第19章 凛の決意
## 一・木枯らしの温室
十一月。木枯らしが吹き始めた。
校庭のイチョウが、鮮やかな黄色に染まっていた。風が吹くたびに葉が舞い上がって、金色の雨のように降ってくる。足元には黄色い落ち葉が重なり合い、歩くたびにかさかさと音を立てた。
キンモクセイの香りは、もうしない。十月の終わりに最後の花を落として、今は緑の葉だけが静かに風に揺れている。あの夜——後夜祭の帰り道に嗅いだ、甘い残り香。もう、どこにもない。
温室に向かう小道の百日紅は、すっかり葉を落としていた。夏の間あんなに咲き誇っていた花の痕跡は、枝先に残る小さな実だけ。裸になった枝が、冬の空に向かって伸びている。
温室のドアを開けると、暖かい空気が迎えてくれた。
外の冷たさとは別世界だ。ガラス越しの十一月の光が、棚の上の花を柔らかく照らしている。
コスモスは、そろそろ終わりかけていた。花びらの色が薄くなって、茎が少しだけ傾いている。九月に咲き始めて、二ヶ月。遥が育てた花の長い季節が、静かに終わろうとしていた。
その代わりに——シクラメンの蕾が、ほころび始めていた。赤、ピンク、白。下を向いた蕾が、少しずつ顔を上げようとしている。冬の花だ。寒くなるほど、きれいに咲く。
「シクラメン、もう少しで咲くね」
柚葉が言った。蕾を見つめる柚葉の隣に、凛がいた。
「うん」
「冬の温室って、好きだな。外が寒い分、ここが温かく感じる」
「……そうだね」
凛は、窓の外を見た。イチョウの葉が、風に乗って飛んでいく。
——文化祭が終わったら、ゆっくり話そう。
柚葉がそう言ったのは、もう二週間以上前のことだ。後夜祭の夜、キャンプファイヤーの火の前で。でも、まだ話せていない。
十一月に入って、受験が急に現実味を帯びてきた。三年生は放課後の勉強時間が増えて、部活に来る頻度が減っている。柚葉も、今週はまだ二回しか温室に来ていない。
「受験、近づいてきたね」
凛が言った。
「うん。そろそろ本気出さないと」
「柚葉、勉強進んでる?」
「まあまあかな。過去問始めた。凛は?」
「あたしも。桜丘の過去問、三年分解いた」
「さすが」
「全然さすがじゃない。半分しか解けなかった」
「凛なら大丈夫だよ」
柚葉が笑った。
凛は、その笑顔を見て——胸の奥が、少しだけ騒いだ。
話さなきゃ。でも、今日も二人きりじゃない。
温室には、小春と遥が当番で来ていた。真白は委員会の仕事があるらしく、まだ来ていない。
「柚葉先輩、詩先輩の推薦、決まったんですよね?」
小春が聞いた。
「うん。先週、合格通知が来たって」
「すごいですね。文学部」
「詩らしいよね。詩を続けられる環境を選んだんだって」
「素敵です」
小春が嬉しそうに言った。詩のことになると、声が一段明るくなる。
「柚葉先輩と凛先輩は、一般受験ですか?」
遥が聞いた。
「うん。私は緑風大学の農学部。凛は桜丘大学の調理科学科」
「別々の大学、なんですね」
遥の言葉に、凛の胸がちくりとした。
「……うん」
「でも、同じ県内だから。そんなに遠くない」
柚葉が、さらりと言った。
——本当に、そうだろうか。
凛は心の中で思った。同じ県内でも、毎日会えるわけじゃない。温室で隣にいる時間が、なくなる。
「凛、どうした?」
「何でもない」
凛は、シクラメンの蕾に目を戻した。
下を向いた花。でも、もうすぐ咲く。
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## 二・小春の言葉
数日後の放課後。
柚葉は勉強のため不在。詩は推薦が決まったとはいえ入学前課題があるらしく、図書室にいる。真白は教室で委員会の仕事。
温室には、凛と小春と遥の三人だった。
