第12章 春を待つ
霜に触れたら
冷たい水になった
固いものが溶けるのは
いつも静かだ
昨日と同じ朝なのに
光だけが少し違う
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## 一・二月の光
二月。
朝、カーテンを開けると、窓ガラスに薄い霜がついていた。指先で触れると、冷たい水滴になって流れ落ちる。
でも、日差しは少しだけ変わり始めていた。十二月の頃より、ほんの少し——光に力がある。窓の結露が、朝日に透けて虹色に光った。
バレンタインデーが、一週間後に迫っていた。
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放課後。温室。
二月の温室は、暖房が低くうなっている。ガラスの壁には、外との温度差で薄く結露がついていた。午後の日差しが斜めに差し込んで、テーブルの上に光の四角を作っている。
窓際のシクラメンが、赤と白の花を揺らしていた。十二月から咲き続けて、花びらの端がほんの少しだけ薄くなっている。でも、まだ咲いている。冬の花は、静かに長い。
「バレンタイン、何作ろうかな」
小春は、温室で呟いた。テーブルの上には、柚葉が淹れた紅茶と、凛が持ってきたスコーン。焼きたてで、バターの匂いが温室に広がっている。スコーンの上に、ローズマリーの小さな葉が一枚載っていた。
「チョコ作るの?」
凛が、スコーンを割りながら聞いた。グレーのマフラーが、椅子の背にかけてある。十二月に柚葉からもらったマフラー。二月になっても、凛は毎日それを巻いて登校してくる。
「はい。みんなに、友チョコを」
「いいじゃん。あたしも作ろうかな」
「凛先輩なら、きっとおいしいの作れますね」
「当たり前でしょ」
凛は、腕を組んで笑った。でも一瞬だけ、視線がテーブルの向こう——柚葉の手元に行って、戻った。
「そういえば、バレンタインって、詩の誕生日だよね」
柚葉が、紅茶のカップを両手で包みながら言った。
小春の胸が、きゅっとなった。
——知ってた。知ってたけど、改めて言われると。
「そうだね。もう十七か」
凛が言った。
「じゃあ、バレンタインのチョコ交換のついでに、詩先輩のお祝いもしましょうよ」
小春が、少し前のめりになって言った。声が、ほんの半音高い。
「賛成。でも、詩は大げさなの好きじゃないから」
柚葉が、困ったように笑う。
「ケーキくらいは、あっていいんじゃない?」
凛が言った。
「あたしが焼くよ。チョコレートケーキ」
「凛先輩のケーキ、詩先輩きっと喜びます」
「まあね」
凛は、さりげなく答えた。でも、もう頭の中ではレシピを考え始めているのが、表情でわかった。
詩は、紅茶のカップに視線を落として、微笑んでいた。
「毎年、この日だけは落ち着かないんだよね」
「え、嬉しくないんですか?」
小春が聞いた。
「嬉しいよ。ただ、去年の誕生日は三人だったでしょう。今年は五人。……なんだか、不思議な気持ちになるの」
詩が、窓の外を見た。二月の空は高くて、薄い。
「一年前には想像もしなかった景色の中にいるなって」
それだけ言って、詩はまた紅茶を一口飲んだ。
静かな人だと思う。でも、静かだからこそ、言葉のひとつひとつが、温かい。
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## 二・紫のリボン
その日の帰り道、小春は駅前の製菓材料の店に寄った。
製菓用チョコレート。ラッピング用の透明な袋。リボン。それから、小さなハート型のシリコンモールド。
材料はすぐに決まった。迷ったのは、リボンだった。
みんなの分は、ピンクでいい。でも、詩先輩の分は——。
棚に並んだリボンの巻きを、端から見ていく。赤、ピンク、白、水色、黄色。
——あ。
淡い紫のリボンが、目に止まった。
紫陽花の色。詩先輩が好きな花の色。
気づいてくれるかな。気づかなくてもいい。でも、気づいてくれたら——。
小春は、淡い紫のリボンをかごに入れた。レジに向かう足が、少しだけ速くなった。
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土曜日の午後。
小春は、家のキッチンに立っていた。エプロンをつけて、テーブルの上に材料を並べる。
ボウルにチョコレートを割り入れる。パキ、パキ、と乾いた音がキッチンに響く。お湯を張った鍋の上にボウルを置くと、チョコレートがゆっくり溶け始めた。
甘い匂いが、ふわりと立ち上る。
