第3話 亡霊貴族(下)
城塞都市の入り口は、開いたままだった。
ゾーアはそのまま馬車で中へ入る。
だが、すぐに兵士に止められてしまった。
「オイ、貴様止まれ。積荷を改める」
「兵士さん。頼むよ、見逃してくれよ。これが売れなきゃ、俺は首括るしかないんだよ。頼むよ」
「今ここは戦場だ。商売なんざできんぞ?」
「ああ、いや相手はアンタらでもいいんだ。積荷は食料だ。塩や酒だってある。買ってくれないか? もしそれなりで買ってくれるなら、次も運んでくるぜ。この状態がいつまで続くかは知らないが、まだ必要だろう?」
「酒、……酒なぁ」
「ま、まぁこれはお近付きの印ということで……」
ゾーアは、兵士に酒とタバコを渡す。
「ん? おお! 随分と上等なやつじゃないか。……そうか、元は酒場にでも卸すつもりだったか。まぁいい。ここから、右の路地に入って道なりに行け。そこに軍の臨時本部がある。そこの補給部に、話を通しておいてやる」
「へい、助かります」
「なぁ、次はタバコを多めにしてくれるか?」
「もちろんですよ。ありがとうございます」
人気のない路地を馬車で進んだ。
戦闘音は聞こえるが、かなり遠い。
ゾーアは人がいないことを確認して、途中で馬車を止めた。
「オイ、生きてるか?」
樽の中から姫が顔を出す。
「あ、ハイ。大丈夫です。それにしても随分あっさりと通してくれましたね」
「ああ、現地軍だったからな。補給はありがたいんだろう。さっきの商人が良いもの積んでて助かったぜ。まぁ路銀はほぼ無くなっちまったがな」
「もしも中央軍だったら、どうするおつもりだったんですか?」
「どうもしないさ。やりようはある。それに、あそこに中央軍がいる可能性は低かったしな」
「どうしてです?」
「都市に着くまで、逃げる人たちがいっぱいいたろ? 中央軍なら、あんなの皆殺しだからな」
*
ゾーアと姫は、少しずつ歩を進めていた。
姫には包帯を巻かせて、怪我人を装わせている。
ゾーア自身も、目立たない町人風の格好に装っていた。
「こちらは手薄で助かりましたね」
いくつかの場所は警備がかなり手薄になっていた。
つい先ほど、遠くから大きな音が聞こえていた。
おそらくはそちらへ向かったのだろう。
もう少しで、橋に辿り着けそうだった。
だが、橋の前には門があり、そこは中央軍が駐留していた。
二人は、その様子を隠れて確認する。
「まずいな。悪い予想が当たってしまったな」
「中央軍ですか……」
「ああ、元々渓谷のあちら側へ行く予定だったんだろうな。まさかこっち側が、中央軍の基地になってるとは……。まぁ逆に言えば、中央軍は戻れないから援軍も呼べないってことか。ちょっと方法を考えるか」
ゾーアらは、一度そこから退避することを選択する。
「オイ。貴様ら、止まれ」
だが、不意に後ろから呼び止められてしまう。
それは中央軍の兵士で、一人だけだった。
騒ぎが起これば、他の兵士らも気付いてしまうだろう。
「ここの住民か?」
「あ、えっとぉ……。避難していたのですが、なにぶんあちこちで大きな音が鳴るもので、どちらに逃げればよいかと……」
(まずいな。……殺すか?)
