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陽だまりの庭  作者: はるうた
第二部 花ひらくとき

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17/25

第17章 夏の終わりに

百日紅がまだ咲いている

夏の始まりから

ずっと


いつ終わるのかは

花だけが知っている


見上げるたびに

少しだけ色が変わっていた


---


## 一・宿題の午後


八月の終わり。


真白の部屋で、小春は問題集と格闘していた。


エアコンの静かな音。机の上には麦茶のグラスが二つ、結露で輪を作っている。


「ここ、わかんない」


小春が問題集を差し出した。数学の因数分解。


「これ、前に教えたやつ」


「え……」


「六月のテスト前。同じパターン」


「……忘れた」


真白は、ため息をついた。でも、それはいつもの呆れた顔ではなくて、どこか穏やかだった。


「もう一回教えるから、ちゃんと聞いて」


「はい……」


シャーペンの音が、部屋に響く。真白の説明は簡潔で、わかりやすい。


小春は問題を解きながら、ちらりと真白を見た。


花火大会から、五日が経っていた。


あの夜のこと——柚葉先輩に想いを伝えたこと——真白は何も言わなかった。小春も聞かなかった。でも、何かが変わったのだと思った。


肩の力が、抜けたみたいに。


真白の机の上には、くまのぬいぐるみが置いてある。去年の夏祭りで、真白が射的で取ったもの。その隣に小さな貝殻とシーグラス、遥からもらったらしいミニサボテンが並んでいた。


「ねえ、真白」


「なに」


「明日さ、温室に集まるじゃん」


「うん」


「あのね——みんなに、報告しようと思って」


真白のシャーペンが、一瞬止まった。


「詩先輩のこと」


「……うん」


「どう思う?」


「どう思うって」


真白は、問題集に目を戻した。


「言えばいいじゃん」


「でも、なんか緊張する」


「みんな喜ぶでしょ」


「そうかな」


「そうだよ」


真白は、麦茶を一口飲んだ。氷が溶けて薄くなった味がした。


「柚葉先輩なんて、たぶんもう気づいてるし」


「え、そう?」


「あの人、そういうの鋭いから」


小春は、頬が緩むのを感じた。


「ありがと、真白」


「別に。早く宿題やって」


「はーい」


窓の外では、ツクツクボウシが鳴いていた。夏の終わりを告げる声だった。


---


## 二・夏の終わりの温室


翌日。八月三十一日。


校門をくぐると、風が変わったような気がした。まだ暑いけれど、七月の肌を刺すような陽射しとは違う。風が頬を撫でるとき、ほんの一瞬だけ涼しさが混じる。空がほんの少しだけ高くなっている。


温室に向かう小道の途中、百日紅の花が咲いていた。ピンクの花びらが、午後の光を受けて柔らかく揺れている。七月から咲き続けて、まだ咲いている。


温室のドアを開けると、花の匂いが迎えてくれた。


ペチュニアがそろそろ疲れ始めていた。花びらの端が少しだけ茶色がかって、夏の長さを物語っている。でも、マリーゴールドはまだ元気に咲いていた。黄色とオレンジが、温室の棚を明るく染めている。


