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陽だまりの庭  作者: はるうた
第一部 花咲く季節

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12/26

第12章 春を待つ

霜に触れたら

冷たい水になった


固いものが溶けるのは

いつも静かだ


昨日と同じ朝なのに

光だけが少し違う


---


## 一・二月の光


二月。


朝、カーテンを開けると、窓ガラスに薄い霜がついていた。指先で触れると、冷たい水滴になって流れ落ちる。


でも、日差しは少しだけ変わり始めていた。十二月の頃より、ほんの少し——光に力がある。窓の結露が、朝日に透けて虹色に光った。


バレンタインデーが、一週間後に迫っていた。


---


放課後。温室。


二月の温室は、暖房が低くうなっている。ガラスの壁には、外との温度差で薄く結露がついていた。午後の日差しが斜めに差し込んで、テーブルの上に光の四角を作っている。


窓際のシクラメンが、赤と白の花を揺らしていた。十二月から咲き続けて、花びらの端がほんの少しだけ薄くなっている。でも、まだ咲いている。冬の花は、静かに長い。


「バレンタイン、何作ろうかな」


小春は、温室で呟いた。テーブルの上には、柚葉が淹れた紅茶と、凛が持ってきたスコーン。焼きたてで、バターの匂いが温室に広がっている。スコーンの上に、ローズマリーの小さな葉が一枚載っていた。


