シルクサテンのブラウス~紡がれた絆
中野杏樹は、いつも通りの時間に自分の席についた。
彼女が通っている学校は、全国的にも名の知れた、中高一貫のミッション系女子校。
杏樹は、もうこの学校に通って5年目だ。
つまり、高校二年生。
高校からの募集は行わない中高一貫校のため、周囲には中学校からの顔見知りばかりだ。
いつも変わらず繰り返される退屈な日常。
尤も、それは杏樹自身の責任でもあった。
自分から行動を起こせば、物事などいとも簡単に変えることが出来る。
しかし、杏樹はこれまで何も積極的な行動を起こしてこなかった。
杏樹は、自分がもう高校二年生になり、この学校に通うことが出来るのもあと一年半しかないことに、内心、焦りを感じていた。
もちろん、大学に進学するか就職するか、進路も悩み事の一つだったが、彼女には、もう一つ気がかりなことがあった。
杏樹には“彼女”がいない。
女性が“彼女”を作ることは、この国には究極的で純心な至高の精神のなし得る特別な関係だという伝統がある。
特に、女子高生同士での“お付き合い”は、高校時代の三年間でしか成立しないため、特に神聖化されていた。
当然、女性同士で結婚することは、男女での結婚と同様に扱われる。
そして、もし男女で結婚したとしても、女性側が“彼女”を持つことは許される。
とはいえ“お付き合い”している間柄でも、その関係を続けながら男性と結婚するケースが大半で“お付き合い”している同士で結婚するのは、比較的珍しい。
杏樹の母親にも“お付き合い”している女性がおり、その女性も結婚していて杏樹より5歳上の娘がいた。
杏樹が自分の席で授業の準備をしていると、近所に住んでいて小学校に入学する前からの幼馴染、中等部で再会した水稀有栖が教室に入って来るのが見えた。
杏樹と有栖は、公私ともに認める親友同士だが“お付き合い”はしていない。
そして、杏樹の目は有栖に釘付けになった。
「う、うそ・・・」
杏樹にはそう独りごちるのが精一杯だったが、クラスの子たちが黄色い声を上げながら有栖の周りに一斉に集まった。
「きゃっ! 有栖ちゃん、素敵!」
「誰? お相手は?!」
有栖は、勉強が出来るだけでなくテニス部のエースとしても活躍している。
だから、クラスメイトだけでなく、学校中から人気があった。
その人混みをかき分け、有栖は自分の席につく。
杏樹の前の席だ。
有栖は席についたまま振り返り、未だ混乱している杏樹の目を見ていった。
「杏樹、後で話あるから。放課後、時間もらうわ」
有栖はそれだけ杏樹に伝ると、再び前に向き直った。
いつもなら、ここで他愛のない会話をホームルームが始まるまで交わすはずだが、今日の有栖は違っていた。
杏樹は、有栖の背中とポニーテールにした後頭部を見ながら有栖の言葉の意味を考えた。
しかし、杏樹にはその言葉の意味よりも、一つの事実の方が気になって仕方なかった。
「有栖に“彼女”が出来た」
少なくとも、自分の一番の友だちがずっと自分と同じ“彼女”なしだったから、それが杏樹にとって自分も“彼女”を作らなくても良いという免罪符になっていた。
その彼女が、自分を置いて「誰か」と“お付き合い”を始めた。
自分を差し置いて。
杏樹の心は、有栖に裏切られたという猜疑心で満たされた。
なら「後で話がある」というのはどういう意味なのか。
“彼女”を私に紹介する?
“彼女”が出来たから私と絶交?
“彼女”の友達でも私に紹介してくれるのか?