「ん……? オマエどこかで……?」
(仕方ない。殺ろう。)
ゾーアが殺すと決め、腰のナイフに手をかけた。
だが、相手の兵士が予想外のことを喋り出した。
「オマエ……、デミトだよな? 生きていたのか」
「え?」
「俺だよ、俺。セイバス。デミトなんだろ? ほら、孤児院で一緒だった」
「セイバス……? 泣き虫セイバスか?」
「ははは。そう言われてたこともあったな」
「オマエこそ、どうして生きている? 孤児院のみんなは、あの時全員……」
「あの時な……。俺、兵士に連れられてさ。子供の頃、俺って女の子みたいだったろ。……なら分かるだろ? どう扱われるか……」
「……」
「まぁ、結果的に生き残った。死にたくなるような現実だったけどな」
「それなのに今、軍属なのか?」
「ん? ああ、いやこれは仮の姿というか……」
その時、馬車の上の姫が話に入ってきた。
「あの……、お知り合いなのでしょうか?」
「あれ? どっかで……。もしかして姫様じゃ……?」
「ああ、いや彼女は」
「心配すんなって。友達売るような真似はしねぇって。護衛中ってとこか?」
「……」
「姫さん。俺、コイツの古い友人なんだよ。すみませんね、邪魔しちゃって。もしかして今って、向こう側へ行こうとしてる? なんなら昔のよしみで手伝ってもいいんだけど……。なんかコイツ、昔っから無口で」
「本当ですか? もしかしてレイデルガローの前の話でしょうか? あの、ゾーア様はレイデルガローの方で、ずっと私を守ってくれていたんです」
「ええ⁉︎ レイデルガローって、あの亡霊貴族? すげぇ! 大出世だな!」
「……」
「でも変だな。オマエ、なんで姫様守ってんだ? レイデルガローは皇弟派だろ? 皇帝派は全員殺せって、上からもそういう通達があっただろ?」
「さぁな、俺は五体満足で連れてこいって話しか聞いてない」
「まぁいいさ。オマエが無事でよかったよ。俺はまだ野暮用があるからさ。少しだけ待ってくれ。とりあえずオマエらが渡れるように、調整してやるよ。あーそれと、あとで会わないか? 積もる話もあるだろ」
「……いや、今は仕事中だ。遠慮しておく」
「……そうか。じゃあな。また会おうぜ」
そう言って、セイバスが立ち去ろうとした時。
ゾーアはナイフを抜いてセイバスを刺した。
姫は一瞬のことで頭が回らない。
「え? ど、どうして……」
セイバスの手からは、ナイフがこぼれ落ちた。
彼もまた、不意をついてゾーアを殺そうとしていたのだ。
「くっ、オマエ……。一体誰の指示で動いている? なぜ、オマエがレイデルガローを名乗っている……? オマエは一体誰な……」
セイバスは何かを言いかけ、そのまま絶命した。
姫は狼狽える。
「ゾーア様、なぜです⁉︎ ご友人だったのでは……っ⁉︎」
「『あとで会わないか?』は符牒だ。ヤツは探りで言ったんだろうがな。だが、それこそ間者である証拠だ。……セイバス、こんなところで俺に会わなければ、まだ生きていられたのにな」
ゾーアはセイバスの遺体を探る。
彼が間者だと当たりはついている。
それでも確証が欲しかった。
いつもならこんなことは気にしなかった。
だが、その時のゾーアにはなぜか少し焦りがあった。
そして、『それ』を発見した時にすぐ後悔した。
セイバスの手の中に、金属製のピンを見つけてしまったのだ。
それと同時に、上着から何かが落ちた。
「しまった……っ!」
それは、手榴弾上部のレバー。戻す方法はない。
あと数秒で爆発してしまうだろう。
しかも、どの時点で外れたかも分からない。
今から数秒なのか、もう数秒経っているのか、それすらも分からない。
ゾーアは、姫に飛びかかるように覆いかぶさる。
その次の瞬間、セイバスの身体は弾け飛んだ。
彼の上半身は砕け散り、もはや顔など判別もつかないだろう。
爆発の瞬間、セイバスの身体に蹴りを入れて盾がわりにしていた。
だが、それでも貫通した衝撃で、ゾーアは背中に大怪我を負ってしまう。
「ゾーア様! ゾーア様!」
じんじんと鳴り響くサイレンのような耳鳴り。
自分を呼ぶ姫の声も聞こえない。
薄ぼんやりとして視界は、一向に判然としない。
だが、そこで気を失うわけにはいかなかった。
今この瞬間にも中央軍がやってくる。
だが、身体はまともに動いてくれなかった。
*
「まずは手当を……」
「要らない! 今のうちに橋を抜けるんだ!」
朦朧とする意識の中、ゾーアは懸命に姫を抱き、身体を引き摺る。
