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陽だまりの庭  作者: はるうた
第二部 花ひらくとき

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第15章 雨上がりの告白

言葉にしたら

壊れてしまうかもしれない


でも、言葉にしなかったら

届かないまま消えてしまう


だから——


雨が止んだ午後

私は、あなたの名前を呼んだ


---


## 一・七月の温室


七月中旬。梅雨がまだ明けきらない、蒸し暑い午後だった。


期末テストが終わった。


「やっと終わったー」


小春は、温室で大きく伸びをした。制服のブラウスが汗で背中に張り付いている。七月の温室は、春とは違う濃い緑の匂いがする。ゼラニウムもマーガレットも盛りを過ぎて、代わりにペチュニアと日々草が鮮やかに咲いていた。赤、白、紫——夏の色が、温室の中を埋め尽くしている。


「テスト、どうだった?」


凛が聞いた。テーブルの上には、凛が作ってきたレモンクッキーと、氷の入った麦茶がある。七月になってから、温かい紅茶の代わりに冷たい飲み物が増えた。グラスの表面に水滴がついて、光を弾いている。


「たぶん、大丈夫……だと思います」


「真白ちゃんに教えてもらったの?」


「はい。数学だけ」


「真白ちゃん、いい友達だね」


「……どういたしまして」


真白が、素っ気なく言った。でも、レモンクッキーを一つ、小春の前に押しやった。


「凛先輩、これ、おいしいです」


遥が小さな声で言った。入部して三ヶ月。遥は温室の隅の観葉植物の水やりを終えて、テーブルに戻ってきたところだった。じょうろの持ち方が、入部した頃より安定している。


「ありがと。レモンは庭で採れたやつ」


「レモンの木、育ててるんですか?」


「うん。鉢植えで。けっこう実がなるんだよ」


「すごい。レモンの花って、白くて小さくて、すごくいい匂いなんですよね」


遥が少し嬉しそうに言った。


凛は満足そうに頷いて、自分もクッキーをかじった。


---


「もうすぐ夏休みだね」


柚葉が言った。


テストの採点が返ってくる前の、ほんの少しだけ気楽な時間。窓の外では蝉が鳴き始めていて、温室の中にまで声が響いている。じいい、じいい、と間断なく。夏が、もうすぐそこまで来ている。


「三年生は、受験勉強……ですか?」


小春が聞いた。


「まあ、そうだね。でも、部活も続けるよ」


「本当ですか?」


「うん。卒業まで、ちゃんとやりたいから」


柚葉は、温室を見回した。ガラスの向こうに、夏の空。入道雲が少しずつ形を変えている。


「ここが、好きだから」


その言葉に、凛が小さく頷いた。氷が溶けかけた麦茶のグラスを両手で持ったまま、柚葉を見ている。その目が、ほんの一瞬だけ、やわらかくなった。


小春は、凛先輩のその表情に気づいた。


——凛先輩も、ここが好きなんだ。柚葉先輩のいる、この場所が。


「小春たちは、夏休み何する?」


詩が聞いた。声が穏やかで、テスト明けの解放感が滲んでいる。


「えっと……まだ決まってないです」


小春は、詩の方を見た。


詩は、いつもの席——窓際の、光がよく入る場所——に座っていた。ハーフアップにまとめた黒髪が、汗で首筋に少し張り付いている。その首元に、小さなほくろがある。小春はいつからか、そのほくろの位置を覚えていた。


