第13章 新しい春
花壇の縁に
知らない芽が出ていた
植えた覚えはない
でも、ちゃんと根を張っている
どこから来たのかは聞かない
ここにいることだけ、知っている
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# 第二部 花ひらくとき
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## 一・チューリップの花壇
四月。
花壇のチューリップが咲いていた。
赤、黄色、白、ピンク——三月の終わりに芽を出してから二週間。花壇は、色とりどりの春に埋まっていた。
小春は、登校しながらその景色を見つめた。
——咲いたんだ。
去年の秋に、みんなで植えた球根。冬の間、わらの下でじっと春を待っていた。雪が降った日も、凍えるような朝も、土の中で根を伸ばし続けていた。それが今、こんなにきれいに咲いている。
校門を抜けると、桜並木がピンク色に染まっていた。花びらが風に乗って、ひらひらと舞い落ちる。朝の光が桜の隙間からこぼれて、道路にまだら模様を描いていた。
四月の空気は、二月とは全然違う。張り詰めたものが消えて、代わりに柔らかい匂いが満ちている。耕したばかりの土の湿った匂い。チューリップの花壇から漂う、かすかに甘い匂い。
小春は、二年生になった。
昇降口で靴を履き替える時、隣にいたのは見知らぬ顔だった。去年は自分が「新入生」だったのに、今年はもう「先輩」になる。
不思議な気持ちだった。
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「おはよう」
温室に入ると、柚葉がいた。窓を開けて、空気を入れ替えている。冬の間は温度管理のために閉めきっていた窓。四月になって、やっと風を通せるようになった。開いた窓から入ってくる風は、まだ少しひんやりしていた。
「おはようございます」
「今日から新学期だね」
柚葉が目を細めた。エプロンをして、ジョウロを持っている。いつもの柚葉だ。
でも、胸のリボンの色が変わっていた。二年生の青から、三年生のえんじ色に。
「柚葉先輩、リボン、変わりましたね」
「うん。こんな色なんだ、三年生」
柚葉は、えんじ色のリボンに視線を落とした。
「最後の一年だな」
小春は、その言葉を繰り返さなかった。言葉にすると、本当になってしまいそうだったから。
柚葉は、窓の向こうのチューリップを見ていた。
「でも、まだ一年あるよ」
その声は、自分に言い聞かせるようでもあった。
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## 二・ポスター
五人が揃った。柚葉がお茶を淹れて、みんなでベンチに座る。いつもの放課後の光景。
でも、テーブルの上にはいつもと違うものが載っていた。新入部員勧誘のチラシの束。
「去年は、小春ちゃんと真白ちゃんが来てくれたよね」
柚葉が言った。
「もう一年前なんですね」
小春は、去年の四月を思い出した。入学式の日、花壇の前で立ち止まって、柚葉先輩に声をかけられた。温室に行って、凛先輩と詩先輩に会って。あの日から一年。
「今年も、花が好きな子が来てくれるといいな」
「ポスター、作りましょうか」
小春が提案した。
「いいね。小春ちゃん、絵が上手だから」
「任せてください」
小春は、張り切った。
「真白も手伝って」
「……わかった」
真白は素っ気なく答えた。でもすぐにノートを開いて、全体の構図を引き始めた。花の配置、文字の大きさ、余白のバランス——小春がイラストを描き始める前に、もう全体のレイアウトが出来上がっている。
「園芸部、部員募集中! 花が好きな人、大歓迎!」
カラフルな花のイラストと、バランスのいい文字配置。
「いいじゃん」
凛が言った。
「かわいい」
柚葉が微笑んだ。
「去年のあたしたちのポスターより、全然いいよ」
「凛先輩たちのポスターも見てみたかったです」
「やめて。あれは見せられない」
凛が笑った。
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## 三・遥
新入生歓迎会の日。温室の前にポスターを貼った。
朝の日差しが、温室のガラスをきらきらと光らせている。どこかでうぐいすが鳴いていた。
「緊張する」
小春が言った。
「何が」
真白が聞いた。
「先輩として新入生を迎えるのが。去年は迎えられる側だったから」
「……まあ、そうだね」
「真白は緊張しない?」
「……別に」