ただ先ほどの手榴弾の爆発が、何らかの陽動になったようだ。
中央軍は慌てふためいていた。混乱に乗じるなら今しかない。
ゾーアはそう考える。
しかし、なんとか身を隠したものの、血を辿られれば見つかってしまう。
「姫さんよ、雑嚢の中から……」
「ほ、包帯ですか⁉︎ ああ、えっとぉ……っ!」
「違う。タープを出してくれ。それを俺の身体にロープで巻きつけるんだ。とにかく血が流れるのを止めないと、見つかってしまう」
「でも……」
「早くやれ!」
そして二人はそこからなんとか移動する。
出血は収まっていないが、血の跡はなんとかなった。
混乱する中央軍を尻目に、橋へとゆっくり到達した。
あとはここを渡り切るだけだ。
「止まれ! なんだ、貴様ら!」
だが、そんな単純なことではなかった。
中央軍は橋の中間にも布陣しており、到底抜けられるものではなかったのだ。
ゾーアは激しい出血と動揺のせいで、正常な判断ができなくなっていた。
(くそ、どうすればいい。こんなの、俺一人なら……っ! 怪我なんてすることもなかったのに。考えろ、考えろ。どうすればコイツを守れる? どうすれば、どうすれば……)
だが、何も思い浮かばない。
その上、出血量が多く、身体の方も自由が効かなくなってきていた。
しかし、その時、姫はゾーアを一人置いて前に進み出た。
「は? オマエ、何を……?」
「お聞きなさい! 私の名は、ミレナ・エルド・ウェインズロット! 女将軍コナ・ドゥルト・ウェインズロットが娘、ミレナです!」
姫の言葉に、ざわざわと騒ぎ始める中央軍の兵士たち。
「オマエ、何を一体……」
「私はもう逃げも隠れもしません! ですが、彼は一介の町人に過ぎません。私の本当の身分すらも知りませんでした。不憫に思い、ただ助けてくれた人なのです。彼の身柄を保証するなら、私はもう何の抵抗も致しません!」
姫はゾーアを庇ったのだ。
ずっと誰かに助けられるだけの彼女は、傷付いたゾーアを見て立ち上がった。
彼女はもう、ただの足手纏いではいられなかったのだ。
だが、その時ゾーアの心に湧いたのは、感謝ではなかった。
──────それは怒り。
そして、叫んでいた。
「オマエ! 俺がどんだけ苦労して、オマエをここまで連れてきたと思ってんだ! ふざけんな! そんなに簡単に死ぬなら、最初から勝手に死ねば良かったじゃねぇか! ふざけんなよ! ……ふざけんなよ!」
「そうですね……。王都で素直に殺されていれば、死ななかった人もいるのでしょうね」
姫は出会った人々を思い出す。
騎士のヴェルフェス、侍女のシェマや教会の神父。
それ以外にもたくさんの人が関わった。
そして、死んでいった。
「さぁ、私を好きにしなさい。その代わり、彼への手出しは許しません」
姫は両手を広げ、堂々とした眼差しで前に進み出る。
だが、その先に待っているのは地獄だ。
すでに、皇帝派は皆殺しと通達が来ている。
──────生死不問。
証拠として首が残っていれば、あとは煮ようと焼こうと好きにしていい。
戦時下で、女性がどのような扱いを受けるか。
先の共和国での惨劇が記憶に新しい。
確実に姫は、死ぬまで酷い暴行を受けることになるだろう。
そして、ゾーアの身の安全の保証などない。
だが、今はその相手の慈悲に縋るしかないのだ。
姫が抵抗しなければ、もしかしたらゾーアだけは助かるかもしれない。
その一縷の望みにかけて。
だが、ゾーアは理解していた。姫も自分も助からないことに。
その時、フッと風が吹く。
大渓谷を吹き抜けるそれは、かなりの暴風だ。
中央軍の旗が風に巻かれ、橋から渓谷に持って行かれてしまった。
その時、ゾーアの脳裏に策とも言えぬ蛮行が思い浮かぶ。
そのあまりの馬鹿馬鹿しさに、つい笑けてしまった。
(死ぬなら、どっちも変わらないか。いや……、違うな。全く違う)
姫の元に、兵士たちが群がり始めた。
一人の兵士が姫の腕を掴んだのが見えた。
姫は抵抗しない。
だが、ゾーアは気付いてしまう。
その手が震えていることに。
「……クソ! 馬鹿が!」
ゾーアは走っていた。
策と呼べるものはない。
あるのは本当の『死の覚悟』だ。
ゾーアは姫の腕をとり、抱きしめる。
そして、力ずくで橋の欄干へと移動した。
「ゾ、ゾーア様⁉︎」
「この傷じゃ、生きるも死ぬも五分五分だ。それにアンタもこのままじゃ、必ず殺される。いいだけ嬲られた上でな。だったら、いっそのこと俺と一緒に死んでみないか?」
「え?」
姫には何のことか分からなかった。