ヘラでゆっくり混ぜた。とろとろになったチョコレートが、つやつやと光っている。
型に流し込む。小さなハート型が五つ——みんなの分。
それから、少し大きなハート型に、もう一つ。
——これが、詩先輩の。
手が、少しだけ震えた。チョコレートが型の縁から少しはみ出て、慌ててヘラで拭う。
「……緊張してどうするの、友チョコなのに」
友チョコ。そう、友チョコ。同じチョコレート。違うのは大きさと、リボンの色だけ。
冷蔵庫に入れて、扉を閉めた。
次に、カードを書く。
白い紙に、色ペンで、一文字ずつ。
「詩先輩、お誕生日おめでとうございます」
——「おめでとう」の「め」が、少しだけ右に傾いた。
もう一枚書き直そうかと思った。でも、やめた。完璧じゃなくていい。気持ちが伝わればいい。
カードを裏返して、小さく書き足した。
「いつも、ありがとうございます」
それだけ。でも、書き終わった時、心臓が少しだけ速く打っていた。
キッチンの窓の外は、二月の空。高くて、淡い。冬の終わりの色をしていた。
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## 三・花のかたち
同じ週末。
凛のキッチンには、バターと砂糖の甘い匂いが漂っていた。
テーブルの上に、すでに完成したトリュフチョコが並んでいる。丸い形にココアパウダーをまぶして、小さな紙カップに一つずつ。みんなへの友チョコは、朝のうちに作り終えた。
椅子の背に、グレーのマフラーがかかっている。
凛は、別の材料に手を伸ばした。
バター、小麦粉、砂糖。いちごパウダー。それから、花の形のクッキー型。
——柚葉にだけは、別のものを用意したかった。
バターを練る。腕に力を込めて、ヘラでぐるぐると回す。いちごパウダーを振り入れると、生地がほんのりピンク色に染まった。
冷蔵庫で寝かせて、伸ばして、花の形に抜く。一枚一枚、丁寧に。天板に並べていく。
オーブンに入れた。キッチンに、焼ける匂いが広がる。
待っている間、凛は椅子に座って、マフラーの端を指で撫でた。
もう二ヶ月。不揃いな編み目の、どの凹凸も指が覚えている。
十二月のあの夜、「凛に、暖かくしてほしくて」と差し出してくれた手。照れくさそうに笑った顔。
凛は、毎朝このマフラーを巻いて家を出る。首元にあの柔らかさを感じるたび——。
タイマーが鳴った。
凛は立ち上がり、オーブンを開けた。ほんのりピンクのクッキーが、きれいに焼き上がっている。
粗熱が取れたら、アイシングだ。
ピンクの色素を混ぜた砂糖衣を、細い口金のついた袋に入れる。一枚一枚、花びらの模様を描いていく。細い線を、一本一本。
八枚目で、線がよれた。花びらの先が、少しだけ太くなった。
「……」
柚葉なら、これを見て「かわいい」と笑うだろうか。
——笑ってくれるだろう。たぶん。
凛は、その一枚を箱の真ん中に置いた。
薄いピンクのリボンを巻く。赤は目立ちすぎる。白はよそよそしい。ピンク。うん、これでいい。
リボンを結びながら、凛の指が、一瞬止まった。
マフラーの「お礼」。柚葉には、そう言うつもりだ。
でも——。
凛は、椅子のマフラーをちらりと見た。
それから、箱の蓋を閉じた。
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## 四・二月十四日
バレンタイン当日。二月十四日。
朝から、空気が冷たかった。登校する時、吐く息が白い。でも、鞄の中のチョコレートを意識するたび、体の芯は温かかった。
小春は、教室に着くなり、真白に声をかけた。
「真白、はい」
ラッピングした友チョコを差し出す。ピンクのリボン。
「……ありがと」
真白は、包みを受け取った。リボンの結び目を、指先で軽く触れている。
「手作りなの。チョコ、溶かして型に入れただけだけど」
「十分だよ。ありがとう」
真白は、小さく微笑んだ。クールな普段とは違う、少し柔らかい顔。
「真白は、誰かにあげるの?」
「……小春と、先輩たちに」
真白が、鞄から包みを取り出した。白い紙に、銀色のリボン。シンプルだけど、角が丁寧に折られている。リボンの結び目が、きちんと左右対称になっていた。時間をかけたのだとわかる。
「きれいだね、ラッピング」
「……普通」
真白は、窓の方を向いた。二月の朝日が、教室の窓から差し込んでいる。
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放課後。温室。
凛が、ケーキの箱を抱えて温室に入ってきた。
「ケーキ、持ってきた」
「わあ」
