第2章 はじめてのお当番
## 一・一週間後
入部してから、一週間が経った。
小春は毎日、放課後になるのが楽しみだった。授業が終わると、真白と一緒に温室へ向かう。それが日課になっていた。四時間目の終わりのチャイムが鳴ると、もう体がそわそわする。
「小春、また走ってる」
廊下を早足で歩く小春に、真白が後ろから声をかけた。
「だって、早く行きたいんだもん」
「転ぶよ」
「転ばないってば」
言った直後、小春は廊下の角で足をもつれさせた。
「わっ」
「ほら」
真白が、小春の腕を掴んで支えた。冷たい指先が、制服の袖の上から小春の腕にかかる。
「……ありがと」
「どういたしまして」
真白は、いつもこうだ。小春がドジをしても、呆れながらも助けてくれる。中学からずっと、そうだった。
四月の風が、開いた窓から廊下に入り込んでくる。柔らかくて、花の匂いがする。この一週間で、小春の一番好きな時間は放課後になった。
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温室に着くと、先輩たちはすでにいた。
ガラスの扉を開けた瞬間、温かい空気が頬に触れる。土と緑と、かすかな花の匂い。外とは違う、温室だけの空気。一週間通っていると、この匂いが「ただいま」みたいに感じるようになってきた。
「いらっしゃい」
柚葉が、穏やかに微笑んだ。作業台の上に、園芸用の手袋とじょうろが準備されている。
「今日は、水やりをもう少し詳しく教えるね」
「はい!」
小春は元気よく返事をした。
園芸部の活動は、主に花壇と温室の管理だ。水やり、草むしり、植え替え、肥料やり。地味な作業が多いけれど、小春は苦にならなかった。花に触れている時間は、不思議と心が落ち着く。
「じゃあ、外に出よっか」
柚葉に連れられて、花壇へ向かった。四月の午後の日差しが、校庭を金色に染めている。
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## 二・水やりの時間
「水やりは、朝と夕方がいいんだよ」
柚葉が、じょうろを手に取りながら説明した。ステンレスのじょうろは、水を入れると思ったより重い。
「昼間にあげると、水が熱くなって根を傷めちゃうから」
「そうなんですか」
「うん。あと、葉っぱにかけるんじゃなくて、根元にあげるのがポイント。葉が濡れたまま日に当たると、水滴がレンズみたいに光を集めて、葉焼けの原因になるの」
「レンズ……。そうなんですね」
柚葉は、実際にやって見せてくれた。じょうろの先を花の根元に近づけて、ゆっくりと水を注ぐ。水が土に染み込んでいく。乾いていた土の色が、少しずつ黒く変わっていく。
「こんな感じ。一気にたくさんかけるんじゃなくて、ゆっくり。土が水を吸う速さに合わせてあげるの」
「やってみる?」
「はい!」
小春は、じょうろを受け取った。ずしりとした重さ。柚葉の真似をして、チューリップの根元にそっと水をあげる。水が土に落ちて、小さな音を立てた。じわじわと、乾いた土が水を吸っていく。
「そうそう、上手」
「本当ですか?」
「うん。筋がいいね。急がないで、ちゃんと土の様子を見てる」
柚葉に褒められて、小春は嬉しくなった。
「真白ちゃんもやってみる?」
「……はい」
真白も、じょうろを受け取った。小春と同じように、丁寧に水をあげていく。一つ一つの株に、正確に同じ量を注いでいる。
「真白ちゃん、すごく丁寧だね。均等にあげてる」
「……普通です」
「ううん、几帳面。いいことだよ。花って、ちゃんと見ててくれる人に応えてくれるから」
真白は、少しだけ頬を赤くした。じょうろの先を、次の株へ移す。
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花壇の端まで水をあげていった時、小春は足を止めた。
「柚葉先輩、ここのチューリップ、ちょっと元気ないかも」
花壇の端に植えられたチューリップが、数本、葉先が少しだけ黄色っぽくなっている。真ん中の株と比べると、花の首が少し傾いていた。
「あ、よく気づいたね」
柚葉がしゃがみ込んで、チューリップの葉を指で触った。
「この辺り、水が届きにくいんだ。花壇の端っこは土が乾きやすくて」
「水やりの時、真ん中ばかり気をつけてて、端まで均等にあげられてなかったかもしれない」
柚葉は少し反省するような声で言って、それから小春を見た。
「小春ちゃん、いい目してるね。花の変化に気づけるのは、大事な才能だよ」
