第1章 温室の午後
温室
ガラスの向こうは
灰色の冬
でもここには
春が住んでいる
誰かの笑い声と
紅茶の湯気と
静かに咲く花と
それだけでいい
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桜が舞っていた。
藤宮小春は、真新しい制服のスカートを押さえながら、校門をくぐった。私立花園丘女子高等学校。今日から、ここが自分の学校になる。
「小春、ぼーっとしてると置いてくよ」
隣を歩いていた真白が、振り返って言った。月島真白。中学からの親友で、同じ高校に進学した。銀色に近い明るい髪が、春の陽射しを受けて光っている。
「ごめんごめん。つい見とれちゃって」
「何に?」
「桜。すごくきれいだなって」
真白は小さくため息をついた。でも、その口元は少しだけ笑っている。
「小春らしいね」
「えへへ」
二人は、他の新入生たちに混じって、体育館へと向かった。
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入学式は、つつがなく終わった。
校長先生の話は長かったし、来賓の挨拶はもっと長かった。でも、小春は不思議と退屈しなかった。周りを見渡すと、同じ制服を着た女の子たちがたくさんいる。これから三年間、この子たちと一緒に過ごすんだ。そう思うと、胸がわくわくした。
「小春、行くよ」
真白に促されて、体育館を出る。新入生たちは、それぞれの教室へと散っていった。
小春と真白は、同じクラスだった。1年A組。教室に入ると、すでに何人かの生徒が席に着いていた。
「真白、どこ座る?」
「どこでもいいけど……窓際、空いてるね」
「じゃあ、あそこにしよう」
二人は窓際の席を確保した。小春が窓側、真白がその隣。
窓の外には、校庭が見えた。桜の木が何本も植えられていて、花びらが風に舞っている。その向こうに、色とりどりの花が咲いている場所があった。
「ねえ、真白。あれ、何だろう」
「あれって?」
「あの花がいっぱい咲いてるところ」
真白は窓の外を見た。
「花壇じゃない?」
「すごいきれい……あとで見に行きたいな」
「入学式の日に?」
「だって、気になるんだもん」
真白はまた小さくため息をついた。でも、「好きにすれば」とは言わなかった。
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ホームルームが終わり、教室を出た。
入学式の日は午前中で終わりだ。他の生徒たちは、三々五々、帰り支度を始めている。
「真白、ちょっとだけ寄り道していい?」
「花壇?」
「うん」
「……わかった。付き合う」
二人は校舎を出て、さっき窓から見えた花壇へと向かった。
近くで見ると、花壇は思っていたよりずっと広かった。チューリップ、パンジー、ビオラ、ノースポール。色とりどりの花が、きれいに植えられている。
「わあ……」
小春は思わず声を上げた。
「すごい。こんなにたくさんの花、初めて見た」
「大げさだね」
「だって、本当にきれいなんだもん。見て、このチューリップ。赤と黄色と、ピンクもある」
小春はしゃがみ込んで、花を覗き込んだ。土の匂いがする。春の匂いだ。
「誰かが、毎日お世話してるんだよね。すごいなあ」
「園芸部じゃない? たぶん」
「園芸部……」
その言葉を、小春は心の中で繰り返した。
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「あの、こんにちは」
声をかけられて、小春は顔を上げた。
目の前に、女の子が立っていた。肩につくくらいのミディアムヘア、明るい茶色。柔らかい笑顔。制服のリボンは、小春たちとは違う色だった。上級生だ。
「新入生さん?」
「あ、はい。今日入学しました」
「そっか、おめでとう。花壇、見てくれてるんだね」
「はい。すごくきれいで……つい見とれちゃいました」
女の子は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。私たちが育ててるの」
「私たち?」
「園芸部。私、部長やってるんだ。七瀬柚葉、2年生」
七瀬柚葉。小春は、その名前を心に刻んだ。
「わたし、藤宮小春です。1年生です」
「小春ちゃんね。よろしく」
柚葉は真白の方を見た。
「そっちの子は?」
「あ、月島真白です」
真白は小さく頭を下げた。
「真白ちゃん。二人とも、花が好きなの?」
