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陽だまりの庭  作者: はるうた
第二部 花ひらくとき

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第21章 卒業の季節

## 一・一月の温室


一月。


冬の朝日が低く差し込む温室は、外の空気とは別世界だった。


窓ガラスに結露が浮かび、そこから透ける光が、白くぼんやりと床を照らしている。シクラメンの赤が、その光の中でいっそう鮮やかだった。


「今日も、先輩たちは来ないね」


小春が、じょうろを傾けながら言った。


「受験だから」


真白が答えた。短く、いつも通り。


「柚葉先輩から昨日LINE来てた。『シクラメンの花がら、こまめに摘んでね』って」


「……知ってる。私にも来た」


真白は、シクラメンの萎れた花を丁寧に摘んでいた。茎の根元をそっとひねって、すっと抜く。柚葉から教わったやり方だった。


「私にも来ましたよ」


遥が、パンジーの鉢に水をやりながら言った。


「先輩、受験勉強の合間にLINEしてるんですね」


「柚葉先輩らしいよね」


小春が笑った。


---


三年生が温室に来なくなって、二週間が過ぎていた。


十二月のクリスマス以降、柚葉と凛は受験勉強に専念するようになった。詩は推薦で文学部の合格が決まっていたけれど、「邪魔しないように」と、二人と一緒に図書室にいることが多いらしい。


温室の管理は、自然と小春たち三人の仕事になった。


「パンジー、水切れ注意ですね。冬でも日当たりがいい場所は乾きやすいから」


遥がメモノートを見ながら言った。夏から続けているノートは、三冊目に入っていた。水やりの量、肥料のタイミング、花の状態。遥の字は小さくて丁寧で、ところどころに花のスケッチが添えてある。


「遥ちゃん、すっかり頼もしくなったね」


小春が言うと、遥は少し照れたように笑った。


「まだまだです。柚葉先輩みたいには全然……」


「でも、水やりの加減、すごく上手くなったよ」


真白が言った。


遥が、ぱっと顔を上げた。真白に褒められることは、まだ少し珍しい。


「あ、ありがとうございます」


真白は、もう次のシクラメンに目を移していた。


小春は、そんな二人を見て、少しだけ微笑んだ。


---


温室の棚の隅に、柚葉の園芸ノートがあった。


三年間の記録が詰まった、少し黄ばんだ大学ノート。表紙に「園芸部」と柚葉の字で書いてある。


真白は、時々そのノートを開いた。


一月の管理について。「シクラメン——15℃前後を保つ。暖房の風が直接当たらないように。花がら摘みは根元から。葉組みも忘れずに」。柚葉の字は少し丸くて、読みやすい。ところどころに小さなイラストが描いてある。