それとも・・・。
いずれにしても、杏樹にとっては有栖に“彼女”が出来たという事実に対する感情の下では、どうでもいいことだった。
6時限目の授業が終わり、いよいよ運命の放課後。
杏樹が帰りの用意をして、自分の席で放心状態になっていると、目の前の有栖が立ち上がった。
有栖は立ち上がり、杏樹の席の横まで来ると歩みを止めた。
「杏樹、ついてきて」
有栖はそれだけ杏樹に伝えると、そのまま歩いて行ってしまった。
慌てて有栖の後を追う杏樹。
何やら有栖が怒っている様子なので気になる。
それより気になるのは、周囲のクラスメイトの視線。
もちろん、クラスメイトたちは杏樹と有栖が親友同士だということを知っている。
当然、いつかは杏樹と有栖が“お付き合い”をするものだと彼女たちも思っていた。
実際、杏樹に「まだ有栖さんと“お付き合い”されてないの?」「いつ有栖さんと“お付き合い”なさるの?」なんて直接訊いてくる輩までいた。
だから、有栖が“彼女”持ちとなった今、未だフリーの自分が有栖に「置いていかれた」とみんな内心では思っているに違いない。
こうして、有栖といっしょに歩いていると、その違いが殊更強調されてしまう。
この社会では、誰がどう見ても相思相愛なのに“お付き合い”していないのは、その人物が“お付き合い”に値しない人物だということになり、人間性すら疑われかねない。
女性同士で“お付き合い”しているか否か。
それが、この社会での人間性のバロメータなのである。
特に、伝統あるミッション系女子校のこの学校では。
もちろん“彼女”を作らず、一人でいたい。異性と結婚できればそれでいいのなら、それなりのやり方はある。
しかし、そうしている限り、永遠に“彼女”は出来ない。
だから、杏樹はそのやり方は採用していない。
「ああ、もっと離れて歩こうかな」
杏樹が独りごちる。
自分たちが教室を出た後、彼女たちはその話題で持ちきりだろう。
杏樹が有栖に先導され、やって来たのは、第2視聴覚室。
第1視聴覚室の方は、2クラスの合同授業にも対応した大きな部屋だが、この第2視聴覚室は、少人数でのゼミや補習で使われる、12畳くらいの小さな部屋だ。
予約が入っていなければ、誰でも使用することが出来る。
予約といっても、担当の先生に断りを入れて、使用者リストに代表者が署名して鍵を借り出せば、それが予約となる。
有栖がドアの鍵を開ける。
用意周到だ。
視聴覚室は、音楽室ほどではないが、ある程度の防音対策が施されている。
少しくらい大きな声を出しても、廊下に漏れ出す心配は少ない。
二人が視聴覚室に入ると、有栖は「鍵、閉めて」と杏樹に指示する。
「うん」
杏樹は小さな声でそれだけ言って、言われた通りにドアの鍵を閉めた。
カチャリ。
鍵の閉まる音が、杏樹には思いの外大きな音に聞こえた。
「そこ、座って」
有栖が再び杏樹に指示をする。
有栖に言われた通り椅子に座る杏樹。
視聴覚室の椅子は、よくあるミニテーブル付きのパイプ椅子だ。
電子黒板のある正面に向かって、一列、扇状に並べられた真ん中の椅子にちょこんと座る杏樹。
「私、部活あるから。時間、30分しかないけど」
そう言いながら、有栖が杏樹の前に立つ。
いつも饒舌な有栖にしては、口数がやたらと少ない。
やっぱり、怒ってるのかな。
甲斐性なしのこの私に対して。
有栖の顔を見られない杏樹は俯いて座り、有栖の上履きと制服のプリーツ・スカートだけが目に入る。
有栖が履いているのは、いつものハイソックス。
絶対領域は拝めない。
「杏樹・・・」
有栖の澄んだソプラノが自分の名前を呼ぶ。
杏樹が顔をあげると、有栖はにこやかに微笑みながら、ファッション・モデルのように、クルっとその場で一回転した。
「どう?」
と有栖。
どう? と言われても。
沈黙。
何かリアクションしなければ、と杏樹は焦ったが、有栖の方が先に言葉を発した。
「黙ってたら分からないじゃない。何か言ってよ」
決して発言を強要しているような強い口調ではなかったが、杏樹は強いプレッシャーを感じた。
いつにも増して、気弱な杏樹。
「“彼女”、出来たんだね」
やっと口を開いた杏樹だが、彼女には、どうあがいてもそれだけしか言葉にする気力がなかった。
「フフフフ」
お気楽な含み笑いをする有栖。
なんだ。
怒ってないじゃん。
それとも、これが“彼女”持ちの余裕か。
しかし、有栖の次の言葉は杏樹が予想もしていなかったものだった。
「思った通り。杏樹、やっぱり勘違いしてる」
勘違い?
勘違いって何だ?
私がどんな勘違いしてるっていうんだ?
「勘違い? だって、有栖、その格好・・・」
杏樹は人差し指で有栖を指した。
「杏樹ったら、今日は朝からずっと私に話しかけてくれないんですもの。私が誰かと“お付き合い”を始めたこと、そんなにショックだった?」
ショック?
そんな言葉じゃとても表せられないほど打ちのめされたよ、私は。
「そりゃそうでしょ。ずっと親友だと思ってた有栖に、ある日いきなり“彼女”が出来て、ショック受けないわけない」
杏樹がそう言い終わるか言い終わらないかといううち、有栖が食い気味に言った。
「ふざけないで!」
有栖の強い口調が視聴覚室に響く。
「私が親友? 杏樹、私のこと、本当にそう思ってた?」
「思ってた。いや、今だってまだそう思ってるよ、私は。有栖の方こそ、私のこと、親友じゃなかったんじゃないの?」
まずい。
完全に売り言葉に買い言葉になってる。
どこかで沈静化させないと。
「何言ってんの!? 杏樹は、私の大切な親友よ。当たり前じゃない。だけど・・・」
だけど?