柚葉がテーブルを片づけた。
箱を開けると、チョコレートケーキが現れた。つやつやのガナッシュがかかって、上に粉砂糖がかすかに散っている。
「凛、きれい……」
詩が、目を丸くした。
「バレンタインと誕生日、兼用ね」
凛が、ろうそくを一本だけ立てた。
「一本?」
「十七本立てたら穴だらけになるでしょ」
柚葉がマッチを擦った。小さな炎が、ろうそくの先に灯る。温室の中で、炎がゆっくり揺れた。ガラスの壁に、小さな光の粒が映っている。
「お誕生日おめでとう、詩」
「おめでとうございます」
声が重なった。
詩は、ろうそくの炎を見つめていた。光が、詩の睫毛の影をかすかに揺らしている。
ふっと、息を吹いた。炎が消えて、煙が一筋、天井に昇っていく。
温室の明かりが戻った。
「ありがとう」
詩が、静かに言った。
ケーキを切り分ける。チョコレートの甘い匂いが、紅茶の湯気と混じった。
「おいしい。スポンジがふわふわ」
詩が一口食べて、微笑んだ。
「まあね」
凛は何でもないように答えた。でも、口元がかすかに緩んでいる。
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ケーキを食べながら、チョコの交換が始まった。
小春と真白が、先輩たちに友チョコを渡す。
「柚葉先輩、凛先輩、詩先輩。これ、友チョコです」
「ありがとう、小春ちゃん」
柚葉が、包みを受け取ってにっこり笑った。
真白も、先輩たちにチョコを渡した。
「真白ちゃんも、ありがとう」
柚葉が、真白の包みを受け取った。銀色のリボンに、指が触れる。
真白は、その手を見ていた。
十二月は、目を逸らした。今日は、逸らさなかった。
柚葉が、笑った。いつもの、まっすぐな笑顔。
真白は、小さく笑い返した。
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小春は、詩のそばに行った。
詩は、テーブルの隅でケーキの最後の一口を食べ終えたところだった。窓から差し込む冬の午後の光が、詩の長い髪にかかっている。
「詩先輩」
「なに?」
「これ……友チョコと、お誕生日のプレゼント、です」
小春は、チョコを差し出した。他の人へのチョコより、一回り大きいハート型。そして、リボンの色が違う。みんなの分はピンクだけど、詩先輩の分だけ——淡い紫。
それから、小さなバースデーカードを添えて。
詩が、包みを受け取った。
指先で、リボンをそっと撫でた。
「……紫なんだね」
少しだけ、長い間。詩の目が、リボンの上で止まっている。
「あ、はい。なんとなく……詩先輩に似合うかなって」
——紫陽花の色だって、気づいてくれたかな。
詩が、顔を上げた。小春の目を、まっすぐ見た。
「……きれいな色。ありがとう、小春ちゃん」
その声は、いつもの詩の声だった。穏やかで、静かで。
でも、「ありがとう」の「あ」の音が、ほんの少しだけ——柔らかかった気がした。
「あ、カードも入ってるんですけど……字がちょっと傾いてて」
声が、少し上ずった。
「大事に読むね」
詩が微笑んだ。
小春の心臓が、どきどきした。
——気持ち、伝わるかな。
友チョコとして渡した。リボンの色を変えて、カードを添えて。それだけ。
でも、「それだけ」の中に、全部入っている。
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凛が、みんなにトリュフチョコを配った。
「はい、友チョコ」
丸い形に、ココアパウダーがまぶしてある。小さな紙カップに一つずつ、きれいに並んでいる。
食べると、口の中でチョコレートがとろりと溶けた。ほろ苦くて、甘い。
「凛先輩、お店みたい」
小春が目を丸くした。
「このくらいは朝飯前」
全員に配り終えたあと、凛はもう一つ、別の包みを取り出した。
薄いピンクのリボンが巻かれた、小さな紙箱。
「柚葉」
「なに?」
「これ。……マフラーのお礼。遅くなったけど」
凛の声が、ほんの少しだけ低くなった。
柚葉が、不思議そうに包みを受け取る。リボンをほどいて、蓋を開けた。
中には、花の形のクッキー。ピンクのアイシングで、一枚一枚、花びらの模様が描いてある。一枚だけ、花びらの線が少し太い。
「わあ……きれい」
柚葉が、箱の中を覗き込んだ。目がきらきらしている。
「いちご味。柚葉の好きな」
「覚えてくれてたの?」
「そりゃ、覚えてるよ。……柚葉のことは、だいたい覚えてる」
言ってから、凛は自分の言葉に気づいたみたいに、さっと目を逸らした。
