第20章 冬の約束
## 一・シクラメンの温室
十二月に入った。
朝、家を出ると、吐く息が白かった。通学路の街路樹はすっかり葉を落として、裸の枝が冬空に伸びている。十一月まで残っていたイチョウの黄色も、今はもう地面に散った落ち葉だけだ。踏むと、乾いた音がする。
空が、高い。秋の空よりもさらに高くて、薄い水色が、どこまでも続いている。
温室のドアを開けると、空気が変わった。
冬の外気とは別の世界。湿り気を含んだ温かさが、頬を包む。ドアを閉めた瞬間、肩の力が抜けた。
シクラメンが、咲いていた。
十一月の終わりに小さな蕾をつけていたのが、十二月に入って次々と花を開かせている。白、ピンク、赤紫——上に向かって反り返る花弁が、冬の弱い光の中でも鮮やかだった。花茎がすっと伸びて、葉の上に浮かぶように咲いている。
奥の棚には、ポインセチアが並んでいた。真白と遥が十一月に植え替えたもので、深い赤の苞がクリスマスの色をしている。
「きれいに咲いたね」
柚葉が、シクラメンの鉢の前にしゃがんだ。指先でそっと花弁に触れる。
「うん。遥が温度管理してくれたおかげだよ」
真白が答えた。少しだけ、誇らしそうな声だった。
十一月から、温室の管理は真白と遥が中心になっていた。三年生は受験勉強で来る頻度が減って、週に一、二回がやっとだ。柚葉は農学部の一般入試に向けて勉強中。凛は桜丘大学の出願準備と過去問演習。詩だけが、推薦合格で受験を終えていた。
「今日は全員揃ったね」
小春が、温室を見回して言った。
六人が揃うのは、二週間ぶりだった。テーブルの周りに椅子を並べて、凛が淹れたほうじ茶を飲む。いつもの光景。でも——少しだけ違うところがある。
柚葉と凛の距離が、近い。
以前は向かい合って座ることが多かった二人が、今日は隣同士に座っている。凛がほうじ茶を注いで柚葉に渡す時、指先が触れて、凛が一瞬だけ目を逸らした。柚葉は気づいていないふりをして、でも口元がかすかに緩んでいる。
小春は、つい微笑んでしまった。
交際報告から三週間。柚葉と凛は、表面上はそれほど変わっていない。部活の時はいつも通り、部長と副部長として動いている。でも、ふとした瞬間に——お茶を渡す手が触れたり、同じものを見て目が合ったり——そういう小さなところに、「恋人」が顔を出す。
詩は、二人の様子を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
小春にだけ聞こえる声で、「きれいだね」と呟いた。
「何が?」
「あの二人。自然体のまま、変わっていくところ」
小春は頷いた。詩は、いつも人の心の機微を言葉にする。
「それで、クリスマスの話なんだけど」
柚葉が、ほうじ茶のカップを両手で包みながら言った。
「みんなで、温室でパーティーしない? クリスマスイブに」
「いいですね」
遥が、ぱっと顔を上げた。入部してから初めてのクリスマスだ。
「飾り付けとか、したいです」
「ツリーはどうする?」
凛が聞いた。
「小さいのでいいよ。温室のテーブルに置けるくらいの。私が買ってくるね」
柚葉がそう言うと、遥が手を挙げた。
「私、オーナメント作ります。折り紙とか、ドライフラワーのミニリースとか。文化祭の時に余った材料があるので」
「遥ちゃん、器用だもんね」
小春が言うと、遥は少し照れたように笑った。
「あと、ケーキは——」
柚葉がちらりと凛を見た。
凛は、ほうじ茶を一口飲んで、さりげなく言った。
「……作るよ。クリスマスケーキ」
「やった」
小春が声を弾ませた。
「凛先輩のケーキ、いちばん好きです」
「私もです」
遥も頷いた。
凛は少しだけ耳を赤くして、「普通のやつだけど」と呟いた。
——凛のケーキなら何でも好きだよ。
三週間前の帰り道で、柚葉はそう言った。凛は覚えている。だから今度のケーキは、特別に作る。柚葉が好きなイチゴをたくさん使って。
「プレゼント交換もしよう」
詩が言った。
「予算は千円くらいで。くじ引きで交換するの」
「千円? 何にしよう……」
小春が腕を組んで考え始めた。
「あ、あと」
詩が、少しだけ声のトーンを変えた。
「……私、みんなに渡したいものがあるの。プレゼント交換とは別に」
「何?」
「当日のお楽しみ」
詩は微笑んだ。いつもの穏やかな笑み。でも、その目の奥に、少しだけ真剣なものが見えた。
「じゃあ、二十四日。クリスマスイブに、ここで」
柚葉がまとめた。
