前列に、小春、真白、遥。
「もうちょっと寄って」
小春が、真白の腕を引いた。真白が、少しだけ寄った。
「遥ちゃんも」
「はい」
遥が、真白の隣に寄った。
「先輩方も」
柚葉が、凛と詩の肩に手を回した。凛が「おい」と言ったけれど、振り払わなかった。
「いくよー」
「はーい」
「三、二、一——」
シャッター音。
桜の花びらが、ちょうどその瞬間、風に舞った。
「もう一枚!」
「今度は変顔で!」
「しない」
真白が言ったけれど、小春がすでにほっぺたを膨らませていて、遥がピースサインをしていて、凛が柚葉の頬をつまんでいた。
もう一度、シャッター音。
「はい、撮れた」
夏希がスマホを返した。
六人で、画面を覗き込んだ。
一枚目。桜の下で、六人が笑っている。花びらが、ちょうど六人の上を舞っている。偶然にしては、出来すぎなくらいきれいだった。
二枚目。小春の頬が膨らんで、遥がピースで、凛が柚葉の頬をつまんで、柚葉が目を丸くして、詩が小さく笑っていて、真白が——ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
「いい写真」
柚葉が言った。
「うん。最高」
凛が、珍しく素直に言った。
---
## 五・最後の温室
昼過ぎ。
校庭の人が少しずつ帰り始めた頃、六人は温室に向かった。
柚葉が、扉を開けた。
温室の中は、温かかった。三月の陽射しが、ガラスを通して降り注いでいる。
シクラメンは花が終わりかけていたけれど、葉はまだ青々としている。ゼラニウムの赤い花が窓際で咲いていて、棚の上にはまだ小さなパンジーの苗が並んでいた。
いつもの匂い。土と、緑と、少しだけ湿った空気。
「座ろう」
六人は、いつもの席に座った。
テーブルの上に、六つのカップ。
真白が、お茶を淹れた。
柚葉先輩に教わった入れ方。お湯の温度は八十五度。蒸らし時間は二分。
六つのカップに、紅茶を注いだ。
柚葉が、一口飲んだ。
「——おいしい」
「ちょうどいい濃さ」
凛が言った。
真白は、何も言わなかった。でも、ほっとした。
柚葉先輩の紅茶は、いつも少し薄かった。真白は、一年かけて、ちょうどいい濃さを覚えた。
「あたし、今朝焼いたの」
凛が、紙袋から取り出した。花の形のレモンクッキー。
「凛先輩のクッキー!」
「最後だからね」
「最後って言わないでください」
小春が言った。
「……そうだね。最後じゃない。また焼いてくるから」
凛が、少しだけ笑った。
六人で、クッキーを食べた。レモンの香りが、温室に広がった。
「おいしい」
「うん」
「凛先輩のクッキー、世界一です」
遥が言った。
「大げさ」
「大げさじゃないです」
小春も頷いた。
しばらく、静かにお茶を飲んだ。
温室の中は、穏やかだった。陽射しが、テーブルの上に四角い光を作っている。
——昨日の、最後の部活を思い出す。
柚葉先輩が淹れた(やっぱり薄い)紅茶と、凛先輩の花形クッキー。泣いて、笑って、「また来るね」と約束した。
今日は、もう涙はない。——いや、もう十分泣いた。卒業式で。
穏やかだった。六人でお茶を飲むこの時間が、いつもと変わらなくて。
「——ねえ」
柚葉が言った。
「お願いがあるんだけど」
「なんですか」
真白が顔を上げた。
「園芸ノート、少しだけ借りてもいい?」
「え?」
「最後に、一つだけ書きたいことがあって」
真白は、鞄から園芸ノートを取り出した。
もう真白のものなのに——まだ、柚葉先輩のノートだと思ってしまう。
「どうぞ」
柚葉は、ノートを受け取った。
最後のページを開いて——そこに、ペンを走らせ始めた。
みんな、黙って待った。
柚葉が書いている間、凛が窓の外を見ていた。詩が、静かに目を閉じていた。小春は、テーブルの下でそっと詩の手に触れた。詩が、その手を握り返した。
真白は、柚葉の手元を見つめていた。丸い字。いつもと同じ、丁寧な字。
遥が、真白の隣で、そっと座っていた。
ペンが止まった。
柚葉が、ノートを閉じて——真白に返した。
「ありがとう。大事に使ってね」
「……はい」
真白は、ノートを受け取って、鞄にしまった。
——あとで読もう。一人になってから。
「じゃあ」
柚葉が、立ち上がった。
「行こうか」
みんなが、立ち上がった。
温室を出る前に、柚葉は振り返った。
温室の中を、ゆっくりと見回した。
テーブル。椅子。棚の上の花。窓から差し込む光。
「ありがとう」
小さな声で言って、扉を閉めた。
---
## 六・校門で
校門の前。
三年生の保護者たちが、迎えに来ていた。
柚葉は、校門を出る前に立ち止まった。
振り返った。校庭の桜が、満開だった。
「いい学校だったな」
「うん」
凛が、隣に立った。
「三年間——ううん。五年間か。中一からだから」
「長かったね」
「あっという間だった」
凛が、少し間を置いて、言った。
「……おまえがいたから」
柚葉が、少しだけ驚いた顔をした。
凛が、すぐに目を逸らした。
「……言うな」
「何も言ってない」
「顔に出てる」
柚葉が、ふふっと笑った。
そして、凛の手を握った。
凛は——今度は、逸らさなかった。
---
「詩先輩」
小春が、詩のもとに来た。
「小春ちゃん。送迎もう来てるみたい」