だけど、何なのだ。
「だけど、それだったら、どうしていつまでも私に告白してくれなかったの? 私、ずっと待ってたのに・・・」
いや、それ、私だけの責任か?
なぜ私だけが責められる?
だったら、そっちから告白して来ればよかったじゃないか。
だからか?
私からの告白を待ちきれなかったから、他の誰かと“お付き合い”始めたっていうのか?
もちろん、有栖が他の誰かの“彼女”に取られてしまったのは、なかなか有栖に告白しなかった自分の責任かもしれない。
でも、そんな主張は理不尽だ。
自分勝手だ。
他の誰かではなく、有栖が自分と“お付き合い”したかったんだったら、そっちから告白して来ればよかったじゃないか。
有栖は人気者だし“お付き合い”の申し出も多かっただろう。
自分が有栖に告白したからといって、有栖が自分と“お付き合い”してくれる可能性はどのくらいあるっていうんだ?
私の方から告白しなかったから“お付き合い”をしなかったなんて言うのは、言い訳だ。
じゃあ、有栖が私以外の誰かと“お付き合い”を始めたのは、私からの告白が無いと判断し、数多い申し出の中の一つを承諾したからなのか?
私が有栖に告白していたら、有栖は私と“お付き合い”してくれていたのか?
とはいえ。
私の方から有栖に告白すれば有栖は自分と“お付き合い”をした一方で、私が有栖に告白しなければ、有栖は自分に告白することなく、他の誰かとの“お付き合い”を始める。
つまり、有栖にとって、自分との親友関係は、その程度のものだったということなんじゃないか。
しかし、冷静に考えれば、それは自分も同じだ。
有栖が他の誰かと“お付き合い”を始めてから、後出しジャンケンでそのことを嫉妬するなんて・・・。
釣り落とした魚は大きい・・・。
理不尽で自分勝手なのは、有栖より自分の方か。
「だからね、私、戦略立てたの」
「戦略?」
「そう。杏樹が、どれだけ私のこと愛していたのか自覚させるための戦略。そして、そのことに気付いた杏樹が、私と“お付き合い”したいと強く思うような戦略」
なんなんだ、突然。
自分が有栖に告白しなかったことを散々詰なじった後は、戦略だと?
「どういう戦・・・あっ!」
杏樹は、非常に大事なことに気づいた。
何でだ?!
何で、何で私はこんな簡単なことに気づかなかったんだ?!
有栖に対する嫉妬心が判断を曇らせたのか?
「フフ。やっと気付いたようね!」
有栖は、嬉しそうにまたそこでクルクル回った。
「シルクサテンのボウタイブラウスを着て来れば、杏樹はぜェーったいに、自分以外の誰かが私の“彼女”になったと思い込む。それが私の戦略、狙いだったのよ!」
してやられた。
シルクサテンのブラウスは、女神信仰から発したこの国の、長い伝統と文化の一部として位置づけられている。
シルクサテンのブラウスは、その贅沢な光沢とトロンとした質感の美しい外観により、女性にとっては着用することで自らをより魅力的に見せることができる、魔法のアイテム。
常に美しくありたい女性たちにとって、シルクサテンのブラウスは古の昔より憧れの的であると同時に、女性自身そのものの象徴でもある。
女性たちは、社会通念に従いつつも、自分たちの特別なシンボルとしてシルクサテンのブラウスを着用することで、社会のルールと個々の価値観を調和させている。
また、シルクサテンのブラウスの中でも、ボウタイ付きブラウスは特別だ。
胸元でボウタイをリボン状に結んだリボンタイ。
“お付き合い”している女性同士お揃いで着用した時、そのリボンタイは、特別な情愛で結ばれた二人そのものを表す。
シルクサテンのボウタイブラウスは、その二人の特別な関係そのものを象徴する、特別な存在なのである。
結婚して、左手の薬指に指輪をするのと同じで、シルクサテンのボウタイブラウスは、女性同士で“お付き合い”していることを示すアイコンになっている。
一般的に、シルクサテンのボウタイブラウスを着ることで、自分には“彼女”がいることを周囲にアピールすることになる。
特に女子高生にとってシルクサテンのボウタイブラウスは、個人のスタイルや個性を表現する手段として、友情や愛情をより深め、特別な結びつきを築いていく手段として、重要視されている。
制服ではなく、シルクサテンのボウタイブラウスという特別なブラウスを着用することで、それが自己表現になると同時に、共通の価値観や関心事の共有を強く意識する。