「飾り付けは午前中にやって、お昼からパーティー。いい?」
「はい」
六人の声が重なった。
温室の窓の外で、冬の風が木の枝を揺らしていた。裸の枝が、灰色の空に細い線を描いている。でも、ここは暖かい。シクラメンの花が咲いて、ポインセチアが赤く色づいて、六人分のほうじ茶の湯気が立ち上っている。
冬は外が寒いから——温室の温かさが、よくわかる。
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## 二・凛のケーキ
十二月二十二日。クリスマスイブの二日前。
凛は、家のキッチンに立っていた。
テーブルの上に、材料が並んでいる。薄力粉、砂糖、卵、生クリーム。そして、イチゴ。スーパーで選んだ大粒のもの。一つ一つ、形と色を確かめて買った。
スポンジを焼くのは、もう何度もやっている。園芸部の集まりのたびに、ケーキやクッキーを作ってきた。レモンのシフォンケーキ。花型クッキー。チョコレートケーキ。
お菓子を焼き始めたのは、中学二年の冬だった。
園芸委員会の活動の後、柚葉が「お腹すいた」と言った。何気ない一言。でも凛は、次の活動日にクッキーを持って行った。柚葉が「おいしい! 凛が作ったの?」と目を輝かせて——。
その顔が見たくて、それから焼き続けた。
五年間、ずっと。
今も、理由は変わっていない。柚葉の「おいしい」が聞きたくて、焼いている。
でも——今は、少しだけ意味が違う。
恋人になって、三週間。お菓子を焼く手つきは同じなのに、気持ちが違う。「好きな人のために作る」と「恋人のために作る」は、似ているようで、違う。
——何が違うんだろう。
卵を割りながら、凛は考えた。
好きな気持ちは五年間ずっと同じだった。告白して、両想いになって、「付き合う」という言葉が加わった。それだけのはずなのに。
——嬉しい、が、増えた。
前は、柚葉の「おいしい」に嬉しさと切なさが半分ずつだった。好きだけど言えない。近いけど届かない。そういう気持ちが、甘さの裏側にいつもあった。
今は、嬉しいだけ。
まっすぐに、嬉しい。
卵白と全卵を合わせて、湯煎にかける。人肌まで温めたら、ハンドミキサーで泡立てる。もったりとした白い生地が、ボウルの中で膨らんでいく。
薄力粉をふるい入れて、ゴムベラでさっくりと混ぜる。泡を潰さないように。下から上へ、大きく返すように。バターを加えて、もう一度混ぜる。
型に流し入れて、軽くトントンと台に打ちつけた。大きな気泡を抜くため。
オーブンに入れて、タイマーをセットした。百七十度で三十分。
待っている間に、イチゴを洗った。へたを取って、キッチンペーパーで水気を丁寧に拭く。
スマホが震えた。
柚葉からのメッセージ。
『凛、勉強疲れた〜』
『息抜きに外出てみたら、星がきれいだよ』
凛は、イチゴを持ったまま、少しだけ笑った。
受験前なのに。でも、柚葉らしいと思った。勉強の合間に空を見上げて、星がきれいだと報告してくる。そういうところが、ずっと好きだった。
『寒いから上着ちゃんと着て』
送ってから、もう一つ。
『ケーキ、楽しみにしてて』
『楽しみにしてる!!!』
感嘆符が三つ。柚葉の嬉しさが、画面越しに伝わってくる。
オーブンの中で、スポンジが少しずつ膨らんでいく。キッチンに、甘い匂いが広がった。
クリスマスイブの朝にクリームを塗って、イチゴを飾る。柚葉の好きなイチゴを、たくさん。
五年間のケーキの中で、いちばん特別なケーキにする。
——だって、初めてだから。
恋人の柚葉に、作るケーキ。
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## 三・それぞれの贈り物
十二月二十三日。クリスマスイブの前日。
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小春は、駅前の雑貨屋にいた。
千円のプレゼント。誰に当たるかわからないくじ引きだから、みんなに喜んでもらえるものがいい。
ハンドクリームのコーナーで足を止めた。冬だし、みんな手が荒れやすい。温室で土を触るから。——でも、香りの好みが分かれるか。
棚の前で悩んでいると、隣に真白がいた。
「真白も買い物?」
「うん。プレゼント、何にするか決まらなくて」
二人で並んで棚を見る。
「あ、これかわいい」
小春が手に取ったのは、小さなポーチだった。花柄で、中にティッシュとリップクリームが入るくらいのサイズ。淡いピンクの地に、小さな花が散っている。
