第14章 詩の秘密
雨に打たれて色を変える
あなたみたいだと思った
でも本当は
移り気なんかじゃない
ただ 光の当たり方で
違う顔を見せるだけ
---
## 一・図書室
五月の連休が明けた。
校内の木々が、一斉に緑を濃くしていた。四月にはまだ淡かった葉が、五月の日差しを浴びて、深い色に変わっている。教室の窓から見える銀杏の並木が、風に揺れるたびに、光と影のまだら模様が廊下に広がった。
放課後。
小春は、図書室にいた。
課題のレポートに使う本を探しているのだけれど、なかなか見つからない。棚の間をうろうろしながら、背表紙を一つ一つ読んでいく。
図書室は静かだった。五月の午後の光が、高い窓から斜めに差し込んで、埃が金色に光っている。本の匂いと、木の匂い。紙が日に焼ける、少しだけ甘い匂い。
棚の角を曲がった時、奥の席に人影があった。
詩だった。
奥まった窓際の席に座って、ノートに何かを書いている。ペンを持つ手が、ゆっくりと動いていた。書いては止まり、考えて、また書く。静かな図書室に、ペン先が紙を走るかすかな音だけが聞こえる。
窓からの光が、詩の横顔を照らしていた。
——あ。
小春は、足を止めた。
三月の温室で「書くこと、もう少し学びたい」と言っていたのを思い出した。文学部に行きたいという話。あの時から、ずっと気になっていた。詩先輩が何を書いているのか。
小春は、しばらくそこに立っていた。
詩は、気づいていない。集中している。ペンを動かす手が止まる。唇を少しだけ動かす——書いた言葉を、声に出さずに読み返しているのだろう。それから、少しだけ微笑んで、また書き始める。
言葉を選んで、丁寧に紡いでいく——そんな詩先輩の姿が、眩しかった。
——見つけてしまった。詩先輩の、秘密の時間。
声をかけていいのか、迷った。でも、このまま黙って立っているのも変だ。
「詩先輩」
「わっ」
詩が、驚いて顔を上げた。ペンが手から滑り落ちそうになって、慌てて掴み直す。
「小春ちゃん。びっくりした」
「すみません。何か書いてるんですか?」
詩は、反射的にノートを閉じかけた。それから——少し迷うように、手を止めた。
「……うん」
「何を?」
詩は、しばらく黙っていた。ノートの表紙に視線を落として、指先でその角を触っている。言おうかどうか、迷っている顔。
「……詩」
「え?」
「詩を、書いてたの」
小春は、目を大きくした。
「詩先輩が、詩を?」
「……名前が名前だから、変だよね」
「変じゃないです。全然」
小春は、一歩近づいた。
「……見てもいいですか?」
「え、でも……」
詩は、ノートを胸の前で抱えるようにした。
「誰にも見せたことないの。恥ずかしくて」
「だめですか?」
小春は、詩の目を見た。真っすぐに。
詩は、その視線を受け止めて——少しだけ、息を吐いた。
「……いいよ。でも、笑わないでね」
「笑いませんよ」
---
詩が、ノートを開いた。
小春は、隣の椅子に座って、ノートを覗き込んだ。
丁寧な字だった。一文字一文字が、均等な間隔で並んでいる。
---
*温室の午後*
*ガラスの向こうは まだ冬で*
*吐く息が白く溶けていく*
*でも ここだけが*
*春の匂いがする*
*水滴が葉を伝い落ちる*
*それだけの午後に*
*誰かの笑い声が響いて*
*花たちが少し揺れた*
*この静かな場所が*
*好きだと思ったのは*
*あなたが ここにいるからだと*
*まだ 言えないでいる*
---
小春は、しばらく黙っていた。
胸の奥が、きゅっと締まった。
「……すごい」
声が、かすれた。
「きれいな詩ですね。……温室のこと、書いてるんですね」
「うん。好きな場所だから」
「『あなたがここにいるから』って……」
小春は、その一行を、もう一度読んだ。
——誰のことだろう。
「……大切な人がいるんですね」
「……うん。まあ」
詩は、視線を窓の外に向けた。五月の光が、詩の輪郭を柔らかくしている。
「この詩、いつ書いたんですか?」
「……去年の冬かな。温室で、みんなでお茶を飲んでる時に、ふと思って」
「去年の冬」
——わたしたちが一緒にいた時に、詩先輩は、こんなことを考えていたんだ。
「他にも、いっぱい書いてるんですか?」
「うん。ノート、何冊もあるよ」
「すごい……いつから書いてるんですか?」
「中学生の頃から。最初は、ただの日記みたいなものだったんだけど。そのうち、感じたことを詩にするようになって」
「見せてもらったの、わたしが初めて?」
詩は、頷いた。