さらに同じ色のブラウスを着ることで、共通の興味や価値観が共有され、友情や愛情が強化されていく。
特に、今日有栖が着用している深紅のブラウスは、大切な日に着用する色とされている。
情熱と愛を表現する深紅のブラウスは、愛情と希望の象徴とされ、新たな友情や愛情が芽生える可能性を持つと信じられていた。
少なくともそのことに気付いてさえいれば、杏樹は有栖の「戦略」に翻弄されることはなかったかもしれない。
とはいえ、深紅のシルクサテンのボウタイブラウスは“お付き合い”を始めたばかりのカップルがお揃いで着ることも多かったから、杏樹はてっきり有栖もそうなのだろうと思い込んでしまったのだ。
結局、有栖の戦略は大成功だった。
「確かにそうだね。私、有栖に“彼女”が出来たって思って気づいたよ。やっと気づいた。私が有栖をどれだけ強く好きだったかってこと。どれだけ有栖を愛してたかってこと。有栖に“彼女”が出来て、私がこんなに強く嫉妬するなんてね。こんな気持、始めてだよ」
杏樹は、有栖の瞳を見つめながら言った。
目を細めながら杏樹の言葉を聞く有栖。
「それじゃあ・・・」
有栖はジッパーを下げて、自分の通学鞄を開けた。
そして、有栖はその中からあるものを大事そうに取り出して、杏樹に差し出した。
「はい、これ。開けてみて」
杏樹が有栖に差し出したのは、長さ40cm、横幅30cm、厚さ5cmくらいの小箱だった。
杏樹は取り敢えずその小箱を受け取り、上蓋を開ける。
最初は小箱本体にぴったりと吸い付いて開けにくかった上蓋は、周囲から空気を取り込みながら、徐々に軽くなっていって、ようやく外れた。
有栖が差し出したその小箱の中には、深紅のシルクサテンのボウタイブラウスが綺麗に畳まれて入っていた。
「私がそれを杏樹に渡した意味、分かるよね?」
畳まれていたため、全体像は分からなかったが、どうやら有栖が今着用しているブラウスとお揃いらしい。
「それ、着てくれたら嬉しい。着てくれるかな? 杏樹・・・」
有栖は期待と緊張が入り混じった表情で杏樹に尋ねた。
有栖のその提案に、杏樹は驚きと喜びの表情を浮かべる。
有栖が差し出したのが、彼女が着ているのとお揃いの深紅のシルクサテンのボウタイブラウスだと分かった瞬間、杏樹の心はこれ以上ないくらい高鳴った。
しかし、有栖の問いかけてきた「それを渡す意味」が、杏樹は自分の心に重くのしかかってくるのを感じた。
有栖から渡されたブラウスを真剣に見つめながら、深く考え込む杏樹。
杏樹の心は激しく揺れ動いた。
嬉しさの反面、杏樹の内面では様々な感情が渦巻いてきた。
友情と嫉妬、成長と自己犠牲の葛藤が、杏樹の心を揺さぶり、彼女はその自問自答の中で逡巡する。
ここまで来て、私はなにを躊躇してる?
なぜ逡巡してる?
私は有栖と“お付き合い”したくないのか?
逆に、自分の他の誰か有栖の“彼女”になってもいいのか?
この期に及んで自問自答する杏樹。
有栖と“お付き合い”しなくてもいい。親友のままでいい。
だがしかし、有栖が他の誰かの“彼女”になるのは絶対嫌だ。
あんな嫉妬心はもう感じたくない。
自分勝手――。
自己中心的――。
こんな自分勝手な考えが私にあったなんて。
ああ、自分はこんな自己中心的な人間だったのか。
私はこんな自己中心的な人間だったから、有栖に告白できなかったのか。
結果、大切で純心な有栖に、こんな詐欺まがいの戦略まで行わせてしまった。
つまり、私はまだ子供なのだ。
杏樹は、友情と愛情の価値は深く理解しているつもりだった。
しかし、その信念は有栖の戦略によって見事に打ち砕かれた。
その理解・信念が、単なる自己欺瞞であったことを、有栖の戦略によって見事に暴かれた。
私は、自分で自分の未来を切り開く行動さえ起こせない未熟な人間で、子供だ。
自分がまだ未熟であることを自覚し、自分自身に対する疑念がフツフツと湧いてくる。
いや、それは怒りといったほうがいいか。
“究極的で純心な至高の精神”など、こんなに未熟で子供の自分の心には、微塵も宿ってはないのだ。
でも――。
有栖と“お付き合い”を始めて、有栖の“彼女”になれば、少しは自分も“成長”できるかもしれない。
有栖の“彼女”という立場が、自分を成長させてくれるかもしれない。