「葉組み……」


真白は、シクラメンの葉を持ち上げて、中心に光が入るように整えた。柚葉がいなくても、柚葉が残したものが、温室を守ってくれている。


---


「はい、お茶」


小春が紅茶を淹れた。三人分。いつもは六つ並ぶカップが、三つだけ。テーブルが、少し広く感じる。


「……静かだね」


小春が呟いた。


「柚葉先輩がいないと、話す量が半分になるから」


真白が言って、遥が小さく笑った。


「凛先輩のお菓子もないし」


「うん。ちょっと寂しい」


三人は、紅茶を飲んだ。アールグレイ。クリスマスの時と同じ茶葉だった。


「でも」


遥が言った。


「三人でもちゃんと温室は回せてますよね」


「うん」


小春が頷いた。


「先輩たちが安心して受験に集中できるように、しっかりやろう」


「そうだね」


真白が、静かに言った。


窓の外は、一月の冬空。灰色がかった青に、雲がゆっくり流れている。


温室の中だけが、温かかった。


---


## 二・受験の冬


凛の家の台所。夜の十一時。


参考書を閉じた凛は、エプロンをつけた。


受験勉強の後は、練習だった。大学の実技試験に向けて、毎晩ケーキを一台焼く。今日はシフォンケーキ。卵白の泡立て加減で、仕上がりが全然違う。


メレンゲを立てながら、凛は考えた。


——あと二週間。


大学の入試は、二月の第一週。筆記と実技がある。筆記は食品衛生や栄養学の基礎。実技は「スポンジケーキを焼いてクリームで仕上げる」。


筆記は何とかなる。問題は実技だった。制限時間内に、どれだけきれいに仕上げられるか。


卵白がつやつやのメレンゲになった。角が立つ。よし。


——大丈夫。五年間、焼き続けてきたんだから。


スマホが鳴った。柚葉からのLINE。


「まだ起きてる?」


「ケーキ焼いてる」


「この時間に?」


「練習」


少し間があって、返事が来た。


「頑張りすぎないでね。凛のケーキは、もう十分おいしいから」


凛は、画面を見て、耳が熱くなるのを感じた。


「……柚葉こそ。勉強、無理しないで」


「農学部の過去問、やっと七割取れるようになった」


「すごいじゃん」


「でも、土壌学がまだ苦手で……」


「柚葉なら大丈夫。学校の花壇の土、毎年ちゃんと作り変えてたでしょ。あれ、土壌学の実践じゃん」


しばらく、既読のまま返事がなかった。


それから——


「凛って、たまにすごいこと言うよね」


「別に。普通のこと」


「ありがとう。元気出た」


「……おやすみ」


「おやすみ。ケーキ、焼きすぎないでね」


凛は、スマホを置いた。


シフォンケーキの焼ける匂いが、台所に広がっている。甘くて、少し香ばしい。


——大丈夫。二人とも。


オーブンの窓から、ゆっくり膨らむ生地を見つめた。


---


図書室。放課後。


凛と柚葉は隣同士で勉強していた。


柚葉の机には、生物と化学の参考書が積んである。蛍光ペンで色分けされたノートが開いている。光合成の仕組みのページに、小さな花のイラストが描いてあった。覚え方の工夫らしい。


凛の机には、食品衛生学のテキストと、レシピノートがあった。食品衛生の内容を、お菓子作りの文脈で覚える。「卵の加熱温度と凝固」のところに、「カスタードの炊き方と同じ」とメモしてある。