「……俺を信じろ」
「はい」
姫は即答した。
「フ……。いい返事だ」
ゾーアは姫を抱いたまま、橋から飛び降りた。
「なっ⁉︎ 飛び降りやがった⁉︎」
兵士たちは欄干から下を見る。
足がすくむような高さだ。落ちればひとたまりもない。
例え、下が大運河の急流だとは言え、こう高くては助からないだろう。
それはゾーアも理解していた。
だから彼は、ロープを右手に巻き付けていた。
それは落ちる少し前に、端を欄干に括っておいたものだ。
気休めだが、これで多少は落下速度も弱まるはずだ。
だが、ロープがピンと張った瞬間、ゾーアの肩が外れた。
「ぐうっ⁉︎」
激痛に、呻くような声を上げるゾーア。
そして、振り子のようにゆらりと振れ、そして再び落下していった。
すでに、その手にロープを掴む力はなかった。
二人は大渓谷の運河に落ち、そのまま消えていった。
*
それから数日。
渓谷の先のマダフス卿の領地にも、中央軍が到達してしまった。
マダフス邸も襲撃され、辺り一体は戦火に飲まれていった。
それは同時に、女将軍の終わりが近いことも意味していた。
マダフス邸の一室にいた女将軍は、侵入者に対し短銃で応戦。
これを射殺した。
そして、椅子にゆっくりと腰を下ろす。
そこへ誰かが入ってくる。
「……お母様!」
「ミレナ⁉︎ ……生きていたのか⁉︎」
それは姫だった。彼女は、女将軍に抱きついた。
だが、姫はすぐ異変に気付く。
「お母様! 血が!」
「ああ、大事ない。擦り傷だ。……で、貴様は誰だ?」
そこにはもう一人いた。
ゾーアだった。
右腕を痛め、肩から吊って固定している。
この右手が再び動くようになるかは分からない
だが、おかげで二人はあの状況から生還できた。
「ああ、お母様。彼はゾーア・レイデルガロー様です。私をここまで連れてきてくれました。お母様が頼んでくれたのでしょう? レイデルガロー卿に……」
だが、姫の言葉を遮るように、女将軍はいきなり短銃を撃った。
その弾丸は、ゾーアに向けたものだった。
だが、それは当たらなかった。
女将軍の腕には、ゾーアの投げナイフが刺さっていたのだ。
「くっ⁉︎ レイデルガローだと⁉︎ 嘘をつくな!」
「どうしたのです! お母様! 彼は命の恩人なのですよ⁉︎」
「オマエは騙されているのだ! ヤツはレイデルガローなどではない! そもそもレイデルガローなどと言う貴族は、存在しないのだからな!」
「え……?」
姫は、その言葉の意味が理解できなかった。
「帝国にとって、レイデルガローとは『穢れ』そのものだ。暗殺や調略、その他諸々の非人道的な行いに際して、その名が使われる。だが、その実態はない。そんな貴族なぞ、そもそもいやしないのだからな」
「で、ですが、過去にも人々の間で話題には上がっています。それはもう存在しているかのように、まことしやかに。ですから、レイデルガロー卿が存在しないはずはありません。誰かがその行いを代行しているにせよ……」
「強いて言えば……、私だ。私こそ、その名を使い、方々で殺しに殺した大罪人よ。レイデルガローの領地も存在しない。だから誰も場所を知らぬのだ」
「そんな……」
「だからこそ、その名を語る貴様は何者なのだ? なぜその名で私の前に立つ? しかも、娘を助け、連れてきたなどと……。貴様の目的は一体何だ?」
ゾーアはゆっくりと言葉を紡ぐ。
彼の唇は少しだけ震えていた。
「覚えているか? ……7年前、オマエが殺した者を。オマエはレイデルガローと名乗ったな。そして、罪もない子供たちを殺した。何人も何人も」
「ああ、そうだな。殺した。……そうか、あの時の生き残りというわけか」
「なぜだ! なぜ、殺す必要があった⁉︎」
「……フ」
「何がおかしい!」
「亡霊貴族。まさかこの私が、その亡霊に呪い殺される時が来ようとはな。皇弟を殺し損ねたのが運の尽きか。いいだろう、冥土の土産に教えてやる」
女将軍は、腕に刺さったナイフを引き抜く。
そうしてそれを投げ捨てた。
「殺戮の理由。それは皇帝の落胤を殺すためだ。しかも男だという。産んだのは下賤の生まれ。本来なら継承権なぞない。だが、男だと言うだけで、それが撤回されるというのだ。馬鹿げた話だろう。この私を蔑ろにしておきながら、どこの馬の骨とも分からぬ者を擁立しようというのだ。だが、残念なことに私生児である以外に、顔も何も情報がなかった。だから殺した。皆殺しにしたのだ」
「そ、そんな……」
「もしかしたら、貴様こそがその落胤かもな。ククク……」