「才能、ですか?」
「うん。花は言葉を話さないから、見た目の変化で気持ちを読み取るしかないの。葉の色、茎の角度、花の開き具合——そういうのに敏感な人は、花を育てるのに向いてる」
小春は、しゃがみ込んで、黄色くなりかけた葉を見つめた。
「この子たちにも、たっぷりお水あげますね」
「うん。お願い」
じょうろを傾けると、乾いた土が水を吸い込んでいった。他の場所より、ずっと早く染み込んでいく。それだけ喉が渇いていたのだ。
「ありがとう、小春ちゃん」
柚葉が微笑んだ。小春は、なんだかとても嬉しかった。花壇の端の、ちいさなチューリップたち。ちゃんと見てあげなきゃ。
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水やりを続けていると、凛がやってきた。
「どう? 後輩たち、ちゃんとやってる?」
「うん。二人とも上手だよ。小春ちゃんなんて、端のチューリップの元気がないの、すぐ気づいてくれたんだよ」
「へえ、やるじゃん」
凛は、腕まくりをしながら言った。制服のブラウスの袖を肘まで折り上げて、花壇の横にしゃがみ込む。
「じゃあ、あたしは草むしりやるわ。柚葉、温室の方、お願い」
「了解」
凛は花壇の端にしゃがみ込んで、雑草を抜き始めた。手慣れた動きで、根元からしっかりと。土の匂いが、ふわっと立ち上る。
「凛先輩、手際いいですね」
「まあ、2年やってるからね」
「2年……中学からですか?」
「そう。柚葉と一緒に入ったの」
小春は、水やりの手を止めずに聞いた。
「柚葉先輩と、中学から一緒なんですね」
「うん。幼馴染……ってほどじゃないけど、中学で同じクラスになって、一緒に園芸部入って」
凛は、草を抜きながら続けた。
「そのまま、同じ高校に来た。腐れ縁ってやつ」
「仲いいんですね」
「……まあ、そうかもね」
凛の声が、少しだけ柔らかくなった。草を抜く手が、一瞬だけ止まる。それから、何でもないように再開した。
「柚葉がさ、この高校に園芸部を作るって言い出した時、あたし、最初は面倒だと思ったんだよね」
「そうなんですか?」
「うん。でも、柚葉が嬉しそうにしてるの見たら、まあいいかって」
凛は、抜いた草を手元のビニール袋に入れながら言った。
「あいつ、花のことになると目が変わるんだよ。きらきらして。それ見てると、手伝いたくなるっていうか」
凛は、自分の言葉にハッとしたように、少し顔を背けた。
「……まあ、暇だっただけだけど」
小春は、凛の横顔を見た。夕方の光が当たって、ぶっきらぼうな表情の奥に、何か柔らかいものが見えた気がした。
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## 三・お茶の時間
水やりが終わると、温室に戻った。
詩がテーブルでお茶の準備をしていた。今日は紅茶ではなく、ほうじ茶を淹れてくれている。香ばしい匂いが、温室の中に広がっていた。
「お疲れさま。今日はほうじ茶にしてみた」
「ありがとうございます」
5人で、テーブルを囲んだ。ほうじ茶をひと口飲むと、甘くて香ばしい味が喉を通っていく。外で体を動かした後だから、余計においしく感じる。
凛が、紙袋を取り出した。
「はい、これ。昨日焼いたクッキー」
今日のは、ジャム入りだった。丸いクッキーの真ん中に、いちごジャムがちょこんと載っている。
「また作ったんですか?」
「暇だったから」
小春は、一つ手に取った。ジャムの赤が、かわいい。かじると、バターの甘さといちごの酸味が口の中で混ざった。
「おいしい! ジャムの酸味が合いますね」
「焼く前に載せるのがコツ。焼いた後に載せると、しっとりしすぎるから」
凛は事もなげに言ったが、それは研究の結果なのだろう。
「凛先輩、お菓子作り、得意なんですね」
「趣味だよ。作るのが好きなだけ」
「でも、こんなにおいしいの作れるの、すごいです」
凛は、照れくさそうに目を逸らした。
「……大げさだって」
真白も、クッキーを食べていた。無言だが、二つ目に手を伸ばしている。
「真白ちゃんも気に入った?」
「……もう一つ、いいですか」
「どうぞ」
凛は、少しだけ嬉しそうだった。
「ねえ、小春ちゃん」
詩が、ほうじ茶のカップを持ちながら言った。文庫本を膝の上に置いて、小春の方を見ている。
「中学では、何か部活やってた?」
「いえ、帰宅部でした」
「そうなんだ。じゃあ、部活は初めて?」
「はい。だから、ちょっとドキドキしてます」
「大丈夫だよ。うちの部、ゆるいから」