大好きではあっても、いつまでも親友という気楽な関係に沈滞して、ぬくぬくと過ごして良い訳がない。
ここで杏樹は気づいた。
ここで自分は、有栖と"お付き合い"することで、友情を超えた新たな段階に進む決断を迫られているということに。
つまり。
これは自分が成長し、変わるチャンス。
これは有栖と"お付き合い"することで新しい経験を積み、自分を高めていく絶好の機会。
自分勝手で自己中心的な自分は嫌だ。
特に、有栖との関係性においては。
だから、今回のような成長する機会を逃すことはできない。
杏樹は、新たな未来への扉を開ける決意を固めた。
嫉妬心を乗り越え、友情を尊重し、有栖の幸せを願う決断を下した。
そして、杏樹は有栖の"彼女"としての役割が、自分自身を成熟させ、新たな道を切り開く手助けになる可能性に掛けてみようと思った。
意を決して、杏樹は箱の中から深紅のシルクサテンのボウタイブラウスを取り出した。
この瞬間、ホッとしたのか、緊張のためにテニス部の公式試合でもしたことがないくらい強張っていた有栖の表情が和らいだ。
杏樹は、深紅のシルクサテンのボウタイブラウスを箱から取り出しながらも、有栖のその表情の変化を見過ごさなかった。
有栖が喜んでくれた。
最初からこうしていればよかった。
後悔先に立たず。
ならば、先に進むのみ。
杏樹は、箱の中から深紅のシルクサテンのボウタイブラウスを取り出して、肩の部分を両手で優しく掴んで目の前にかかげた。
すると、畳まれた両袖や前下身頃、そして左右の襟元から伸びた長いボウタイが重力に従ってトロンと垂れ下がった。
「コンニチハ!!」
杏樹は、ブラウスがそう挨拶しているような気がした。
ブラウスは、こうして軽く掴んで持っているだけなのに、杏樹の指先からは、絹の心地よい質感が強く伝わってきた。
シルクサテンのブラウスの布地は、ただ滑らかなだけでなく、意外にも、しっとりとした柔らかさがあった。
杏樹の心には、その肌触りの驚きと感動が込み上げてきた。
その布地の肌触りは杏樹に心地よい感覚をもたらし、彼女はその感触に強く魅了された。
それだけでなく、そのシルクサテンの特別な質感は、まるで夢のようだった。
いや、例えるなら、夢の中でしか感じたことがないような、自分の想像しうる限りの魅惑的で心地良い感触の全てを凝縮したようだった。
それは、有栖を想いながら、自分で自分を慰めている時、絶頂を迎えた時以上といってもいい心地良い感触。
このブラウスを着て自分を慰めたら、私、どうなっちゃうのかな?
有栖が目の前にいなければ、杏樹はこのシルクサテンのボウタイブラウスに抱きついていただろう。
しかし、今の杏樹にとっては、こうして軽く触れることだけで十分に魅了的だった。
また、シルクサテンの光沢は、LEDライトのような人工的な光を受けてさえ煌めくような輝きを生み、まるで宝石のように美しく光っていた。
さらにその光沢は、深紅の布地の色によって一層際立ち、まるでルビーのような、上品な華やかさを持っていた。
その美しさは、杏樹にとってこのシルクサテンのボウタイブラウスがただの布地や服であるだけでなく、まるで宝石のように輝く特別な存在であることを強調した。
そしてブラウスの深紅の色は鮮やかで、まるで情熱と愛情がその中に閉じ込められているようだった。
杏樹は、深紅のシルクサテンのボウタイブラウスが、自分の内面の感情を反映しているように感じるとともに、有栖の自分への愛情と彼女との深い絆をより強く感じた。
自分の指先から伝わるシルクサテンの滑らかさとしっとりとした柔らかさは、未来への希望と期待を彼女が胸に秘め始めた瞬間を強調し、美しく彩った。
「私とお揃いよ、杏樹。シルクサテン・ブラウス工房で有名なリリー・シルクのお店で購入したの。このお店のシルクサテンのボウタイブラウスを、杏樹とお揃いで着るのが私の夢だった。商品名は『特別な人との出会いを祝福するための装い』。あなたと私の新たな門出にぴったりなじゃない?」
有栖は、つま先を上下に弾ませながら嬉しそうに話す。
あまりファッションには詳しくない杏樹だが、リリー・シルクは知っている。
自分の母親も、リリー・シルクのボウタイブラウスを何着か持っている。
母親からの受け売りだと、リリー・シルクは、もう何十年も前から“お付き合い”する女子高生の間で神聖視されているアパレル・メーカーだ。
