第11章 冬のはじまり
## 一・冬支度
十二月。
温室のガラスに、結露がついていた。
指で触れると、冷たい水滴が筋になって流れ落ちる。その向こう側に、灰色の空がぼんやりと透けている。
外では北風が吹いていた。花壇の土は硬く締まって、夏に咲き誇っていたマリーゴールドの面影はもうどこにもない。正門の横のイチョウは、最後の葉を数枚だけ残して、ほとんど裸になっていた。吐く息が白くなる季節。
でも、温室の中は暖かい。暖房が低く静かに唸っている。土と水と、かすかな花の匂い。ガラス越しの弱い冬の光が、棚の上のシクラメンを照らしていた。ピンクと白の花弁が、温室の暖気の中で、静かに揺れている。
「よし、今日は外の花壇の冬支度をしよう」
柚葉が、手袋をはめながら言った。白い息が、ふわりと消える。
「冬支度?」
小春が、水やりの手を止めた。
「うん。マルチング」
「マルチング……?」
「土の上に落ち葉やわらを敷くの。お布団みたいなもの」
柚葉は温室の隅に積んであるわらの束を指差した。秋のうちに用意しておいたものだ。
温室を出ると、冷たい空気が頬を刺した。花壇の前にしゃがむと、土の冷たさが膝から伝わってくる。
「こうやって、まず落ち葉を敷いて——」
柚葉が、集めておいた落ち葉をひと掴み、花壇の土の上に広げた。乾いた葉がかさかさと音を立てる。
「その上から、わらを被せてあげる」
「根っこを、守るんですか?」
真白が聞いた。手にわらを持って、柚葉の手元を見ている。
「うん。冬は、地上の部分は枯れちゃうこともある。でも、土の下では根がちゃんと生きてるから」
柚葉は、落ち葉の上にわらを丁寧に並べていく。風に飛ばされないように、少しずつ重ねて。
「冷たい風が直接当たらないように、覆ってあげるの。そうすると、春にまたちゃんと芽が出る」
「布団を掛けてあげるみたいですね」
小春が、両手いっぱいに落ち葉を抱えて、隣の花壇にばさっと広げた。葉っぱが舞い上がって、小春の髪にくっつく。
「小春ちゃん、髪に……」
真白が手を伸ばして、小春の髪から枯れ葉を一枚取った。
「あ、ありがとう」
「……雑」
「え?」
「落ち葉の敷き方。もうちょっと均等に」
「あ、そっか」
凛が、黙々と作業をしている。手つきが正確で、わらの厚みが揃っている。さすがだ、と小春は思った。料理もそうだけど、凛は手先が器用だ。
詩は、小さな熊手で落ち葉を集めていた。セーターの袖が少し長くて、手の甲まで覆っている。
「大事なものは、見えないところで守るんだよ」
柚葉が、花壇を見つめながら言った。独り言みたいに、静かに。
風が吹いて、わらの端がかさりと揺れた。
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作業が終わって、温室に戻った。
手がかじかんでいる。小春は、両手をこすり合わせた。
真白が紅茶を淹れてくれた。カップを受け取ると、指先にじんわりと温かさが広がる。
「ありがとう、真白」
「……どういたしまして」
五人でテーブルを囲んで、紅茶を飲む。窓の外では、マルチングを終えた花壇が、落ち葉の毛布に覆われて、少しだけ温かそうに見えた。
「そういえば、来週、凛の誕生日だよね」
詩がふと言った。カップの湯気が、詩の前で白く揺れている。
「え、そうなの?」
小春がカップを置いた。
「うん。十二月十五日」
「サプライズする?」
柚葉が、身を乗り出した。目がきらきらしている。
「また?」
凛が、紅茶をすすりながら呆れた顔をした。
「柚葉の時、やったじゃん」
「凛のもやりたい」
「いいよ、別に。大げさなの、苦手だし」
「えー、でも」
「いいって」
凛はぶっきらぼうに言って、カップに視線を落とした。
でも、口元がかすかに緩んでいるのを、詩は見逃さなかった。
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放課後、凛と詩が先に帰ったあと、柚葉と真白と小春が温室に残った。
「凛、サプライズ嫌がってたけど、やりたいよね」
柚葉が、テーブルに頬杖をつきながら言った。冬の夕方の光が、柚葉の横顔を淡く照らしている。
「はい」
小春が頷いた。