視線が合った。詩が、ふっと微笑んだ。


——伝えたいことがある。


真白にそう言われてから、二週間が経っていた。


テスト勉強の合間にも、授業中にも、温室で詩先輩と目が合うたびにも——あの夜の真白の言葉が、胸の中で響いていた。


「伝えたい気持ちがあるなら、伝えた方がいいと思う」


少しだけ寂しそうだった、真白の声。


小春は、その言葉の意味を、何度も考えた。真白には——真白にも、伝えたい気持ちがあるのだと。伝えられない気持ちが。


だから、小春は伝えなければいけないと思った。


真白の分まで、とは言わない。でも——自分が持っている気持ちは、自分で伝えるべきだと。


いつ。どうやって。


それだけが、まだ、決まらないでいた。


---


「去年の夏、海に行ったね」


柚葉が言った。


「詩が泳げなくて、小春ちゃんが教えてあげたんだよね」


「はい。浅瀬で、ずっと手を繋いで」


「……あの時は、ありがとう」


詩が、少しだけ照れたように言った。


「今年は、泳げるようになりましたか?」


「たぶん、まだ無理」


「じゃあ、また練習しましょう」


小春がそう言うと、詩はくすっと笑った。


「うん。小春ちゃん先生に、もう一回教えてもらおうかな」


——先生。


その呼び方が、なんだか嬉しくて、小春の胸がほんの少しだけ温かくなった。


真白が、小春の横顔をちらりと見た。何も言わなかった。でも、その目が、少しだけ——知っている、という色をしていた。


---


## 二・夕立


「あ、雨……」


遥が窓の外を見て言った。


いつの間にか、空が暗くなっていた。入道雲が太陽を覆い、温室の中の光が翳る。さっきまで鳴いていた蝉が、ぴたりと止まった。


次の瞬間、大粒の雨がガラス屋根を叩き始めた。


ばらばら、ばらばら。


「急に降ってきたね」


小春が声を上げた。


「夕立かな」


凛が立ち上がって、温室の入り口に向かった。外に出してあった道具——スコップとバケツを中に入れる。真白が黙って手伝いに行った。二人の動きに無駄がない。


「傘、持ってきてない……」


小春はスクールバッグの中を探したが、折り畳み傘は入っていなかった。朝は晴れていたのだ。


「わたしも」


「天気予報だと……」


遥が、スマホを見ながら言った。画面に雨雲レーダーを表示させている。


「あと三十分くらいで抜けるみたいです」


「じゃあ、少し待とうか」


柚葉がそう言って、みんなで雨宿りをすることになった。


---


雨音に包まれた温室は、不思議と静かだった。


蝉の声が消えている。雨の音だけが、ガラスの屋根を通して降りてくる。


ばらばら、ざあざあ、ぱたぱた——大粒の雨が、小粒に変わり、また大粒に戻る。風が吹くたびに、雨の角度が変わって、ガラスを伝う水滴の筋が揺れた。


温室の中は、湿度がさらに上がっていた。土の匂い、緑の匂い、そして雨の匂い——アスファルトが濡れた時とは違う、庭の土が水を含んだ、深い匂い。


凛が麦茶のおかわりを注いでくれた。氷はもうほとんど溶けていたけれど、冷たくて、おいしかった。


小春は、グラスの水滴を指でなぞりながら、窓の外を見た。


——一年前も、雨の日にここにいたな。


あの時は、種まきをしながら花言葉の話をした。凛先輩が、ひまわりの花言葉は「憧れ」だって教えてくれた。マリーゴールドは「変わらぬ愛」。


あの頃は、まだ——何も知らなかった。詩先輩が詩を書くことも。紫陽花の詩に「あなた」がいることも。


温室の午後の「あなた」が、誰なのか——まだ、聞けないでいる。


「雨の日の温室も、いいよね」


詩が言った。ガラスに打ちつける雨を見ながら、少しだけ微笑んでいる。


「うん。静かで」


「去年も、こんなことあったね」


柚葉が、懐かしそうに言った。


「花言葉の話をしたの、覚えてる?」


「覚えてます」


小春が答えた。


「ひまわりは『憧れ』、マリーゴールドは『変わらぬ愛』」


「よく覚えてるね」


「詩先輩に教えてもらいましたから」


小春は、詩を見た。


詩は、窓に映る雨粒を目で追っていた。水滴がガラスを伝って流れ落ちるのを、じっと見ている。何かを考えているような顔だった。唇が、かすかに動いている——音のない言葉を、なぞるように。