「いいんじゃない」
「うん、これにする」
真白は、まだ迷っている様子だった。棚の間を行ったり来たりしている。
「真白、何か気になるのある?」
「……マグカップ」
真白が指差した先に、シンプルなマグカップが並んでいた。白地に、小さな植物の絵が描かれている。
「かわいい。温室で使えそう」
「うん」
真白はマグカップを手に取って、じっと見ていた。植物の絵は、小さなサボテンだった。
「……これにする」
「サボテン、真白っぽいね」
「そう?」
真白は少しだけ首を傾げた。
小春は笑った。
真白は気づいていないかもしれないけれど、真白の机には遥がくれたミニサボテンが置いてある。それを毎日世話している真白を、小春は知っている。
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遥は、自分の部屋で折り紙を折っていた。
温室用のオーナメントを作っている。星、雪の結晶、小さなリース。文化祭で余ったドライフラワーの小枝を折り紙の中に閉じ込めると、かわいいミニリースができる。
テーブルの上に、オーナメントが十二個並んでいた。
——もうちょっと作ろうかな。
窓の外は、曇り空。天気予報では、明日は晴れ。クリスマスイブ、晴れた方がいい。
折り紙を折りながら、遥は明日のことを考えていた。
六人でのクリスマスパーティー。園芸部に入って初めてのクリスマス。去年の今頃は、中学三年生で、受験勉強をしていた。園芸部のことも、先輩たちのことも、まだ知らなかった。
——入ってよかったな。
真白先輩が、いちばん最初に話しかけてくれた。温室の花の名前を、一つずつ教えてくれた。水やりのコツも、土の配合も、全部。遥が初めて一人で植え替えをした時、隣で見ていてくれた。
折り紙の星をもう一つ折り終えて——遥は、別の折り紙を手に取った。
ピンクの折り紙。
シクラメンの形に折る。花弁を一枚ずつ、丁寧に。先を少しだけ反らせて、本物のシクラメンの花弁のように上に向ける。
これは、オーナメントじゃない。
プレゼント交換とも、別。
十一月から、真白先輩と一緒にシクラメンを育てた。蕾がついた時、真白先輩が「咲くかな」と小さく呟いた。毎日水やりをして、温度を確認して、蕾が少しずつ膨らんでいくのを見守った。
十二月に入って、花が開いた時——真白先輩が、ほんの少しだけ笑った。いつもの控えめな笑い方。でも、目が嬉しそうだった。
その笑顔を見て、遥は、折り紙でシクラメンを折りたくなった。
明日、渡せたらいいな。渡せなくても、いい。でも——渡したい。
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詩は、自分の部屋の机に向かっていた。
ノートを開いて、万年筆を持っている。推薦合格が決まってから一ヶ月。受験勉強から解放されて、久しぶりに自分の言葉と向き合う日々が続いている。
今書いているのは、みんなに渡すもの。
六人分の詩。一人一人に、一篇ずつ。
柚葉への詩。凛への詩。小春への詩。真白への詩。遥への詩。そして——自分自身への詩。
一人一人のことを思い浮かべながら、言葉を選ぶ。
柚葉は、太陽のような人。でも、「太陽」と書くのは安易すぎる。柚葉の本質は、太陽そのものじゃなくて——太陽の光を受けて育つ植物を、愛おしそうに見つめるその目だと思う。花の名前を覚えるのが好きで、覚えるたびに嬉しそうに教えてくれる人。
凛は、五年間焼き続けたケーキの人。味見をするたびに「まだ足りない」と首を傾げるのに、柚葉の「おいしい」でぱっと笑う。凛の優しさは、いつもお菓子の形をしている。
真白は——静かに咲く花のような人。人目を避けるように俯いていたのに、一年で変わった。今は、自分の足で立っている。
遥は、まっすぐな人。知りたいことがあると、恥ずかしがらずに聞く。まっすぐさは、時々眩しい。
そして、小春——。
ペンが止まった。
小春のことは、言葉にするのがいちばん難しい。近すぎて、大切すぎて、どの言葉も足りない気がする。「好き」は短すぎる。「大切」は広すぎる。「あなたがいるから世界が明るい」は、本当のことだけれど、ありきたりに聞こえてしまう。
——でも、だからこそ書きたい。
足りない言葉を、それでも並べる。一生かけても足りないかもしれないけれど、書き続ける。それが、私にできる「好き」の形だから。
