第1話 音のない海
夜の底で、鯨が眠っていた。
眠ってはいたが、夢は見ていなかった。
星のように瞬く泡の粒が、ゆるやかに彼のまわりを舞う。
漆黒の海に包まれたその大きな身体は、波の合間を滑るように漂っていた。
水の冷たさも、闇の重さも、鯨にとってはすでに日常だった。
ただ静かに、ただ深く——それが、彼の在り方だった。
ある時から、鯨は夢を見なくなった
目を閉じても、何も浮かばない。
ただ、かすかに聞こえるのは、遥か遠くで囁くような息吹の音だけ。
それは、夜明けの気配だった。
深海に変化の兆しが現れるとき、まず訪れるのは——沈黙の破れ。
見えない光が、ゆっくりと彼に近づいてくる。
その光は波間から差し込み、そっと鯨の背をなでる。
凍てついた世界の縁が、少しずつ、柔らかくほどけていく。
——夢はもう、どこにもない。
残っているのは、過去の残響。
思い出すたび、胸の奥が痛む。
言葉にできない痛みが、波紋のように広がっていく。
けれど、鯨は沈まない。
夜明けが、そこにあるからだ。
その光に触れたとき、彼は知った。
たとえ夢を失っても——それは、終わりではないのだと。
海は、呼吸を続けている。
夜の闇は、光の中で少しずつ姿を変えてゆく。
鯨の鼓動が、静かに戻ってくる。
その身体を照らすように、淡い光の粒が降り注ぐ。
まるで、再生の歌のようだった。
音のない海に、それでも確かに——希望の音色が響いていた。
夢を見なくてもいい。
ただ、夜明けの静けさのなかで、新しい波を待つことができるのなら。
鯨は今日も、目を閉じて、ただ浮かんでいる。
光と闇の狭間で、再び泳ぎ出すその時を、静かに待ちながら。