奥の方で、コスモスの苗が小さな葉を伸ばしていた。遥が夏の間、水やりを続けてくれたおかげだ。あと一週間もすれば、最初のつぼみがつくだろう。


「小春ちゃん、おはよう」


柚葉が手を振った。その隣に凛がいて、テーブルの上にお茶の準備をしている。


「おはようございます」


「宿題、終わった?」


「なんとか……真白に教えてもらって」


「真白ちゃん、優しいね」


「いつもお世話になってます」


小春は温室の中を見回した。遥がコスモスの苗に水をやっている。詩がベンチで本を読んでいる。真白は——窓際に立って、外を見ていた。


六人、全員揃っていた。


「全員集合だね」


柚葉が嬉しそうに言った。


「夏休み最後の日に、みんなで集まれてよかった」


凛が、紙コップにお茶を注いでいった。


「はい、冷たいほうじ茶。暑いから」


「ありがとうございます、凛先輩」


遥がじょうろを置いて、テーブルの方に来た。


「コスモス、もう少しで咲きそうですよ」


「本当? 楽しみだね」


柚葉が、遥の隣に座った。


---


「夏休み、あっという間だったね」


柚葉が言った。麦わら帽子のつばをくるくる回している。


「本当に。もう二学期か」


凛が応じた。


「三年生は、受験も本格化だね」


詩が、本を閉じながら呟いた。


「そうだね。でも、部活は続けるよ。最後まで」


柚葉は、にっこり笑った。


「夏休み、みんな何してた?」


柚葉が聞いた。


「オープンキャンパスに行ってきた」


凛が答えた。


「農学部の温室、すごく大きかったよね」


柚葉が言った。その声には、まだ興奮が残っているようだった。


「品種改良の研究室とか、普通に入れてさ。学生さんがすごく丁寧に説明してくれて」


「柚葉、質問しすぎて時間オーバーしてたけどね」


「え、そうだっけ」


「めっちゃそうだよ」


凛は、呆れたように——でも嬉しそうに、言った。


柚葉が、少しだけ照れた顔をした。


「楽しかったんだもん」


「知ってる」


凛の声は、優しかった。


---


「小春ちゃんは?」


柚葉が聞いた。


「わたしは、水族館に……」


小春は、言いかけて、詩を見た。


心臓が、どきどきしている。


——言おう。今日、ここで。


「詩先輩と、行きました」


「へえ、二人で?」


柚葉が聞いた。


「はい」


小春は、少し恥ずかしそうに頷いた。頬が熱くなるのがわかる。


「クラゲがきれいだったんです。暗い水槽に、ぼうっと光ってて」


「クラゲ、いいよね」


柚葉が言った。


「詩は? 楽しかった?」


「うん。すごく」


詩は、穏やかに微笑んだ。


「小春ちゃんが、ペンギンの前でずっと動かなくて」


「だ、だって、かわいかったから……!」


温室に、笑い声が広がった。


小春の手が、ポケットの中のクラゲのストラップに触れた。詩とお揃いで買ったもの。


---


「真白ちゃんは?」


柚葉が聞いた。


「……特に何も」


「遥ちゃんと、温室の当番してたんでしょ?」


「それくらいです」


「真白先輩、いろいろ教えてくれました」


遥が言った。


「花の名前とか、育て方とか。水やりの加減も。すごく丁寧に」


「そうなんだ」


「はい。メモ帳がいっぱいになりました」


遥は、カバンからノートを取り出した。丁寧な字で、花の名前と特徴が書き込まれている。ところどころに小さなスケッチもある。


「遥ちゃん、すごい」


「真白先輩のおかげです」


遥は、真白を見た。その目に、まっすぐな敬意がこもっている。


「……大したことしてない」


真白は、そっぽを向いた。でも、少しだけ嬉しそうだった。


---


## 三・報告


テーブルを囲んで、おしゃべりが続いた。


温室の外では、ツクツクボウシが鳴いている。窓から差し込む光が、少しずつ西に傾いていく。


小春は、詩と目を合わせた。


詩が、小さく頷いた。


「あの」


小春は、両手を膝の上で握りしめた。


「みんなに、報告したいことがあります」


温室が、少しだけ静かになった。


小春は、隣に座っている詩を見た。詩が、そっと手を伸ばして、小春の手に触れた。


「私と小春ちゃん、付き合うことになったの」


詩が言った。静かな声だった。でも、はっきりと。


一瞬の沈黙。


「……え」


遥が、目を丸くした。


「本当に?」


柚葉が言った。


「うん。夏休みの前から」


柚葉は、ぱっと顔を輝かせた。


「やっぱり」


「やっぱり……?」


