01 ようこそ、さみだれ荘!
雨が、降っていた。
街の喧騒はとうに消え、コンビニのネオンだけが濡れたアスファルトを照らしている。
その脇に、傘もささずに座り込んでいる青年がひとり。
黒い髪もくたびれたワイシャツも、すべてびしょ濡れのまま、彼は黙って缶コーヒーを握りしめていた。
青年――クニアキは考えるのをやめていた。
信じていた人間に裏切られ、住む場所も、職も、何もかもを失って。
それでも悔し涙のひとつも出ないほどに、乾ききった心だけが残っていた。
だから、声をかけられたときも、最初は幻聴かと思った。
「ねえ、だいじょぶー?」
顔を上げると、目の前には小さな影が立っていた。
和装でコンビニ袋を持ち、傘は差していないのに、まるで雨が避けているかのように濡れていない、不思議な子ども。
髪が白く、少年のようでいて少女にも見えるその子は、まっすぐにクニアキを見ていた。
「……子どもが、こんな時間に……」
「子どもじゃないよー。それよりさ、おうちないの?」
あまりにも軽くて、唐突な言葉だった。
クニアキは思わず苦笑する。
「……あるわけねえだろ、こんなとこで座ってんだ」
「そっか。じゃあさ、うちおいでよ!」
「………………は?」
その子は、ぱあっと花が咲くように笑った。
「ぼくはねー、アパート?っての持っててー、まだちょっと狭いけど、寝るとこはあるよ! あ、あと、たぶんごはんもある!」
「いや、え、アパート持ってんの?」
「うん! きみ、クニアキでしょ?」
「いや、てか、なんで名前知って――」
「ぼくはクロって言うんだ! じゃ、決まりだね!」
「えっ、おい!!」
真っ白な髪色に反し、“クロ”と名乗った人物は、びしょ濡れのクニアキの腕をとるとぐいっと引っ張る。
その手は細く、小さかったけれど――不思議と、あたたかかった。
クロに腕を引かれたまま、クニアキは半ば引きずられるようにして住宅街の奥へと進んでいた。
しとしとと雨は降り続き、街灯の明かりすらぼんやりと滲んで見える。
「(どこに連れていかれるんだ……俺は)」
道中何度も立ち止まろうとしたが、不思議と足が止まらなかった。
あの細い手が、少しだけあたたかくて。
今は、何となくそれを手放すのが惜しかった。
「ついたよー!」
クロが立ち止まった先には、古びたアパートがぽつんと建っていた。
木造二階建て、左右にずらりと並ぶ扉と窓。
扉の数は6つあり、その外見から、一部屋一部屋もそれなりの広さを確保されている事が分かる。
「……え、ここ、全部お前の?」
「うん。まあー、入ってみて! あ、どこでもいいよ。多分みんな一緒だから」
そう言うと、クロは「今日は二階にしよー」と階段を上がっていく。
クニアキは言われるがまま、目の前の『101』と書かれたドアのノブを掴んだ。
ギイ、と音を立てて開いた扉の向こうに広がっていたのは、なんと――
小さな台所と、ちょっと広い一部屋だけだった。
差し詰め、まごう事無きワンルーム。
「……は? いや待て、外観と違くねえか!? 1DKくらいあったろ!?」
「うーん、まだ育ってないからねー」
「!?!?」
背後に現れたクロに、クニアキは目を白黒させる。
「おまっ、二階にいかなかったか!?」
「だからー、今はどっから入っても一緒なんだって。この部屋しかないの! でも、そのうち広がるから、安心して!」
「広がるって……どうなってんだよ……」
「魔法のおうちだよー」
呆れて座り込むクニアキに、クロはにこにことお茶を差し出す。
いつの間に煎れたのか、湯気の立つ湯飲みが彼の前に置かれた。
「とりあえず、これでも飲んでー。あったまったら今日は寝よっか」
「え、寝よっかってお前もここで寝んの?」
「あったりまえじゃーん。部屋、ここしか無いんだから! あっ、布団は人数分あるから、大丈夫大丈夫!」
「……はぁ……」
クニアキは額に手を当てて深くため息をついた。
でも、なぜだろう。さっきまであんなに重かった心が、少しだけ軽くなっている気がした。
「改めて、“さみだれ荘”へようこそー! かんぱーい!」
クニアキに無理矢理湯呑を持たせて乾杯をしたクロが、にぱっと笑った。