「あ、いや。部長だから。部長のこと把握しとくのは副部長の仕事でしょ」
耳が、わずかに赤くなっていた。
「ふふ、ありがとう、凛」
柚葉が、クッキーを一枚つまんだ。花の形をじっと見てから、口に入れる。
「おいしい。すごくおいしい」
「……よかった」
凛は、テーブルの下で自分の膝をぎゅっと握っていた。
柚葉が二枚目に手を伸ばすのを、横目で見た。おいしそうに食べている。
それだけで、朝からの緊張が、ふっとほどけた。
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温室の中は、チョコレートの甘い匂いと、紅茶の湯気と、クッキーのバターの香りが混じっていた。冬の午後の光が、ガラスの壁を通して柔らかく差し込んでいる。
詩は、紅茶のカップを手に、みんなの様子をそっと見回していた。
凛が、柚葉のクッキーの感想に照れている。小春が、トリュフの味を嬉しそうに報告している。真白が、静かにチョコを一つずつ味わっている。
去年の二月十四日。あの時は、柚葉と凛だけが一緒にいた。三人で、温室にケーキを持ち込んで。
今は——五人。
テーブルの上に散らばったリボンや包み紙が、五色に混じっている。
詩は、自分の手の中の包みを見た。淡い紫のリボン。小春ちゃんが選んでくれた色。
——紫陽花の色だ。
詩は、それに気づいていた。気づいていて、言わなかった。
言葉にしてしまうと、小春ちゃんが困るかもしれない。だから、「きれいな色」とだけ答えた。
でも——嬉しかった。自分の好きな花を、覚えていてくれたこと。リボン一本の色を選ぶのに、きっと迷ってくれたこと。
詩は、紫のリボンを指先でそっと撫でた。
笑い声が、温室の中でいつまでも響いていた。
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## 五・帰り道
二月の夕方は、まだ早く暗くなる。でも、十二月の頃よりは、ほんの少しだけ日が長くなっていた。空の西の端に、オレンジ色がまだ残っている。
小春と真白は、並んで歩いていた。吐く息が白い。
「真白」
「なに」
「わたし、詩先輩のチョコだけ、リボンの色変えたんだ」
「知ってる。紫だったでしょ」
「見てたの」
「見なくてもわかるよ。小春、詩先輩に渡す時だけ声が上ずってたし」
「……そんなにわかりやすかった?」
「小春はいつもわかりやすいよ」
小春は、頬を膨らませた。
しばらく、靴音だけが響いた。街路樹の影が、歩道に長く伸びている。
「……本当は、好きって言いたかった」
「うん」
「でも、まだ言えない。困らせちゃったらって思うと」
真白は、何も言わなかった。
二人の足音が、夕暮れの道に重なる。
「焦んなくていいよ」
真白が、前を向いたまま言った。
「リボンの色、変えたんでしょ。カードも書いたんでしょ。それだけで、十分だと思う」
「……うん」
「詩先輩、リボンのこと、ちゃんと見てたし」
小春は、真白の横顔を見た。
マフラーに鼻先を埋めて、白い息を吐いている。十二月の帰り道よりも、その横顔は穏やかだった。
「真白は、大丈夫?」
「何が」
「柚葉先輩のこと」
真白は、少しだけ間を置いた。
「……うん」
それだけだった。
十二月なら、もっと言葉を探しただろう。「大丈夫」と言いながら、どこか痛そうな顔をしただろう。
でも今日の真白の「うん」は——本当に「うん」だった。
「今日ね、チョコ渡した時、柚葉先輩が笑ってくれた」
「うん」
「それで、よかったなって」
真白は、空を見上げた。二月の空に、星がひとつ、瞬き始めている。
「小春は、詩先輩に伝えなよ。いつか」
「うん。いつか、必ず」
「楽しみにしてる」
真白は、小さく笑った。
星が、もうひとつ見えた。二月の夕空に、ぽつりぽつりと。
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## 六・春を待つ
三月。
朝の空気が変わった。
まだ冷たい。でも、十二月の刺すような冷たさとは違う。どこかに、湿った土の匂いが混じっている。春が近づいている時の、独特の匂い。
温室の暖房の音が、前より静かになった。午後の日差しだけで、窓を閉めていれば少し暖かい。ガラスの結露も、二月の半分くらいになった。
「見て。チューリップの芽が出てるよ」
柚葉が、花壇のわらの隙間から顔を出した小さな緑の芽を指さした。
小春が、しゃがみ込んで覗き込む。淡い緑の、小さな三角形。土を押し上げて、ほんの少しだけ頭を出している。
「秋に植えた球根だよ。冬の間、ずっと土の中にいたの」