「そんな理由で、みんな死んだのか⁉︎ そんなくだらない理由で殺されたのか⁉︎ ふ、ふざけんな!」
ゾーアは、姫を女将軍から引き剥がし、短銃を奪った。
そして、それを姫の眉間に押し当てた。
「俺の目的はただ一つ。オマエの前で、娘を無惨に殺すことだ。そのために、わざわざ五体満足で連れてきてやったんだ。今こそ、その絶望を味わえ」
「ふははははははっ!」
「な、何がおかしい⁉︎」
「その腕も、その顔の傷も。全てそうか。そのために娘をずっと守ってきたというのか。ただ殺すために。……実に滑稽だ」
「貴様! 俺に殺せないとでも思っているのか!」
「さぁ、な。だがいいのか、本当に殺しても。……その子は次期皇帝となるやもしれんのだぞ」
「何を言っている……? オマエの娘だろ? オマエに継承権がないのなら、孫には……」
「その子の母親は、紛れもなく私だ。だが、父親はすでに死去した皇帝だ」
「……」
目を伏せる姫。
「なっ⁉︎ どういう……。まさか、自分の娘に子を産ませたのか……⁉︎ 自分の子を⁉︎」
「ああ、そういう人だった。なぁに、血統に問題はない。色濃く皇帝の血を宿しておるのだからな。時期が来れば、私の子ではなく皇帝の子として公表する予定だった。つまり、時期皇帝としてな。だからこそ、この子はずっと秘匿されていたのだ。だが、この事実を知っている者はごく一部。大方、皇弟側は事実が明らかになる前に、消し去っておきたかったのであろうな」
「そういうことか。どおりでたった一人の姫に、執拗な追手がかかるわけだ」
だが、その会話はそこで断たれる。
その時、部屋の扉が開かれ、中央軍が侵入してきたのだ。
ゾーアは咄嗟に避けてしまうが、それは失敗だとすぐに気付く。
姫から離れてしまったのだ。
中央軍の掃射が姫を襲った。
だが、それは姫には到達しない。
女将軍が身を挺して庇い、その場に倒れた。
「お、お母様!」
「なっ⁉︎ お母様だって⁉︎」
中央軍は予想していない姫の登場に困惑し、手を止めてしまう。
その一瞬で、ゾーアは中央軍の兵士らを全員殺してしまった。
「お母様! お母様!」
姫は泣き叫ぶ。
だが、女将軍の身体からは大量の血が流れ出ていく。
彼女の呼吸が止まるまで、あと少しの猶予もなかった。
「ゾー……、ア、と……、言ったな……。亡霊を……、名乗ったからには……、逃げることは……、許さぬ。……世に仇なせ、亡霊貴族よ……。そして……、娘を頼む……」
そう言って女将軍は事切れる。
姫は泣き崩れ、ゾーアは唇を噛み締めた。
「クソ! 勝手なことを。俺の復讐は……。もういい。……けどアンタには、最後まで非道な女将軍のままでいて欲しかったよ……」
その後、マダフス邸は完全に焼け落ちてしまった。
邸内の全員が殺されるまで、大して時間はかからなかった。
*
それから数ヶ月後。
皇帝派は皆殺しにされ、正式に皇弟が帝位についた。
だが、すぐさま中央軍のクーデターにより、皇弟も殺されることになる。
その間、中央軍の最高幹部が惨殺されるなど、キナ臭い事件が多発していた。
だが、それはもう遠い世界の話だった。
国は疲弊しつつも、復興に向けて着々と進んでいた。
そして、ここは夜の街。
暗闇の中、蠢く二人の男女がいた。
男が塀を駆け上ると、女が必死に登ろうとする。
それを見兼ねて男が手を差し伸べる。
女はその手をとって塀を登った。
男は、うんざりしたような表情を浮かべた。
「オマエ、なんでついてきたんだ? 大人しく待機していろって言ったろうが」
「あら、私だって役に立てつこともありますよ? この間だって……」
「ああ、分かった分かった。分かったから、くれぐれも大人しくしてくれよ」
「はいはい。ゾーア様はそう言って、いつも私を気遣ってくれますね。私には全部分かっていますよ」
「……勝手にしろ」
人の出自など関係ない。大事なのは、どう生きるかなのだから。
*
「亡霊貴族……?」
片目に眼帯をした男が、その言葉を噛み締めるように聞き返す。
それは酒場の与太話だった。
だが、彼にとって、酔いどれの話は聞き流せない内容だった。
「ああ、何でも悪い奴を殺し回ってるんだと。アンタもヤバいんじゃないか? いい噂聞かないぜ? あっちの娼館だって、出入り禁止になってんだろ。元は騎士様だって言ったって、主君もいないんだ。大人しくしておいた方がいい」
「……ククク。なら逆に、私がその亡霊を狩ってやるさ。……このヴェルフェス・サジェス様がな」