第18章 秋の気配
キンモクセイが咲いた
どこにあるかは見えない
けれど、匂いでわかる
風が吹くたびに
近くなったり、遠くなったり
ずっと前から
ここにあったのかもしれない
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## 一・コスモスの秋
九月。二学期が始まった。
温室のコスモスが、咲き始めていた。ピンク、白、赤。風が吹くたびに細い茎が揺れて、花びらが踊るように動く。
「咲いた」
遥が、嬉しそうに声を上げた。
夏の間、毎日水をやり続けたコスモス。芽が出て、葉が伸びて、茎が高くなって——ようやく、花が開いた。
「遥ちゃんのおかげだよ」
柚葉が言った。
「夏の間、ずっと面倒見てくれたもんね」
「真白先輩も一緒でした」
遥が、真白を見た。真白は、窓際で水やりの準備をしていた。
「私は、何もしてない」
「してましたよ。水の量とか、日当たりとか、全部教えてくれたじゃないですか」
「……それくらい」
真白は、じょうろに水を入れた。遥が育てたコスモスには触れず、別の棚のマリーゴールドに水をやり始めた。
小春は、コスモスの前でしゃがんだ。
「春に蒔いた種が、こんなにきれいに咲いて」
「感慨深いね」
詩が、小春の隣で言った。
「一緒に育てたものが、花開くのって、嬉しい」
「うん」
二人は、顔を見合わせて笑った。
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温室の外に出ると、空が高くなっていた。
夏の間ずっと響いていた蝉の声は聞こえなくなって、代わりに秋の虫たちが夕暮れから鳴き始める。校庭の木々の葉が、ほんの少しだけ色づき始めている。
温室に向かう小道の百日紅は、最後の花びらを散らしていた。七月から咲き続けた花が、ようやく休む時が来たのだ。散った花びらが、道のアスファルトにピンクの点を散らしている。
その代わりに——キンモクセイが咲いていた。
小さなオレンジ色の花が、枝いっぱいについている。甘い香りが、秋風に乗って運ばれてくる。
「いい匂い」
小春が、深呼吸した。
「キンモクセイだ」
「秋だね」
詩が呟いた。
「この匂い、好き。どこにいても、秋が来たってわかるから」
小春は、詩の隣を歩きながら、ポケットの中のクラゲのストラップに触れた。夏休みの水族館で買った、お揃いのもの。
「ねえ、詩先輩」
「なに?」
「プラネタリウム、いつ行きましょうか」
「来月、新しいプログラムが始まるって聞いたよ。秋の星座」
「行きたいです」
「じゃあ、十月の最初の日曜日にしよう」
「約束です」
小春は、嬉しくなった。
夏に約束したこと。一つずつ、叶えていく。
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## 二・ドライフラワー
九月の半ば。文化祭の企画会議。
温室に六人が集まった。テーブルの上に、柚葉が用意した資料が広げてある。
「今年の文化祭、どうしようか」
柚葉が言った。
「去年のフラワーアレンジメント体験、評判よかったよね」
「うん。でも、今年はもうちょっとパワーアップしたい」
凛が腕を組んだ。
「何か、新しいことを」
「たとえば?」
「ドライフラワーとか、作れないかな」
凛が言った。
「ドライフラワー?」
「うん。日持ちするし、インテリアにもなる。お客さんが家に持ち帰って、ずっと飾れるやつ」
「いいね。それ、いい」
柚葉が目を輝かせた。
「ドライフラワー、どうやって作るんですか?」
遥が聞いた。メモ帳を開いて、ペンを構えている。
「いろいろ方法があるんだけど、一番簡単なのは、逆さに吊るして乾燥させる方法」
柚葉が説明した。
「風通しのいい場所で、一週間から二週間くらい。シリカゲルを使う方法もあるけど、数が必要だから吊るし乾燥がいいと思う」
「どの花がいいんですか?」
「乾燥させても色が残りやすい花がいいね。バラ、カスミソウ、ラベンダー。あと、千日紅とかスターチスも」
遥は、一つ一つ丁寧にメモを取っていた。