「でも、大げさなのは苦手って言ってたし」
「小さいお祝い、でいいんじゃないですか?」
真白が、紅茶のカップを両手で包みながら言った。
「ケーキとプレゼントくらいの」
「それがいいかもね」
「プレゼント、何がいいかな」
小春が、指で顎をつんつんと叩きながら考えた。
「凛先輩、お菓子作り好きですよね。調理器具とか?」
「あー、いいかも。でも、何持ってるかわからないな」
「柚葉先輩、知ってますか?」
「んー……」
柚葉が、天井を見上げながら記憶をたどる。温室の天井のガラスに、結露が小さな水玉模様を描いている。
「あ、前に、ケーキの型が欲しいって言ってた気がする」
「ケーキの型」
「うん。ハート型のやつ。『こういうので焼いてみたいんだよね』って」
「じゃあ、それにしましょう」
小春が、ぱんと手を打った。
「ケーキは、詩先輩に頼んでみます」
「小春ちゃん、詩先輩にお願いするの嬉しそう」
真白がぼそっと言った。
「べ、別にそういうわけじゃ……」
小春の頬が、ほんのり赤くなった。
「……冗談」
真白は紅茶を一口飲んで、そっぽを向いた。でも、少しだけ笑っているように見えた。
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## 二・グレーの毛糸
柚葉は、みんなからのプレゼントとは別に、もう一つ考えていたことがあった。
——手編みのマフラー。
凛に、手作りのものをあげたい。そう思ったのは、いつからだろう。
凛はいつも、みんなにお菓子を作ってくれる。クッキー、マフィン、スコーン。「残り物だから」なんて言いながら、いつも柚葉の好きな味を覚えていてくれる。
レモンのマドレーヌは酸っぱすぎないように。チョコチップクッキーはビターで。スコーンにはローズマリーを少しだけ。
全部、柚葉のために調整してくれている。凛は何も言わないけれど、ちゃんと知っている。
だから、今度は自分が、凛のために何かを作りたかった。
学校帰りに、駅前の手芸店に寄った。
自動ドアを抜けると、毛糸の棚が壁一面に並んでいた。赤、青、黄色、ピンク、ベージュ、白。色とりどりの毛糸玉が、棚の上でころころと並んでいる。
柚葉は、棚の前で足を止めた。
——凛に、似合う色。
視線が、グレーの毛糸に吸い寄せられた。明るすぎない、落ち着いたグレー。凛の黒い髪に映えそうだと思った。
手に取ってみる。指先に、柔らかい感触が伝わる。
「これ」
迷わなかった。グレーの毛糸を三玉と、棒針のセットと、編み方の小冊子をカゴに入れた。
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家に帰って、机の上に毛糸を広げた。
玉に巻かれたグレーの毛糸。窓からの夕日が当たると、ほんの少しだけ銀色に光る。
スマホで「マフラー 編み方 初心者」と検索した。動画がたくさん出てくる。
「ガーター編みなら、初心者でも……」
見よう見まねで、棒針を手に取った。冷たい金属の感触。
毛糸の端をほどいて、針にかける。動画の通りに、一目、二目。
——あれ。
三目めで、糸がねじれた。
「えっと、こうじゃなくて……」
動画を巻き戻す。同じところを三回見た。もう一度、やり直す。
一目、二目、三目。四目。
「できた……?」
最初の一段を編み終えた時には、もう二十分が経っていた。
それでも、針の上に並んだ小さな編み目を見て、胸が少しだけ弾んだ。この一目一目が、凛の首を温めるものになる。
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次の日の夜も、その次の日の夜も、柚葉は机に向かった。
少しずつ、マフラーが長くなっていく。でも、目が揃わない。右に寄ったり、左に寄ったり。途中で糸がきつくなりすぎて、編み地がくしゃっと縮んでしまう。
三日目の夜。
編んでいた毛糸の玉が、机の下に転がり落ちた。椅子の脚に絡まっている。
「ああ、もう……」
屈んで拾おうとしたら、さらに絡まった。
柚葉は、床に座り込んだ。毛糸の絡みを、指先で一本一本ほどいていく。爪の間に毛糸の繊維が入り込んで、指先がひりひりする。