「柚葉先輩にも凛先輩にも、見せたことなかったんですか?」
「……うん。なんか、恥ずかしくて。自分の内側を見せるみたいで」
詩が、少し困ったように微笑んだ。
「でも、小春ちゃんには……見せてもいいかなって、思った」
「え?」
「小春ちゃんは、いつもまっすぐに感想を言ってくれるから。嘘がないでしょ」
小春の胸が、温かくなった。
「……ありがとうございます。見せてくれて」
「こちらこそ。読んでくれて、ありがとう」
詩の頬が、少しだけ赤くなった。
---
## 二・小さな秘密
その日から、小春と詩の間に、小さな秘密ができた。
放課後、温室に行く前に、図書室に寄る。詩がいれば、隣に座る。詩が新しい詩を書いていたら、見せてもらう。
「これ、どう思う?」
「素敵です。この三行目が特に好き」
「どうして?」
「なんていうか……言葉が、景色を連れてくるんです。読むと、そこにいるみたいな気持ちになる」
「……そんなふうに読んでくれるの、小春ちゃんだけだよ」
詩が、小さく笑った。
五月の図書室は、木漏れ日が美しかった。窓の外の銀杏が緑の影を落として、机の上に葉っぱの形が揺れている。その中で、二人でノートを覗き込む。
小春は、詩の言葉の選び方が好きだった。一つの言葉を、何度も書いては消して、別の言葉に変える。その過程を隣で見ていると、詩先輩の頭の中を覗いているような気持ちになる。
「この『溶ける』と『消える』、どっちがいいかな」
「『溶ける』の方が好きです。温かい感じがして」
「……なるほど。温かさ、か」
詩が、「溶ける」と書き直した。
——わたしの意見で、詩先輩の言葉が変わった。
それが、なんだか、とても嬉しかった。
---
## 三・紫陽花
温室では、六人の日常が続いていた。
「遥ちゃん、水やりの量、覚えた?」
「はい。鉢の大きさによって変えるんですよね」
遥は、一人で水やりをしていた。入部してひと月。小春や柚葉の後ろをついて回っていた頃とは、じょうろの持ち方からして違う。
「遥、上手くなったね」
真白が言った。短い言葉だけれど、遥の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます、真白先輩」
「……別に。見たままのこと言っただけ」
小春は、その様子を横目で見ながら、微笑んだ。真白は相変わらず素っ気ないけれど、遥にはちゃんと声をかけるようになっている。
「そういえば」
柚葉が言った。
「温室の紫陽花、もうすぐ咲きそうだね」
「今年は、どんな色になるかな」
凛が言った。
「去年は水色だったよね」
「土の酸性度で色が変わるんですよね」
遥が言った。
「酸性だと青、アルカリ性だとピンク」
「詳しいね」
「図鑑に書いてありました」
遥が、少し照れたように笑った。
---
六月に入った。梅雨の季節。
朝から雨が降る日が増えた。温室のガラスを、雨粒が流れ落ちていく。外は灰色の空。でも、温室の中は温かくて、雨音が心地よかった。
紫陽花が、咲いた。
温室の片隅で、水色と薄紫の花が開いている。雨に濡れた紫陽花は、光の加減で色が微妙に変わって見えた。花びらに触れると、しっとりと冷たかった。
「きれい……」
小春が言った。
「雨の日の紫陽花って、特にきれいだよね」
詩が言った。
小春は、詩の顔を見た。詩は、紫陽花を見つめている。何かを考えている目。
「詩先輩、何か考えてます?」
「……うん。書きたいことが、浮かんだ」
「紫陽花のこと?」
「うん」
詩は、小さく微笑んだ。
---
次の日。図書室で、詩がノートを開いた。
「昨日書いたの。読んでくれる?」
小春は、ノートを覗き込んだ。
---
*紫陽花*
*雨に打たれて色を変える*
*あなたみたいだと思った*
*でも本当は*
*移り気なんかじゃない*
*ただ 光の当たり方で*
*違う顔を見せるだけ*
---
小春は、その詩を、二度読んだ。
短い詩だった。でも、一行一行に、重さがあった。
——この六行に、詩先輩の全部がある。
「『あなたみたいだと思った』って……詩先輩、誰かのことを書いてるんですか?」
詩は、少しだけ目を伏せた。
「……うん。まあ」
「温室の午後の時も、『あなた』が出てきましたよね」
「……うん」
「同じ人?」
詩は、答えなかった。でも、その沈黙が、答えだった。
——詩先輩には、大切な人がいる。
小春は、その事実を、胸の中で転がした。誰だろう。詩先輩が、詩に書くほど大切に思っている人。
「……この詩、好きです」
小春は言った。