リリー・シルクは元々、オートクチュールのファッション・ブランドでデザインをしていたデザイナーが独立して立ち上げたアパレル・メーカーで、オートクチュールの品質そのままを、リーズナブルな価格帯で提供するのが目的だそうだ。
このお店のブラウスなら、中高生でも少し背伸びをすれば購入することが出来る。
「ねえ、着てみて」
有栖が杏樹に囁く。
この教室には自分たちしかいないんだから、普通にしゃべればいいのに。
「え、でも、着るって・・・」
杏樹が着替えることを躊躇してキョロキョロしていると、有栖が言った。
「探したって、視聴覚室に更衣室なんてあるもんですか。ここで着替えればいいじゃない。小学校の時はいっしょにお風呂入ってたし」
「そ、それは小学生の時の話でしょうが!」
「そもそも。私たち、これから“お付き合い”するんでしょ? “お付き合い”したら、着替えを見られる以上に恥ずかしいことだって・・・」
「いやいや。必ずしもそうなるとは限らんし。そういう関係になるのは“お付き合い”してる間でも少数派だよ?」
「例えばの話よ。杏樹、ブラ着けてるんでしょ? 別にスカートまで脱いで全裸姿を見られる訳じゃないんだから。下着姿見られるくらい“お付き合い”すれば普通でしょ? っていうか、時間ないから、はやくはやく!」
この辺りの割り切り感は、運動部ならではだろう。
運動部で、着替えにいちいち恥ずかしさを感じていたらやっていけないだろう。
そう急かされて、杏樹は渋々有栖に同意した。
「分かったわよ! ちょっと待ってて」
杏樹は、制服のブラウスの襟に巻いた紐タイを解く。いつもはリボンを垂らしているが、今日は紐タイだった。そして、ブラウスのボタンを一つづつ外していく。
まだ梅雨入りする前だったが、湿度は比較的高い。
今日はいろいろ心労がたたったおかげで、普段あまり汗をかかない杏樹も、変な汗をかいていた。
ブラウスを脱いで軽く畳むと、ブラウスは少し湿っていた。
汗臭くなってるだろうなと思うと、気分が沈む。
だが、制服のブラウスや体操服に染み付いた私の体臭を、有栖はバニラやココナッツみたいに甘くて良い匂いだと言う。
見ると、有栖の目が畳んだ私の制服のブラウスに釘付けになっている。
この制服のブラウスの匂い、嗅ぎたいのか?
嗅がせんけど。
まあ、確かに私もクラス全員が制汗剤使いまくった体育の授業の後の教室の臭いは好きじゃない。
窓際の席で良かった。
そういえば、窓を開けて授業を受けていて、たまに漂ってくる有栖の匂いはとても良い。
一時間目とか、テニス部の朝練で汗をかいた後であろう有栖から漂ってくる匂い、最高だ。
あれは一年の時だったか、そう、テニス部の公式試合の直前くらいに、朝練の片付けが遅れたとかで、有栖がユニフォームのテニスウェアの上に、制服のブラウスだけ羽織って授業を受けた日。
「ごめんね杏樹。練習の後、時間なくてシャワー浴びれなかったんだ。杏樹後ろの席だから、私、汗臭いかもしれないけど、許してね」
そう有栖が許しを請うてきたが、あの時は至福だった。
後で気づいたが、それにしては授業中、有栖は正面から自分を団扇のように下敷きで煽っていた。
最初は暑いのかなと思っていたけど、汗臭いことを自覚していたのにあんなことしていたということは、あれは絶対に自分の匂いを私に送ってたに違いない。
今日のことといい、こいつ、結構策士なんじゃないか?
まあ、あの日の夜は有栖の匂いを思い出しながら自分を慰めたけどさ。
そういえば、有栖も自分のことを想いながら同じ様なことをしているのだろうか?
自分の匂いを想い浮かべながら・・・。
それも悪くない。
悪くないどころか、そうであって欲しいとさえ思う。
それからというもの、席替えの度に、いわゆる“主人公席”と呼ばれる、あの窓際の一番後ろの列の2つの席は、私たち二人の指定席になっている。
なんか、変なこと思い出しちゃったな。
それにしても、下着姿の素肌に当たるエアコンの風が涼しい。
杏樹が畳んだブラウスを隣の椅子のテーブルに置き、シルクサテンのブラウスを着ようとすると、有栖が突然叫び声をあげた。
「チョイ待ち! あんた、何そのブラウス自分で着ようとしてんの? こういう時は、ブラウスを贈った方が“彼女”に着せるんでしょうが!」
はぁ?