「真白先輩、千日紅って温室にありましたよね」
「……うん。奥の棚の」
「使えますか?」
真白は、柚葉を見た。柚葉が頷いた。
「じゃあ、明日から準備始めよう」
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翌日から、ドライフラワーの制作が始まった。
放課後、六人で温室に集まる。花を選んで、茎を切って、麻紐で束ねて、温室の奥の棚に逆さに吊るす。はさみが茎を断つ小さな音と、麻紐を引く乾いた音が、静かな温室に繰り返し響いた。
「こうやって、一本ずつ吊るすんだよ」
真白が、遥に見せた。
「茎は、斜めに切って。そのほうが水分が抜けやすいから」
「はい」
遥が、真白の手つきを真剣に見ている。
「紐は、きつく結びすぎないで。乾燥すると茎が細くなるから」
「なるほど……」
遥は、真白に教わりながら、一本ずつ丁寧に吊るしていった。
小春と詩は、バラの花びらの状態を確認している。
「これ、まだつぼみが固いかな」
「もう少し開いてからの方がいいかも。七分咲きくらいが一番きれいに仕上がるんだって」
「詩先輩、詳しいですね」
「図書室で調べた」
詩は、小さく笑った。
柚葉と凛は、ラベンダーの束を作っていた。
「ラベンダー、乾いてもいい匂いだよね」
「うん。お客さんに喜ばれると思う」
凛は、ラベンダーの茎を揃えて、きゅっと紐で結んだ。手つきが、正確で丁寧だった。
柚葉は、その手元を見ていた。
凛の指。ケーキを焼く時も、花を束ねる時も、いつも丁寧に動く。
——凛って、こういうところ、すごいな。
ふと、そう思った。
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一週間が過ぎた。
温室の奥に吊るしたドライフラワーが、少しずつ形を変えていく。
「色、きれいに残ってますね」
遥が、バラのドライフラワーを見上げた。
「うん。いい感じ」
真白が言った。
生花とは違う。鮮やかさは薄れて、代わりに落ち着いた深みが出ている。赤いバラは暗いワインレッドに、ピンクのカスミソウは淡いアンティークピンクに。ラベンダーは、紫のまま。
「きれい」
小春が言った。
「生きてた時とは違うけど、これはこれで」
「うん。違う美しさだよね」
詩が頷いた。
「時間が経って、形が変わっても、美しいものは美しい」
その言葉に、柚葉がちらりと凛を見た。
凛は気づかず、千日紅の乾き具合を確認している。
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## 三・気づき
十月。
空気が澄んで、空がどこまでも高い。温室の窓から差し込む光も、夏とは違う。柔らかくて、少しだけ寂しい色をしている。
文化祭まで、あと二週間。
ドライフラワーのブーケ作りが始まった。小さなブーケを作って、リボンで結んで、お客さんに選んでもらう。体験コーナーでは、自分で好きな花を組み合わせてもらう。
「リボンの色、何種類くらい用意する?」
凛が聞いた。
「五色くらい? 赤、ピンク、白、紫、水色」
「去年の余りもあるし、足りない分だけ買い足そう」
凛は、テーブルの上でリボンを切り分けていた。
長さを揃えて、一つずつ丁寧に。はさみの刃がリボンを滑るたびに、くるんとカールする。
柚葉は、その姿を見ていた。
——凛。
最近、凛のことを考える時間が増えていた。
夏休みのオープンキャンパス。二人で行った、大学の温室。帰りのバス停で、凛が言った。
「あたしたちって何なんだろう」
あの時、柚葉は答えられなかった。「友達以上に、かどうかは……わからないけど」——嘘だった。わからないんじゃなくて、言えなかった。
凛の存在は、いつも当たり前にそこにあった。中学からずっと、隣にいてくれた。
でも、「当たり前」は、当たり前じゃないのかもしれない。
卒業が近づいてくると、そのことが少しずつわかってくる。
凛がいない温室。凛がいない放課後。凛の焼いたお菓子がない、ティータイム。
想像しただけで、胸がざわつく。
——これは、なんだろう。