「はい。——あの」
小春は、少し言い淀んだ。
「……寂しいです」
正直に言った。
詩が、微笑んだ。
「うん。私も」
「でも——大丈夫です。先輩と約束したから」
「春休みの水族館」
「はい。あと、手紙」
「手紙?」
「詩先輩、前に言ってましたよね。『会えない日に書く手紙は、きっといい手紙になる』って」
詩が、少し目を見開いた。——覚えていたんだ。
「書きます。わたし、先輩に手紙書きます」
「……楽しみにしてる」
詩が、そっと小春の手を握った。
「じゃあね、小春ちゃん。またすぐ会おう」
「はい。またすぐ」
手を離した。
詩が、柚葉と凛のもとに歩いていった。
三人の背中が、並んでいる。
---
小春と真白と遥は、校門の内側に立って、三人を見送った。
三人が、歩いていく。
桜の花びらが、後ろから追いかけるように舞っている。
柚葉と凛は、手を繋いでいた。詩が、その隣を歩いていた。
三人は——途中で、振り返った。
手を振った。
小春が、大きく手を振り返した。
「先輩! またね!」
柚葉が、笑って頷いた。
凛が、片手を上げた。
詩が、にっこり笑った。
三人の姿が、桜並木の向こうに、少しずつ小さくなっていった。
小春は——見えなくなるまで、手を振っていた。
「……行ったね」
真白が言った。
「うん」
小春が、目を拭った。
「行っちゃったね」
遥が、真白の隣に立っていた。
「私たちが、繋いでいくんですね」
遥が言った。真白を見て、小春を見て。
真白は、校庭を見渡した。
桜の木。花壇。温室。校舎。
——先輩たちが愛した場所。
「明日から、私たちの温室だ」
真白が言った。
小さな声だったけれど、しっかりした声だった。
遥が、にっこり笑った。
「はい。よろしくお願いします、部長」
小春が、真白の肩をぽんと叩いた。
「頼りにしてるよ、部長」
「……うるさい」
でも——真白の口元は、ほんの少しだけ、上がっていた。
---
## 七・園芸ノート
夕方。
真白は、自分の部屋にいた。
制服を脱いで、部屋着に着替えた。窓の外が、夕焼けに染まっている。
机に座って——鞄から、園芸ノートを取り出した。
柚葉先輩が、温室で最後に書いたページ。
真白は、ゆっくりとノートを開いた。
---
> 柚葉の園芸ノート 3月15日(土)晴れ
>
> 卒業した。
>
> 今朝、桜が満開で——卒業式にちょうど間に合った。
>
> 卒業証書、代表で受け取った。
> 手が震えた。練習ではちゃんとできたのに。
>
> 小春ちゃんの送辞で泣いた。
> 「いちばん大切なことは花のことじゃなかった」——そう言ってくれた時、
> 私がこの二年間、伝えたかったことが、ちゃんと伝わっていたんだって。
>
> 答辞で、おばあちゃんの話をした。
> 「花は、見てなくても咲くよ。でも、見てあげると、もっときれいに咲くんだ」
> 何百人の前でこの言葉を言えて、よかった。
>
> 温室に、最後に寄った。
> 真白ちゃんが淹れてくれた紅茶は、ちょうどいい濃さだった。
> 私の紅茶は、最後まで薄かった。でも、凛は一回も文句言わなかった。
> ——それ自体が、凛の優しさだと、卒業する今になって気づく。
>
> 凛がクッキーを焼いてきた。花の形。レモン味。
> 五年間、ずっと焼いてくれた。
> 最初のマドレーヌは硬かった。今のクッキーは、世界一おいしい。
>
> 詩が、目を閉じていた。
> あの子は、言葉にする前に、全部感じ取っている。
> いつか詩が書いてくれた「温室の午後」——あれは、私の宝物だ。
>
> ---
>
> おばあちゃん。
>
> 私、ちゃんと花を育てられたよ。
>
> 一人じゃなかった。
> 大切な人たちが、一緒にいてくれた。
>
> 温室の花は——ちゃんと咲き続けるよ。
>
> 真白ちゃんが、いるから。
>
> 安心して。
---
真白は、ノートを閉じた。
しばらく、動かなかった。
目元が、熱い。
——泣いてない。
——泣いて、ない。
真白は、目を閉じた。
ノートを、胸に抱いた。
——柚葉先輩。
——ありがとう、ございます。
---
しばらくして。
真白は、机の引き出しを開けた。
新しいノートが入っている。無地の、まだ何も書いていないノート。
一週間前に、文房具屋で買った。柚葉先輩の園芸ノートと、同じくらいの大きさ。
表紙を開いた。
ペンを持った。
最初のページの上の方に、書いた。
> 真白の園芸ノート 3月15日(土)晴れ
——ここから。
真白は、ペンを走らせた。
> 今日、柚葉先輩が卒業した。
>
> 卒業式の後、温室に寄った。六人で。
> 私がお茶を淹れた。「おいしい」と言ってもらえた。
>
> 柚葉先輩が、ノートの最後のページに何か書いていた。
> さっき読んだ。
>
> 「温室の花は——ちゃんと咲き続けるよ。真白ちゃんが、いるから」
>
> ——安心、してください。
>
> 明日から、私がこの温室を守ります。
ペンを置いた。
真白は、柚葉先輩のノートと、自分のノートを——並べて置いた。
窓の外では、桜の花びらが、夕焼けの中を舞っていた。
二冊のノートが、机の上で並んでいる。
——つづきは、明日から。