——凛、喜んでくれるかな。
ふと、凛の顔が浮かんだ。いつもの、ちょっとぶっきらぼうな表情。お菓子を渡す時だけ、ほんの少し照れくさそうになる、あの顔。
「凛が寒い思いしてたら、やだな」
独り言を呟いて、絡まった毛糸をほどき終えた。
立ち上がって、また編み始めた。
一目、一目。凛のことを思いながら。
時計の針が、十一時を回った。明日も学校がある。でも、あと一段だけ。
四日目。少しだけ、手が慣れてきた。五日目。編み目が、前の日よりも揃っている。六日目。指が自然に動くようになった。動画を見なくても、編み目の感触だけで次の一手がわかる。
でも、右手の親指の腹に、小さなひっかき傷ができていた。針で引っかいたのだろう。指先はかさかさで、あちこちにささくれが目立つ。
——編み物の本には書いてなかった、初心者の勲章。
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誕生日の三日前。
「柚葉、最近、何か作ってる?」
放課後の温室で、詩に聞かれた。小春と真白は、外の花壇で冬の草取りをしている。凛はまだ来ていない。
「え? なんで?」
「手、荒れてない?」
詩が、柚葉の手をそっと取った。
「あ……」
柚葉は、自分の手を見た。指先がかさかさで、右手の親指に傷。左手の人差し指には、毛糸の繊維が少しだけ残っている。
「ちょっと、手芸を」
「手芸?」
「うん。秘密」
詩は、一瞬だけ柚葉の手を見つめて、それからにっこり笑った。
「そっか。頑張ってね」
「……ありがと」
「はい、これ」
詩が、鞄からハンドクリームを取り出して渡してくれた。小さなチューブ。蓋を開けると、ラベンダーの香りがした。
「使って。このまま放っておくと、もっと荒れるよ」
「……詩、優しいね」
「柚葉が困ってると、放っておけないでしょ」
詩は穏やかに笑ったまま、それ以上は何も聞かなかった。
——バレてるかもしれない。でも、黙っていてくれる。
柚葉は、ラベンダーの香りのクリームを手に塗りながら、心の中で詩にありがとうと呟いた。指先に染み込んでいく油分が、じんわりと温かかった。
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## 三・温室の片付け
その日の夕方。
小春と詩は、二人で温室の片付けをしていた。
柚葉は先に帰った。「ちょっと用事」と言って——きっと、マフラーの続きを編むのだろう。凛と真白はもう教室を出ている。
温室の中は、暖房の温かさと、冬の日暮れの薄明かりが混じり合っていた。棚の上のシクラメンが、西日の残りを浴びて淡い影を落としている。
「詩先輩」
「なに?」
「凛先輩のケーキ、お願いしてもいいですか?」
「うん。チョコレートケーキでいいかな。凛の好きな」
「はい。詩先輩のケーキ、おいしいですもんね」
「ありがとう。でも、凛の方がずっと上手だよ」
「そんなことないです」
小春は、使い終わったじょうろを棚に戻しながら言った。
詩が、温室の窓を閉めている。西日が、詩の横顔を淡く照らしていた。ガラスを閉める手の動きが、丁寧で、ゆっくりで、詩らしい。
「小春ちゃん」
「はい?」
「凛の誕生日、楽しみだね」
「はい。みんなで準備するの、わくわくします」
詩が微笑んだ。
小春の心臓が、どきどきした。
——この笑顔を、もっと近くで見ていたい。
「小春ちゃん、じょうろ逆さまだよ」
「えっ」
慌てて見ると、じょうろの注ぎ口が上を向いていた。いつの間に。
「あ……えへへ」
詩が、くすっと笑った。
人を喜ばせることが好きな小春。その真っすぐさが、いつも詩には眩しかった。柚葉にも、同じ光がある。荒れた指先で誰かのために何かを作り続けている、あの真っすぐさ。
「そういうところ、小春ちゃんらしくて好きだよ」
「——っ」
小春は、顔が一気に熱くなった。じょうろを正しい向きに直しながら、背中を向ける。
——好きって言った。今、好きって。
友達として、の意味だろう。わかってる。でも、その一言で胸がこんなに騒ぐ。
「帰ろっか」
「は、はい」
二人で温室を出ると、十二月の風が頬を撫でた。冷たくて、空気が乾いていて、鼻の奥がきゅっとする。