「だって、前からなんとなく。小春ちゃん、詩のこと見てる時の顔が違ったから」


「え、そんなにわかりやすかったですか?」


「うん。すっごくわかりやすかった」


小春は、顔が真っ赤になった。詩が、小さく笑った。


「凛も気づいてた?」


柚葉が聞いた。


凛は、腕を組んで、少し得意そうに頷いた。


「まあ。七月くらいから」


「えっ」


「温室に戻ってきた時の二人の顔見りゃ、わかるっしょ」


凛の声は、さっぱりしていた。でも、どこか温かかった。


「おめでとう」


凛が言った。小春と詩を、交互に見て。


「二人とも」


「ありがとうございます」


小春は、嬉しくて、声が震えそうになった。


「おめでとうございます」


遥も、にこにこしながら言った。


「先輩たち、すごくお似合いです」


「ありがとう、遥ちゃん」


詩が、微笑んだ。


---


真白は、黙っていた。


小春は、真白を見た。


真白は、窓の方を向いていた。表情は見えない。


——真白。


小春は、少しだけ不安になった。真白の胸の中にある気持ちを、小春は知っている。花火大会の夜のこと。柚葉先輩に想いを伝えたこと。


でも。


真白が、振り向いた。


小春と目が合った。


真白の顔は——穏やかだった。


小さく、頷いた。


その瞬間、真白の胸が、きゅっとなった。


——よかったね、小春。


痛みではなかった。温かさでもない。その両方が、少しずつ混じったような——そんな感覚。


「おめでとう」


小春だけに聞こえるくらいの、小さな声だった。


小春は、目が潤みそうになった。


「ありがとう……真白」


---


遥は、そんな真白の姿をじっと見ていた。


真白先輩の横顔。窓からの光を受けて、少しだけ影が落ちている。


——真白先輩、笑ってる。


小さくて、ほとんどわからないような笑みだけれど。遥には、見えた。


---


## 四・レモンのシフォンケーキ


「実は」


凛が立ち上がった。


「用意してきたものがあるんだけど」


凛は、大きな紙袋からケーキ箱を取り出した。


「凛先輩、それ……」


「レモンのシフォンケーキ」


箱を開けると、ふわふわのシフォンケーキが現れた。薄い黄色をしていて、レモンの爽やかな香りが温室に広がった。上には、生クリームとレモンの皮が少しだけのっている。


「わあ……」


「きれい」


「昨日の夜、焼いた」


凛は、少し照れくさそうに目を逸らした。


「夏休み最後だし。なんか、お祝いしたいなって」


「お祝いって……もしかして」


「別に。二人のことは知らなかったし」


凛は、早口で言った。


「ただ、夏休み最後の日に、みんなで何か食べたいなって思っただけ。偶然」


「偶然にしては、タイミング良すぎない?」


柚葉が、にやにやしている。


「うるさい」


凛は、ケーキをテーブルに置いた。


「食べる? 食べない?」


「食べます! 食べます!」


小春が手を挙げた。


みんなが笑った。


凛が、ケーキを切り分けた。一切れずつ、紙皿にのせていく。手つきが丁寧で、切り口がきれいだった。


「はい」


「ありがとう」


「いただきます」


フォークを入れると、ふわっと崩れた。口に入れると、レモンの酸味と甘さが広がる。軽くて、やさしい味。


「おいしい」


小春が言った。


「すごくおいしいです、凛先輩」


遥が言った。


「さすがだね、凛」


柚葉が言った。


「レモンにしたの、夏っぽくていいね」


「……夏の終わりだから。最後に夏の味がいいかなって」


凛は、自分の分を一口食べた。うん、と小さく頷いた。


「ねえ、凛」


柚葉が言った。


「なに」


「大学、きっと凛にぴったりだよ」


「……何、急に」


「このケーキ食べてたら、そう思った。凛のお菓子は、人を幸せにするから」


凛は、フォークを持ったまま固まった。


「……ありがと」


小さな声だった。でも、嬉しそうだった。


---


「詩と小春ちゃんに、乾杯しよう」


柚葉が、紙コップを掲げた。


「お茶だけど」


凛が突っ込んだ。


「気持ちが大事なの」


「二人に、乾杯」


みんなで、紙コップを合わせた。


「おめでとう」


「ありがとう」


詩が言った。その目が、ほんの少しだけ潤んでいた。


「こうやって祝ってもらえて、嬉しい」


「当たり前だよ。園芸部のみんなだもん」


柚葉は、真っすぐな目で詩を見た。


「大切な仲間でしょ」


「……うん」


詩は、頷いた。


小春は、詩の手をそっと握った。テーブルの下で、誰にも見えないように。


