第16章 それぞれの想い
## 一・水色の世界
七月最後の日曜日。
小春は駅の改札前で、詩を待っていた。
付き合い始めて二週間。初めての、温室の外でのデート。
白いワンピースを選んだ。朝、三回着替えた。真白に写真を送ったら「似合ってる」とだけ返ってきて、ようやく家を出られた。
改札の向こうに、見覚えのあるシルエットが見えた。
「小春ちゃん」
詩先輩。白いブラウスに、薄い水色のスカート。いつもの制服姿とは違っていて、小春は思わず足を止めた。
心臓が、どきっとした。
「お待たせ」
「いえ、わたしも今来たところです」
嘘だった。十五分前から来ていた。
---
水族館は、駅から歩いて十分くらいの場所にあった。
入口を抜けると、青い世界が広がった。
大きな水槽の向こうを、銀色の魚の群れが泳いでいく。水の揺らめきが天井に光の模様を映して、まるで海の底にいるみたいだった。外の七月の暑さが嘘みたいに、ひんやりとした空気が肌に触れる。
「わあ……」
小春は、思わず声を漏らした。
水族館特有の匂い——潮と、少しだけ薬品が混じった匂いがする。どこかで水が流れる音が聞こえて、それが水槽のフィルターの音だと気づくまで、少しかかった。
「きれい」
水槽の光が、詩先輩の横顔を青く染めている。
——見とれちゃう。
魚よりも、隣にいる人を見てしまうのは、もう慣れたことだ。
「小春ちゃん、こっちにクラゲがいるよ」
「あ、はい」
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クラゲの水槽は、一番奥の暗い部屋にあった。
透明な身体が、ゆらゆらと漂っている。青と紫のライトに照らされて、まるでガラス細工みたいだった。傘を開いて、閉じて、また開いて。ゆっくりとした動きが、いつまでも見ていられる。
「自分では方向を選べないのに、こんなにきれいなんだね」
詩先輩が、じっとクラゲを見つめていた。
「詩先輩、何か思いつきました?」
「……少しだけ」
鞄からスマホを取り出して、画面に何かを打ち込んでいる。
「何書いてるんですか?」
「メモ。クラゲの動きを見てたら、言葉が浮かんで」
「見ていいですか?」
「……まだ、断片だけだよ」
詩先輩がスマホの画面を見せてくれた。
『水の中の月——自分がどこへ行くか知らないまま、ただ光る』
「……すごい」
小春は息を呑んだ。たった一行なのに、目の前のクラゲの姿がそのまま言葉になっている。
「詩先輩、やっぱりすごいです」
「大げさだよ」
「大げさじゃないです。わたし、詩先輩のこういうところが——」
口の中で、言葉が止まった。「好き」と言いたかったのに、面と向かうと、まだ恥ずかしい。
「こういうところが?」
「……すごいなって、思います」
詩先輩は、少し首を傾げて、それから微笑んだ。
「ありがとう。小春ちゃんに読んでもらえると、嬉しい」
紫色の光が、二人の間をゆらゆらと揺れていた。
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イルカショーでは、詩先輩が水しぶきを避けきれなくて、ブラウスの袖が少し濡れた。小春がハンカチを差し出すと、「ありがとう」と受け取ってくれた。自分のハンカチで詩先輩の袖を拭いている——それだけのことが、なんだか特別だった。
ペンギンの水槽の前で、詩先輩がまたスマホを取り出した。
「また、メモですか?」
「ペンギンの歩き方が面白くて」
「詩先輩、今日、メモばっかりですね」
「ごめんね。デート中なのに」
「ううん、いいんです。詩先輩が言葉を探してる姿、好き——」
言ってしまった。
詩先輩が、こちらを見た。
小春は、顔が熱くなるのを感じた。
「……今の、なし——」
「なしにしないで」
詩先輩が、小さく笑った。
「嬉しかったから」
小春は、俯いた。耳まで赤くなっている気がする。
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お土産コーナーで、クラゲのストラップを二つ買った。
「お揃い」
「えへへ、お揃いですね」
小春は嬉しくて、ストラップを何度も眺めた。透明な樹脂の中に、小さなクラゲが浮かんでいる。
カフェで休憩していると、窓の外に海が見えた。青い水面が、午後の日差しにきらきら光っている。アイスコーヒーのグラスに結露が浮いて、テーブルに小さな水溜まりを作っていた。
「去年の夏も、海に行きましたね」
「うん。小春ちゃんに泳ぎを教えてもらった」
「詩先輩、全然泳げなくて」