「『移り気なんかじゃない』っていうところが。ちゃんと、その人のことを見てる感じがして」
「……ありがとう」
詩の声が、少しだけ柔らかくなった。
小春の心臓が、どきっとした。
——やっぱり、好き。
詩先輩の言葉が好き。詩先輩の声が好き。詩先輩が言葉を選んでいる時の、真剣な表情が好き。
そして——詩先輩が「あなた」と書く時の、少しだけ切ない目が、好き。
---
## 四・入選
「実は、コンクールに出そうと思ってるの」
ある日、詩が言った。
「コンクール?」
「うん。高校生の文芸コンクール。詩の部門があって」
「出したらいいじゃないですか!」
小春は、身を乗り出した。
「でも、自信がなくて……」
詩は、ノートのページをめくった。何篇もの詩が、丁寧な字で書かれている。
「誰かに見せること自体、小春ちゃんが初めてなのに。コンクールに出すっていうのは……知らない人に、自分の内側を見せるってことだから」
「怖いですか」
「……うん。少し」
小春は、少し考えた。
「詩先輩の詩を初めて読んだ時、わたし、胸がきゅってなったんです」
「きゅって?」
「はい。言葉が、ちゃんと届いたんです。わたしみたいな、詩のことよくわからない人にも」
「小春ちゃんは『わからない人』なんかじゃないよ」
「でも、専門的なことは知らないです。それでも、詩先輩の詩を読むと、何か感じるんです。きっと、他の人にも伝わりますよ」
詩は、小春の目を見た。
「……出してみようかな」
「出してください。応援します」
「どの詩がいいと思う?」
「わたしは……」
小春は、ノートのページをめくった。「温室の午後」のページで、手を止めた。
「これが、一番好きです」
「これ?」
「詩先輩らしさが、一番出てると思います。温室のこと、ここにいる時間のこと、大切にしてるのが伝わってくる」
「……そう」
詩は、その詩を見つめた。
「紫陽花の方は?」
「紫陽花も好きです。でも……」
小春は、少し言い淀んだ。
「紫陽花の方は、もっと……個人的な感じがして。大切な人に向けた言葉、っていうか」
「……鋭いね、小春ちゃん」
詩が、小さく笑った。
「じゃあ、温室の午後にしようかな。こっちは、みんなに読んでもらいたい詩だから」
「はい。きっと、いい結果になりますよ」
---
詩は、コンクールに応募した。
結果が出るまで、三週間ほどかかるという。
「落ち着かないな」
詩は、温室でお茶を飲みながら言った。
「大丈夫ですよ」
小春が言った。
「結果がどうでも、詩先輩の詩が素敵なのは変わらないです」
「……小春ちゃんは、いつもそうやって言ってくれるね」
「本当のことですから」
詩が微笑んだ。
隣で遥が、少し不思議そうに二人を見ていた。
「詩先輩、何かコンクールに出したんですか?」
遥が聞いた。
「うん。文芸コンクールの詩の部門に」
「すごいですね。詩を書かれるんですか」
「うん。趣味なんだけどね」
「趣味で続けられるのって、すごいことだと思います」
遥が言った。静かだけれど、はっきりした声で。
「……ありがとう、遥ちゃん」
詩は、少し驚いたように微笑んだ。
---
六月の最終週。
温室に、詩が駆け込んできた。
いつもの落ち着いた詩とは違う。息が上がっていた。
「入選した」
その一言で、温室の空気が変わった。
「え!」
「コンクール、入選したの」
詩の声が、震えていた。手に持った封筒を、ぎゅっと握りしめている。
「詩! おめでとう!」
柚葉が立ち上がって、詩の手を握った。
「やったじゃん!」
凛が言った。声が大きい。嬉しい時の凛は、隠さない。
「おめでとうございます」
遥が、にっこり笑った。
「すごいな、詩」
真白が、静かに、でもはっきりと言った。
詩は、みんなの顔を見回した。目が、潤んでいた。
「ありがとう……」
それから、小春を見た。
「小春ちゃんのおかげ」
「え?」
「小春ちゃんが、応援してくれたから。見せてもいいかなって思えたのも、コンクールに出す勇気が出たのも」
「わたしは、何も……」
「ううん。小春ちゃんが最初に読んでくれた時、胸がきゅってなったって言ってくれたでしょ。あの言葉が、ずっと支えになってた」
小春は、泣きそうになった。
——詩先輩の役に、立てた。わたしの言葉が、詩先輩を支えていた。
「……よかった」
声が震えた。
「本当に、よかったです」
---
「お祝いしようよ」
凛が言った。
「実は、準備してきたんだ」
凛が、鞄からタッパーを取り出した。中には、きれいにデコレーションされたカップケーキが六つ。一つ一つ、クリームの色が違う。