詩は、二人の向かい側に座っていた。文庫本を読みながら、時々二人の質問に答える。推薦合格で時間に余裕のある詩は、自然と勉強仲間のサポート役になっていた。


「ねえ、詩。『生態系における一次生産者の役割』って、要するに何?」


柚葉が小声で聞いた。


「植物が太陽の光を使って有機物を作ること。食物連鎖の土台」


「あ、つまり、花壇で花が育つのと同じ?」


「そう。温室が小さな生態系だと思えばいい」


「なるほど……」


柚葉がノートに書き込む。その真剣な顔を、凛がちらりと見た。


——頑張ってるな。


目を参考書に戻す。食品衛生の問題集を、もう一ページ。


---


二月に入った。


空気が、少しだけ変わった。まだ寒いけれど、日差しに力が出てきた。校庭の梅が、つぼみをつけ始めている。


「あと五日」


凛が呟いた。


大学の入試が、五日後に迫っていた。


最後の追い込み。実技の練習は毎晩。筆記の復習は通学の電車の中で。睡眠時間を削りたくなるけれど、柚葉に「体調崩したら本末転倒だよ」と釘を刺されている。


「柚葉は、あと何日?」


「十日」


「……近いね」


「うん」


二人は、図書室で向かい合っていた。詩は今日、別の用事で来ていない。


柚葉が、ふと手を止めた。


「ねえ、凛」


「なに」


「受験、終わったらさ」


「うん」


「温室に行こう。みんなで」


凛は、顔を上げた。


柚葉は、少しだけ疲れた顔で、でも穏やかに笑っていた。


「クリスマスから、ずっと行けてないから。小春ちゃんたちに、お礼言いたい」


「……うん」


凛は、頷いた。


「行こう」


柚葉の手が、テーブルの上で凛の手に触れた。ほんの一瞬。指先が、軽く重なって、離れた。


それだけで——大丈夫だと思えた。


---


## 三・合格の報せ


二月七日。


凛の合格発表は、ウェブサイトで午前十時に掲載された。


教室で、スマホの画面を見る手が震えていた。


受験番号を探す。一覧がスクロールされていく。


——あった。


自分の番号が、そこにあった。


凛は、一度画面を閉じて、もう一度開いた。もう一度、番号を確認した。


間違いない。


「……受かった」


声に出してみた。小さな声。でも、確かな声。


廊下に出て、柚葉にLINEを送った。


「受かった」


三秒で既読がついた。


電話が鳴った。


「凛!」


柚葉の声が、弾んでいた。


「受かったんだね! おめでとう! すごい! やっぱり! 凛なら絶対受かると思ってた!」


「……うるさい」


凛は、笑いながら言った。目が、滲んでいた。


「泣いてる?」


「泣いてない」


「泣いてるでしょ」


「……ちょっとだけ」


柚葉が、電話の向こうで笑った。優しい笑い声だった。


「よかった。本当に、よかった」


「……うん」


凛は、廊下の窓から空を見上げた。二月の空が、澄んでいた。


---


二月十七日。


柚葉の合格発表の日。


朝から、凛は落ち着かなかった。自分の試験の時より緊張している気がした。


午前十一時。柚葉から連絡が来た。


画像が一枚。大学の掲示板の写真。柚葉の受験番号のところに、赤い丸がつけてある。


その下に、一言。


「農学部、合格しました」


凛は、教室の自分の席で、スマホを握りしめた。


——よかった。


ほっとした瞬間、涙が出た。自分の合格の時より、たくさん。


「おめでとう」


打った文字が、涙で滲んで見えにくかった。


「ありがとう。凛のおかげ」


「あたし、何もしてない」


「いたよ。隣に」


凛は、スマホを胸に押し当てた。


教室の窓から、二月の空が見えた。梅が、咲き始めていた。


---


詩は、職員室の帰りに二人からの連絡を受け取った。


柚葉のLINEを読んで、詩は静かに微笑んだ。


「三人とも、決まったね」


推薦の結果が出たのは、十二月だった。文学部、合格。あの日は、一人で図書室にいて、静かに泣いた。嬉しかったけれど、それ以上に——ここで培ったものが、認められた気がして。