詩は、もう一度ペンを走らせた。
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## 四・クリスマスイブの温室
十二月二十四日。晴れ。
午前十時。温室に、六人が集合した。
「寒い寒い寒い」
小春が両手をこすりながら温室に駆け込んだ。
「外、零度だって。零度」
「温室は十五度あるから大丈夫だよ」
真白が温度計を指差した。暖房と冬の日差しで、温室の中は暖かい。シクラメンとポインセチアが、赤と白とピンクでクリスマスカラーに温室を染めている。
「まず、飾り付けしよう」
柚葉が紙袋を持ち上げた。中から、小さなクリスマスツリーを取り出す。高さ四十センチほどの卓上サイズ。濃い緑のプラスチックの枝に、小さな松ぼっくりがついている。
「かわいい」
小春が声を上げた。
テーブルの真ん中にツリーを置いて、遥が作ったオーナメントを飾り始めた。
「遥ちゃん、すごい。こんなにたくさん作ったの?」
折り紙の星、雪の結晶、ドライフラワーのミニリース。一つ一つ丁寧に作られたオーナメントが、小さなツリーを彩っていく。金色の星が枝先に揺れて、ドライフラワーの淡い紫がアクセントになっている。
「ちょっと作りすぎちゃいました」
遥が照れたように笑った。
「作りすぎくらいがちょうどいいよ」
柚葉が、ミニリースをツリーの枝にかけた。文化祭の時に作ったドライフラワーの花が、小さく揺れる。秋の記憶が、冬の飾りになった。
凛は、キャンドルを並べていた。小さなLEDキャンドル。本物の火は温室では危ないから。テーブルの端に二つ、窓際に三つ、棚の上に二つ。
「ここと、ここと……あと窓際に」
「凛先輩、配置のセンスいいですね」
遥が感心したように言った。
「別に。並べてるだけ」
「並べ方がいいんですよ」
凛は、ふいっと顔を背けた。
詩は、窓にフロストスプレーで雪の模様を描いていた。スプレーを振って、ガラスに白い霧を吹きかける。指先で雪の結晶の形をなぞると、窓越しの冬の陽光がその模様を透かして、きらきらと光った。
「詩先輩、上手」
小春が近寄って見上げた。
「美術の成績、唯一の5だったの」
「え、そうなんですか」
「冗談。でも、絵は嫌いじゃない」
詩が微笑んで、スプレーをもう一吹き。窓に、小さな雪の結晶がもう一つ現れた。
真白は、テーブルクロスを広げていた。白い布の上に、小さなヒイラギの葉を散らす。赤い実がついた枝を、短く切ってテーブルの隅に置く。
「真白ちゃん、どこから持ってきたの? ヒイラギ」
「校庭の隅に生えてるんです。今朝、少しだけいただいてきました」
「さすが。気が利くね」
飾り付けが終わると、温室はすっかりクリスマスの装いになっていた。
小さなツリー。折り紙と花のオーナメント。LEDキャンドルの柔らかいオレンジの光。窓の雪模様。テーブルの上のヒイラギ。そして、温室いっぱいのシクラメンとポインセチア。
「……きれい」
小春が、息をついた。
派手な飾りはない。イルミネーションもない。でも、手作りの温かさが、温室を満たしていた。どこかの大きなパーティーよりも、ここがいい。この温室がいい。小春は、そう思った。
「じゃあ、ケーキ出すよ」
凛が、大きな白い箱を開けた。
歓声が上がった。
イチゴのクリスマスケーキ。白いクリームの上に、真っ赤なイチゴがたくさん載っている。ホールケーキのてっぺんには、チョコレートで書かれた小さな文字。
『Merry Christmas』
「凛先輩、これ全部手作りですか?」
遥が、目を丸くした。
「スポンジもクリームも。イチゴは買ったけど」
「すごい……」
「凛のケーキは、いつも最高だよ」
柚葉が言った。まっすぐに、凛を見て。
凛は——耳の先が、赤くなった。
「……切るよ。六等分」
「あ、私が切ります」
真白がケーキナイフを受け取った。
凛がわずかに驚いた顔をしたのを、小春は見逃さなかった。
真白は慎重にナイフを入れて、きれいな六等分に切り分けた。
「真白、上手」
「包丁は得意なんです。料理の授業で」
真白が、ほんの少しだけ口角を上げた。
柚葉が紅茶を淹れた。アールグレイ。温室に、ベルガモットの甘い香りが広がる。棚の上のシクラメンの甘い匂いと混ざって、冬の温室が、さらに温かくなった。
「じゃあ」
六つのカップと、六つのケーキ皿。小さなツリーの周りに、六人が座っている。
「メリークリスマス」
カップが触れ合う、小さな音。