「……そうだったね」
詩先輩は苦笑いした。
「あの時から、ずっと……」
小春は、ストローをくるくる回した。氷がからんと鳴った。
「わたし、詩先輩のことが好きでした。あの時から」
「……私もだよ」
テーブルの下で、詩先輩の手がそっと小春の手に触れた。指先が重なる。冷たいグラスを持っていたせいで、指先がひんやりしていた。
「小春ちゃんが隣で笑ってくれるだけで、幸せだなって思ってた」
心臓が、どきどきしている。
「詩先輩」
「なに?」
「わたし、今、すごく幸せです」
詩先輩の指が、小春の手をそっと握った。ひんやりした指先が、だんだん温かくなっていく。
「私もだよ」
窓の外で、カモメが一羽、青い空を横切っていった。
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帰りの電車で、小春は詩先輩の隣に座った。
揺れる車内で、二人の肩が触れる。その小さな接触が、嬉しかった。
「また行こうね」
「はい。次はどこに行きますか?」
「プラネタリウムとか、どうかな」
「行きたいです」
小春は、鞄の中のクラゲのストラップに触れた。
——今日という日を、ずっと覚えていよう。
車窓の向こうを、夏の景色が流れていく。
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## 二・真白の夏
八月に入った。
真白は、自分の部屋で本を読んでいた。
窓の外では蝉が鳴いている。朝から暑い。エアコンの風が、カーテンをかすかに揺らしていた。
小春から、メッセージが来る。
「水族館、楽しかった! クラゲのストラップ、お揃いで買ったの」
写真には、二つ並んだクラゲのストラップ。透明な樹脂の中に、小さなクラゲが浮かんでいる。淡い青と紫の、硝子みたいな色。
「かわいいね」
返事をして、スマホの画面を下にして机に置いた。
机の上に、くまのぬいぐるみが座っている。
去年の夏祭りで、射的で取ったもの。柚葉先輩と二人で、屋台を回った日。
『真白ちゃん、すごい』
あの時の柚葉先輩の声。嬉しそうな笑顔。
——一年経っても、まだ覚えてる。
真白は、ぬいぐるみの頭をそっと撫でた。
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小春が幸せそうにしている。それは、本当に嬉しいことだ。
あの日——雨上がりの温室で、詩先輩と小春が二人で離れていった時。何も言わなくても、わかっていた。小春が好きな人に気持ちを伝えに行くんだって。
戻ってきた小春は、目が少し赤くて、でも笑っていた。
「真白、ありがとう。伝えた方がいいって、言ってくれたから」
——あの言葉は、自分にも向けていたのかもしれない。
真白は、天井を見上げた。
柚葉先輩のことが好きだ。入部した日から。温室で微笑んでくれた、あの瞬間から。
一年以上、ずっと。
柚葉先輩には凛先輩がいる。二人の間には、自分には入れない何かがある。それは、わかっている。
でも——伝えたい。
答えがわかっていても、伝えたい。
そうしないと、いつまでもこの気持ちを抱えたまま、前に進めない気がする。
——花火大会の日に、伝えよう。
八月の終わりに、地元の花火大会がある。去年は五人で夏祭りに行った。今年は遥も加わって六人。
去年と同じ浴衣で。去年とは違う覚悟で。
真白は、ぬいぐるみを手に取った。ふわふわの手触り。一年間、ずっとそばにあったもの。
——柚葉先輩。私、ちゃんと伝えます。
答えがどうであっても、後悔しないように。
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## 三・オープンキャンパス
八月の第二週。
凛と柚葉は、大学のオープンキャンパスに来ていた。
正門をくぐると、広いキャンパスが目の前に広がった。木立の間を学生たちが行き交い、案内の看板があちこちに立てられている。アスファルトが陽炎で揺れていて、蝉の声が空から降ってくる。
「大きいね」
「うん。高校とは全然違う」
柚葉の目が、きらきらしていた。案内パンフレットを片手に、あちこちを見回している。
「農学部は、あっちだって」
「行こう」
凛は、柚葉の半歩後ろを歩いた。
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農学部の研究棟は、キャンパスの奥にあった。
建物の横に、大きな温室が並んでいる。奥には実験農場も見えた。
「……すごい」
柚葉が、足を止めた。