「え、いつの間に」
「昨日、結果が出るって聞いてたから。入選しても、しなくても、お祝いしようと思って」
「凛……」
「しなくても、出したこと自体がすごいんだから。って、柚葉が言ってたでしょ」
凛が、少し照れたように柚葉を見た。
「凛ちゃんが自分で考えたんでしょ」
柚葉が笑った。
「……まあ。半分くらいは」
みんなで、カップケーキを食べた。
レモンの香りがした。甘すぎず、爽やかな味。
「おいしい」
遥が言った。
「凛先輩、お菓子作り上手なんですね」
「まあね」
凛が、得意そうに笑った。
小春は、温室の中を見回した。六人で、カップケーキを食べている。窓の外は雨。でも、温室の中は温かくて、甘い匂いがして、笑い声がある。
詩が、入選の封筒を大切そうに鞄にしまった。
「これからも、詩を書き続けるね」
「はい。応援してます」
小春が言った。
「わたしも」
遥が言った。
「あたしも。ただし、次は入選したらもっと豪華なケーキ作る約束ね」
凛が言った。
「プレッシャー……」
詩が、困ったように笑った。でも、その目は嬉しそうだった。
---
## 五・帰り道
帰り道。
小春と真白は、傘を差して並んで歩いていた。六月の雨は生ぬるくて、肌にまとわりつくような湿気がある。
雨は小降りになっていたけれど、まだ止んでいない。紫陽花が、道端に咲いている。雨粒を受けて、青と紫がにじんでいた。
「詩先輩、入選……すごいね」
小春が言った。
「うん」
「……小春、嬉しそう」
「そりゃ嬉しいよ。詩先輩の夢が、一歩前に進んだんだもん」
真白は、しばらく黙って歩いていた。
「小春」
「うん?」
「詩先輩の詩。読んだことあるんだよね」
「うん。図書室で見せてもらったの」
「どんな詩だった?」
小春は、少し考えた。
「……温室のことを書いた詩。ここが好きだっていう気持ちが、すごく伝わってくるの。あと、紫陽花の詩も。誰かのことを書いてて、その人のことをちゃんと見てるのがわかる詩」
「誰かのこと」
「うん。詩先輩、大切な人がいるみたい」
真白は、傘を少し傾けた。
「……小春は、それ、誰だと思う」
「わからない。聞いても、教えてくれなかった」
真白は、何も言わなかった。
しばらく歩いてから、真白が口を開いた。
「……好きな人の夢が叶うのって、嬉しいよね」
小春は、少しだけ顔を赤くした。
「……うん」
「小春。そろそろ伝えたら?」
「え?」
「詩先輩に。気持ち」
小春は、傘の下で足を止めた。
「……まだ、勇気が」
「詩先輩も、小春のこと、大事に思ってるよ」
「……どうしてわかるの」
「見てたらわかる」
真白は、前を向いたまま言った。
「詩先輩、小春に詩を見せた。誰にも見せたことなかったのに」
「……うん」
「それって、特別ってことでしょ」
小春は、黙った。
特別。詩先輩が、わたしを特別に思ってくれている? それとも、ただの後輩として?
「……わかんない」
「小春は、いつもは鈍いのに、こういう時だけ慎重だよね」
「鈍いって……」
「褒めてない」
真白は、素っ気なく言った。
「でも——」
真白は、少しだけ足を止めた。
「伝えたい気持ちがあるなら、伝えた方がいいと思う」
その声が、少しだけ——ほんの少しだけ、寂しそうに聞こえた。
小春は、真白を見た。
——真白。
真白には、伝えたい気持ちがあるのだろうか。伝えられなかった気持ちが。
小春は、それ以上は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
「……考えてみる」
「うん」
雨が、少し弱くなった。紫陽花の花が、雨粒を弾いて、ぽたりと音を立てた。
小春は、夕暮れの空を見上げた。灰色の雲の隙間から、わずかに光が差している。
——伝える時が、来たのかな。
胸の中で、何かが、静かに動いた。
---
柚葉の園芸ノート 6月28日(金)雨のち曇り
紫陽花が咲いた。水色と薄紫。
去年より少し色が濃い気がする。土を変えたからかな。
梅雨に入って、水やりの回数を減らした。
花がら摘みと排水の確認がこの時期の日課。
紫陽花の挿し木もやった。遥ちゃんが丁寧にやってくれた。
詩がコンクールに入選した。
凛がカップケーキを焼いてきた。入選してもしなくてもお祝いするつもりだったらしい。凛らしい。
詩の詩、私はまだ読んだことがない。
小春ちゃんだけが読んでるんだって。
ちょっとうらやましいけど、詩が見せたい相手に見せたんだから、それでいい。