三人の進路が、これで全部決まった。柚葉は農学部。凛は桜丘大学の調理科学科。詩は文学部。


「みんな、ちゃんと自分の道を見つけたんだな」


詩は、廊下を歩きながら、温室の方を見た。ガラスが、冬の日差しを反射してきらきら光っている。


——次は、後輩たちの番だ。


---


その日の放課後。


三年生三人が、久しぶりに温室にやってきた。


「合格、おめでとうございます!」


小春が、真っ先に声を上げた。


「ありがとう」


柚葉が笑った。


「柚葉先輩、農学部! 凛先輩、調理科学科! 詩先輩、文学部! みんなすごい!」


「小春ちゃん、声大きい」


凛が言ったけれど、その顔はほころんでいた。


遥が、棚からカップを六つ出した。久しぶりの六つ。テーブルの上に並べると、ちょうどよく収まった。


「紅茶、淹れますね」


小春がお湯を沸かした。アールグレイ。クリスマスの時に柚葉が持ってきた茶葉が、まだ残っていた。


「おめでとうございます」


真白が、柚葉に向かって言った。


静かだけれど、まっすぐな声だった。


「ありがとう、真白ちゃん」


柚葉が答えた。


真白は、小さく頷いた。胸に、痛みはなかった。本当に、なかった。


ただ——よかった、と思った。


「受験の間、温室を守ってくれて、ありがとう」


柚葉が、三人に向かって言った。


「シクラメンも、パンジーも、ちゃんと元気だね。花がらもきれいに摘んであるし、葉組みもしてある」


「真白先輩が、柚葉先輩のノートを見ながらやってました」


遥が言った。


真白が、少しだけ目を逸らした。


「ノート、見てくれてたんだ」


柚葉が嬉しそうに笑った。


「……先輩の書いてあることが、いちばんわかりやすかったから」


「そう言ってもらえると、書いた甲斐があったよ」


六人で、テーブルを囲んだ。いつもの場所に、いつもの顔。


「やっぱり、六人がいいですね」


遥が言った。


みんなが、頷いた。


紅茶の湯気が、温室の光の中で、ゆらゆら揺れていた。


---


「でも」


凛が、紅茶のカップを両手で包みながら言った。


「これからは、三人でやっていくことになるんだよね」


小春は、少しだけ胸が苦しくなった。


わかっていた。受験が終われば、次は卒業。三年生がいなくなる日が、もうすぐ来る。


「そうだね」


柚葉が言った。


「だから——引き継ぎ、ちゃんとしないとね」


---


## 四・引き継ぎ


二月の最終週。


温室で、引き継ぎが行われた。


柚葉が、ノートとファイルを広げた。三年間分の記録。花壇の配置図、年間スケジュール、備品リスト、予算の使い方。


「まず、部長を決めよう」


柚葉が言った。小春と真白を、交互に見た。


「どっちが部長をやる?」


小春は、口を開きかけた。


「——私がやります」


真白が、先に言った。


静かな声だった。でも、迷いがなかった。


小春は、少し驚いた。真白が、自分から手を挙げるなんて。


「真白ちゃん、いいの?」


柚葉が聞いた。


「はい」


真白は、柚葉をまっすぐ見た。


「先輩たちが作ってくれたこの場所を、ちゃんと守りたいです。引き継いで、次に繋いでいきたい」


小春は、親友の横顔を見た。


「真白ちゃん、ありがとう。任せるね」


柚葉が、微笑んだ。


「はい。頑張ります」


「じゃあ、副部長は小春ちゃんで」


「はい。真白を支えます」


小春が答えた。


「遥ちゃんも、来年は二年生だね」


「はい。先輩たちに教えてもらったこと、後輩に伝えていきます」


「頼もしいね」


柚葉が言った。


---


引き継ぎは、丁寧に行われた。


花壇の管理。季節ごとの花の選び方。土の作り方。肥料のタイミング。


「春はパンジーとチューリップ。四月に新入生が来る頃には満開になるように、今のうちに球根を追加しておくといいよ」