遥が、奥の棚でシクラメンの水やりをしている。小春は、テーブルの上で花壇の冬のスケジュール表を書いていた。
凛は、窓際に腰掛けて、ぼんやりと外を見ていた。
「凛先輩」
小春が声をかけた。
「ん?」
「最近、ぼーっとしてること、多くないですか?」
「……そう?」
「はい。文化祭の後くらいから」
凛は、少し驚いた。小春は、よく人を見ている。
「そんなことない」
「嘘です。わたし、わかりますよ」
小春が、ペンを置いた。
「何か、考えてることあるんじゃないですか」
凛は、小春を見た。明るくて、真っすぐで、少しおせっかいで。詩に告白した時も、きっとこの真っすぐさで気持ちを伝えたんだろう。
「……小春ちゃん」
「はい」
「好きな人に、気持ちを伝えるのって、怖かった?」
小春は、一瞬目を丸くした。
それから、少し考えて、頷いた。
「怖かったです。すごく」
「どんなふうに?」
「もし断られたら、今までの関係が壊れるんじゃないかって。詩先輩と、普通に話せなくなるんじゃないかって」
「……うん」
「でも、伝えてよかったって思います。伝えなかったら、ずっとモヤモヤしてたと思うから」
凛は、黙って聞いていた。
「凛先輩」
小春が、少しだけ声を低くした。
「柚葉先輩のこと、ですか?」
凛の心臓が、どくんと鳴った。
「……なんでわかるの」
「わたし、見てましたから。文化祭の時も、後夜祭の時も。柚葉先輩を見てる凛先輩の顔」
——そんなに、わかりやすかったのか。
凛は、少し顔が熱くなった。
「……あたし、柚葉のことが好きなんだ」
声に出したのは、小春が初めてだった。柚葉以外の人に、この言葉を言ったのは。
「友達として、じゃなくて」
「知ってました」
小春が、静かに言った。
「え」
「なんとなく。凛先輩が柚葉先輩を見る目、特別だから」
凛は、言葉に詰まった。
「ずっと、言えなかった。言ったら、何かが変わってしまうかもしれなくて」
「わたしも、そうでした。でも——」
小春は、少しだけ笑った。
「変わりました。いい方に」
「……」
「詩先輩に気持ちを伝えて、関係が変わって。前より、ずっと幸せです」
凛は、窓の外を見た。イチョウの葉が、また一枚、風に飛ばされていく。
「凛先輩」
「うん」
「伝えてください。柚葉先輩なら、ちゃんと受け止めてくれますから」
小春の声は、真っすぐだった。
奥の方で、遥がそっと棚の陰に移動した。聞こえてしまったのかもしれない。でも、何も言わずに、静かに花の手入れを続けている。
凛は、小さく息を吐いた。
「……ありがとう、小春ちゃん」
「応援してます」
小春が、にっこり笑った。
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## 三・真白の言葉
その翌日。
放課後の温室に、凛と真白の二人だけがいた。
小春は詩と図書室で勉強。柚葉は予備校の模試。遥は教室の掃除当番。
真白は、黙々とシクラメンの葉を整えていた。枯れかけた葉を一枚ずつ丁寧に取り除いて、株元をきれいにしていく。手つきが、春の頃よりずっと確かになっている。
凛は、反対側のテーブルで、ドライフラワーの残りを整理していた。文化祭で使い切ったブーケの材料。ラベンダーが少しだけ残っている。乾いた紫の花が、かすかに甘い匂いを保っていた。
温室の中は静かだった。時計の音と、葉を摘む小さな音だけ。
「真白ちゃん」
「……はい」
「一つ、聞いていい?」
真白は、手を止めずに頷いた。
「真白ちゃんは——柚葉に気持ちを伝えた時、怖くなかった?」
真白の手が、一瞬止まった。
それから、また動き始めた。枯れた葉を、一枚。
「怖かったです」
「……そうだよね」