LEDキャンドルの光が、六人の顔を柔らかく照らしていた。
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## 五・六人のテーブル
ケーキを一口食べて、遥が「おいしい」と呟いた。
「スポンジが、ふわふわです。前のシフォンケーキとも違う」
「クリスマスケーキはジェノワーズだから。配合が違うの」
凛が説明した。
「ジェノワーズ?」
「全卵を泡立てて作る、フランスのスポンジ。シフォンケーキは卵白と卵黄を分ける別立てだけど、ジェノワーズは共立て。きめが細かくて、しっとりした食感になる」
「へえ……凛先輩、詳しいですね」
「大学で調理科学やるんだから、これくらいは」
凛はさらりと言ったが、その目は少しだけ誇らしそうだった。
「凛、将来パティシエ?」
詩が聞いた。
「……わからない。まだ。でも、お菓子は作り続けたい」
「凛のお菓子は人を幸せにするよ」
柚葉が言った。
いつかの夏にも——八月の終わり、レモンのシフォンケーキを食べた日にも——同じことを言った。凛は、フォークでイチゴを切りながら、小さく頷いた。
「柚葉先輩は、農学部でどんなことするんですか?」
遥が聞いた。
「品種改良とか、植物の育成環境の研究とか。温室管理の技術も学びたいの。オープンキャンパスで見た研究室が、すごく面白くて」
柚葉の目が、きらきらしていた。夏のオープンキャンパスのことを話す時の柚葉は、いつもこうだ。凛がオープンキャンパスの帰り道で見た「柚葉の目が一番輝いていた場所」に、柚葉はこれから行く。
「詩先輩は、大学で何を書くんですか?」
「何でも。詩も、散文も。でも、いちばん書きたいのは——」
詩はちらりと小春を見た。
「……まだ、内緒」
小春が首を傾げたけれど、詩はただ微笑んだ。
「卒業したら、三人ともいなくなっちゃうんですよね」
遥がぽつりと言った。
テーブルが、一瞬、静かになった。
フォークの音が止まって、紅茶のカップを持つ手が止まって。窓の外で風が吹いて、裸の枝がかすかに揺れる音だけが聞こえた。
「いなくなるわけじゃないよ」
柚葉が、穏やかに言った。
「場所が変わるだけ。気持ちは変わらない」
「でも、温室に毎日は来れなくなる」
真白が言った。静かな声だった。事実を述べているだけの声。でも、その声の奥に、小さな影があった。
「……うん。それは、そうだね」
柚葉は少しだけ目を伏せた。
凛が、紅茶を一口飲んで、言った。
「来れなくなるけど、来なくなるわけじゃない」
みんなが、凛を見た。
「休みの日には来る。卒業しても。約束しただろ、夏に」
八月の終わり。百日紅の夕焼けの下で、六人で指切りをした。「卒業しても、ここに帰ってくる」と。
「凛先輩……」
遥の目が、少しだけ潤んだ。
「泣くの早いよ、遥ちゃん」
凛が苦笑した。遥は慌てて目をこすった。
「泣いてないです」
「泣いてる泣いてる」
小春が笑った。遥も、泣きながら笑った。
みんなが笑った。
テーブルの上のケーキは、もう半分になっていた。イチゴの赤と、クリームの白と、スポンジの黄色。クリスマスの色。
「おかわり、ある?」
小春が聞いた。
「あるよ。ちょっと余分に焼いたから」
凛が、もう一つの箱を開けた。小さなカップケーキが六つ。一つ一つに、違う色のクリームが絞ってある。
「えっ、これもですか」
「……暇だったから」
暇だったわけがない。受験の出願準備もあるのに。でも、凛はそう言う。いつも、さりげなく。
「ありがとう、凛」
柚葉が、凛の隣で小さく言った。凛に聞こえるくらいの声で。凛はフォークを持ったまま、何も答えなかった。でも、耳が赤い。
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「プレゼント交換、しよう」
小春が、紙袋を取り出した。
「番号書いた紙、作ってきたの。くじ引きで」
折りたたんだ紙を小さな箱に入れて、一人ずつ引く。
小春が引いた番号は三番。三番のプレゼントは——白地に植物の絵が描かれたマグカップ。小さなサボテンの絵。
「わあ、かわいい。誰の?」
「私」
真白が手を挙げた。
「真白のだ。サボテン柄、いいね。温室で使う」
小春が嬉しそうにマグカップを眺めた。
凛が引いたのは、花柄の小さなポーチ。
「あ、それわたしのです」
小春が言った。
「ポーチ? ……かわいいな」