小春の顔は熱いままだった。詩の隣を歩きながら、自分の頬を手で触る。冷たい指先が、熱い頬に当たる。
——今日の夕焼け、きれいだな。
空が、オレンジと紫のグラデーションに染まっていた。校舎の屋根のシルエットが、空の色に浮かんでいる。
「今日の空、きれい」
詩が、立ち止まって空を見上げた。
「……はい」
小春も、空を見上げた。
二人の吐息が、冬の夕空に、ふわりと溶けていった。
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## 四・十二月十五日
誕生日当日。金曜日。
朝から冬晴れだった。空は高くて、抜けるように青い。でも、空気は刺すように冷たくて、校庭の水たまりに薄い氷が張っていた。
放課後。凛が来る前に、小春と真白が先に温室に入った。
「飾り付け、どうする?」
「小さいガーランドだけ、棚に掛けよう」
真白が、紙袋から三角形の旗が連なったガーランドを取り出した。白と水色の、シンプルなもの。
「風船は?」
「大げさすぎる」
「……だよね」
二人で、温室の棚にガーランドを掛けていく。小さな紙の三角旗が、暖房の風に揺れて、かさかさと音を立てた。
詩が、家から持ってきたチョコレートケーキを、そっとテーブルに置いた。丸い形に、チョコレートクリームが丁寧に塗られている。上に、粉砂糖が薄く振ってあった。
「わあ、おいしそう」
「焦がしそうになって、一回目は失敗した」
「でも、きれいに焼けてますね」
「二回目で、なんとか」
詩は、少し照れたように、ケーキの端を直した。
ろうそくを立てる。十七本。小さな炎が、チョコレートの表面にきらきら映る。柚葉がマッチを持ってきた。
マフラーの入った包みを、柚葉は鞄の中にそっとしまっている。白い包装紙に、小さなリボン。自分で包んだものだ。少しだけ、角がよれている。何度やり直しても、うまく折れなかった。
「準備、いい?」
みんなが頷いた。温室の中が、しんと静かになる。ガラスの壁の向こうで、冬の風が校庭を吹き抜けていく。
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「凛、来た」
詩が、窓の外を見て小声で言った。
みんなが息を止める。温室の扉が、きしみながら開いた。
凛が入ってきた。マフラーを巻かずに、制服の上にコートだけ。頬と鼻先が、寒さで赤くなっている。
「お誕生日おめでとう!」
声を揃えた。
凛は、目を丸くした。入り口で、一瞬、固まった。
テーブルの上のケーキ。ろうそくの光。小さなガーランド。みんなの笑顔。
暖房の温かい空気と、チョコレートの甘い匂いが、扉から入ってきた冬の冷気とぶつかって、凛の頬をふわりと撫でた。
「え、これ……」
「大げさなのは嫌だって言ってたから、ちょっとだけ」
柚葉が、両手を広げておどけてみせた。
凛は、温室の中をゆっくり見回した。ガーランド。ケーキ。ろうそくの光がガラスの壁に映って、温室全体がオレンジ色に揺れている。
「……ちょっと、じゃないでしょ」
そう言ったけれど、声が震えていた。
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十七本の小さな炎が、温室の中をオレンジ色に照らしていた。ガラスの壁に、五人の影と炎が映っている。温室の外はもう薄暗くて、中だけが、ろうそくの光で温かく浮かび上がっている。
「はい、吹き消して」
凛が、ふっとろうそくを吹き消した。
「お願いごとしないの?映画とかでやるやつ」
「……もう叶ってるから、いい」
一瞬、暗くなる。それからまた温室の蛍光灯の光が戻って、目が慣れるまで少しだけ瞬きをした。
「おいしい」
凛が、ケーキを一口食べて、目を細めた。フォークの先に、チョコレートクリームの薄い層が残っている。
「よかった」
詩が、ほっとしたように笑った。
「詩、これ自分で焼いたの?」
「うん」
「……すごいね。スポンジがふわふわ。ちゃんと温度管理してる」
凛が、二口目を食べながら、プロのような目でケーキを見た。
「褒め方が専門的……」
小春が笑った。
「おいしいものは、おいしいって言うだけでいいのに」