「でも、伝えました」
「どうして?」
真白は、シクラメンの蕾を見つめた。下を向いた、赤い蕾。
「伝えなかったら、ずっとこのままだと思ったから」
「このまま?」
「好きなのに、好きって言えないまま、隣にいること。それが——つらかった」
凛は、息を呑んだ。
——それは、あたしのことだ。
五年間。まさに、そうだった。好きなのに、好きって言えないまま、隣にいた。
「叶わなかったけど」
真白が、静かに言った。
「伝えてよかったです。伝えなかったら、今でもずっと、苦しいままだったと思う」
「真白ちゃん……」
「凛先輩」
真白が、初めて凛の方を見た。
「柚葉先輩のこと、好きなんですよね」
凛は、驚いた。
「……わかるの」
「わかります。私も、同じ人を好きだったから」
その言葉の重さに、凛は何も言えなかった。
真白は——柚葉を好きだった。告白して、断られて。それでも今、こうして穏やかに前を向いている。
「伝えた方がいいです」
真白は、また手を動かし始めた。シクラメンの葉を整えながら、静かに。
「柚葉先輩、凛先輩のこと見てますから」
「……え」
「気づいてないかもしれないけど。柚葉先輩、凛先輩がいる時、いちばん安心した顔してます」
凛は、言葉が出なかった。
真白が、これを言ってくれる。柚葉を好きだった真白が。自分の恋を手放した真白が。
「……ありがとう」
しばらくして、やっとそれだけ言えた。
真白は、小さく頷いた。
それ以上は、何も言わなかった。二人の間に、静かな時間が流れた。温室の暖かい空気と、シクラメンの蕾と、ラベンダーの残り香。
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## 四・五年間
その夜。
凛は、自分の部屋のベッドに横になって、天井を見ていた。
小春の言葉。真白の言葉。
二人とも、伝えた人だ。小春は伝えて、幸せになった。真白は伝えて、失恋した。でも、二人とも、後悔していない。
——あたしは、どうだろう。
五年間。
目を閉じると、記憶が順番に浮かんでくる。
中学一年の春。入学式の翌日。掃除当番で教室に残っていたら、窓の外に誰かが見えた。花壇の前でしゃがみ込んでいる女の子。
何をしているんだろう、と思って、窓から覗いた。
女の子は、花壇の雑草を抜いていた。一人で、黙々と。誰に頼まれたわけでもなさそうだった。ただ、花壇の花がきれいに咲くように。
「何してるの?」
思わず声をかけた。窓越しに。
女の子は顔を上げて、にっこり笑った。土のついた手で、おでこの汗を拭きながら。
「花壇の手入れ。この花、水が足りなかったみたいで。放っとけなくて」
その笑顔が——もう、忘れられなかった。
それが、柚葉だった。
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それから五年間。中学の園芸委員会で一緒になり、高校では一緒に園芸部に入った。ずっと隣にいた。
柚葉の笑顔が好きだった。花のことを話す時の、目の輝きが好きだった。誰にでも優しくて、でも花壇の前でだけ見せる真剣な顔が好きだった。
「好き」という気持ちが、いつから「恋」になったのか——正確にはわからない。でも、気づいた時にはもう、手遅れだった。
二年生の時。柚葉の誕生日にケーキを焼いた。お菓子作りを始めたきっかけは、柚葉に何かを作ってあげたかったから。
「凛のケーキ、おいしい」
柚葉がそう言って笑うのが見たくて、何度も何度も練習した。レシピを調べて、材料を量って、オーブンの温度を覚えて。失敗しても、また焼いた。柚葉が笑ってくれるなら、それでよかった。