「チョコ作るの?」


凛が、スコーンを割りながら聞いた。グレーのマフラーが、椅子の背にかけてある。十二月に柚葉からもらったマフラー。二月になっても、凛は毎日それを巻いて登校してくる。


「はい。みんなに、友チョコを」


「いいじゃん。あたしも作ろうかな」


「凛先輩なら、きっとおいしいの作れますね」


「当たり前でしょ」


凛は、腕を組んで笑った。でも一瞬だけ、視線がテーブルの向こう——柚葉の手元に行って、戻った。


「そういえば、バレンタインって、詩の誕生日だよね」


柚葉が、紅茶のカップを両手で包みながら言った。


小春の胸が、きゅっとなった。


——知ってた。知ってたけど、改めて言われると。


「そうだね。もう十七か」


凛が言った。


「じゃあ、バレンタインのチョコ交換のついでに、詩先輩のお祝いもしましょうよ」


小春が、少し前のめりになって言った。声が、ほんの半音高い。


「賛成。でも、詩は大げさなの好きじゃないから」


柚葉が、困ったように笑う。


「ケーキくらいは、あっていいんじゃない?」


凛が言った。


「あたしが焼くよ。チョコレートケーキ」


「凛先輩のケーキ、詩先輩きっと喜びます」


「まあね」


凛は、さりげなく答えた。でも、もう頭の中ではレシピを考え始めているのが、表情でわかった。


詩は、紅茶のカップに視線を落として、微笑んでいた。


「毎年、この日だけは落ち着かないんだよね」


「え、嬉しくないんですか?」


小春が聞いた。


「嬉しいよ。ただ、去年の誕生日は三人だったでしょう。今年は五人。……なんだか、不思議な気持ちになるの」


詩が、窓の外を見た。二月の空は高くて、薄い。


「一年前には想像もしなかった景色の中にいるなって」


それだけ言って、詩はまた紅茶を一口飲んだ。


静かな人だと思う。でも、静かだからこそ、言葉のひとつひとつが、温かい。


---


## 二・紫のリボン


その日の帰り道、小春は駅前の製菓材料の店に寄った。


製菓用チョコレート。ラッピング用の透明な袋。リボン。それから、小さなハート型のシリコンモールド。


材料はすぐに決まった。迷ったのは、リボンだった。


みんなの分は、ピンクでいい。でも、詩先輩の分は——。


棚に並んだリボンの巻きを、端から見ていく。赤、ピンク、白、水色、黄色。


——あ。


淡い紫のリボンが、目に止まった。


紫陽花の色。詩先輩が好きな花の色。


気づいてくれるかな。気づかなくてもいい。でも、気づいてくれたら——。


小春は、淡い紫のリボンをかごに入れた。レジに向かう足が、少しだけ速くなった。


---


土曜日の午後。


小春は、家のキッチンに立っていた。エプロンをつけて、テーブルの上に材料を並べる。


ボウルにチョコレートを割り入れる。パキ、パキ、と乾いた音がキッチンに響く。お湯を張った鍋の上にボウルを置くと、チョコレートがゆっくり溶け始めた。


甘い匂いが、ふわりと立ち上る。


ヘラでゆっくり混ぜた。とろとろになったチョコレートが、つやつやと光っている。


型に流し込む。小さなハート型が五つ——みんなの分。


それから、少し大きなハート型に、もう一つ。


——これが、詩先輩の。


手が、少しだけ震えた。チョコレートが型の縁から少しはみ出て、慌ててヘラで拭う。


「……緊張してどうするの、友チョコなのに」


友チョコ。そう、友チョコ。同じチョコレート。違うのは大きさと、リボンの色だけ。


冷蔵庫に入れて、扉を閉めた。


次に、カードを書く。


白い紙に、色ペンで、一文字ずつ。


「詩先輩、お誕生日おめでとうございます」


——「おめでとう」の「め」が、少しだけ右に傾いた。


もう一枚書き直そうかと思った。でも、やめた。完璧じゃなくていい。気持ちが伝わればいい。


カードを裏返して、小さく書き足した。


「いつも、ありがとうございます」


それだけ。でも、書き終わった時、心臓が少しだけ速く打っていた。


キッチンの窓の外は、二月の空。高くて、淡い。冬の終わりの色をしていた。


---


## 三・花のかたち


同じ週末。


凛のキッチンには、バターと砂糖の甘い匂いが漂っていた。


テーブルの上に、すでに完成したトリュフチョコが並んでいる。丸い形にココアパウダーをまぶして、小さな紙カップに一つずつ。みんなへの友チョコは、朝のうちに作り終えた。


椅子の背に、グレーのマフラーがかかっている。


凛は、別の材料に手を伸ばした。


バター、小麦粉、砂糖。いちごパウダー。それから、花の形のクッキー型。


——柚葉にだけは、別のものを用意したかった。


バターを練る。腕に力を込めて、ヘラでぐるぐると回す。いちごパウダーを振り入れると、生地がほんのりピンク色に染まった。


冷蔵庫で寝かせて、伸ばして、花の形に抜く。一枚一枚、丁寧に。天板に並べていく。


オーブンに入れた。キッチンに、焼ける匂いが広がる。


待っている間、凛は椅子に座って、マフラーの端を指で撫でた。


もう二ヶ月。不揃いな編み目の、どの凹凸も指が覚えている。


十二月のあの夜、「凛に、暖かくしてほしくて」と差し出してくれた手。照れくさそうに笑った顔。


凛は、毎朝このマフラーを巻いて家を出る。首元にあの柔らかさを感じるたび——。


タイマーが鳴った。


凛は立ち上がり、オーブンを開けた。ほんのりピンクのクッキーが、きれいに焼き上がっている。


粗熱が取れたら、アイシングだ。


ピンクの色素を混ぜた砂糖衣を、細い口金のついた袋に入れる。一枚一枚、花びらの模様を描いていく。細い線を、一本一本。


八枚目で、線がよれた。花びらの先が、少しだけ太くなった。


「……」


柚葉なら、これを見て「かわいい」と笑うだろうか。


——笑ってくれるだろう。たぶん。


凛は、その一枚を箱の真ん中に置いた。


薄いピンクのリボンを巻く。赤は目立ちすぎる。白はよそよそしい。ピンク。うん、これでいい。


リボンを結びながら、凛の指が、一瞬止まった。


マフラーの「お礼」。柚葉には、そう言うつもりだ。


でも——。


凛は、椅子のマフラーをちらりと見た。


それから、箱の蓋を閉じた。


---


## 四・二月十四日


バレンタイン当日。二月十四日。


朝から、空気が冷たかった。登校する時、吐く息が白い。でも、鞄の中のチョコレートを意識するたび、体の芯は温かかった。


小春は、教室に着くなり、真白に声をかけた。


「真白、はい」


ラッピングした友チョコを差し出す。ピンクのリボン。


「……ありがと」


真白は、包みを受け取った。リボンの結び目を、指先で軽く触れている。


「手作りなの。チョコ、溶かして型に入れただけだけど」


「十分だよ。ありがとう」


真白は、小さく微笑んだ。クールな普段とは違う、少し柔らかい顔。


「真白は、誰かにあげるの?」


「……小春と、先輩たちに」


真白が、鞄から包みを取り出した。白い紙に、銀色のリボン。シンプルだけど、角が丁寧に折られている。リボンの結び目が、きちんと左右対称になっていた。時間をかけたのだとわかる。