「それは小春の感想でしょ」
凛が口をとがらせた。でも、頬がまだ緩んでいる。
真白は、自分の分のケーキを小さく切り分けながら、静かに食べていた。チョコレートの甘さが、口の中に広がる。
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「プレゼント、あるんだよ」
小春が、包みを差し出した。プレゼントを渡すのが嬉しくて、少しそわそわしている。
詩は、そんな小春を見ていた。
——楽しそうだな。
プレゼントを渡す時の小春の顔は、花に水をあげる時と同じだ。誰かのために何かをすることが、小春にとっては自然で、当たり前で、そして嬉しいことなのだ。
「これは、みんなから」
凛が、包みを開けた。丁寧に折られた包装紙が、するすると解ける。
「ケーキの型……ハートの」
凛の手が、止まった。銀色のハート型を、両手でそっと持ち上げる。蛍光灯の光を受けて、鈍く光る。
「欲しがってたって、柚葉先輩が」
「……覚えてたの?」
凛が、柚葉を見た。
「うん。前に、ちらっと言ってたでしょ」
「一回しか言ってないのに」
「一回でも覚えてるよ。凛のことだもん」
柚葉は、何でもないことのように笑った。
凛は、ケーキ型をぎゅっと抱えた。銀色の金属が、凛の制服の紺色に映える。目元が、潤んでいる。
「凛先輩、泣いてます?」
小春が覗き込んだ。
「泣いてない」
凛は、手の甲で目元をぬぐった。
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「あと、これ」
柚葉が、鞄から別の包みを取り出した。
白い包装紙に、小さなリボン。角がよれている。
「これは、私から」
「え、別にあるの?」
「うん。開けて」
真白は、柚葉の指先をちらりと見た。かさついた、右手の親指。
温室の中が、静かになった。暖房の低い音だけが、微かに聞こえる。
凛が、包みに手をかける。リボンをほどく。白い包装紙を、そっと開く。
中から出てきたのは、グレーのマフラー。
凛の指が、止まった。
「これ……」
「手編み」
柚葉は、少し照れくさそうに笑った。自分の手を見た。ハンドクリームで少しましになったけど、まだ荒れている指先。
「初めて作ったから、下手くそだけど」
凛は、マフラーを両手で広げた。
グレーの毛糸。ところどころ、編み目が不揃い。右端が少しだけ波打っている。途中で目の大きさが変わっているのも、わかる。前半は糸がきつくて、後半は少しだけ安定している。練習の跡が、そのまま残っている。
——完璧じゃない。でも、一目一目、丁寧に編んである。
凛の視線が、マフラーの上をゆっくり辿った。端から端まで。指先で、編み目の凹凸を辿る。
誰も、何も言わなかった。
真白の指が、膝の上で、小さく握られた。
「柚葉が、編んだの?」
「うん。凛に、暖かくしてほしくて」
凛の手が、震えた。
マフラーを、ぎゅっと握った。指の間から、柔らかい毛糸がはみ出ている。
「ありがと……すごく、嬉しい」
声が、かすれていた。
「本当? よかった」
柚葉が、笑った。いつもの、太陽みたいな笑顔で。
凛は、マフラーをゆっくり首に巻いた。グレーの毛糸が、凛の黒い髪に映える。毛糸の柔らかさが、首筋を包む。
「暖かい」
凛が呟いた。
「似合ってるよ」
柚葉が、にこにこしながら言った。
「……ありがと」
凛は、マフラーの中に顔を半分埋めた。鼻先に、毛糸の匂い。ほんの微かに——ラベンダーの香りがする。詩がくれたハンドクリームの残り香。その奥に、もっと微かに、柚葉の手の温度が残っている気がした。
頬が、熱い。寒さのせいじゃない。
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テーブルの向こう側で、真白は自分の紅茶のカップを見つめていた。
マフラーを広げた瞬間の、凛の表情。受け取った時、指が震えていたこと。柚葉が「凛に、暖かくしてほしくて」と言った時の、まっすぐな目。
全部、見ていた。
——やっぱり、そうだった。
真白は、紅茶を一口飲んだ。
温かいはずなのに、胸の奥は少しだけ冷たかった。