——詩先輩は、今、何を考えているんだろう。


いつもそうだ。詩先輩の横顔を見ると、その内側にある言葉が気になる。口に出さずに、静かに選んでいる言葉のことが。


「小春」


真白が、小さな声で呼んだ。


「何?」


「……顔、赤い」


「え、えっ? そ、そんなことない……暑いだけだよ」


「ふうん」


真白は、それ以上は何も言わなかった。でも、その目が、少しだけ笑っていた。


---


雨音が、少しずつ弱くなっていった。


ざあざあ、が、しとしと、に変わる。ガラス屋根を打つ音が、ぱたぱた、ぱた、と間遠になっていく。


「やんできたね」


遥が言った。スマホの画面を確認して、「雨雲、抜けたみたいです」と報告する。


「じゃあ、そろそろ帰ろうか」


みんなが荷物をまとめ始めた。テーブルの上のグラスを片付け、クッキーの容器を凛が鞄にしまう。


温室の外に出ると、雨上がりの空気が肌に触れた。


湿った風。草と土の匂い。アスファルトから立ち上る、かすかな蒸気。すべてが、さっきまでとは違う温度を持っていた。世界が一度洗い流されて、色が鮮やかになったような——そんな気がした。


花壇のペチュニアの花弁に、雨粒が載っている。日々草の白い花が、濡れて半透明になっていた。葉っぱの緑が、さっきより濃い。


空を見上げた。雲の切れ間から、夕方の光が差し始めている。でも、虹はまだ出ていなかった。


---


「小春ちゃん」


詩が、声をかけた。


みんなが帰り支度をしている中で、少しだけ離れたところから。


「ちょっと、話したいことがあるんだけど」


その声は、いつもの詩先輩の声だった。穏やかで、静かで。でも——小春には、わかった。その声の底に、かすかな震えがあることが。


「え? はい」


「二人で、いいかな」


心臓が、跳ねた。


——二人で。


「わ、わかりました」


小春の声が、少しだけ上擦った。


詩は、温室の裏手に向かって歩き出した。小春は、後についていった。


背中を見ながら歩く。ハーフアップにまとめた黒髪が、湿気で少しうねっている。背筋がまっすぐで、歩き方が静かで——いつ見ても、きれいな人だと思う。


後ろで、真白の視線を感じた。


振り返らなくても、わかった。真白が、小春を見ていることが。


でも、一度だけ、肩越しに振り返った。


真白が、小春を見ていた。何も言わない。ただ、小さく——本当に小さく——頷いた。


——行っておいで。


そう言われた気がした。


小春は、前を向いた。詩の背中を追って、温室の角を曲がった。


---


## 三・雨上がり


温室の裏手。花壇の隅に、古い木のベンチがある。


雨に濡れていたけれど、詩はハンカチを取り出して、二人分の場所を丁寧に拭いた。白いハンカチが、すぐに水を吸って色が変わる。


「座って」


「……ありがとうございます」


二人で、並んで座った。


ベンチの前には、紫陽花の株がある。六月に咲き誇っていた花は、もう色褪せ始めていた。青紫だった花弁が、くすんだ緑に変わりかけている。でも、雨上がりの水滴が花びらに載って、夕方の光を受けて小さく光っていた。


——枯れかけの紫陽花でも、きれいだな。


沈黙が、二人の間に落ちた。


遠くで蝉が、また鳴き始めていた。雨が止んだのを察知したのだろう。じいい、と短く鳴いて、また止まる。もう一匹が応えるように鳴く。


空気が湿っていて、重い。夏の夕方の、濃い光が、雲の隙間から斜めに差していた。濡れた花壇の土が黒く光っている。


小春は、自分の膝の上で手を握りしめた。


——詩先輩が、話したいことって、何だろう。


わかっている気がした。わかっていない気もした。


期待と不安が、胸の中で交互に押し寄せる。


隣の詩を、ちらりと見た。


詩は、まっすぐ前を——紫陽花を——見ていた。唇が、かすかに動いている。何かを言いかけて、やめて、また言いかけている。


——言葉を、探しているんだ。


詩先輩は、いつもそうだ。大切なことほど、時間をかけて言葉を選ぶ。図書室でノートに詩を書いている時も、「溶ける」と書いて消して「消える」と書き直して、また消して——