柚葉は、リボンを切る凛の手元に目を戻した。
「柚葉」
「え」
「ぼーっとしてるけど、大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫」
「手、止まってるよ。ブーケ、あと十個」
「ごめんごめん」
柚葉は、慌てて作業に戻った。
凛が、ちょっと呆れたように、でもどこか嬉しそうに、ため息をついた。
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## 四・特別
文化祭まであと十日。
放課後、みんなで準備を進めている中、柚葉が凛に声をかけた。
「凛。ちょっと、外で話せる?」
「……うん」
二人は、温室の外に出た。
校舎の裏手。花壇の横のベンチ。キンモクセイの香りが、まだかすかに残っている。十月の風は、もう肌寒い。
「何の話?」
凛が聞いた。
「受験のこと……と、それ以外のこと」
「受験?」
「志望校、決まった?」
「……まあ、一応。桜丘大学の調理科学科」
「そっか。凛らしいね」
「柚葉は、緑風大学の農学部でしょ」
「うん」
しばらく、沈黙が続いた。
風が吹いて、また甘い香りが届いた。
「離れるね」
凛が、小さく言った。
「うん」
「でも、いいんだ。自分のやりたいこと、追いかけないと」
凛の声は、さっぱりしていた。でも、少しだけ震えていた。
「凛」
柚葉は、凛の方に体を向けた。
「夏から、ずっと考えてたことがあるの」
「……なに」
「私たちのこと」
凛の肩が、微かに動いた。
「夏休み、バス停で凛が聞いたよね。『あたしたちって何なんだろう』って」
「……覚えてるんだ」
「忘れるわけないよ」
柚葉は、自分の膝の上で手を組んだ。
「あの時、ちゃんと答えられなかった。ごめんね」
「別に——」
「凛のこと、友達以上に大切に思ってる」
凛が、柚葉を見た。
柚葉は、まっすぐ凛の目を見ていた。
「まだ、名前をつけられないの。この気持ちに」
「……」
「でも、特別なんだ。凛は」
凛の心臓が、どきっとした。
五年間、ずっと聞きたかった言葉。いや、正確には——聞くことを諦めていた言葉。
「凛が焼いてくれるお菓子の味。温室で隣にいる時間。くだらないことで笑い合う放課後。全部、特別」
「柚葉……」
「来年、離れるでしょ。だから余計に、わかったの。凛がいない毎日を想像して、初めて気づいた」
柚葉は、凛の手を握った。
凛の手は、少し冷たかった。十月の風のせいだ。
「あたしも……」
凛は、声が震えそうになるのを堪えた。
「あたしも、柚葉のこと……特別だと思ってる」
——五年間、ずっと。
その言葉は、喉の奥に留めた。今はまだ、言わない。
二人は、しばらく黙った。
手を繋いだまま。
キンモクセイの香りが、二人を包んでいた。
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「文化祭が終わったら」
柚葉が言った。
「ゆっくり話そう。私たちのこと」
「うん」
「今は、準備に集中しよう」
「そうだね」
凛は、繋いでいた手を、そっと離した。
名残惜しかった。でも、今は——まだ。
二人は、温室に戻った。
ドアを開けると、小春たちの声が聞こえた。
「柚葉先輩、凛先輩、おかえりなさい」
遥が言った。
「ブーケ、もう少しで全部できますよ」
「ありがとう。あとは任せて」
柚葉は、いつもの笑顔でみんなの輪に戻った。
凛は、少しだけ遅れて——自分の頬が熱いことに気づきながら——作業台に向かった。
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## 五・文化祭
文化祭当日。
十月の終わり、土曜日。朝から秋晴れだった。
温室の前にテーブルを並べて、園芸部のブースを設営した。テーブルクロスは白。その上に、ドライフラワーのブーケと、生花のアレンジメントの見本を並べる。
「いらっしゃいませ。園芸部のフラワーアレンジメント体験です」
小春が、笑顔でお客さんを迎えた。
「今年は、ドライフラワーバージョンもあります。自分で好きな花を選んで、小さなブーケを作れますよ」