でもまあ、聞いたことある。
別れないおまじないか。
「あ、そういえばそんなおまじないあったね」
杏樹がそう言うと、有栖が反論する。
「それもあるけど、ブラウスって、そもそも自分で着るんじゃなくて他人に着せてもらうものなのよ」
「え、そうなの?」
「ほら、女性のブラウスやシャツとかって、左側にボタンが付いてるでしょ?」
「ああ、うん。そうだね。たまに右側にボタンが付いてるシャツとか着ると、ものすごくボタンはめやすい」
「それはね、昔のヨーロッパで奴隷やメイドが貴族の女性に服を着せる時、ボタンをはめやすいように男とは逆側にボタンを付けたからなのよ。男は戦争のとき自分で着替えしなくちゃいけなかったから、貴族でも男の服はボタンは止め外ししやすい右側に付いてるの」
「へー。知らなかったな。そういうもんだと思って気にしたことなかった。確かにやりにくいけど。特にボタン外す時」
「何にでもね、理由はあるもんよ。だからね。『お互い奉仕し合います』って誓いを込めて“お付き合い”してる“彼女”がブラウスを着替える時は、自分で着替えず“彼女”に着せてもらったり、脱がせてもらったりするものなのよ。そもそも、宝石よりも高価なシルクサテンのブラウスやドレスなんて、王侯貴族しか着られないからね。尤も、その当時の貴族の女性は、下着すら召使いに着替えさせてもらってたそうだけどね」
それで、どうすんの?
ブラウス着せてくれるんだったら、早くしてくれないかな。
汗もすっかり乾いて、そろそろ寒くなってきた。
あと、他に何か儀式が残ってなければいいけど。
「それじゃあ、杏樹。後ろ向いて腕伸ばして。右腕から袖通すから」
「分かった」
杏樹は、そう言いながら椅子から立ち上がりると、有栖に背を向けてペンギンのように両腕を後ろ側に伸ばした。
まず、有栖が杏樹の右腕にブラウスの右袖を通した時、シルクサテンの肉厚の布地が杏樹の肌に触れたその最初の感触は、彼女の心に驚きと興奮を呼び起こした。
杏樹の腕がシルクサテンのブラウスの袖を通る時の、シュルシュルというサテン生地特有の衣擦れの音も、彼女にとっては心地良い音楽のようだった。
そして、杏樹の右腕がブラウスの袖を完全に通った瞬間、彼女の右腕はシルクサテンの滑らかで冷たいような感触に覆われた。
しかし、その冷たさは、自身の体温によってすぐに温かさに変わった。
シルクサテンは杏樹の右腕に心地よく絡みつき、やわらかな包み込むような感触をもたらした。
「はいー。じゃ、次。左腕」
左腕がブラウスの袖を通る時も、心地良いシュルシュルという衣擦れの音が響いた。その響きは、杏樹の耳を優しく愛撫するようだった。
杏樹の左腕がブラウスの袖を完全に通り、後ろ身頃が彼女の背中に触れる。
「それじゃあ、こっち向いて」
有栖の指示に従って、杏樹は回れ右をする。
杏樹と有栖の身長は全く同じだったので、有栖のシュッとした端正な顔が、杏樹の眼の前に迫る。
テニス部なのに、有栖の肌は真っ白だった。
有栖の荒い鼻息の音が聞こえた。
何興奮してんだ、こいつ。
「はい、ボタン、ハメるよ」
有栖はそう言い、ややぎこちない手付きでブラウスのボタンを上から順にハメていく。
こんなに近くで有栖の顔を見たのは、長い彼女との付き合いの中でも、おそらく始めてだ。
思えば、他人に服を着せてもらうのも子供の頃以来だ。
他人とはいっても、その時はお母さんだったから“赤の他人”という意味では、有栖が始めてか。
「はいー。ボタンは全部ハメ終わりー」
全てのボタンがハメられたことで、杏樹の身体は完全にシルクサテンのボウタイブラウスに包まれ、杏樹を一層美しく輝かせた。
深紅のシルクサテンのブラウスは、杏樹の肌にしっとりと吸い付くように寄り添った。
杏樹の身体は、シルクサテンの布地の心地良い質感に覆われると、なんとも言えない快感が電撃のように身体全体を走り抜けた。
杏樹がブラウスのボウタイを結ぼうとすると、再び有栖がそれを制する。
有栖の両手が、杏樹の両手に覆いかぶさる。
「これもダメよ。ボウタイを結ぶのが、最大のクライマックスじゃないの。最後まで私に奉仕させて」
有栖がピロートークのように、まるで吐息のようなウィスパー・ボイスで杏樹に囁いた。
有栖の息が杏樹の唇をくすぐる。
半開きの有栖の唇が艶めかしい。
キスしてやろうか?