真白は、温室の中の花に水をやりながら答えた。でも、水やりの手が、いつもよりほんの少しだけ丁寧に見えた。
午後になって、何人かの新入生が温室を覗きに来た。
「ここ、園芸部ですか?」
「はい。見学、どうぞ」
小春が案内した。去年、柚葉先輩がしてくれたように。
「温室、きれいですね」
「でしょ。この時期は、パンジーとかビオラが咲いてるんです」
小春は、花の名前を教えながら温室の中を歩いた。一年前は、自分が教えてもらう側だった。柚葉先輩に花の名前を聞いて、「へえ」と目を輝かせていた。
今は、自分が教える側にいる。
何人かの新入生は「また来ます」と言って帰っていった。入部するかどうかはわからない。でも、温室を見てくれただけで嬉しかった。
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夕方近くになって、もう見学者は来ないかなと思った頃。
「すみません」
温室の入り口に、二人の女の子が立っていた。
一人は背が高くて、ポニーテールの活発そうな女の子。もう一人は、その後ろに隠れるように立っている、小柄な女の子。
小春は、ポニーテールの方に見覚えがあった。
「あ、夏希さん!」
「え、覚えてるの?」
「去年の文化祭で、フラワーアレンジメント体験に来てくれましたよね」
「そうそう! よく覚えてたね」
夏希が、にっこり笑った。バレー部のキャプテン。背が高くて、声が大きくて、すれ違うだけで元気をもらえるような人。
「今日は、妹を連れてきたの」
「妹さん?」
夏希の後ろから、小柄な女の子がそっと顔を出した。黒髪のショートカット。夏希と同じ目の形をしているけれど、雰囲気はまるで違う。夏希が太陽だとしたら、この子は——日向にそっと咲く、小さな花のようだった。
「妹の、遥。今年入学したの」
「はじめまして。日向遥です」
遥の声は、小さかった。でも、はっきりしていた。
「はじめまして。二年生の、藤宮小春です」
「遥、園芸部に興味あるんだって」
夏希が言った。遥の肩をそっと押すように。
「本当ですか?」
遥は、少し恥ずかしそうに頷いた。
「姉から、園芸部のこと聞いて。温室がきれいだって」
「見学していきますか?」
「……いいですか?」
「もちろん」
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## 四・カスミソウ
小春は、遥を温室の中に案内した。
夏希は「私はバレー部の練習あるから、後で迎えに来るね」と言って去っていった。
温室の奥で、柚葉と凛と詩がいた。真白は、棚の隅で鉢の植え替えをしている。
「柚葉先輩、見学の方です」
「いらっしゃい」
柚葉がにこりと笑った。遥の表情が、少しだけ緩んだ。
「一年生?」
「はい。日向遥です」
「園芸部の部長、七瀬柚葉です。よろしくね」
「こっちが、凛先輩と、詩先輩」
「副部長の朝比奈凛。よろしく」
「白石詩です。よろしくね」
「よろしくお願いします」
遥は、丁寧にお辞儀をした。
「温室、見てみる? 小春ちゃん、案内してあげて」
柚葉が言った。
「はい」
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小春は、遥と一緒に温室の中を歩いた。
「ここは、パンジーとビオラのコーナーです。秋に種をまいて、冬を越して、今が一番きれいな時期なんです」
「きれい……」
遥は、パンジーの花に目を近づけた。
「この色、フリズルシズルっていう品種ですよね。花びらがフリルみたいに波打ってて」
「え、知ってるんですか?」
「図鑑で見たことがあって」
遥の声が、少し弾んだ。さっきまでの控えめな様子とは、少し違う。花の前だと、別人みたいだ。
「遥さん、花に詳しいんですね」
「そんなことないです。本で読んだだけで、実際に育てたことはあんまりなくて」
「育てるのと読むのは違うよね。でも、知識があるのはすごいと思う」
「……ありがとうございます」
遥が、少し嬉しそうに笑った。小さな笑顔だった。でも、確かに、笑っていた。
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温室の奥に進むと、真白がまだ同じ作業を続けていた。
土を入れ替え、根をほぐし、新しい鉢に移す。根を傷つけないように、指先でそっと土をほぐしている。春の土は冬より柔らかくて、少し湿り気を含んでいた。
「月島真白です。二年生」
真白が、手を止めずに言った。
「日向遥です。よろしくお願いします」
「……よろしく」
真白は、ちらりと遥を見て、また鉢に視線を戻した。
遥は、真白の手元を見ていた。
