102.歌声
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――明朝。夜の冷気が残り、薄い朝靄が足元に漂う中、ラリィはラグエルとのランニングに繰り出していた。
「はぁ……ぜぇ……リズは……こんなの……毎朝、よくやるよ……はぁ……っ」
「ほんっとにてめぇのスタミナはゴミだな! そんなんで俺様を従えようなんざ、百億年早ぇんだよ!」
別にラグエルを従えるつもりなどはないラリィだが、反論する余力は無い。
「俺からすれば、ラグエルに毎朝付き合ってやるラリィ先輩の気もしれないですけどね」
ラリィの隣を走るのはウィル。
昨日言った通り、ラリィに単独行動をさせない為に、ランニングに同行しているのである。
本音を言えば、よりにもよって誕生日の朝、仕事でも無いのに早起きをしてランニングなど、弥月が絡んでいなければ絶対にしたくはなかったのだが。
「リズ先輩って、入隊後もずっと走ってるんですか?」
へろへろと力無く走りながら、ラリィは頷く。
そう言えばウィルも、遠征中にリズが走りに行っている姿を見た事がある。
「やっぱ、すげぇな。リズ先輩」
「へへ……だろ?」
「女に負けて何を嬉しそうな顔してんだ」
心底情けないと思うラグエルだったが、どうにもラリィのことは憎めない。
ラリィは所持者となって以来、ほとんど毎朝ラグエルのランニングに付き合っている。
ラグエルは体を鍛えるのが大好きだ。しかしこの身になってからは、いくらトレーニングをしても鍛えられている実感は無い。こうしてランニングの真似事をしていても走っている感覚は無いし、実は無意味なことなのである。それでもラリィは毎朝、こうして走らせてくれる。
「ちょっと……待って……休憩……っ」
「まだ全然走ってねぇぞ! 甘えんな! ちゃんと付いて来ねぇと、壁すり抜けて空飛ぶからな!」
「だ……ダメ……!!」
ラリィがラグエルに付き合っているのは、彼が人ならざる行動を取って他人にそれを見られるのを阻止する為だ。
必死にラグエルに食らいついて走るラリィに、ウィルはまだ余裕の様子で付いて行く。
今日のランニングコースは、城の外壁に沿ってぐるりと一周。そこからグラウンドまで移動して一周。そして寮に戻る予定である。
――グラウンドへ移動し始めた頃、ラリィは突然足を止めた。
「……ス、ストップ……!」
「まだ半分過ぎただけだぞ! へばるな!」
「違……っ……何か、聞こえないか……?」
ウィルも足を止め、耳を澄ます。
「……歌?」
「歌だな……」
ラリィは呼吸を整えながら、どこからか聞こえてくるその声に集中した。
女の――少女の歌声である。
聞き覚えのあるその声に、ラリィの頭の中に震えるような高揚感が湧き起こる。
「――リディア」
「リディアって……」
息を呑むウィル。
「悪い、ラグ。今日はこれで終わり。戻ってくれ」
ラグエルはやや不服そうな表情を浮かべたが、大人しく紋章に戻っていった。
ラリィはその場で目を閉じて、歌を聴いた。
リディアと一緒によく歌っていた歌だ。その歌が、リディアの声に乗ってどこからか聞こえてきている。
「オレの記憶からこんな再現も出来るのか。この能力、もっと他のことに使えばいいのにな」
「何を呑気な事を言ってるんですか」
しかしウィルは少しだけ安心する。ラリィは冷静だ。
「――ラリィ」
歌が止まり、鈴のような可愛いらしい声がすぐ背後で聞こえた。
ラリィは大きく息を吸う。
「先輩。俺が……」
「大丈夫」
ウィルに小さく笑いかけ、ラリィは振り返った。
あの日のままの――長くて柔らかい金髪に、薔薇色の頬をした人形のようなリディアがそこに立っていた。
可憐な少女は花のように笑う。
「ラリィ」
「リディア……」
蕾のような手を伸ばし、ラリィの手を握るリディア。
その手は温かくて、ラリィの心臓がギュッと痛んだ。
「ねぇ。前みたいに肩車して?」
そうねだる少女をラリィは見下ろす。腰に下げた短剣の柄に手を添えて、しかしそれを握ることが出来ず、手は所在なく空を掴む。
「偽物だってわかってても、斬りたくねぇなぁ」
「やっぱり俺がやりますよ」
「それはそれでヤだ。見たくない」
「? どうしたの、ラリィ?」
首を傾げるその仕草も、本物のリディアそっくりだ。
ラリィは膝を曲げて、リディアの頬に触れてみた。くすぐったそうに笑うその顔も、リディアそのもの。
「やっぱりリディアは可愛いなぁ」
「リディアのこと、好き?」
「大好きだ」
「今でも?」
「もちろん、大好き」
「でもラリィは、リディアを助けてくれなかったね」
ラリィは一瞬、言葉を詰まらせた。
それでも何かを言おうと口を開きかけた時、また別の声が靄の向こうから聞こえてきた。
「リディア」
優しくて、甘ったるい声。
リディアはその声のした方を振り返る。
「リーディアー。あーそーぼ」
ラリィの手から、リディアが離れた。
咄嗟にリディアの腕を掴もうとしたラリィの手は、走り出した彼女を止めることは出来なかった。
「リディア! 行くな!」
「先輩! ダメですよ! 絶対に罠だから!」
「わかってる……けど!」
ラリィは、朝靄の中へ吸い込まれるように消えて行く赤いリボンを目で追った。
弥月の罠だということは分かっている。けれどこの後悔だけは、どうしたって消えない。
あの夜――リディアが目を覚ました時、その物音に気付かなかった自分を何度呪ったことか。
「あぁ……くそっ!」
「先輩!」
ラリィはリディアの後を追って走り出した。それをウィルも追う。