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「凛先輩、十七歳になったんですね」
小春が、ケーキの二切れ目に手を伸ばしながら言った。
「そうだね。来年は受験だし」
柚葉が、少しだけ遠い目をした。窓の外はもう暗くなりかけていて、ガラスに五人の姿がぼんやりと映っている。
「でも、まだ先のことだよ」
詩が、穏やかに言った。
「そうだね」
凛が頷いた。マフラーを首に巻いたまま、紅茶のカップを持っている。グレーの毛糸の上に、湯気が白く漂う。
「今は、今を楽しもう」
その言葉に、みんなが頷いた。
温室の窓の外は、もう暗くなっていた。十二月の日暮れは、早い。でも、温室の中だけは、暖房と紅茶と、五人の声で、ずっと温かかった。
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## 五・帰り道
凛と柚葉は、二人で駅に向かって歩いていた。
十二月の夜。空気が凍てつくほど冷たい。吐く息が白くて、街灯の光に照らされると一瞬だけ輝いて消える。
街路樹の葉はとっくに落ちて、裸の枝が黒いシルエットになって並んでいる。駅前の商店街に近づくと、小さなイルミネーションが見えてきた。電球の光が、赤、緑、金色、白と点滅しながら、冬の夜を飾っている。
凛は、グレーのマフラーをしっかり巻いている。
「マフラー、本当にありがとう」
「どういたしまして」
「柚葉、編み物なんてできたっけ」
「できなかった。練習したの」
「え、あたしのために?」
「うん。凛に、何か手作りのものをあげたくて」
凛は、黙った。
歩きながら、マフラーに触れた。指先に伝わる毛糸の凹凸。ところどころ不揃いで、その不揃いさが、なぜかたまらなく温かい。
「……嬉しい」
「そう?」
「うん。すごく」
凛の声は、いつもより小さかった。言葉の残りが、吐息と一緒に冬の空気に溶けた。
イルミネーションの光が、二人の横を通り過ぎる。赤い光が凛の頬を照らして、金色の光が柚葉の髪に触れて、白い光が二人の間をすり抜けていく。
「柚葉」
「なに?」
「あたしも、何かお返ししたい」
「いいよ、別に」
「でも」
「凛のクッキー、いつも食べてるでしょ。それで十分だよ」
柚葉が笑った。屈託のない、いつもの笑顔。イルミネーションの光が、その横顔にちらちらと映っている。
凛は、何か言いたそうにしていた。唇が動きかけて、でも、言葉にならなかった。
——ありがとう、じゃ足りない。
でも、その先の言葉は、まだ出てこない。
「また、何か作るよ」
柚葉が、のんきに言った。
「……楽しみにしてる」
精一杯だった。それが今の凛に出せる、全部だった。
二人は、駅まで並んで歩いた。
肩が触れそうで、触れない距離。
マフラーが、凛の首を温かく包んでいた。
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## 六・冬の夜
その夜。
凛は、自分の部屋でベッドに座って、マフラーを膝の上に広げていた。
部屋の小さなスタンドライトの下で、編み目の一つ一つがはっきり見える。
端から、指でなぞった。
編み始めは、目がきつい。一目一目にぎゅっと力が入っている。初めて針を持つ手が、緊張していたのだろう。
——中学一年の春を、思い出す。
園芸委員の花壇の前。「チューリップ、きれいだね」と柚葉が言った。「……そうだね」。それだけしか返せなかった。声がうまく出なくて、ぎこちなくて。
でも、その日から、花壇の前を通るたびに柚葉のことを探した。
指を滑らせる。編み目が少しずつ変わっていく。まだ揃わないけれど、同じ手つきを繰り返そうとしている。
——中二。隣の席になった。柚葉がノートを落として、拾った。「ありがとう、凛」。名前を呼ばれた時、心臓がうるさかった。
真ん中あたり。一か所だけ糸がゆるんでいる。絡まってほどき直した跡。
——高校の入学式。園芸部の前で「凛も一緒だ!」と笑った柚葉。ああ、もう駄目だ、と思った。
後半になると、編み目が安定してくる。手が覚えて、力加減がわかってきた頃。
——五年。
指先が、マフラーの終わりに着いた。最後の伏せ止めは少し不格好だけれど、ちゃんと止まっている。最後まで、編み切ってくれた。