少しだけ・・・ほんの半歩だけ前に出れば、自分の唇と有栖の唇は確実に重なるだろう。
これは、そんな距離。
有栖、絶対わざとだろ。
とはいえ。
シルクサテンの布地にあてられて、杏樹は完全に欲情をそそられていた。
ここでキスなんてしてしまったら、最後まで行かないと終わりそうもない。
学校内でそんなこと・・・。
これだけは、有栖の戦略に負けるわけにはいけない。
理性を働かせろ、理性を!
「はいはい。ご自由に」
そんな邪な妄想を有栖に悟られまいと、杏樹は努めて明るい口調で言った。
こういう時は、頭を空っぽにするのが一番だ。
色即是空。
それが、理性を働かせるたった一つの冴えたやり方というやつだ。
後は、全て有栖に任せよう。
有栖は、ボウタイを伸ばしたり折ったり、一方で輪を作ってもう一方をその中に通したりと、ボタンをハメていた時とは違いって、慣れた手付きでテキパキと優雅なリボン状に結んでいく。
その手仕事の様子には、有栖の杏樹に対する友情と愛情が込められているかのようだった。
同じように、愛情と情熱が込められたようなシルクサテンのブラウスの深紅の豊かな色は、微細な光の反射で輝き、有栖の指に美しい色彩を映していた。
有栖がボウタイを動かす度に、ボウタイの先端が空中で上下左右にリズミカルに舞う。
それは、まるで愉快なダンスのようだった。
また、その度に、シルクサテンのボウタイがシュルシュルと衣擦れの音を響かせる。
その音は、まるで2人の心が互いに触れ合っている音のようだった。
その響きは、杏樹が袖に腕を通した時よりも、ハッキリくっきりと鮮明に聞こえた。
今は取り敢えず何もすることのない杏樹は、その音に静かに聴き入ると同時に、有栖の指とシルクサテンのボウタイとの戯れを見ているしかなかった。
有栖の指先が布地をなぞる度、杏樹は、その布地には何か特別な意味があるのではないかと感じた。
すると突然、杏樹はこの有栖の指とシルクサテンのボウタイとの戯れが、何か特別な意味を持っているような思いが湧いてきた。
さっき、杏樹がシルクサテンのボウタイブラウスに始めて触れた時、シルクサテンのその滑らで柔らかい肌触りは、友情や愛情が絡みつくような感覚だった。
それは、友情と愛情の新たな章への扉を開く鍵であり、彼女の未来に向かう道を示唆しているようだった。
しかし、この感覚はそれとは違う。
そう思い始めると、この光景は、有栖の指がシルクサテンの布地を優しく愛撫しているように見えてきた。杏樹には、有栖が自分自身の心を愛撫しながら、二人の間に新しい愛情の形を創り出しているかのように感じられた。
まるで、恋人同士や夫婦がお互いに愛を育んでいくのと同じように。
ああ、そうか。
杏樹は、一つの答えにたどり着いた。
さっき有栖は、シルクサテンのブラウスの「ボウタイを結ぶのがクライマックスだ」と言った。
有栖にとってそれは、シルクサテンの布地を愛撫することであると同時に、私自身への愛撫に繋がるのだろう。
さしずめ、このシュルシュルという衣擦れの音は、シルクサテンの喘ぎ声か。
ようし。
そうなったら、今度自分が有栖にブラウスを着させて、ボウタイを結ぶ時は、存分に愛撫してやろうじゃないか。
そして、その後は有栖自身を直接愛撫してやる。
あ、ブラウスは着たままでね。
どうせ、近いうちにその機会は訪れるだろうさ。
運動部にしては細すぎる有栖の指先に愛撫されながら、次第に端整で美しいリボンの形を形成していくシルクサテンのボウタイ。
ボウタイからリボンタイへと変化していくそれは、まるで、友情が愛情の絆へとの変化していく様を表現しているかのようだった。
ボウタイは、ついに綺麗なリボンタイに仕上がる。
最後に、有栖は慎重にリボンの形を整え、シルクサテンの深紅の美しいリボンが完成した。
「できた。完成」
ひと仕事終えた有栖の瞳には、喜びと感動が宿っていた。
「これで本当のお揃いになったわ。このリボンタイは、私たちの友情と愛情、絆の象徴よ」
有栖はそう言いながら、優雅に微笑み、続けた。
「うん、似合ってる。杏樹、本当に素敵よ」
杏樹は有栖のその言葉に胸を躍らせた。
「ありがとう、有栖。私たちの愛情と友情は、この深紅のブラウスのリボンタイと同じように、これからもずっと固く結ばれていくのね」
お揃いの深紅のブラウスを着て向き合う杏樹と有栖。
深紅のブラウスは愛情の証として、彼女たちの日常に美しさと深みを加えていくだろう。
おわり。
「シルクサテンの喘ぎ声」