「やってみたい!」
女子の二人組が、テーブルの前に座った。
「どのお花にしますか?」
遥が、ドライフラワーの種類を説明した。
「これはバラです。乾燥させると、こういう深い赤になるんです。こっちはカスミソウ。ピンクのままきれいに残ってます」
「遥ちゃん、すごい。全部名前知ってるの?」
「先輩たちに教えてもらいました」
遥は、にっこり笑った。
真白は、ブースの奥で材料の補充をしていた。リボンが足りなくなれば補充し、包装紙がなくなれば新しいものを出す。お客さんが迷っていれば、さりげなく色の組み合わせを提案する。
「この三色だと、まとまりがいいですよ」
「ありがとう。センスいいね」
「……どうも」
柚葉は、真白の様子を少し離れた場所から見ていた。
——真白ちゃん、本当に成長したな。
凛は、体験コーナーの横でお菓子を配っていた。文化祭のために焼いた、小さなクッキー。花の形をしていて、バターの甘い匂いがする。
「これ、園芸部の人が作ったの?」
「はい。うちの凛先輩が」
小春が答えた。
「すごい。おいしい!」
柚葉もひとつ口に入れた。バターの風味と、ほんのりシナモンの香ばしさ。甘さが控えめで、後味がすっと消える。凛らしい味だった。
凛は、お客さんの反応を聞いて、少しだけ嬉しそうな顔をした。
詩は、ブースの隣に小さな看板を出していた。手書きで、花の豆知識を書いたもの。
「ドライフラワーの花言葉は『永遠の思い出』です」
詩の字は、丁寧で読みやすかった。立ち止まって読んでいくお客さんが、何人もいた。
「永遠の思い出……いいね」
「詩先輩が書いてくれたんです」
小春が、誇らしそうに言った。
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午後三時。ブースの前に、長い列ができていた。
「ドライフラワー、すごい人気だね」
柚葉が言った。
「在庫、大丈夫?」
「あと二十個くらい」
真白が答えた。
「リボンは、紫と水色がもう少し」
「私、奥から持ってきます」
遥が、温室の中に走った。
「去年より忙しいね」
凛が言った。額に汗が滲んでいる。
「でも、六人いるから回せてる」
「うん。去年は五人で大変だったもんね」
去年の文化祭。みんなで必死に対応して、片付けの後、温室で倒れ込むように座ったのを覚えている。小春が詩の肩にもたれて眠ってしまったことも。
——一年、経ったんだな。
同じ場所で、同じことをしている。でも、去年とは違う。遥がいて、真白が頼もしくなって、小春と詩が恋人同士になって。
変わったもの。変わらないもの。
「柚葉」
凛が、ペットボトルの水を差し出した。
「水。飲んで」
「ありがと」
柚葉は、水を受け取った。凛の指が、ほんの一瞬、柚葉の手に触れた。
それだけのことなのに。
胸が、少しだけ騒いだ。
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## 六・後夜祭の火
文化祭が終わって、後片付けをした。
「お疲れさま」
みんなで声を揃えた。
「今年も、大成功だったね」
柚葉が言った。
「ドライフラワー、全部なくなったよ」
凛が言った。
「来年は、もっと作らないとね」
「来年は——」
凛が言いかけて、止まった。
来年の文化祭には、三年生はもういない。
「……ごめん」
「謝ることないよ」
柚葉が言った。その声は、明るかった。でも、最後がほんの少し揺れた。
「小春ちゃんと真白ちゃんと遥ちゃんがいるから」
「そうですね。頑張ります」
小春が言った。
「任せてください」
真白が言った。小春が驚いた顔をした。真白が自分から「任せてください」と言ったのは、初めてかもしれない。
「頼もしいね」
柚葉が微笑んだ。
「来年も、きっと素敵な文化祭になるよ」
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後夜祭。校庭のキャンプファイヤー。
炎が、秋の夜空に向かって燃えている。パチパチと薪が爆ぜる音。煙の匂い。火の粉が、星のように舞い上がっていく。