凛が、ポーチを手の中で転がした。淡いピンクの地に散った小さな花を、じっと見ている。
「リップクリーム入れるのにちょうどいいよ」
「……ありがと」
柚葉が引いたのは、手編みのコースター。深い緑色。
「これ、誰の?」
「私です」
遥が言った。
「遥ちゃん、編み物できるの?」
「少しだけ。お母さんに教えてもらって」
「きれいな色。温室の緑みたい」
柚葉が、コースターを光にかざした。毛糸の目が、均一にきっちりと揃っている。遥の真面目な性格が、編み目に出ていた。
詩が引いたのは、小さなノート。革のような表紙で、中は無地。
「これは?」
「私が選んだの」
柚葉が言った。
「詩に当たったらいいなと思って。書くもの、たくさんいるかなと」
「……ありがとう。大事に使うね」
詩は、ノートの表紙をそっと撫でた。
遥が引いたのは、ラベンダーのサシェ。小さな布袋に、ドライラベンダーが入っている。鼻に近づけると、甘くて落ち着く香りがした。
「いい香りです……。誰の?」
「あたし」
凛が手を挙げた。
「ドライラベンダー、文化祭の残りで作った」
「凛先輩、ありがとうございます。枕元に置きます」
真白が引いたのは、最後に残った包み。開けると、小さなブックマーカー。銀色の栞に、月の形のチャームがついている。
「それ、私の」
詩が言った。
「真白ちゃん、本読む?」
「……最近、少し」
真白は、ブックマーカーをそっと手のひらに載せた。月のチャームが、LEDキャンドルの光を受けて、小さく光った。
「ありがとうございます」
真白は、ブックマーカーを大切そうに手帳に挟んだ。
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## 六・冬の約束
プレゼント交換の後、紅茶をおかわりして、しばらくおしゃべりをした。ツリーのオーナメントがLEDキャンドルの光を受けて、小さく揺れている。
窓の外では、冬の太陽が傾き始めていた。午後三時。十二月の日は短い。フロストスプレーの雪模様の向こうに、夕暮れのオレンジが滲み始めている。
「あの」
詩が、静かに立ち上がった。
みんなの視線が集まる。
「さっき言った、みんなに渡したいもの」
詩は、鞄から封筒を六つ取り出した。一つ一つに、丁寧な手書きで名前が書いてある。
柚葉。凛。小春。真白。遥。そして——詩。
「推薦が決まってから、時間ができて。それで、書いたの」
詩は、一人ずつに封筒を手渡した。
「詩を。一人一人に、一篇ずつ」
温室が、静かになった。
「……開けていい?」
柚葉が聞いた。
「うん」
封筒を開ける音が、六つ。
小さな便箋に、詩の丁寧な手書きの文字。インクの色は、濃い紺。
小春は、自分の便箋に目を落とした。
*きみの声が聞こえると*
*世界が少しだけ明るくなる*
*それは太陽のせいじゃなくて*
*きみが笑うからだと*
*気づいたのは、いつだったろう*
*花の名前をひとつ覚えるたびに*
*きみの名前が増えていく*
*——どの花を見ても、きみを思う*
「…………」
小春は、便箋を胸に押し当てた。
目の奥が、じわりと温かくなった。
温室の中が、静かだった。一人一人が、自分の詩を読んでいる。
柚葉は、便箋を両手で持って、唇を小さく動かしながら読んでいた。途中で、目がきらきらと潤んで——でも、にっこりと笑った。
凛は、便箋を読んで、ふいっと横を向いた。鼻をすする音が、かすかに聞こえた。
真白は、便箋をじっと見つめていた。長い間、動かなかった。指先が、便箋の端をそっと押さえている。
遥は、便箋を読んで、ぎゅっと唇を結んだ。それから、小さく息を吐いて、微笑んだ。目尻に、光るものがあった。
「……詩先輩」
小春が、かすれた声で言った。
「ありがとうございます」
「卒業しても、これは残るから」
詩は、穏やかに言った。
「言葉は、残るの。私が遠くにいても、この詩を読めば——温室のことを、みんなのことを、思い出せる」
「詩先輩……」
遥が、封筒を両手で握りしめていた。
「私も、思い出します。この詩を読むたびに、先輩たちのことを」
「うん」
柚葉が、立ち上がった。
六人の顔を、一人ずつ見た。
「約束しよう」
柚葉は、まっすぐに言った。
「卒業しても、この温室に帰ってくること。夏にも来ようって約束したけど——もう一つ」
「毎年、クリスマスに集まろう。ここで。六人で」
「……毎年?」
「うん。大学生になっても、社会人になっても。十二月二十四日は、この温室に帰ってくる」