温室のガラスの向こうに、見たことのない植物が茂っている。高校の温室とは比べものにならないくらい大きくて、中には木のようなものまで見えた。
「柚葉、目が輝いてる」
「だって、凛、見て。あの温室」
「見てるよ」
凛は、温室ではなく柚葉の横顔を見ていた。
研究室の見学では、大学生の先輩が植物の品種改良について説明してくれた。柚葉は質問をいくつもして、熱心にメモを取っている。「この温室の温度管理はどうしているんですか」「品種改良にはどのくらいの年月がかかるんですか」——目を輝かせて、次から次へと聞いていく。
凛は、その姿を少し離れた場所から見ていた。
——柚葉は、ここに来るんだ。
大学生の先輩が「植物のことが好きなんだね」と柚葉に言った。柚葉が嬉しそうに頷いた。
その姿を見て——胸が、きゅっとなった。
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昼食を学食で食べた後、二人はキャンパスのベンチに座った。
木陰で、風が少しだけ心地いい。でも八月の空気は重くて、じっとしていても汗が滲む。
「ここが柚葉の第一志望?」
「うん。農学部の植物科学科。園芸だけじゃなくて、植物の遺伝子や生態も学べるの」
「柚葉にぴったりだね」
「そうかな」
「うん。花や植物を研究してる柚葉、想像できる」
柚葉が嬉しそうに笑った。
「……凛は? 大学の調理科、決めた?」
「うん。都内のところ。実習が多いところがいいかなって」
「凛なら、どこでもうまくやれるよ」
「……ありがと」
しばらく、二人とも黙った。キャンパスの向こうで、誰かが笑い声を上げている。
「……来年、柚葉とは違う学校になるんだよね」
凛が、足元の地面を見ながら言った。
「そうだね」
「今まで、ずっと一緒だったから。中学から」
蝉の声が、急にうるさく感じた。
「離れるの、少し……寂しいなって」
「凛……」
柚葉が、凛の顔を覗き込んだ。
凛は、目を逸らした。
「なんでもない。気にしないで」
「気にするよ」
柚葉の声は、いつもより少しだけ低かった。
「凛が寂しいって言うの、珍しいから」
「……別に」
「大学が違くても、会えるよ。電車で一時間もかからないし」
「……うん」
「それに、まだ一年ある」
柚葉が、凛の手をそっと握った。
凛は、驚いて柚葉を見た。
柚葉は、まっすぐに凛を見つめている。
「一緒にいられる時間、大切にしよう。ね?」
「……うん」
凛は、握り返した。小さく、だけどしっかりと。
——五年。
中学一年の春から、ずっと。
この手を離したくないと、思い続けてきた。
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帰りのバスを待っている時、凛がふいに言った。
「ねえ、柚葉」
「なに?」
「あたしたちって、何なんだろう」
柚葉の心臓が、跳ねた。
「え?」
「友達……だよね。幼馴染みたいな」
「……うん。そうだよ」
凛は、バス停の向こうの道路を見つめていた。風が、凛の短い髪を揺らしている。
「でも、最近……それだけじゃない気がして」
「……」
凛が、柚葉を見た。
「柚葉のこと、大切だなって思う。友達以上に」
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。聞こえてしまいそうなくらい。
「……私も」
柚葉は、バス停の時刻表に目を戻した。
「私も、凛のこと……大切だと思ってる」
「……」
「友達以上に、かどうかは……わからないけど」
嘘だった。わからないんじゃない。でも——まだ、この気持ちに名前をつけられなかった。
「柚葉……」
「……今は、まだわからなくていいかな」
柚葉が、少し考えてから言った。
「……うん」
「ゆっくり、考えよう。卒業するまでに」
凛は、小さく頷いた。
バスが来た。二人は並んで乗り込んだ。
窓の外を、夏の景色が流れていく。
凛は、さっき握った手の温もりを思い出していた。
——まだ、言えない。
でも、いつか。必ず、伝える。
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## 四・花火大会の夜
八月の最後の土曜日。
花火大会の日が来た。
去年は五人で行った神社の夏祭り。今年は遥も加わって六人。場所も違って、河川敷の花火大会だ。
真白は、鏡の前で浴衣を着ていた。
紺色の浴衣。白い帯。去年と同じ。
去年もこの浴衣を着て、小春と待ち合わせて、神社に行った。柚葉先輩が淡い紫の浴衣で、「かわいいね」と言ってくれて、嬉しくて——目を逸らした。
