うん恋
非常に馬鹿らしい小説です。タイトルに『恋』とか入ってますが、恋愛小説のつもりで書いていませんのであしからず。
今日、僕は彼女に告白する。今朝のうちに彼女のロッカーには日時を指定した手紙を入れ、呼び出しは済ませているのだ。
午後四時、屋上に来てください。
ただ一文、これだけの手紙に僕は二時間かけた。それほどの想い。それほどの気持ち。
僕は高校二年になってすぐ彼女のことを好きになった。すごく単純な理由なのだけれど、最初は一番顔が好みだった彼女を自然と目が追っていて、気がついたころには目を閉じても彼女の姿が見えるほどだった。顔で選んだのだ。
ただそこまでの情報では僕が軽い男に見られてしまうので弁解させてほしい。確かに最初は彼女のことを顔だけで判断したのだが、今は違う。僕自身、顔だけで好きになるというのはどうなのだろう、と悩んだ時期があった。だが、たまたま彼女と日直が同じだったあの日を境に、僕の彼女に対する想いは本物になっていったのだ。
そう、彼女はサドで、僕はマゾだったのである。
彼女がけらけら笑いながらチョークの粉を僕に吹きかけてきて、僕は全身全霊それを受け止める。彼女が日誌の角で僕を殴りつけてきて、僕は一心不乱それを受け止める。
幸せだった。ここまでベストに僕の欲求を満たしてくれる女性がかつていただろうか。僕がマゾだからと言うとすぐ、鞭やろうそくでいたぶられたいのか、などと安直に考える奴ばかりだったのだ、以前は。だが彼女は違った。彼女は僕がマゾだと知ると。
「へぇ、じゃあそこに立っててよ。私が何もしないで見ててあげるから」
と言っていただけたのだ。僕のうっすら抱いていた期待を見事にぶち壊す最高のサディスト。そう、これなのだ。確かにろうそくや鞭でいたぶられたい、それは肯定する。だがあえて、そこで。僕の望むこと叶えさせない、チラつかせてチラつかせてやっぱり駄目。それこそが僕の理想とする精神的加虐!
そういうわけで、僕は彼女に告白することを決意したのである。
放課後、薄暗い教室で僕は一人気持ちを落ちつけていた。時計の秒針が進む音だけが耳の中に響き渡る。音の方向を見ると僕が彼女に指定した時間の十五分前を、時計は刻んでいた。
いよいよなのである。今から十五分後、僕は彼女に告白をするのだ。この一世一代の恋に僕は全身全霊をかけて、告白するのだ。教室には他に誰もいない。少し練習でもしておいた方がいいのだろうか。
「好きだ……好きです」
ふとつぶやいてみた。『好きだ』と言うべきか、『好きです』と言うべきか。
「あなたの犬にしてください……うん、これだな」
ふとつぶやいてみた。『あなたの犬にしてください』こう告白しよう。
刻一刻と時間は迫る。僕は緊張と興奮で冷や汗が流れた。落ち着け、僕は彼女の奴隷と化すだけだ。本望ではないか。ご主人様の犬になるだけではないか。夢ではないか。
その時であった。
僕の人生における最大の窮地が、ここで発動した。
便通!
緊張と興奮で冷や汗が流れたのではない。便通である。小腸の運動活発化。じわりじわりと押し出されていく汚物。僕は瞬間的に肛門に力を込める。何だこれは。肛門をとじる二つの肉厚な壁の隙間を、縫うようにしてはいでてくる悪魔。
こいつは、ただの大便ではない。下痢!