去年の十二月。凛の誕生日に、柚葉が手編みのマフラーをくれた。グレーの、少しだけ編み目が不揃いなマフラー。
「下手くそでごめんね。でも、凛に似合う色だと思って」
あの時、泣きそうになった。嬉しくて。でも、泣いたら何もかもバレてしまいそうで、「ありがと」とだけ言って、顔を背けた。
——あのマフラー、今でも大事にしまってある。
夏のオープンキャンパス。二人で大学を見に行った。帰りのバス停で、聞いた。
「あたしたちって何なんだろう」
柚葉は答えられなかった。「友達以上に、かどうかは……わからないけど」——あの時の柚葉の戸惑った顔。
そして、文化祭の後。キンモクセイの香りの中で、柚葉が言ってくれた。
「特別なんだ。凛は」
あの時の胸の震え。五年間待ち続けて、ようやく聞けた言葉。
「文化祭が終わったら、ゆっくり話そう」
——文化祭は、終わった。もう、二週間以上経っている。
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凛は、ベッドの上で体を起こした。
机の上に、カレンダーがある。十一月。受験まで、あと三ヶ月。
このまま黙っていたら。受験が始まって、忙しくなって、卒業して、離れ離れになって——言えないまま終わる。
それだけは、嫌だ。
真白の言葉が、頭の中で響いた。
「伝えなかったら、ずっとこのままだと思ったから」
小春の声も。
「伝えてください。柚葉先輩なら、ちゃんと受け止めてくれますから」
——言おう。
凛は、スマホを手に取った。
柚葉の名前を表示して、メッセージを打つ。
「今週の土曜、空いてる? 話したいことがあるの」
送信ボタンを押す指が、少しだけ震えた。
すぐに返事が来た。
「空いてるよ。私も、話したいことがあったの」
心臓が、どくんと鳴った。
——話したいこと。
柚葉の「話したいこと」が、何なのか。わからない。わからないけど——もう、後には引けない。
凛は、スマホを胸に当てた。
——五年分の気持ちを、言葉にしよう。
窓の外に、冬の星が見え始めていた。
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## 五・イチョウの告白
土曜日の午後。
待ち合わせたのは、学校の近くの公園だった。温室に行く途中、いつも通り過ぎる場所。イチョウ並木のある、小さな公園。春には桜が咲いて、夏には木陰が涼しくて、秋には黄金色に染まる。
今は——イチョウの葉が、ほとんど散っていた。
残り少ない黄色い葉が、枝にしがみついている。足元には、落ち葉の絨毯。踏むと、かさかさと乾いた音がする。
空は高くて、青い。十一月の風は冷たいけれど、午後の陽射しは暖かかった。
ベンチに、柚葉がもう座っていた。マフラーを巻いて、コートのポケットに手を入れて。凛が来るのを見つけると、ぱっと手を振った。
「凛、こっち」
その笑顔が、五年前と同じだった。花壇の前で、土のついた手で笑った、あの時と。
「ごめん、待った?」
「ううん。今来たとこ」
凛は、柚葉の隣に座った。ベンチの木が、少し冷たい。でも、隣に柚葉がいるだけで、なんだか温かい。
風が吹いて、イチョウの葉が一枚、ゆっくりと落ちてきた。くるくると回りながら、二人の足元に着地する。
「きれいだね」
柚葉が、落ち葉の絨毯を見て言った。
「うん」
「冬になる前の、最後の色」
凛は、深呼吸をした。冷たい空気が、肺に入ってくる。
——言おう。今日こそ。
「柚葉から先に話す?」
「ううん。凛から」
「……じゃあ」
凛は、膝の上で手を握りしめた。
「柚葉」
「うん」
「あたし——柚葉のことが好き」
言った。
五年間、喉の奥に押し込め続けた言葉が、ようやく声になった。
「友達として、じゃなくて。恋として」