柚葉が説明し、真白がノートに書き取っていた。遥も、自分のメモノートに細かく記録している。


「夏は水やりの頻度が上がるから、当番をちゃんと回してね。暑い日は朝と夕方の二回」


「はい」


「秋の文化祭は、早めに企画を決めておくのがコツ。去年みたいにドライフラワーとか、ブーケ販売とか、何かテーマを作ると楽しいよ」


小春が頷きながら聞いている。


「それから——」


柚葉が、一冊のノートを取り出した。


園芸ノート。三年間の記録が詰まった、あの大学ノート。


「これ、真白ちゃんに」


真白は、差し出されたノートを、両手で受け取った。


少し黄ばんだ表紙。「園芸部」の文字。開くと、花の絵と、丁寧なメモと、たまに挟まった押し花。


「三年間、書いてきたの。花のこと、土のこと、気をつけることとか。たぶん、役に立つと思う」


「……ありがとうございます」


真白は、ノートを、大事そうに胸に抱いた。


柚葉が書いた言葉が、ここに全部ある。三年分の知識と、三年分の想いが。


「私、ちゃんと読みます」


「うん。困ったことがあったら、いつでも連絡してね」


---


凛は、キッチン周りの引き継ぎをしていた。


「お茶の淹れ方。紅茶はアールグレイが温室に合う。ポットは温めてから。お湯の温度は熱すぎないように」


「はい」


小春が真剣に聞いている。


「お菓子は、あたしが時々持ってくるから」


「え、いいんですか? 卒業しても?」


「……べつに。作りすぎた時に、ついでに」


凛は、横を向いた。耳が、少し赤かった。


「凛先輩の照れ方、変わらないですね」


遥が小さな声で言って、小春が笑った。


「うるさい」


凛が言ったけれど、声は柔らかかった。


---


詩は、別のことを引き継いでいた。


温室の棚に並んだ本。花言葉の辞典、園芸の入門書、それから——詩が寄贈した詩集が数冊。


「この本たち、よかったら使ってね」


詩が言った。


「花言葉は、お客さんに聞かれることもあるから、知っておくと便利だよ」


「はい」


小春が頷いた。


「それから、小春ちゃん」


「はい?」


「送辞、頑張ってね」


小春は、はっとした。


在校生代表の送辞。担任に指名されたのは、先週のことだった。卒業式で、壇上に立つ。


「……まだ、何を言えばいいか全然決まってなくて」


「思ったことを、そのまま言えばいいよ」


詩が微笑んだ。


「小春ちゃんの言葉は、いつもまっすぐだから。きっと届く」


「詩先輩……ありがとうございます」


小春は、少しだけ心が軽くなった。


---


## 五・最後の部活


三月。卒業式まで、あと二日。


放課後、六人が温室に集まった。


「最後の部活だね」


柚葉が言った。


温室には、春の花が咲き始めていた。チューリップの芽が、土からすっと伸びている。パンジーは、まだ元気に咲いている。シクラメンは、そろそろ終わりに近い。


季節が、動いている。


「今日は、私がお茶を淹れるね」


柚葉が、ポットに手を伸ばした。


「え、いいんですか?」


「うん。最後だから」


いつもは凛か小春が淹れていた紅茶を、今日は柚葉が淹れた。少しぎこちない手つきで、お湯を注ぐ。


「柚葉、お湯入れすぎ」


凛が横から言った。


「あ……」


「蒸らす時間は三分」


「わかってるよ」


「わかってないでしょ。いつも凛に淹れてもらってるから」


小春たちが笑った。


三分後。カップに注がれた紅茶は、少し薄かった。


「……ごめん」


「いいよ。柚葉が淹れた紅茶、初めて飲んだ」


凛が、カップを持ち上げた。


「味は、まあまあ」


「まあまあって……」


「十分だよ」


凛が、小さく笑った。その笑い方が柔らかくて、柚葉は少し照れたように目を逸らした。


---


凛は、朝焼いたクッキーを出した。