その丁寧さが、好きだった。


小春は、待った。詩先輩の言葉が形になるのを、急かさずに。


---


「小春ちゃん」


詩が、ようやく口を開いた。


「はい」


「……ごめんね、うまく言えないかもしれない」


詩は、膝の上で自分の指を絡めていた。いつもは落ち着いている指先が、少しだけ震えている。


「私、言葉を扱うのが好きなのに。詩を書くのは得意なのに」


小さく笑った。自嘲ではなくて、困ったような、照れたような笑い。


「こういう時に限って、ぜんぶ、出てこなくなるんだね」


「……」


「ずっと考えてたの。何て言えばいいか。どの言葉を選べば、ちゃんと届くか」


詩は、少しだけ間を置いた。


「でも、考えれば考えるほど、どの言葉も足りない気がして」


風が吹いた。紫陽花の葉が揺れて、溜まっていた雨粒が、ぽたりと地面に落ちた。


詩が、小春の方を向いた。


目が合った。


暗い茶色の瞳。その奥に、まっすぐな光がある。


「小春ちゃん」


「はい」


「覚えてる? 図書室で、私が詩を書いてるの、見つけた時のこと」


「……覚えてます」


五月の放課後。窓際の席で、詩先輩が何かを書いていた。ペンを持つ指の動き。唇がかすかに動いて、音のない言葉を紡いでいた。光の中で。


「あの時、すごく怖かった」


「え?」


「誰にも見せたことがなかったから。ノートを開いて、中を見せるのが。こんな詩を書いてるって知られたら——どう思われるか、わからなくて」


詩は、静かに続けた。


「でも、小春ちゃんが読んでくれた時、『すごい』って言ってくれたでしょ」


「はい」


「あの言葉が、すごく嬉しかった。何がすごいのか、たぶん、小春ちゃんにもよくわからなかったと思う」


小春は、少しだけ笑った。たしかに、あの時は、ただ圧倒されただけだった。


「でも、そのまっすぐさが、嬉しかったの」


詩は、紫陽花を見た。色褪せた花弁の、水滴が光っている。


「『温室の午後』——あの詩に、『あなた』って出てくるでしょ」


小春の心臓が、どきどきし始めた。


「小春ちゃんは、訊いたよね。『あなた』は誰ですか、って」


「……はい。詩先輩は、答えてくれませんでした」


「うん」


詩が、少しだけ俯いた。


「答えられなかったの。その時は、まだ」


風が、また吹いた。雲が動いて、傾いた陽の光が二人の足元に差し込んだ。紫陽花の影が、濡れた地面に揺れる。


詩が、顔を上げた。


「あの詩の『あなた』は——小春ちゃんだよ」


---


世界が、止まった気がした。


蝉の声が遠くなる。風の音が消える。


聞こえているのは、自分の心臓の音だけ。


どくん、どくん、どくん。


「え……」


「紫陽花の詩も。六月に書いた、あの詩も」


詩の声が、かすかに震えている。


「『色が変わっても、芯は変わらない』——あれは、小春ちゃんへの気持ちを書いたの」


小春は、息を呑んだ。


あの詩の最後の二行が、頭の中に浮かんだ。


——あなたがここにいるからだと

——まだ 言えないでいる


「今まで、詩でしか書けなかった。自分の気持ちを、直接、言葉にするのが怖くて」


詩が、小春を見た。まっすぐに。逸らさずに。


「言葉にしたら、壊れてしまうかもしれないって、ずっと思ってた。小春ちゃんとの関係が。この温室での時間が」


「詩先輩……」


「でも、言葉にしなかったら——小春ちゃんには、届かないまま消えてしまう」


詩の目が、潤んでいた。


「だから——」


詩が、小さく息を吸った。


「私、小春ちゃんのことが、好きです」


静かな声だった。


でも、一文字ずつ、丁寧に、選び抜いた言葉を渡すように。


「友達としてじゃなくて。先輩としてでもなくて。——一人の人として」


小春の目から、涙がこぼれた。


「迷惑だったら、忘れてくれていい。今まで通りの関係でいい」


詩が、かすかに微笑んだ。泣きそうな顔で、笑っていた。


「でも——どうしても、伝えたかったの。詩じゃなくて、私の言葉で」


---


涙が、止まらなかった。


嬉しいのか、驚いているのか、自分でもわからない。全部が混ざって、涙になって、溢れてくる。


「……っ」


声が出ない。言いたいことが多すぎて、何から言えばいいかわからない。


——わたしも。わたしも、好きです。


——ずっと、ずっと、好きでした。


——花言葉を教えてもらった日から。花火の夜に横顔を見た時から。図書室で詩を書いてる姿を見つけた時から。


——紫陽花の詩を読んで、「あなた」がわたしだったらいいのに、って思って——


でも、どの言葉も足りない気がした。詩先輩が、さっき言った通りだ。大切なことほど、言葉が追いつかない。


小春は、涙を拭った。袖で、少し乱暴に。


そして、詩を見た。


「わたしも——」


声が震える。でも、まっすぐに。


「わたしも、詩先輩のこと、好きです」


「……」


「ずっと、好きでした。いつから好きだったか、正確にはわからないけど——」


小春は、息を吸った。


「詩先輩の詩を読んだ時、この人の見ている世界はこんなにきれいなんだって思いました。温室の午後を、あんなふうに書ける人が——わたしは、すごいと思って、でもそれだけじゃなくて——」


