.1 【乗車】
成長する前の自分は今の自分を見てどう思うのだろうか。どうしようもないことを避けず、どうでもいいことをする。そのうち自分でもどうしていいのかがわからなくなった。
俗に言う、子供であることを諦める階段ということなのだろうか。それを信じられるようになってきた自分に気づいて、とても嫌になって帰宅路で石を蹴った。
ミミはいつも通りの帰路についていた。
食堂で友達と会うとそのまま食堂で居残り、夕食を共にして、帰る時間はいつも夜七時を回る。それでも帰るのは早いほうなのだが、なにしも電車で一時間揺られて、それから自宅の最寄り停へバスにのりかえていれば帰るのは夜十時になってしまう。
夜九時を回るときにミミはすでにバスの窓に寄りかかっていた。
乗員八名を後部座席から見下ろすよ、それぞれ満遍なくバラバラに座っていた。バスがバンプを踏むと皆が揃って身体を揺らす。
左に曲がると右へ、右に曲がると左へ。
片耳から流れてくるレッツゴーなロックンロールをBGMに皆が揃ってダンスを踊っているように見えてにこりと口元を緩ませた。
しかし、隣の席にわざわざ座ってきた男性にじっとその間抜けずらを見られたので、何事もなかったようにやり過ごした。
顔を伏せながらミミは考える。
一ヶ月に一回はあるのだ、こういうことが。
ミミは自分が普通よりも少し顔が整っていることがわかっている。
ある遠足でいち早く眠りについた彼女をクラスメイトがこぞって寝顔を盗撮していた時から理解した。
クラスメイトの一人の不注意で腕が頭にぶつかり、彼女は目を覚ました。
よってたかって自分の顔面に携帯電話のレンズを向けている。
液晶越しにのぞき込んでくる姿は心底気持ち悪いと思ってしまい、そこまで言わずとも気持ちのいいものではなかった。
砂利が混じったアスファルトの田舎道に揺られながら暗すぎる景色を見る、振りをして男を観察した。
隣に座る男の顔が窓の反射でぼんやりと見えた。男性と言っても成人男性というレッテルを貼るには少しばかり若すぎる。
その代わりに男の子と呼ぶにはしごく落ち着いていた。ボサボサの髪がアウトラインのけばみでギザギザにしていて、身長は低いように見えたが、姿勢良く綺麗にそろえられた脚は入りきらないほど窮屈に下斜めに伸びて席の下の影に消えていた。
座高がない代わりに脚が成長したように、アンバランス体格。褒め言葉ではある。
がたり、とバスが一度大きくはねてから道の揺れが安定した。
山道の街道に入ったようで明かりも増えた。
またふと顔を上げて反射に意識を向けながら外を見る。先には車一つも走らない夜道が続く。
街頭の間隔もずいぶん広がり、やっと街頭で明かりが照らされると思うと、外からの光が一瞬だけバスの中にさした。
そして窓の反射を見ていたミミはぎょっとして思わず席を手で掴んだ。
一瞬だけバスの内部がはっきりと照らされた。いや、内装なんてどうでも良いのだ、
その中で隣の男が外を見る私を見ながら笑みを浮かべていたのだ。
キモすぎる。キモすぎる。やだやだやだ。キモすぎ。
まって。キモすぎる。
「キモすぎる」という独り言も気色悪さからではなく明確な恐怖感にあおられ、まるで言い訳のように何度も何度も心から湧き出てきた
自然と逃げ道を手で探しても席のふわふわとクッションと堅いシードベルトの感触しかなく、逃げようにも通路への一つの逃げ道は男の綺麗にそろえられた脚でしっかりとガードされていた。
顔を上げる勇気もなく、涙ぐんだ目で自分の膝を見つめることしかできなかった。
ただ、じっと降りるバス停まで硬直して何事も起きないように祈るしかなかった。
片耳からはロックンロールの歌手が語りかけてくる。
「私は貴方たちとは違う人種なの」
「あなたの目を見ているとすぐわかる。私のような人が嫌いなのね」
言いたいことを歌に通して叫んでもらうことが快感で好きなジャンルだが、其れと同時に自分が現実で言えないことを代弁してくれることが快感なのだ。
裏を返せば現実で言いたいことが言えないということなのかもしれない。
頭の中で散々思い続けている「自分の強さ」を認識しながらもリアルに行動することができない。
いつもその場になると受け身になってしまう。
誰しもが私は強いと言うけど、自分にとっては自分が好きな理由の自分になりきれていない。他人と話していても、彼らが思っている強さはきっと自分の美しさからくるのだろうと感じてやまない。
そして実際にそうなのだろう。
余裕は自信から生まれると言うが、必ずしも自信が全ての答えになることはないのだから。
すらりと伸びた自分の脚の一点を見ながら、男の姿を目の端で捉えている。相変わらずニヤニヤしてこちらを見ている。今度は目線は私の手元に落ちている。もうここまできたらやけくそでどこ見たっていい、ただ手を出してきたらいっそ恥を捨てて叫んでしまおう。
いやでも、せめてダイレクトに、堂々と触ってくれたら、こっちもその勢いだけ、叫ぶというアクションを繰り出せるものだ
来るならこい、という弱気の中の強気で力みながらもその気持ちはすぐに気を取られて暴力的に消し去られた。
そんなこと考えている暇がなくなった。バスが急転したのだ。
そうとしか覚えていない。意識がついてこなくなるほどに突然、直接的に、そして理想的に全てが反転した。
天地も、左右も、だけど気づいたときには全てが元通りになっていた。
バスの外は変わり果てた景色になっていたことと、いつもと変わらない帰りのバスの内装以外は私の意識に入り込んでくる余裕がなかった。
ギデオンは神にこう言った。
「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、 羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。」
すると、そのようになった。
翌朝早く起き、彼が羊の毛を押さえて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。
ギデオンはまた神に言った。
「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」
士師記6:37-39