レモンのアイシングクッキー。花の形。六枚、一人一枚ずつ。


「最後の部活だから、ちょっと気合い入れた」


「かわいい……」


遥が目を輝かせた。


「凛先輩のクッキー、大好きです」


「……ありがと」


六人で、テーブルを囲んだ。薄い紅茶と、花の形のクッキーと、温室の春の光。


「思い出すね」


柚葉が言った。


「入部した日のこと。小春ちゃんと真白ちゃんが見学に来てくれて、凛のクッキーを食べて——」


「あの時のクッキー、すごくおいしかったです」


小春が言った。


「それで入部を決めた、みたいなところあるよね」


「食い物で釣られたみたいに言わないで」


凛が言って、みんなが笑った。


「雨の日の温室、覚えてる?」


詩が言った。


「花言葉の話をしたよね。みんなの好きな花」


「小春ちゃんが、マーガレットって言ってた」


「詩先輩は、紫陽花でしたよね」


「うん。今でも好き」


詩は、小春を見て微笑んだ。紫陽花の花言葉——「移り気」。でも、もうひとつの意味は「辛抱強い愛」。


小春は、その目を見て、少しだけ胸が温かくなった。


「海にも行ったよね」


柚葉が言った。


「詩が泳げなくて、小春ちゃんが教えてあげて」


「あれ、楽しかったな」


「私は溺れかけたけど」


詩が言って、また笑いが起きた。


「文化祭も楽しかった」


遥が言った。去年の秋。ドライフラワーのブーケ。たくさんのお客さん。みんなで忙しくて、みんなで笑った。


「全部、楽しかったね」


柚葉が言った。


「この温室で過ごした時間、全部」


---


「ちょっと、聞いて」


柚葉が、姿勢を正した。


「卒業する前に、ちゃんと伝えたいことがあるの」


みんなが、柚葉を見た。


「まず、小春ちゃん、真白ちゃん、遥ちゃん。受験の間、温室を守ってくれて、本当にありがとう」


「はい」


三人が答えた。


「シクラメンの花がら、ちゃんと摘んでくれてたね。葉組みもしてあった。パンジーの水やりも、チューリップの芽出しも。全部、ちゃんとしてあって——」


柚葉の声が、少し震えた。


「安心した。この子たちに任せて大丈夫だって、思えたよ」


「柚葉先輩……」


小春が、目を潤ませた。


「園芸部を作って、本当によかった。みんなと出会えて、本当に——」


柚葉の目に、涙が浮かんだ。


「幸せだった」


---


「あたしからも」


凛が口を開いた。少し照れくさそうに、でもまっすぐに。


「お菓子を焼くのが好きで、いつも温室に持ってきてたけど。食べてもらえるのが、嬉しかった」


「おいしかったです。いつも」


遥が言った。


「凛先輩のケーキで、部活の後がもっと楽しくなりました」


小春が言った。


「……ありがと」


凛は、横を向いた。


「卒業しても、作るから。時々、持ってくる」


「楽しみにしてます」


凛の耳が赤い。でも、口元は笑っていた。


---


「私も」


詩が言った。


「みんなに、感謝してる」


詩は、小春を見た。


「小春ちゃん。私の詩を読んでくれて、ありがとう。『すごいですね』って、最初に言ってくれたの、小春ちゃんだったよね」


「はい」


小春は頷いた。図書室で、詩のノートを初めて見た日のことを、覚えている。


「あの時、すごく嬉しかった。誰にも見せたことがなかったから。怖かった。でも、小春ちゃんが読んでくれて——勇気をもらった」


詩は、少しだけ目を伏せた。


「コンクールに出す勇気も。大切なことを伝える勇気も。全部、小春ちゃんのおかげ」


「詩先輩……」


小春の目から、涙がこぼれた。


詩は、テーブルの下で、そっと小春の手に触れた。指先が重なる。


「これからも、よろしくね」


「はい。こちらこそ」


小春は、その手をぎゅっと握り返した。


---


「泣かないって決めてたのに」