今日は——伝える日。
「……よし」
真白は、鏡の中の自分に頷いた。
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集合場所は、河川敷の入口。
真白は、約束の時間より三十分早く来ていた。
まだ誰もいない。夕暮れの空がオレンジ色に染まっている。屋台の準備が始まっていて、ソースと砂糖が焦げる甘い匂いが風に乗って漂ってくる。
浴衣姿の人たちが、少しずつ集まり始めていた。下駄の音が、あちこちから聞こえてくる。
「真白ちゃん」
振り返ると、柚葉がいた。
淡い紫の浴衣。去年と同じ色。髪を少しアップにして、簪が夕日に光っている。
「早いね」
「……はい。柚葉先輩も」
「うん。ちょっと早く出ちゃった」
柚葉が笑った。
夕日が、柚葉の横顔を照らしていた。去年の夏祭りでも、同じ笑顔を見た。
一年経っても——やっぱり、きれいだ。
「柚葉先輩」
「なに?」
「少し、話があるんですけど」
柚葉が、少し目を見開いた。ほんの一瞬だけ、何かを覚悟するような表情が浮かんだ。
「……うん、いいよ」
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二人で、河川敷の少し離れた場所に移動した。
川沿いの土手。草の匂いがする。川面に、夕焼けの橙色が映っている。
花火が始まるまで、まだ一時間ほどある。遠くで、屋台の呼び込みの声が聞こえる。子供たちの笑い声。
真白は、深呼吸をした。夕暮れの風が、浴衣の袖を揺らした。
「柚葉先輩」
「うん」
「私——柚葉先輩のことが好きです」
柚葉が、真白を見つめた。
「友達として、じゃなくて。恋愛として、好きです」
声が、少しだけ震えた。でも、止めなかった。
「入部した日のこと、覚えていますか。温室で、柚葉先輩が私に声をかけてくれました。『真白ちゃんも、花、好きなの?』って」
「……」
「あの時、柚葉先輩が笑ってくれて。ああ、この人と同じ場所にいたいって——思ったんです」
川面を、トンボが一匹、低く飛んでいった。
「去年の夏祭りで、射的をしました。私が取ったぬいぐるみを、柚葉先輩が『すごい』って褒めてくれた。あのぬいぐるみ、まだ持ってます。机の上に、ずっと」
真白は、柚葉の目をまっすぐに見た。
「冬に、凛先輩にマフラーを編んでいた柚葉先輩の横顔も。文化祭で一緒に買い出しに行った日も。テスト前の勉強会で、私のノートを褒めてくれた時も」
ひとつひとつ、大切に言葉にした。
「全部、覚えてます。柚葉先輩と過ごした時間、全部」
「真白ちゃん……」
「好きです。ずっと、好きでした」
夕焼けが、真白の頬を染めていた。
「迷惑だったら、ごめんなさい。でも、伝えたかったんです。柚葉先輩が卒業する前に、ちゃんと」
---
柚葉は、しばらく黙っていた。
川を渡る風が、二人の間を通り過ぎていく。
柚葉の目が、少し潤んでいるのが見えた。
「真白ちゃん」
「はい」
「……ありがとう」
柚葉の声は、いつもより静かだった。
「気持ち、すごく嬉しい。本当に」
「……」
「真白ちゃんが私を見てくれていること——実は、気づいてたの」
真白は、少し驚いた。
「去年の夏祭りの頃から。射的のぬいぐるみを大事そうに抱えてた真白ちゃんの顔、覚えてる」
柚葉が、真白を見た。その目は優しくて、少しだけ申し訳なさそうだった。
「でも、確信が持てなくて。それに、もし気づいてしまったら、何かが変わってしまう気がして……何も言えなかった」
「……」
「ごめんね」
柚葉は、一度目を閉じた。夕暮れの風が、アップにした髪を揺らしている。
そして、目を開いた。
「私、真白ちゃんの気持ちには——応えられない」
「……わかってます」
真白は、頷いた。予想していた答えだった。覚悟は、していた。
「凛先輩のこと、好きですよね」
柚葉が、息を呑んだ。
「……え」
「見てれば、わかります」
真白は、小さく笑った。泣きそうなのに、笑えた。
「柚葉先輩が凛先輩を見る時の顔——私が柚葉先輩を見る時と、同じだから」
柚葉が、唇を噛んだ。
「……自分でも、まだよくわからないの。凛のこと、大切なのは確かだけど。それが恋なのか、友情なのか」
「それは、柚葉先輩が決めることです」
真白は、言った。
「でも、私は——柚葉先輩が幸せなら、それでいいです」
「……」
「だから、いいんです。伝えられただけで」
---
柚葉が、真白の手を取った。
「真白ちゃん」
「はい」