柚葉が笑った。
「厳しいルールとかないし、自分のペースでやれればいいから」
「花を枯らさないことだけ気をつけてくれれば」
「それは大事ですね」
小春は笑った。花壇の端のチューリップを思い出す。ちゃんと気をつけよう。
「真白ちゃんは? 中学で何かやってた?」
詩が聞いた。
「……帰宅部です。小春と同じで」
「二人とも、仲いいんだね」
「中学からの友達なんです」
小春が答えた。
「真白がいなかったら、わたし、高校でも一人でお弁当食べてたかも」
「そんなことない」
真白が、ぼそっと言った。
「小春は、すぐ友達できるタイプでしょ」
「えー、そうかなあ」
「そうだよ」
真白の言葉は素っ気ないが、小春にはわかる。褒めてくれているのだ。
詩は、二人のやりとりを見ていた。少しだけ目を細めて、それから膝の上の文庫本の表紙を指先でなぞった。
——いい関係だな、この二人。
小春の明るさと、真白の静けさ。正反対みたいだけど、一緒にいると不思議とバランスが取れている。こういう日常の温度は、詩を書く時の参考になるかもしれない。
「そういえば」
柚葉が、思い出したように言った。
「来週から、当番制にしようと思ってるんだ」
「当番制?」
「うん。毎日、誰か一人が水やりを担当するの。朝、授業が始まる前に」
「朝ですか?」
「うん。花は、朝の水やりが大事だから。それに、朝の温室って、すごく気持ちいいんだよ。静かで、空気がきれいで」
柚葉は、少し嬉しそうに言った。
「小春ちゃんと真白ちゃんも、慣れてきたから入ってもらおうと思って」
「はい、やります!」
小春は即答した。
「真白は?」
「……やる」
「よかった。じゃあ、来週から五人で回そう」
柚葉の声が弾んでいた。
「月曜は私、火曜は凛、水曜は詩、木曜は小春ちゃん、金曜は真白ちゃん。これでいい?」
「はい!」
小春は、また即答した。
木曜日。自分の当番の日。毎週、花壇と温室の花たちが、自分だけを頼りにする日。なんだか、特別な気分になった。
「朝、何時に来ればいいですか?」
「7時半くらいかな。授業前に、ゆっくり水やりできる時間」
「わかりました」
小春は、胸の中で木曜日の朝を想像した。まだ人の少ない校庭。朝の光の中で、花にお水をあげるわたし。
——楽しみだな。
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## 四・帰り道
温室を出ると、空が夕焼け色に染まりかけていた。
春の日は長くなってきたけれど、それでも放課後はあっという間に過ぎる。校門へ向かう道で、桜の花びらがまだ少しだけ舞っていた。先週よりも少なくなっている。花びらの代わりに、若い葉が増えてきた。
帰り道、真白と並んで歩いた。
「真白、朝の当番、大丈夫?」
「何が?」
「早起き、苦手じゃなかった?」
「……まあ、大丈夫」
「本当?」
「小春に言われたくない」
「えー、わたし、最近ちゃんと起きてるよ」
「入学してから一週間で、二回遅刻しそうになったじゃん」
「あれは、たまたま……」
真白は、小さくため息をついた。
「木曜、起こしてあげようか」
「え、いいの?」
「どうせ、同じ電車だし」
「ありがとう、真白!」
小春は、真白の腕に抱きついた。
「ちょ、離れて」
「えへへ」
真白は迷惑そうな顔をしたが、振りほどこうとはしなかった。
小春の体温が、腕から伝わってくる。温かくて、いつも少しだけ高い。こういう時の小春は、花壇のチューリップみたいだと真白は思う。嬉しい時に、ぱっと色が明るくなる。
「ねえ、真白」
「なに」
「園芸部、入ってよかったね」
「……まあね」
真白は素っ気なく答えた。でも——確かに、悪くない。
温室の空気。土の匂い。柚葉先輩の穏やかな笑顔。凛先輩のクッキー。詩先輩の静かな空気。そして、隣で嬉しそうにしている小春。
悪くない。
四月の風が、二人の間を通り抜けていった。
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柚葉の園芸ノート 4月17日(水)晴れ
小春ちゃんと真白ちゃんが入部して一週間。
今日は水やりの基本を教えた。
小春ちゃんが花壇の端のチューリップの元気がないことに気づいた。
花の変化に気づける子は伸びる。嬉しい。
来週から朝の当番制を始める。
小春ちゃんは木曜、真白ちゃんは金曜。
「自分の担当の日」ができると、花への愛着が変わるんだよね。
凛のクッキー、今日はジャム入り。新作だそう。おいしかった。