柚葉が、目元を拭った。


「泣いていいよ」


凛が、柚葉の肩にそっと手を置いた。


「ずっと部長で、みんなを引っ張ってきたんだから。最後くらい、泣いていい」


「凛……」


「あたしも、ちょっと泣きそうだけど」


凛の声が、わずかに震えていた。


みんな、静かに涙を拭っていた。


悲しいだけじゃない。嬉しさも、感謝も、いろんな気持ちが混ざっている。


遥は、自分も泣いていることに気づいた。入部してまだ一年も経っていないのに。でも——この温室で過ごした時間は、遥にとっても大切なものだった。


「……ありがとうございます。私を受け入れてくれて」


遥が、小さな声で言った。


「遥ちゃん」


柚葉が微笑んだ。


「入ってくれて、ありがとう。遥ちゃんが来てから、温室がもっと賑やかになったよ」


「花のこと、たくさん教えてもらいました。まだまだ知らないことだらけだけど……もっと勉強します」


「遥ちゃんなら大丈夫。真白ちゃんと小春ちゃんと一緒に、いい部にしてね」


「はい」


遥は、しっかりと頷いた。


---


## 六・さようなら、初恋


みんなでお茶を飲み終わった後、少しだけ時間が空いた。


小春と詩は、棚の花に水をやりながら、小声で話している。凛と遥は、テーブルを片付けている。


柚葉が、真白に声をかけた。


「真白ちゃん」


「はい」


「ちょっと、いい?」


二人は、温室の奥——シクラメンの棚の前に立った。赤い花が、まだいくつか咲いている。ピークは過ぎたけれど、最後の力で咲いている花が、ぽつぽつと。


「ありがとう」


柚葉が言った。


「いつも、静かに支えてくれて」


「……私は、何も」


「ううん。真白ちゃんがいてくれたから、安心だったよ。丁寧で、真面目で、頼りになった」


真白は、黙って聞いていた。


「受験の間も、温室をちゃんと守ってくれてた。ノートも読んでくれてた。嬉しかった」


柚葉は、真白の顔を覗き込んだ。


「部長、任せたね」


「……はい」


真白は、小さく頷いた。


柚葉が、そっと真白の頭に手を伸ばした。ぽん、と軽く触れて、そのまま優しく撫でた。


温かい手だった。少し大きくて、少し荒れていて——園芸を続けてきた人の手。


真白は、目を閉じた。


——この手に触れられるのも、たぶん、これが最後だ。


でも、不思議と悲しくなかった。


思い出が、静かに巡った。


入部した日のこと。柚葉に「見学に来ない?」と声をかけられた日。あの日から、ずっと——この人のことが好きだった。


水やりを教えてもらった日。誕生日のサプライズ。文化祭の買い出し。花火の夜。マフラーを受け取って嬉しそうだった凛先輩の姿。


全部、眩しかった。


全部、胸が苦しかった。


でも、全部——大切な思い出だ。


今は、痛みなく振り返ることができる。柚葉は幸せそうだ。凛と一緒にいて、嬉しそうだ。進路が決まって、未来に向かって歩いている。


それで——十分だ。


胸が、きゅっとなった。


でもそれは、痛みじゃなかった。温かさだった。何かを手放す時の、静かな温もり。


——さようなら、初恋。


心の中で、そっと呟いた。


——ありがとう。好きになれて、よかった。


柚葉の手が、真白の頭から離れた。


真白は、目を開けた。


「真白ちゃん、立派な部長になるよ。私が保証する」


「……はい」


真白は、笑った。


いつもの控えめな笑みではなく——少しだけ、晴れやかな笑みだった。


---


温室の入口のそばで、遥がほうきを持ったまま、二人の方をそっと見ていた。


真白が笑った顔が見えた。


——よかった。


遥は、そう思った。


真白先輩のそばにいると、安心する。入部した頃から、ずっとそうだった。真白の植え替えの手つきが丁寧で、真白の短い言葉が温かくて、真白が時々見せる静かな笑みが——好きだった。