詩が、少しだけ握り返した。


---


## 五・百日紅の夕暮れ


ケーキを食べ終わった後、みんなで花壇に出た。


夏の終わりの花壇は、少しだけくたびれている。ペチュニアの花がらを摘んで、支柱を直して、雑草を抜いた。


「ペチュニア、よく頑張ったね」


柚葉が、花びらの端が茶色くなった株を見つめた。


「もう少ししたら、コスモスに植え替えだね」


「秋の花壇、楽しみです」


遥が言った。


「キンモクセイも、もうすぐですよね」


「うん。いい匂いがするよ」


みんなで、花壇の手入れをした。


小春と詩が並んで雑草を抜いている。真白と遥がペチュニアの花がらを摘んでいる。柚葉と凛が支柱の点検をしている。


いつもの光景。


でも、夏が終わるということは、三年生にとっての「最後の一年」が、半分を過ぎたということだ。


「来年の夏も」


柚葉が、ふと言った。


「みんなでこうやって——」


そこで、柚葉は言葉を止めた。


来年の夏には、三年生はもういない。


「……ごめん。変なこと言った」


「変じゃないよ」


凛が言った。


「まだ半年以上あるし。その前に文化祭もあるし」


「そうだね」


「卒業しても、遊びに来るよ」


柚葉が言った。


「約束ですよ」


遥が言った。


「約束」


柚葉は、右手の小指を差し出した。


遥が、自分の小指を絡めた。


「凛も」


「はいはい」


凛が、柚葉の小指に自分の小指を添えた。


「詩先輩も、真白先輩も、小春先輩も」


遥が言った。


六人の小指が、重なった。


「卒業しても、ここに帰ってくる」


柚葉が言った。


「うん」


みんなが頷いた。


---


夕方になった。


空が、オレンジ色に染まり始めている。


花壇の向こうに、百日紅の木が立っていた。夏の間ずっと咲き続けて、まだピンクの花をつけている。


「百日紅って、すごいよね」


小春が言った。


「夏の間、ずっと咲いてる」


「百日紅——さるすべり」


詩が呟いた。


「名前の通り、百日間咲く花」


「百日も」


「実際にはもう少し短いけどね。でも、夏の花の中では一番長い」


「たくましいね」


「うん。夏の終わりまで、ずっと見守ってるみたいだよね」


小春は、百日紅の花を見上げた。夕焼けの光を受けて、ピンクの花びらがオレンジ色に染まっている。


きれいだった。


「みんな、そろそろ帰ろうか」


柚葉が言った。


「暗くなる前に」


温室の鍵を閉めて、校門に向かった。


六人で並んで歩く。夕焼けが、六つの影を長く伸ばしている。


「また明日」


「うん。二学期、頑張ろう」


「始業式、寝坊しないでよ」


「それ、わたしのこと?」


小春が慌てて聞いた。


「誰のことだろうね」


真白が、素っ気なく言った。


笑い声が、夕焼けの中に響いた。


---


## 六・帰り道


校門を出て、それぞれの方向に歩き始めた。


柚葉と凛は、駅の方へ。


小春と詩は、反対方向へ。


真白と遥は——偶然、同じ方向だった。


---


小春と詩は、並んで歩いた。


夕焼けが少しずつ薄くなって、空がラベンダー色に変わっていく。


「今日、みんなに言えてよかった」


詩が言った。


「うん。ドキドキしたけど」


「うん。私も」


「詩先輩もドキドキしたんですか?」


「したよ。すごく」


詩が、微笑んだ。


「でも、祝福してもらえて、嬉しかった」


「凛先輩のケーキ、おいしかったですね」


「うん。凛の気持ちが伝わってくるケーキだった」


「……気づいてたんですかね。やっぱり」


「凛は、そういうところ、ずっと鋭いから」


小春は、クスッと笑った。


「柚葉先輩も、『やっぱり』って言ってましたね」


「うん」


「わたし、そんなにわかりやすかったのかな」


「わかりやすかったよ」


「え」


「ずっと、こっちを見てたから」


詩が言った。穏やかな声だった。


「視線って、気づくものだよ」


小春は、顔が熱くなった。


「……恥ずかしい」


「嬉しかった、って言ったら?」


「もっと恥ずかしいです」


二人は、顔を見合わせて笑った。


「ねえ、小春ちゃん」


「はい」


「二学期も、一緒にいろんなところ行こうね」


「はい」


「プラネタリウム、行ってみたい」


「いいですね。詩先輩、星も好きですよね」


「うん。星座の名前には、物語があるから」


「物語?」


「ギリシャ神話とか。一つ一つの星に、由来があるの」