凛が、ふっと笑った。
「柚葉らしい」
「大きい約束すぎない?」
「大きくない。当たり前のこと。だって——」
柚葉は、温室を見回した。シクラメンの花。ポインセチアの赤。小さなツリーと手作りのオーナメント。窓の雪模様。テーブルの上のヒイラギ。そして、五つの顔。
「ここが、私たちの場所だから」
「いいですね」
真白が言った。静かだけれど、はっきりとした声だった。
「毎年、ここに帰ってきましょう」
「私もです」
遥が頷いた。
「じゃあ、約束」
柚葉が、テーブルの上に手を差し出した。
凛が、その上に手を重ねた。
詩が、重ねた。
小春が、重ねた。
真白が、重ねた。
遥が、いちばん上に、手を重ねた。
六つの手が、温かく触れ合っている。夏の指切りの時とは違う。あの時は小指と小指だった。今は、手のひら全部が重なっている。
「冬の約束」
柚葉が言った。
「毎年クリスマスに、ここに帰ってくる」
「約束」
六人の声が、重なった。
窓の外で、冬の夕日が沈みかけていた。オレンジ色の光が温室に差し込んで、六人の手を照らしている。フロストスプレーの雪模様が、夕日を受けて小さな虹を作った。
シクラメンの花が、その光の中で、静かに咲いていた。
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## 七・帰り道
午後四時。クリスマスイブの空が、濃い紫に染まり始めていた。
温室の片付けを終えて、六人は校門を出た。冬の風が頬に冷たい。吐く息が白い。でも、胸の中はまだ温かい。
「じゃあ、また」
柚葉が手を振った。
「メリークリスマス」
小春が笑って、みんなが笑った。
いつものように、三組に分かれて帰り道を歩く。
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小春と詩は、駅までの道を並んで歩いていた。
街にはイルミネーションが灯り始めている。商店街のアーケードに、小さな光の星が連なっていた。青と白の光が、冬の空気の中で静かに瞬いている。
「詩先輩」
「なに?」
「さっきの詩、嬉しかった」
小春は、コートのポケットの中で、封筒をぎゅっと握っていた。
「書きながら思ったの」
詩が、白い息を吐きながら言った。
「小春ちゃんのことを書くのが、いちばん難しかった」
「え? なんで?」
「近すぎるから。どの言葉も、足りない気がして」
小春は、詩の顔を見上げた。イルミネーションの光が、詩の髪を青く照らしている。
「……わたしも」
小春は言った。
「詩先輩のこと、言葉にするの、難しいです。好きだけじゃ足りないし、大切だけでも足りないし」
「うん」
「でも——全部、詩先輩に伝えたいです。卒業しても。離れても」
詩が、小春の手をそっと取った。冷たい指先が触れ合って、少しずつ温まっていく。
「来年は、会えない日の方が多くなる」
詩が、静かに言った。
「でも、会えない日に書く手紙は、きっといい手紙になる。会いたい気持ちが、言葉を育てるから」
「……詩先輩、ずるい」
「何が?」
「そうやってきれいなこと言うの」
小春が笑った。泣きそうな笑顔だった。
「きれいなことじゃなくて、本当のこと」
詩が、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
イルミネーションの下を、二人は歩いていく。白い息が、二つ、重なって消えた。
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真白と遥は、住宅街の道を歩いていた。
街灯がぽつぽつと並ぶ静かな道。どこかの家の窓から、クリスマスソングが漏れ聞こえてくる。リビングの明かりに、ツリーの影が映っている。
「今日、楽しかったですね」
遥が言った。
「うん」
「先輩たちの詩、すごかったです。詩先輩の詩」
「……うん」
真白は、コートのポケットの中で、封筒に触れた。詩が書いてくれた、自分への詩。温室で読んだ時、途中で文字が滲んで見えなくなった。
——帰ったら、もう一度読もう。
「あの」
遥が、立ち止まった。
真白も、足を止めた。
「これ——」
遥が、ポケットから何かを取り出した。小さな、ピンク色のもの。
折り紙のシクラメンだった。
花弁が一枚ずつ丁寧に折られていて、本物のシクラメンを小さくしたような形をしている。先端が少しだけ上に反っていて、シクラメン特有の花の姿を再現していた。