十月の夜は、もう冷える。制服の上着を着ていても、腕の先がじんと冷たい。吐く息が、かすかに白い。
みんなで火を囲んだ。去年もここで、同じように火を見た。でも、今年は隣にいる人が、少しだけ変わっている。
小春は、詩の隣に座っていた。
「去年もここで見ましたね」
「うん。あの時は、まだ——」
詩が、少し照れたように言いかけて、やめた。
「まだ、何ですか?」
「まだ、小春ちゃんに気持ちを伝えてなかった」
小春の頬が、火の明かりだけじゃなく、赤くなった。
「今は、伝えた後だね」
「はい」
「ねえ、小春ちゃん」
「はい」
「プラネタリウム、楽しかったね」
「はい。秋の星座、きれいでした」
十月の初めに、約束通りプラネタリウムに行った。暗い天井に映し出された星空。詩が、一つ一つの星座の物語を、小さな声で教えてくれた。
「天の川のこっち側が織姫で、あっち側が彦星」
「七夕の話ですよね」
「うん。でも、秋の天の川って、夏よりずっと淡いんだよ。見えにくいけど、ちゃんとそこにある」
「見えなくても、あるんですね」
「うん。離れても、繋がってるの」
あの時の詩の声を、小春はずっと覚えている。
「詩先輩」
「なに?」
「来年、先輩がいなくなっても——天の川みたいに、繋がってますか」
「もちろん」
詩が、小春の手を握った。
「離れても、小春ちゃんのこと、ずっと好きだよ」
「……わたしも」
二人は、火を見つめながら、手を繋いでいた。
炎の向こうに、冬の星座が見え始めている。
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真白は、少し離れた場所で火を見ていた。
丸太に腰掛けて、両手をポケットに入れて。去年もここにいた。去年は、柚葉先輩の笑い声ばかり追いかけていた。
今年は——ただ、火を見ている。温かい。それだけで、十分だった。
「真白先輩」
遥が、隣に来た。
「一緒に見ていいですか」
「……いいよ」
遥が、真白の隣の丸太に座った。腕一本分の距離。いつもと同じ。
「今日、忙しかったですね」
「うん」
「でも、楽しかったです。お客さんが、花を選んでる時の顔、嬉しそうで」
「……うん」
「真白先輩の色の提案、すごくよかったです。あの三色の組み合わせ」
「別に。なんとなく」
「なんとなくで、あんなにセンスいいの、すごいです」
真白は、何も言わなかった。でも、耳の先が少し赤い。火の明かりのせいだと、遥は思った。思ったことにした。
「来年、先輩たちがいなくなったら、寂しいですね」
「……うん」
「でも、真白先輩がいてくれるから、安心です」
「……」
「真白先輩、部長になるんですか?」
「……たぶん」
「絶対、いい部長になります」
遥は、にっこり笑った。
「花のこと、よく知ってるし。面倒見もいいし」
「面倒見は、よくない」
「えー。私のこと、いっぱい教えてくれたじゃないですか」
「……それは」
真白は、言葉を探すように、火を見つめた。
「遥が、ちゃんと聞くから」
「え」
「聞いてくれるから、教えたくなるだけ」
遥は、一瞬、目を見開いた。
それから、嬉しそうに——本当に嬉しそうに、笑った。
「ありがとうございます」
真白は、遥の方を見なかった。火を見ている。でも、表情は少しだけ柔らかかった。
火の明かりが、二人の顔を照らしていた。
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柚葉と凛は、火のそばに並んで座っていた。
肩が、ほとんど触れている。
「一年、早かったな」
凛が呟いた。
「うん」
「去年の後夜祭、何してたっけ」
「五人で、火を囲んで。凛が焼きマシュマロ作ってくれた」
「ああ、そうだった。焦がしたやつ」
「あれはあれで、おいしかった」
「嘘つけ」
凛が、くすっと笑った。
柚葉も、笑った。
しばらく、二人で黙って火を見た。
炎が踊っている。オレンジと赤と黄色が混じり合って、形を変え続ける。
「凛」
「なに」
「文化祭、終わったね」
「うん」
「約束、覚えてる?」