「わたしは好きです。真白は……」
「別に、嫌いじゃない」
真白の答えに、柚葉はくすっと笑った。
「ねえ、よかったら、うちの部、見学に来ない?」
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「見学?」
「うん。園芸部。今日、部活紹介はなかったでしょ? 入学式の日だから」
「そうですね」
「だから、直接見に来てくれると嬉しいなって。温室、案内するよ」
「温室!」
小春の目が輝いた。
「温室、あるんですか?」
「うん。小さいけどね。花壇の裏にあるの」
「行きたい! 真白、行こう!」
「え、今から?」
「だめ?」
真白は小春の顔を見て、それから柚葉の顔を見た。柚葉は相変わらず、穏やかに微笑んでいる。
「……まあ、いいけど」
「やった! 七瀬先輩、お願いします!」
「柚葉でいいよ。先輩って呼ばれると、なんかくすぐったいから」
「じゃあ、柚葉先輩」
「……まあ、それでいいか」
柚葉は苦笑して、二人を先導した。
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温室は、花壇の裏にあった。
ガラス張りの小さな建物。中に入ると、むわっとした温かい空気が頬を撫でた。
「わあ……」
小春は、また声を上げた。
温室の中には、たくさんの植物があった。鉢植えの花、苗、観葉植物。棚にずらりと並んでいる。奥には作業台があって、じょうろやスコップが置いてあった。
「すごい。植物園みたい」
「大げさだってば」
真白が呆れたように言ったが、彼女も少し興味深そうに周りを見回していた。
「ここ、入学した時に見つけたの」
柚葉が、懐かしそうに言った。
「最初は埃だらけでね。凛と二人で、何日もかけて掃除したんだ」
「二人で?」
「うん。中学から、ずっと一緒なの。凛とは」
柚葉の声は、温かかった。小春には、その言葉の奥にある特別な何かが、少しだけ感じられた。
「柚葉、誰か連れてきたの?」
声がして、振り向いた。
ショートカットの女の子が、奥から歩いてきた。黒髪、きりっとした目。柚葉とは対照的な、さっぱりした雰囲気。
「うん。新入生の子たち。花壇を見てたから、声かけてみた」
「相変わらず、抜け目ないね」
「人聞き悪いなあ。純粋に、花が好きな子に来てほしいだけだよ」
「はいはい」
ショートカットの女の子は、小春たちの前に立った。
「あたし、朝比奈凛。2年。副部長やってる」
「藤宮小春です」
「月島真白です」
「よろしくね。そこ座っていいよ」
凛は、温室の隅にあるテーブルを指差した。パイプ椅子が何脚か置いてある。
「詩ー、お茶淹れてー」
凛が声を上げると、温室の奥から、もう一人の女の子が現れた。
長い黒髪をハーフアップにした、背の高い女の子。物静かな雰囲気で、手には文庫本を持っている。
「はいはい。お客さん?」
「新入生。見学だって」
「そう。いらっしゃい」
詩と呼ばれた女の子は、穏やかに微笑んだ。
「私は白石詩。同じく2年生。よろしくね」
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温室の隅にあるテーブルに、5人が座った。
詩が淹れてくれた紅茶は、ほんのり甘い香りがした。
「ミルクティーでいい? 砂糖は自分で入れてね」
「ありがとうございます」
小春は紅茶を一口飲んだ。温かくて、おいしい。
「それで、園芸部に興味あるの?」
凛が、テーブルに頬杖をついて聞いた。
「はい。さっき花壇を見て、すごくきれいだなって思って」
「花、好きなんだ」
「好きです。お花屋さんとか、見てるだけで楽しくて」
「いいね。うちの部、人数少ないから、入ってくれると嬉しいんだけど」
「今、何人なんですか?」
「3人。あたしと柚葉と詩だけ」
「3人!」
小春は驚いた。これだけの花壇と温室を、たった3人で管理しているのか。
「最初は凛と二人だけだったの。去年、詩が入ってきてくれて、三人になって」
柚葉が、懐かしそうに言った。
「だから、新入部員、大歓迎なんだ」
「そうなんですね……」
小春は真白を見た。真白は、紅茶のカップを両手で包んで、黙っていた。
「真白、どう思う?」
「何が?」
「園芸部」
「……別に、悪くないんじゃない」
「入る?」
「小春が入るなら」
小春の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当? じゃあ、わたし、入ります!」