言葉が、うまくまとまらない。でも、今は、まとまらなくていい気がした。


「詩先輩が言葉を選んでいる時の横顔が好きです。書いては消して、消しては書いて——その丁寧さが。大切にしてるんだなって、わかるから」


「小春ちゃん……」


「紫陽花の詩を読んだ時、すごくどきどきして。『あなた』が誰なのか、知りたくて——でも、もしわたしじゃなかったら、って思うと怖くて」


小春は、目を擦った。涙で、視界がにじんでいる。


「でも、嬉しいです。詩先輩の言葉の『あなた』が、わたしで」


涙声が、笑い声に変わった。


「すごく、嬉しい」


詩の目にも、涙が光っていた。


「私も……嬉しい」


詩の声も、震えていた。


「小春ちゃんが、好きって言ってくれて。ちゃんと、届いたんだって——」


小春は、どきどきする胸を押さえた。心臓が、さっきからずっと、うるさい。


「……じゃあ、わたしたち」


「うん」


「両想い、ってことですか」


「……うん。そういうこと、だね」


詩が、少しだけ笑った。泣いたあとの、柔らかい笑顔。


「付き合って、くれる?」


「はい」


小春は、大きく頷いた。涙が、また一粒、頬を伝った。


「付き合ってください、詩先輩」


「こちらこそ」


詩が、そっと手を伸ばした。小春の手を、握った。


温かい手だった。少し湿っていて、かすかに震えている。でも、温かい。


小春は、その手を握り返した。指と指が絡んで、繋がった。


「これからも、よろしくね」


「はい。よろしくお願いします」


詩が笑った。小春も笑った。泣きながら、笑った。


---


「あ——」


詩が、空を見上げた。


小春も、つられて見上げた。


雲の切れ間に、虹がかかっていた。


薄い虹。端の方は空に溶けて消えかけている。でも、中央の色——赤、橙、黄色、緑——は、はっきりと見えていた。夕方の空を、大きな弧を描いて横切っている。


「虹……」


「きれいだね」


詩が言った。その声は、もう震えていなかった。


繋いだ手は、そのまま。


小春は、虹を見ながら、指先に詩先輩の体温を感じていた。


雨上がりの空気が、さっきとは違う色をしている。湿った風の中に、夏の夕方の、甘い匂いが混じっていた。花壇の土が雨を吸って、植物たちが息をしている。


——雨が止んで、よかった。


雨が降らなかったら、ここに残らなかった。ここに残らなかったら、詩先輩は声をかけてくれなかったかもしれない。


雨が降って、止んで、虹が出た。


それだけのことが、奇跡みたいに思えた。


「詩先輩」


「うん?」


「わたし——自分から言おうと思ってたんです。今日じゃないかもしれないけど、もうすぐ」


「え?」


「真白に、背中を押してもらって。伝えたい気持ちがあるなら、伝えた方がいい、って」


詩は、少し驚いたような顔をした。それから、小さく笑った。


「そうだったの」


「はい。でも、詩先輩の方が先でした」


「……私も、テスト期間中、ずっと考えてたの。勉強しながら、小春ちゃんのことばかり考えて」


「わたしもです。テスト中に」


「何を?」


「詩先輩のこと」


二人で、笑った。泣いた後の、少しだけ鼻声の、笑い声。


虹が少しずつ薄くなっていく。


でも、繋いだ手はそのまま。空の色が、青から茜に変わりかけていた。


---


## 四・帰り道


温室に戻ると、みんながいた。


柚葉と凛が、テーブルを片付けている。遥が、じょうろを棚に戻しているところだった。真白は、鞄を肩にかけて、入り口のそばに立っていた。


「おかえり」


柚葉が笑った。


「虹、出てたよ。二人も見た?」


「はい。きれいでした」


小春が答えた。声が、少しだけ弾んでいるのが自分でもわかった。


「何話してたの?」


柚葉が聞いた。悪気のない、ただの好奇心。


小春と詩は、顔を見合わせた。


詩の頬が、少しだけ赤い。小春の頬も、きっと同じだ。


「……秘密です」


「えー、気になる」


「いつか、話しますね」


小春は、笑顔で答えた。


凛が、小春と詩の顔を交互に見た。それから、ふっと小さく息をついた。


「まあ、いいんじゃない」


その声が、いつもより少しだけ——ほんの少しだけ——柔らかかった。


遥は、じょうろを棚に戻した手をそのまま止めて、小春の顔をじっと見ていた。それから、詩の顔を見て、また小春の顔を見た。何か気づいたような、でも何も言わないような——少し不思議そうな表情。


