第2話 亡霊貴族(中)
月のない夜だった。
再びゾーアが宿屋へ戻ると、ヴェルフェスが怒りの形相で近付いてきた。
彼は血走った目で、ゾーアの胸ぐらを乱暴に掴む。
「ひ、姫は⁉︎ き、貴様! 姫をどこへやった⁉︎」
「すでに安全なところへ隠れて頂きました。ここは敵に囲まれています」
「う、嘘だ! 貴様だな! 貴様が間者なのだな⁉︎ そうなのだろう! 姫を、私の姫をどこへやった⁉︎」
「敵はもう目の前です。彼らを撃退すれば、姫も姿を現します。守りながらでは、勝てるものも勝てないでしょう?」
「そんなことを言って、姫を売り渡したのであろう⁉︎ この下賤の生まれの、騎士紛いが!」
だが、その言い争いは長くは続かなかった。
彼らのいる宿の中にまで、追手が侵入してきてしまったのだ。
「では、ヴェルフェス様。生きていたらまた会いましょう」
そう言ってゾーアは、目の前の男たちを流れるように全員斬り殺した。
そして、そのまま宿を出て行った。
「くっ⁉︎ 生意気な小僧が。姫は無事なんだろうな。私の一番大事な……」
ヴェルフェスは剣を構えながら、あらん限りに取り乱していた。
*
シェマがランタンを手に先導する。
「さぁ、早く。こっちです姫様」
そこは教会の地下。
秘密の地下道で、司祭しか知らない秘密の場所だった。
ゾーアがそれをどうやって聞き出したかは不明だ。
彼は、そこから逃げるようにと二人に言い残し、どこかへ去ってしまった。
この石造りの地下道はかなりの長さで、村の外へと続いている。
これだけの距離があれば、おそらくは包囲を抜けられるだろう。
「ひっ⁉︎」
シェマが身を縮こませた。誰かが座っていたのだ。
その格好から、それはすぐに神父だと分かる。
「すでに死んでいるようですね。……なるほど、彼がここで神父様を殺したのでしょうね」
「ど、どうしてそのような……」
「恐らくこの抜け道は、有事の際の避難経路なのでしょう。それを聞き出したあと、彼は……。幸い、ここの入口は分かりにくいので、知っている者がいなければ、私たちを追ってくる者もいないということでは……」
「そうですか……。では、彼は私たちのために殺されてしまったのですね」
そう言って姫は、その場に跪いて祈った。
「さぁ、姫様先を急ぎますよ。追手が来ないとはいえ、ここもいつまで安全かは……」
先を急ぐ二人。
ようやっと出口が見えた。
出てみると、そこは森の中の一軒家。
出口はその床下だった。
外に出てゆっくりと辺りを見回すと、何も見えない。
おそらくは誰もいないのだろう。
村の方を見ると、遠くに薄明かりが見える。
大勢の人々が群がっていた。
「危ないところでした。ヴェルフェスやゾーア様も無事だと良いのですが」
「ふ、ふははは。ホント、アンタって、他人のことばっかりね」
「え?」
それはシェマだった。
急に雰囲気の変わった彼女に、姫は固まってしまう。
「あのゾーアってガキもどうかと思ったけど、案外使えるじゃないの。目障りなヴェルフェスと引き離してくれたのは、本当に助かったわ。アイツのせいで、こっちの計画が何度も邪魔されて……。ホント気色悪いオヤジだったわ」
「シェマ……? 何を言っているの?」
姫は、突如頬に激しい痛みと衝撃を覚え、地面に投げ出された。
シェマは、振り抜いた手を痛そうに摩る。
「もうウンザリなのよ。なんで私がアンタと一緒にこんな思いをしなきゃいけないの? 私は貴族様じゃないのよ。馬鹿馬鹿しい。死ぬなら一人で死になさいよ。あ、ああ。でも姫様は、その前に酷い目に会うんだろうけどね」
「シェ、シェマ、きゅ、急にどうしたのです? 混乱しているの……?」
「混乱しているのはアンタでしょ。気付かなかったでしょ? 追手に居場所を知らせてたのは私よ。そしてもう終わり。……ほら、もうそろそろ、……ちょっと遅いわよ!」
先ほどの一軒家から、ゆっくりと6人の男たちが現れた。
騎士風の男もいるが、野盗のような出立ちの者もいる。
どちらにせよ、ろくな者たちではないことは、ひと目で分かった。
「まったくオマエ、こんな狭いところを鼠じゃあるまいに。っておお! おおう! これはこれは麗しの! ようやっと秘密の姫様とご対面か。グヘヘへ」