柚葉は、凛を見ていた。驚いた顔では、なかった。
凛は、前を向いたまま続けた。柚葉の顔を見たら、泣いてしまいそうだった。
「中学一年の春——花壇の前で笑った柚葉を見た時から。ずっと」
「凛……」
「ケーキを焼くようになったのは、柚葉に食べてほしかったから。園芸部に入ったのは、柚葉と同じ場所にいたかったから。全部——柚葉がいたから」
声が、震えた。でも、止まらなかった。五年分の言葉は、一度溢れ出したら止められない。
「夏に、柚葉が『特別』って言ってくれた時——すごく、嬉しかった」
「……」
「でも、同時に怖かった。特別の意味が、あたしと柚葉で、違ったらどうしようって」
風が吹いた。イチョウの葉が、二人の間を通り過ぎていく。
「返事は、すぐじゃなくていい。でも、知っておいてほしかったの。卒業する前に」
凛は、やっと柚葉の方を見た。
柚葉は——泣いてはいなかった。でも、目が潤んでいた。
「凛」
「……うん」
「私も、話したいことがあったの」
「うん」
「私も、凛のことが好き」
凛の息が、止まった。
一瞬。ほんの一瞬、世界が止まったように感じた。
「夏から、ずっと考えてた。凛への気持ちに、名前をつけられなくて」
柚葉は、凛の方に体を向けた。
「でも、今はわかる。これは恋だったんだ。ずっと前から」
「……柚葉」
「気づくの、遅くてごめんね。凛が五年も想ってくれてたなんて」
「え……気づいてたの?」
「ううん。今、初めて知った。五年って……」
柚葉の声が、かすかに震えた。
「そんなに長く、想ってくれてたんだ」
凛の目から、涙が溢れた。
止まらなかった。
「泣かないでよ……」
「泣くに決まってるでしょ……」
凛は、涙を袖で拭った。
「五年だよ。五年間、ずっと、この言葉を待ってたんだから……」
「そんなに……ごめん、鈍感で……」
「謝らないで。嬉しいんだから」
凛は、泣きながら笑った。涙と笑顔が混じった、ぐちゃぐちゃな顔。でも、幸せだった。五年間の中で、いちばん。
柚葉も、目元を拭った。
「私も泣きそう……」
「泣けば」
「凛が泣かせたんでしょ」
「嘘。柚葉が泣かせたんでしょ」
二人で、泣きながら笑い合った。
イチョウの葉が、ひらひらと二人の肩に落ちる。黄金色の、小さな祝福みたいに。
---
しばらくして、凛の涙が落ち着いた。
「じゃあ、あたしたち……」
「うん」
「付き合う、ってこと?」
柚葉が、照れくさそうに笑った。
「遅くなっちゃったね。五年も待たせて」
「いいよ。待った甲斐があった」
「……凛」
「なに」
「好きだよ」
凛の頬が、また熱くなった。
「……あたしも」
柚葉が、凛の手を取った。冷たくなっていた凛の手を、両手で包むように。
「冷たい。手袋、してないの」
「忘れた」
「もう。凛らしいね」
柚葉の手は温かかった。いつも温かい。花の世話をする手。土を触る手。ケーキの感想を言う時に嬉しそうに動く手。
「離れるね。来年」
凛が言った。
「うん。大学が違うから」
「でも、会いに行く」
「約束?」
「約束」
「会いたくなったら、いつでも来て。ケーキ焼いて待ってる」
「……凛が来る側なんじゃないの」
「柚葉も来ればいいじゃん」
「うん。行く」
二人は、指を絡めるようにして、手を繋いだ。
「みんなには、言う?」
凛が聞いた。
「うん。月曜日に。隠すのも変だし」
「恥ずかしいな」
「私も。でも、小春ちゃんと詩が報告してくれた時、嬉しかったでしょ?」
「……うん」
「だから、ちゃんと言おう」
凛は、頷いた。
「帰ろうか」
「うん」
二人は立ち上がった。手を繋いだまま、イチョウの落ち葉を踏みながら、公園を出た。