「ありがとう。私のこと、好きって言ってくれて」
柚葉の手は、温かかった。
「真白ちゃんは、すごい子だよ。こんなふうに、ちゃんと気持ちを伝えられるの——本当に、すごいと思う」
「……」
「私は、真白ちゃんの大切な先輩でいたい。これからも、ずっと」
真白の目に、涙が滲んだ。
でも、泣かなかった。頬を伝ったのは、ひとつだけだった。
「……はい。よろしくお願いします」
柚葉が、真白の手をそっと握り返した。
二人の向こうで、空の色が藍色に変わり始めていた。
---
## 五・花火
みんなと合流した。
凛は黒地に赤い花模様の浴衣。去年と同じだ。詩は白地に青い模様。小春はピンクの生地に白い花。遥は、薄い黄色の浴衣を着ていた。
「遅かったね、二人とも」
凛が言った。
「ちょっと、散歩してた」
柚葉が笑った。いつも通りの笑顔だった。
小春が、真白をじっと見ていた。
「……真白」
「なに」
「何かあった?」
「……別に」
真白は、小春と並んで歩いた。
---
河川敷にレジャーシートを敷いて、六人で座った。遥が屋台で買ってきたラムネを配っている。
「真白先輩、どうぞ」
「……ありがと」
遥の手からラムネを受け取った。瓶が冷たくて、気持ちいい。
「もうすぐ始まりますね」
遥が、嬉しそうに空を見上げた。
——そうだ。去年は五人だった。今年は六人いる。
真白は、ラムネのビー玉を押し込んだ。しゅわっと泡が弾ける音がした。
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ドーン。
最初の花火が、夜空に咲いた。
「始まった!」
小春が声を上げた。
大きな光の花が、夜空に広がっていく。赤、金、青、銀。次々と打ち上がる花火が川面にも映って、上にも下にも光が溢れていた。火薬の匂いが、風に乗って漂ってくる。
「きれい……」
「すごい、大きい」
遥が、目を丸くしている。
光が、六人の顔を染めていた。
小春は、隣に座る詩の横顔を見た。赤や金色に移り変わる光の中で、きらきらしている。去年の夏祭りでも、こうやって詩先輩の横顔を見ていた。
あの時は、まだ付き合っていなかった。
今は——隣にいる人が、自分の恋人だ。
詩が、暗がりの中でそっと小春の手に触れた。指先が重なる。
小春は、ぎゅっと握り返した。
---
真白は、花火を見上げていた。
一年前の夏祭りでも、花火を見た。あの時は、柚葉先輩の隣で。「きれいだね」と言ってくれた声。あの横顔が、眩しかった。
今は——少し離れた場所にいる。
花火の光が、柚葉を照らしていた。隣には、凛がいる。二人が何か話している。花火の音で、声は聞こえない。でも、柚葉が笑って、凛が少しだけ照れたように目を逸らすのが見えた。
——きれいだな。
花火じゃなくて。あの二人が。
「真白」
小春が、そっと真白の隣に座り直した。
「……なに」
「隣、いい?」
「……いいよ」
小春は、何も聞かなかった。ただ、真白のすぐ隣に座っていてくれた。肩が触れるくらいの距離。
ひゅーーーーどーーん。
ひときわ大きな花火が上がった。金色の光が夜空いっぱいに広がって、ゆっくりと消えていく。
真白は、その光を見つめていた。
一瞬だけ夜空に咲く花。どんなに美しくても、やがて消える。
でも——きれいだった。
見られて、よかった。
「……小春」
「うん」
「ありがと」
「え? 何が?」
「……別に」
小春は首を傾げたけど、それ以上は聞かなかった。
ただ、真白の手をそっと握った。
真白は、握り返した。
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## 六・夜道
花火が終わって、みんなと別れた。
小春と真白は、いつものように並んで歩いている。
下駄の音が、夜道に響く。花火の匂いが、まだ空気に残っていた。虫の声が、あちこちから聞こえてくる。
「真白」
「なに」
「今日、柚葉先輩と話してたの……」
「……うん」
「伝えたの?」
「……うん」
小春は、真白の横顔を見た。真白は、前を向いたまま歩いている。
「……そっか」
「振られた。わかってたけど」
真白の声は、いつもより少し低い。でも、震えてはいなかった。
「でも、伝えられた。それでいい」
「……真白」
「小春のおかげ。『伝えた方がいい』って言葉——私にも刺さってたから」
小春は、少し目が潤んだ。
「泣かないで。泣くのは私の方でしょ」
「だって……」
「いいの。ほんとに。伝えられて、すっきりした」