「きれいだね、ラッピング」


「……普通」


真白は、窓の方を向いた。二月の朝日が、教室の窓から差し込んでいる。


---


放課後。温室。


凛が、ケーキの箱を抱えて温室に入ってきた。


「ケーキ、持ってきた」


「わあ」


柚葉がテーブルを片づけた。


箱を開けると、チョコレートケーキが現れた。つやつやのガナッシュがかかって、上に粉砂糖がかすかに散っている。


「凛、きれい……」


詩が、目を丸くした。


「バレンタインと誕生日、兼用ね」


凛が、ろうそくを一本だけ立てた。


「一本?」


「十七本立てたら穴だらけになるでしょ」


柚葉がマッチを擦った。小さな炎が、ろうそくの先に灯る。温室の中で、炎がゆっくり揺れた。ガラスの壁に、小さな光の粒が映っている。


「お誕生日おめでとう、詩」


「おめでとうございます」


声が重なった。


詩は、ろうそくの炎を見つめていた。光が、詩の睫毛の影をかすかに揺らしている。


ふっと、息を吹いた。炎が消えて、煙が一筋、天井に昇っていく。


温室の明かりが戻った。


「ありがとう」


詩が、静かに言った。


ケーキを切り分ける。チョコレートの甘い匂いが、紅茶の湯気と混じった。


「おいしい。スポンジがふわふわ」


詩が一口食べて、微笑んだ。


「まあね」


凛は何でもないように答えた。でも、口元がかすかに緩んでいる。


---


ケーキを食べながら、チョコの交換が始まった。


小春と真白が、先輩たちに友チョコを渡す。


「柚葉先輩、凛先輩、詩先輩。これ、友チョコです」


「ありがとう、小春ちゃん」


柚葉が、包みを受け取ってにっこり笑った。


真白も、先輩たちにチョコを渡した。


「真白ちゃんも、ありがとう」


柚葉が、真白の包みを受け取った。銀色のリボンに、指が触れる。


真白は、その手を見ていた。


十二月は、目を逸らした。今日は、逸らさなかった。


柚葉が、笑った。いつもの、まっすぐな笑顔。


真白は、小さく笑い返した。


---


小春は、詩のそばに行った。


詩は、テーブルの隅でケーキの最後の一口を食べ終えたところだった。窓から差し込む冬の午後の光が、詩の長い髪にかかっている。


「詩先輩」


「なに?」


「これ……友チョコと、お誕生日のプレゼント、です」


小春は、チョコを差し出した。他の人へのチョコより、一回り大きいハート型。そして、リボンの色が違う。みんなの分はピンクだけど、詩先輩の分だけ——淡い紫。


それから、小さなバースデーカードを添えて。


詩が、包みを受け取った。


指先で、リボンをそっと撫でた。


「……紫なんだね」


少しだけ、長い間。詩の目が、リボンの上で止まっている。


「あ、はい。なんとなく……詩先輩に似合うかなって」


——紫陽花の色だって、気づいてくれたかな。


詩が、顔を上げた。小春の目を、まっすぐ見た。


「……きれいな色。ありがとう、小春ちゃん」


その声は、いつもの詩の声だった。穏やかで、静かで。


でも、「ありがとう」の「あ」の音が、ほんの少しだけ——柔らかかった気がした。


「あ、カードも入ってるんですけど……字がちょっと傾いてて」


声が、少し上ずった。


「大事に読むね」


詩が微笑んだ。


小春の心臓が、どきどきした。


——気持ち、伝わるかな。


友チョコとして渡した。リボンの色を変えて、カードを添えて。それだけ。


でも、「それだけ」の中に、全部入っている。


---


凛が、みんなにトリュフチョコを配った。


「はい、友チョコ」


丸い形に、ココアパウダーがまぶしてある。小さな紙カップに一つずつ、きれいに並んでいる。


食べると、口の中でチョコレートがとろりと溶けた。ほろ苦くて、甘い。


「凛先輩、お店みたい」


小春が目を丸くした。


「このくらいは朝飯前」


全員に配り終えたあと、凛はもう一つ、別の包みを取り出した。


薄いピンクのリボンが巻かれた、小さな紙箱。


「柚葉」


「なに?」


「これ。……マフラーのお礼。遅くなったけど」


凛の声が、ほんの少しだけ低くなった。


柚葉が、不思議そうに包みを受け取る。リボンをほどいて、蓋を開けた。


中には、花の形のクッキー。ピンクのアイシングで、一枚一枚、花びらの模様が描いてある。一枚だけ、花びらの線が少し太い。


「わあ……きれい」


柚葉が、箱の中を覗き込んだ。目がきらきらしている。


「いちご味。柚葉の好きな」


「覚えてくれてたの?」


「そりゃ、覚えてるよ。……柚葉のことは、だいたい覚えてる」