「……上手ですね」
「何が」
「植え替え。根を崩さないように、丁寧にやってるのが」
真白の手が、一瞬止まった。
「……普通にやってるだけ」
「でも、植物に慣れてる感じがします」
真白は、何も言わなかった。遥の視線から逃げるように、鉢に向き直った。
小春は、その様子を少し離れたところから見ていた。真白の耳が、ほんの少しだけ赤い。
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「花は何が好き?」
小春が、遥に聞いた。
「スミレが好きです」
「スミレ、かわいいよね」
「小さくて、目立たないところに咲くでしょう。でも、よく見るとすごく繊細で、きれいで」
遥の目が、きらりと光った。
「見つけた時、嬉しくなるんです。あ、ここにいたんだって」
小春は、その言葉がなんだか好きだなと思った。目立たないところに咲く花を、ちゃんと見つけられる子。
「真白もね、控えめな花が好きなんだよ」
「え?」
真白が顔を上げた。
「カスミソウが好きなの。主役じゃないけど、いるだけで周りが引き立つ花」
「……別に。聞かれてないし」
真白は、ぶっきらぼうに言った。
遥は、真白を見た。
銀色の髪。少しだけ伏せた目。ぶっきらぼうな言葉の裏に、照れが見える。さっき植え替えをしていた手の、あの丁寧さと、今の素っ気なさ。
「カスミソウ、好きです」
遥が言った。
「え?」
今度は真白が、遥を見た。
「花束に入ってると、全体が柔らかくなりますよね。カスミソウがあるのとないのとで、全然違う」
「……わかるんだ」
真白の声が、少しだけ柔らかくなった。ほんの少しだけ。
遥は、真白のその変化に気づいた。
——笑ってはいない。でも、さっきより、少しだけ距離が近くなった気がする。
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## 五・六人目
「遥ちゃん、入部してくれる?」
柚葉が聞いた。
「いいんですか?」
遥は、目を大きくした。
「もちろん。大歓迎だよ」
遥の表情が、ぱあっと明るくなった。
「入ります。よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくね」
柚葉が手を差し出して、遥がその手を握った。
「六人になったね」
詩が言った。
「去年は三人から始まって、五人になった。今年は六人」
「賑やかになるね」
凛が言った。
「嬉しいな」
小春が言った。本心だった。自分たちが入った時も、こうやって迎えてもらった。今度は、自分たちが迎える番だ。
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六人で、温室のベンチに座った。
柚葉がお茶を淹れた。六人分のカップが並ぶと、テーブルが少し狭い。
遥は、カップを両手で包むように持って、ひと口飲んだ。ほっとしたように、肩の力が少しだけ抜けたのが見えた。
小春もお茶を口に含んだ。いつもと同じ味なのに、六人で飲むと、なんだか少しだけ美味しい。
温室を見回す。ガラスの向こうに夕日が見える。オレンジ色の光が、花たちの上に降り注いでいる。
「すごい……」
「でしょ」
小春が言った。
「夕方の温室は、特にきれい」
「毎日、こんな景色が見れるんですか」
「うん。毎日、ちょっとずつ違うけどね」
遥は、しばらく黙って温室を見ていた。花の色と、夕日の色と、ガラスの光。
「……入部してよかった」
遥が、小さな声で言った。
「まだ初日なのに?」
凛がからかうように言った。
「でも、もう、わかります。ここ、いい場所だなって」
その言葉に、小春は胸の奥がじんわりと温かくなった。
——わたしも、同じこと思ったな。
一年前の四月。初めて温室に入った日。ガラスの向こうの光と、花の匂いと、先輩たちの笑顔。ここは特別な場所だって、すぐにわかった。
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「遥ちゃん、姉の夏希さんにお礼言っておいてね」
柚葉が言った。
「はい。姉も、園芸部のこと、よく話してたんです。文化祭の時、すごく楽しかったって」
「夏希さん、元気だよね」
凛が言った。
「姉は、大変なことが好きなんです」
遥は、少し困ったように笑った。
「全然違うタイプなので」
「そう?」
「姉は、大きな声で走り回るのが好きで。私は、静かなところで花を見てるのが好きで」
「じゃあ、ここはぴったりだね」
柚葉が微笑んだ。
「あ、でも」
遥が付け足した。
「姉のこと、尊敬してます。似てないけど」