「早いな」
凛が笑った。
「もうちょっと考えてからでもいいんだよ?」
「考えました。さっき花壇を見た時から、ここに入りたいって思ってました」
「即決タイプだね」
「そうかもしれません」
小春は照れくさそうに笑った。
柚葉が、嬉しそうに手を叩いた。
「やった。じゃあ、二人とも、入部届、明日持ってきてね」
「はい!」
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それから、4人は温室でおしゃべりをした。
柚葉は、花壇に植えてある花の名前を教えてくれた。チューリップ、パンジー、ビオラ、ノースポール、デイジー。小春は一生懸命覚えようとしたが、すぐにごちゃごちゃになってしまった。
「覚えなくても大丈夫だよ。一緒にやってるうちに、自然と覚えるから」
「そうですか?」
「うん。私も最初は全然知らなかったし」
凛が、クッキーの入った箱を出してきた。
「食べる? 昨日焼いたやつ」
「凛は新入生が来るって聞くと、必ずお菓子を焼くの」
詩が、本から顔を上げずに言った。
「詩、余計なこと言わなくていいから」
「凛先輩が作ったんですか?」
「そう。趣味なの」
「すごい。おいしそう」
小春はクッキーを一つ取って、口に入れた。さくさくして、バターの香りがする。
「おいしい!」
「よかった」
凛は素っ気なく言ったが、少し嬉しそうだった。
真白も、クッキーを一つ取った。無言で食べて、小さく頷いた。
「……おいしい」
「ありがと」
詩は、文庫本を読みながら紅茶を飲んでいた。時々、会話に相槌を打つ。物静かだが、冷たい感じはしない。むしろ、穏やかな空気をまとっている。
「詩先輩は、いつも本を読んでるんですか?」
小春が聞くと、詩は顔を上げた。
「そうね。暇があれば」
「何の本ですか?」
「今は、詩集。好きな詩人がいてね」
「詩先輩が、詩を読んでる」
「……よく言われる」
詩はくすっと笑った。小春も笑った。
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気がつくと、窓の外が夕焼け色に染まっていた。
「もうこんな時間」
柚葉が窓を見て言った。
「そろそろ帰らないとね」
「そうですね……」
小春は、少し名残惜しかった。もっとここにいたい。でも、初日から遅くなるわけにはいかない。
「明日から、よろしくお願いします」
小春は立ち上がって、頭を下げた。
「こちらこそ。楽しみにしてるね」
柚葉が笑った。
「真白ちゃんも、よろしくね」
「……よろしくお願いします」
真白も、小さく頭を下げた。
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温室を出て、校門へと歩く。
夕焼けの中、二人は並んで歩いた。
「小春、楽しそうだったね」
「うん。すっごく楽しかった」
「よかったじゃん」
「真白も、楽しかった?」
「……まあ、悪くなかった」
真白の声は、相変わらず素っ気ない。でも、小春にはわかる。真白も、楽しかったのだ。
「先輩たち、みんな優しかったね」
「そうだね」
「柚葉先輩、すごく穏やかな人だった。凛先輩はさっぱりしてて、詩先輩は静かだけど面白くて」
「よく見てるね」
「だって、これから一緒に部活するんだもん」
小春は、空を見上げた。夕焼けがきれいだ。
「真白」
「なに」
「わたし、この学校に来てよかった」
「……まだ初日じゃん」
「初日だから、思うの。これから楽しいこと、いっぱいありそうだなって」
真白は、小春の横顔を見た。
夕陽に照らされた小春の顔は、きらきらしている。いつも通りの、明るい小春。
「……そうだね」
真白は、小さく呟いた。
「楽しいこと、あるといいね」
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翌日、小春と真白は入部届を提出した。
放課後、温室に行くと、3人の先輩が待っていた。
「いらっしゃい。今日から、正式に園芸部の一員だね」
柚葉が、笑顔で迎えてくれた。
「よろしくお願いします!」
小春は元気よく挨拶した。真白も、小さく頭を下げた。
「じゃあ、今日は花壇の水やりから始めよっか」
「はい!」
小春は、じょうろを手に取った。
これから始まる、新しい日々。温室という、小さな居場所。
4月の風が、温室のドアを揺らした。