十一月の夕暮れ。空がオレンジと紫のグラデーションに染まっている。二人の影が、長く伸びていた。
「ねえ、凛」
「なに」
「クリスマス、二人で何かしない?」
「……いいね」
「ケーキ、凛が焼いて」
「じゃあ、何味がいい」
「凛に任せる」
「……じゃあ、考えとく」
柚葉が、くすっと笑った。
「それ、真白ちゃんの口癖」
「違うし」
凛は、少しだけむっとした。でも、繋いだ手は離さなかった。
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## 六・温室の報告
月曜日。放課後。
温室に、六人が集まっていた。
凛は、温室のドアを開けた時、少し緊張した。隣の柚葉を見ると、柚葉も同じように緊張しているのがわかった。目が合って、二人で小さく頷き合う。
小春が、凛の顔を見て、ぱっと明るい表情になった。何か察したのかもしれない。
テーブルを囲んで、みんなが座った。いつもの場所に、いつものように。
「あのさ」
凛が切り出した。
全員の視線が、凛に集まる。
「あたしと柚葉——付き合うことになった」
温室が、一瞬静かになった。
最初に動いたのは、小春だった。
「おめでとうございます!」
声が、弾んでいた。目がきらきらしている。
「よかったですね、凛先輩」
「……ありがとう」
詩が、穏やかに微笑んだ。
「二人とも、おめでとう」
「ありがとう、詩」
「ずっと、お似合いだと思ってたよ」
「ずっとって……知ってたの?」
「詩人は、人の心の機微に敏感なの」
詩が、いつもの静かな調子で言った。小春が、隣で嬉しそうに笑っている。
遥は、少し驚いた顔をしていた。でも、すぐに笑顔になった。
「おめでとうございます。柚葉先輩、凛先輩」
それから——ちらりと、真白の方を見た。
---
真白は、黙っていた。
テーブルの上の、自分の手を見つめている。
「真白ちゃん」
柚葉が、優しく呼んだ。
真白は、顔を上げた。
「……おめでとうございます」
小さな声だった。でも——震えてはいなかった。
柚葉が、少し心配そうな顔をした。
「ありがとう、真白ちゃん」
真白は、小さく頭を下げた。
——柚葉先輩が、幸せそう。
凛先輩の隣で、少しだけ照れた顔をしている柚葉。その表情を見て、真白の胸の奥が、ちくりとした。
でも、それだけだった。
夏の花火の夜に泣いたこと。「好きでした」と過去形で思えた夜。文化祭で「任せてください」と言えた自分。
全部、今のこの瞬間のためにあったのだと——そう、思えた。
——好きになってよかった。
——伝えてよかった。
——だから、前を向ける。
真白は、もう一度、顔を上げた。
「凛先輩」
「うん」
「柚葉先輩を、よろしくお願いします」
凛は、少し驚いた顔をした。
それから、真っすぐ真白を見て、頷いた。
「うん。任せて」
真白は、小さく——でも確かに、笑った。
遥が、その笑顔を見ていた。何も言わずに。でも、少しだけ安心したような顔をしていた。
---
## 七・帰り道
帰り道。
校門を出て、いつもの分かれ道。
「じゃあ、また明日」
柚葉が手を振った。凛が、その隣に立っている。
「お疲れさまでした」
遥が言った。
詩は小春に小さく手を振って、先に帰っていった。残りの五人が、それぞれの方向に分かれる。
---
小春と真白は、並んで歩いた。いつもの帰り道。
しばらく、黙って歩いた。秋の終わりの空は、早くから暗くなり始める。西の空だけが、まだオレンジ色に残っていた。
「真白」
「なに」
「大丈夫?」
「……何が」
「柚葉先輩のこと」
真白は、空を見上げた。十一月の空。高くて、澄んでいて、星が一つ見え始めている。
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。わかってたことだから」