マフラーを、顔に近づけた。毛糸の柔らかい匂い。微かに残る、ラベンダーの香り。
——好き。ずっと。友達以上に。
でも、言えない。言ったら、この関係が変わってしまう。隣にいられなくなるかもしれない。クッキーを作っても、「おいしい」って笑ってもらえなくなるかもしれない。
それが、怖い。
凛は、マフラーを胸に抱いた。グレーの毛糸が、パジャマの上で柔らかく潰れる。
——でも。
こんなふうに、あたしのために手を荒らしてまで何かを作ってくれる人が、他にいるだろうか。
わからない。柚葉にとってあたしが何なのか、まだわからない。
でも、このマフラーには、答えの欠片が一目ずつ編み込まれている気がした。
「……ありがと、柚葉」
小さく呟いて、マフラーを首に巻いたまま、毛布にくるまった。
窓の外に、星が見える。冬の星は、冷たくて、遠い。でも、はっきりと光っている。
今夜は、少しだけ温かい冬になりそうだった。
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同じ星が、別の窓にも映っていた。
真白は、机の前に座っていた。スタンドライトの明かりに照らされた、小さなものたちを見ている。
くまのぬいぐるみ。その横に、海で柚葉がくれたシーグラス。
夏祭りで、柚葉と一緒に取った射的の景品。茶色い毛並みの、手のひらサイズのくま。右耳が少しだけ傾いている。
あの日から、四ヶ月が過ぎた。
夏の夜、花火の光に照らされた柚葉の横顔。温かかった。柚葉の声を聞くだけで、胸がいっぱいになった。
その気持ちは、今も変わらない。むしろ、日が経つほど大きくなっている。
でも、今日——気づいてしまった。
文化祭の時とは違う。あの時はまだ、もしかしたら、と思えた。
今日は、違った。
柚葉がマフラーを差し出した瞬間。「凛に、暖かくしてほしくて」と言った時の声。あの声には、真白が知らない柚葉がいた。誰かのために夜を使い、指を荒らし、不器用なものを一目一目編み上げる。そういう柚葉を、凛だけが引き出している。
凛先輩がマフラーを握りしめた時、指が震えていた。そして柚葉が、その震えに気づいていない顔で笑っていた。
あの二人の間にあるものは、友情じゃない。まだ名前のついていない何か。でも、確かにある。
——私には、あんなふうに柚葉先輩に何かを渡せない。
マルチングのことを思い出した。
午前中、みんなで花壇の冬支度をした。落ち葉を敷いて、わらを被せて。目に見える部分は枯れても、土の下では根が生きている。覆って、守る。
——私も、そうしよう。
この気持ちを、土の下の根っこみたいに、そっとしまっておこう。
誰にも見せなくていい。でも、枯れたわけじゃない。
真白は、くまのぬいぐるみを手に取った。ふわふわの手触り。右耳の傾き。あの日の夏の空気が、一瞬だけ蘇る。
「柚葉先輩」
小さく呟いた。
——好きです。
言葉にしたのは、この部屋の中だけ。ぬいぐるみだけが聞いている。
窓の外に、冬の夜空が広がっていた。星が光っている。冷たくて、遠い。
——でも、きれいだな。
柚葉先輩が幸せそうに笑っていた。凛先輩が、マフラーの中に顔を埋めて照れていた。
好きな人の笑顔を見られるなら。
春になったら、また温室でみんなと花を育てる。柚葉先輩の隣で、水をやって、土を触って、笑い合う。
それだけで、十分だ。
真白は、ぬいぐるみをそっと机に戻した。
静かに、目を閉じた。
---
柚葉の園芸ノート 12月15日(金)晴れ
凛の誕生日。
マフラー、喜んでくれた。よかった。
編み物は大変だった。何回やり直したかわからない。
指先はまだかさかさ。でも、凛が「暖かい」って言ってくれた時、
全部報われた気がした。
帰り道、凛がずっとマフラー触ってた。
嬉しかったのかな。だったらいいな。
先週、外の花壇のマルチングをした。
根を守るって、大事だなと思った。
……なんだろう。
凛が喜んでくれると、私まで温かくなる。
編んでる間、ずっと凛のこと考えてた。
凛の首に巻くところ。凛が笑うところ。
そしたら全然手が止まらなかった。
……これって、なんて言うんだろう。