「マルチングが守ってくれてたんですね」
——大事なものは、見えないところで守る。
十二月に柚葉が言っていた言葉を、小春は思い出した。冬の間ずっと見えなかったものが、今、土を押し上げて出てきた。
「梅も咲き始めてるよ」
詩が、温室の窓越しに校庭の方を見た。遠くに、白い花がまばらに咲いている。枝の先にぽつりぽつりと開いた白い花びらが、三月の空に溶けそうに見えた。
凛が、花壇の方を見て呟いた。
「春だな」
三月になっても、グレーのマフラーを首に巻いている。もう寒さのためだけじゃないのだろう。
柚葉が、棚から園芸ノートを取り出した。チューリップの芽のことを書き留めている。ペンの先が、「マルチングの下から」と書いた。
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放課後。五人で、温室のテーブルを囲んだ。
いつもの席。いつもの紅茶。柚葉が淹れて、真白が配る。——相変わらず、少し薄い。窓の外には、チューリップの芽がのぞく花壇が見えた。
「一年、早かったね」
凛が、頬杖をつきながら言った。
「去年の今頃は、新入部員が入ってくれるかなって話してたんだよね」
柚葉が、懐かしそうに言った。
「小春ちゃんと真白ちゃんが来てくれて、本当によかった」
「入ってよかった」
小春が言った。
一年前。温室に初めて入った時のことを覚えている。ガラスの壁を通して差し込む光。土と花と、温かい空気の匂い。柚葉先輩の笑顔。凛先輩のさっぱりした声。詩先輩の穏やかな眼差し。
——あの時のわたしは、花の名前もろくに知らなかった。
今は、少しだけ知っている。マリーゴールドの種の蒔き方。ひまわりの種取り。紫陽花の剪定の時期。マルチングの意味。
それから——人を好きになるということ。
「来年は、新しい子が入ってくるかもしれないね」
「今度は小春ちゃんが案内する番だよ」
詩が言った。
「わたしが、ですか?」
「もう先輩だもんね」
小春は、その言葉を噛みしめた。先輩。自分が、先輩になる。
「小春なら、温室の中を走り回りながら案内しそう」
真白が、紅茶を飲みながら呟いた。
「そんなことしないよ!」
「するよ」
「しないって」
凛が、ふっと笑った。
「あたしは来年、受験だな」
「凛は大学で製菓を勉強するんだっけ?」
柚葉が聞いた。
「うん。パティシエになる」
「凛なら絶対受かるよ」
「当たり前でしょ。……柚葉は?」
「私は、農学部を考えてるの。おばあちゃんの庭を、ちゃんと勉強して守りたくて」
柚葉が、窓の外の花壇を見た。
「詩は?」
「文学部。……書くことを、もう少し学びたい」
詩が言った。
三年生の三人が、それぞれの場所へ行く。来年の三月には、卒業。
小春は、先輩たちの顔を順番に見た。
——まだ一年ある。一年、一緒にいられる。
真白は、静かに紅茶を飲んでいた。
テーブルの上に、凛が持ってきたスコーンの皿がある。ローズマリーの葉が載った、いつものやつ。
一年前、初めてこの温室に入った時。柚葉の紅茶は薄くて、でも温かかった。凛のお菓子は完璧で、真白は「おいしい」と小さく言った。詩は窓際で本を読んでいた。
今も、そのどれもが変わらない。
——好き。
柚葉先輩が好き。
十二月の夜にぬいぐるみに囁いた言葉と、同じ。でも——錘ではなくなっていた。
根みたいだ、と思った。見えないところで伸びて、この場所に自分を繋ぎとめているもの。
真白は、紅茶を一口飲んだ。ちょうどいい温度だった。
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温室の扉を開けると、三月の風が吹き込んだ。
冷たい。でも、十二月の風とは違う。風の中に、雪解けの匂いがする。何かが動き始めている気配。
「暖かくなってきたね」
柚葉が呟いた。
凛が、柚葉の隣に立った。首元のグレーの毛糸が、春の風にそっと揺れている。
詩が、温室の入り口で足を止めた。小春が、隣にいる。
「詩先輩」
「うん?」
「来年も、一緒に花、育てましょうね」
「もちろん」
詩が微笑んだ。小春も、笑った。
真白は、みんなの少し後ろに立って、その光景を見ていた。
夕日が、温室のガラスをオレンジ色に染めている。五人の影が、花壇の上に長く伸びていた。
花壇の隅で、チューリップの芽が、わらの隙間からそっと背を伸ばしている。
冬の間、見えないところで守られていたものが——今、目に見える形になろうとしていた。
新しい季節が、もうすぐ始まる。
陽だまりの庭で、花たちと一緒に。