僕はすぐさま立ち上がり、トイレへと走った。いや、走ることはできない。大きすぎる振動は、下痢の動きをよりアクティブにするだけである。小腸の位置を変えぬよう、腰の高さを一定に保ち、足のみを前へ前へ。
普段の生活ならば聞くことのない音が僕の下っ腹からうめき出る。何だこれは。人生においてここまでの便衝動に駆られたことはない。いや、衝動というよりは衝撃か。下半身が僕の言うことを聞かない。僕とは違う、何か別の意思を持った化け物。
僕はようやくトイレにたどり着いた。ここで油断してはならない。便座に座るまでが勝負、家に帰るまでが遠足なのだ。僕は必死で肛門の筋肉を収縮させ、下痢を受け止めつつ、トイレットペーパーの有無を確認した。十七年間で得た便所奥義の一つが、このどんな極限状態であろうとトイレの紙を確認する、冷静眼だったのである。洋式トイレは二つ(僕は和式で大便をすることが苦手なのだ)。手前側にはトイレットペーパーがもうほぼ残っていない状態だ。何かこう、トイレットペーパーの芯に薄皮一枚こびりついてるあれである。ここまできたらトイレットペーパー交換しろよ! 日頃からのイライラを身にまといつつ、僕は奥の扉を開く。ここには十分すぎるほどのトイレットペーパーが残っている。歓喜。
僕は薄暗いトイレの中で携帯電話の開いた。時間は午後三時五十分。約束の時まで、後十分である。何ということだ。完全に想定外であった。まさか、告白のために女性を呼び出し、その約束の時間寸前でおなかがピーピーになるとは! これで終わりか、これで終わりかと問いかければ、猛烈に首を横に振る便意。出せども出せども終わらない大便ロンド。僕はどうすればいいのだ。こちらから彼女を呼び出しておいて、約束の時間に行けなかったとなれば確実に僕は彼女の恋愛対象から外れる! 奴隷候補から外れる! 奴隷という存在になる上での絶対的ルール、それが時間厳守なのである。
僕は迷っていた。あと五分、うんこもしたいが恋もしたい。うん恋。まさか人生においてうんこと恋を天秤にかけることがあろうとは。一体誰が予想しただろう。
彼女は僕の理想の女性であった。僕はこの恋を諦めるわけにはいかないのだ。これを逃せば、僕は一生後悔するとともに、一生中途半端なマゾヒストとして生きていかなくてはならないだろう。もう僕は嫌なのだ。こんな中途半端なマゾヒストになるために僕は生まれたのではない。僕は真正のマゾヒスト、人間以下の薄汚いぶた野郎なのである。そして、それとして人生をまっとうするためには、飼い主が必要なのだ。女王様が必要なのだ。僕には彼女が必要なのだ。
僕は彼女を必要としている。それは紛れもない真実で、疑いようのない想いなのだ。
僕はこの程度の障害で絶望を感じているのか。この程度の障害で最悪を感じているのか。目の前に壁が立ちはだかったら引き返す、それも一つの選択肢なのだろう。だが、その壁に何度も体当たりするというのも、一つの選択肢。もしかすると壁はひどく脆いかもしれない。僕の弱い力でも十分破壊できる程薄いかもしれない。その可能性を疑わず、引き返すこと。
僕はそれを選ばない。マゾは自分を追い込むことが大好きなんだ。
多量に分泌されるアドレナリン、全身を駆け巡る熱い血潮。全ての神経を肛門括約筋へ。全ての想いを彼女へ。僕はもう立ち上がれないと錯覚した程の便座から、勢いよく腰を上げた。
下痢、僕は君に惑わされない。だって僕は以前から、 愛しの彼女に惑わされっぱなしだから。君が彼女以上に僕の心をかき乱して良いはずがないだろう。ご主人様のことを一番に考えないなんて、奴隷失格なのだ。
何も見えなかった。ただ彼女目指して、僕は走っていた。屋上へ続く非常階段を駆け上がる。腰の位置なんて気にしない。勢いのままに外への扉を開き、そして目撃した。言わずもがな、女王様(仮)である。
時間はジャスト十六時。時間厳守の項は守ることが出来たらしい。僕はご主人様と対峙した。彼女の吊り上がった目が訝しげに僕を見つめる。無理もない、僕は彼女と今までフレンドリーに接してきたとは言い難いし、そんな男から呼び出しをくらったのだ。多少の疑念は抱いて当然である。
彼女と少しだけ言葉を交わした。内容が頭に入ってこない、理解が追いつかない。脳はフル回転しているのに、一つのことしか考えつかない。僕はもうこれを吐き出すしかないのだ。僕にはこれしか出来ないのだ。僕はすっと空気を吸い、背筋をぴんと張る。
「僕を、あなたの犬にして下さい!」
叫んだ。彼女も、山びこのようにそれに呼応して叫ぶ。
「いや、ていうか何かあんたうんこ臭い!」
幸せだった。僕の期待をまたも見事にぶち壊してくれたのだ。
壁は大きく厚かった。だが、それこそが女王様。下痢に阻まれた今回の告白は、僕を少しだけ成長させた。僕はまだもうしばらく、壁に体当たりをし続ける。
この小説を通して言いたいのはただ一つ、おなかがピーピーになりやすい人はちゃんと常備薬を持ちましょう、ということです。