小春は、真白の横顔を見た。泣いてはいない。強がっている様子も、ない。ただ穏やかに、前を向いている。
「柚葉先輩が幸せなら、それでいいの」
「真白……」
「私は——大丈夫だよ」
小春は、真白の手を握った。
「真白は強いね」
「強くないよ。ただ——」
真白は、少しだけ言葉を探すように、前を見た。
「——伝えたから。ちゃんと伝えたから、前を向けるだけ」
「うん」
「それに」
「?」
真白は、少しだけ目を逸らした。
「……一人じゃないし」
小春は、一瞬わからなかった。
それから——あ、と思った。
「遥ちゃん?」
真白は答えなかった。でも、耳の先が少しだけ赤い。秋の冷たい風のせいだけじゃない。
小春は、ぎゅっと真白の手を握り直した。
「真白」
「なに」
「わたし、真白のことが大好き。ずっと、友達でいようね」
「……うん」
真白は、小春の手を握り返した。強く、確かに。
---
少し後ろを歩いていた遥は、二人の背中を見ていた。
真白先輩の、まっすぐな背中。
温室で「おめでとうございます」と言った時の、揺るがない声。「柚葉先輩を、よろしくお願いします」と言った時の、小さな笑顔。
——真白先輩は、すごいな。
遥は、自分のポケットの中で、手をぎゅっと握った。
——私も、もっと頑張ろう。
真白先輩の隣にいられるように。
---
柚葉と凛は、反対方向に歩いていた。
学校の近くでは、手を繋いでいなかった。さすがに——少しだけ、気にした。
「恥ずかしかった」
凛が言った。
「うん。私も」
「みんなの前で言うの、あんなに緊張すると思わなかった」
「小春ちゃんの反応、よかったね」
「……知ってたみたいだった」
「え?」
「小春ちゃんには、少し相談してたの」
「そうなんだ」
柚葉が、少し驚いた顔をした。
「真白ちゃんにも」
「真白ちゃんにも?」
「うん。背中を押してもらった」
凛は、前を向いたまま言った。
「真白ちゃん——強いね」
「……うん。本当に」
しばらく、二人の足音だけが響いた。
学校から離れて、住宅街に入る。見慣れた道。五年間、何度も一緒に歩いた道。
「凛」
「なに」
「手、繋いでいい?」
凛は、ちらりと周りを見た。人通りは少ない。夕暮れの薄暗さが、二人を隠してくれている。
「……いいよ」
柚葉が、そっと凛の手に触れた。指が絡み合う。土曜日の公園で繋いだ時より、少しだけ自然に。
「温かい」
「今日は手袋してるから」
「凛が学んだ」
「うるさい」
凛は、つんと横を向いた。でも、手は離さない。
二人の影が、街灯の下で並んでいる。
「ねえ」
「なに」
「五年間——私の隣にいてくれて、ありがとう」
「……」
凛は、何も言えなかった。
言葉の代わりに、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
——こちらこそ。
五年分の景色が、全部、ここに繋がっていた。中学の花壇も。温室のティータイムも。誕生日のケーキも。クリスマスのマフラーも。オープンキャンパスのバス停も。文化祭のキンモクセイも。
全部、全部、柚葉の隣だった。
これからも、隣にいる。離れても、会いに行く。
冬の最初の星が、東の空に光り始めた。
「寒くなるね」
「うん」
「クリスマス、楽しみだね」
「ケーキ、何味にするか決めた?」
「……まだ。でも、柚葉が好きな味にする」
「私、凛のケーキなら何でも好きだよ」
「……そういうの、ずるい」
柚葉が笑った。凛も、笑った。
夕暮れの帰り道。冬の入り口。五年分の想いが報われた日の、静かな幸福。
二人の手は繋がれたまま。影が寄り添って、冬の街を歩いていった。