姫に群がる男たち。
「な、なに、いや! 触らないで! シェ、シェマぁ!」
「オイ、シェマよぉ。呼んでるぜ? 姫様がよぉ」
「あー、ごめんなさいねー、姫様。今この瞬間から、私、あなたの侍女じゃなくなったの。っていうか、最初からアンタには何も感じてなかったけどね。苦労知らずの箱入り娘なんて、見ているだけで腹が立つわ」
シェマは掌を出し、男たちに要求する。
「ほら、早く渡しなさいよ。お金。ここに来るまで、ホント苦労したわ。ちゃんと色つけてよ?」
「おう、分かってるって。ほら、受け取りな。俺の冷っこいナニをよぉ⁉︎」
「くっ⁉︎ あ……、こ、このクソ野郎が……」
男の持つ刃が、シェマの胸を貫いた。
シェマは胸から大量の血を噴き出し、そのまま人形のように倒れて絶命した。
「シェ、シェマ! シェマぁ!」
「まったく、ただの侍女のくせに主人を売り渡すなんざ、とんでもねぇやつだ。自分じゃ、上手く立ち回ってたつもりなんだろうが……。こんなどうしようもないヤツは、俺様が騎士道に則って成敗してやったわ」
「で、俺たちは騎士道に則って、敵を蹂躙する……、と」
「まぁ、敵と言っても、どんなジャジャ馬か分からんがなぁ。高貴なお馬さんを、誰が一番乗りこなすか……、ってなぁ⁉︎」
「がはは! ちげぇねぇ! さぁって、姫様。お楽しみの時間は、これからだぜ?」
姫は血の気を失い、茫然自失となった。
もはや何も信じることができない。
しかし、そんな姫を気遣う者など誰もいない。
男たちは姫を押さえつけ、醜悪な顔と声で彼女を味わうのだ。
だが、その時。姫の耳に、ふと聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「なるほど。やはりこうなったか」
その声は、ゾーアだった。
ゾーアは男の背中に突き刺した剣を引き抜く。
男はそのまま倒れた。
「裏切り者はどちらか一方でなく、両方と考えれば辻褄が合う。だから、俺は二人とも出し抜いてみた。あとは事後処理。やはり仕事は単純なほど良い」
ゾーアはそう言って、淡々と男たちを殺していった。
*
「ほら、さっさと立ってくれ」
ゾーアは姫にぶっきらぼうにそう言った。だが、姫は放心していた。
「アンタがそうやって無駄に時間を費やすと、俺の仕事が増えるんだよ。だから、さっさと立って歩いてくれないか?」
「貴方……、随分雰囲気が変わりましたね」
「ん?あのめんどくさい騎士様もいないからな。騎士道だの何だのって、そんなもので人を守れるなら苦労はしない。こうして1対1なら、アンタ。死にたくなかったら、俺の言うこと聞くしかないだろう? ほら、いいから立て」
ゾーアは無理矢理姫を立たせる。
「最低限必要な荷物は持ってきた。路銀もコイツらから頂いて、懐も暖かい。何より、間者がいなくなって、こっからの旅はだいぶ楽になる。さぁ、あとはアンタを将軍様の元へ連れていくだけだ。楽なもんさ」
「ヴェルフェスは⁉︎ 置いていくと言うのですか⁉︎」
「置いていくもなにも、たぶんもう死んでるよ。今回は随分と大規模だ。あのオッサンの腕じゃ、まぁ無理だろうな」
「だったら、助けに行くなり……。貴方ならなんとかできるんでしょう⁉︎」
「アンタ、結局自分じゃ何もしないんだな。常に人任せ。できるかどうかと言われれば、ああできるさ。けど、それは俺の仕事じゃない。それにあのオッサン、間者ではないにしろ、かなり怪しいんだよ。オマエ、気付いてないんだろ? 目的地から逆に離れていってることに」
「え?」
「その顔。アンタ、箱入り娘だもんな。他人になんでも任せ過ぎなんだよ。一人じゃ何にもできん。あのオッサンの目的は知らんが、明らかに違うところに連れて行こうとしていた。信用できん」
「信用できないというなら、アナタだって……」
「二度も救ったのに? いや、本当はもっとだけどな。アンタが城を出てからずっと、俺が陰ながら守ってたんだぜ? 考えてみろよ。あのオッサンの腕で、ここまで守り切れたと思うか? 無理無理。あんなみっともない腕じゃ、命がいくつあっても……」
姫は感情のまま、ゾーアの頬を平手打ちした。