その声に、照れと誇りが混じっていた。
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お茶を飲みながら、花の話になった。
遥は、最初は聞き役だったが、花の話になると、少しずつ自分から話し始めた。
「ビオラって、品種改良がすごく進んでるんですよね。最近は、フリル咲きとか、アンティークカラーとか」
「詳しいね」
柚葉が感心した。
「図鑑を読むのが好きで」
「詩と似てるかも。詩も、本が好きだよね」
「私は、花の図鑑は詳しくないけどね」
詩が言った。
「でも、名前を知ると、花の見え方が変わるのは同じかも」
遥は、詩の言葉に目を輝かせた。
「そうなんです。名前を知ると、なんか、親しくなった気がして」
「わかる」
詩が頷いた。
「言葉って、そういう力があるよね」
遥は、詩のその言葉を、大切そうに受け取った。
小春は、詩の横顔を見た。花の名前に宿る力。言葉で世界の見え方が変わること。それを自然に言える詩先輩が、やっぱり好きだと思った。
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夕方。夏希が迎えに来た。
「遥、楽しかった?」
「うん。入部した」
「おっ、よかったじゃん」
夏希が、遥の肩をぽんと叩いた。
「よろしくお願いします。妹を、お願いしますね」
夏希が、みんなに頭を下げた。
「任せてください」
小春が答えた。
夏希と遥が帰っていく。大きくて元気な背中と、小さくて静かな背中。でも、二人の歩幅は同じだった。
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## 六・帰り道
片付けをしながら、柚葉が言った。
「いい子が来てくれたね」
「花の知識がすごかったね」
凛が言った。
「図鑑を読むのが好きっていうの、真白に通じるものがある」
「……なんで私」
真白が、水道で手を洗いながら言った。
「真白も最初、花の名前よく知ってたでしょ。小春に教えてあげてたし」
「……覚えてない」
「あたしは覚えてるよ」
凛が笑った。
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帰り道。
小春と真白は、並んで歩いていた。
桜並木の下。朝は満開だった桜が、夕方になって、花びらをたくさん落としていた。歩くたびに、花びらが靴の下でかさりと鳴る。
「先輩になっちゃったね」
小春が言った。
「……うん」
「遥ちゃんを案内してる時、ちょっとドキドキした。ちゃんと教えられてるかなって」
「……柚葉先輩みたいだった」
小春は、驚いて真白を見た。
「柚葉先輩みたい?」
「花の名前教えてる時。……ちょっとだけ」
小春にとって、それは最高の褒め言葉だった。あの温かい先輩のように、自分も誰かを迎えられたのだとしたら。
「ありがとう、真白」
「……別に」
桜の花びらが、二人の間を通り抜けていった。
「真白も変わったよ」
「……どこが」
「去年の真白は、新入生に自分から名前言ったりしなかったと思う」
真白は、少しだけ歩く速度を落とした。
「……言ったかな」
「言った。手を止めずに、だけど」
「……まあ。先輩、だから」
「うん。先輩だね、わたしたち」
桜並木を抜けると、夕焼けが見えた。空がオレンジ色に染まっている。
新しい一年が、始まった。
後輩ができて、先輩になって。柚葉先輩たちは、最後の一年に入った。
変わるものと、変わらないもの。温室は、変わらずそこにある。花を育て、人を迎え、季節を映す場所。
でも、その中にいる人たちは、少しずつ変わっていく。
小春は、夕焼けの中を歩きながら、それが少しだけ嬉しかった。
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柚葉の園芸ノート 4月8日(月)晴れ
新学期。三年生になった。
リボンがえんじ色になって、まだ慣れない。
今日から温室の窓を開けた。
冬の間ずっと閉めきっていたから、風が入ってきた時、花たちが揺れた。嬉しそうに見えた。
新入部員が来てくれた。日向遥ちゃん。一年生。
バレー部の夏希さんの妹で、姉とは全然タイプが違う。
静かで、控えめで、でも花のことをたくさん知ってる子。
花壇計画: チューリップの花がら摘み、パンジー・ビオラの追肥、マリーゴールドとジニアの種まき準備。
スイートピーのつるが伸びてきた。そろそろ支柱を足さないと。
六人になった。テーブルが少し狭くなった。
でも、狭いくらいがちょうどいい。