「……覚えてるよ」
「ゆっくり話そう」って言ったやつ。
凛の心臓が、速くなる。
「今日じゃなくていいよ。疲れてるし」
「……うん」
「でも、近いうちに」
「わかった」
柚葉が、そっと凛の手に触れた。
指先だけ。ほんの少し。
凛は、その手を振り払わなかった。
火の粉が、夜空に舞い上がっていく。星と混じって、見分けがつかなくなる。
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## 七・キンモクセイの夜
後夜祭が終わって、帰り道。
柚葉と凛は、並んで歩いていた。
他のみんなとは、校門で別れた。小春と詩は反対方向。真白と遥も、別の方向。
夜道に、キンモクセイの香りが漂っている。もう盛りは過ぎたけれど、まだかすかに残っている。最後の甘い香り。
「疲れた?」
柚葉が聞いた。
「まあまあ」
「凛のクッキー、すごく人気だったね」
「……まあね」
「来年の文化祭には、もういないけど」
「うん」
「凛の焼いたお菓子、食べられなくなるの、寂しいな」
「……別に、会いに来れば食べられるし」
「本当? 作ってくれる?」
「……考えとく」
柚葉が、くすっと笑った。
「それ、真白ちゃんの真似?」
「はあ?」
「『考えとく』って。遥ちゃんに言ってたやつ」
「全然違うし」
凛は、少しむっとした。でも、自分でもおかしくなって、小さく笑った。
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街灯の下を、二人で歩く。
影が二つ、並んで伸びている。
「ねえ、凛」
「なに」
「さっき、火の前で思ったんだけど」
「うん」
「来年の今頃、こうやって並んで歩けなくなるんだよね」
「……まあ、毎日は無理かもね」
「寂しい」
「……うん」
しばらく、二人の足音だけが響いた。
「でも」
凛が言った。
「会いたくなったら、会いに行く」
「凛から?」
「……悪い?」
「ううん。嬉しい」
柚葉が、微笑んだ。
キンモクセイの香りが、ふわりと風に乗ってきた。
「いい匂い」
「うん」
「この匂い、嗅ぐたびに、今日のこと思い出すかもね」
「文化祭?」
「うん。文化祭と、後夜祭と、この帰り道」
凛は、前を向いたまま歩いた。
隣に柚葉がいる。いつもの距離。いつもの温度。
——特別。
柚葉がそう言ってくれた。
五年間、ずっと隣にいた。これからも、隣にいたい。
でも、「隣」の意味が、少しずつ変わろうとしている。
「文化祭が終わったら、ゆっくり話そう」——柚葉は、そう言った。
文化祭は、終わった。
次に話す時、何を言おう。何を伝えよう。
五年分の気持ちを、どうやって言葉にしよう。
凛は、秋の夜空を見上げた。
星が、きれいだった。
「凛、どうしたの?」
「……なんでもない」
「そう?」
「うん。なんでもない」
——まだ、もう少しだけ。
この距離のまま、歩いていたい。
二人の影が、街灯の下で重なりそうになって、また離れる。
キンモクセイの最後の香りが、秋の夜に溶けていった。
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柚葉の園芸ノート 10月26日(土)晴れ
九月、コスモスが咲いた。遥ちゃんが夏の間ずっと面倒を見てくれたおかげ。ピンクと白と赤。風が吹くと一斉に揺れて、温室の前が一気に秋の景色になった。
文化祭に向けて、ドライフラワーを制作。バラ、カスミソウ、千日紅、ラベンダー。吊るし乾燥で一週間〜二週間。茎は斜めに切ること、紐はきつく結びすぎないこと。真白ちゃんが遥ちゃんに丁寧に教えていた。
文化祭当日、ドライフラワーのブーケは完売。凛のクッキーも大好評。去年は五人で必死だったけど、今年は六人で余裕があった。詩が書いた花の豆知識の看板、立ち止まって読むお客さんが多かった。
キンモクセイが咲いている。どこにいても匂いで気づく。校庭の百日紅は最後の花びらを散らした。
凛のことを「特別」だと伝えた。名前はまだつけられない。でも、文化祭が終わったら、ちゃんと話す約束をした。