「アナタには感謝しています。ですが、彼を悪く言うのは許しません。彼にどんな思惑があろうとも、ずっと守ってくれたことに変わりはないのですから」
「はっ! いいね。その意気だ。そのまま歯を食いしばって、怒りのままで前へ進むんだ。休んでる暇なんて無いんだからな。……精々自分の足で頑張るんだな。アンタには、最初から味方なんて誰もいなかったんだから」
ゾーアは不思議に思う。
打たれた頬の痛みを、鮮烈な印象として認識したことを。
痛みや苦痛など、疾うに忘れたはずなのに。
そして、なぜだか胸の奥は重く沈んでいった。
*
二人はかなりの距離を歩いた。
だが月のない夜の森は、まともに視界など効かない。
ただそれは、隠れ潜むには好都合だった。
ゾーアたちは簡単な寝床を作って、ようやく腰を下ろす。
「ほら、食え」
ゾーアは、固いパンと干し肉を布包みと共に姫へ渡す。
そして、果物を半分に割って、一緒に渡した。
だが、姫はそれを受け取っても、すぐには食べなかった。
ゾーアの方はパンと干し肉を口に含み、革の水筒から水を流し込んだ。
なぜだか分からない。
ゾーアには彼女のひとつひとつの動作、その言動のすべてが気に入らなかった。
自身でも説明できない。
彼女を見ているだけで、なぜかイライラとしてしまうのだ。
「高貴な方には、こんな下賎なものは食べられませんかね? ですが、貴族様であっても、王様、皇帝様であっても。無いものは無いんでございますよ? ……ハッ! 食える内に食っておかないと、身体が保たないぞ」
「貴方だって、貴族じゃないですか」
「名ばかりのな。やってるのは殺し屋稼業さ。碌なもんじゃない」
「貴族の中で、急に姿を消す者の話を聞いたことがあります。……貴方はそういったことに関わっていた、ということでしょうか」
「さぁな。どれの話をしているかは分からんが」
「帝国がこうなる前、皇弟の命が狙われたと聞いています。賊は捕まっていませんが、皇弟は暗殺に怯えるあまり、中央軍との繋がりを強固にしたとか。それが、今のこの事態を招いているのです。私には、裏で誰かの意図があったのではないかと考えています」
「それが、レイデルガロー卿だったと?」
「いえ、そこまでは……。ただ、貴方の強さを見ていると、どうにでもできてしまうような気がするのです。そんな者たちが数人いれば、恐らく中央は機能しなくなるでしょう」
「さぁね。俺には興味のない話だ。さっさと食って、さっさと寝てくれ」
それから、ゾーアは不貞腐れたように横になった。
姫はそのままうずくまり、少し考えた後に固いパンを食べた。
だいぶ時間をかけてそれを平らげたあと、彼女はようやく床に就く。
その間、ゾーアは寝たフリをしていた。
彼女の様子を背中に感じながら。
*
追手がかからくなって、しばらくは平和だった。
「う……、うう……」
だが、それも終わる。
姫が高熱を出してしまったのだ。
彼女は、まともに外へ出たこともない箱入り娘だ。
連日の移動と、執拗な追手。
彼女は肉体も精神も、とっくに限界を迎えていたのだろう。
呻くような声が痛々しい。
こうなってしまうと、もう移動などできない。
休息をとれば勝手に治るようなものなのか、素人には何も分からない。
幸い、大きな街の近くだったため、栄養のある食材は入手できた。
だが、本当に必要なものは医者と薬だ。
ただ、逃亡生活でそんな蓄えはあるはずもなく……。
それでも、ゾーアは知りうる限りの薬草を煎じてみる。
だが、彼女の容体は一向に回復しなかった。
しばらくして街の宿へと移った。
野宿は、明らかに彼女の容体を悪化させる要因だったからだ。
薬草も効いているようには見えない。
だがそれでもゾーアは、しきりに薬草を煎じた。
それしかできなかったのだ。
姫は、ベッドの上からゾーアの作業を覗く。
「……足手纏いで申し訳ありません。苦労をおかけします」
すぐ近くのテーブルで、彼は何やら作業していた。
青臭い香りが部屋を包む。
姫にも薬草だろうと見当はつくが、それがどんなものかは分からない。
「うるさい。黙って寝てろ。余計な体力を使うな」