真白が、小春の顔を見た。


小春は、真白を見た。


目が合った。


真白の目は、静かだった。いつもの、感情が読みにくい銀色のグレーの瞳。


でも——小春にはわかった。


真白は、全部、わかっている。


——よかったね。


真白が、ほんの少しだけ口の端を上げた。笑っている、と言えるか言えないかの、微かな表情の変化。


「よかったね」


小声で。ほかの誰にも聞こえないくらいの声で。


小春は、少しだけ頷いた。


---


帰り道。


七月の夕暮れは遅い。六時を過ぎても、空はまだ明るかった。雨上がりの空が、淡い茜色に染まっている。


水溜まりに、空の色が映っていた。小春は、水溜まりを避けながら歩いた。真白は、気にせず水溜まりの上を歩いていた。


柚葉たちと校門で別れて、小春と真白は、いつもの道を歩いていた。


住宅街を抜ける道。紫陽花はもう色褪せているけれど、百日紅が咲き始めていた。鮮やかなピンクの花が、夕方の光を受けて、水滴ごと輝いている。


「伝えたの?」


真白が聞いた。前を向いたまま。


「……うん」


小春は、少しだけ間を置いた。


「……ううん、違う。詩先輩から、先に言ってくれた」


真白が、少しだけ小春の方を向いた。


「そうなんだ」


「びっくりした。わたし、自分から言うつもりだったのに」


「……でも、よかったじゃん」


「うん。よかった」


小春は、空を見上げた。虹はもう消えていた。でも、空の色が、さっきよりきれいに見える。


「付き合うことになったの」


「おめでとう」


真白は、隣を見ずに言った。


「ありがとう」


沈黙が、少しだけ続いた。


二人の足音だけが、濡れたアスファルトの上に響く。ぺた、ぺた、と、湿った靴底の音。


「真白」


「なに」


「ありがとう。背中を押してくれて」


「……別に」


「真白が言ってくれなかったら、わたし、ずっと迷ってたと思う」


「大げさ」


「大げさじゃないよ」


小春は、隣を歩く真白を見た。


真白の横顔は、いつも通りだった。感情が読めない、きれいな横顔。銀色に近い明るいグレーの髪が、夕風に揺れている。


でも——少しだけ、目元が赤い気がした。


小春は、立ち止まった。


「真白」


「なに」


「真白にも……伝えたい気持ち、あるんだよね」


真白の足が、一瞬だけ止まった。


すぐに歩き出す。何事もなかったように。


「……なんで」


「あの日、言ってくれた時。真白の声、少しだけ寂しそうだったから」


真白は、何も言わなかった。


小春も、それ以上は聞かなかった。真白が話したい時に、話してくれればいい。小春にできるのは、ここにいることだけだ。


しばらく歩いて、真白が口を開いた。


「——小春」


「うん」


「小春が幸せそうで、よかった」


その声は、静かだった。いつもの真白の、素っ気ない声。


でも——嘘じゃないと、小春にはわかった。本当に、よかった、と思ってくれている。たとえ、自分の胸の中に、言えない気持ちを抱えていても。