言ってから、凛は自分の言葉に気づいたみたいに、さっと目を逸らした。


「あ、いや。部長だから。部長のこと把握しとくのは副部長の仕事でしょ」


耳が、わずかに赤くなっていた。


「ふふ、ありがとう、凛」


柚葉が、クッキーを一枚つまんだ。花の形をじっと見てから、口に入れる。


「おいしい。すごくおいしい」


「……よかった」


凛は、テーブルの下で自分の膝をぎゅっと握っていた。


柚葉が二枚目に手を伸ばすのを、横目で見た。おいしそうに食べている。


それだけで、朝からの緊張が、ふっとほどけた。


---


温室の中は、チョコレートの甘い匂いと、紅茶の湯気と、クッキーのバターの香りが混じっていた。冬の午後の光が、ガラスの壁を通して柔らかく差し込んでいる。


詩は、紅茶のカップを手に、みんなの様子をそっと見回していた。


凛が、柚葉のクッキーの感想に照れている。小春が、トリュフの味を嬉しそうに報告している。真白が、静かにチョコを一つずつ味わっている。


去年の二月十四日。あの時は、柚葉と凛だけが一緒にいた。三人で、温室にケーキを持ち込んで。


今は——五人。


テーブルの上に散らばったリボンや包み紙が、五色に混じっている。


詩は、自分の手の中の包みを見た。淡い紫のリボン。小春ちゃんが選んでくれた色。


——紫陽花の色だ。


詩は、それに気づいていた。気づいていて、言わなかった。


言葉にしてしまうと、小春ちゃんが困るかもしれない。だから、「きれいな色」とだけ答えた。


でも——嬉しかった。自分の好きな花を、覚えていてくれたこと。リボン一本の色を選ぶのに、きっと迷ってくれたこと。


詩は、紫のリボンを指先でそっと撫でた。


笑い声が、温室の中でいつまでも響いていた。


---


## 五・帰り道


二月の夕方は、まだ早く暗くなる。でも、十二月の頃よりは、ほんの少しだけ日が長くなっていた。空の西の端に、オレンジ色がまだ残っている。


小春と真白は、並んで歩いていた。吐く息が白い。


「真白」


「なに」


「わたし、詩先輩のチョコだけ、リボンの色変えたんだ」


「知ってる。紫だったでしょ」


「見てたの」


「見なくてもわかるよ。小春、詩先輩に渡す時だけ声が上ずってたし」


「……そんなにわかりやすかった?」


「小春はいつもわかりやすいよ」


小春は、頬を膨らませた。


しばらく、靴音だけが響いた。街路樹の影が、歩道に長く伸びている。


「……本当は、好きって言いたかった」


「うん」


「でも、まだ言えない。困らせちゃったらって思うと」


真白は、何も言わなかった。


二人の足音が、夕暮れの道に重なる。


「焦んなくていいよ」


真白が、前を向いたまま言った。


「リボンの色、変えたんでしょ。カードも書いたんでしょ。それだけで、十分だと思う」


「……うん」


「詩先輩、リボンのこと、ちゃんと見てたし」


小春は、真白の横顔を見た。


マフラーに鼻先を埋めて、白い息を吐いている。十二月の帰り道よりも、その横顔は穏やかだった。


「真白は、大丈夫?」


「何が」


「柚葉先輩のこと」


真白は、少しだけ間を置いた。


「……うん」


それだけだった。


十二月なら、もっと言葉を探しただろう。「大丈夫」と言いながら、どこか痛そうな顔をしただろう。


でも今日の真白の「うん」は——本当に「うん」だった。


「今日ね、チョコ渡した時、柚葉先輩が笑ってくれた」


「うん」


「それで、よかったなって」


真白は、空を見上げた。二月の空に、星がひとつ、瞬き始めている。


「小春は、詩先輩に伝えなよ。いつか」


「うん。いつか、必ず」


「楽しみにしてる」


真白は、小さく笑った。


星が、もうひとつ見えた。二月の夕空に、ぽつりぽつりと。


---


## 六・春を待つ


三月。


朝の空気が変わった。


まだ冷たい。でも、十二月の刺すような冷たさとは違う。どこかに、湿った土の匂いが混じっている。春が近づいている時の、独特の匂い。


温室の暖房の音が、前より静かになった。午後の日差しだけで、窓を閉めていれば少し暖かい。ガラスの結露も、二月の半分くらいになった。


「見て。チューリップの芽が出てるよ」


柚葉が、花壇のわらの隙間から顔を出した小さな緑の芽を指さした。


小春が、しゃがみ込んで覗き込む。淡い緑の、小さな三角形。土を押し上げて、ほんの少しだけ頭を出している。


「秋に植えた球根だよ。冬の間、ずっと土の中にいたの」


「マルチングが守ってくれてたんですね」