「私は貴方を見誤っておりました。心根は優しいお方なのですね」
「オマエに死なれたら、俺の仕事が失敗してしまうってだけだ。俺は、オマエがどんなに苦しかろうと興味はない。申し訳ないと少しでも思うなら、さっさと元気になれ。こんな状態で追手に見つかれば、どうにもできないぞ」
「そうですね。……善処します」
そう言って、姫はニコリと笑った。
だが、その笑顔が、必死に作ったものだと、ゾーアにもすぐに理解できた。
彼女は時折うなされるように呼吸が荒くなり、ひどく息苦しそうだ。
「せめて、医者に診せられればな……」
ゾーアの日々の生活は、決して楽なものではない。
ただ自分一人であれば、さして困ることもなかった。
金に困れば、盗むか殺すかすればいい。
そういう技術はあるし、特に罪悪感もない。
その精神性は、まさに訓練の賜物だった。
必死にやればやるほど、人というものから遠ざかっていくのだ。
──────自分は、なんと悲しい生き物だろうか。
そう思うと、ゾーアは急に笑けてしまった。
姫には、ゾーアが不自然に笑ったように見えた。
だが、それは『笑い顔』というより、なぜか『泣き顔』を連想してしまう。
「……どうかしましたか? 今、なにか……」
「休んでいろ。少し出てくる」
ゾーアは、部屋の扉をゆっくりと閉める。
(金がなければ、奪えばいいだけだ。今更、俺は何を躊躇している)
だがその時、姫の顔がふと浮かぶ。
もしも、非人道的な方法で自分が助かったと知ったら?
彼女は、どんな表情をするだろうか。
おかしくてたまらない。
ただなぜか、胸の奥はひどく気持ち悪かった。
*
なんとか快方に向かった姫。
ただそれでも、万全の体調ではなかった。
「あの……、良いのですか? 馬車なんて……」
二人は小さな幌馬車に乗っていた。
ゾーアが馬を操り、姫は後ろで揺られる。
幌で日差しが遮られ、徒歩よりもずっと楽なのは確かだった。
「……ああ。また倒れられてもかなわんからな」
「それにあのお医者様は? お薬も高価なものだったようですが……」
ゾーアは姫を医者に診せた。
だが、姫もどうやって大金を用立てたかは知らない。
彼女も何かを察していたが、それを問い詰めることはできなかった。
「オマエはそんなこと気にしなくていい。……問題はこの先なんだ。これ以上、厄介ごとは御免だ」
「この先……? 何があるんです?」
「かなり巨大な渓谷だ。下には大きな運河。深い渓谷のせいで、そもそも川岸に降りることもできん。だから橋を渡る必要がある」
「それは私も存じております。城塞都市があって、そこから石造りの大きな橋が伸びていると聞いております。それがどういった……」
「将軍は渓谷の向こう側だ。あっち側は皇帝派のマダフス卿の領地だからな。逆にこっち側は、皇弟派に付いたロベントレーザ卿の領地だ。つまり、この城塞都市こそ、追手がかかる最後の場所と言ってもいい」
だが、二人が運河の城塞都市へ近付いた時、様子がおかしいことに気付く。
かなり大勢の人々が、都市から逃げるように移動していたのだ。
ゾーアは、通りがかった商人に声をかけてみた。
「なんだ? なにがあった?」
「なんだアンタ? これから都市に行くのか? やめとけやめとけ。現地軍と中央軍がやり合ってんだよ。なんでも、中央軍の将校が、地元の子供を殺したとか何とかって。それが数日前の話だ。で、気が付いたら、街中で殺し合いよ」
「今はどうなってる? どっちが優勢だ?」
「さぁな。行くつもりか? やめとけって。ホント参るぜ。城塞都市の酒場へ届けに行くところだったのに、荷下ろしせずに引き返すしかねぇよ。アンタらもさっさと逃げたほうがいい。現地軍ならまだいいが、中央軍に見つかってみろ。何されるか分かったもんじゃない」
「なるほどな。まぁ、両方相手にするよりはマシかもしれんが……」
「ん? 両方? なんの話だ? アンタ見たところ、商人ってわけじゃないんだろ。後ろは女……? アンタ、人買いってわけじゃないよな? でも、行くのはやめときな。入り口の時点で、どっちかの軍には見つかっちまうぜ」
「そうか、親切にご忠告ありがとうよ。……ところでなぁアンタ。後ろの積荷は何載せてんだ?」