「聞きたいです。詩先輩の解説付きで」


詩が、嬉しそうに笑った。


「約束ね」


「約束」


夕風が吹いて、小春の髪を揺らした。どこからか、秋の虫の声が聞こえる。まだ小さくて、かすかな声。


小春の指が、詩の指にそっと触れた。


詩が、握り返した。


二人は、手を繋いだまま歩いた。


小春の胸が、少しだけ温かくなった。


——幸せだな。


ポケットの中のクラゲのストラップが、歩くたびに揺れている。


---


## 七・ありふれた帰り道


真白と遥は、並んで歩いていた。


二人の間には、腕一本分くらいの距離がある。


遥は、時々、真白の方をちらりと見た。真白は、まっすぐ前を向いて歩いている。


夕焼けが薄くなって、空が紺色に変わり始めていた。


「真白先輩」


「なに」


「今日、楽しかったです」


「……そう」


「みんなで集まれて。夏休みの最後に」


「うん」


沈黙が続いた。でも、気まずい沈黙ではなかった。


蝉の声が、少しずつ遠くなっていく。代わりに、どこかで鈴虫が鳴き始めた。


「真白先輩」


「なに」


「二学期も、温室の当番、一緒がいいです」


真白は、少しだけ足を止めた。


「……別に、私じゃなくても」


「真白先輩がいいんです」


遥の声は、まっすぐだった。


「先輩と一緒に水やりするの、好きです。花の名前教えてもらうのも」


真白は、前を向いたまま、何も言わなかった。


「……考えとく」


「はい」


遥が、にっこり笑った。


真白の足が、また歩き始めた。遥が、半歩後ろからついていく。


「じゃあ、私、ここで」


交差点で、遥が立ち止まった。


「お疲れさまでした」


「うん」


「また明日」


「また明日」


遥が、手を振った。真白は、小さく手を上げた。


遥の姿が、角を曲がって見えなくなる。


真白は、また一人で歩き始めた。


---


## 八・新しい季節


真白の部屋。


夏休みの宿題は、昨日のうちに終わらせた。小春のぶんまで手伝ったから、逆に自分のは早く片付いた。


窓を開けると、夜の空気が入ってきた。昼間の暑さが嘘のように、涼しい風が腕をなでた。もう、夏の風じゃなかった。


机の上のくまのぬいぐるみを見た。


去年の夏祭り。射的で取った時、柚葉先輩が『すごい』って笑ってくれた。


——好きでした。


過去形で、思った。


あの花火の夜に、伝えた。全部、言葉にした。入部初日のこと。射的のこと。マフラーの横顔のこと。文化祭のこと。勉強会のこと。


柚葉先輩は、受け止めてくれた。


応えられない、と言った。でも、真白の気持ちを、大切にしてくれた。


それで、よかった。


——それで、いい。


真白は、窓から空を見上げた。


星が、いくつか見えた。夏の星座が、少しずつ西に傾いていく。


今日の温室を思い出した。


みんなの笑顔。凛先輩のケーキ。指切りの約束。百日紅の夕焼け。


小春と詩先輩の報告。


よかったね、と言えた。小さな声だったけれど。


小春は泣きそうな顔をしていた。嬉しいから泣くのだ、あの子は。


自分とは、違う。


でも——。


遥の顔が、浮かんだ。


「二学期も、温室の当番、一緒がいいです」


あのまっすぐな声。まっすぐな目。


考えとく、と言ったけれど。


——考えるまでもないかもしれない。


真白は、少しだけ笑った。


窓の外で、鈴虫が鳴いている。夏の終わりの音だった。


夏が終わる。秋が来る。


三年生にとっては、最後の秋。自分にとっては——新しい季節の始まり。


明日から、二学期だ。


真白は、窓を閉めた。


机の上のくまのぬいぐるみと、隣のミニサボテンが、並んでいる。


——大丈夫。


真白は、静かにそう思った。


---


柚葉の園芸ノート 8月31日(土)晴れ


夏休み最後の日。みんなで温室に集まった。


ペチュニアが少し疲れてきた。切り戻しするか、コスモスに植え替えるか迷う。

コスモスの苗が順調に育ってる。遥ちゃんが夏の間ずっと水やりしてくれたおかげ。

パンジー・ビオラの種まきは先週やった。秋花壇の準備も着々。


小春ちゃんと詩が、付き合ってることを報告してくれた。

やっぱり、って思った。嬉しかった。

凛がレモンのシフォンケーキを焼いてきた。偶然だって言い張ってたけど、絶対知ってた。


みんなで指切りした。卒業しても、ここに帰ってくるって。


……あと半年。

考えると寂しいけど、今日みたいな日があるから、大丈夫。


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