小春は、真白の手をぎゅっと握った。


「わっ」


「ありがとう、真白。ほんとに」


「……暑い。手、汗かいてる」


「ごめん」


「……もうちょっとだけ、いい」


真白が、握り返した。ほんの少しだけ。


夕焼けの道を、二人で歩いた。


百日紅の花びらが、風に乗って一枚、小春の肩に落ちた。真白がそれを取って、何も言わずに指で弾いた。


「ねえ、真白」


「なに」


「夏休み、一緒に遊ぼうね」


「……考えとく」


「考えとく、って。絶対遊ぼうよ」


「うるさい」


「約束だよ」


「……うん」


小さく、でもはっきりと、真白が頷いた。


---


## 五・夜


その夜。


小春は、ベッドの中で、天井を見つめていた。


部屋の灯りは消してある。カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいる。扇風機が、弱い風を送っていた。


目を閉じると、今日のことが、最初から全部、浮かんでくる。


テスト終わりの温室。凛先輩のレモンクッキー。蝉の声。雨の音。ガラス屋根を打つ雨粒の、ばらばらという音。


そして——詩先輩の声。


「ちょっと、話したいことがあるんだけど」


あの時の心臓の音。


温室の裏のベンチ。紫陽花の、色褪せた花。雨上がりの、土と緑の匂い。


詩先輩の指が震えていたこと。言葉を探す、横顔。


「あの詩の『あなた』は——小春ちゃんだよ」


小春は、枕に顔を埋めた。


——あの詩の「あなた」は、わたしだった。


温室の午後も。紫陽花の詩も。詩先輩が選んだ言葉の、そのひとつひとつが、わたしに向けられていた。


胸が、きゅっとなる。


嬉しくて。嬉しすぎて。


「私、小春ちゃんのことが、好きです」


あの声を、何度も思い返す。静かで、丁寧で、一文字ずつ渡すような声。


——好き。


わたしも、好き。


詩先輩の手の温もりを思い出す。少し震えていて、少し湿っていて、でも温かかった手。握り返した時、詩先輩の指が、ほんの少しだけ力を入れてくれたのがわかった。


虹を一緒に見上げた空。


「付き合って、くれる?」


「はい」


小春は、布団を頭まで被った。


顔が、熱い。


思い出すだけで、心臓が暴れ出す。


——明日から、わたしたち、付き合ってるんだ。


夏休みが来る。詩先輩と、二人で会える。


温室でも、温室の外でも。


「好き……」


小さく呟いた。誰にも聞こえない声で。


今日、詩先輩に言ってもらえた言葉を、もう一度、胸の中で繰り返す。


「好き」


言うたびに、胸が温かくなる。


嬉しくて、眠れない。


でも、眠れなくてもいい。


こんなに幸せな夜は、初めてだった。


小春は、枕を抱きしめて、目を閉じた。


まぶたの裏に、雨上がりの虹が浮かんだ。


薄くて、すぐ消えてしまいそうで——でも、確かにそこにあった虹。


詩先輩の声と、手の温もりと、一緒に。


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