でも、その気持ちがどういう意味なのか、遥にはまだよくわからなかった。


わからないけれど——真白が笑ってくれるなら。それだけで、嬉しかった。


真白が柚葉のそばから戻ってきた。


遥は、何も言わずに、真白の隣に立った。ただ、そばにいるだけ。


真白が、ちらりと遥を見た。


「……何?」


「いえ。何も」


遥は、小さく首を振った。


少し間があった。


真白が、ぽつりと言った。


「……ありがとう」


「え?」


「別に。何でもない」


真白は、前を向いた。


遥は——わからないけれど——真白が何に「ありがとう」と言ったのか、何となくわかった気がした。


そばにいてくれて、ということなのだと思う。


遥は、少しだけ頬が温かくなるのを感じた。


---


## 七・卒業式の前夜


夕暮れ。


六人は、温室の外に出た。


三月の夕焼けが、温室のガラスを赤く染めている。


振り返った柚葉が、その景色を見て、立ち止まった。


「きれい」


呟いた。


ガラスの中に、シクラメンの赤と、パンジーの紫が透けて見える。夕日の光が、温室の中をオレンジ色に満たしている。


「また来るね」


柚葉が言った。


「約束したから。クリスマスに——でも、それだけじゃなくて。きっと、もっと来ちゃうと思う」


「いつでも来てください」


小春が答えた。


「先輩たちの場所でもありますから」


「ありがとう」


柚葉が笑った。涙の跡が、夕日に光っている。


「じゃあ、帰ろう」


凛が言った。


「明日は、卒業式だから」


---


六人で並んで歩いた。校門を出て、しばらくはみんな一緒だった。


いつもの通学路。桜並木が、咲き始めていた。七分咲きくらい。あと一日か二日で、満開になりそうだった。


最初の分かれ道で、詩と小春が立ち止まった。


「じゃあ、私はこっち」


詩が言った。


「小春ちゃん、途中まで一緒に帰ろう」


「はい」


みんなに手を振って、二人は並んで歩き出した。


「送辞、準備できた?」


詩が聞いた。


「一応……でも、まだ不安で」


「大丈夫だよ」


「詩先輩が答辞を書いてくれたら、もっと安心なのに」


「答辞は柚葉だよ。私じゃなくて」


「柚葉先輩の答辞も、きっと素敵ですよね」


「うん。柚葉らしい、温かい答辞になると思う」


二人は、しばらく黙って歩いた。街灯が、ぽつぽつと灯り始めている。


「詩先輩」


「うん?」


「卒業しても、詩、書いてくださいね」


「うん。書くよ」


「読みたいです。いちばん最初に」


詩は、小春の手を取った。


「最初に読んでもらうのは、いつも小春ちゃんだよ」


小春は、繋がれた手をぎゅっと握った。


「……卒業、さみしいです」


「うん。でも、会えなくなるわけじゃないから」


「はい」


「春休みに、水族館行こう。クラゲ、見に」


「行きたいです」


二人は、顔を見合わせて笑った。


三月の夜風が、少しだけ温くなっていた。


---


次の分かれ道で、柚葉と凛が曲がった。


「じゃあね、みんな。また明日!」


柚葉が手を振った。


「明日、かっこよく卒業してくださいね」


遥が言った。


「任せて」


二人の背中が、街灯の下を遠ざかっていく。


凛は、黙って歩いていた。


「……緊張する?」


柚葉が聞いた。


「何が」


「明日。卒業式」


「別に」


「嘘つき」


「……ちょっとだけ」


柚葉が、凛の手を取った。指を絡める。いつの間にか、自然にできるようになっていた。


「凛の手、冷たい」


「冬だから」


「三月だよ。もう春だよ」


「まだ寒い」


柚葉が、繋いだ手をぎゅっと握った。


「温めてあげる」


「……いい」


「いいの?」


「いいって言ってるでしょ」


「嬉しいくせに」


「うるさい」


凛の耳が赤いのが、街灯の光でわかった。


二人は、並んで歩いた。


見上げると、冬の終わりの星空。オリオン座が、少しだけ西に傾いている。クリスマスの時より、低い位置。季節が進んだ証拠。


「来年の今頃は、別々の場所にいるんだね」


柚葉が言った。


「うん」


「でも——」


「わかってる。会いに行くから」


凛が、先に言った。


柚葉が、少し驚いた顔をして——それから、嬉しそうに笑った。


「うん。待ってる」


冬の空の下。繋いだ手は、もう温かかった。


---


真白と遥は、最後まで一緒だった。


二人は、住んでいる方角が同じで、自然と並んで歩くようになる。


「明日、卒業式ですね」


遥が言った。


「うん」


真白は、前を見て歩いていた。


「真白先輩、大丈夫ですか?」


「何が」


「……いえ、何でもないです」


遥は、それ以上聞かなかった。聞かなくても、たぶん大丈夫だと、わかったから。


真白の足取りは、しっかりしていた。泣いた跡は、もう乾いている。


「遥」


「はい」


「来年、新入部員、入るかな」


「入りますよ、きっと。温室はすてきな場所ですから」


「……そう」


「真白先輩が部長の園芸部、いい部になると思います」


真白は、少しだけ足を止めた。


「……どうしてそう思うの」


「先輩が、花に向き合う姿を見てきたから」


遥は、まっすぐ言った。


「丁寧で、静かで、でもちゃんと見てる。花が何を必要としてるか。それって、すごいことだと思います」


真白は、黙っていた。


しばらく歩いて——ぽつりと言った。


「……ありがとう」


「また同じことを」


「うるさい」


遥が、小さく笑った。真白も、ほんの少しだけ口元が緩んだ。


夜空を見上げた。


星が、瞬いていた。冬の星座が西に沈みかけて、東の空には、春の星座が昇り始めている。


——明日は、卒業式。


真白は、鞄の中の園芸ノートに、そっと触れた。


新しい季節が、始まろうとしていた。


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