——大事なものは、見えないところで守る。


十二月に柚葉が言っていた言葉を、小春は思い出した。冬の間ずっと見えなかったものが、今、土を押し上げて出てきた。


「梅も咲き始めてるよ」


詩が、温室の窓越しに校庭の方を見た。遠くに、白い花がまばらに咲いている。枝の先にぽつりぽつりと開いた白い花びらが、三月の空に溶けそうに見えた。


凛が、花壇の方を見て呟いた。


「春だな」


三月になっても、グレーのマフラーを首に巻いている。もう寒さのためだけじゃないのだろう。


柚葉が、棚から園芸ノートを取り出した。チューリップの芽のことを書き留めている。ペンの先が、「マルチングの下から」と書いた。


---


放課後。五人で、温室のテーブルを囲んだ。


いつもの席。いつもの紅茶。柚葉が淹れて、真白が配る。——相変わらず、少し薄い。窓の外には、チューリップの芽がのぞく花壇が見えた。


「一年、早かったね」


凛が、頬杖をつきながら言った。


「去年の今頃は、新入部員が入ってくれるかなって話してたんだよね」


柚葉が、懐かしそうに言った。


「小春ちゃんと真白ちゃんが来てくれて、本当によかった」


「入ってよかった」


小春が言った。


一年前。温室に初めて入った時のことを覚えている。ガラスの壁を通して差し込む光。土と花と、温かい空気の匂い。柚葉先輩の笑顔。凛先輩のさっぱりした声。詩先輩の穏やかな眼差し。


——あの時のわたしは、花の名前もろくに知らなかった。


今は、少しだけ知っている。マリーゴールドの種の蒔き方。ひまわりの種取り。紫陽花の剪定の時期。マルチングの意味。


それから——人を好きになるということ。


「来年は、新しい子が入ってくるかもしれないね」


「今度は小春ちゃんが案内する番だよ」


詩が言った。


「わたしが、ですか?」


「もう先輩だもんね」


小春は、その言葉を噛みしめた。先輩。自分が、先輩になる。


「小春なら、温室の中を走り回りながら案内しそう」


真白が、紅茶を飲みながら呟いた。


「そんなことしないよ!」


「するよ」


「しないって」


凛が、ふっと笑った。


「あたしは来年、受験だな」


「凛は大学で製菓を勉強するんだっけ?」


柚葉が聞いた。


「うん。パティシエになる」


「凛なら絶対受かるよ」


「当たり前でしょ。……柚葉は?」


「私は、農学部を考えてるの。おばあちゃんの庭を、ちゃんと勉強して守りたくて」


柚葉が、窓の外の花壇を見た。


「詩は?」


「文学部。……書くことを、もう少し学びたい」


詩が言った。


三年生の三人が、それぞれの場所へ行く。来年の三月には、卒業。


小春は、先輩たちの顔を順番に見た。


——まだ一年ある。一年、一緒にいられる。


真白は、静かに紅茶を飲んでいた。


テーブルの上に、凛が持ってきたスコーンの皿がある。ローズマリーの葉が載った、いつものやつ。


一年前、初めてこの温室に入った時。柚葉の紅茶は薄くて、でも温かかった。凛のお菓子は完璧で、真白は「おいしい」と小さく言った。詩は窓際で本を読んでいた。


今も、そのどれもが変わらない。


——好き。


柚葉先輩が好き。


十二月の夜にぬいぐるみに囁いた言葉と、同じ。でも——錘ではなくなっていた。


根みたいだ、と思った。見えないところで伸びて、この場所に自分を繋ぎとめているもの。


真白は、紅茶を一口飲んだ。ちょうどいい温度だった。


---


温室の扉を開けると、三月の風が吹き込んだ。


冷たい。でも、十二月の風とは違う。風の中に、雪解けの匂いがする。何かが動き始めている気配。


「暖かくなってきたね」


柚葉が呟いた。


凛が、柚葉の隣に立った。首元のグレーの毛糸が、春の風にそっと揺れている。


詩が、温室の入り口で足を止めた。小春が、隣にいる。


「詩先輩」


「うん?」


「来年も、一緒に花、育てましょうね」


「もちろん」


詩が微笑んだ。小春も、笑った。


真白は、みんなの少し後ろに立って、その光景を見ていた。


夕日が、温室のガラスをオレンジ色に染めている。五人の影が、花壇の上に長く伸びていた。


花壇の隅で、チューリップの芽が、わらの隙間からそっと背を伸ばしている。


冬の間、見えないところで守られていたものが——今、目に見える形になろうとしていた。


新しい季節が、もうすぐ始まる。


陽だまりの庭で、花たちと一緒に。


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