真白は、空を見上げた。星が、ちらちらと光っている。花火の煙で少し霞んでいるけれど、夏の星座がかすかに見えた。
「柚葉先輩のこと、まだ好きだよ。すぐには消えない」
「……うん」
「でも、それでいい。好きだった自分ごと、受け入れる」
小春は、真白の手をぎゅっと握った。
「何かあったら、いつでも言ってね」
「……うん」
二人は、夜道をゆっくりと歩いた。下駄の音が、二人分、静かに響いていた。
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家に帰って、浴衣を脱いで、パジャマに着替えた。
真白は、ベッドに座って、机の上のくまのぬいぐるみを見つめていた。
ふわふわの手触り。去年の夏祭りの景品。
柚葉先輩が「かわいいね」と言ってくれた、小さなくま。
「……ありがとう」
ぬいぐるみに、小さく呟いた。
柚葉先輩のことが好きだった時間は、苦しいこともあったけれど——温かかった。
入部した日に、温室で微笑んでくれたこと。
射的で取ったぬいぐるみを、褒めてくれたこと。
冬に、マフラーを編む手を見つめていたこと。
文化祭で、一緒に走り回ったこと。
全部、大切な思い出だ。どこにも行かない。
真白は、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
——前に進もう。
涙は、もう出なかった。
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## 七・温室
翌日の朝。
スマホに、メッセージが来ていた。
遥からだ。
「真白先輩、今日の温室当番なんですけど、一緒に行きませんか?」
真白は、少し考えた。
昨日の今日で、気持ちの整理がついたわけじゃない。でも——温室に行けば、花がある。水をやる仕事がある。何もしないで部屋にいるより、ずっといい。
「いいよ」
返事をすると、すぐに遥から返信が来た。
「ありがとうございます! 十時に温室前で待ってます」
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温室は、八月の日差しで蒸し暑かった。
窓を全開にして、風を入れる。それでも、中に入ると汗が額に滲んだ。マリーゴールドの鮮やかな黄色が、夏の光の中で眩しい。日々草の白とピンクが、花壇の縁を彩っていた。
「真白先輩、水やり、始めますね」
「……うん」
遥がじょうろを持って、花壇を回っていく。四月に入部した頃と比べて、手つきが随分しっかりしていた。水の量も、花によって変えている。
「遥、上手になったね」
「え? ほんとですか」
遥が、ぱっと顔を上げた。
「水の量、花ごとに調整してる」
「真白先輩に教えてもらったから。ペチュニアはたっぷり、日々草は少なめって」
「……覚えてるんだ」
「もちろんです。全部メモしてあります」
遥は、ポケットから小さなノートを取り出した。花の名前と水やりのメモが、丁寧な字で書いてある。
「……真面目だね」
「だって、ちゃんと覚えたいから。真白先輩みたいに、花のことわかるようになりたいです」
真白は、少し驚いた。
それから、小さく笑った。
「……ありがと」
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水やりが終わって、温室の中で休憩した。
麦茶を飲みながら、遥が花壇を眺めている。光が窓から射し込んで、温室の中に明るい四角を作っていた。
「マリーゴールド、元気ですね」
「……うん。夏に強い花だから」
「真白先輩」
「なに」
「私、真白先輩のこと、すごいなって思います」
「……どうして」
「落ち着いてて、優しくて。花のこと、丁寧に教えてくれるし」
遥は、まっすぐな目で真白を見た。
「憧れます」
その眼差しには、何かまぶしいものがあった。
真白は、目を逸らした。
「……そんなこと、ない」
「あります。私にとっては、憧れの先輩です」
真白は、麦茶のコップを両手で包んだ。冷たいガラスの感触が、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。
——憧れ、か。
自分がそう言われる側になるとは、思わなかった。
「……これからも、よろしく」
「はい。よろしくお願いします」
遥が、にっこり笑った。
窓から入る風が、温室の花を揺らしていた。マリーゴールドの黄色が、朝の光の中でひときわ明るい。
---
夏休みが、ゆっくりと過ぎていく。
温室の花たちは、夏の太陽を浴びて、元気に咲いていた。