「プレゼント交換とは、別で」
遥は、両手でシクラメンを差し出した。
「真白先輩に」
「……私に?」
「温室のシクラメン、真白先輩と一緒に育てたから。先輩がつぼみの時から毎日見ていて、咲いた時すごく嬉しそうで——それで、作りたくなって」
遥の声は、少しだけ早かった。白い息が、小さく震えている。
真白は、折り紙のシクラメンを受け取った。
街灯の光の下で、ピンクの花弁が柔らかく見えた。一枚一枚、丁寧に折られている。角がきっちりと合っていて、遥の真面目さがそのまま形になったようだった。
「……ありがとう」
真白は、シクラメンを両手で包んだ。
「大事にする」
「はい」
遥が、ほっとしたように笑った。
二人は、また歩き始めた。
住宅街の空気は冷たい。十二月の夜は、容赦なく冷える。でも、ポケットの中の折り紙のシクラメンは、手のひらの中で少しだけ温かい気がした。
「来年も」
真白が言った。
「温室の花、一緒に育てよう」
遥が、真白を見上げた。目が、街灯の光を映して、きらきらしていた。
「はい」
遥は頷いた。
「来年も、再来年も」
真白は、少しだけ足を速めた。
なぜだかわからないけれど、遥の顔をまっすぐ見ていられなかった。いつもは普通に話しているのに。今日だけ、なぜか——。
折り紙のシクラメンが、ポケットの中で、小さく揺れた気がした。
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柚葉と凛は、並んで歩いていた。
十一月に告白した日と同じ道。でも、あの時はイチョウの落ち葉が黄金色に敷き詰められていて、今は裸の枝が冬空に伸びている。景色が変わっても、隣を歩く人は同じだった。
「ケーキ、おいしかった」
柚葉が言った。
「イチゴ、たくさん載せてくれたでしょ」
「……柚葉がイチゴ好きだから」
「知ってるよ。だから嬉しかった」
凛は、マフラーに顔を埋めた。白い息が、マフラーの隙間から漏れる。
「受験、大丈夫? 今日一日遊んじゃったけど」
「大丈夫。クリスマスくらい、息抜きしないと」
「柚葉は勉強してた?」
「昨日まではね。今日は——凛と、みんなと、過ごしたかったから」
凛は、何も言えなかった。柚葉は、いつもさらっとそういうことを言う。
柚葉がちらりと凛を見て、小さく笑った。
「凛、恋人になってから、前より照れるようになったよね」
「……照れてない」
「照れてる」
「照れてない」
柚葉が笑った。凛も、マフラーの中で、少しだけ笑った。
空を見上げると、冬の星が出始めていた。
オリオン座が、東の空に姿を見せている。三つ星が斜めに並んで、冬の夜空を見守るように光っている。十一月の帰り道に見た「冬の最初の星」が、今はもっとたくさん見える。冬が深まって、星が増えた。
「ねえ、凛」
「なに」
「大学、別々になるけど」
柚葉は、歩きながら言った。
「私、頑張るね。農学部で、たくさん勉強して。いつか——温室みたいな場所を、自分で作れるようになりたい」
「……うん」
「凛も、頑張って。おいしいお菓子を、もっともっと作って」
「うん」
「で、休みの日に会って、お互いの話をしよう。凛が作ったお菓子を食べながら」
凛は、ポケットの中で拳を握った。
柚葉は、いつもこうだ。未来のことを、当たり前みたいに話す。離れることを恐がるんじゃなくて、離れた先のことを、楽しそうに描く。
——ああ、だから好きなんだ。
五年前から、ずっと。
「凛?」
「……何でもない」
凛は、ポケットから手を出した。柚葉の手を、そっと取った。冷たい指先が触れて——でも、すぐに温まった。
「約束する」
凛が言った。
「大学で、ちゃんと勉強する。腕を磨く。で——柚葉に、いちばんおいしいケーキを、ずっと焼き続ける」
「……ずっと?」
「ずっと」
柚葉が、繋いだ手をぎゅっと握った。
「ずっとね」
「うん」
冬の帰り道。オリオン座の下。二人の影が、街灯に照らされて並んでいる。
来年の春には、別々の場所に行く。それは、少しだけ寂しい。でも——約束がある。
温室に帰ってくるという約束。毎年クリスマスに集まるという約束。離れても会いに行くという約束。いちばんおいしいケーキをずっと焼き続けるという約束。
冬の約束は、全部、温かい。
寒いから——温もりが、よくわかる。
凛は、柚葉の手をぎゅっと握り返した。
星空の下、二人の白い息が、ひとつになって夜に消えた。




